破邪
この冬初めての雪があたりを白く染め上げた日の朝、かごめは期末試験を受けるために、自分の時代へ帰っていった。
珊瑚から雲母を借り、一足先に楓の村の骨喰いの井戸へ飛び立っていったかごめを、犬夜叉は不満気な表情で見送っていた。
そしてまた、弥勒も密かな懸念を抱きながら、かごめを見送った。――もっとも、犬夜叉と違い、その気持ちをあからさまに顔に出すようなことはなかったが。
と珊瑚は、朝食の後片付けをしていた。時折、冷たい水に悴んだ手に息を吹きかけ温めている。
七宝は、無邪気に雪に戯れていた。
「――さあ、我々も向かいますか。楓さまの村に」
弥勒の言葉に、皆は頷き、旅支度を始めた。
陽が高くなる頃には雪は融けてしまった。鈍色の空の下、霜枯れた野や山が寒々と広がっている。吹き抜ける風は冷たく、は思わず身震いした。
「……いやな風だな」
眉をしかめて、犬夜叉が呟いた。
「ええ――」
弥勒は言葉を切った。遠くから、男が走ってくるのが見えた。
近づいてきた男は、血まみれの姿だった。
「どうしたんだ?! いったい何があった!」
「お、おらの村に妖怪が……」
犬夜叉と弥勒は、顔を見合わせた。先程から感じていたいやな気配は、妖怪が村を襲っていたものだったのか。
「行くぞ!」
言うが早いか、犬夜叉と弥勒は駆け出した。珊瑚、、七宝が後に続く。
血まみれの男は呆然と見送っていたが、やがて糸が切れたあやつり人形のようにその場に崩れ落ちた。既に、息は絶えていた。
小さな森を抜けると、藁葺きの屋根が寄せ集まるように建っていた。
一軒の家の横にある葉の落ちた木のてっぺんに、忘れられたような柿の実がひとつ、黒ずんだ色でぶら下がっていた。
そして、その木の下には心の臓を刺し貫かれたり、喉を切り裂かれた死体が、地面を血でどす黒く染めながらいくつも転がっていた。
「どこだっ、妖怪は?!」
犬夜叉の声に応えるように、村人たちが手に鎌や竹槍を持って家の蔭から表れた。
「妖怪はどこにいるのです?」
弥勒の問いかけに返事もせず、村人たちは怯えきった表情で二人を見つめた。
少し遅れてやってきた、珊瑚、七宝も村人たちの恐怖の表情に立ちすくんだ。
「……また妖怪がきた」
「また、おらたちを殺しに」
「殺られてたまるか! こっちから殺っちまえ!」
びくり、との体が震えた。を庇うように、弥勒はの前に立った。
村人たちの目は完全に恐怖に支配されていた。このままでは、が荒魂をその身体に寄せてしまう。
「、気をしっかり持つんですよ」
弥勒の言葉に、は頷いた。――大丈夫。前のときは、弾き返すことができた。きっと、今度も……。
「俺たちは、おまえらを殺しにきたんじゃねえ!」
犬夜叉が、村人の振り下ろす鎌を避けながら叫んだ。だが、その声は村人たちの耳には届いていないようだった。
(妖怪の気配は、確かにする。……どこだ?)
弥勒は、村人たちの攻撃を避けながら、妖怪の居所を探した。
そのとき、弥勒の頬を何かがかすめ、背後で鈍い音がした。
「七宝ちゃん?!」
の叫び声に振り向くと、胸に深々と鉾の刺さった七宝が、声もなく前のめりに倒れるところだった。
「七宝!」
「畜生、どこにいやがる!?」
珊瑚と犬夜叉は、鉾の飛んできた方向にむかって身構えた。
素早いのが取柄の七宝が、ああも呆気なくやられるなんて、相手はただの妖怪ではない。
(冥鬼なのか?)
それは、弥勒が一番恐れていたことだった。かごめのいない今、もしもが鬼を寄せてしまったら……。
その先のことは、けして考えたくなかった。
は、倒れている七宝に駆け寄り、鉾を引き抜いた。血飛沫が頬にかかるのも構わず、七宝の傷に右手を当てた。
「…………おら……」
七宝が微かな声で呟いたが、その声は喉からあふれ出ようとする血泡に塞がれてしまった。
「大丈夫よ、しゃべらないで。絶対助けてあげるからね」
そう七宝を励ましながら、は右手に能力をこめた。
その瞬間を待っていたかのように、村人たちの荒魂が、七宝の傷を癒すために無防備になっていたの身体に飛び込んでいった。そして、仲間を傷つけられたために生じた憎しみや殺意を帯びた、犬夜叉、珊瑚、弥勒の荒魂も。
(しまった!)
悔やんでも、遅かった。こうなることを狙って、七宝を傷つけたのに違いない。
抜けていく力をふりしぼりながら、弥勒はを見た。
は、青ざめた顔で、ときどき身体をびくん、びくんと震わせていた。しかし、右手は七宝の胸から離していなかった。
(……まだ、だめ。七宝ちゃんの傷を……)
の身体の中では、黒い荒魂が渦を巻いているようだった。呑みこまれそうになりながら、は必死に足掻いていた。呑まれたら、鬼が出る。もう、人を殺すのはいやだ!
やがて、傷のふさがった七宝が跳ね起きた。
「! おら……」
「……よかった。七宝ちゃん、急いであたしから離れて……」
は、微かに笑みを浮かべた。だが、傷を癒すのに能力を使いすぎていた。もう、黒い渦に逆らう力は残っていなかった。
「弥勒さま、お願い、風穴を!」
最後の力で叫ぶと、は倒れた。その背から抜け出た光が、鬼の形に変化しようとしていた。
月の夜の約束が、弥勒の脳裏を掠めた。
(できるのか? あんな不幸な娘の魂を、この風穴に吸い込むことが?)
弥勒は、右手の数珠を握り締めた。手が、微かに震えている。
(――俺がやらなければ、また、人が死ぬ)
それは、の望んでいたことではなかった。
弥勒が震える手で封印の数珠を解こうとしたその時、空を切って飛んできたまばゆい白い光がの身体を包んだ。
(これは?)
白い光は鬼と変化しかけていた魂を、やさしくの身体に押し戻した。そして、荒魂はそれぞれの身体へと弾き飛ばされた。
「!」
身体の自由を取り戻すと、弥勒は一目散にに駆け寄った。だが、に触れようとした手は、白い光に弾かれてしまった。
「どうなってるんだ……」
呆然と、犬夜叉は呟いた。
は、すらりと立ち上がった。腰まであった髪は、見る間に地を這うほどに長くなった。桜色の小袖を着ていたのが、白の衣に緋色の裳を穿いた姿になった。首や腕には瑪瑙や瑠璃で作られた勾玉や管玉を連ねた飾りが幾重にも下がり、身動きするたびに清かな音をたてていた。――それは、あの時の巫女の姿だった。
巫女は、目を開いた。その瞳のふちは、微かに金色に輝いていた。
「……かなり血の能力も覚醒たとみえる」
そう呟くと、巫女は空の一点を見据えた。
「出てきたらどうだ? そこにいるのはわかっているぞ。鬼の一族の者よ」
弥勒たちが空を見上げると、空間が歪み、冥鬼が現れた。
「……なぜだ? あの娘はいないのに」
「おまえなどに説明する必要はなかろう」
巫女は、微かに口角を上げた。嘲笑っているようだった。
犬夜叉と弥勒は、顔を見合わせた。
(桔梗!)
どこか近くに桔梗がいるに違いなかった。桔梗の魂がの身体と結びつき、この巫女が現れたのだ。
(だが、以前と違う……)
それが、巫女の言う「血の能力の覚醒」のせいなのか、それとも桔梗の魂のせいであるのかは、弥勒にはわからなかった。
「……貴様の破邪の血は、既に汚れている。その娘は鬼を寄せ、数多の人間を殺した」
必死に冷静さを保とうとしながら、冥鬼は言った。巫女の動揺を誘うつもりだった。
「それがどうした? いくら汚れていても、血に宿る能力は衰えぬ。おまえのような鬼ぐらい簡単に滅することができるぞ」
相変わらず唇に笑みを浮かべたまま、巫女は言った。冥鬼の言葉にいささかも動揺していないのは明らかだった。
冥鬼は無言のまま、鉾を構えた。びりびりと殺気が伝わってくる。
鉄砕牙を構えようとする犬夜叉を、巫女は右手を上げて止めた。そして、声高に宣りあげた。
「我、天つ神の御名において邪まなる者を打ち破らんと欲す。破魔の矢よ、吾がもとに来ませ!」
その言葉が終わると同時に、巫女の右手には銀色に輝く破魔の矢が握られていた。彼女は、矢と同時に現れた丹塗りの弓にそれを番えると、冥鬼に狙いをつけようとした。
「くっ……」
そうはさせじと、冥鬼は左右に宙を舞い、少しずつ間合いをつめた。巫女は顔色ひとつ変えず、冥鬼の胸に矢を向けている。
(今だ!)
冥鬼は、鉾を下から振り上げ、巫女の腕ごと破魔の矢をなぎ払おうとした。
しかし、彼女は微かに身体をずらすだけで冥鬼の攻撃をかわし、同時に破魔の矢を放った。避ける術もなく、その矢は冥鬼の左胸に深々と刺さっていた。
「……人間がいる限り、怨み、憎しみの心は尽きぬ。俺を殺しても鬼はまた現れ、人を喰らうだろう」
最期の力をふりしぼり、冥鬼は呪詛の言葉を吐いた。
「現れれば、消すまでの事。それが、我が血の宿命」
そう巫女が呟くと、冥鬼は悔しげに顔を歪めたまま、砂が崩れ落ちるように消滅してしまった。
辺りは静まり返っていた。村人たちは、荒魂が戻った途端に逃げ出していた。沈黙を破るように、弥勒が一歩前に進み出た。
「あなたは何者なのですか?」
「我が名は、玉依……」
その時、玉依の身体が淡い燐光に包まれた。そして、剥がれ落ちるようにの身体が地に崩れ落ちた。
「情けない。破邪の血の末裔が、このようなか弱き魂力しか持たぬとは……」
玉依は、冷たい目での身体を見下ろした。やがて、徐々にその姿が淡くなっていった。
「お待ちください! あなたは、とはどういう関係なのですか?」
「その娘は、我が血を継ぐ者。そして、我が憑依坐になる存在……」
弥勒の問いかけに答え、玉依は空気に溶けるように消えていった。
弥勒は、そっとを抱きかかえた。は、ぴくりとも動かない。深い眠りに落ちていた。きっと、三日は目を覚まさないだろう。
犬夜叉が、突然村のはずれに向かって走り出した。
「犬夜叉! どこへ行くんじゃ?」
七宝の言葉に返事もせず、やがてその姿は見えなくなった。
「法師さま、犬夜叉が……」
「きっと、桔梗の匂いに気づいたのでしょう。放っておきましょう」
珊瑚は、あやふやに頷いた。かごめのことを考えれば、放っておいてもいいとは思えないが、こういうことは当事者以外はあまり立ち入るべきではないのだろう。
珊瑚は、弥勒の腕の中にいるから目をそらした。
「……村の人に、ちゃんを休ませてもらえるか訊いてくるよ」
「頼みます、珊瑚」
やや上の空で、弥勒は答えた。玉依の最後の言葉が、心の中で引っかかっていた。
(憑依坐……)
神楽は羽に乗り、奈落のもとへ向かっていた。
(鬼の一族は頼りにならねえ。せっかくかごめのいない隙に、お膳立てしてやったのに)
犬夜叉たちには気づかれなかったが、あの玉依には気づかれていたような気がする。屍舞で犬夜叉たちをあの村におびき寄せ、隠れて一部始終を見ていたことを。
それでも消されずに済んだのは、殺気がないのが伝わったからなのか。それとも、取るに足らない小物と見なされたのか……。
神楽は唇を噛んだ。玉依にも、こんな仕事を押し付ける奈落にも腹が立ってくる。
(のことなんて、放っておけばよかったんだ。そうすれば、あんなおっかねえ巫女も現れずに済んだのに)
奈落は、の血を汚したがっていた。おそらくは、汚れた血の能力で生まれた鬼を喰らうつもりだったのだろう。自分の力を増すために。
だが、いくら汚れていてもの血の破邪の能力は衰えないようだった。あれでは奈落も迂闊に自らの体内に入れるわけにはいかない。入れた途端に、浄化されてしまうのがオチだ。
奈落の狙いが外れたことで、神楽は少しだけ胸がすくような思いがした。そして、心の中までは神無の鏡にものぞかれないことを、ありがたいと思った。
森の中、桔梗は木にもたれて座り込んだまま、死魂虫の運んでくる死魂を受け取っていた。
の身体に吸い寄せられたことで多少の魂力は消耗していたが、それより気がかりだったのは、玉依の語った言葉だった。
消える寸前、玉依は桔梗の魂だけに語りかけていた。
「おまえは、我が魂を継ぐ者。あるべきところに還り、血を継ぐ者と対になれ」
あるべきところとは、かごめのことだろう。――それは、桔梗にとっては死を意味する。
桔梗の躊躇い――あるいは反抗の気持ちを見抜いたのだろう。玉依は、厳しい口調で言った。
「そもそも、おまえは五十年前に御影と対になり、あの邪気の塊――奈落を倒さねばならなかったのだ。それを、半妖などに惚れたせいで……」
玉依は、最後まで語る時間がなかった。だが、言わんとしていることはわかっていた。
あのとき、桔梗は生きるべきだったのだ。どんな手段を使ってでも。
四魂の玉に願えば、生き延びることができたのはわかっていた。しかし、あのときは生きる気力がなかった。四魂の玉など厭わしいだけだった。あの玉のせいで、犬夜叉は自分を裏切ったのだ。――少なくとも、あのときはそう信じていた。
「桔梗―っ!」
犬夜叉の声が、森の中に響いた。
桔梗は、自分の周りに結界を張った。今は、犬夜叉に会いたくなかった。
(――私がかごめの中へ還れば、犬夜叉は喜ぶのだろうな)
桔梗は、皮肉な笑みを浮かべた。
(だが、私は還らぬ。私はまだ生きていたいのだ――たとえ、まがい物の身体であっても……)
桔梗の笑みは、寂しげなものに変わっていた。
「桔梗―っ!」
すぐ近くにいるのに気づかないまま、犬夜叉の声は森の中に響き続けた。