あじさい男


 どんよりと曇った午後の空。湿った風が、雨の匂いを運んできている。
、肩に何かついてますよ」
 そう言って伸ばされた弥勒の手を、は払いのけた。
「また、そんなこと言って触ろうとする」
「濡れ衣ですよ。本当にゴミがついてたんですってば」
「へ〜。それで? そのゴミは今どこにあるってのよ!」
 歩きながら口論になると弥勒の姿は、今ではすっかり馴染みのものだった。
「あの二人、仲がいいのう」
 七宝が、ぼそりと呟いた。
「そうかあ? 喧嘩ばっかりしてんじゃねーか」
「犬夜叉は鈍いからのう。なあ、かごめ。かごめならわかるじゃろ?」
「う…ん、そうねえ……」
 かごめは口ごもりながら、横を歩く珊瑚をちらりと見た。
 珊瑚は、皆の会話などまるで耳に入らない風で、前だけを見つめて歩いている。だが、引き結ばれたその口元に珊瑚の本心が隠されているように、かごめには思えた。
「そんなことよりよ、もうじき雨が降ってきそうだぜ」
 犬夜叉が空を見ながら呟いた。
「降りだす前に、今宵の宿を決めますか」
 話題をそらせるのを、これ幸いと、弥勒が犬夜叉の言葉に同調した。
「そうね。雨が降るのなら、野宿というわけにはいかないものね」
 あいにく近くには村はなかったが、川岸の船着場に粗末な小屋があった。雨露さえしのげればいいということで、一行はそこに泊まることに決めた。

 犬夜叉と七宝が川で魚を捕まえると、かごめとが料理をすることになった。
「……あの二人に任せて、大丈夫なのか?」
 以前かごめにカレーを食べさせられて散々な目にあった犬夜叉は、それでもかごめの機嫌を損ねるのが怖いらしく、小声で弥勒に囁いた。
「心配することはありませんよ。我々は腹を減らして待つことにしましょう」
 そう弥勒が言うと、納得できないながらも腹を減らせるつもりか、犬夜叉は森のほうに向かって歩いていった。
 弥勒は、小屋から離れて川岸をぶらぶらと歩いていった。七宝もたぶん、森の中で遊んでいるのだろう。珊瑚は……。
 珊瑚のことを想うと、知らず知らずのうちに溜息がもれる。弥勒は、しばらく前からこのことに気付いていた。
 だが、この右手に呪いの風穴がある限り、自分の想いなど、とても珊瑚に伝えられたもんじゃなかった。
 珊瑚は、今まで辛い思いを味わいすぎている。このうえ、自分のことで彼女を悲しませたりはしたくない。
 弥勒は、川原に腰を下ろした。川の水は灰色の空の色を映して、ゆっくりと重たげに流れている。弥勒は手近な石を一つ拾って、川に向かって投げた。それは、一時水面に波紋を広げたが、すぐに川の水は何事もなかったように流れ、水の輪を消し去っていく。
「……法師さま?」
 弥勒は振り向き、相手の姿を認めると少しだけ目を細めた。珊瑚が自分のもとへ来るのは意外なようでもあり、至極当然なことのような気もする。
「おまえは手伝わなくてもいいのですか?」
「かごめちゃんたちに追い出されちゃった。あたしたちに任せて、って」
 珊瑚は軽く肩をすくめて言った。おそらくあの二人は、二人の時代の料理を作るつもりなのだろう。それなら自分はたいして役に立てないかもしれない。
「ここ、座ってもいい?」
「もちろんですよ」
 二人は並んで座り、無言で川の流れを見つめた。――こういうことは、以前はよくあったように思える。が、一行に加わる前までは。
「……最近、仲良いんだね。ちゃんと」
 言ってしまってから、珊瑚は唇を噛んだ。言うつもりのなかったことなのに、沈黙に耐えられなくて、つい口をついて出てしまった。
「あの娘はからかうと面白いですからねえ」
 微かに唇に笑みを浮かべながら、弥勒は言った。
「……好き、なの? ちゃんのこと」
 声が震えないように、ややぶっきらぼうな調子で珊瑚は言った。
「ええ」
 弥勒は目を閉じて答えた。嘘をつくのには自信があったが、珊瑚に瞳の色を見られたくはなかった。
「でも! ……でも、ちゃんには好きな人が……」
「だから、いいんですよ」
 弥勒は、ゆっくりと目を開くと珊瑚を見つめた。ここは真実らしく語らねばならない。
「お互い本気になることはないですからね。いくらでも戯れの恋を仕掛けることができる」
「戯れって……」
は、の先生に似ている私がいれば、少しは寂しさを紛らわせることができるでしょう。しかし、それは本当の恋ではない。……私は私で、一人の女に縛られるなんて真っ平ですからね。お互い都合がいいんですよ。この恋愛ごっこは」
 一瞬、珊瑚の目が汚いものを見たような目付きになった。それを見て弥勒は満足を覚えながらも、取り返しのつかないことをしてしまったような後悔の気持ちを感じないわけにはいかなかった。
 生温かい風が強く吹き、川原の草を揺らした。鈍色(にびいろ)の雲からは、とうとう雨の初粒が落ちてきた。珊瑚は立ち上がった。
「法師さまって、最低だよ。ちゃんが、かわいそうだ」
「ええ。私は最低な男ですよ。だから……」
 弥勒は、低いが力のこもった声で言った。
「珊瑚は、私のような男に惚れてはいけませんよ」
 立ち去りかけた珊瑚の動きが、止まった。髪に、肩に、雨の雫が落ちてくる。
 見透かされていた……そして、拒絶された――。
「あたしは……」
 珊瑚が口を開いたとき、小石を踏みしめる足音がした。
「二人とも、こんなところにいたー。雨降ってるよ。早く戻ろ、食事の支度もできたし」
 場違いな明るい声と共に現れたのは、だった。
(まったく、都合のいいときに来やがる)
 弥勒は口元に苦笑いを浮かべた。がこんなに近づいてくるまで、その気配を感じ取れなかったことが少々意外だった。それだけ、珊瑚との会話に全神経を集中させていたということか。
「どうかしたのー、二人とも?」
「……なんでもないよ。あたし、先に行くから」
 そう言い残すと、珊瑚は振り返らずに駆け去っていった。その頬に光る雫があったことに、は気づいた。
(雨? それとも、涙?)
 弥勒は、凍りついたように座り込んだまま、動こうとしない。
「……けんか、したの?」
「まさか。なんでもないですよ」
 への答えが、さっき珊瑚が残していった言葉と同じだったことに気付いて、弥勒は(わら)いたくなった。
「弥勒さまも、戻ろう。濡れちゃうよ」
 気遣わしげに、は言った。何かが、いつもの弥勒と違っている。
「……いや、もうしばらく私はここにいます」
「でも……」
「ほっといてくれ!」
 思わず怒鳴ってしまって、弥勒は後悔した。には関係のないこと、いや、にはあまりうれしくない役をやらせてしまっているのだ。に当たるのは、筋違いだ。
「……すみません、
「いや、あたしは別にいーんだけどさ」
 さして気にした様子もなく、は言った。
「じゃ、あたしは戻るけど、風邪ひかないうちに戻ってきてね」
 そう言って、は弥勒のそばを離れた。ちらりと振り返ったが、弥勒は川を見つめたまま、のことなど気にしていないようだった。濡れそぼった紫紺の袈裟が、雨に滲んでやけに儚げに見える。
(弥勒さま、川原に咲いてるあじさいの花みたいだなー)
 歩きながら、は考えた。
(あじさいの花言葉は、「移り気」、「浮気」……ぴったりじゃん。今度からあじさい男と呼んでやろーかな) 
弥勒の態度に傷ついたなどとは、は意地でも認めたくなかった。あれは先生じゃない。先生のそっくりさんにすぎない。だから、怒鳴られたって、眼中に入ってなくったって、あたしは傷ついたりしない。
(あじさいって、他にも花言葉あったよな。――なんだったっけ?)
 くだらないと思いつつ、は考え続けた。何か考えていないと、落ち込みそうな気がする。くだらないことでいい。何か考えていないと。
(思い出した! 「辛抱強い愛情」だ)


 川原のあじさい男は、まだその場に咲いたままだった。
 ――これでよかった。今なら、まだ浅い傷ですむ。
 弥勒は、今し方の珊瑚の表情を脳裏から追い出した。その空白を埋めるかのように、のことを考える。
なら――いつか、帰ることさえできれば、彼女には家族や友達や先生がいる。だから……)
 だから、心の痛みを感じないようにした。彼女の存在を利用したことを。
 いつかがもとの時代に帰っていくことを、弥勒は疑っていなかった。まだ、その方法さえ見つかっていないのに。
 そうして、女たちは自分のもとを去っていく。いつまで、この運命に耐えなければならないのだろうか。
 その答えはいつでるとも知れず、弥勒は、ただ川原のあじさいのように、雨に濡れていた。

ミロサンファンの方、ごめんなさい。m(_ _)m
原作では将来を誓い合った仲の二人を別れさせてしまったw
いや、弥勒さまがこう考えたりしない限り、そう簡単に
珊瑚ちゃんからヒロインちゃんへ乗り換えたりしないだろうなー、と……。