赤い月
蒸し暑い夜だった。
一行は、おそらく猟の時期に使うと思われる、沼の近くの粗末な小屋に泊まっていた。
夕食も終え、獣臭い脂を使った灯りをともしながらそれぞれ思い思いのことをしていた。
「今夜はやけに暑いわね」
下敷きで扇ぎながら、かごめが言った。
「ほんとだね。まだ夏も始まったばかりだというのに」
飛来骨の手入れをしていた珊瑚も、頷いた。雲母も暑そうに、ぐったりと伸びている。珊瑚は、そっと腹を撫でてやった。
「アイスクリーム食べたいなあ」
かごめは、数学の参考書をリュックにしまった。こう暑いと、とても勉強どころじゃない。
「あいすくりーむ、ってなんじゃ?」
七宝が興味津々といった様子で、かごめににじり寄った。かごめは七宝に現代のおやつをときどきお土産に渡していたが、溶けてしまうアイスクリームは一度も持ってきたことがなかった。
「アイスクリームっていうのはね、牛乳と卵とお砂糖をよく混ぜて凍らせたお菓子なのよ。夏になると、よくお母さん作ってくれるんだ。バニラとか、ココアを入れてチョコ味とか、ジャムを入れてイチゴ味とか」
「バニラとかココアとかジャムはよくわからんが、なんだか美味そうじゃのう」
七宝は、今にも涎を垂らしそうだった。
「とっても美味しいのよ。ね、ちゃん」
かごめは、傍らで数学の問題集に取り組んでいるに声をかけた。は、眼鏡の奥からちらりとかごめを見たが、すぐに問題集に視線を戻した。そして、シャープペンシルでこめかみを掻きながら言った。
「あたしは嫌い。夏っていえば、冷えたビールでしょ」
「びーる、ってなんじゃ? そんなに美味いのか?」
「ビールってのはお酒で、苦いのよ」
かごめは苦笑いしながら七宝に説明した。
「あたしも、夏によく作ってもらったお菓子があったよ。母上が生きていた頃だけど」
思い出したように、珊瑚がぽつりと語りだした。
「白玉粉を団子にして茹でて冷やしたのを、黒蜜につけて食べるんだ。あたしも、琥珀もそれが大好きだった。一度だけ母上に教わって、一緒に作ったんだ。……それが、最初で最後だったけど」
「私も幼い頃、それと同じのを食べさせてもらったことがありましたよ。これはぜひ、珊瑚に作ってもらいたいですな」
弥勒が、ニコニコしながら言った。
「気が向いたらね」
素っ気無くいって、珊瑚はそっぽを向いた。
弥勒の態度は、以前と少しも変わらない。それが悔しくもあり、ほんの少し、うれしくもあった。
「人間の親は、いろいろお菓子を作ってくれるものなのじゃな。犬夜叉も、作ってもらったことあるのか?」
「……まーな」
七宝の問いに、犬夜叉は少し赤い顔をして答えた。
「七宝ちゃんは? 夏はどんなおやつを食べていたの?」
犬夜叉の表情を横目で見て、笑いをかみ殺しながらかごめが訊いた。
「おらは、西瓜や瓜だな。おとうと一緒に畑で甘そうなのを選ぶんじゃ」
ぱちん、と音がして、みんなは一斉にを見た。は自分の頬に止まった蚊を叩き潰したのだった。
「もー、暑くて我慢できない! 今日なら野宿のほうがよかったかも」
「虫が嫌だから外で寝たくない、って言ったのはおめーだろうが」
「あたしはお肌がデリケートなのよ。犬と違って」
は犬夜叉をにらみつけると、荒々しく眼鏡と問題集を床に置いた。
「ちょっと外で涼んでくる」
そう言い残すと、小屋から出ていった。
「はずいぶん不機嫌じゃのう」
「けっ、あんなワガママ女、ほっとけ!」
「でも、一人じゃ危ないんじゃない? ちゃん、四魂のかけら持ってるし……」
みんなの視線が弥勒に集中した。
「はいはい、わかりました。私がお嬢さんのお守りをしてきますよ」
弥勒は大げさに溜息をついて、小屋を出ての後を追った。
外では赤い大きな月が、ねっとりと重たげな光を放っていた。
弥勒が沼のほうへ歩いていくと、は沼のほとりに座っていた。素足で水を蹴り上げては、月の光に輝く雫を作り出していた。
「どうかしたのですか?」
弥勒は、の横に座って話し掛けた。
「ずいぶんと、ご機嫌斜めのようですが?」
「どうもしやしないわよ」
弥勒のほうを見向きもせず、は水を蹴り続けた。
「そうですか? それにしては、さっきからの態度は……」
「うるっさいなあ。説教たれにきたわけ?」
弥勒の言葉をさえぎり、は立ち上がった。の言い方に、ついムッとした弥勒も立ち上がった。
「お前を心配してきたというのに、その言い方はないでしょう!」
「心配なのはあたしじゃなくて、四魂のかけらでしょ! 恩着せがましい言い方しないでよ」
そう言うと、はその場を立ち去ろうとした。
その時、生温かい風がどうっと吹いた。沼のまわりの草木は揺れ、水面に映っていた月は、小波で形を変えた。
「なんだ?」
二人が目をやると、赤い月を背に水面にぼうっと立つ人影が見えた。どうやら黒い衣をまとった老人のようだった。
「……心に薄闇を持つものがおるな」
老人は、しわがれた声で言うと、枯れ枝のような腕を上げて二人を指差した。
「こっちへ来よ。すぐに楽になる……」
(まずい!)
そう弥勒が悟ったときは遅かった。月も沼も消え、辺りが漆黒の闇に包まれていく。
(結界を……)
急いで結界を張ったが、の姿が見当たらない。既に闇に呑まれてしまったのか。
「―っ!」
だが、その声も闇に吸い込まれるばかりだった。やがて、弥勒の意識も闇に沈んでしまった。
弥勒が気がつくと、そこは薄暗い部屋だった。
大きなガラス窓にかかったレースのカーテン、黒い革張りのソファ、枯れかけているベンジャミンの鉢。それらは、弥勒にとっては初めて見るものばかりであった。
(どこなんだ、ここは?)
声に出して言ったつもりだが、言葉は音として響いてこない。それどころか、自分の身実すら感じられない。ふわふわと宙に浮いているような感覚は、まるで身体から魂だけが抜け出して彷徨っているかのようだ。
(どうなっているんだ。はどこだ?)
部屋の中には、女がいた。背中に届く長い髪、神経質そうな細い肩。年のころは、二十代半ばであろうか。弥勒は彼女の背後にいるので、顔は見えなかった。
「あんたなんか、産まなければよかった! あんたのせいで、あんたが生まれたせいで……」
突如、女がヒステリックに叫んだ。
驚いた弥勒がよく見ると、彼女の足元に、ソファの蔭に隠れるように、三歳くらいの幼女が座り込んでいた。
幼女は、大きな目を見開いて、涙が零れ落ちないように必死に堪えていた。泣くと打たれるということを、経験で知っているかのように。
(やめなさい! こんな幼い子供に、あなたはなんということを)
弥勒は、母親と幼女の間に立ちふさがった。しかし、二人とも弥勒の姿は見えていないようだった。
母親は、まだ何か喚いていた。思うにまかせぬことでもあるらしく、その憤りを子供にぶつけているようだった。
(かわいそうに……)
弥勒は幼女の顔を見つめた。その、気の強そうな瞳には見覚えがあった。
(……?)
弥勒が呟いたとたん、部屋の中はまたしても闇に沈んだ。
少女はじっとうつむいていた。
闇が退いた時、弥勒の目の前にいたのは七歳くらいの少女。短いスカートは泥だらけになり、すりむいた膝からは血が滲んでいた。
「おかあさん、ハルの散歩に行ってくるからバンソウコウ貼って着がえとくのよ」
母親は、毛のすべすべした茶色の子犬にリードをつけながら、そう言っただけだった。
「……消毒して」
消え入りそうな声で、が言った。
散歩に行けるとわかった子犬は、うれしそうに母親の足元に纏わりつき、吠えていた。母親は優しく犬を抱き上げると、その鼻先にキスをした。
「そんなの、たいしたことないわよ。水で洗っておきなさい」
そう言い残すと、母親は部屋を出て行った。玄関の扉を閉める音が響いてきた。
はうつむいたまま、その場に立ちつくしていた。
それからも、いくつか同じような場面が続いた。
を疎んじる素振りの母親。
無表情の。
父親はほとんど姿を見せず、たまに現れる場面では酒に酔って母親を殴っていた。
が徐々に成長していても、部屋の調度が変わっていても、この親子の関係は変わっていなかった。
(……これは、の過去にあった出来事――にとっての"心の闇"なのか……)
弥勒はおぼろげながらも理解した。あの沼の老人に術をかけられ、は悪夢を見させられているのだ。弥勒自身は結界を張ったため、己の心の闇を見せつけられることはなかったが、の夢の中に取り込まれてしまった。
(畜生……。俺たちの身体は、どうなっている?)
心が闇に囚われている間に、身体が攻撃されればひとたまりもない。ここから抜け出すには、の目を覚ましてやるしかない。
(しかし、どうやって?)
白いカサブランカの花に囲まれて、犬を抱いている母親の写真は黒い縁取りの額の中で微笑んでいた。
黒い服を着た人々が、入れ替わり立ち代り祭壇の前に歩みよっては香を手向けている。
「母親が死んだっていうのに涙ひとつ見せないなんて、あんたって子は冷たいよ! 犬のほうが、まだしも情があるってもんだ!」
女性の金切り声が響いた。彼女の夫と思われる初老の男性が、女性――それは母親の姉だった――の肩を宥めるように抱いて、その場から連れ去っていった。
黒いセーラー服姿のは、それでも無表情のままだった。
次の場面は、レストランだった。テーブルを囲んでいるのは、と父親と、若い女性。
母親の葬儀から、それほど年月が経っていないのは、が成長していないことで察せられる。
は、普段はまず着ないような、淡いピンクのワンピースを着ていた。
「街子さんは、犬が好きですか?」
ぎこちない雰囲気の漂っていた中で、が初めて口を開いた。街子さん、と呼ばれた女性は、うれしそうに微笑んだ。
「ええ、大好きなの。実家でも二匹飼っていてね……」
「へー、あたし犬って大っ嫌い」
街子の表情が凍りついた。父親は立ち上がると、無言での頬を打った。
も立ち上がると、ナプキンをテーブルに叩きつけ、レストランから出て行った。
夜の街を、は早足で歩いていた。ピンクのワンピースを着ているところを見ると、先程の場面の続きらしい。
何台もの車がクラクションを鳴らしてきたが、は無視して歩き続けていた。
一台の車がを追い越して止まった。運転席側の窓が開き、そこから顔をのぞかせた男を見て、弥勒は目を瞠った。
(俺?)
「―? どうしたんです、そんな似合わない服着て?」
その男は、もちろん僧形ではないのだが、顔かたちも声も弥勒そのものだった。
(この男が、"先生"なのか)
その時、弥勒は自分が男に引きつけられるような気がした。ちょっとした衝撃の後、弥勒は自分が男の座っていた場所に、同じように座っていることに気づいた。風穴のない右手が、自分の思うように動く。
「"先生"の身体の中に入り込んでしまったのか?」
思わず呟いてしまって、声が出ていることに気づく。
は、怪訝な顔をして弥勒を見ていた。
もう少し、と先生の経緯を見ていたい気持ちはあったが、躊躇してはいられない。弥勒は大声で叫んだ。
「、目を覚ませ! これは悪い夢だ!」
目を開けると、そこは暗い水の中だった。思わず水を飲みそうになって、あわてて息を止める。
(これは夢じゃない!)
弥勒は、の姿を探した。しかし、月の光しか届かない水の中では視界がきかない。
(どこだ、?)
水底に、月の光を凝縮したように輝く青い光があった。弥勒が潜って近づくと、それはの首にかかる水晶だった。弥勒はの手をしっかり掴むと、一気に水面まで浮上した。
水面に顔を出すと、は激しく咳き込んだ。肩で大きく息をするうちに、ようやく目の焦点も定まってくる。
「……あたし? ここは……」
「ここは戦国の世だ。お前は悪い夢を見ていたんだ!」
弥勒は、を抱きかかえる手に力をこめた。しっかりと抱いていないと、はまた悪い夢の中に滑り込んでしまいそうだった。
「……我が術を破ったのか。苦しまず、楽に逝けるはずだったのに……」
しわがれた声に顔を上げると、例の老人が、弥勒たちからほんの少ししか離れていない水面に、やはり赤い月を背にして立っていた。
「多少苦しい思いをするが、仕方あるまい……」
老人が手を上げたとたん、弥勒との身体は水中に引き込まれた。水中で目を凝らすと、無数の手が、弥勒との足を引っ張っている。
(法力!)
弥勒が口の中で印を唱え手をかざすと、無数の手は怯んで二人の足を離した。弥勒とは再び水面に顔を出したが、無数の手はまだ水中で蠢いていた。隙あらば、また二人を水中に引き込もうと待ち構えているかのように。
(埒があかねえ。あの老人を、なんとかしないと……)
水中で、を抱えて戦うのは不利だった。弥勒は手っ取り早く風穴を開いた。
「風穴!」
弥勒は、封印の数珠を解いた呪いの右手を老人に向けた。しかし、老人は吸い込まれるどころか、その衣さえ微動もしなかった。
(風穴が効かない?!)
弥勒は、風穴を閉じた。この老人の姿は幻なのか? 本体はどこにある?
「我を傷つけることはできぬ。諦めよ……」
老人が呟くと、怯んでいた無数の手が、再び二人の足下に迫ってきた。
それまでおとなしく弥勒に抱かれていたが、突如強くその無数の手を蹴りつけた。
「冗談じゃないわ。なんで、こんな所で死ななきゃならないのよ!」
は顔を上げ、老人を睨みつけた。
「あたしは生きる! 諦めたりしない!」
が叫ぶと同時に、の水晶から青い光が放たれた。その光は、沼のほとりにある苔むした岩を照らしていた。
「あれか!」
弥勒は、岩に向かって御札を投げた。御札がぴたりと岩に張りつくと、老人の姿も、無数の手も消えた。
後に残ったのは、赤い大きな月ばかり。
「……この沼では身投げする人が後を絶たないようですな。これは、その人たちの霊を慰めるために立てられた碑らしい」
弥勒は、苔むした岩を調べて言った。御札は貼ったままにしておき、短い経を唱えた。これで死んだ者たちの無念が晴れるとも思えないが、少なくとも生きている人間を沼に引き込むようなことはなくなるだろう。
は無言のまま、弥勒に背を向けて立っていた。心の闇を弥勒に見られたことを、恥じているのだろう。弥勒は、背後からそっとを抱きしめた。
哀れだった。この娘が。
自分たちのように、過酷な運命を背負っているわけではない。しかし。
人は生れ落ちたその日から、母に、父に、無償の愛を注がれる。たとえその後の人生が苛烈なものであろうと、その頃の記憶が土台となって生きる勇気を得るものではないだろうか。
この娘には、その土台がない。愛された思い出がないのだ。それなのに、どこからあのように生きる勇気を持ち得たのだろう。
「……弥勒さま」
が、そっと弥勒の腕をはずした。弥勒に背を向けたまま、ぽつりと言った。
「あんまり優しくしないで。あたし、人生間違えちゃいそうな気がするよ」
「私は、間違いなんですか」
軽く笑いを含みながら、弥勒は言った。
「そう。間違い」
も、笑いながら振り向いた。しかし、その顔は歪み、大粒の涙が溢れ出した。
「……あたしが生まれてきたことも、間違いなの。あたしは、要らない子供なの」
「要らない人間なんていませんよ」
弥勒は、今度は正面からしっかりとを抱きしめた。
弥勒の衣はまだ湿っていたが、また新たに胸の辺りが温かい湿り気を帯びてくる。
(苦労のない、無邪気なだけの娘ではなかった……)
いつの間にか赤みが消え、いつもどおりの黄色い光を放つ月を見ながら、弥勒はずっとを抱きしめていた。
私は、ドリーム描きに向いてないのかもしれない。
こんな過去は嫌だー、と思われる方は、この話はなかったことに……( ̄∇ ̄;)ハッハッハ
でも、ヒロインちゃんの過去話、私としては書き足りなかったので
オリジナルで作って、UPしました。
興味のあるかたは、どうぞ。