ベートーベン」と聞けば、日本人ならば誰でも知っていよう。

ああ、「たたたたーん♪」の曲を書いた人ね
と、第五交響曲(通称「運命」)第一楽章冒頭を口ずさんでくれよう。

リヒャルト・ワグナー」となると、ぐんと知名度は落ちる。しかし、

たったかたーた、たったかたーた、たったかたーた、たったかたー♪
と口ずさんであげると、
「ああ、コ*ポラの映画『〜黙示録』の曲を書いた人ね」
と比較的多くの人が解ってくれるに違いない。
薀蓄の上塗り:ジンクシュピール(要するにオペラ)「ラインの指輪」シリーズから、「ワルキューレの騎行」
死者の魂を狩るワルキューレたちが「よーとほー、はいやはぁっ」と馬に乗って天界の城ヴァルハラへと帰還する際の前奏に用いられる。
……という類推からか、攻撃ヘリコプターがヴェトナム(かどこか)の村で虐殺始めるシーンのBGMに用いられた。
なお、「ポ*ス・アカデミー」シリーズの某映画の1シーンでも用いられた。アマゾンな婦警さんが、モーターボートに馬乗りになり「よーほー」と声をあげて犯人を狩るシーンであるw。

ブラームス」と聞けば、かなりの人が知らない。そこで、不本意ではあるが、彼がハンガリーの民謡を剽窃して、あたかも自作したかのように発表したあの曲を口ずさむことにする。

だーららーららーらららー♪
すると、何人かは、「どこかで聞いたことがある」と言ってくれるだろう(と信じたい)。

とくにシーンの上で意味がない(と信じたい)作品に言及せねばならない。
チャップリンの映画「独裁者」である。この映画は、某国(ヒ*ラー総統のパロディー)独裁者と、国内のユダヤ人床屋が瓜二つ(チャップリン2役)で、独裁者に成りすました床屋が「平和を訴える」という示唆に富む作品である。
さりげなく、床屋のシーンで、ラジオが「ブラームスのハンガリー舞曲第五番」演奏を始める。それが上記の「だーららーららーらららー♪」であり、それをBGMとして床屋役のチャップリンが客の散髪を始めるのであるが……。さあ、これで、やっと、ハンスリックとは何者か、なぜ「マイスタジンガーがナチ礼賛に用いられたか」説明する下地ができたぞ、とw。

エドゥアルド・ハンスリック、1825年〜1904年の(単なる)音楽批評家。その毒舌からか、「ドナウ川の重鎮」とあがめられ、恐れられた。当時の作曲家連中としては、どんな酷評を新聞に・本に書かれるか知れたものではない、と戦々恐々としていた。そして、この人は(ついでにチャイコフスキーを酷評したが)、ワグナーの作品をクソミソに貶したのである。そして、この人は、ブラームスを礼賛したのである

これだけならば、単に作曲家と取り巻き連中による「ロマン派戦争」という派閥対立で終わってしまっただろう。チャイコフスキーが、この時の様子と彼の態度を、端的に宣言してくれている(ようだ)。

いまやドイツの音楽界は二つに分かれている。
片方はブラームスに、
そしてもう片方はワグナーに……。
どちらかひとつに決めなければならないならば、私は決めるね……
モーツァルトに。
それは、彼らしい(らしくない?)ヘタなジョークである。が、正しい。クラシック音楽愛好家は、モーツァルトを起点とし、いろいろ作曲家を遍歴しても最後は「モーツァルトに帰ってくる」という説があるから……。
だが、この「ロマン派戦争」は、「マイスタジンガー」の不幸な歴史の始まりではなかった。マイスタージンガーの不幸な歴史、それは作品の中身そのものから始まるのである。

「マイスター(イタリア語でマエストロ)」とあがめられる音楽家が、のっしのっしと歩く。主人公(騎士)はヒロインを恋い慕うが、「一番上手な歌を歌った歌手(吟遊詩人といったほうがよいかな)はヒロインに求婚する権利がある」などと、いかにも喜劇な作為(作為の喜劇)満開な設定が告げられる。主人公は落胆し、批評家書記氏が、ほくそ笑む。
しかし批評家書記氏は、マイスタジンガー作(実は騎士が作ったもの)の剽窃した歌で言い寄る。剽窃がバレる。騎士が勝つ。騎士が、形式に囚われない、ドイツ民族満開な自由な歌を謳歌する……。という、まるでワグナー自身の夢を託したような、タアイのないコメディーなはず、であった。
その書記氏のキャラの名を、ワグナーは当初、ハンスリッヒとしようとしたらしい。

(クをヒに変えただけでは)あまりにも生々しいから、やめておこうか
と、「批評家」の名前を変えた。設定は変えずに(頭かくして尻隠さずw)。
相変わらずモデルの人物同様毒舌が好調で。ちなみにハンスリックはユダヤ人だったのである。

時は流れ、ドイツ帝国は第一次大戦とともに崩壊。ついでにワイマール共和国までもが崩壊し、精神的な瓦礫を集めて、国家社会主義党が台頭する。
彼らは、劣等感のどん底から、優越感への頂点に上り詰める支柱を探した。その一つが、「マイスタージンガー」だったのである。
詳述は避けるが、彼らは、ありとあらゆるものから、「アーリア人(という幻想)の優越」「ユダヤ人の害悪」を狩り出そうとした。
そして、哀れ、「マイスタジンガー」は「ナチの曲」のレッテルを貼られることとなったのである……て、序曲だけ聞けば、無理もないような気も(笑)。
ブラームスですらマイナー化した今日、腰ぎんちゃくのハンスリックは、知るもののほうが、きわめて稀である。無理もない。
アドルフ・ヒトラー一党に「反セム主義」に利用されたマイスタジンガーは、日本人の語感になぜか「巨大ロボット」の印象を与えるようだ。その巨大ロボットは、第二次世界大戦という形で、大暴れ。ナチのプロパガンダに使われた「マイスタジンガー」の脇役モデルのハンスリックのことなど、誰が気にしようか。ハンスリック以外の後世ユダヤ人たちの蒙った初代「民族浄化」悲劇と、灰燼に帰したドイツの大都市を思えば。マイナーな程度を考えれば、ハンスリック・ブラームス・ワグナーに対する今日の世界の冷淡さは、ある意味当然であり、自業自得とさえいえるものである。

さて、最後に、チャイコフスキーのジョークに私が応える形で、このページを締めくくろう。
とある人は、私がヴァグネリアン(ワグナー大好きファン・崇拝者)と見ているものがいた。無理もない。
彼の曲は、どの曲も、どんなオトコノコ(幼児)にも受け入れられる、「どんばかどかどかばんばんばん♪」といった感じの曲ばかりである。
私も案の定、ワグナーの、「巨大ロボット発進!」風の誇大妄想あふれる曲想を、最初受け入れていた。ところが……。
オーケストラの総譜を見ると、それは、幻滅へと変わっていったのである。無意味なユニゾン、単純な和声、薄い旋律……。落ち込んでいる時に聞けば、余計に落ち込んでいくので堪えられなくなったのである。


さて。私の答えであるが。予想はたやすかろうが、私の決めるのは「ベートーベン」である。ワグナーは、上記のとおり門前払いであるし、モーツァルトは神童風の計算高さが鼻につくことがあって選びかねる。
そして、どこかにも書いたが、ブラームスは、ベートーベンのパロディー以外の何者でもないからである。