ベートーベンの第九、通称「よろこびの歌」の出だしは概ね、かようなもの:
喜びよ(それは)神々の麗しいきらめき、極楽から降り立った娘どこが「晴れたる青空ただよう雲」?
そういえば、スコットランド民謡に、このようなものがある
古き長き付き合いは忘れ去られなぜか日本ではパチンコ屋などの閉店の際に流れる曲である (おお、意味深!)。 そして、なぜか日本では 「蛍の光・窓の雪(を無理やり光源として読書に励んだ)」 などという意味不明な精神論高揚のための歌に化けている。
そして思い出されることもなくなるのだろうか
(いやそうではあるまい)
それでも以上は一応「作詞」された歌詞である。 ところが「訳詞」の中には、どう考えても「創作」されたものが 少なくない。
圧巻は、表ページ「トロイカの歌」であろう。
原文は、けっして楽しいものではない。
しかもクリスマス(聖週間)も間もない冬の日のことである。
……(たぶん後略)あそこに疾走する郵便馬車(トロイカ)
母なるヴォルガ川に沿って、冬に
御者が、陰気に、すっかり元気をなくしたように歌っている
横に激しく首を振りながら「何を憂鬱に悩んでいたのかね、背の高い兄さん?」
と乗客が丁寧に尋ねた
「どのような心痛で
いったい何がおまえを落胆させてしまったというのかね?」「ああ、優しい旦那、よい旦那
あいつは去年、好きになった娘だったのだが
アンチキリスト(人でなし)のタタール人(のような)村長が
おれに文句をつけやがったのでさ、優しくしていたのに」「ああ、優しい旦那、聖週間(クリスマスの週)も近いというのに
彼女とはもうお終いでさ
金持ちが彼女を取ってしまった
彼女に良い日に見(まみ)えることができやしない
どこが「ほがらか」?
どこが「鈴の音たかく」?
そもそも、一体どこに「高鳴れバイヤン」などと書いてある??
いくら原文が「救いようのない歌(……ほんと)」だからといって
「白樺並木」だの「夕陽」だの「たのしいうたげ」だの、
全くのウソ八百を並べてしまっては
「超訳」どころの騒ぎではないだろ、へぼ楽団カチュ*シャよ?
そういえば、関*子の「カチューシャの歌」も、相当のヘボである。
関鑑*の「カチューシャ」とイサコフスキーの原文とを比較してみると:
1番春は「忍び寄らない」。 「川面にかすみたつ」は正しいけれども、 「高い護岸」の語がそっくり抜け落ちている。 「林檎」を選択して「梨」を省略したのは宜しいとしても、 そもそもこの歌のテーマ「護る」を落とすとは、許しがたい。
2番だれも「岸辺に立って」歌わない。原文において、 歌をリードしたのは「カチューシャ」であり、
どのような歌を歌っていたのかが説明されている。
しかも「春風やさしく」「夢が沸く」などという言葉は
原文にひとこともない。 ちなみに原文カチューシャが歌った(とおぼしき)曲に「荒地の銀色の鷲についての歌」というのがある(らしい)が、 この言葉は「滑走路の戦闘機についての歌」と 訳せないでもない。
3番ここでは「はるかな」という形容詞の一語のみが正しい。 あとは、すべて「誤訳」と断じて、かまわない。
しかも、3番の原文歌詞は、「歌」に対する命令形である。
「やさしその歌声」という体言止めの文章が、命令形だとでもいうのだろうか、
このへぼ訳者は?
原文の、きわめてファンタジックで文学的な勢いを殺してしまっている。
否、後述するように訳者は、「原文を殺す」ことのみ留意した のであろう。
原文は、「ぎらつく太陽を追え」と歌に命じる。
そして(多分、西方の)国境にたどりついて、
兵士にカチューシャからの言伝を「つたえよ」と
歌に託しているのである。
カチューシャの「訳詞(という名の創作)」4番訳文では、単なる1番の繰り返しとなっている(原文では5番目が、1番の繰り返しとなる)。ところが、4番の原文は、イサコフスキーが最も力点の起きたかった「国防婦人会」的な歌詞である。彼(国境の兵士)をして純情な女(カチューシャ)を思い出さしめよ。原文を聞くと、SF的なスケールに、仰天する。 最初は「地球を守れ」と聞こえるからである。
(そのために)彼女が歌ったかのように彼に聞こえるよう(歌え)
彼をして(血をわけた)祖国の土を守らしめよ
カチューシャは愛を(未だに)守っているのだから
原文は「守らせよ」と言い終わって、忘れものをつけたすように「血を分けた・祖国の」という形容詞を追加して 「大地・地球」を修飾している
(つまり全部つなげると「祖国の大地を守らせよ」となる)。
「おのれの愛する(おのれを愛する)女の土地を守れ」
という原文は(しかも「銃後」の年若い女の子たちが歌えば)「きみなきさとにもはるはしのびよりぬ」などでは、今なお(とくに軍隊関係での)高い人気を説明することはできない。
度を過ぎた(と創作者の判断した) 親露感情は書かないことにしよう、 どうも、どいつもこいつも嫌悪を抱いている みたいだからなお、このような「矮小な政治的思惑」は なにも露文関係者に限ったことではない。
「わざと別の語に言い換える」ことによって、国営放送らしい、
きわめて「道徳的な言葉に変じてしまう」という、非常に悪質の極致をいく翻訳をしてくれている。
エクスタシーである。伴奏は、非常に「エクスタシー」なムードを盛り上げている場面である。……ところが、某国営放送が字幕に印字したのは、なんと、「法悦」!