自決をした者に対する取り扱いで、一番「暖かい(?)」見方をしているのは、古代マヤ神話である。
古代マヤ神話には、自決者を彼岸へと導くという専用の神がいる。
「首を縊った」姿の女神という。……なんともはや。暖かいのか他力本願なのか、よく解らない神さまではあるが。
自決について捻くれた感覚を持っているのが、古代ギリシャ・ローマ、中世朝鮮、中世〜近世日本といったところか。
死刑のかわりに「自決用の毒薬を渡す」というものである。ソクラテスはドクニンジンの杯を煽った。また朝鮮で「賜薬(しやく、あちらではサヤク)」といえば王が臣下に「自決せよ」という意味で下賜する毒薬のことであったという。
また、「切腹」なる高度(?)な儀式にいたっては日本で「名誉の」という言葉で形容することもあったそうな(いっぽうの斬首は、不名誉とされた)。……どいつもこいつも、人道があるのかないのか、よく解らない話ではあるが。
かつて私が「一番冷たい」と感じていた(このほど「二番目に後退した」)のは、キリスト教会における自決者の取り扱いである。……基本的に、地獄いき。しかも、普通は、墓地に入れてもらえない。というのも、自決といえば「生めよ〜」云々を命じた神様に反する大罪であるから。
キリスト教徒のイギリス人ギルバートとサリバンが「オアソビ」でオペレッタ「ミカド」を作ったとき、悲しいかなヴィクトリア朝のイギリス人に「日本では切腹という死刑がある」ということを軽視した。ココなる死刑執行卿にかようなセリフを言わせている。
「自決はできぬ、自決は大罪だから」……そのココなる人物が「安物仕立て屋」という町人の出であるということを度外視したとしても「自決=大罪」というキリシタンな発想が当時の日本人にできるはずなかろう、ということをドシロウト・三文作家には解らないものである(それは今日の日本人にも言えることである)。
(このほど)私が「一番冷たい」と感じたのは、浅田次郎「椿山係長の七日間」の中の自決者に対する取り扱いである。
この小説の中で、亡者たちは「中陰役所」なるお役所で審査のうえ極楽浄土、まれに地獄いきという行き先振り分けが行われる。ところが。
「(自決者については)人生のリセットをしていただきます。要するに「自決しても、彼岸側で受け入れを拒否、『人生をやりなおせ』、ただし、『状況は、自決前よりも悪くしてやるぞ』……」ということである。
しかも、より厳しい人生の、ですね」
これを冷たいと言わずして何というのか?自決には習慣性があるという。つまり、自決に失敗すると「再チャレンジする」傾向があるそうな。……ということは、だ。この「自決=厳しい方向でリセット」すると、
「椿山係長の七日間」のテーマは、実は「親子」である。「親としての子供に対する感情、子供が親に向けてほしい感情」を描いてあると理解できる。作家自身が親であるかどうかを忖度するまい。チャイコフスキーのとある交響曲に「親から子への感情が託されている」とする解説者もいるが、チャイコフスキーが親にならなかった(一時期結婚はしていたが)のは周知の事実である。つまり、「演技をする・作品を作る」ために実体験をする必要はない。
ということで、「椿山」に戻るが、この「自決リセット」は、浅田の願望に他ならない。
「どんなことがあっても、自決などしてくれるな、それが親の願いだ」という。そういう願望を表現しようとしたのであるが、見てのとおり、アラばかりで、失敗しているとしか言いようがない。惜しい。しかも、ストーリー的には「中陰役所の待ち合い室」を列挙・紹介的な描写にとどまるので、むしろ不要なシーンと言ってもよいぐらいである。