聖母マリアの讃歌 Op97
─── なあ、旅から戻ったらどうする?
そういわれて…僕はすぐに答える事が出来なかった。
長かった旅が終わった。
この旅の目的であった牛魔王の蘇生実験を中止させることに成功し、僕らはまた長安に向かって進んでいた。
これからどうする…なんて考えていなかった。
あまりにも旅が長すぎたから。
旅に出る前、一体毎日何を考えて、何の為に生活していたか忘れてしまった。
これから僕は何の為に生活していくのだろう。
「まだ分かりませんよ。
…悟浄はどうするんですか?」
「…俺も分かんねえ」
そう言ってお互い見つめ合ったら、なんだかとても可笑しくて二人で吹き出してしまった。
「ま、何するか決まるまでまたアソコで二人で暮らすか」
「そうですね」
そう…とりあえずは帰ろう。
あの家に帰る事を目的に……。
「今日も良い天気ですねぇ」
洗濯物を干しながら八戒はそう呟く。
今日は本当に良い天気だ。洗濯物も良く乾くだろう。
……あれからまた前と同じように生活をしている。
あくまでも『同じように』なだけで同じではない。
一度過ぎてしまった時はもう戻らない。
いくらあの頃と同じように生活をしても、心の中は全く違う…。
特に悟浄は…。
「八戒…はよ…」
「あ、おはようございます」
突然後ろから声をかけられ、八戒はびっくりしながら振り返る。
そこには寝起き姿の悟浄。
「ごはん食べますよね。今コーヒーいれますから」
そう言って悟浄の横をすり抜け家の中へ入る。
悟浄の顔が見づらかった。
─── 今僕はきちんと笑えているんでしょうか……。
「はい、悟浄。パンはもう少しで焼けますから」
そう言いコーヒーを手渡す。
「サンキュ」
悟浄はそれを受け取り一口飲むとカップをテーブルに置く。
そして何か少し考えてからゆっくりと口を開く。
悟浄の口からその言葉が発せられる前から、八戒は悟浄が何を言うか分かっていた。
この家に戻ってから一ヶ月…。
その間に何度交わされたか分からない会話だから。
「…八戒。お前さ、いつまでこの家にいる?」
「またその話ですか」
八戒は笑顔のままそう返す。
本当に何度この会話をすれば良いのだろう。
「そんなに僕に出て行って欲しいんですか?」
八戒はわざと少しふざけた口調で言う。
冗談な雰囲気でこの話を終わらせてしまいたいから。
「そういうワケじゃねえけど…。お前だってもういい年なんだし…結婚とかあるだろ?」
結婚…。
旅に出る前なら『結婚なら貴方の方が早いんじゃないですか?』って返す所だけど、その言葉は今では言えない。
あの旅で…ニィ健一が言っていた…。
『禁忌の者に生殖能力はない』と…。
別に子供が作れないから結婚が出来ないという訳ではないが…でも悟浄はこの先結婚はしないだろう。
それは何となく感じ取れていたから、だから八戒は悟浄にそう言えなかった。
「結婚なんてまだ考えていませんよ」
だから笑顔でそう言った。
でも悟浄には八戒の考えていることが伝わってしまったらしく、少し俯く。
「俺の事だったら気にすんなよ。俺は一人でもやってけるし…」
「…悟浄…。本当にまだ結婚とか考えていませんから。今の生活が好きなんです」
その言葉に嘘はない。
本当にこの生活が好きなのだ。
こうして悟浄と二人で暮らしている時が…。
でもその生活には何の目的も未来もない。
ただ一緒に居たいという気持ちだけでずっとこの生活を続ける訳にはいかないだろう。
いつまでもこの場所に止まり続ける事は出来ない。
「じゃ、俺ちょっと出かけてくるわ」
「はい、いってらっしゃい」
この時間はいつ崩れてしまうのだろう。
「あれ…雨が…」
昼間はあんなに晴れていたのに、夕方から広がり始めた雨雲はあっという間に空を覆っていった。
そしてついに雨が降り出してしまった。
昼間はあんなに晴れていたから、勿論悟浄は傘なんて持っていってはいないだろう。
『ちょっと出かける』そう言って家を出たのだから夕飯までには帰って来るつもりだったのだろう。
まあ、この雨だからどうするかは分からないけど。
「どうしましょうねぇ」
とりあえずそう言ってはみたものの、まさか傘を持って迎えに行く訳にもいかないし…。
まあ、自分にできる事といえば、玄関にぞうきんとタオルを用意して、お風呂を沸かして、あとは暖かい飲み物がすぐ作れるようにお湯を沸かしておくぐらいだろうか。
そんな事をしている時、玄関で大きな物音がする。
「悟浄、帰ったんですか?」
やかんの火を一旦消し止めて玄関へと向かう。
「悟浄?」
名前を呼んでも返事はない。
でもじっと玄関に立ちつくしているのは紛れもなく悟浄だ…。
何かを抱きしめたまま悟浄は俯いている。
その肩は小さく震えていた。
「……悟浄、そのままでは風邪をひいてしまいますよ」
八戒はタオルを手に取ると、そっと悟浄に近づきずぶぬれの体を優しく拭く。
その時、水滴に血が混じっていることに気付く。
「……んでだよ……」
これほど近くに寄っていなければ聞こえなかっただろうと言うぐらい小さな声で悟浄が呟く。
「……え…?」
聞き返そうと、悟浄を覗き込もうとした時、それは八戒の目に入った。
悟浄の腕に抱かれている…小さな…赤子。
「…悟浄…」
「なんで、んなメにあわなきゃならねえんだよ!」
先ほどとは比べものにならない程大きな声で悟浄が怒鳴る。
その声にそれまで眠っていた赤子が目を覚まし泣き始める。
その時開かれた瞳の色は…血のような紅。
そして悟浄の上着にくるまれたその隙間から見える髪の色も…瞳と同じ紅。
それが意味するものは……。
「悟浄、ずぶ濡れのままでは風邪をひきますよ。お風呂沸いていますから入ってきてください」
ゆっくりと顔を上げる悟浄の腕からそっと赤子を抱き上げる。
「ね…悟浄…」
優しく微笑む八戒に悟浄は小さく頷くとそれに従った。
「……落ち着きましたか?」
八戒は風呂から上がった悟浄にコーヒーの入ったカップを手渡す。
「……あぁ」
悟浄の様子は八戒の目から見ても随分と落ち着いたように感じられた。
しかし、まだ考え込むようにじっと俯く。
一体何があったのだろう。
「悟浄、傷口手当てしますよ。少ししみますけど我慢して下さいね」
「………わり…」
八戒はそっとなるべくしみないように気を遣いながら傷口を消毒している。
傷はどれも殴り合ったりしたような物ではなく…何かをぶつけられたという感じだ。
おそらく石か何かをぶつけられたのだろう。
誰が何のために……?
「…………」
八戒はそっとベッドに眠る赤子を見る。
紅い瞳、紅い髪…それは禁忌の子の証。
妖怪と人間の間に生まれた混血児。
不幸を呼ぶと言われ、忌み嫌われる者…。
一体何があったのかは大体予想は付く。
「悟浄…何があったのかを聞いても良いですか?」
それでも悟浄の口から聞きたかった。
……真実を。
「あの子供は…殺されるところだった。……ただ禁忌の子供だと言うだけの理由で。親だって、その子は殺されて当然だって目で見ていた!自分の子供だというのに…」
聞こえるか聞こえないか分からないくらい小さな声になる。
いくら妖怪への負の影響が消え前と同じになったところで一度定着してしまった妖怪への恐怖は消えない。
そして禁忌の子供は、今まだ忌むべき存在とされている。
それはいつまでたっても変わらないのだろうか…。
「それでこの子はどうするんですか?」
「……どうすればいいかなんて…分かんねえ。ただコイツが殺されるって思ったら体が動いてた」
そう呟く悟浄に八戒は小さく笑う。
「貴方って後先考えずに行動する人ですよね」
八戒は笑いながらそう言う。
それは悪口でも何でもない。
理屈も何も考えなくてもすぐ行動できる、それが悟浄の優しさだと分かっているから。
そんなところを羨ましいとさえ思う。
自分が同じ立場だったら…同じように行動出来るだろうか。
自分なら……。
「この子、僕が育てちゃ駄目ですか?」
「八戒…」
「孤児院に預けても幸せになんてなれません。だから僕がこの子を育てます」
眠っている赤子を八戒はそっと抱き上げる。
まだ腕の中にすっぽりと収まってしまうぐらい小さな子供…。
この先、生きていくのに親も愛してくれない。
誰も愛してくれない…。
それはまるで昔の自分の様だった。
…だから…愛してあげたい。
「いや、俺が拾って来たんだから、俺が育てるよ」
「貴方一人で子供は育てられませんよ」
悟浄は少し考えるように俯き、それからまっすぐ八戒を見る。
「じゃあ…一緒に育てよう」
本当はずっとその言葉を待っていたのかもしれない。
一緒に暮らしていける理由が欲しかった。
勿論それだけの理由で子供を育てると言ったわけでは無かった。
でも…これでまた悟浄と一緒にいることが出来る……。
「僕たちこの子の親になるんですね」
こうして一人の子供を育てる事になった。
それは…作ることの出来ない自分の代わりに…?
それとも……愛されなかった自分の代わりに……?
「お前ら正気か?」
突然来訪したかと思えば、禁忌の赤子を連れて『育てる』と言った二人に三蔵はそう返す。
「正気ですし、本気です。
僕らは二人で…どこか三人で平和に暮らせる場所でこの子を育てます」
八戒はキッパリとそう言う。
その様子に三蔵は呆れるようにため息を吐く。
止めたところで聞かない事ぐらいは分かっている。
「わー、すげーカワイイ。俺も一人ほしー」
八戒の腕に抱かれ、スヤスヤと眠る赤子を見て悟空は嬉しそうに言う。
「馬鹿。赤ん坊は犬や猫じゃねえんだぞ」
三蔵は悟空にそう言ってから、もう一度八戒と悟浄の方を向き直り強く言う。
「赤ん坊は犬や猫じゃねえ…分かってんだろうな」
犬や猫とは違う…。
簡単に拾い育てるという訳にはいかない。
それが禁忌の子であるなら尚のこと…。
「分かっています…」
八戒はまっすぐ三蔵の目を見てそうとだけ言う。
子供を育てるのが簡単な事でないのは分かっている。
生まれた時から…生まれる前から世に疎まれていた子供…。
それでも幸せにしたい。
それは自分の姿に重ね合わせているのかもしれない。
「分かった。それなら俺はもう何も言わん」
三蔵はそれ以上何も言わず、八戒たちの方を見ようともしなかった。
「はい…。住む所など決まりましたらまた連絡します」
八戒もそれだけを言い、三蔵の元を後にした。
もう迷わない…。
決めたのだから。
その本当の理由が何であっても…。
幸せになりたいという想いだけは変わらない。
「お前、本当に良かったのか?」
家の物をすべて引き払い、必要最低限の小さな手荷物だけを持ち悟浄は言う。
毎日生活していた部屋は何も無くがらんとしていて、まるで見知らぬ部屋の様だった。
旅に出る前も同じように荷物を持ってこうして家を見た。
その時とは違う……。
あの時は『また此処に戻ろう』という気持ちがあった。
でも今度はもう此処へは戻らない。
新しい生活を始めるために…。
「後悔はありませんよ」
自分に言い聞かせるように八戒は言う。
もう此処へは戻らない。
過去を捨てて未来を手に入れる為に。
新しい幸せに進む為に。
「悟浄、この子の名前決めたんです。
『幸永』です。幸せが永遠に続くようにと…」
そうして始めた旅は決して楽なものではなかった。
「…ここの宿も駄目でしたよ」
各地に広がった妖怪たちの暴走…。
それは治まっても、人々が抱いた妖怪への恐怖などは消えなかった。
まして禁忌の者に対しては…。
それは何処の街でも同じだった。
『悪いけどウチでは泊めれない』
何処の宿をあたってもそう言われる。
『早くこの街から出てってくれ』
そう言われる事さえ珍しい事ではなかった。
「ごめんな…八戒」
悟浄は俯き辛そうな声で呟く。
色々と責任を感じているのだろう。
自分のせいで、そして自分が連れてきた子供のせいで八戒が苦しんでいる事に。
「悟浄…大丈夫ですよ。
だから…」
だからそんな顔しないで下さい…。
そう言うはずの言葉はだんだんとかすれて消えていく。
今の状態が苦しいわけではない。
自分も決して幸せに育ってきた訳では無いから、だからそんなに辛い訳ではない。
でも苦しそうにする悟浄を見ているのは辛かった。
その日はかろうじて一件の宿で部屋を貸してもらえた。
しかし部屋を貸す条件として、今日一日決して部屋からでず、明日朝一にこの街から出て行くようにと言われた。
妖怪が…禁忌の者が泊まっているなどと知れたらイメージが悪くなる。
更に他の客に不快感を与えるからだろう。
それでもその条件を呑むしかなかった。
悟浄と八戒だけであれば野宿でも構わない。
しかしまだ幼い幸永はそう言うわけにはいかないだろう。
この先…本当に旅を続けて行くことが出来るのだろうか…。
そして、三人で幸せに暮らせる所なんて有るのだろうか。
そんな不安が八戒の胸の中に広がる。
それは悟浄も同じだろう…。
それでもお互いその事には触れずただ静寂だけが二人の間を包む。
特にする事もなく、また部屋から出る事もできずにただ時間だけが過ぎていく。
会話もなく、時間の流れがはっきりとしない。
だが部屋の日の光で随分の時が流れた事はわかった。
「電気、つけましょうか…」
苦しいほどの沈黙の中、ゆっくりと八戒がそう言い部屋に明かりを灯す。
それでも悟浄は顔を上げず、俯いたままだった。
「…あの、ちょっと早いですけど夕飯にしましょうか。
と言っても、出来合いの物しかありませんけどね」
八戒は無理に笑顔を作り悟浄に言うが、悟浄は何の反応も示さない。
「…悟浄…」
心配そうにゆっくりと悟浄に近づく。
その悟浄の頬を一筋の涙が伝う。
「…なあ八戒…。
俺は生まれてきちゃいけなかったのか?俺も幸永も、この世には必要とされていないのか…?」
苦しそうに…絞り出すように悟浄はそう言う。
そんな悟浄を八戒はそっと抱きしめる。
胸が苦しい…。
悟浄の苦しさが伝わってきて、胸が苦しい。
「悟浄…僕が必要としています。
それでは駄目ですか?」
悟浄の耳元で八戒がそう囁く。
「八戒…」
「僕は貴方に会えて良かったと思っています。
貴方に会えなかったら…今の僕はいません。
貴方がこの世に生まれてきてくれて…良かったって思います。
……貴方の事……愛しています」
そう言葉を並べる間に八戒の瞳からも涙がこぼれる。
涙はどんどんと溢れて止まらない。
何故こんなにも涙が溢れるのかわからない。
でも何か、とても苦しくて…辛くて…悲しくて……。
胸が張り裂けそうだった。
「それでは駄目ですか?貴方が此処に居る理由にはなりませんか?」
涙を流しながら、訴えるように、責めるように言う八戒を悟浄は自分の方に抱き寄せる。
「十分だよ…サンキュ…」
そのまま二人は互いを求め合った。
それは求めるというよりも確かめあう、と言う方が正しいのかもしれない。
相手が此処に居る事を…。
相手を必要としている事を…。
自分が此処に居る事を…。
自分が必要とされている事を……。
「これから先もさ、辛い旅になると思うけどさ。…それでもまだついて来てくれるか?」
そっと確かめるように言う悟浄に八戒は優しく微笑む。
「当たり前じゃないですか。
これからもずっと貴方について行きますよ」
「サンキュ。…悪かったな、俺のせいでこんな事になってさ」
悟浄のその言葉に八戒はゆっくり悟浄を抱き留める。
「…本当は僕、嬉しかったんですよ。これでまた…この先も貴方と一緒に居ることが出来るって」
「…そっか。これからもよろしくな」
「ええ」
そういって微笑む二人には、もう迷いはなかった。
互いを、自分を見つける事が出来たのだから……。
八戒は少し顔をしかめ頭を押さえる。
…少しまずいような気がする。
あまり足場の良くない山道では少し気を抜くだけでも危険だ…。
旅の続きはやはり辛いものだったが、それでも二人は支え合いながら進んできた。
それでも疲労は少しずつ溜まっていき、ほんの少しの事で病気を引き起こす原因となる。
「…………」
押さえた額は熱っぽかった。
先ほどから頭痛どころか目眩まで起き始めている。
それでも腕に幸永を抱いているのだから倒れる訳にはいかない。
八戒は必死に一歩一歩強く踏み進んでいく。
手に汗が滲み出ているのが分かる。
地面についているはずの足の感覚も鈍い。
ただ腕に抱いた幸永の感覚だけがはっきりとしている。
「八戒、大丈夫か?」
八戒の様子に悟浄が気づき心配そうに声をかける。
でもそんな悟浄の声すら遠くはっきりとしない。
「少し休むか?
…八戒…おい……」
悟浄が八戒の腕から幸永を抱き上げた瞬間、八戒の視界から光が消え闇へと落ちていった…。
「…ん……ここは…?」
八戒が目を覚ますとそこは見知らぬ部屋だった。
ゆっくりと起きあがり窓の外を見るがその景色に見覚えもない。
のどかに広がる自然…。
ここは一体どこなのだろうか。
「お、八戒。気がついたか?」
「悟浄…」
扉を開き悟浄が部屋へと入ってくる。
その腕には幸永が抱かれていた。
幸永が無事である事に八戒はほっと息をつく。
「おや、気がついたのかい?」
悟浄に続き、一人の中年の女性が部屋へと入る。
「熱は下がったみたいだけど、まだ寝てた方がいいよ」
優しい口調でそう言い八戒をベッドへと戻す。
「あの…ここは…?」
「お前が倒れた場所のすぐそばに村があったんだよ」
悟浄の言葉に八戒は不思議そうな顔をする。
毎日出かける前には地図の確認をしている。
しかし山を越えるまでは村などはなかったはずである。
そんな話も聞かなかった。
「この村はあまり誰にも知られないようにしているからねぇ」
八戒の心情を察してか、女性がそう言う。
そう言う女性の顔はどこか悲しげで『何故』と聞くことは出来なかった。
「…体調が整うまでこの村でゆっくりしていきなさい」
「…でも…」
女性の優しい言葉に八戒はふと今までの村で言われ続けた事を思い出す。
例えこの女性がそう言ってくれたとしても他の村人がなんと言うかは分からない。
そうなればこの女性にも迷惑がかかるだろう。
八戒の考えている事を察してか、女性は優しく微笑む。
「大丈夫よ。
この村の人達は誰も貴方達を咎めたりしないから…」
その言葉は本当だった。
村人たちは悟浄の姿を見ても、幸永の姿を見ても何も言わなかった。
それどころか普通に声を掛けてくれる。
そんな事はこの旅を始めてから初めての事だった。
「もう体調もすっかり良くなったみたいね」
劉は八戒に着替えを手渡す。
「ありがとうございます。
長い間お世話になってしまって…」
八戒はそう言いながら少し視線を落とす。
また旅に出れば辛い仕打ちをうける事になるだろう。
少しの間でも優しくされた分だけこの先が余計に辛くなる…。
「この先は何処へ向かうの?」
「…特には決めていません。
ただこの子と平和に暮らせる街が見つかればと…」
八戒はそっと幸永を抱きしめる。
そんな街が見つかる保証はない…。
それでも探し続けなくてはならないから…。
「だったらこの村で暮らさない?」
「え…でも……」
劉の言葉に八戒は口ごもる。
この街で暮らす…。
それが出来れば……。
「この村はね、過去に何かしら傷を負った人たちの集まりなの」
躊躇する八戒に劉はゆっくりと言う。
「貴方たちもそう…なのよね…?
でもこの村の人たちは誰もそれを問いただしたりはしないわ。
それが暗黙のルールなの」
「…………」
「逆に言いたくなったら誰にでもいいなさい。
誰もそれを咎めたりはしないわ」
ゆっくりと、優しい口調に八戒の瞳から涙が零れ落ちる。
心に暖かさが広がっていく。
過去の傷がゆっくりと癒される様だった。
「僕たち…ここに居ていいんですか?」
「ええ…、歓迎するわ。
ようこそこの村へ…」
─── …そうして僕たちはこの村に住むことになりました。
村の人たちはとても優しくまるで昔から此処にいたような気分になります。
そうそう、信じられない事に悟浄はまじめに働いています。
それも村の畑仕事や木こりの仕事を手伝っているんです。
昔の生活からは信じられない感じです。
でもそんな生活で今……
「風呂あがったぜ。
…何してんだ?」
急に後ろからかけられた声に、八戒は驚き慌てて手元の手紙を隠す。
「手紙?」
「ええ、三蔵たちに住む場所が決まったことを連絡しようと思って…」
「そっか…」
この村は長安から離れすぎているから直接知らせる事は出来ない。
だから、もう手紙でしか連絡はとれない。
「で、ほかになんて書いたんだ?」
悟浄が八戒の手から手紙を取ろうとするが、八戒は慌ててそれをしまい込む。
「なんだよ、俺にみられちゃまずい?」
八戒の態度に悟浄は少しすねたようにそう言う。
「ええ、貴方の悪口をたくさん書いたから見せれませんよ」
八戒はくすくすと笑いながらそう言い手紙を封筒の中に入れる。
悟浄は八戒につられる様に笑い、それからゆっくりと八戒を抱きしめた。
「幸永が大きくなったらさ、また旅行ついでにでも長安に行こうぜ」
「…ええ」
それから平和な時が流れた。
何事もなく平和な日々…。
ずっと望んでいたもの……。
「「ただいまー」」
「お帰りなさい悟浄、幸永。
一緒だったんですか?」
二人そろって帰ってきた悟浄と幸永にそう声をかけ、それからあきれた様にため息をつく。
「おれ、ごじょーの仕事終わるまでまってたんだー」
服も体もドロドロに汚しながらもニコニコと言う幸永に八戒は洗濯物の中からタオルを取り手渡す。
「それは偉かったですね…。
もうすぐ夕飯できあがりますから、それまでにお風呂入ってきちゃってくださいね」
「うん、ごじょーも一緒にはいろー!」
そう言い悟浄の手を掴んでお風呂へと向かう。
そんな様子を八戒は笑いながら眺める。
ずっとこんな生活を望んでいた。
こんな家族を求めていた。
それがやっと手に入った…。
「味付け丁度いいですね…」
さっと料理の味見をして火を止める。
それから出来上がった料理を三人分に分けてテーブルに並べる。
たったそれだけの事なのに嬉しくて仕方がない自分がいる。
家族の分の食事を作ること。
家族で食事を食べること。
家族の分の洗濯をすること。
家族で寝ること。
…すべてが幸せだ。
お風呂ではしゃぐ二人の声を聞くだけでも、どうしようもないぐらいに顔がゆるんでしまう。
「もー、いつまでお風呂で遊んでるんですか?
夕飯冷めちゃいますよ」
…この幸せがいつまでも続けばいい……。
その平和な時が揺らいだのはそれから数年後…幸永が十歳になった時だった。
『学校に行きたい』とい幸永の一言から始まった。
この村には学校はなく、村の子供たちの勉強は八戒と元教師であった一人の女性で見ていた。
幸永もそうしていたし、不満があるようには見えなかった。
「学校…ですか」
突然の事に八戒はとまどいを隠せなかった。
学校に行くという事はこの村から出るという事を意味する。
「学校は山のふもとまで行かないとないですよ。
遠いですよ。歩いていくと一時間以上かかりますし…」
本当の理由ではない、それらいい事を少し困った表情で言う。
それで幸永が諦めてくれればよいが…。
「遠くてもいい。
一時間でも二時間でも歩く」
強くそう言う幸永に八戒はため息をつく。
「どうしても行きたいんですか?」
「うん。村には同じぐらいの子あんまりいないし…。
他にも同じ年の子と勉強したり遊んだりしたいんだ」
確かに村にいる子供は少なく、幸永よりも大きい子ばかりだ。
同い年の子と過ごしたい気持ちも分からなくはない。
しかし……。
「分かりました、とりあえず悟浄と相談してみます」
「どうしましょうね…」
いきさつを悟浄に説明し、再びため息をつく。
この先村から一歩もでないで過ごすことは出来ない。
それは分かっている。
それでも、この村に来るまでの…旅の間の事を思い出すと躊躇してしまう。
あんな思いを幸永にさせたくはない。
「悟浄はどう思います?」
「…俺としては、まあアイツが町の学校に行きたいっていうならそれを叶えてやればいいと思う。
子供同士ならそう滅多なこともないだろう」
「そうですか…」
悟浄の言葉に八戒はため息をつき俯く。
そんな八戒を悟浄はそっと抱きしめる。
「……大丈夫だって。
アイツならちゃんとやっていけるさ。
信じてやろうぜ…俺たちの息子を」
「…気をつけてくださいね…」
「うん、いってきますー♪」
ニコニコと学校を出る幸永を八戒は笑顔で見送ることが出来なかった。
本当なら幸永と一緒に喜んでやりたい。
でも心の隅にある不安がそれを阻んでいる。
何事もなければいいのだが…。
「大丈夫だって」
不安そうにする八戒に悟浄がそう声をかける。
「そう…ですよね。
信じなくてはいけませんよね」
幸永は大丈夫…。
きっと外の世界でもやっていく事ができる。
そう心の中で強く信じた…。
「ただいま!」
元気よく扉をあける幸永に八戒は今日初めて笑顔を漏らす。
「学校はどうでしたか?」
「すっごい楽しかった。
俺と同じ年の子がいっぱいいて、みんなで遊んだ」
ニコニコと話す幸永の前に八戒は作りたてのおやつを並べる。
幸永は『いただきます』と言っておやつのホットケーキにすぐ手をつける。
そしてホットケーキを頬張りながら今日の出来事を細かく八戒に伝える。
「明日も学校楽しみ」
そう言う幸永に八戒も微笑む。
なにも心配する事はなかった。
すべて自分の思い過ごしだったのだ。
こうして、少しずつでも人間と妖怪を隔てるものが無くなっていけば、そうすればもっと未来は変わっていく。
幸永が将来すごしやすい世界になるだろう。
普通の町で暮らして行くことも可能になる。
…幸永の未来も広がる。
そうなればいい…。
幸永がその為の橋渡しとなるだろう。
そうなる事をそっと祈る。
幸永に希望を託して……。
でも、やはり直ぐには何も変わらない。
それを思い知らされたのは数日後の事だった。
「幸永…どうしたんですか?」
いつもなら元気いっぱいに帰ってくる幸永の様子がいつもとは違っていた。
ゆっくりと扉をあけ、家に入って来た幸永は傷だらけだった。
その顔は泣きはらし真っ赤になっている。
「直ぐに手当をしますから」
慌てて救急箱を取りに行こうとする八戒の背中に幸永はすがりつく。
震える小さな手で八戒を必死に掴む。
「…八戒……。
おれ、いらない子なの…?
おれ、生まれてきちゃいけなかったの?」
恐れていた事が起きてしまった。
八戒は俯きぐっと唇を噛みしめる。
やはり幸永を村からだしてはいけなかったのだろうか。
後悔が八戒の胸の中を渦巻く。
「幸永……」
「八戒…八戒……」
泣きじゃくる幸永を八戒は抱きしめる。
こんなに小さいのに…。
この子はどんなけ傷つけられたのだろうか。
自分がもっとしっかりしていればこんな事にならなかったかもしれない…。
『俺たちの息子を信じようぜ』
八戒の頭の中に悟浄の声が響く。
ああ…そうだった。
信じよう…そう決めていたではないか。
「幸永、落ち着いてください。
…僕と少し話しをしましょう」
「まず何があったのか話してもらえますか?」
幸永の傷の手当てをし、居間のソファに座らせる。
そして目の前にホットミルクの入ったカップを置く。
幸永はカップを手に取り一口飲むと、ゆっくりと口を開く。
「今日学校でさ、イヤなやつがさ、こういったんだ。
お前は捨てられた子だ。生まれてきちゃいけかったから捨てられたんだ、って…。
捨てられたヤツなんて人間以下だって言っておれを何人かで殴ったんだ。
おれ、すっごいくやしくて…そいつ殴ったんだ。
そしたら、そいつバランス崩して窓に向かって倒れ込んで…。
それでそれでガラスが割れてさ……」
だんだん話しているうちに幸永の瞳から涙がこぼれおちる。
八戒は幸永を抱き寄せそっと背中をさすってやる。
「それで、その子は怪我をしたんですか?」
八戒の言葉に幸永は涙を浮かべながらも首を縦に振る。
「ちょっとガラスで切っただけで、そんな大したこと無かったんだけど、そいつ言ったんだ。
お前はやっぱり呪われた禁忌の子だ。って…。
こいつがいると不幸が起きる。って。
……おれがいるとみんな不幸になるの?
おれ、いちゃいけないの?
おれ…………」
泣きじゃくる幸永を八戒は落ち着くまで優しく抱きしめる。
そして呪文のように何度も『大丈夫ですよ』と繰り返す。
「ねえ幸永、僕の話を聞いてくれますか?」
ようやく泣きやんだ幸永はゆっくりと頷く。
「確かに、僕と悟浄は捨てられていた貴方を拾いました。
でもそれは、本当に嬉しいことだったんですよ。
貴方に出会えて本当に良かったと思います」
ゆっくりと優しく微笑みながら八戒は幸永にそう言う。
「でも、おれ禁忌の子だもん。
おれといるとみんな不幸になるんだ」
それでも幸永は俯いてそうつぶやく。
「人ってね、とっても弱いんです。
弱いから、不幸とか悪いことをみんな何かのせいにしないとやっていけないんです。
だから本当に幸永といると不幸になるわけじゃないんですよ。
だって悟浄だって禁忌の者なんですよ。
幸永、悟浄といて不幸ですか?」
「ううん、そんな事ない。
悟浄といるととっても楽しくて…幸せだよ」
「そうですよね。僕も幸せです。
幸永と居るときも幸せですよ」
そう言って微笑むと幸永もつられるように笑う。
「だからね、そんな事いう弱い子のいう事なんて気にしなければいいんですよ。
何言われたって無視しちゃえばいいんですよ…。ね?」
「うん」
幸永は強く頷く。
「…だから、もうこんな事で喧嘩しないでくださいね。
幸永が怪我したり傷ついたりすると、僕も悟浄もとても悲しいですから。
だから、約束してくださいね」
「うん…」
幸永はもう一度大きく頷く。
「怪我させちゃった子にも明日ちゃんと謝るんですよ」
「……うん」
今度は少し力無く、小さく頷く。
自分の事を悪く言った者に謝るのだ…。
もしかしたら、また何か言われるかもしれない。
そんな考えが幸永の頭の中を回る。
「ねぇ、幸永。魔法のおまじない教えてあげますよ。
困ったり、くじけそうになった時に思い出してくださいね。
『僕も悟浄も幸永の事、誰よりもあいしてる』ってね……」
その言葉に幸永はにっこり笑って、今までで一番大きく頷いた。
「ほら、早くしないと遅刻しちゃいますよ」
「…うん。行ってきます」
幸永は朝食の残りを牛乳で押し込み立ち上がる。
そして鞄を手に取ると元気よく出かけていく。
あれから小さないざこざはある様だが、八戒との約束は守っている。
「ほんと、良い子に育ってくれましたね」
八戒は幸永の食器を片付けながら、まだ朝食を取っている悟浄にそう言う。
「そりゃ、母の力だろ」
「母っていうんですかね〜」
男なのに母でもないだろうと二人で笑う。
「さ、悟浄もそろそろ出かけないと」
そう言い時計を指さす。
時計の針はもう八時を指そうとしていた。
いくら職場がすぐそこだと言ってもいい加減出かけないとまずいだろう。
「はいはい、じゃあ行ってきます。お母さん」
からかうようにそう言い八戒の頬に軽く口づける。
「…もう…。行ってらっしゃい」
八戒は恥ずかしそうに笑い悟浄を見送る。
それからいつものように洗濯機を回しその間に食器を洗い台所をかたづける。
二人が出かけた家の中は静かだ。
子供が一人いるだけで生活は全然違う。
悟浄と二人で暮らしていたときと違って毎日がにぎやかだ。
そんな暮らしも今では日常になっている。
そんな時間が…好きだった。
にぎやかで楽しい家族の生活が…。
だからこうして家の中で一人になると少し寂しく思える。
もう一人では生活出来ないだろう。
家族の暖かさを知ってしまったから。
「今日も良い天気ですね」
洗い終わった洗濯物をもって庭にでると、まぶしい程の光が降り注いでいた。
こんなに良い天気なら洗濯物も直ぐに乾くだろう。
布団を干してもいい。
そんな事を考える。
そんな暖かな日に…あんな事が起きるなんて、きっと誰も考えていなかっただろう……。
昼過ぎ、村の私塾に一人の少年が駆け込んできた。
ずっと走ってきたのか大量に汗を流し、息も荒かった。
八戒はその少年に見覚えがあった。
前に一度村に遊びに来た幸永の友達だ。
「そんなに慌ててどうしたんですか?」
八戒はハンカチでその少年の汗を拭いながらそう訪ねる。
少年は瞳にうっすらと涙を浮かべながら八戒に縋り付く。
「……大変なんだ。
幸永が…幸永が………」
それから先の事はあまり覚えていなかった…。
突然の事に頭がついていかない。
理解できない…いや理解したくないのかもしれない。
「…………」
八戒は病院の廊下でぼんやりとしていた。
これは…本当に現実なのだろうか。
幸永が崖から落ちて大けがをしたなんて…。
今目の前で閉められている扉の向こうで手術が行われているなんて…。
……幸永が…助からないかもしれないなんて…。
…………現実なのだろうか…。
「八戒!」
連絡を受けた悟浄が病院へと駆け込む。
そして八戒に駆け寄る。
「……悟浄……」
悟浄の声に我に返り縋り付く。
「八戒、何があったんだよ…」
悟浄は八戒をそっと抱きしめる。
八戒はただ泣き続けるだけで何も言わない。
静かな廊下に八戒の泣声だけが響く。
まだ扉は開く気配を見せなかった。
「悟浄…」
悟浄はただ八戒を抱きしめ続ける事しか出来なかった。
それからどれだけの時が流れただろうか…。
日付が変わる頃、目の前の扉が開かれた。
「先生、幸永は……」
縋るように言う八戒に医者はゆっくりと顔を背ける。
「手は尽くしたのですが…」
小さな声で呟かれる言葉。
その言葉が何を意味するかなんて考えたくない…。
……信じたくない。
「幸永……」
それでも現実は目の前にある。
ベッドに横たわる幸永…。
小さな体の小さな頭には大量の包帯が巻かれていて苦しそうに呼吸を繰り返す…。
「……幸永」
小さく名前を呼び力なく置かれている手をそっと握る。
「…はっ…かい…?」
幸永はうっすら目を開き八戒を見上げる。
「はっかい…ご…めん……やくそく…やぶっ…て……」
途中何度も止まりながら、それでも八戒を見つめ必死でそう言う。
苦しいのに…それでも言いたかった言葉…。
破ってしまった約束を謝りたいと言う気持ち…。
幸永の言葉に八戒の瞳から涙がこぼれ落ちる。
こんな事になってしまった事情は伝えに来た少年から聞いていた。
最初に幸永が、禁忌の子である事や捨て子であった事を捨て子であったことを理由にいじめられてから、それからも頻繁にいじめにあっていた。
それでも、幸永は八戒との約束を守り相手にせずにいた。
でも今日は違っていた…。
今日もいつものようにいじめっ子が絡んできて、無視しようとした時言われた言葉が許せなかった…。
『お前の親、どっちも男なんだってな。
そーゆーのなんて言うか知ってるか?ホモってゆーんだぜ!』
「おれ…自分の事…なんて言われてもいいけど…八戒や…悟浄の事…悪く言われるの……絶対に許せなかった…」
そして取っ組み合いの喧嘩になって…足を滑らせて崖から落ちた…。
「ごめん…約束やぶって…」
「幸永…いいんです…謝らなくてもいいんです。
謝らなくてはいけないのは僕なんですから…」
自分が男だからこんな事になった。
自分が女で、きちんと幸永の母親代わりになれていたらこんな事は起きなかった。
自分のせいだ……。
「八戒…悟浄…、おれ二人の子供で…ほんと良かった…。
今まで…育ててくれてありがとう…。
生まれ変わっても…二人の子供になれるといいな……」
「何言ってるんですか…。これからも幸永は僕たちの子供です。
ずっと…ずっと…一生……だから……」
そんなお別れみたいな言葉は聞きたく無かった。
もうこれっきり会えなくなってしまうみたいで……。
「…ありがとう…お父さん、お母さん…」
そして幸永は明け方、静かに息を引き取った。
最初で最後の『お父さん』『お母さん』という言葉を残して。
親子の様に暮らしてはいたけれど、本当の父母ではないから。
『父』と呼ぶにも『母』と呼ぶにもおかしい関係だから、ずっと名前で呼んでいた。
それなのに…最後の瞬間、幸永はそう呼んだ………。
「八戒、飯作ったけど食うか?」
悟浄がそう声をかけるが八戒は俯いたまま無言で首を横に振る。
「少し食えって…。
幸永の葬儀終わってからロクに食事とってねえだろ。
そんなんじゃ…アイツ悲しむぞ」
その言葉に八戒の瞳に涙が溜まっていく。
そして溢れた涙は頬を伝い床へと落ちていく。
「ねえ、悟浄…。幸永は幸せだったんでしょうかね…。
たった十年しか生きることも出来なくて……。
…僕のせいで…あんな風に……」
あんな形で命を散らせてしまった。
とても優しい子だった。
辛かっただろうに最後まで自分らの事を気遣って…。
苦しかっただろうに最後まで笑顔をみせて…。
あんなによい子だったのに…何故死ななくてはいけなかったのだ。
自分がもっとしっかりしていれば…もっと気をつけてやればこんな事にはならなかったのに…。
「幸永……」
どんなに自分を責めても、どんなに後悔しても、もう幸永は戻ってこない…。
「八戒…、幸永は幸せだったと思うよ。
お前の愛情を受けて育ってさ、誰よりも幸せ者だったよ。
だから最後まで笑顔だっただろ。
最後まで一生懸命生きたんだ」
「…………」
そんな言葉を聞いても、それでも自分を許せなかった。
八戒は自分の机の引き出しから一枚のカードを取り出す。
そしてそれをゆっくりと開く。
『はっかい おたんじょうびおめでとう』
そうクレヨンで書かれていて、その下に折り紙で折った花が貼られていた。
去年の誕生日に幸永が八戒に送ったものだ。
八戒はその頃を思い出す。
毎日が楽しくて平和で…そんな平和が壊れてしまう事なんて考えても見なかった頃…。
他にも周りを見回せば幸永との思い出が鮮明に浮かぶ。
でももう幸永はいない…。
そんな幸せな時ももう二度と戻ってはこない。
これから自分はどうしたらいいのだろうか。
前にもこんな事を考えた…。
そう悟浄が幸永を拾ってくる前。
何をしたらいいか、何のために生きたらいいか分からなかった。
そして幸永と出会い道を見つけた。
今度はどこへ進んだらいいのだろうか…。
「…………」
─── 生まれ変わっても二人の子供になりたいな
そんな幸永の言葉が八戒の頭に響く。
「そう……そうですよね、幸永」
「おはようございます、悟浄」
「八戒…おはよ…」
その次の日の朝、久しぶりに台所に立つ八戒の姿があった。
驚く悟浄の前に八戒は朝食を並べる。
「心配かけてすいません。もう大丈夫ですから」
にっこりと微笑み悟浄の前に腰をかける。
「ねえ、悟浄…。
考えたんですけど、僕孤児院を作ろうかと思うんです」
「孤児院?」
突然の八戒の言葉に悟浄は聞き返す。
「はい。まだこの世の中には愛されない子供がたくさん居ますよね。
その子供たちが少しでも幸せになれるように…力になりたいんです」
もしかしたら、いつか幸永の生まれ変わりにも出会えるかもしれない。
そんな気持ちも込められている。
「…そっか。
お前がそう決めたんならそれでいいぜ。
俺も力になる。一緒に『親』になろうぜ」
もう迷わない。
何があってもこの道を進んで行く。
何があっても……。
「八戒ママー、早く早く」
たくさんの子供たちが八戒を呼ぶ声が響く。
「はいはい、直ぐにいきますよ」
町のはずれの小さな孤児院。
そこには今日も笑顔が溢れている…。