Trois veritables Preludes flosques Op91 八戒編




 ごく自然なことが、ある瞬間難しくなる。
 今まで何も考えずに出来ていたのに、考えてしまうと出来なくなる。
 考えれば考えるほど、泥沼の中で藻掻いているようだ。
 どんどんと沈んでいくだけ。
 そんな時…どうしたらいいのだろう。


「あっ……」
 泡だらけの手からカップが滑り落ちる。
 しまったと思ったときにはもう遅く、カップは音を立てて砕けていた。
「どうしよう」
 どれだけ後悔しても形を失ってしまった物はもう元には戻らない。
 ……このカップは特別な物だったのに。

 僕が斜陽殿からこの家に戻ってきたとき…。
 二人で街に必要な物を買いに出かけた。
『これ、お前に買ってやるよ。同居祝い』
 街外れの小さな雑貨屋で悟浄がそう言って手に取ったカップ。
 それが…何かとても嬉しくて……。
『じゃあ、僕もこれを貴方に買いますね』
 だから、僕も同じカップを悟浄に贈った。
 お揃いのカップ…。
 それから何時だって二人でお茶をするとき、このカップを使っていた。
 僕と悟浄を繋ぐ特別なカップだった…。

 今、目の前で砕けてしまったのは…その悟浄のカップだ。
 さっき昼食後にこのカップで一緒にお茶をしたばかりだったのに。
 そんな大切なカップを割ってしまうなんて…。
 後悔と悲しさで目頭が熱くなるのがわかる。
 泣きそうになるのをぐっとこらえる。
 泣いている場合ではないのだ。
 悟浄に謝らなくては…。
 僕はその破片を手に取ると居間にいる悟浄の元へ向かった。


 悟浄のところに着くまでの間…ほんの少しの時間なのに凄く長く感じた。
 色々な考えが頭の中でグルグルと回る。
 そして、心の中で『どうしよう』と『ごめんなさい』を何度も繰り返す。
 悟浄に怒られることが怖くて…。
 悟浄に嫌われることが怖くて…。
 身体中の血が下がり、手足が震えるのが判るくらいに。

 それなのに、悟浄から返ってきたのは意外な一言だった。

「いーって、そんなの気にするなよ」

 その一言は、怒られるよりも嫌われるよりも辛かった。
 『そんな物』なんですか?
 貴方にとって、あのカップは『そんな物』だったんですか?
 僕の一番大切な思い出ともいえる物が一瞬にして崩れた、そんな気がした。
「……八戒?」
 そんな言葉…聞きたくなかった。
 これ以上悟浄の言葉を聞きたくない。
 半ば逃げるようにして、僕は部屋を出た。


 ─── どうして?
 どうしてそんなことを言うのですか?
 ………悟浄?
 もう元には戻らないあのカップ…。
 そして今、自分の手の中に、悟浄の買ってくれたカップがある。
 あの砕けてしまったカップとお揃いの…。
 大切なカップ。
 いつもこれでお茶をしていた特別な物。
 でも……。

『そんな物』

 悟浄の言葉がずっと頭の中をまわる。
 もう、『そんな物』なのだ…。
 一つだけ残ってしまったカップ。
 『そんな物』はもう……。
 そっと手を離すと、カップは僕の手からするりと抜ける。
 そして床にぶつかり、音を立てて砕ける。
「そんな物は…もういらない……」


 ─── その時から二人の歯車は狂い始めた…。


 気まずい……。
 いつもは楽しい夕飯なのに、今日はとても息苦しい。
 あまりに苦しくて御飯が飲み込めないくらいに。
 食器の振れあう音だけが部屋の中に響き、静かさを強調する…。
 もう悟浄に対してそんなに怒ってはいない。
 確かに悟浄の発言は酷いと思ったし悲しかった。
 でも、今の状態の方が何倍も辛いし悲しい…そう思う。
「今日は何時に帰ってくるのですか?」
 この重苦しい沈黙を破りたくて必死で笑顔を作りそう訊ねる。
「さぁ、帰ってこねーかもしんねぇ」
 頑張って言ったことに対して、悟浄の答えは素っ気ない物だった。
 その口調から、悟浄が怒っていることが感じ取れる。
 どうして?
 僕の中でおさまっていた怒りが再びこみ上げてくる。
 何で僕がそんなふうに言われなくちゃならないんですか。
 人がこんなに気を遣って…貴方と会話しようとしているのに。
「じゃあ、戸締まりしておきますから鍵持って行ってくださいね」
 ……自分の口からもそんな冷たい言葉が紡ぎ出される。
 そんなこと言うつもりじゃなかったのに…。
 はっとしたときにはもう遅く…そのことを後悔するしかなかった。
「あぁ…じゃあ、出掛けてくる…」
 悟浄はそう言い、立ち上がると上着を持ち、部屋を出た。
 僕はそんな悟浄を見ることが出来ずに俯いたままだった。
 悟浄の声は先程の物とは比べものにならないくらいに…冷たかった。
 悟浄は本気で怒っていた…。
 ……自分が怒らせてしまったのだ。
 テーブルの上を見れば、殆ど手の付けられていない食事…。
 今まで悟浄が自分の作った食事を残すなんてこと無かったのに。
 目頭が熱くなり、視界がぼやけてくる。
「……悟浄のバカ」
 悟浄の残した食事と自分の食事をゴミ箱の中に放り込む。
 その上に溢れた涙が落ちる。
 何が悲しいのだろう…。
 あのカップを壊してしまったこと?
 悟浄があのカップのことを何とも思っていなかったこと?
 悟浄を怒らせてしまったこと?
 悟浄が僕の作った食事を食べてくれなかったこと?
 それとも…?
 何が原因なのかはもう判らなかった。
 ただただ悲しくて…いつまでも涙が止まらなかった…。


「……悟浄、遅いですね」
 時が経てば経つほどに怒りは薄れ、悲しみは増していく。
 静かな部屋は悲しい気持ちを何倍にもする…そう思える。
 広い部屋にたった一人。
 時計の音だけが部屋に響く。
 なんだか落ち着かない。
 時計に目をやれば、針は普段ならとっくに悟浄が帰っているはずの時間を指している。
 今日はもう帰ってこないのだろうか。
 最近は外泊することなんて無かったのに…。
 あと五分だけ…あと五分だけ悟浄を待とう。
 そう思ってから一体どれだけの時間が経ったのだろう。
 もうこれ以上悟浄を待っても仕方がない。
 きっとどこか女の人の所に泊まるのだ…。
「無駄になっちゃいましたね…」
 帰ったら食べるかも知れないからと作った悟浄の夜食。
 でも、必要なかったんだ…。
 ゴミ箱の蓋を開け、夕飯の残骸の上に夜食を捨てる。
 そして、その皿をきれいに洗うと食器棚に戻す。
 始めから何事もなかったかのように。
 そして電気を消すと自分の部屋に戻る。
 もう眠ろう…。
 何も考えなくても良いように……。
 そう思えば思うほど辛いことは次から次へと頭の中に現れてくる。
「……悟浄…」
 涙の混じった声が布団の中に吸い込まれていく。
 この声は悟浄の元には届かない。
 ……それと同じで、僕の気持ちも悟浄には届かないのだろうか。
 どんなにどんなに名前を呼んでも…。
「……バカ…なんでわかってくれないんですか…」


 体が重い…。
 結局あまり眠ることが出来なかった。
 身体がだるくて動くのが辛い。
 きっと目も腫れているのだと思う。
 それでも朝食の準備をするために台所に向かう。
「……あ…」
 昨夜寝る前に洗い物をしたのに流しにコップが置いてある。
 夜、帰ってこなかった場合には大概昼頃帰ってくるのに。
 それともあの後帰ってきたのだろうか。
 それならば起きていれば良かった…。
 悟浄に会いたい。
 悟浄の顔が早くみたい。
 もう、こんな状態は耐えられない。
 元に…今までの楽しい生活に戻りたい。
「今朝は悟浄の好きなベーコンとポテトのオムレツにしよう」
 楽しいことを考えよう。
 悲しみなんて消してしまうくらいに。
 今までの楽しかったことを思い出そう。
 それだけで幸せになれてしまうくらいに。
 順番に悟浄との楽しい思い出を頭の中に浮かべる。
 僕は悟浄が好き…。
 僕にとって、悟浄は『特別』だ。
 悟浄はいつも暖かくて、いつも誰にでも優しくて……。
「………」
 ふと卵をかきまぜる手が止まる。
 楽しいことだけを考えようとしているのに…。
 嫌な事なんて考えないようにって思っているのに…。
 それなのに……。
 僕にとって悟浄は『特別』。
 ……じゃあ、悟浄にとっては?
 悟浄は誰にでも優しいから…。
 だから…僕にいつも『好きだ』とか『愛してる』と入ってくれるけど、それは『特別』を指す言葉ではない。
 誰にでもそう言っているのかもしれない。
 『特別』だと思っているのは自分だけなのかもしれない。
 ……確かにそうなのだ。
 今まで何も疑問に思わなかったけれど、悟浄が自分のことを『特別』だと思っているなんて保証はどこにもないのだ…。
 ただ、自分がお互い『特別な存在』なんだって勝手に思っていただけ…。
 悟浄にとって僕は『特別』でも何でもない。
 だからあのカップだって『そんな物』なんだ…。
 馬鹿みたいだ…。
 一人で勝手に勘違いして、怒って、泣いて…。
 ホント…馬鹿みたい…。
「八戒、おはよ」
 突然背後から肩を叩かれビクッとする。
「おはよう…ございます」
 昨日とは全然違う…悟浄の笑顔。
 ずっと見たかった。
 ずっと求めていた笑顔なのに…僕は素直に喜べない。
 この笑顔を向けられるのは自分だけじゃない…。
 勘違いするな、と心の中で何かがそう囁く。
「八戒、元気ねぇじゃん。どしたの?」
「いえ…」
 必死に笑顔を作ろうとするのに上手く笑えない。
 どうしてだろう…。
「もう御飯出来ますから、座っていてください」
 すぐに悟浄から視線を逸らすとフライパンの上に卵を流す。
 落ち着かなくては…。
 次こそちゃんと笑顔を作ってそれで…。
 出来上がったオムレツを皿の上に移す。
 必死に笑顔を作りゆっくりと振り返る。
「…出来ましたよ」
「ベーコンとポテトのオムレツじゃん」
 てっきり座っているものだと思った悟浄は、まだ僕の後ろにいた。
 僕の手からオムレツの皿を取ろうとしたときに、悟浄の手と僕の手が微かに触れ合う。
 その瞬間、慌てて手を引いてしまう。
 きちんと掴まれていなかったオムレツの皿は、床へと落下して砕ける。
「あ…すみません……」
「八戒?熱でもあるのか?」
 悟浄の大きな手が僕の額に近付く。
 今度は逃げてはいけない…そう思うと身体に力が入ってしまう。
 今の自分はかなり不自然だろう。
「体調悪いなら休んでろよ。ここは俺が片付けておくからさ」
「すみません…僕、部屋に戻ってますね……」
 それだけ言うと、エプロンを外し部屋へと戻った。


 どうしてしまったのだろう。
 何故自分は悟浄にあんなにも過剰な反応をしてしまうのだろう。
 悟浄のことが怖い?
 確かに悟浄に触れられるのが怖かった。
 でも、どうして?
 理由もわからないのに…身体は悟浄を拒む。
 ……悟浄…怒ったでしょうか?
 せっかく優しくしてもらっているのに…。
 悟浄にとって、僕は同居人であり数多くいる恋人の中の一人なのだから。
 だからそんなに気にしないのでしょうか。
「あぁ、そうか…」
 自分は悟浄が怖かった…。
 悟浄に優しくされるのが怖かったんだ…。
 悟浄の優しさを『特別』だと勘違いしてしまうのが怖かったんだ。
 玄関の扉を開閉する音が聞こえる。
 悟浄…どこかへ出掛けたのでしょうか。
 他の恋人のところでしょうか…。
 胸が小さく痛む。
 悟浄が他の人に会うことを考えると…他の人に同じように笑いかけることを考えると胸が痛む。
 これは嫉妬?独占欲?


 夕方になっても悟浄は帰ってこなかった。
「また夕飯、無駄になってしまいましたね」
 一人で食事に手を付ける気にもならず、部屋に戻ろうかとした時、ある音が僕の耳に届く。
 それは始めは少しだったのにだんだんと増していく。
「……雨…?」
 窓を見ると打ち付けられた雨が硝子を伝って流れるのが見える。
 カーテンを閉めてしまおうかと思ったが、身体が動かない。
 ここのところ、雨に対してそこまで過剰な反応はしていなかった。
 だからずいぶん慣れたのだと思っていたけれど。
 そうではなかったのだ。
 思い起こせば…雨の日はいつも隣に悟浄が居た。
 悟浄が優しく抱きしめてくれて…優しい言葉をかけてくれた。
 ずっと一緒にいてくれた。
 だから雨の日でも平気だった。
 ……でも、今悟浄はここにいない。
「……悟浄…」
 どうしていないのですか。
 雨の日なのに…。
 雨の日なのにどうして側にいてくれないのですか?
「…悟…浄……」

 何時までも雨は降り続ける。
 雨の音が聴覚を支配する。
 …雨の音しか聞こえない。
 湿った雨風が全身の感覚を支配する。
 …風雨の冷たさしか感じない。
「…悟浄…悟浄……」
 何度悟浄の名前を呼んでも、その声は自分の耳にすら届かない。
 どんなに自分で自分を抱きしめても…自分の体温すら伝わらない。
 悟浄にしか癒すことが出来ない。
 悟浄じゃなきゃ駄目なのに…。
 でも、悟浄はここにいない。
「もう…我が儘言いませんから…帰ってきてください」
 だから無駄だとわかっていても、何度も悟浄の名前を呼ぶ。
 早く雨が止むように。
 そして…早く悟浄が戻ってくるように…。

 それでも…朝になっても雨はまだ止まない。
 そして ─── 悟浄もまだ帰ってこない………。


 夜になってもやっぱり雨は止まないし、悟浄は帰ってこない。
 どうしてしまったのだろう。
 何かあったのだろうか…。
 ………まさか、事故とか?
 探しに行った方がいい…?
 そう思ったときには、もう身体が動いていた。
 震えてなかなか動かない体は、それでも少しずつ扉へと向かう。
「…あ……」
 扉を開けると冷たい雨が一気に降り込んでくる。
 もうすっかり日の落ちた森は、道がどこなのかもわからないほど暗い。
 今日は月の光も星の光もないのだから。
 降り注がれるのは冷たい雨だけ。

 ぬかるんだ道は歩きにくい…。
 一歩一歩前に動かすのが苦しくなってくる。
 冷たい雨は僕の身体からどんどん体温を奪っていく。
 とても寒い…。
「悟浄…」
 悟浄…貴方は今どこにいるのですか?
「あっ……」
 足下にある何かに躓き、転倒する。
 体勢を直すことも出来ずに水の溜まった地面にぶつかる。
「痛っ…」
 立ち上がろうとすると右足首に痛みが走る。
 どうやら捻挫したらしい。
 身体を引きずり、大きな木の根元に腰を下ろす。
「悟浄…今どこにいるのですか?」
 寒さのためか、恐怖のためか…声が震えた。
 雨は一層強さを増すばかり。
 何時までもここにいてはいけない。
 捻挫した足首に手を翳し、気を送る。
 早く悟浄のところに行かなくては…。
「…………っ」
 目眩がする。
 気を足首に送るたびに、力が抜けるのがわかる。
 瞼が重い。
 決して目を閉じてはいけないとわかっている…。
 それでも僕は重い目蓋を開け続けることが出来なかった。



「あ、八戒気が付いた?」
 目を開けると見慣れた天井が視界に入る。
 続いて大きな金色の瞳に覗き込まれる。
「……悟空?」
 悟空は何かを確認すると、バタバタと走り出す。
 ……ここは自分の部屋だ。
 何故悟空がここにいるのだろう。
 あまり記憶がはっきりしない。
 起きあがろうと思っても、身体がだるくて思い通りに動かすことが出来ない。
 何があったんでしたっけ…。
 必死に記憶を思い起こす。
「気が付いたか」
「三蔵…」
 悟空から知らせを聞いたであろう三蔵が部屋に入ってくる。
「もう熱はねぇみてぇだな」
 三蔵の冷たい手が額にあてられる。
 熱……?
 僕は熱を出していたのだろうか。
 それならこの身体のだるさの理由がわかる。
 でも…何故?
「まったく、何だってあんな雨の中森にいたりしたんだ」
 ……森?
 あぁ…思い出した……僕は雨の中、悟浄を探しに行って…それで、きっとあのまま気を失ってしまったのだろう。
「…悟浄…悟浄は今どこにいますか?」
「あの馬鹿なら街にいたぞ」
「そうですか…」
 悟浄が無事でいたことにホッと胸を撫で下ろす。
 でも、それと同時に、こんな時でも悟浄は戻ってきてくれないのだと胸が痛む。
「何日帰ってねぇんだ?」
 三蔵は着物の袂から煙草を取りだし、火を点けながらそう問う。
「……五日くらいでしょうか」
「じゃあ、お前が二日間寝てたから一週間だな。
 いつまでこんな状態を続けるつもりだ…」
 どうやら僕は二日間眠ったままだったらしい。
 あの雨の夜からもう二日も経っているのか。
 その間に雨は止んだけれど…まだ悟浄は帰っていない。
「何時までも続けているつもりはないんですけどね」
 今すぐにでも元に戻したいのに。
 それなのにいつもうまくいかない。
 どうしたらいいのだろう。
「一度、ある程度距離を置いてみた方がいいのかもしれんな。
 ちょうど寺に住み込みでやってもらいたい仕事がある。期間は一ヶ月だ」
「…………」
「まぁ、お前の体調のこともあるから出発は三日後だ。
 それまでに考えておけ」
 三蔵はそういうと部屋を出ていく。
 一ヶ月…距離を置く?
 あまりに突然の話に呆然としてしまう。
 でも、確かに三蔵の言うとおりなのかもしれない。
 今、悟浄に会ってもまた同じ事の繰り返しになるかもしれない。
 これ以上悟浄(抜けてるよー)
 それくらいなら、一度距離を置いた方がいいのだろうか?
 一ヶ月も悟浄に会えないのは辛いけれど、これ以上喧嘩を繰り返すよりはましだから…。


 そして三日後の朝を迎えた。
 結局、この三日間も悟浄は帰ってこなかった。
 もう、僕の事なんて忘れてしまったのでしょうか。
「八戒、行こっか。俺、また八戒と暮らせてすげー嬉しい」
 悟空がそういって僕に笑いかける。
 そう言ってくれるのは嬉しいはずなのに、僕の心はどこかポッカリ穴があいてしまったかのようだった。
「本当に良いんだな?」
「えぇ、一ヶ月よろしくお願いします」
 三蔵の問いにそう答えながらも、僕の心にはまだ迷いがあった。
 でも、僕は寺に行くことにした。
 これ以上この家で一人で悟浄を待つのは辛いから。
 だから僕はこの家を出ようと思った。
「行くぞ」
 そう言われて、一歩足を踏み出す。
「待てよ」
 その瞬間、懐かしい声が聞こえる。
 ……悟浄?
 僕は俯いていた顔を上げ、声の聞こえた方を向く。
 …そこには懐かしい悟浄の姿。
「悟浄……」
「どこ行くんだよ。お前の家はここだろ!」
 悟浄は僕のところまで来ると、僕を強く抱きしめる。
 悟浄の体温が僕に伝わる。
 十日ぶりの感覚に嬉しくて涙が出そうになる。
「悟浄」
 やっぱり僕は悟浄から離れることなんて出来ない。
 悟浄がいないと生きていけない。
「すみません、三蔵…僕、寺に行くことは出来ません」
「あぁ……。
 悟空、帰るぞ」


「ただいま、八戒」
「おかえりなさい、悟浄……」
 お互いを確かめるように抱き締め合う。
 そして、どちらからともなく唇を合わせる。
 何度も何度の確かめ合うように唇を合わせる。
 とても幸せな気持ちで胸の中が一杯になる。
 温かな気持ち…。
 今までの不安なんてあっという間に消えてしまう。
「すみませんでした、悟浄」
 今なら何でも素直な気持ちで言える。
「俺こそごめんな、八戒」
 二人で見つめ合い小さく笑う
「こんなに簡単なことなのに、何であんなに苦労したんでしょうね」
「ホントだな」
 今考えればずっと悩んでいたことなんてとっても小さいことだったのかもしれない。
 こうして始めから素直になっていれば…何も問題なんて無かったのに。
「明日、お揃いのカップ買いに行こうな」
「えぇ」
 壊れてしまったのならまた初めからやり直せばいい。
 何度やり直しても…僕が悟浄を愛しているという事に変わりはないのだから。
「悟浄…愛しています…ずっと…永遠に……」
「あぁ…俺も愛してるよ」
 そして誓い合うようにゆっくりと再び唇を合わせた…。




「なぁ、八戒と悟浄大丈夫かなぁ」
 悟空は二人の家の方を振り返りながらそう言う。
「あいつらのことだ…平気だろう」
「そっか…それなら良かった」
 三蔵は煙草に火を点け、一度大きく吸い、ゆっくりと吐き出す。

「…ったく…犬も喰わねぇよ」


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