ORATORIO MESSIAH Op75




 ─── 何も信じない…誰も信じない……

 そう決めていた…。

 何を信じても、誰を信じても救われない。

 誰も助けてなどくれなかった。

 だからもう信じない。

 そう決めていたのだ……。


 ─── 助けて……

 …誰に助けを求めていたのだろう。

 誰も信じてなどいないのに。

 それでも薄暗い部屋で祈っていた。

 小さな手で十字架(クロス)を握りしめて。

 か細い声で縋るように…


 ─── 誰か助けて…

 ずっと求めていた…。

 僕をこの地獄から救い出してくれる救世主(メシア)を…。





 いつも夢に見る。
 暖かな光…。
 いつもその人の顔は見えない。
 あまりにも光が眩しすぎて…。
 でも、その人は…いつも自分に暖かさをくれる。
 包み込むような暖かな光…。

 でも、目を覚ませば闇…。
 孤児院の暗い部屋。
 冷たいベッド…。
 そこには今まで見ていた明るさも暖かさも何も残っていない。
 あるのは孤独。
 暖かさを見たあとだから、余計にその辛さが増す。
「助けて…」
 誰にも聞こえないくらい小さな声で呟く。
 ……この声は貴方に届いていますか?


 毎日がつまらない…。
 どうして皆笑えるのだろう。
 何も楽しいことなどないのに。
 何も嬉しいことなどないのに。
 それなのにどうして笑えるの…?
 そんなことをしても誰も愛してなどくれないのに。
 与えられるのは見せ掛けの愛。
 偽善的な優しさ。
 ……偽物の幸せ。
 そんな物は要らない。
 偽りの愛など…僕は必要としない。


 ─── 愛さなければ愛されないのよ…。

 愛した分だけその愛が返ってくるのならば、僕に返ってくるのは偽りの愛だろう。
 だって…誰も愛しいなどと思ったことなどないのだから。
 この世から、誰が居なくなっても僕には関係ない。
 誰が死んでも悲しくなんかない。
 明日、世界が滅んでもどうでも良い。
 何も愛しいなどとは思わないから。
 ……だから誰も僕のことなど愛してくれない。


「………」
 それでも毎日のようにあの夢を見る。
 …どうして。
 愛さない…だから愛されなくて良い。
 そう思っているのに。
 それなのに…僕は幸せを求める夢を見る。
 愛されたい?
 そんなことはないと思っているけれど…。
 本当は愛されたいのだろうか…。

 首にかけた十字架を握る。
 産まれたときから誰にも愛されない。
 必要とされない子だから。
 それならば初めからなければいい。
 この世に産まれてこなければ良かった。
 そうすればこんな思いをすることなどなかった。
 何故神は僕をお作りになったのですか?
 誰にも必要とされない物を何故お作りになったのですか?
 神は何もわかってくれない。
 神は何も救ってくれない。
 神は…僕を愛してくれない……。


 この夢を見せているのも神ですか?
 何故こんな夢を見せるのですか?
 幸せのあとの辛い現実は何よりも苦しいのに。
 それでも貴方は僕にこの夢を見せるのですか?
 すぐに消えてしまう幸せなのに。
 ただの夢なのに。
 偽りの幸せなのに…。

 それでも、この夢を見せるのですか?
 何のためにこの夢を見せるのですか?
 ……神は何も答えない。
 いつも一方的で…。

「神なんて…嫌いです…」

 神は僕のことを愛さないから…。
 だから、僕は神なんて求めない。

 ……誰も僕のことを愛さない。
 だから、僕は誰も求めない。


 ………でも…
 でも、僕は誰かを求めている。
 自分のことを愛してくれる人を…。

 …自分の半身を?

 ……それとも…

 まだ見ぬ貴方…。
 貴方は僕のことを愛してくれますか?

 貴方は僕を救ってくれますか?




「やっと街ですね」
 街の入り口でジープを止めると八戒がそう言う。
 一週間ぶりの街である。
 長時間のジープの移動ですっかり身体も固まってしまった。
 全員ジープから降りると身体を解す。
 あまり時間に余裕のある旅ではないが、いい加減この辺で休息をとりたい。
「三蔵、この街にはどのくらい居るのですか?」
 ジープが車から竜型に姿を戻すと八戒の肩に留まる。
 そして、少し甘えるように八戒の頬に身体を寄せる。
「ジープも疲れているみたいですし…」
 その言葉に三蔵の眉間に皺が寄る。
 まだこの度は先が長いのだ。
 こんなところでのんびりしている場合ではない。
 しかし、ジープに何かあっては旅の進むペースはかなり遅くなる。
 三蔵は一つ溜息を吐く。
「出発は翌々朝だ……」
 その言葉に悟空と悟浄が『わーい』と手を挙げる。
「じゃあ、まず宿を探さなくてはいけませんね」
「えー、あとでいいぢゃん。
 先に飯にしようよ、メシー」
 ずっと非常食続きだったので悟空がそう声を上げる。
「はいはい。じゃあ、先に御飯にしましょうか」


 街に入ってすぐに気が付いた。
 この街は……。
「全然肉とかねぇじゃん」
 それなりに栄えている街で飲食店などが建ち並んでいる。
 それなのにメニューに書かれているのは肉や魚を使わない物ばかりである。
 店先で売られている物も同じような感じである。
「この街ってもしかして……」
 周りを見るとやたらお坊さんが多い。
 この街はかなり仏教の信仰が深いのだろう。
「三蔵サマ、ヤバイんじゃないの〜?」
 悟浄が面白がってそう言う。
 今まで大概このパターンでいくと…。
「三蔵様、玄奘三蔵様ではございませんか?」
「…………」
 大概こういうことになるのである。


「どうぞお入り下さい」
 やっぱりこういうパターンでくれば有無を言わさず寺に連れてこられることになるのだ。
 そのせいか三蔵はすっかり不機嫌である。
 まぁ、ここまで来てすぐに返されることなどあるわけがない。
 説法だの何だの頼られるのだろう。

「三蔵様、ようこそおいで下さいました。
 何もない寺ですがどうぞごゆるりとなさって下さい」
「……あぁ」
 その時の三蔵の顔は心底嫌そうであった…。


「…さすが坊主。素晴らしいほどの依怙贔屓だな…」
 悟浄は案内された部屋に入り、そう呟く。
 この部屋に案内されたのは悟浄・悟空・八戒の三名。
 三蔵は別の部屋である。
 三人でお使い下さいと言われた部屋は大して広くもない。
 むしろ狭いぐらいである。
 ぶっちゃけて言ってしまえば、宿でいう布団部屋といった感じである。
「まぁ、仕方ないですよ。僕たち三蔵のオマケなんですから」
 この寺が神聖な物だとすれば自分たちのように仏道に関係のない物はあまり歓迎されないだろう。
 三蔵法師様の連れ、ということで一応特別に中に入ることを許されたという感じだ。
「数日ですから我慢しましょうね」
「何日ぐらいここにいるのかなぁ…」
 悟空が少し嫌そうな顔でそう言う。
 旅に出るまで寺院にいた悟空だが、あまり寺は好きでないようだ。
 嫌な思いでも沢山あるだろう。
 それよりも何よりも、食事の内容に一番不満があるのだろう。
 勿論のこと、寺は精進料理だ。
 そんな味気ない食事は彼にとって苦痛だろう。
 といって街にいったところで、街全体が仏教一色といった感じなので街でも彼の望むような食事は期待できない。
 そのあたりに関しては悟浄も同じ考えだろう。
 悟空ほど食事に執着はしていないものの、精進料理なんて年寄り臭いものは食べたくない。
 そして、街にいっても女なんて捕まえられそうにはない。
 というよりも、女自体あまり見ていない…。
 煙草なんかもやっぱり売ってないだろうなと思いつつ、残り少ない煙草の箱を見つめる。
 久しぶりの街だというのに、活気づくどころか地底まで沈んでいる感じだ。
 八戒はそんな二人を見て溜息を吐く。
「そうですね、三蔵に荷物を届けに行くついでに聞いてみますね…」
 八戒は三蔵の分の荷物を持つとまだ暗いオーラを背負っている二人を置いて部屋を出た。


「三蔵、入りますよ」
 短くそう断ると三蔵に、と用意された部屋に入る。
「荷物、ここに置きますね」
 そう言って荷物を置きながら部屋を見回す。
 さすが三蔵法師様のために用意された部屋…。
 自分たちの部屋とは大違いである。
 広さも一人部屋なのに自分たち三人の部屋と同じくらいある。
 それ以外にも置いてある物一つ一つがとにかく豪華である。
 壁に掛かっている掛け軸も床の間に置かれている壺や皿もどれもこれも高級品なのだろう。
 思わず溜息が出てしまう。
「どうした?」
「いえ、あまりの部屋の違いに…」
 ここまでくると、三蔵様とオマケの差に思わず感心してしまう。
「だったら、こっちの部屋に泊まるか?」
「そういうわけにはいきませんって…。
 それで、いつ頃この街を出られそうですか?今後のルートなんですけど」
 八戒が地図を取り出しそう言う。
「お前はこの街を早く出たいのか?」
「………」
 三蔵にそう言われて八戒は言葉に詰まる。
 自分はそこまでこの街に不満はない。
 悟空のように肉や魚を求めるわけでも、悟浄のように女を求めるわけでもない。
 ただ、気になるのは自分を見たときの寺の僧侶達の態度…。
 あれは明らかにおかしい。
 あれは…やはり自分が妖怪大量虐殺を行った犯罪人『猪悟能』だからなのだろうか…。
 もしそうならば、あまりここに長居するのは自分のとっても気分の良いものではないし、何より一緒にいる三蔵に迷惑が掛かるのではないだろうか…それは…。
「何を考えている」
 三蔵に声を掛けられ八戒は、はっとする。
「いえ、別に…」
 こんなことを三蔵に言うことなど出来ない。
「こっちへ来い…」
 三蔵に手招きされて八戒は三蔵に近付く。
 突然腕を掴まれると寝台に倒される。
「ちょっと…三蔵…」
「何も考えるな」
 そう言って唇をふさがれる。
 三蔵から伝わる体温と共に何か暖かいものが八戒の心の中へと流れ込んでくる。
 八戒にはわかる…これが三蔵の優しさなのだと。
 三蔵は何もかもわかっているのだろう。
 寺の僧侶達の様子がおかしかったことも、八戒がそれを気にしていることも。
 八戒のことであるから、きっと考えなくて良いことまで考えているのだろうと……。
 そこまでわかっていて、三蔵は何も八戒には言わない。
 ただ、包み込むように八戒を愛してくれる…。
「三蔵……」
 だから、こうして三蔵の名を呼ぶだけで…それだけで幸せな気持ちになれる。
 とても暖かくて落ち着けるのだ…。
 いつまでもこうしていたい。
 ずっと彼の側に居たい…。
 それが出来るのか…赦されるのかはわからないけれど…。
 今、こうして二人でいることの出来る時間を大切にしたい。

「………?」
 八戒の胸元で何かが音を立てる。
 金属のふれあうような音…。
 三蔵はそれを手に取る。
「これは…」
 それは大して飾り気もないシンプルな十字架(クロス)。
「あぁ…これですか……」
 八戒はそっとその十字架に手を触れる。
 そして、ゆっくりと目を伏せる。
「これは僕が教会の前に捨てられていたときに身につけていたものなんです」
 昔を思い出しながら少しずつ言葉を紡ぎ出す。
 何も信じていなかったあの頃を…。
 ただ、この十字架に向かって祈っていた。
 神なんて信じていない。
 神は自分を救ってはくれないのだから。
 それでも自分は祈り続けた…。
 神ではない何かに。
「そうか…」
 三蔵は何も聞かない。
 八戒から話されるのをただ待つ。
 八戒が話さないのならばそれでも良い…。
「…僕はこの十字架に何を求めていたのでしょうね。
 こんなちっぽけな十字架が何かしてくれるわけじゃないのに」
 それでも祈り、求め続けた。
 それほど幼い頃の自分は病んでいたのだろうか。
 何も信じず求めず…それでも何かに縋らなければ生きていけなかった。
 弱かった…と八戒は小さく笑う。

 ─── じゃあ、今は?

 今だって決して強くなんてない…。
 あれから自分は変わっていないのかもしれない。
 花喃に縋って生きて…今は三蔵に……。
 いつだって何かに縋らなくては生きていけない。
 今はこうして三蔵がいるから生きていけるのだ。
「三蔵…」
 自分からそっと三蔵に向かって手を伸ばす。
 この暖かな光があるから生きていける。
 三蔵がいるから生きていける…。
 何も不安なものなど…ないのだから……。
「三蔵…愛しています…」

 ─── 何故、今も十字架を身につけているの…?

 何も不安などないはずなのに…。
 ……何が不安なのだろう。

 ─── 何を十字架に祈るの…?





 次の日、三蔵が僧正に呼ばれたので、一日自由行動となった。
 悟空は寺に残ると言っていたが、三蔵に『邪魔だ』と言われ追い出されたため、暇つぶしに渋々街へと向かった。
「こんな街で何しろってんだよ」
 などと文句を言いつつ、悟浄も街へ出た。
 八戒は三蔵からカードを預かるとジープを連れて街へ買い出しに向かった。
 その日は全員別行動となった。


「わりと物は豊富ですね」
 八戒がそう言うとジープが八戒の肩で小さく鳴く。
 やはり肉や魚はないが、水や大豆、あと薬草関係はかなり揃っていた。
 まぁ、次の街はそれほど遠くもないので肉などは少しの間我慢してもらおう。
 悟空は文句を言うかもしれないが…。
 問題はあと何日でこの街を出られるかだ。
 一応、買った物は長持ちする物ではあるが。
 あまり旅が遅れるのは望ましくない。
 それよりも、悟空と悟浄が五月蠅い…。
 昨夜一晩で、既に文句は星の数ほど上がっている。
 同室者としてはこれ以上五月蠅くなるのは…辛い…。
 まぁ、そこまで心配しなくとも、二人がキレる前に三蔵がキレるだろうが。
「せっかくですから街を少し散歩してから帰りましょうか」
 買い物はもう済んだが、まだ昼を少しまわったばかりだ。
 寺に戻っても何もすることはない。
 三蔵はいろいろと忙しいだろうし。
 ……一晩経っても、やはり僧侶達の態度は同じだった。
 そんなところに戻るのは気が引けてしまう。
 …しかし、何となく街の者達にも見られている気がする。
 自分の方を見ているのに、自分が見れば皆慌てて視線を逸らす。
 これはどうしたことだろう。
 ただ、自分が旅の者だから見られているだけなのだろうか。
 それにしては少し様子がおかしい。
「…考えすぎかなぁ」
 何にしろ、あまり見られているのは良い感じでない。
 少しずつ人の流れを避けていく。
 しばらくすると、全く人気のない街の外れに出る。
 このあたりには家もなく、人が寄りつかない場所のようだ。
「……教会?」
 その町外れにひっそりと人の目を忍ぶように建てられた教会。
 教会自体はとても小さいが、その裏に家らしき建物がある。
 おそらく孤児院も兼ねているのだろう。
 自分の育ったところに似ていた。
 あの孤独な時代を過ごした場所に。
 八戒はそっとその教会に近付く。
 今ではこの教会は使われていないらしく、殆ど廃屋と化していた。
 この街は仏教の信仰が強い。
 教会があることが不思議なくらいであった。
 柵で囲まれている教会…。
 八戒はその柵を飛び越える。
「…失礼します」
 小さく断って教会の中に入る。
 教会の扉に鍵はかけられていなかった。
 というよりも、教会の扉自体が壊れて閉まらない状態であった。
 教会の中もかなり荒れていた。
 まるで使われなくなってもう何年にもなるかのようだ。
 でも、よく見るとそうではないことがわかる。
 おそらく、この教会が使われなくなってから一年前後だろう。
 つまり、ここまで荒れているのは自然に荒れたのではなく、誰かの手によって故意的に荒らされたということだ。
「……宗教って怖いですね」
 宗教は人を救うためにあるのに、その宗教のせいで人は争う。
 争いは人の思った思想のぶつかり合いだ…。
 それだけの状態ならともかく、宗教という名の下に集められ、人は信ずる『神』の仮面を借りて戦う。
 まるで自分が神の代理人であるかのように…。
「…神は、何も救ってくれないのに」
 何か、思い詰めるようにそう言う八戒の顔をジープが覗き込む。
 八戒は今までの暗い蔭を無理に消すように微笑んだ。
「すみません。心配かけちゃいましたね」
 甘えるようにすり寄るジープの頭を軽く撫でる。
 いつも通りに戻った八戒に安心するようにジープは小さく鳴いた。
「さぁ、帰りましょうか」
 そう言って教会を出ようとしたとき、急に日が射し込む。
 あまりの眩しさに、思わず振り返る。
 そこで目に映った物は…。
「……天使…」
 祭壇の上にある大きなステンドグラス。
 それは天使が描かれていた。
 羽根を靡かせている天使が新たな道を指す。
 その姿に目を奪われる。
「……ん…」
 その絵に気を取られた一瞬の隙に、うしろから何者かに押さえ込まれる。
 口にあてられた布には何か薬が染み込まされていたのだろうか。
 だんだんと気が遠くなる…。
 気を失う寸前に八戒の耳に小さな金属音が届いた。





「まさか三蔵法師様にお越しいただけるとは思いませんでした」
 三蔵は僧正の部屋で不機嫌そうにお茶を飲んでいた。
 朝早くから呼ばれたが、意味のない話ばかりでなかなか本題に入ろうとしない。
 僧正の態度からして、今、何か問題が起こっているらしいことが伝わってくる。
 しかし、なかなかそれを話そうとしないのだ。
「…何か話があるのでは?」
 いつまで経っても話そうとしない僧正に痺れを切らして三蔵がそう言う。
 別に話が聞きたいわけではないが、いつまでも無駄な話に付き合う気もない。
「実は…」
 その言葉を待っていたとばかりに僧正が話を始める。

 元々この街は少し仏教とが多いくらいで普通の街だった。
 とある時、三蔵法師が街を訪れた。
 彼の説く教えに街の者達は感動し、いつしか仏教の信仰は深まっていった。
 だんだんと街は仏教一色になっていく。
 仏教に染まらない者達はいつしか街から出ていった。
 それでも違う者達も居た。

「それが街の外れにある教会でした」

 その教会には一人のシスターと身寄りのない子供達が居た。
 すっかり仏教に染まってしまった街の者達は、その教会の者達に街から出ていくように言った。

『困ります。…私達に行く所などないのです…』

 何度行ってもシスターはそう言った。
 でも、半ば強引に教会の取り壊しが決定した。

「あれは悲しい事故でした」

 取り壊しを中止にして欲しいとシスターは何度も寺に来た。
 それを寺の者が振り払ったとき…。
 その反動でシスターは階段から落ちて…そしてそのまま……。

「教会の子供達は寺にシスターを殺されたと…」
 僧正はそこまで言いきると俯き、息を吐く。
「それで、その子供達は?」
「教会からは姿を消しました。
 しかし、かなり恨みを持っているらしく、野党紛いのことを行ったり、寺に対して攻撃をしたりしておるようで…」
「………」
 そのまま部屋の中に沈黙が流れる。
「すみません、こんな話を…。
 三蔵様のお手を患わせるつもりはありません。ただ、この話をお伝えしなくてはならない気がしまして。三蔵様のお連れの方を見たときから…」
「どういうことだ?」
 僧正の言葉に三蔵が聞き返す。
 僧正は引き出しの中から一枚の絵を取り出す。
「これは…?」
「その教会の信ずる神の姿のようです。『救世主(メシア)』と呼んでおりました」
 救世主の姿の描かれた一枚の絵…。
 白い衣を身に纏った天使が一つの道を指す。
「あまりに似ておりましたので…」
 その天使の姿は…茶色い髪に翠の瞳…そう、八戒にそっくりであった。





「……ここは?」
 目を覚ますと見知らぬ天井が目に入った。
 ここは一体どこなのだろう。
「あ、救世主(メシア)が起きたよ」
 小さな子供がそう叫ぶ声が聞こえる。
 ……救世主(メシア)?
 八戒はゆっくりと体を起こす。
 その八戒を囲むように数人の幼い子供達が集まる。
 ここはどこなのだろう…。
 周りを見回しても見覚えはない。
 そして、この子供達は…?
「ごめんなさい。教会を壊しに来たヤツらの仲間かと思って…。大丈夫ですか?」
 その中で一番年長らしい十二歳くらいの女の子が八戒にそう言い、水の入ったコップを渡す。
 八戒はコップに口を付けながら、今までのことを思い出そうとする。
 頭がぼうっとして考えが纏まらない。
 教会…そう、自分は教会で……。
 そして後ろから…あれは何かの薬品だったのだろうか…。
「でも良かったです。やっと私達を救いに来てくださったのですね…『救世主(メシア)』…」
「え……?」
 突然のことに八戒が慌てる。
 『救世主(メシア)』……?
「ずっと信じてました。救世主(メシア)が来てくれるって…」
 少女は慌てる八戒に構わず話を続ける。
「私達を助けてください…救世主(メシア)…」



「八戒はどうした」
 三蔵が僧正の話から解放されたのは、もう日が暮れる頃だった。
 いい加減うんざりである。
 この街に長くいる必要もないので明日にでも出発する、そう言うために三人の部屋へ向かった。
 しかし、悟浄と悟空はいるが八戒の姿が見あたらない。
「さぁ…昼間買い出しに行くって言ってたけど…」
 それにしてはあまりに遅すぎる。
「そのうち帰ってくるんじゃない?」
「……あぁ」
 三蔵はそう言い窓の外を見る。
 最近は日が落ちるのが早い。
 もうあたりは薄暗くなっている。
 買い物に時間がかかっているとか、用事があるとか…。
 理由は色々とあるだろう。
 別に大の大人が少し帰りが遅いからといってそう心配することもない。
 しかし…何か胸騒ぎがする。
「…ちっ……」
 落ち着かない気持ちのまま煙草を取りだし火をつける。
 すっかり日の落ちた暗い空に白い煙が広がっていく。
「…何やってんだ…アイツは……」

 その日、夜が明けても八戒は戻らなかった。





「どうしましょうね」
 八戒はあてがわれた部屋のベッドに腰をかけて小さく溜息を吐く。
 子供達の話を聞いているうちに帰れなくなってしまった。
「三蔵達心配してるかなぁ…」
 ここはどうやら教会の地下らしい。
 元々非常用に作られた物なのだろう。
 部屋に時計はない。
 外の様子が全く分からないので時間がわからない。
 しかし、おそらくあれから一日は経っているだろう。
 何の断りもなく外泊してしまったことになる。
 再び溜息を吐く八戒の顔を心配そうにジープが覗き込む。
 そんなジープの羽根を優しく撫でる。
「大丈夫ですよ、ジープ」
 本当は自分たちの途中で…こんなところで問題に首を突っ込んでいる場合ではない。
 でも、自分は縋ってくる手を振り解くことは出来なかった。
 救いを求める子供達が、まるで昔の自分のようであったから…。
 だから、振り解けなかったのだ…。



 朝になってもやはり八戒は戻っていなかった。
 三蔵はそれを確認すると外に出る準備をする。
「三蔵、八戒を探しに行くの?」
 八戒が戻らないことに心配そうな悟空がそう言う。
 三蔵は短く、あぁ…と答える。
「俺も探してくる」
 悟空はそう言うとバタバタと部屋をかけだしていく。
「心当たりはあるのか?」
 あまりに落ち着いている三蔵の様子に悟浄が聞く。
「まあな…」
 心当たりがないわけではない。
 昨日僧正に聞いた話とこのことは全く関係がないわけではないだろう。
 八戒がどういう形で関わっているかはわからないが…。
「そうか」
 悟浄はそうとしか言わなかった。
 三蔵がわかっているのなら自分は無理に関わることもないだろう。
「八戒のこと、任せたぜ」
「あぁ」


 三蔵は寺を出るとその足で教会へと向かった。
 おそらく今回のことの中心となるだろう…。
「ここか…」
 寺からずいぶんと離れたところにその教会はあった。
 周りには何も建物がない。
 荒れた土地にその教会だけが建っている。
 まるで雑草に守られるように。
「…………」
 教会の扉をくぐると大きな十字架とステンドグラスが目に入る。
 僧正に見せられた絵と同じ絵のステンドグラス。
 中心に描かれた『救世主』の姿…。
 優しく強い救世主の姿…。
 子供達は毎日これに向かって祈ったのだろうか。

 ─── 誰かに救ってもらいたくて…毎日祈っていたんです…。

 不意に八戒の言っていた言葉を思い出す。
 親に愛されなかった子供達。
 幸せになりたくて…必死に天に祈る…。
 そして、ほんの少しの幸せに縋って生きていく。
 その幸せを壊されたとき…どうするのだろう。
「………」
 似ている…。
 子供達も…八戒も……そして自分も。
 愛されなかった子供達。
 何かに縋って生きていく子供達。
 それを奪われたら…。
 ……周りの全てを壊してでも…それを取り返そうとする。
 どれだけの人間を殺してでも…それを取り戻そうとする……。
 自分も八戒もそうしていった。
 それで…何かが戻るわけでもないのに。
「八戒……」
 床に十字架(クロス)が落ちていることに気が付く。
 三蔵はそれをそっと拾い上げる。
 それは…八戒のしていたものだった。
 八戒はやはりこの教会に来たのだ。
「…バカが……」
 三蔵は小さな声でそう言うと教会を出た。



 八戒はベッドに腰をかけたまま小さく溜息を吐く。
 あれから何人もの子供が自分の元を訪れた。
 皆救いを求めて。
 子供達にとってシスターが自分たちを愛してくれる唯一の存在だった。
 皆、シスターを愛していた…。
 そのシスターを奪われた。
 絶対であった存在を失う。
 それはあまりに辛すぎる。
 自分にも身に覚えがある。
 ……子供達はどうするのだろう。
 自分たちを愛してくれる物を失い…子供達はどうするのだろう。
「まだまだ帰れそうにありませんね」
 このままでは帰れない。
 自分がこの子供達を救えるかは別にしても、このまま放っておくことなど出来ない。

 八戒は子供達に言って外に出た。
 まだしばらく帰ることが出来そうにないから、このことを三蔵達に言っておかなくてはならない。
「こんなこと言ったら怒られるかな」
 八戒は小さくそう言って笑う。
 旅の途中でこんな面倒なことに首を突っ込むなと怒られるかもしれない。
 でも、そう言ってもきっと三蔵は協力してくれるだろう。
「あ、三蔵……」
 寺に戻る途中で三蔵の姿を見つける。
 たった一日会っていないだけなのになんだか懐かしいくらいの気持ちになる。
 早く三蔵に会いたい…そう思って小走りで三蔵に近付く。
「………」
 しかし、八戒はその足を途中で止める。
 三蔵は知らない人と話をしていた。

 ─── あれは三蔵…?

 自分の知らない…三蔵の『三蔵法師』としての顔。
 あんな三蔵知らない…。

 ─── 本当に三蔵…?

 急に三蔵を遠くに感じる。
 あんな顔…知らない。

 ─── あれは…誰?

 知らない…あんな三蔵知らない。
 あんな顔見たこと無い。
 あれは…自分の知っている三蔵じゃない。
「戻りますか…」
 八戒はそのまま教会へと戻った。
 三蔵に話しかけることもなく……。



「救世主(メシア)…元気ないね…。どうしたんだろう」
 外から戻ってから元気のない八戒を子供達が心配する。
 八戒は大丈夫と言い部屋に戻った。
「…………三蔵…」
 あれは…本当に三蔵だったのだろうか……。
 三蔵は…あんな表情をするのだろうか…。
 知らない…自分は知らなかった。
 三蔵のこと…なんでも知っているつもりだった。
 今、旅をして一緒にいるから…今までは知っているつもりだった。
 でも、実際には自分の知っている三蔵なんて極一部で、まだまだ知らないことだらけなのだ。
 旅から戻ったら、三蔵はまたあんな顔をして『三蔵法師』になるのだろうか…。
 自分の知らない…手の届かない三蔵になってしまうのだろうか…。
 何故か急に三蔵を遠くに感じる。
 三蔵を失ってしまったような気持ちになる。
 忘れていた孤独が一気に押し寄せてくる。
「………」
 無意識に手が胸元に伸びる。
 そこにあるはずの十字架を求めて。
 救いを求めて……。
「……ない…どうして…」
 しかし、そこにあるはずの物を見つけることが出来ない。
 どこに行ってしまったのだろう。
 自分は全てに見捨てられてしまったのだろうか。
 もう…自分を救ってくれる物など何もないのだろうか…。
「……三蔵…」
 祈っても…声は届かない……。


 あれから数日が経った。
 八戒はあの後、三蔵達に連絡をすることもなく、ずっと教会の地下に籠もっていた。
 いつまでもこうしているわけにはいかない。
 それはわかっているのに行動をおこす気になれなかった。
 ただ、三蔵のことだけを考えて……。
「……どうしましょうね…」
 溜息だけが出る。
 心がぽっかりと空いてしまったようだ。
 近くにあった暖かさがなくなってしまった。
 心の支えがなくなってしまったように思える。
 たったあれだけのことだったのに…。
 人の全てなんて知ることは出来ないのに。
 誰にだって知らない顔はある。
 わかっている…。
 でも嫌だった。
 自分の知らない顔をしている三蔵が…。
 あんな三蔵…嫌だった。
 知らなかった、自分にここまで独占欲があるなんて。
 三蔵の全てを手に入れたいんだ。
 そんなこと…出来るわけないのに。
 それでも、三蔵の全てを手に入れたい。
 それを願い、祈る……。


「救世主(メシア)…どうして元気がないんだろう」
 子供が呟く。
 八戒の様子は子供達の目から見てもおかしかった。
 悲しそうな表情…。
 自分たちの祈り続けた救世主(メシア)はあんな表情はしなかった。
 いつも強く優しく…自分たちを支えてくれた。
「どうしたら元気になるのだろう…」
 いつも自分たちを支えてくれた。
 だから、自分たちも救世主(メシア)を支えたい。
 救世主(メシア)の力になりたい。
 子供達はそう考える…。

「きっとアイツらのせいだよ」
 子供達の中の一人が言う。
「寺のヤツらのせいで救世主(メシア)は元気がないんだ」
 何の根拠もない言葉。
 それでも子供達の心の中に何かが生まれる。
 一度、寺によって幸せを奪われた。
 だからきっと今回も……。
 一度そう思いついてしまえばその気持ちは心の中でどんどんと膨れ上がっていく。
 それが正しいことかどうかなどわかっていない。
 それでも子供達の心の中でそれは『正義』という言葉にすり替えられていく。
 これは正しいことなのだと……。



「……寺を襲う?」
 それは突然子供達の口から告げられた。
「そう、私達から幸せを奪った寺を潰してやるの。そうすれば私達幸せになれるもの」
 子供らしい短絡的な考え。
 自分たちの邪魔をする物は全て悪と決めつけて排除する。
 そんなこと、正しいわけがない。
 だから子供達を止めなくてはならない。
 …でも、頭の中で一つの考えが浮かぶ。

 ─── 寺の人たちさえ居なければ…三蔵は全て自分の物になる。

 そんなわけないのにその考えが頭から離れない。
 そんなこと、間違っているのに。
 それでも考えてしまう…。
 だから止められなかった。
 自分も子供達と同じ考えを持っているから。
 だから…子供達を止めることが出来なかった。



 もう、どうしたらよいのかわからない。
 子供達のことも…自分のことも。
 どうしたらよいのか…何が正しいのか……。
 もう何もわからない。
「………」
 望むことはただ一つ…。
 幸せになりたい。
 幸せを手に入れたい。(手に入れたいに傍点)
 それだけなのだ…。
「………けて…」
 小さな子供のようにきゅっと膝を抱える。
 自分はあの頃と同じ…何も変わっていない。
「…助けて、三蔵……」
 ただ、呟くように祈り救いを求める。
 ……手に入れたいのは幸せ。
 手に入れたいのは…三蔵(幸せ)だけなのに……。
 それでもあまりに求めすぎて…。
 そして結局は何もかも失ってしまう。
 そんな気がした。
 それでも求めずにはいられない。
「三蔵……」
 彼の全てが手に入れたくて。
 彼を自分だけの物にしたくて。
 ……そして、求めすぎてしまう。
 彼だけを見ていたい。
 ……自分だけを見ていて欲しい。
「……三蔵…」
 ねぇ…これは間違っていますか?
 もう、わからない…。
 何が正しくて何が間違っているのか。
「…僕はどうしたらいいんですか?」
 教えてください…。
 正しい道を。
 僕は一体どうあるべきなのか。
 教えて…正しい道に導いてください。
「僕を助けてください……」








 迷っている間にも時は進んでいく。
 結論を出すことも出来ずに流されていく。
『本当にこれで良いの?』
 そう何度も自分の心に尋ねる。
 でも、何も返事は返ってこない。
 幸せを力で奪うなんて間違っているって…本当はわかっているのに。
 それでも間違っていると言えない。
 間違っているとわかっていても…強引に力で奪うなんて許されないとわかっていても、それでも手に入れたい。
 でも、そのことに気付いていないふりをしている。
 気が付きたくないから…。

 でも、気付いてしまう、その気持ちに。
 だって…こうして目の前にするとはっきりわかってしまうから。


「この街からでていって……。シスターを返してよ!」
 寺の者達にそう言う子供達の声をどこか遠くに聞きながら八戒は三蔵を見る。
 …ほんの少しの間会っていなかっただけなのに、何かとても懐かしい感じがする。
 それと同時に三蔵を遠くに感じる。
 寺の人たちと何か会話をしている三蔵。
 ……どうしてこっちを見てくれないのですか?
 自分と三蔵の間には、一体どれくらいの溝が開いてしまったのだろうか。
 もう、三蔵にとって自分などどうでも良いのだろうか。
 八戒の頭の中にいろいろな考えが浮かぶ。
「……やだ…」
 八戒は小さく呟く。
 三蔵を失うなんて絶対に嫌だった。
 失いたくない…どんなことをしてでも。
 周りの全てを壊してでも、それでも三蔵を失いたくない。
 今ここで…ここにいる人たちを全て殺したら貴方は僕を見てくれますか…?
 そんな考えさえ頭の中に生まれてくる。
「……三蔵…」
 三蔵は寺の者達に何かを言うとこりらに向かってくる。
 でも、八戒の元ではなく子供達のところへ…。
 もう、自分を見てはくれないのですか…?
 近いのに遠い…。
 三蔵がわからない…。
「ここからにしに進んだところに街がある。
 そこならお前達と同じ宗教を信仰している者も多い…」
 三蔵はゆっくりと口を開きそう言う。
「私達にこの街を出ていけというの?」
「…望まれないところでは幸せになれない。力で奪った物なら尚のことだ」
 ……望まれないところ。
 三蔵の言葉が胸に突き刺さる。
 自分はもうここでは望まれていない?
 ここにいては幸せにはなれないのだろうか。
 貴方の側にいたいのに…。
 力で奪っては…幸せになれない……でも…。
 心の中で何度も葛藤を繰り返す。
 自分は三蔵の元から離れるべきなのだろうか。
 そう思ったとき、三蔵が八戒の方を見る。
「……三蔵…」
 ゆっくりと自分の方に差し出された手。
 その意味は…?
「いつまでそこにいるつもりなんだ」
 自分はその手を取っても良いの?
 貴方の元に帰っても良いの?
「貴方の元にいても良いのですか…?」
「他のどこにいるつもりなんだ」
 当たり前のように返される言葉。
 素っ気なく…それでも暖かく。
 三蔵の言葉に八戒の頬に涙が伝う。
「救世主(メシア)…。救世主(メシア)に何するの!?」
 涙を流す八戒に子供達が心配そうに近寄る。
「大丈夫ですよ」
 そう言って八戒は心配そうに自分を見つめる子供の頭をそっと撫でてやる。
 …自分は間違っていた。
 自分はこの子達に何を伝えるつもりだったのだろう。
 この子達に自分と同じ過ちなどさせてはならないのに…。
「ごめんなさい。僕は貴方達に何も伝えてあげられませんでしたね」
 今からでも遅くない…。
 自分の今まで体験したことをこの子達に伝えたい。
 伝えられるだけ伝えてやりたい…。
「…僕は昔、大切な人を失いました。
 それが悲しくて…辛くて…そして僕から大切な人を奪った人がとても憎くて…たくさんの人を殺しました。
 でも、もう大切な人は戻ってきません…」
 ……ただ、手を紅く染め、罪を被って。
 それでも、もうあの人は二度と手に入らない。
「ずっとその人のことだけを思い…もう誰も見ませんでした。
 あの人を愛している…あの人だけを愛している。それ以外は何もいらない…そう自分自身にいつも言っていました」
 せめて想いだけでもここにあるように…と。
「でも、本当は新しい出会いが怖かったのかもしれません。今まで目を向けることのなかった新しい世界を見るのが…。
 幸せになれる道なんて沢山あるんです。でも、僕は新しい道を進むのが怖くて進めなかった。ただ何度も”幸せ”であった道だけを振り返り立ち止まっていた。でも、それは決して”幸せ”ではないんです。
 既に通った道を戻ることは出来ないのですから。
 だから…怖がらずに新しい道を進んでください…」
 その進む先には…必ず幸せになる道があるから。
 だから立ち止まらずに進まなくてはならない。
「救世主(メシア)…救世主(メシア)はその大切な人のこと、もう忘れてしまったの?」
 小さな二つの瞳がじっと八戒を見上げる。
 八戒はその瞳に優しく微笑みかける。
 そっと包み込むように。
「忘れてしまうわけではないんですよ。
 その人のことはずっと…そう、胸の中で思い出として生きていくんですよ」
「その人はそれで幸せなの?」
「えぇ…その人が本当に自分のことを愛して考えてくれているのならば、きっと自分の幸せを望みます。
 だから、自分が幸せになることによって一緒に幸せになるんです。
 ……シスターもそう思っていますよ」
 花喃もそう思っている?
 花喃も僕の幸せを望んでいてくれますか?
「……シスター…。
 わかりました。私達、その街に行きます…幸せになるために」
「えぇ…少しの間は大変でしょうが、頑張ってくださいね」
「はい、ありがとうございました。
 ……でも、安心しました」
「…何がですか?」
 そう言う子供に八戒は不思議そうに聞き返す。
「救世主(メシア)は私達を助けてくれるけど、救世主(メシア)は誰が助けてくれるのかなって思っていたんです。……でも」
 そこまで言って子供は三蔵の方を見る。
「救世主(メシア)の側には神様がいたんですね。
 ちゃんと救世主を救ってくれる人がいて安心しました。
 新しい道に導いてくださってありがとうございます。私達、絶対幸せになります。
 …だから、メサイアも幸せでいて下さい」
 小さく『救世主(メシア)のこと、幸せにしてくださいね』と三蔵に言い、頭を下げる。
「それでは…」
 そう言い、子供達は街を出ていった。
 互いに手を取り合って、新しい道に。
 この先何があるかはわからない。
 でも大丈夫、一人ではないから。
 絶対に幸せになると約束したのだから…。



「……終わりましたね」
 短かったはずなのに、とても長く感じた数日が。
 すぐ側に三蔵がいる。
 自分は本当に三蔵の元に戻って良いのだろうか。
 自分のせいで三蔵達に迷惑をかけてしまった。
 決して時間があるわけではないのに。
 恐る恐る三蔵の方を見る。
「よくやったな…」
 三蔵からかけられる思いがけない優しい言葉。
「三蔵…」
 涙で霞む目で、それでも一歩一歩三蔵の元へ進む。
 ずっと会いたかった。
 ここに戻りたかった。
「三蔵」
 少し甘えるように三蔵の肩口に頭を埋める。
 三蔵が八戒の頭をあやすように撫でる。
「バカが…泣く奴があるか」
 触れているところから三蔵の体温が伝わる。
 仄かに香る…三蔵の香り。
 今、自分は幸せだ…そう思う。
「三蔵、貴方に会えて良かった」
 ゆっくりと顔を上げて三蔵を見る。
 太陽の光を浴びた金髪が光を放つ。
 強い力を持った光…。

 ─── 貴方は僕の救世主(メシア)です…

 心の中でそっとそう言う。
 貴方がいなければ、今、自分はここにいない。
 貴方に救われたからこそ自分はここにいるのだ。
「ほら、これ大事な物なんだろう」
 三蔵は法衣の袂から取り出した物を八戒の首にかける。
「これは…」
 それはなくしたと思っていた十字架(クロス)。
 八戒はそれをぎゅっと握りしめる。
 きっと…もう大丈夫。
 十字架(クロス)に頼らなくても…祈らなくても大丈夫。
 だって、ここに救世主(メシア)がいるから…。
 自分だけの救世主(メシア)が。
「貴方は僕の救世主(メシア)ですね。
 僕は貴方に救われてばかりです」
 三蔵はそう言う八戒を引き寄せて抱き締める。
「…俺もお前に救われている」
 耳元で小さく…八戒にだけ聞こえるように囁かれた言葉。
 八戒の顔に自然に笑みがこぼれる。
 幸せだという証。


 ─── ねぇ、花喃…。

 今、僕は幸せです。

 貴方もこの幸せを感じてくれますか?

 一緒に幸せになってくれますか?


「三蔵…愛してます」
 ずっと貴方と一緒にいたい。
 助けられるだけではなく、貴方を助けたい。
 共に幸せでいられるように。

 ─── 互いに相手の救世主(メシア)でありたい。


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