AVE MARIA Op72

 


 華やかな夜会 ───
 その部屋の中に流れるチェロの音色。
 誰が聞いているかもわからない、そんなざわめきの中で彼はチェロを弾いていた。
 周りにいる女達は彼に注目していた。
 しかし、誰も彼の音楽を目的とはしていない。
 彼自身もそのことには気が付いていた。
「ねぇ、悟浄。この後時間あるんでしょ?」
 彼の演奏が終わったとき、一人の女性が悟浄に近寄る。
 どうやら今日の夜会は彼女の主催であるようだ。
「今日はちょっと…。また次の機会に」
 だからまた喚んでください、と軽く微笑むと悟浄はチェロを持って館をあとにした。


「雨か…」
 外に出ると、シトシトと雨が降っていた。
 今日は傘を持っていない。
 別に自分が濡れるのはどうでも良かった。
 でも…楽器を ── チェロを濡らしたくなかった。
 この楽器に出会って数年。
 どうしてもチェロをやっていきたくて無理矢理仕事にした。
 でも、この世の中で音楽院も出ていないのにそうそう仕事も来ない。
 初めは路上で演奏したりもした。
 なんとか酒場で演奏させてもらうようにまではなったが…。
 悟浄はチェロを見て溜息を吐く。
 酒場に偶にお忍びできていた婦人の紹介で、こうして極稀に夜会で演奏する機会に巡り会うことが出来た。
 でも、いつも思うのだ。
 ─── 誰も自分の演奏など聴いていないのだと。
 自分が喚ばれているのはその外見でだけ…。
 チェロ弾きとしてではないのだ。
 演奏などしなくとも、ただ座って微笑んでいればそれでよいのではないか…そう思える。
 『チェロ』などはただの口実に過ぎないのだ。
 この夜会で一度演奏するだけで、酒場で演奏する何倍もの金が手に入る。
 だから自分はこの仕事を続ける。
 しかし、その金の大半は、その夜会後での行為に対して支払われているのだろう。
 それにも気付いている…。
 そこまでして『音楽』にしがみつく理由は何だろう。
 今の状態なら音楽を捨ててどこかの婦人のヒモにでもなった方が楽だし、金にも余裕が出来る。
 音楽を続けていくには、手に入れるのと同じくらい金が掛かる。
 そこまで金をかけて、どうして自分は音楽を続けているのだろう。
 理由はわからない…。
 でも、音楽を捨てることは出来ないのだ。
 『また次の機会』などという理由を付けてまで、次の仕事を手に入れるくらいに…。
「…さ、帰るか」
 悟浄は上着を脱ぐと、チェロのケースの上にかける。
 一応ケースは簡単な防水は出来るが念のためだ。
 悟浄はチェロを抱えると、自分の身体で守るようにして雨の中を走り抜けた。


 悟浄の家は街外れの森の中にある。
 街中の家など、到底金が続かない。
 それに、アパートでは練習が出来ないからだ。
 灯りもないような森の小道を走り抜ける。
 少々不便なところではあるが、特に問題はなかった。
「………?」
 何かが聞こえた気がして悟浄は足を止めた。
 こんな夜更けの森の中に人などいるわけがない。
 気のせいかと思い、再び足を進めようとした悟浄の耳に、またそれが届く。
 人の声…途切れ途切れの……。
「Ave Maria…
 Toi qui fus mere sur cette terre…」
 ……これは…歌?
「誰かいるのか?」
 そう言って声のする方を見た瞬間、それが目に飛び込んできた。
 木に背中を預けて座り込んでいる…少年?
 薄く目を開き、譫言のように歌を口ずさむ。
 ─── 祈るように…縋るように…。


 何故その男を連れてきてしまったかはわからなかった。
 でも、なんだか放ってはおけなかった。
 何時から雨の中にいたのか、男の身体はすっかり冷え切っていた。
 とりあえず身体を拭いてやろうと服を脱がせたときに目に入ったのは…腹部に負っている傷。
 それは何か刃物で斬りつけられた感じだった。
 でも、別にそんなことは珍しいことでもない。
 この御時世、朝になったら道ばたで人が冷たくなっているなんてことはザラだった。
 それを誰も気にしない。
 気にかけている余裕がないからだ。
 みんな自分の身を守ることだけで精一杯なのだ。
 だから、他人のことなど気にかける余裕なんて無いのだ。
 なのに…それなのにどうして自分はこの男を連れてきたのだろう。
 この男があのまま木の下で死んでいっても、それは自分には関係のないことなのだ。
 そのまま放っておけばいい。
 だけど放っておけなかった。
 あのアヴェマリアが耳から離れない。
 途切れ途切れの、譫言のようなアヴェマリア。
 まるで、その音楽に縋るように…。
「…音楽、か」
 そんなところが自分に似ていたからかもしれない。
 自分も音楽に縋っているのだから。


 あれから一週間が過ぎた。
 未だに男は目を覚まさない。
 あのあと、数日間高熱を出し、このままでは助からないかもしれない、とまで考えた。
 たった一度会った…とまでも言えない、たったそれだけのことだったのに。
「アヴェマリアか…」
 もう一度、あのアヴェマリアを聞きたかったのかもしれない。
 何を想って歌ったのか知りたかった。
 寝ている男の前髪をそっと掻き上げる。
 少年とも青年とも言えない年頃…。
 栗色の髪がサラサラと落ちる。
 目は閉じられているが、それでもわかるぐらいに整った綺麗な顔をしていた。
 この男は何故腹部に傷を負っていたのだろう。
 まぁ、どんな理由にしろ、大抵はろくなことではないだろう。
 こういったことには関わらない方がいい。
 でも、知りたかった。
 この男に何が起きて、そして彼は最後の瞬間に何故アヴェマリアを歌ったのか。
 それがどうしても知りたかった。
 それを知らなくてはいけない気がした。
「早く目覚ませよ」
 悟浄はそう呟くと近くに立てかけてあったチェロを引き寄せる。
 そして弓を弦にあてる。
「何の音からだっけ…?」
 思い出しながら弾く、アヴェマリア。

「…なん…お……さま」
 微かに男の唇が動く。
 悟浄はそれに反応して弓を弦から離し、チェロを置くと男に近付く。
「気が付いたのか?」
 うっすらと目を開けている。
 その瞳は綺麗な翠色をしていた。
 吸い込まれそうな翠色を…。
「ここは……?」
 まだ少し虚ろな目で悟浄を見つめる。
「ここは俺ン家だよ。
 それより、何であんなところにいたんだ?お前、自分の名前わかるか?」
 男の様子に、もしかして記憶喪失か?と思う。
 だが、一応記憶はあるらしく、男は少し考えてから『八戒』と名乗った。
 そして、口を噤んだままそれ以上は何も言わなかった。
「そっか。俺は悟浄って言う者だ。
 まぁ、とりあえず回復するまでめんどー見てやるから、とりあえず寝とけ」
 何も言わないのは言えない理由があるのだろう。
 悟浄はそれ以上八戒に聞かなかった。
 小さい子供にするように頭をぽんっと叩くと八戒を再びベッドに寝かせる。
 八戒は素直にそれに従った。
「……あの」
 八戒がおずおずと悟浄に呼びかける。
「どうした?」
「あの、もう一度弾いてもらえませんか…アヴェマリアを…」
 控え目に…それでも彼は音楽を求めていた。
 悟浄はそれに対して何も言わずに、ただ楽器を取るともう一度アヴェマリアを弾いた。
 哀しいほどに綺麗なアヴェマリアを。
 彼にとって音楽は…アヴェマリアはどんな意味を持っているのだろう。
 彼は何を求めているのだろう…このアヴェマリアに。
 八戒は泣いていた。
 声も上げず、涙も流さず…。
 それでも彼が泣いているのだと悟浄にはわかった。


 それから更に数日が流れた。
 八戒の体調もすっかり良くなった。
「お世話になりっぱなしですみません」
 ずっと悟浄の家で世話になっていることを八戒は気にしていた。
 それでも悟浄は、気にするなと言って八戒に滞在を勧めた。
 八戒にここにいて欲しかった。
 彼といると心地よい。
 何か、求めている物が見つかりそうな、そんな気がしていた。
「どうせ、この家は一人じゃ広すぎるしな。美人さんなら大歓迎だぜ」
 悟浄は冗談っぽく笑う。
「では、お言葉に甘えてもう少しお世話になっても良いですか?」
 八戒自身もここでの生活は悪い物ではなく、むしろ良いと言えた。
 悟浄の優しさがとても嬉しかった。
 失っていた幸せが…取り戻せるような気がした。
 だから二人は共に生活を続けた。
 互いに『何か』を求めて…。


「じゃあ、仕事に行ってくるけど、大人しくしてろよ」
「はい、いってらっしゃい」
 熱も下がったし腹の傷ももう塞がったというのに悟浄は
 ベッドの上で悟浄を見送ると、八戒はそっとベッドから降りる。
 もういいかげん寝てばかりではいられない。
 床ずれが出来てしまいそうだった。
 何か本でもないか、と部屋の中を見て回る。
 ずっとベッドから出ることを禁じられていたので、この部屋以外を見るのは初めてだった。
「……変な物ばっかり」
 お世辞にも綺麗とは言えない部屋。
 そして、そこら中に得体の知れない物が落ちていた。
 一体、どこから拾ってきたのだろうというものまである。
 残念ながら、八戒の読めそうな本は無いようである。
 何をしようか…と短く溜息を吐いたとき、部屋の隅にある物を発見した。
「……ピアノ?」
 楽譜に埋もれてはいるが…それはアップライトピアノだった。
 一冊ずつ楽譜を
 あまり使われていなさそうなそのピアノは、その割には高級そうな物だった。
「こんなふうにしちゃって…もったいないですねぇ」
 そっとピアノの鍵盤に指を滑らせる。
 調律は狂ってはいないようで、綺麗な音が部屋に響いた。
 一度その音を聞くと忘れていた感覚が戻ってくる。
 もうピアノなど弾くことはないと思っていた。
 もう弾くつもりもなかった。
 それでも、こうしてピアノを前にすると…弾きたいと思う。
 八戒の指が引き寄せられるように鍵盤に近付く…。
 ─── もう一度ピアノが弾きたい…。


「ピアノの音……?」
 家に帰る途中で悟浄は足を止める。
 風に乗って流れてくるのはピアノの音色だった。
 しかし、このあたりに民家など無い。
 あるのは自分の家だけだ。
 では、このピアノの音は……。
 再び足を進めるが、やはり音は自分の家の方から流れてきている。
 …自分の家にピアノが無いわけではない。
 どこかの貴婦人にピアノを一台もらった。
 でも、使わずに放ってあった。
 だから、自分の家からピアノの音がすることは有り得ないわけではない。
 ただ、弾いているのは ───
「ただいま」
 家の中に入るが、ベッドの中に八戒の姿はない。
 止まることのないピアノの音色は家の中に響いていた。
 弾いているのは ─── 八戒…。
 正直言って驚いた。
 八戒がピアノを弾けることに。
 八戒がここまでピアノを弾けることに。
 そして…ピアノを弾いている八戒がこんな表情をすることに ───
 八戒がピアノ以外、何も見えていないようだった。
 自分が帰ってきたことにも気が付いていないのだろう。
 それほど八戒は集中していた。
 そんなにも音楽に集中しているのに、八戒の表情はどことなく哀しげで、見ていて切なかった。
 八戒の指が鍵盤の上を滑る度に創られていく旋律(メロディ)。
 それは八戒と同じぐらいに切なかった。
 どこか泣きたくなるような、そんなショパンだった。
 ショパンの曲は切ないと誰かが言っていたけれど、ここまで哀しげなショパンを聴いたのは初めてだった。
  八戒は一体…何を想って弾いているのだろう。
 何がここまで哀しげなショパンを生み出すのだろう。
「…悟浄?」
 突然、旋律が途切れる。
 「悟浄、帰ってたんですか?それなら言ってくださればいいのに…」
「…あぁ。あんまり上手いもんで聴き惚れてた」
 八戒はいつものように自分を隠すかのように微笑むとピアノの蓋を閉じ立ち上がる。
 「少しかじっていただけですよ」
 少しかじっていたなんてレベルではない。
 きちんと勉強した者の音楽だ。
 これだけの実力なら、仕事も多く来るだろう。
 ─── でも、八戒は少しくらい顔をして俯く。
 触れて欲しくはないのだろう…。
 悟浄はそんな八戒の表情を見ていたくなかった。
 先程のショパンを弾いていたときよりも、もっと辛くなる…。
「あ、そう言えば、さっき弾いてたのって『ところてん』だよな」
 悟浄は無理に笑顔を作るとそう話を切り替える。
 突然悟浄が言い出したことに、八戒は訳がわからず不思議そうな顔をする。
「『ところてん』ですか?」
「そ、ショパンのスケルツォ第二番だろ?あれ、通称『ところてん』っつーんだぜ」
「なんでですか?」
 八戒が悟浄の話に興味を示す。
 悟浄は大げさなリアクションで話を進める。
「あれはなー、初めの部分に歌詞つけれるんだよ。
 ♪ところてん、ところてん、日○ー文化セ●ター…ってな」
 スケルツォのフレーズにそう歌詞をつけて歌う悟浄に八戒は思わず吹き出してしまう。
 その顔にはもうさっきまでの暗い影はない。
「これ、マジな話だぜ」
「信じられませんよー」
 八戒はクスクスと笑う。
 やっぱり八戒は笑っている方が似合う。
「なんか、ところてんの話なんかしたら腹減ったな。飯にしよーぜ」
「そうですね」
台所に向かう悟浄に続いて八戒もゆっくりと歩き始める。
「…俺、お前の音楽好きだぜ」
 八戒に背を向けたまま、悟浄が小さな声でそう言う。
 悟浄の表情は見えなかったが、その声から優しさが伝わってきた。
「ありがとうございます」
 八戒も、聞こえるか聞こえないかの小さな声でそう返した。

 それからも、どちらが言うでもなく同居生活は続けられていた。 悟浄は八戒のためにチェロを弾き、また八戒も悟浄のためにピアノを弾いた。
 いつの間にか、お互いが特別な存在になっていた…そう言えるだろう。

「そろそろ僕も仕事を探そうかと思うんですけど」
 ある日八戒がそう言いだした。
 もう体調も完全に戻った。
 何時までも悟浄の世話になっているわけにもいかない。
「じゃあ、夜会とかでピアノ弾く?」
 仕事を求めていると言った八階に悟浄はそう返した。
 ちょうど今、悟浄が出ている夜会でピアニストを捜しているという話を聞いたからだ。
 八戒ならば見た目も合格だろう。
 それに八戒のピアノなら自分と違って容姿の飾りにはならないだろう。
「いえ、夜会はちょっと…お断りします」
 てっきりOKだと思っていたが、八戒から返ってきたのは以外にもNOだった。
「人前で演奏するのは…苦手なんです」
「そっか…」
 悟浄はそれ以上何も言わなかった。
 自分が音楽の仕事を求めているからといって、八戒もそうとは限らないのだ。
 八戒には八戒の事情があるのだ。
 ─── しかし、あれだけの腕なのにもったいない。
 悟浄は心の中で少しそう思った。


「悟浄」
 夜会が終わって帰り支度をしているときに顔見知りの伯爵夫人が悟浄に話しかけてきた。
「何か?」
「悟浄の知り合いによいピアニストはいないかしら?
 今度、私が開く夜会で張侯爵様をお招きしようと思うの。あの方ピアノがお好きなようだから、レコードじゃ失礼だし…」
 そう言われて悟浄の頭に八戒が浮かぶ。
「いないわけじゃないですけど…。そいつ、人前とかで演奏するのは苦手みたいなんで…」
「別に姿を見せなくても良いのよ。カーテン裏でも良いから…。お願いしておいてね」
 もちろん貴女も喚ぶわ、というと悟浄の返事も聞かずに伯爵夫人は、まだざわめきの残る広間へと戻っていった。


「夜会…ですか」
 家に戻ってそのことを八戒に告げたが、案の定八戒は余り良い顔はしなかった。
「頼む、今回だけだからさ」
 悟浄は目の前で両手を合わせる。
 そんな悟浄を見て、八戒は軽く溜息を吐く。
「引き受けてしまったものは仕方ありませんね」
 本当は引き受けたくはなかったが、悟浄にはいろいろと借りがある。
 こういう時ぐらいしか恩を返せるときはないだろう。
「いいのか?」
「えぇ、今回だけですよ」
 悟浄はその言葉に安堵する。
 それが何を引き起こすかなど、まだ何も知らずに…。

 

 夜会当日 ───
 八戒が初めの数曲、悟浄がその後の数曲を受け持つことになっていたので悟浄は楽譜の準備だけすると、下見がてら会場内を彷徨いていた。
 婦人が約束したとおり、ピアノが置かれているのは会場の隅のカーテン裏であった。
 ちょうど小さなステージを幕で区切るかのようになっている。
 会場内に響くピアノはいつも通りの音色だった。
 人前で演奏できないと言うので少し心配をしていたが何の問題もなかった。
「ね、悟浄。今日終わってから時間ある?」
 いつも通り自分に集まってくる令嬢達を軽くあしらいつつ時計を見る。
 そろそろ八戒の出番も終わる頃だ。
「またな、お嬢さん方」
 そう言い、自分の出番に備え、楽器を取りに控え室へと向かった。


 何とか全ての曲を弾き終えることが出来、八戒はホッと胸を撫で下ろす。
 その時、背後に人の気配を感じ、振り返る。
 そこには夜会の招待客であろう一人の紳士が立っていた。
「貴方は…」
「いや、あまりに素晴らしい演奏だったので、どんな方が演奏しているのかと思ったんだが。まさか君みたいに綺麗な少年だとはね。さぁ、こっちにいらっしゃい。皆に紹介しよう」
「え……」
 紳士は戸惑う八戒の腕を掴むとカーテンの表へと出る。
「今、素晴らしい演奏を聴かせてくれた奏者を皆さんに紹介しましょう。さぁ君、こっちへ」
「………」
 八戒は自分の体が震え始めるのを感じた。
「素敵な演奏だったわ。是非貴方の名前を教えて頂戴」
 次々に自分の周囲に集まってくる人々に、忘れようとしていた過去が戻ってくる。
「や…やめて……来ないで…」
「どうしたの、坊や?顔色が悪いわ」
 周りが何を言っているのかわからない。
 目の前が真っ暗になっていった…。

「悟浄、来て。大変よ」
 悟浄の控え室に慌てた様子の伯爵夫人が入ってくる。
「どうかしたんですか?」
 開場のざわめきもいつもと何か違う。
 何か起きたのだろうか。
「あのピアニストの坊やが…突然倒れたの」
「…倒れた?八戒が?」
 まさか…さっきまで演奏を聴く限りでは普通だったのに…。
「すみません、今日は帰らせていただきます…」

 

 その後、すぐに八戒を連れて家に戻った。
 八戒は気を失っているというよりも、錯乱しているようだった。 医者を呼んで鎮静剤を打ってもらって、今は眠っている…。
「…八戒……」
 一体何があったというのだ…。
 伯爵夫人の話では皆の前で紹介を始めた途端に震えだして倒れたという。
 普通でない様子だったらしい。
 ─── 人前で演奏するのは…苦手なんです。
 ただ緊張するとか、そんな軽いものだと思っていた。
 こんなことになってしまったのは自分のせいだ。
「…ん……」
「八戒、気が付いたか?」
 八戒がゆっくりと目を開ける。
 まだ、あまり顔色は良くない。
「すみません、仕事…」
 八戒は俯いて、すまなさそうにそう言う。
 その言葉に悟浄の胸が痛んだ。
 悪いのは八戒ではない…自分だ。
 自分が無理に八戒にこの仕事をさせなければ、こんなことにはならなかった。
「悟浄…?」
 悟浄は八戒の身体を強く抱きしめる。
「ごめん。悪いのは俺だ。お前にそんな辛い思いをさせたかったわけじゃないのに…」
 おそらく、昔に八戒に何かがあったのだろう。
 八戒に何があったかはわからない。
 しかし…かなり辛いことだったのだろう。
「八戒、俺じゃお前の力になれないか?俺はお前の力になりたい…」
 もう、八戒が辛い思いをしないように。 少しでも八戒の力になりたい。
「悟浄…聞いてもらえますか?僕がここに来る前の話を…」

 

 産まれてすぐに教会の前に捨てられた。
 親の顔は知らない…。
 唯一の肉親は自分と共に捨てられていた双子の姉だった。
 捨てられた先の教会には孤児院もあったので自分と姉の花喃はそこで育った。
 そのこと、自分は悟能と呼ばれていた。
 でも、そこは孤児院と呼ぶに呼べない酷いところだった。
 ろくに食事も出なかった。
 ただ、雨風が凌げるところがあるだけマシ…そんな施設だった。
 僅かとはいえ、国から出ているであろう補助は一体どこに消えていっていたのだろう。
 子供達はいつもお腹を空かせていた。
 自分と花喃もそうだった。
 産まれてからずっとここで生活していたから、他の生活などはわからなかったが、教会の前を通る幸せそうな家族をいつも羨ましいと思って見ていた。
 その教会では毎月一度「聖心の会」というのが催されていた。
 表向きは子供に恵まれない人や子供好きの人と施設の交流というものだったが ─── 実際は売春紛いのことが行われていた。
 男女問わずそういう嗜好の大人たちの相手をさせられた。
 それでも、その日だけは温かい食事を食べることが出来た。
 そういう行為は好きではなかったけど、温かい食事を食べることが出来るのなら、何をされても構わなかった。

 八歳の時だった。
「悟能、花喃。貴方達を引き取りたいという方が現れたのよ」
 ある日シスターに呼ばれ、そう言われた。
 ここから出られることは嬉しかったけれど、この先の生活がマシになるなんて保証はどこにもなかった。
 何人か引き取られた子達を見た。
 でも、幸せになっているのなんて極僅か。
 残りは奴隷のように扱われている。
 そう言う趣味の大人に性的行為のために引き取られた子だっていた。
 だから、僕も花喃も何も期待はしていなかった。
 むしろ、脅えながらその人が来るのを持っていた。
 花喃と共に引き取られるというのが、せめてもの救いだった。
 お互いに震えながら抱き締め合った。
 一緒だから大丈夫だと何度も呟いて。

「こんにちは。悟能、花喃」
 そう僕らに話しかけてきたのは、人の良さそうな老紳士だった。
「……こんにちは」
 まだ少し脅えた目で彼を見つめる僕らを彼は優しく抱き締めてくれた。
 ずっと望んでいた祝福のキスを与えてくれる。
「これから私達は『家族』になるんだよ」

『家族』
 自分の耳を疑った。
 彼は今、本当に『家族』になろうといったのだろうか…。
「よろしくね」
 そう言って差し出された手 ─── それはとても暖かかった。

 そうして僕らは『家族』になった。


 そして、僕と花喃は八年間暮らした孤児院を後にして老紳士と共に新しい家へと向かった。
「おっきい…」
 新しい家はとても大きかった。
 孤児院の何倍もの大きさのある館。
 そして広い庭にはたくさんの緑が溢れていた。
 本当に自分たちは今日からここに住むのだろうか。
「…他の人は?」
 館の中は全体的に明るい作りになっていたのに、どことなく寂しげな感じだった。
 人の気配がないのだ。
「ついこの間、妻に先立たれてね…。息子は一人いるのだが、もう何年も家には戻ってこない」
「そんな…」
 それではあまりに寂しすぎるのではないか。
 こんな家に一人で…。
「でも、これからは悟能と花喃がいるからもう寂しくないよ。私の孫になってくれるかい?」
「…はい。お祖父様」


 それからの生活はとっても幸せなものだった。
 暖かい布団に温かい食事。
 そして、家族がいて、愛し愛されることが出来る。
 本当に毎日毎日幸せだった。

 館はとても広くて、僕と花喃は毎日館の中を探検していた。
 今まで一度も見たことがないようなものがたくさんあって、とても楽しかった。
「あれ?何の音だろう」
 廊下を歩いていると、一番奥の部屋から何かの音が聞こえた。
 それは音楽だった。
 今まで一度もきちんと音楽というものを聞いたことが無くて、とても興味があったから、僕と花喃はその音のする方へと向かった。
 大きな扉をそっと開く。
 その時、僕らの目に入ったのは、とても大きな楽器を弾いているお祖父様の姿だった。
 楽器を弾くお祖父様の顔はとても優しくて、幸せそうで目が離せなかった。
「おや、気付かれてしまったかな?」
 僕らの姿に気が付いたお祖父様がそう呼びかける。
 「ごめんなさい、勝手に入って…」
「いいんだよ。まだ下手くそだから少し恥ずかしいがね。
 ほら、興味があるならもっと近くに来なさい」
 僕らは言われるままに近寄った。
 とても興味があったから。
「これはなんと言うんですか?」
 僕はお祖父様の弾いていた楽器を指してそう訊ねた。
「これは『チェロ』という楽器だよ」
 チェロ……とても不思議で仕方がなかった。
 気でできているこの楽器にはたった四本の糸が張られているだけだった。
 それなのに、あんなにたくさんの音が出ていて…。
「悟能も何か楽器をやってみるかい?」
「それなら僕はあれがやってみたいです」
 僕は部屋の中心に置かれている、チェロよりももっともっと大きい黒い楽器を指してそう言った。
 この部屋に入ったときからすごく興味があった。
 前に絵か何かで見たことがある。
「あぁ、これは『ピアノ』と言うんだよ。
 悟能、おいで」
 お祖父様に招かれて僕は『ピアノ』の前に立った。
 お祖父様が蓋を持ち上げると、白と黒の『鍵盤』が姿を現した。
「ここを押してごらん」
 その白い鍵盤を指でそっと押すと、ポーンと綺麗な音が鳴った。
「綺麗な音だろう」
 本当に綺麗な音だった。
 この楽器で『音楽』をやってみたいとすごく思った。
「花喃何かやりたい楽器はあるかい?」
「お祖父様、私はお歌がやりたい」
「声楽か。花喃は綺麗な声だからきっと上手に歌えるよ。
 そうだ、今度『ピアノ』と『歌』の先生を喚んであげよう」
「ほんと?」
 とても嬉しかった。
 音楽がやってみたかったから。
 その時から音楽に惹かれていった。


 ピアノはとても楽しかった。
 毎日練習していても厭きることはなかった。
 上手に弾けるとお祖父様はとても褒めてくれたし、自分でも嬉しかった。
 花喃と一緒に合わせたりもした。
 双子だから、互いの考えていることがわかるから、とても自然に合わせることができた。
 花喃と合わせるのは楽しかった。
 お祖父様とも一緒に演奏した。
 三人で合奏した。
 アヴェマリアが一番好きだった。
 よく三人でアヴェマリアを演奏した。
 その時が一番幸せだと思った。
 この幸せが何時までも続くと、その時は信じていた。


 十四歳の冬 ───
 お祖父様が倒れた。
 毎日毎日お医者様が来たけれど、お祖父様の体調は一向に良くはならなかった。

「お祖父様…しっかりして」
 お祖父様の手を強く握る。
 でも、握り返してくる力はとても弱いものだった。
 きっと、とても辛いのだろう、苦しいのだろう。
 それでも、お祖父様は僕たちに微笑んでくれた。
「私の知り合いが音楽院をやっているんだ」
 春になったら悟能と花喃もそこへ通うといい」
「いえ…ずっとお祖父様の側にいます」
 お祖父様のそばから離れたくなかった。
 離れたら…もう二度と会えないような気がするから。
「お前達は優秀だから、きっと良い音楽家になれる…。私はずっと音楽家になりたかった。でも、その夢を叶えることができなかった。だから、私の代わりに私の夢を叶えて欲しい…」
「お祖父様……」

 でも、春を迎えることなく、お祖父様は息を引き取った。


 お祖父様はいなくなってしまったけど、花喃と二人で力を合わせて生きていこう…そう思っていた。
 音楽家になるという、お祖父様の夢を叶えたかった。

 でも、そんな時にあの男が帰ってきた…。

「ジジイが面倒見てたガキってのはお前等か?」
 家を出ていたお祖父様の息子…。
 偶に金をせびりに家に戻ってきていたらしいが、お祖父様が気を遣って合わせないようにしてくれていたから、実際に見るのは初めてだった。
「そんな金があるなら、もう少し俺にくれればいいものを」
 四十歳ぐらいだろうか…。
 お祖父様には全く似ていなかった。
 優しいお祖父様と違って、嫌な感じがした。
 酒の臭いがここまで伝わってくる。
「まぁ、お前達別嬪さんだから、金かけた分はちゃんと働いて返してもらうぜ」

 ─── その日から悪夢のような生活が始まった。


 毎晩のようにあの男に陵辱された。
 僕も花喃も。
 逆らえば鞭で打たれ、食事を抜かれた。
 だから、どんな酷い目にあってもじっと耐えた。
 あの時のようだ。
 まだ孤児院にいた頃、温かい食事のためだけに自分の身を捧げていたあの頃のよう…。
 あんな生活はもう二度と無いと思っていたのに。
 あっという間に戻ってきてしまった。
 人間以下の扱いに。
 それでも、じっと耐えるしかないのだ。
 早くこの悪夢が終わるように祈って。

 でも、悪夢はそれだけではなかったのだ。

 今までのは、ただの前奏曲(プレリュード)にすぎなかった。

 男は頻繁に夜会を開いた。
 僕と花喃はそこで演奏することになった。
 初めは男の意図が分からなかった。
 それでも音楽を演奏することができて嬉しかった。
 でも、それは夜会というなのオークションだったのだ…。
 僕らが演奏している間に客達は僕らに値を付ける。
 そして、一番高い値を付けたものに一晩買われるのだ。
 これが男の言っていた『働いて返す』ということだったのだ。


 こんな生活がずっと続いた。
 いつまでたっても悪夢は終わらない。
 もうこんな生活を続けたくない…。
 だから、逃げよう…。

 僕とか何はここから逃げ出す計画を立てた。
 決して見つからないように、綿密な計画を立てて。
 この街を出よう。
 誰も知らない街へ行って、一から始めよう。
 そうやってお互いを励まし合った、あと少しだけだから頑張ろうと…。

 計画の日まであと数日という、ある日。
 ─── 花喃は死んだ。
 あの男に殺されたのだ。
 ただ面白がって…。
 行為の最中に遊びで首を絞めていたら、そのまま動かなくなったって…。
 大して気にした風でもなく、あの男はそう言った。

 花喃……。
 唯一の肉親、僕の半身。
 それを失ってしまった…。
 あと少しだったのに。
 二人でこの館を逃げ出して、幸せになろうと約束したのに。
 それなのに…花喃は死んでしまった。


「悟能、どうしたんだい?元気がないねぇ…」
 この男が花喃を殺した。
「花喃がいないからかい?可哀想に」
 この男が全てを奪った。
「でも大丈夫…」
 この男が……。
「君もすぐに花喃の側に連れて行ってあげるよ」
「……あ…」
 腹部に痛みを感じた。
 男の持つナイフが僕の腹を斬りつけたのだ。
「悟能は苦しむとき、とてもいい顔をするね。もっと見たいよ…」
 死ぬことは怖くなかった。
 死ねば花喃とお祖父様に会える。
 でも ───
「…!?悟能、何を……」
 この男だけは許せない…。
 この男だけは生かしておけない。
 ずっとお守り代わりに持っていた小さな懐剣が男の喉に突き刺さる。
 こんなに小さな剣だって、場所を選べば人を殺すことだってできる。
 男は二、三度震えるとそのまま動かなくなった。

「…花喃……」
 仇を討つことはできた。
 でも、花喃は戻らない。
 失ってしまった幸せはもう二度と手に入らない。

 血の流れる傷口を押さえながら立ち上がる。
 そして、ゆっくり一歩一歩前に進む。
 どこに行きたいのかはわからなかった。
 それでも足はどこかに向かって動いていた…。

 


「八戒……」
 静かに涙を流す八戒をそっと抱き締める。
 まさか、八戒の過去にそんなことがあったなんて。
 それなのに、自分は知らず知らずのうちに八戒を傷つけてしまったのだ。
 八戒はこんなにも苦しんでいたのに、自分はそれに気付くこともできなかった。
「八戒、大丈夫だ。俺が守ってやるから。もう八戒にそんな辛い思いはさせない。だから…音楽を捨てないでいてくれ」
 確かに、八戒はもう音楽をしたくないほどに傷ついた。
 それでも、音楽を捨てないでいて欲しかった。
「悟浄…」
「音楽家になるのは、お前のじーさんと姉さんの夢だろ」
 そして…八戒の夢……。
「叶えろよ。音楽家になるって夢を叶えてくれよ」
 たとえ、どれだけ時間が掛かっても、その夢を諦めずに追って欲しい。
 それが悟浄の望みだった。
 八戒は音楽を創ることを望んでいる…彼の演奏からそう伝わってくるのだ。
「俺も絶対に音楽家になる。だから、二人で夢を叶えようぜ」
「…悟浄……はい」


 あれから八戒は人前でピアノを弾くことはなかったが、家では毎日のように弾いていた。
「八戒は誰の曲が好き?」
 悟浄がピアノを弾いている八戒の楽譜を覗き込むようにしてそう訊ねる。
 置かれている楽譜はショパンだった。
 これは前、一度悟浄が弾こうとして買ったものの、弾けなくて投げ出したものだった。
「んー…そうですね。そんなに好き嫌いはありませんよ。それにそんなに曲を知っているわけでもありませんから」
 八戒がいつも弾くのは悟浄の家に楽譜のある曲ばかりであった。
 新しい楽譜を買う金もあまりない。
「わりーな。あんま楽譜持って無くて…」
 悟浄の持っているピアノの楽譜は誰でも知っている有名な曲ばかりであった。
 悟浄自身、あまりピアノには興味がなかったからだ。
 一応、ピアノを貰ったときに数曲買ってみたものの、出来ないのでポイしていた殆ど未使用な物体である。
「悟浄はピアノ弾かないんですか?」
 この家に来てずいぶんたつが、悟浄のチェロは何度も聴くのに、ピアノは一度も聴いたことがない。
 そもそも、初めにこのピアノを見つけたときは、その存在がわからないぐらいに埋もれていた。
「俺、ピアノはどーもダメなんだよ…。
 だいたい、上の段(ト音譜表)見て、下の段(ヘ音譜表)見て、オマケに手元(鍵盤)見れるかってんだよ。ピアノ弾くヤツなんて人間じゃねぇ」
 悟浄のその定理からすれば、一体どれだけの人が人間外になるのだろう。
 無茶苦茶なことを言う悟浄に、八戒は思わず笑ってしまう。
「俺は根っからの単旋律人間だからいーんだよ」
 まぁ、確かにチェロは一つの旋律だけでよいのだから。
 それに慣れているのであれば、和音や複数の旋律を読むのはきついだろう。
「そういえば、悟浄はどうしてチェロをやろうと思ったんですか?」
 考えてみれば、今まで一度も悟浄がチェロを始めた理由を聞いたことがなかった。
 悟浄は何故『チェロ』という楽器を始めたのだろうか。
「さーな、昔のことだから忘れちまったよ」
 本当に忘れてしまったのか、嘘を吐いているのかはわからなかった。
 でも、なんだか悟浄がとても遠い目をしていて、八戒はそれ以上理由を聞けなかった。
「じゃあ、今音楽を続けている理由は何ですか?」
 理由を聞くかわりに八戒は悟浄にそう訊ねる。
 貴方は今、何故音楽を続けているの?
 音楽が好きだから?
 何よりも音楽が好きだから?
「まだ、好きになる可能性を秘めた曲がこの世の中にたくさんあるから…かな」
「好きになる可能性を秘めた曲?」
 悟浄から返ってきた言葉は意外なものだった。
「俺が知ってる曲なんて、この世の中にある曲の極一部でしかないだろ。まだまだいっぱい曲はある。俺は今まで自分で演奏した曲は全て好きだ。一生懸命練習すれば、どんな曲だって良い部分が見えてくる。いや、一生懸命やったからこそ見えてくるんだ…。そんなところをもっと知りたい。」
 ただ聴いただけで好きになるのとは違う。
 何度も何度も…わからなくて苦しんで、そうして全てを乗り越えたあとには何もかもが見えてくる。
「すごい…そこまで考えているんですね」
 悟浄は自分が考えているよりもはるかに音楽を考えている。
 もっと上のものを求めているんだ…。
「俺、ホントはオケ(オーケストラ)がやりたいんだ」
「どうしてですか?」
「オケってさ、すっげえいろんなパートがあるじゃん。ただ聴いていたら旋律しかわかんない。でも、ホントにただ聴いてたら気付かないようなことやってるパートもある。でも、そのパートも必要なんだよ。絶対にいなきゃいけない。一つも欠けちゃいけないんだ。誰も要らないヤツなんていないんだよ。どんな、闇で聴こえないようなことをやってるヤツでも」
 要らないヤツなんていない。
 必要とされるのだ。
「音楽と人間社会って繋がってるよな」
 悟浄は音楽を通じてこう言いたいのだ。
 この世の中に要らないヤツなんて一人もいない…と。
 どんなに、いるかいらないかもわからない、いなくたって何も変わらないようなそんな人でも、必要のない人間など一人もいない、と。
「それにさ、オケに入って弾いてると表から見てるのと全然違うトコ見えてくるんだ。本当に気が付かないようなパートがすっげえ好きになることもある。そうやって他人知ることができるしな」
 全ての人が集まって、少しずついろいろな音が集まってそうして曲になる。
 それは一つの世界なのだ。
 悟浄はその一つの世界に入りたいのだ。
 他人を求め、自分を求められたい。
「僕は逆ですね」
「八戒?」
「僕はきっと一人で全てを完成させたいのですよ。ピアノはそれだけで…一人で曲を完成させることが出来ます。誰の力も求めない、自分の力だけで…」
 今まで考えたことがなかったけれど、そう考えると全てが当て嵌まる。
 だから自分はピアノを選んでいるのだろう。
 自分は誰の力も求めていない。
 自立したかったのだ。
 他の人の力を借りなくても生きていけるようになりたかった。
「僕は人をどう求めたらいいかわからないんです」
 ピアノという一人の世界にいたから。
「ならさ、俺の伴奏やってみねぇ?まずはさ、俺のこと知って、俺に求められて、俺のこと求めてみろよ」
「え…?」
 それはどういう意味だったのだろう。
 言葉通りの意味なのだろうか。
 音楽だけの話?それとも音楽を通じて…。
 八戒は悟浄という人が気になっていた。
 もっと彼を知りたい。
 彼の音楽も彼自身も…。
 でも……。
「ありがとうございます。
 …でも、ごめんなさい」
 彼のことは知りたい、それでもまだ他人を求めることは出来なかった。
 失ったものが大きすぎて…。
 そんなにすぐに他の人を求めるのは怖かった。
「そっか」
 悟浄はそれだけしか言わなかった。
 彼にはわかっていたのだろう。
 八戒がそんなにすぐ過去を断ち切ることが出来ないことを。
 だから、焦るつもりもなかった。
 今は待とう。
 八戒が自分に少しでも目を向けるのを。
「今度、何かオーケストラの演奏会でも聞きにいこうぜ」
「……そうですね」

 

 絶対音楽家になろうといったところで、そんなすぐに夢は叶ったりしない。
 結局やっていることは今までと同じ。
 酒場と数回の夜会で何とか食い扶持だけは稼げているという感じだ。
 少し余る金は楽譜やレコードや演奏会のチケット代へと消えていく。
 ただ、毎日必死で生きている。
 こんなので本当に音楽家になれるのだろうか、とたまに心配になるぐらいだ。
 でも、そんな時チャンスが巡ってきた。

 それはいつもの伯爵夫人の夜会のあとのことだった。
「ホントですか!?」
「今度の張侯爵のサロンで貴方に演奏をお願いしたいそうよ。
 その結果次第では、貴方の活動に援助する。そう仰有っていたわ」
 これはかなりのチャンスだ。
 貴族の援助が付けば今までとは変わってくる。
 このチャンスは絶対に逃せない。
「悟浄、頑張ってね。私、貴方の音楽好きよ」
「ありがとうございます」


 このことを話すと、八戒はまるで自分のことのように喜んでくれた。
 今回のことはもう自分一人の問題ではなくなったのだ。
 …二人の夢だ。
 だから、絶対に失敗は出来ない。
 絶対に…。


 なんだかんだでその日は来てしまった。
 準備は万端……のはずだった。
「悟浄…どうしましょう」
 サロンについてきた八戒が心配そうに言う。
 …伴奏者が事故に巻き込まれて間に合わないのだ。
 せっかくここまでやってきたのに…。
「伴奏無しでやる…」
 ここまで来て『伴奏者がいないから出来ません』なんてことは言えないのだ。
 演奏しなくてはならない、例え一人ででも。
「悟浄、伴奏譜の予備はありますか?」
「…八戒?」
「僕が伴奏します」
 もう伴奏はしないと言っていたのに。
 お祖父様と花喃以外とは合わせられないと言っていたのに…。
「でも、一度も会わせてないのに…」
 慌てる悟浄に八戒はにっこりと微笑む。
「大丈夫です。貴方の演奏は毎日聴いていますから。貴方はいつも通り演奏してください。僕が合わせます」
 もう伴奏しないなどと言っている場合ではない。
 これは二人の夢なのだから…。


 演奏するのは全部で五曲。
 伴奏自体はさほど難しいものでもない。
 でも、合わせなければならない。
 悟浄の作り出す音楽に集中する。
 彼がどう音楽を創りたいのか考える。
 ……悟浄の言っていた通りだ。
 聴くのと一緒に演奏するのでは違う。
 悟浄の音楽が、もっともっと伝わってくる。
 悟浄の作り出す音楽は本当に悟浄らしく素直で…とても心地よい。
 彼の音楽が好きだ。
 …あぁ、自分は悟浄(傍点)が好きなのだ。
 そう気付いた。
 ずっとこうして合わせていたかった。
 アヴェマリア…。
 彼のアヴェマリアは今まで聴いた中で一番良かった。
 どことなく、お祖父様と花喃のアヴェマリアに似ている。
 とても暖かくて幸せだ……。


 演奏は成功に終わった。
「八戒、サンキュ」
「いえ、こちらこそ」
 こんな機会がなければ自分は悟浄の伴奏をすることはなかっただろう。
 そうなれば、この音楽に出会うこともなかったのだ。
 本当の伴奏者には気の毒な気がするが、事故に感謝したいぐらいだった。
「とても素晴らしい演奏だったよ」
 拍手と共に張侯爵が姿を見せる。
「張侯爵、今回はお呼びいただきありがとうございます」
「いや、本当に素晴らしい演奏だったよ。是非私に援助させて貰いたい」
「本当ですか?」
「あぁ、これからも良い演奏を頼むよ」
「ありがとうございます」


「悟浄、おめでとうございます」
 演奏は成功で、悟浄に貴族のバックがついた。
 これで音楽家として一歩踏み出せるのだ。
 「サンキュ。でも今回は八戒のおかげって感じだな」
 伴奏無しでやっていたらこうはならなかっただろう。
 それに、八戒とだからあそこまで良い演奏が出来た、そんな気がする。
 八戒の伴奏はとても合わせやすく、充分に歌えることが出来たのだ。
「八戒との音楽…すげぇ良かった。今までの誰とよりも良かった…。
 それで俺、わかったんだ…八戒のこと愛してる。お前と一緒に音楽が創りたい。改めて、伴奏頼みたいんだけど…」
 八戒を見つめる悟浄に八戒はゆっくりと微笑みを浮かべる。
「僕も、貴方と音楽をして、とても心地が良くて幸せでした。…貴方のこと、好きです。伴奏、引き受けさせてください」
 ゆっくりと抱き締め合う。
 そして、どちらからともなく唇が重ねられた。
 …伝わってくる体温は、音楽と同じくらい暖かかった。

『ずっと一緒に音楽を創ろう』

END

 

 

Op61〜80に戻る