期待 Op60


『…じょう…悟浄…起きて下さい…』
 まだ半分夢の中に居る俺を…誰かが起こしに来ている。
 その声に、うっすらと目を開けるが、陽の光の眩しさにすぐに目を閉じる。
 目を閉じると、またうとうとと夢の中に引き戻される。
『…もう……いいかげんに起きて下さいよ…』
 ふわりと優しい香りを感じる…。
 そして、俺の唇に何か暖かくて柔らかい物が触れる。
 ……あぁ…これはキスだ……。
 やわらかくて…気持ちが良くて…引き込まれそうになる。
 でも…それは軽く触れただけですぐに離れてしまう。
『…そろそろ起きて下さいね』
 …昨日は誰の所に泊まったんだっけ…
 まだ余り意識が浮上しない。
 重い目蓋を必死で開けようとする…。
 パタン…という部屋の扉の閉まる音に俺の意識が急に浮上する。
 ……?
 見回せば見慣れた自分の部屋…。
 …じゃあ、さっきのキスは…?

 

 


「おはようございます、悟浄」
 ダイニングに入るといつも通り、八戒がテーブルに俺の朝食を並べていた。
「…はよ……」
 その様子はいつも通りで…あまりにいつも通り過ぎて…。
もしかしたら…さっきのキスは夢…だったのだろうか…。
 でも夢にしては感触がリアルに残っている。
 まぁ、しかし俺もキスぐらいは何人ともしているわけだしリアルな感触のする夢を見られたとしても、そこまで不思議ではない…。
 でも…そう言う問題じゃない。
 ただおはようのキスをする夢を見たのと、親友とはいえ男におはようのキスで起こされたのじゃ…とんでもない違いだ!
「…なぁ、八戒…」
「どうかしましたか?」
 八戒が俺の手元にコーヒーを置き、俺を見上げてくる。
 その様子は、慌てているようには見えない。
「さっき俺の部屋に起こしに来たよなぁ」
「えぇ、悟浄なかなか起きないんですから」
 そうやって言う八戒にも違和感はない。
「じゃあさ…そんとき…」
 かえって俺の方がドキドキして慌ててしまう。
「どうしたんですか、悟浄。落ち着いてください。
 あ、そういえば今日は出かけるんじゃなかったんですか?」
 …そーいえばきょうは十一時半に女と待ち合わせしてるから八戒に十一時前に起こしてくれって言ったんだよな…。
「まだいいんですか?時間…」
 八戒の言葉に時計を見る……げっ…!
「俺出かけるわ。帰りは何時になるかわかんねーからメシはいいよ」
 慌てて上着をつかみ部屋の扉へ大股で進む。
「いってらっしゃい、気を付けて下さいね」
「あぁ」


 八戒と暮らし始めてからそろそろ一年になる…。
 もちろん八戒のことをそんな風に見たことはない。
 でも、この一年で…付き合っている女はコロコロと変わった。
 …っていうか、一ダースは変わったって感じだ。
 はっきりいって俺は人との付き合いが長く続かない…。
 だから女と付き合っても大体一ヶ月以内に別れてしまう。(すぐにまた別の女と付き合うけど)
 友達でも浅い付き合いのヤツとは長く続くが、深い付き合いの奴とはすぐにダメになる…。
 …だけど八戒は違った。
 もう一緒に暮らして一年になる。
 俺もまさか他人との生活がこんなにも続けられるとは思わなかった。
 すぐにダメになると思っていたのに…。
 他人と一緒に(しかも男)生活なんてウザイ…そう思っていたのに。
 意外だ…八戒は近くにいて…口うるさかったりしてウザイと思うこともあるけど…邪魔にならない…。
 それって、俺にとっては不思議なことだ…。
「悟浄!もー、話聞いてるの?」
「あ…あぁ……」
 目の前には相当怒った顔をしている女…。
 ちょっとやばかったかな…。
 俺は女を引き寄せると宥めるように軽くキスをする。
 …………。
 唇に伝わる感触も…かすかに香る香水も今朝のとは別の物だ…。
 あの唇の感触は…。
「…悟浄…別の人のこと考えてるでしょう…」
「…あ…いや、あの……」
 イイワケする前に飛んでくる容赦ない平手…。
「悟浄のバカ、死んじゃえ!」
 …そんな言葉を残して女は帰っていった。
 またフラレタ…?
 今回は珍しく一ヶ月保ってたのになぁ…。
 まぁ、仕方ないかと思い、打たれた頬をさする。
 打たれた頬は痛かったが、心は痛くなかった…。

 


「ただいまー」
 夕飯いらない=今日は帰らない、のつもりで言ったのに…今はまだ日が傾きかけた頃…。
 そのまま時間を潰して酒場に行っても良かったけど、この手形の付いた顔では恥ずかしい…。
 その上、今日別れた女は酒場で働いてんだよな…。
 さすがに当分あそこで女は引っ掛けられねぇな…。
 やっぱり、店の人間に手を出すのは控えよう…。
「…あれ、悟浄どうしたんですか?」
 居間から八戒が出てくる。
 そして俺の顔(おそらく手形)で視線が止まる。
 八戒の顔を見れば必死で笑いをこらえているという感じであった……。

 

「はい、コーヒー。すみません、笑ってしまって」
 まだ少し、クスクスと笑いながら八戒が俺の前にコーヒーを置く。
「で、どうしてフラレちゃったんですか?」
「う…。別にいいだろう…」
 俺としたことが女の前だってのに他の人のこと考えててフラレたなんて言えるかよ…。
それがしかも…お前のこと考えていたからだなんて…。
「それより、少しぐらい慰めてくれたっていいだろう」
 いぢけた俺の様子に八戒は「そうですね」と言い立ち上がる。
「悟浄は格好いいですから、すぐにいい人があらわれますよ」
 八戒は俺の真横に立ち、俺の頭を小さい子にするみたいに撫でる…。
 俺はガキか…。
 ………?
「なぁ、八戒…香水かなんかつけてる?」
 ここまで近くに寄らなければ感じることのないくらいかすかな香り…。
「気付きました?今朝掃除してたときに出てきたんです。
 昔知り合いにもらった物なんです。そんなにつけてないから気付かないと思ったんですけどね」
 …この香りは…朝…あの夢の中で……。
「さて、僕は買い物行ってきますね。悟浄、今日は帰らないって言ってたからまだ買い物行ってないんですよ」
「あ、あのさ…」
「なんですか?」
 …今朝のことを聞こうと思ったのに、いざ八戒の顔を見るとなにも言えなくなってしまう…。
「いや…なんでもない…。夕飯、旨いヤツ頼むな」
「…?はい。悟浄の傷心パーティ(←ヒデェ…)ですからね」

 

 

 あの香りは間違いなく…夢の中で感じた香りだ…。
 あんなに近くに寄らなければわからない香り…。
 じゃあ…あのキスは…本物だったのだろうか。
 あのキスは…。
 …なんでこんなにドキドキしてるんだ?
 …なんでこんなに…。

 

 

「悟浄、たくさん食べてくださいねv」
 テーブルの上には二人では食べきれないぐらいの料理。
 しかも普段より手が込んでいる。
 …本当に傷心パーティなのか?しくしく。
 こーなったらヤケ食いだ。
「おいしいですか?」
 そんな俺を八戒は優しい表情で見守っている。
 …本当に心配してくれてたのかな…。
 八戒の優しさが心苦しくて、ちょっと胸が痛む気がした。
「あのさ…」
 お礼を言おうと八戒を見る。
 しかし、俺の視線は八戒の唇あたりで止まってしまう。
 …柔らかそうな唇……。
 ……って、俺は何を考えてるんだ。
 相手は男で親友で同居人で……。
 そんな相手に欲情してたら…俺は…人間失格…。(妖怪だけど)
「どうしたんですか?」
八戒が俺の顔を覗き込む…。
 ほのかな香水の香りが…。
 そして、もう少し近付けば触れられるような位置に八戒の唇…。
 このまま…もう数センチ近付くだけで…。
「悟浄?」
 ……俺…何しようとしてるんだ…。
 心臓がこれでもかってぐらいな速さで脈を打つ。
 きっと顔もタコのように赤いだろう。
 俺、みっともない……。
 …でもここまでみっともない思いをしたのなら、どこまでみっともないことしたって同じだ。(ヤケッぱち)
「なぁ、八戒。今朝、部屋まで俺のこと起こしに来たよなー」
「えぇ、行きましたよ」
 俺は大きく息を吸い深呼吸する。
 そして、覚悟を決める…。
「そん時、俺に何かした?」
「え?ただ起こしただけですよ」
 八戒はきょとんとした顔をする。
 …ってことは…やっぱ夢?
「…そっか……」
 俺はがっくりと机に突っ伏す…。
 あー、何かショックだ…。
 でも、何でこんなにショックなんだ?
 男にキスされたわけじゃないんだから別に良かったことなのに。
 それなのに…俺は…その…八戒のことが好きなのか?
 そんな…相手は男なのに…。
 でも、八戒のことを見てるとドキドキしたり…キスしたいと思ったりって…好きって事なんだよな…。
「悟浄、どうかしたんですか?突然机に突っ伏したりして…」
 八戒の手が俺の髪にそっと触れる。
 俺は八戒の手をつかみ、がばっと起きあがる。
「八戒…」
「わ…どうしたんです、いきなり…」
 俺の突然の行動に八戒が慌てる。
 そんな八戒を引き寄せて抱きしめる。
「突然こんな事言って気持ち悪いと思うかも知れねえけど、俺…お前のこと見てるとドキドキして…たぶん…お前のことが好きだと思う!」
「たぶん…なんですか?」
「いや…その…好きだ、愛してる…」
 そのまま強く八戒を抱きしめる。
 八戒は黙ったまま何も言わない…。
 …怒ってるのか…?
 男にいきなり告られて抱きしめられたら怒るか…。
「八戒…?」
 そっと八戒の顔を覗き込む。
「…ありがとうございます…嬉しいです」
 少し恥ずかしそうに八戒が俯く。
「…その…僕も貴方のこと…好きですから…」
 ……??
 マジか?マジでか?
「八戒……」
 居間までいろんな女をナンパしたりしたけど、ここまで嬉しかったことはない…。
 こんな想いになったのは…お前が初めてだ…。
 その気持ちを伝えるように八戒にそっとキスをする…。
 ……ん?
 この感触は…今朝の…。
「八戒…本当に今朝俺に何もしてない…?」
 その質問に八戒がくすりと笑う…。
 さっきまでの表情とは全く違う…。
 「ただ起こしただけですよ」
 ただ起こしただけ…キスでか?
 八戒はクスクスと笑いながら台所に戻っていく。
 取り残された俺はボーゼンとしてしまう。
 ……もしかして…俺はハメられた?
 まんまとアイツの策略にはまったってヤツですか?
 あのたった一つのキスで…。
 何を言ってもあとの祭り…。
 結局の所、俺は完ペキにアイツにほれてしまったワケであって…。
 …………。


 こうして俺と八戒の関係は始まった…。
 あとのことは…想像に任せる……。

 

 

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