Grand Duo Concertant Op.45
永かった天竺への旅が終わりました。
全てが終わったとき、悟浄は僕に言ってくれました。
『あの家へ帰ろう』
そう言って差し出された手を、僕は取って良いのでしょうか。
貴方とまた共に暮らしたい。
それは心の底からの本心です。
でも……
僕は貴方の手を取ることを…赦されますか……?
「懐かしいですね…」
旅に出るまで暮らしていた街…、といってもたったの三年。
それなのに、本当に帰ってきたのだと実感できる場所。
旅に出る前と殆ど変わらない街の風景になんだか目頭が熱くなる。
どうしてでしょう。
たとえ花喃と暮らしていた街に戻っても、孤児院のあった街に戻っても、きっとこんな気持ちにはならないでしょう。
それほど、あの三年が大きかった…。
家に通じる森の小道もあの時のまま。
木々の隙間から漏れる光…。
風に乗って流れてくる自然の香り…。
明るい鳥の囀り…。
全てが懐かしくて…
そして…
ここに戻ってこられたことが本当に幸せです。
すべてのモノに感謝できるぐらいに…。
…幸せです……
もう平和に戻ったんですね…。
もう…何者の命も…奪わなくて良いんですね……。
いくら自分の身を守る為でも…
いくら…相手が妖怪でも…
僕は旅の間に多くの命を奪った。
これだけはいつになっても慣れることはない。
平気な顔をしていても…苦しかった。
もう、血を見ることも血を浴びることもない…。
この手が紅く染まることもなくなる…。
自分の罪が消えるわけじゃないけど
それでも、少し気が楽になります。
これからは…少しは自分の幸せの為に生きても良いですか?
こんな僕ですけど……
─── 幸せを願っても良いですか?
それが僕のささやかな願い…。
こんな自分勝手を、神サマは赦してくれないかもしれませんね。
「八戒、何してんだ。行くぞ」
「はい」
僕の願いは聞き届けられますか?
ね、神サマ…
「やっぱり、しばらく放っておくと庭の草が凄いことになってますね」
あの家はやっぱり何だか『人の住んでいない家』という感じになってしまっていた。
一生懸命手入れをした花壇も、庭との境目すらわからなくなってしまっている。
……少し悲しいですね。
でも、また育てればいい…。
また、一から始めよう。
新たな生活を……。
「とりあえず、まずは掃除をしましょうか」
「げ、マジで?旅疲れもあるってのに?」
悟浄が『ガクッ』という感じで座り込む。
「…掃除をしないと埃っぽくて眠れませんよ…」
確かに疲れもあるので僕だって掃除をしたいというわけじゃないですけど…。
一年以上も空けた家のベッド…というのも考えるだけで恐ろしくって眠れない…。
「えー、でもさー…」
それでも悟浄はなんだかんだとごねている。
仕方ありませんね…。
「じゃあ、僕が掃除しますから、貴方は買い出しに行ってきてください…」
全ての部屋をまわって窓を開ける。
まずはこの埃を追い出さないと…。
「…とりあえずは使うところだけで良いですよね……」
そう確認するように一人で呟く。
まずは自分の部屋と悟浄の部屋に行ってシーツを取ってくる。
それを洗濯機に入れ、洗っている間にマットを干し、簡単に部屋の掃除をする。
自分の部屋はそんなに汚れておらず、軽く埃を落とし箒をかけて雑巾で水拭きするだけで終わった。
……問題は…
「…悟浄の部屋ですね……」
思わず溜息が出てしまう。
さっき、シーツを取りに部屋に入った時点で…かなり嫌でした。
出かける前にあれほどちゃんとして下さいって言ったのに…。
やっぱり灰皿から吸い殻が溢れているし…(埃も混じってますね…)
洗濯物が散らばっているし…(これは全て洗い直しですね…)
この…地球外の物になっていそうなコーヒーカップ…(飲み残しがあったらしく…植物生えてるんですけど…)
この部屋を掃除するんですか…僕が……。
昼頃から始めた悟浄の部屋の掃除を終える頃にはすっかり夕方になってしまっていた…。
乾いた洗濯物を取り込み畳む。
…お日様のいい匂いがしますね……。
こんなことで安らいでしまうなんて…僕、かなり疲れてるみたいです…。
「…そういえば、悟浄遅いですね」
昼過ぎに出かけていったのにまだ戻らないなんて…。
……どこかで遊んでいるんでしょうか…。
仕方ないですね…。
頼み忘れた物もありますし、街まで行きますか…。
「悟浄。もう、何油うってるんですか」
街へ出てみると案の定、悟浄は買い物もせずに喋っていた…。
……ふぅ…。
「…人に掃除をさせておいて…」
「ワリィ、久しぶりだったもんで…ついさ」
悟浄は大して反省した様子もなくそう言う。
…まったく。
「ちゃんと買い出しをやってくれないと夕飯の支度が出来ないじゃないですか」
「はいはい。もう帰るって」
「………?」
僕らの様子に悟浄と話していた男の人が笑う。
「…なんですか?」
「あ、ゴメンゴメン。何か八戒さん変わったよね」
「そうですか?」
自分では旅の間、そんなに変わったとは思ってはいないんですけど…。
「んー、前はさ、気の付く同居人。どっちかというと、なんて言うか家政夫さんって感じ」
家政夫って…。
確かに、掃除洗濯食事の支度は僕がやってましたけど…。
「……今は?」
「完璧奥さんだね。しかも悟浄尻に敷かれっぱなし」
そう言って男の人は、ははは…と笑う。
まぁ、…冗談なんでしょうけどね…。
「もしくはお母さんだね」
………お母さん…ですか…。
「悟浄、御飯出来ましたよ」
確かに旅に出る前よりも世話焼きになったかもしれない…。
旅の間ずっと悟空と悟浄と三蔵の世話というか面倒を見ていたようなものですし…。
「はい、悟浄。御飯これくらいで良いですか?」
母親…といったらそうなのかもしれないですね。
でも奥さんっているのはどうかと思うんですけど…。
「八戒」
「なんですか?」
「コレ、すっげぇ旨いよ」
「ありがとうございます」
…こうやって僕の作った御飯をおいしいって食べて貰えるのは…嬉しいですね。
こうやってずっと作ってあげたい…。
……………。
ずっと一緒にいたりとか、ずっと御飯を作ってあげたいっていうのは…どういう種類の気持ちなんでしょう…。
男性が男友達にそう想う気持ちと…
女性が好きな男性にそう想うのは…
…別のものなのでしょうか……
「…すっかり遅くなってしまいましたね」
あれから一ヶ月…。
僕と悟浄は普通に…平和に暮らしています。
そんな中、時折思うんです…。
僕にとって、悟浄は特別な存在なのかな…って…。
そんな風に思えてきて…
悟浄のことが気になってしまうんです。
彼の為に食事を作ってあげることも、
彼の為に洗濯してあげることも、
彼の為に掃除してあげることも、
悟浄の為って思うと、何かとっても幸せなんです。
変ですかね…こんな気持ち…
「はやく夕飯の支度をしなくてはいけませんね…」
そう思って、少し笑えてきてしまう顔でドアを開ける。
「………」
夕日が射し込み紅く染まっている玄関。
そこに立てられている姿見…。
鏡に映った僕の碧色だけが妙にはっきり見える。
その鏡の自分が笑った…。
─── お帰りなさい、悟能。
「……花喃…」
「…今日のオムレツ…でかくない?」
悟浄の目の前には卵を五つほど使った巨大なオムレツが…。
「すいません。買い物袋落としちゃって…卵が割れちゃったんです…」
「ふぅん。お前でもそういう事するんだ、珍しいな」
悟浄は特に気にした様子もなくオムレツを食べ始める。
落としてしまった買い物袋…。
その理由は……。
……花喃…
鏡から現れた…もう一人の自分…。
花喃と同じように笑う…。
そして…その姿が…自分から少しずつ花喃に…。
─── 悟能……。
…聴こえた…彼女の声が…
僕を攻めるような声…
僕が…
僕だけが幸せになることを赦さないと…。
まるでそう言うかのように聞こえた彼女の声。
ただ、名前を呼び続ける…。
─── 悟能…
過去の名で僕を呼ぶ…。
僕を過去に止めておくように…。
僕には…未来が無いかように…。
「八戒?どうかしたのか?」
「いえ、何でもありませんよ。スープもあるんですよ。今つけますね」
悟浄の声……。
「スープって…たまごスープ?」
「えぇ。たくさん食べてくださいね」
彼の声で呼ばれる…。
…八戒……と。
その言葉が呪文のように、僕を『八戒』へと戻す。
過去を見えなくする。
そして…
未来を見せてくれる気がするんです。
赦されませんか?
過去を忘れた振りをすることも…。
未来を夢見ることも…
貴方と一緒にいることも…
───
悟能……
私たち、いつでも一緒よ…
だって同じ運命を共有しているんですもの。
だから…
貴方だけ幸せになることなんてできないの
私は貴方の物…
そして…
貴方は私だけの物なんですもの…
ねぇ…悟能……
「…花喃……」
君は…
君はもう僕の前にいないのに…
あれだけ求めていた時には、現れてくれなかったのに…
なんで…今になって現れる…
やっぱり僕のこと…恨んでいるの?
僕は幸せにはなれないの…?
「ねぇ…花喃……」
鏡に手をあてる。
伝わってくるのはひやりとした無機物の感触…。
花喃…。
君は…ここにいるのに…ここにいない……
ここにいないのに…ここにいる……。
どうしてそんな顔で僕のことを見るの…?
ねぇ、花喃…
そんな目で僕を見ないで。
そんな声で…僕のことを呼ばないで…
花喃…
─── 悟能…
『悟浄のことを好きになってはいけない…』
数日考えて僕はそう結論を出した。
もともと…もう…誰も……
花喃以外に誰も一生愛さないつもりだった。
僕が悟浄のことを好きだなんて…
ただの思い違いだった…。
そう思って…
悟浄はただの友人だ……
もし、ただの友人だと思えないのならば…
ここを出ていこうと思う。
離れていれば、きっと彼への想いは消える…。
そうすることが一番良いんだ…。
花喃のことを一生想って過ごす…。
それが僕に出来る唯一の償い…。
彼女のことを裏切ってはいけないんだ…。
だから…
悟浄のことを好きになっては…いけない……。
「…一週間……ですか?」
悟浄がそのことを言ったのは、あれからすぐのことでした。
「そ、一週間だけ」
悟浄と親しい女性の一人と、昔いろいろと約束をしたらしいんです。
…酔ったときに……
まぁ、それが無理なんで、とりあえず一週間の同棲生活で手を打ってもらった…ということらしいです。
「じゃ、一週間で帰ってくるからさ」
そう言って悟浄は出かけていきました。
丁度良かった…
会わなければ…
あの瞳を見なければ…
あの声を聞かなければ…
平気だと…
彼への想いも消えていくだろう…
そう思ったのに……
その時はまだ気付いていなかった。
こんなに悟浄のことを好きになっているだなんて…
悟浄の居ない一週間……。
悟浄の居ない生活…。
それは、何か胸にぽっかり穴があいてしまったような…
何もやる気がおきない…
掃除も洗濯も食事の支度も…
一日中ぼんやりとしてしまう…
考えるのはあの人のことばかり…
……悟浄…
貴方は今何をしているのですか…?
…と言っても……
女の人の所なんですよね。
なんだか、胸のあたりがモヤモヤします…
嫉妬…というモノなんでしょうか……?
これも初めての感情です。
いろいろな感情が胸の中にあって…どうにかなってしまいそうです。
好きだから幸せだという暖かい気持ち。
どうすることも出来なくて苦しい気持ち…
モヤモヤとした、嫉妬による醜い気持ち…
……そして…
押し潰されそうな罪悪感……
─── 悟能……
花喃が呼んでいる……
あの頃の花喃だ…
お互いがいればそれで良かった…
他には何もいらなかった…
あの頃はまだ何も失っていない…
─── 悟能…私達、ずっと一緒よね
そして…まだ……何も見つけていなかった…
眩しいほどの光も…
燃えるような紅も…
─── 私達は一つよね
まだ何も……
そう…自分の世界がまだ狭かった頃…
海の外の世界を知らなかった頃のように
僕と花喃しかいなかった頃…
─── 悟能…?
これは過去……
もう二度と戻らない時…
いつまでも過去に捕らわれていては…いけない……
─── 悟能…
私を裏切るの?
私のこと、もう必要ないの?
「…花喃……」
─── だめよ、悟能…
私達一つ何ですもの…
花喃の白い手が僕の首に回される。
「…花喃、何を……」
─── 貴方だけ幸せになんて…させないわ……
花喃の手に少しずつ力がこもる…
息が出来ない…
「花喃…やめっ……」
─── … 悟能……
……貴方の中の私を消さないで…
「花喃……」
目の前には真っ暗な自分の部屋…
自分は夢を見ていたのだ…
花喃の夢を見るなんて久しぶりだ…
でも…花喃の夢で良い夢だったことはない……
もう…いい思い出として残せないのだろうか……
いつも花喃は僕のことを責めている…
「…貴女は……やっぱり僕のことを恨んでいるのでしょうかね…」
ゆっくりと息を吐く…。
そして、水でも飲もうかとベッドから立ち上がり何気なく窓の方を見た…。
「………花喃」
ガラスに映ったのは自分の姿ではなく…花喃……
ガラスの中からじっと自分を見つめる…
目を合わすことが出来ずに顔を背け、そのまま部屋を出る…。
……考えすぎ…
だから…花喃の姿が見えるだけ……
落ち着こう…
水を飲もうと思ってコップに汲んだ水…
その表面に映る…花喃……
手から滑り落ちたコップが床で砕ける…。
その破片の一つ一つに映るのも…花喃……
「…どうしてですか……」
いつまでも付いてまわる花喃の影…
自分が存在する限り…そこに花喃がいる……
逃れられない呪縛…
「僕のこと…恨んでいるんですね……」
花喃…
君が僕を望むのならば…
永遠に君と共にいるよ…
君だけのために…
そっと鏡に手を伸ばす…
鏡の中の花喃の手に触れる…
でも、伝わってくるのは冷たいガラスの感触だけ…
無機物の冷たさ…
本当にここに花喃はいるの…?
でも…花喃は鏡の中で笑っている…
これで満足ですか…?
……花喃…?
「ただいま」
あれから数日後…悟浄が帰ってきました……
でも、もう僕の心はここにはない…
「お帰りなさい、悟浄」
表面だけの笑顔…
無機物のような心…
これでもう何も辛くないんです。
貴方の側にいても…
心が何にも反応しないから…
「一週間、最悪だったぜ」
僕の煎れたコーヒーを飲みながら悟浄が笑う…
「やっぱり、一緒に暮らすと合う合わないがよくわかるよ」
そんな目で僕を見ないでください…
「お前といるときみたいに落ち着けねーしよ」
そんな言葉をかけないでください…
「お前との生活がやっぱり一番合ってるのかな」
そんな風に笑いかけないでください…
僕の心を隠せなくなってしまうから…
隠していた心が…表に出てしまうから…
だから…やめて下さい…
「そう言っていただけると嬉しいですね」
心を出してはいけない…
僕の心は…花喃だけのものなんだから…
コーヒーの水面に映る…花喃の姿…
とても冷たい瞳をいている…
僕を責めるように…
「僕…気分がすぐれないので先に休みますね」
彼の前にいては…
─── …悟能…
違うんだ…花喃…
もう…彼のことを愛してはいない…
─── ……悟能…
……本当に…
だから…
だからそんな瞳で僕を見ないで……
コンコン…と部屋にノックの音が響く…
「…悟浄……」
当たり前のことだけど、訪ねてきたのは悟浄…
「寝てたか?」
「いえ……」
「ちょっと…気になってさ…。何か様子おかしかったし…」
なぜ、そんなことに気付くのですか…?
僕のことは放っておいて欲しいのに…
「なんでもないです…ホントに…」
僕のことは構わないでください…
「そっか、一週間ぶりだしさ、ちょっと心配だったもんで…」
心配なんて…しないで下さい…
そっと方に回される腕…
そんなの彼にとって当たり前な行動…
今までも何度もあったのに…別に普通だったのに…
今では意識してしまう…
伝わってくる熱…
有機物の暖かさ…柔らかさ…
その熱に縋ってしまいそうになる…
……悟浄…
カシャーン
物の落ちた音で僕は我に返った…
あのまま取り込まれてしまいそうだった。
いや…取り込まれたかったのかもしれない…
あの熱に…
それを阻止したのは…花喃の時計…?
床に落ちた時計を拾い上げる…
冷たい金属の感触…
過去を留めている時計…
「…………」
どうして…
止まったはずの時計…
でも、今またその針が動き出す…
音を立てて…
いや…
動いているのに…その針は進まない…
足踏みをするかのように…動いているのに進まない…
止まってしまった過去はけして進まないのに…
それなのに、そこにあると主張する…
決して忘れさせないと…
訴えるように音を立てる秒針…
それは花喃の意思…?
「八戒…どうかしたのか…?」
……花喃…
「悟浄…もう、僕のことは構わないでください」
時計の音が聞こえる…
どこにいても…
眠っていても…
時計の音が耳について離れない…
……苦しい…
どうしたらいいかもわからずに…
どうすることも出来なくて…
ただ悩んでいる…
もう、悟浄のことも、花喃のことも好きなのかさえわからない…
僕を苦しめるだけなら…
消えてしまえばいいのに…
何もかも…全て……
鏡にあてた手に力を入れると…鏡にひびが入る……
映った姿が掻き消されていく
それとも…
自分が消えてしまえばいいのでしょうかね…
あれから悟浄は必要以上に僕に近付かなくなりました。
それは、僕が望んだこと…
でも、やっぱり辛いんです…
彼が近くにいても遠くにいても…
心が苦しくなる…
こんな気持ちはわからないんです…
どうしたらいいかも…
どうすればいいのかも…
彼のことが好きなのかも…嫌いなのかも…
何もわからない…
もしも…これが『恋』とか『愛』というものだとしたら…
花喃への気持ちは…あれは何だったのだろう…
僕が彼女に抱いていた気持ちは何と呼ぶのだろう…
好きとか…そういう感情ではなかった…?
ただ、お互い慰め合っていたのだろうか…
今となってはもうわからない…
どんなことであれ…花喃は……
自分が存在する限り花喃は存在するのだ…
一生………
その夜は雨でした。
土砂降りではなく霧のような雨…
雨音はしないけれど、雨の香りは部屋中に広がっている。
…酷く中途半端だ……
「…悟浄、遅いですね…」
最近、悟浄はまた外泊することが多くなった。
僕を気にしてでしょうけど…
だから待っている必要なかったし待つつもりもなかった…
ただ…眠れなかったから……
だから、こうしているだけ……
聞こえないほどの雨音の中に、水音…。
人の歩く音…。
悟浄が帰ってきたのだ…
「…珍しいですね……」
今日はもう帰ってこないと思ったのに……
雨の日だから…
いや、雨の日だから帰ってきた…?
「おかえりなさい、悟浄…」
今、会いたいのか会いたくないのかは、よくわからないけれど…
雨の日に一人でいるのは辛いけれど…
花喃がいるから貴方には会えない…
ポケットに入った懐中時計から伝わる秒針の振動は彼女の鼓動の音だから…
「お風呂湧いてますよ。そのままだと風邪ひいちゃいますから入ってきてください。
僕はもう休みますから」
そう言って部屋に戻ろうとしたところ、肩を掴まれる。
「待てよ、八戒…」
雨の匂いに混じって流れるお酒の匂い…
「悟浄、相当お酒飲んだんじゃないですか?
早く休んだ方が良いですよ」
「八戒、俺のこと避けるなよ…」
真っ直ぐ見つめてくる紅い瞳…
「……悟浄…」
動けなくなる…
そのまま抱きしめられて口付けられる…
「…やめて下さい…悟浄……」
そんなことをされたら…
「俺、お前のことが好きだ」
そんなことを言われたら…
自分を抑えきれなくなる…
び唇を合わせられる…深く…
「悟浄…本当にやめて下さい…」
苦しくて…苦しくて…胸が張り裂けそう……
「やめない…お前のこと離したら…このままどこかに行ってしまいそうだ…」
強く抱きしめられる…
逃れようとするけれど、腕に力が入らない…
…本当はこのままでいたいから……
「…悟浄……」
このまま貴方にこの身をゆだねたい…
それが赦されるのならば…
「八戒…愛してる……」
そのまま僕は彼に抱かれた…
その時…僕の頭にも心にも…花喃はいなかった…
そこには僕と悟浄の二人しかいなかった…
悟浄の声…
悟浄の体温…
…彼の全てを感じ取った……
その瞬間、僕は彼のことを愛していた……
世界中の誰よりも…
悟浄がいれば他に何もいらなかった…
まだ夜明け前の薄暗い部屋で目を覚ました…。
外はまだ雨が降っていた…。
部屋は少し寒かったけど…すぐ隣に悟浄の温もりを感じた…。
悟浄…
彼の寝顔をみているだけで幸せだ…
とても愛おしい…
このまま…ずっとこの時が続けばいいのに…
でも…それを赦してはくれないよね…花喃……
─── …悟能……
窓ガラスに映った花喃…
泣いているの…それとも雨?
─── ……悟能…
僕のこと…軽蔑しているんだよね…
それでも良いよ…別に……
───…悟能………
「…八戒、どうかしたのか?」
目を覚ました悟浄に後ろから抱きしめられる…
暖かい…
「何でもありませんよ…」
「昨夜、聞きそびれたけど、俺のこと好き?」
耳元で囁かれる声…
痺れるほどに…甘い……
「愛してますよ…」
この気持ちは本物…でも……
「でも、愛せないんです…」
この気持ちも本物…
「どういうことだよ…」
「…僕の全ては花喃の物なんです…
花喃は貴方のことを愛することを赦してくれません。
僕が幸せになることも……」
僕が他の人を見ることさえも…
「意味わかんねぇよ!」
僕はゆっくりと窓を指した。「そこに花喃がいるんです…
そこだけじゃなく、鏡にも水にもガラスにも…
僕のいるところに花喃がいるんです…
そして言うんですよ…
『幸せになんてさせない』って…
彼女は僕のことを恨んでいるんですよ。
僕たちは一つになったのに…
花喃は死んで…僕は幸せになろうとしている…
そのことを赦してはくれないんです…」
永遠に逃れられないんですよ…
……花喃から…
「本当にお前の姉さんがいるのかよ」
…花喃はいますよ……
カタカタと窓が揺れる…
風もないの…
花喃が揺らしているんだ…
「ほら…花喃がいますよ……」
「本当にか?」
「本当です」
どうして疑うのですか…
花喃は…そこにいるのに……
「ウソだな……」
「なんで、姿が見えるし…窓だって揺れているじゃないですか」
それが彼女のいる証拠じゃないですか……
「姉さんの幻影も…幻聴も…すべて、お前の力で起こっているんだよ…。
あの窓だってお前の力で揺れている…。
お前が勝手に見せているだけなんだよ…」
何でそんなことを言うんですか…?
僕の力で……
「…本当はわかっていたんです……」
気付きたくなかっただけ…
彼女への罪悪感が形になっただけ…
「それでも…そうしないと、だめだったんです…
自分が…一番自分を赦せなかったんです。
彼女の時は止まってしまって……僕の時は動いている…
一つになったのに…
僕にだけ未来がある…
それが…赦せなかったんです……」
ごめんなさい…花喃……
「八戒……」
ごめんなさい…悟浄……
「なぁ、八戒…
お前と姉さんが一つならさ、お前が幸せになれば姉さんも幸せになれるんじゃねぇか?
姉さんの時もお前が動かしてやれよ…」
「悟浄…」
僕の幸せが…?
「俺がお前も姉さんも幸せにしてやる…
二人分愛してやるよ…」
ねぇ、花喃…
彼の言うこと信じてみようと思うんだ…
君が僕の中にいるならば…一緒に幸せになろう…
僕は悟浄を愛してる…
花喃、君は悟浄のことどう思う?
愛してくれる…?
─── … 私は貴方
二人は一つなんですもの
私の気持ちは貴方と一緒よ
そう聞こえた花喃の声は本物…?
本当に…君の声……?
「あれ?時計直したんだ」
「えぇ」
僕の胸元にはあの懐中時計。
止まったままではなくきちんと時を刻んでいる。
「花喃の時は動き出しましたからね」
止まった過去のままではなく…
進み出した時間…
共に未来へ…
「悟浄、きちんと二人分愛してくださいね」
「あったりまえだろ」
やっと幸せになれるんですね…
僕も花喃も…
「僕も花喃も貴方のことが大好きですよ」
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