狂詩曲 Op37
ここが夢の中である事はすぐにわかった。
目を開けているか閉じているかもわからない程の暗闇……
右も左もわからない。
とりあえず数歩進んでみるが、歩いているのかさえあやふやな感じだった。
闇が背後からのし掛かるような……。
気分が悪い………。
この空間はひどく居心地が悪い。
こんな夢……はやく醒めればいいのに………。
「ようこそ。我の空間へ………猪悟能…」
その声に八戒は振り返る。
しかし、どこにもその姿を発見することは出来ない。
「これは、あなたの仕業なんですか……」
八戒の首に後ろから白い手が巻き付く。
「あなたもしつこい人ですね。どうやって蘇ったのですか?」
意外な程、思考は落ち着いていた。
しかし、心の奥底で何かが訴えるように響く。
………危険信号………。
首に巻かれた手は、絞められる事もなくゆっくりと下へと下がっていく。
「ええ、我は殺されましたよ。アナタにね……。だから我は今ではこの世界の生き物なんですよ。現実とは別の悪夢に住まうモノですよ」
「……それで僕に………何の用ですか………」
手がシャツの前を割り、中へと進入する。
「ココに一人は寂しいですからね……。アナタを迎えに来たんですよ」
「…ッ。お断りします!」
清一色の腕を振り解く。
得体の知れない寒気が身体全体に広がる。
「クク。アナタはそういうと思いましたよ。今回は長期戦で行くことにしたんです」
八戒の左胸に刺すような痛みが走る。
「今、アナタの心臓の上に特殊な種を植え込みました」
「……種………?」
「ええ。闇の世界の薔薇です。その種はアナタの心の闇を吸い成長します。………そして、その胸の薔薇が咲いた時……」
──── アナタを連れていきます………
「八戒?どうしたんだ?さっきからボーっとして……鍋、ふいてるぞ」
悟浄の声に八戒はハッとする。
「あ、ごめんなさい…」
慌ててコンロの火を消す。
今日何回目の失敗だろう。
朝から何故か怠かった。
体調が悪い訳ではない。
何か、心に引っ掛かっている感じがする。
「どうしたんだ?体調でも悪いのか?」
悟浄が八戒の額に手を当てる。
「あ、大丈夫です…。なんか夢見が悪かったみたいで……」
「へー。どんな夢?」
「それが……覚えてないんですよ」
昨夜見た夢の事は思い出せない…。でも………
「でも…何か引っ掛かるんですよ……」
心の片隅に残っているのは…闇と……冷たい笑顔……。
「ホント、顔色悪いぞ。今日はもう休め」
「……はい………」
気が重い……。
何か息苦しかった。
どんよりと空気が周りを覆っていくかのようだった。
ドアを開けると部屋には三蔵が居た。
金髪の髪が夕日を浴びて光を放つ。
その光に八戒の心の中の闇が消されていく。
「どうした?」
「いえ。何でもありません。ただ、貴方に会いたかっただけですよ………」
どちらからともなく唇を合わせる。
優しい空気………。
暖かい空間………。
全ての不安が消えていく。
「三蔵……愛してます………」
もう一度口付ける。
さっきよりも長く…深く……。
こんな早い時間だというのに、身体は三蔵を求めている。
「…三蔵……貴方が…欲しい………」
吐息混じりに八戒が囁く。
三蔵が八戒の首筋に唇を落とす。
それが無言の返事…。
「ん…あ……あ……」
三蔵の唇が八戒の身体を滑る度に、八戒の唇から甘い声が漏れる。
「は……あぁ…や……」
「…八戒……」
差し出された三蔵の指を八戒は夢中で舐める。
「んん……ん…」
十分に濡らされた指を八戒の後ろに差し込み、少しずつ広げ慣らしていく。
「…ん……さんぞ……はや…く…」
指が抜かれ、そして比べ物にならない大きさのモノが、八戒の体内に押し入ってくる。
「あああ…ん……あ…さんぞ……」
八戒は三蔵の背中に手をまわして強く抱きしめる。
その存在を確かめるかのように………。
漆黒の闇。
全てを思い出す。
何故忘れていたのだろう……。
この闇は………。
「こんばんは。猪悟能」
闇の中に清一色の白い姿が浮かび上がる。
「またあなたですか……」
半ば呆れたように八戒は言い捨てる。
「今日は強気なんですね」
軽く頬に触れると、ゆっくりと首筋へ移動させる。
そこに残されている紅い痕の上で手が止まる。
「あの金髪の青年に抱かれた後だからですか?」
「……ん………」
指先で痕を強く押す。
「悪い子ですねぇ。我というものがありながら」
「誰が、貴方なんかと……」
清一色を突き飛ばし手から気孔を……。
「…なんで……」
手に気が集まらない。
清一色はその手を取ると自分の唇を寄せる。
「ココは我が支配する空間なんですよ。全てが我の思うがままに なるんです。ココでのアナタは…無力です」
八戒の上着に手をかけると一気に引き裂く。
「…や……やめて下さい………」
身体がガタガタと震える。
いつもの自分ではない。
冷静になろうとすればする程焦りがでる。
その焦りが次第に恐怖へと姿を変えていく。
自分は力を失ったぐらいで…こんなにも弱くなるのか……。
腕を強く引かれ、床に引き倒される。
身体を起こす前に、清一色がその腕を押さえ付け組み敷かれる。
「さあ、どうやって可愛がって欲しいですか?」
破られた服の切れ端で手を一つにまとめ、頭上で縛り上げられる。
清一色の冷たい唇が八戒の肌を舐める。
残されている痕に舌を這わせると八戒が小さく声を上げる。
「この痕を付けられた所がアナタの急所という訳なのですね。あの金髪のお坊さんはアナタの身体を良く知っているようですね」
清一色はその部分を執拗に攻める。
「…や…あ……ッ」
「…でも……」
急にその痕を強く噛む。
「我以外の者の付けた痕なんて目障りですね。全て付け替えてあげますよ」
次々に痕を噛んでゆく。
皮膚が切れ、血が流れる。
「…いた……やめて……」
「紅い痕も良くお似合いでしたが……」
血を指先で掬い取ると、八戒の口元へ近づける。
「アナタにはやっぱり血の紅がよく似合いますよ」
無理矢理指で唇を割る。
八戒の口内に血の味が広がる。
再び八戒の胸元に唇を落とすと、流れ出る血液を舐め取る。
「アナタの血は美味しいですね。なんといっても妖怪の血と人間の血のブレンドですからねぇ……」
清一色はククッと笑う。
「アナタの血を全て飲み干したいですよ」
長く鋭い爪で白い肌に傷を付けていく。
次々に溢れる血を舌で舐め取っていく。
「アナタの血はどんなワインよりも甘い……」
「いたい…くっ……」
傷口を指で広げられる痛みに八戒が辛そうな表情を見せる。
「痛いですか?でもアナタはその痛みでこんなにしてしまうのですね」
反応し始めている八戒のモノをズボンの上からやんわりとさする。
「や……あ…んん…」
「アナタは痛みでも感じてしまうんですね…」
「ちがっ……」
首を振って否定しようとする八戒の顎を捉え口付ける。
唇を割り、舌を進入させる。
ゆっくりと時間をかけて口内の隅々まで犯す。
八戒の抵抗が少なくなると、顎を押さえていた手を下へと移動させ、ズボンと下着を脱がせる
一度、手の戒めを解くと上半身を起こさせ、手を後ろに縛り直す。
腰を掴み引き上げ、膝立ちの状態にさせる。
「なかなか良い格好ですよ」
完全に主張しているモノには触れずに、後ろから秘められた蕾に指を差し込む。
「いや…あ……」
そこは意外な程すんなりと指を受け入れる。
一度指を抜くと、中から滴が零れ落ちる。
清一色はそれを指で掬い取る。
その指を八戒の口内へ押し込む。
「猪悟能。アナタの愛しい人のモノですよ。美味しいですか?アナタの血とどちらが美味しいですか?」
清一色は残虐な笑みを浮かべる。
八戒の瞳から涙が零れ、頬を伝い落ちる。
「アナタは涙も甘いのですね」
舌でそっと涙を舐め取る。
「さて、後ろは慣らさなくてもいいようですね」
その言葉に八戒の身体がビクッと震える。
「力を抜いていてくださいね」
八戒の腰を少し持ち上げると、自分の上へ下ろす。
「い…あ……あああ…」
自分の身体の重みで一気に根元までが進入し息が詰まる。
「や…あ…あ……」
苦しそうにしている八戒の表情を楽しむかのように清一色は激しく身体を揺する。
「あ…や……たすけて…さんぞっ……」
その瞬間、激しく顎を捕まれる。
「その口で我以外の男の名を呼ぶ事は許しませんよ」
余っている布で猿ぐつわを噛ませる。
「ん…んん……」
苦しさで再び涙を落とす八戒の様子を満足げに見つめる。
そして八戒の左胸、心臓の上に唇を這わせる。
そこにはうっすらと薔薇の蕾が浮かび上がっていた。
「花は成長を始めましたよ…猪悟能……」
──── この胸の薔薇が咲いた時……
目をゆっくりと開けると天井が目に入る。
見覚えのない天井………。
少しずつ意識が浮上してくる。
ゆっくりと起きあがり、周りを見回す。
ここは宿の一室………。
同室の三蔵はまだ目を覚ましていなかった。
八戒はそっとベッドから下りると着替えを済ませ部屋を出る。まだ夜が明けたばかりの時間帯で、宿の廊下も人気が無かった。
宿の裏庭に足を延ばす。
うっすらと霧のかかった林。
そこでゆっくりと息を吐く。
こんなに清々しい朝なのに……。
柔らかい日差しなのに……。
何故か心は晴れない。
こんなに明るいのに…心の中に闇がちらつく。
それは昨日よりも今日の方が……。
原因はわからない……。
いや、原因はきっとあの夢だろう。
ただ………
その夢の内容が思い出せない。
昨日よりも深い闇………。
「こんな朝早くから何をしている」
背後からかけられた声に八戒はビクッとする。
振り返れば視界が金色に埋め尽くされる。
朝の光を反射する黄金。
眩しいほど明るい。
でも……
その光を見ていると自分の中の闇がより明確になるような気がする。
「どうした?」
何も言わずにただ思い詰めたような表情をしている八戒に、三蔵は不審に思う。
八戒は少し俯くと自然に笑顔を作る。
「おはようございます。ただの散歩ですよ」
その笑顔はいつもと何かが違うような気がした。
こんなに近くにいるのに…遠い。
それがただの気のせいであればいいが……。
「三蔵…?」
三蔵は八戒を引き寄せると抱きしめる。
こんなに近くにいるのに……手を離せば消えてしまう気がする。
存在を確かめるように強く抱きしめる。
…この不安が……ただの思い過ごしであるように祈って…
普段通りに見えた。
八戒の行動は……。
でもどことなく違う……。
自然に振る舞っている姿が何か不自然だ。
悟空も悟浄もその違和感には気付いてないないようだ。
しかし三蔵は何かを感じていた。
目に見えない違和感を……。
その違和感は夜に近づけば近づく程大きくなっていった。
夕飯の頃になると、悟空と悟浄もその違和感に気付きだした。
二人がその事について問いかけても、八戒は
「少し気分が優れないんです。今日は早めに休みますね」
と、笑顔で答えるだけである。
そんな一言でまとめられる事では無いだろう。
しかし誰も深くは問わなかった。
そのまま八戒は部屋へと下がっていった。
「なぁ、なんか八戒様子が変じゃない?」
悟空がぼそっと口に出す。
「バカ猿がうるさいから疲れてんだろ」
悟浄は軽く悟空に返す。
別に八戒の様子がおかしいということはこれが初めてではない。
時折、塞ぎ込む事があるのだ。
消えない罪に悩む……。
そんな時、自分はあまり役に立たないという事を悟浄は知っている。
だからあまり深入りしないようにする。
その傷を癒す事が出来る人物はたった一人であるから。
「部屋に戻る」
三蔵は一言短く言うと席を立つ。
まだなにやら口喧嘩をしている二人を尻目に食堂を出た。
確かに八戒が塞ぎ込むことはたまにある。
しかし、今回は何かが違う気がするのだ。
「八戒。寝ているのか?」
部屋に入ると八戒は電気を付けたまま横になっていた。
目は開いていたが、どこを見ている訳でもない感じだった。
もう寝るのかと思い、電気のスイッチに手を延ばす。
「消さないで下さい!」
電気を消そうとした瞬間八戒が急に起きあがる。
「………」
突然大きな声を上げる八戒に三蔵は驚きで止まる。
「あ…すみません」
八戒は気まずそうに視線を外す。
「…すいません……電気は付けたままにして貰えませんか…」「何故だ?」
三蔵は八戒のベッドの端に腰をかける。
八戒は少し躊躇い、三蔵の肩に顔を埋めるとゆっくりと口を開く。
「…闇が……闇が怖いんです………」
八戒の瞳に恐怖の色が映る。
「ほら、少し詰めろ」
「…三蔵……」
三蔵が八戒のベッドに入る。
八戒の手に三蔵の手が重ねられる。
あたたかい………。
三蔵の体温が心地よい。
「はやく寝ろ」
「はい……おやすみなさい。三蔵……」
目を開ければ一面の闇。
押しつぶされそうになる闇……。
ここが夢の世界であることを明確にする闇。
アノ人の世界であることを……。
「こんばんは、猪悟能」
姿は見えないのに声だけ聞こえる。
「今日はどういった用事ですか?」
闇の中、視線が彷徨う。
「闇が怖いですか?」
清一色は小さく笑う。
「手を繋いで眠るなんて微笑ましいですね」
闇から白い手が現れ、八戒の耳のカフスに触れる。
「でもアナタは妖怪なんですよ。妖怪と人間は結ばれませんよ」「そんなこと関係有りません」
清一色の手を叩き払う。
「ホントにそう思っているのですか?アナタだっていつ自我を失うかわかりませんよ」
嘲るような笑い声が闇の中に響き渡る。
────
ねぇ………
目を覚ますとひどく頭が痛かった。
身体か重い………。
まるで自分の物でないように。
ベッドから下りた途端に、目眩がしてその場に踞る。
「おい、八戒。どーした?大丈夫か?」
頭上から悟浄の心配そうな声が掛けられた。
大丈夫です……と言うつもりだった。
でも自分の意志に反して身体か動いた。
長く鋭い爪が悟浄の肌を切り裂く。
悟浄の目が驚愕に見開かれた。
「…八戒……?」
悟浄が体勢を整えるより先に再び切り裂く。
…どうして……?
こんな事がしたいワケじゃない。
それなのに身体は勝手に動く。
何度も何度も悟浄の身体を斬り付け、引き裂いていく。
自分の意志は全く身体に伝わらない……。
肌を斬り付ける感触も血の生暖かさもリアルに伝わる…。
助けを求める悟浄を、いたぶり続ける。
残酷な微笑みを浮かべて……。
やがて悟浄は大きく血を吐くと倒れ、そしてそのまま動かなかった。
悟浄が死んだ……?
自分が……殺した。
なんでこんな事に?
「八戒……?」
振り向くと顔を青くして震えている悟空が居た。
八戒は微笑みながら悟空に近づく。
『悟空、逃げて下さい』
と心の中でいくら叫んでもそれは伝わらない。
立ち尽くしている悟空をそっと抱きしめる。
両手で悟空の頭を包み込む。
そして一度、にっこりと微笑む。
天使の微笑みのようにも見える……悪魔の微笑み。
「…やめて…八戒……や…」
両手の平から悟空の頭に気が流される。
頭が割れるように痛い。
目が霞む。
気を送り込むのを止めると、まるで電気ショックを受けたかのように床に崩れ落ちる。
悟空は死んでいた。
あの純粋な少年を……
この手で殺した……。
銃声とともに肩に激痛が走った。
…三蔵だ……。
その表情はいつも見るものではなく…敵に見せる時の…。
三蔵の口元が動く。
声になっていなくても何を言ったのか感じ取ることが出来た。
────
バケモノ………
…………。
自我を失い、次々に仲間を殺している自分は確かにバケモノだ……。
……だから………
僕が貴方を殺してしまう前に…僕を殺して……。
貴方の手で僕を殺して……。
手に気が集まっていく。
…早く……。
この手が貴方に振り下ろされる前に……。
でも三蔵は銃を構えたまま、一向に撃とうとしない。
どうして………?
早く撃って……。
貴方の手で僕の命を終わらせて下さい……。
気の集まった手が、三蔵の身体を貫いた。
左の胸…心臓の位置を……。
即死だった。
「…三蔵……」
徐々に感覚が戻ってくる。
自分の身体を自分で操ることが出来る………。
……でももう遅い……。
血の臭いが部屋中に広がっている。
「…悟浄……」
無数に付けられた傷……。
無惨な程切り裂かれている身体……。
「…悟空……」
目を見開き、その瞳から流れている涙。
何かを訴えるような表情……。
「…三蔵……」
多くの血が未だに流れ続けている。
だんだん冷たくなっていく身体……。
……どうして………
何度も心の中で問う。
自分が妖怪であるから……。
だから殺した……。
……それぐらいなら………
自分が死んだ方が良かった…………………。
──── 胸の花が…咲いた時……
「…………」
目を覚ますと目の前に金色が浮かぶ。
……三蔵………。
手は繋がれたままだった。
少し安心したかのように息を吐く。
怖い夢だった……。
内容は覚えていない……。
でも何か…大切な人を失うような……。
でも目を覚ませば、そこにあの人は居た。
ただの悪夢だ。
あれは夢なのだ……と自分に言い聞かせた……。
その日、滞在している街で一つの事件が起きた。
この街には、まだ自我を失っていない妖怪が一人居た。
人の良さそうな青年だった。
街の人たちも彼の事を信用していた。
だから暮らしていた……人間と一緒に。
それが急に朝方、様子がおかしくなった。
彼は親友と恋人を殺した。
そして尚も殺し続けた。
三蔵は街の人に頼まれ、その妖怪を殺した。
無表情のまま銃を構える。
その光景は……どこかでみた事があるような気がした。
……デジャヴ………
何かが胸に引っ掛かっているような……。
気分が悪い……。
血の臭いが身体に染みついているようだ……。
「…シャワー浴びてきます……」
そう言って八戒は部屋の浴室へと消えた。
シャワーをお湯ではなく水に切り替え、頭からかぶる。
血が頭の中から消えない……。
自分の手が血に染まっているように思える。
「…いたっ……」
石鹸を取ろうと手を延ばす。
誤ってその隣に置いてあった剃刀で指を切ってしまう。
指先から赤い血が流れる。
その血から目が離せない……。
昨夜の夢が急に思い出される。
雪崩のように一気に押し寄せる記憶……。
それは先ほど起こった事にあまりにも似すぎていた。
…妖怪だから……。
流れ出るこの血は……妖怪の血………。
じゃあ…この血が無くなれば……
手に取った剃刀で、左手の手首を切り付ける。
動脈が切れ、多量の血が溢れる。
そしてシャワーの水に流されていく。
八戒はその傷口をじっと見つめる。
「…この血が全て流れたら……」
……人間ニ戻レマスカ……?
三蔵が、いつまで経っても出てこない八戒を心配して浴室のドアを開けた時、八戒は意識を失っていた。
むせかえるような血の臭い……。
一体どれだけの血を流したのか……。
かろうじてまだ脈はあった……
……かろうじて………。
「なんでこんな事を……」
傷口を圧迫して止血をする。
とりあえずベッドに運んで医者を……と思い、八戒を抱き上げようとした。
その身体は氷のように冷たかった。
近くにかけてあったバスタオルで八戒の身体をくるみ、抱き上げる。
ベッドに運ぶと、悟浄と悟空に医者を呼びに行かせた。
医者を待っている間、三蔵は八戒の手を握り続けた。
普段から体温の低い八戒だが、今日は比べものにならないぐらい冷たい。
指先が硬直している。
両手で包み込むようにする。
そして時折脈を確認する。
生きている事を確認し、天に向かって祈った……。
医者の話では、発見が少しでも遅ければ命は無かったらしい。
人間だったらとっくに死んでいる……と。
輸血をすると八戒の顔色は少し良くなった。
医者は薬と、精神科の紹介状を置いて帰った。
…どう見ても自殺だ……
医者はそう言った……。
動けるようになったら精神科へ連れて行くように。
…なぜ、八戒は自殺を……。
その夜遅く、八戒は意識を取り戻した。
起きあがろうとしたが身体はいうことを聞かなかった。
左手が痛む……。
手首に巻かれた白い包帯……。
「気が付いたか」
その声にはっとする。
「…三蔵……」
三蔵の顔がどことなく辛そうに見える。
自分のせいだ……。
こんな事をして迷惑を掛けて……。
「ごめんなさい……」
謝罪の気持ちを言葉に表せば、零れる涙が止まらない。
三蔵は八戒の背中に腕をまわし、引き寄せる。
「…ごめんなさい……ごめんなさい………」
八戒は小さな子供のように泣きながら謝り続けた。
そんな八戒の背中を子供をあやすようにそっと撫でてやる。
「…どうしてあんな事をしたんだ?」
少し落ち着いた八戒に三蔵はそっと訊ねる。
八戒は三蔵の服をギュッと握りしめる。
「…人間に戻りたかった……」
人間に戻りたい……。
貴方と同じ人間になりたい……。
全ての血を……妖怪である血を抜き取ったら……
……人間に戻れますか……?
「そんなに人間に戻りたいですか……?」
闇から聞こえる声…。
…嫌だ……。
もう何も聞きたくない……。
「血を抜けば人間に戻れるなんて、カワイらしい考えですね。…でも……」
闇から現れた清一色が八戒の手を取り、その傷口に肩を寄せる。
「そんな事をしても何も変わりませんよ。アナタは妖怪なんですから」
「…嫌……」
手を振り解き顔を背ける。
「そんなにも辛いのならば…何も考え無ければいいんですよ」
清一色は笑う。
「もうそんな事、考えられなくしてあげましょうか?」
八戒の頬を清一色の手が滑る。
「アナタは我の事だけを考えればいいんですよ」
「…も……やめて下さい……」
八戒の瞳から涙が零れる。
耐えられない程の羞恥。
天井に鎖で手足を縛り付けられている。
両手は頭上で一つにまとめられ、片足だけが中途半端に上げられている状態になっている。
もう片方の足は着くか着かないかギリギリ所で、力を込めることも出来ない。
清一色に全てを見られている状態である。
「なかなか良い眺めですよ」
八戒の顎を掴むと無理矢理視線を合わせる。
「やめて…許してください……」
手首に鎖が食い込む。
自分で付けた左手首が裂けるように痛い。
傷口が開き、再び血が流れ出るのがわかる。
「…いたい……」
血が腕を伝って落ちる。
その血を掬い取り、楽しそうに舐める。
「猪悟能。知ってますか。痛みと快楽は似ているんですよ」
「…え……?」
「本当にそうなのか…試してみましょうか……」
その言葉と同時に八戒の身体に激痛が走る。
「いっ…なに……?」
清一色の手元を見ると、そこには鞭が握られている。
「どうですか?」
続けざまに鞭が振り下ろされる。
「…あ……いや…いたい……あ…」
八戒の白い肌に次々に紅い痕が残る。
「やだ…あ……ああ…」
ある程度打ち付けると、清一色は手を休める。
「アナタは痛がる時も本当にイイ顔をしますね。そそられますよ……」
クスクスと笑う。
次に清一色はどこからかローソクを取り出す。
「綺麗に痕が付きましたね。次はその肌にもっと綺麗に化粧をしてあげますよ」
ローソクに火が灯る。
八戒の瞳にローソクの火が映る。
その瞳は驚愕に震えている。
炎を恐れる小さな動物のように……。
「やめて下さい…お願いします……」
再び八戒の瞳から涙が零れ落ちる。
清一色はその様子を楽しそうに見つめ、ゆっくりとローソクを持った手を上にあげる。
「コレも一種の快楽ですよ」
ローソクを斜めにすると、表面に堪っていた蝋が重力に従い落下する。
「あっ……」
蝋が八戒の肌へと落ちる。
その熱さに八戒の身が震える。
蝋は次々に八戒の身体へ落ちる。
白い肌に……。
小さく色づく乳首に……
…そして少しずつ反応を示すその中心に……
清一色はその中心をそっと手で包み込む。
「アナタにとって痛みは快楽に繋がっているようですね。鞭とローソクに感じてしまったのですか?」
「…ちがっ……」
涙を流し否定する。
沢山の涙に濡れている八戒の顔を清一色はその冷たい舌で舐める。
それでも涙は止まる事無く次々に溢れ、八戒の頬を濡らしていく。
「鎖で縛り上げられ、鞭とローソクで化粧をし、涙で顔を濡らすアナタはとても綺麗ですよ」
八戒の身体を隅々まで舐めるように見て、清一色は楽しそうに笑う。
「…ちがっ……もう…やめて下さい……」
「苦しいですか?いつまでも無理をして自我を保とうとするからですよ。自我を手放してしまいなさい。壊れてしまえばもう何も苦しくありませんよ」
「…壊れる……?」
「ええ、そうですよ。お手伝いして差し上げましょう」
八戒の腰を掴み、後ろに手を延ばす。
体内へと冷たい液体が入り込む感触がする。
「や…なに……?」
「アナタが壊れる為の薬ですよ」
八戒の体内を嵐のような痛みと不快感が吹き荒れる。
「…や……これをはずして下さい……」
八戒は身体を捩って暴れる。
「おやおや、どうしたんですか?」
清一色はただ笑って八戒を見る。
「…やだ……トイレに…行かせて下さい……」
「ここでどうぞ。見ててあげますよ」
「…いや……あ…あああ……」
八戒は一度大きく震えると全てを体外へと吐き出した。
「…う……ん…」
八歳の嗚咽が闇の中に響く。
「猪悟能、アナタは汚いですね」
蔑むような目で八戒を見る。
「…うう……」
「でも、アナタはこういう姿の方が…美しいですよ」
八戒の顎を掴み口付ける。
しかし、八戒は何も聞こえていないかのようにただ涙を流し続ける…。
清一色は八戒の左胸に手を延ばす。
「ああ、随分と成長しましたね」
左胸にはくっきりと薔薇の蕾が紅く浮き上がっていた。
それを指先で嬉しそうになぞる。
「もうすぐですよ……」
──── 胸の薔薇が咲いた時…アナタを……
三蔵が朝目覚めた時…八戒は既に自分を手放した後だった。小さな子供のように笑い続けていた。
ただ、その目は虚ろでどこを見ているかわからない。
「…八戒……?」
正面に立っても視線が合わない。
名を呼んでも反応がない。
「八戒……」
三蔵は八戒を連れて病院に行った…。
紹介された精神科に……。
そこで三蔵だけが呼ばれた。
『心が現実から逃げている…』
医者から言われた言葉…。
八戒の心は現実から逃げている……。
あまりに辛い現在から逃げた八戒の心……。
現実から目を背けたい…。
何も見たく無かったんだ……。
だから逃げた……。
現実を見たくなかった……。
「三蔵、三蔵」
くすくすと笑いながらただ三蔵の名を呼び続ける八戒。
一体なにがあったのだろう。
そこまでつらい現実……。
三蔵にはわからなかった。
何故八戒が自分を手放してしまったのか。
「…三蔵……?」
ただ、自分の名を呼び続ける八戒をそっと抱きしめる事しか出来なかった。
「八戒どうしちゃったんだよ……」
悟空が悲しそうな顔で八戒に言う。
しかし、八戒は何も答えずただ笑っていた。
「八戒、俺の事わかるか?」
悟浄が話しかけても八戒は反応を示さなかった。
八戒には見えていない……。
三蔵以外の誰も…何も……。
八戒は何故こうなってしまったのだ……。
一週間前は普通だった。
数日前に少し顔色が悪かった。
でもあのときは考えもしなかった。
こんな事になるなんて……。
突然自殺を図った八戒……。
何をそこまで思い詰めていたのだろう。
そして…どうしてたった一晩の間に自分を手放してしまったのだろう。
壊れてしまった八戒……。
それを救えるのは自分では無い。
そう悟浄は思った。
八戒とは三年一緒に暮らした…。
それでも、八戒の目に自分は映らなかった。
「…三蔵……八戒の事絶対に救えよ」
「…絶対に救え…か……。言われなくてもそうするさ」
悟浄と悟空の出ていった部屋で三蔵は呟いた。
「…三蔵……?」
「心配するな。俺が必ずお前を助けてやるさ」
さらっと八戒の髪を撫でる。
八戒がにっこりと笑う。
「…三蔵」
「どうした?」
八戒は両手で三蔵の顔を掴むとそっと口付けた。
「三蔵、大好き」
この笑顔を守りたい。
どんな事をしてでも。
何を犠牲にしてでも…必ず守る……。
「猪悟能。こっちへいらっしゃい」
八戒は言われるままに足を進める。
目は薄く開いており、虚ろな表情である。
清一色はそれを満足そうに見る。
「自分で服を脱ぎなさい」
その言葉に八戒はゆっくりと服を脱ぎ始める。
清一色の言葉一つ一つに八戒は忠実に従った。
…まるであやつり人形のように……。
「さあ、猪悟能…準備をしなさい……」
八戒は清一色の着物の裾を少しずらすとその中心へと顔を埋める。
舌を使い清一色のモノを高めていく。
それと同時にローションを絡めた自分の指を後ろへとしのばせ、内部を解していく。
「…ん…んん……」
八戒の喉からくぐもった声が漏れる。
「さあ、もういいでしょう。いらっしゃい」
「…はい……」
返事をすると清一色の上に跨る。
清一色のモノに手を添え、少しずつ自分の腰をその上へと下ろしていく。
「あ…ああ……く…は……」
時間をかけて全てを体中へと納める。
清一色の背中に手をまわすと、自分の身体を上下に揺らす。
「ああ…は……や…あ……」
「アナタも随分と淫乱になったものですね」
八戒の白い肌に指を滑らせる。
そしてその指は左胸の上で止まる。
そこにくっきりと浮かび上がる紅い薔薇。
それは今にも咲くかというぐらいに膨らんだ蕾。
「もうすぐ咲きますね…アナタの薔薇が……。猪悟能、覚えていますか?我との約束を…。この薔薇が咲いた時、アナタは我のモノになるのですよ」
薔薇の痣にそっと唇を寄せる。
「…あ…や……ん……」
八戒は何も耳に入ってないかのように夢中で腰を揺らす。
清一色は小さく笑い、八戒の耳元で小さく囁く。
「いいのですか?アナタの大切な人が見ていますよ」
その言葉に八戒は目を開く。
闇の中、紫電の瞳が八戒を見ていた。
浅ましい姿を……。
「…三…蔵……」
唇が震える。
逃げようとする八戒の腰を清一色が掴む。
「どこへ行くんですか?まだ終わっていませんよ」
「いや…やめて……離して下さい!」
藻掻き暴れる八戒の前で、三蔵の姿は闇の中へと消えていった。
「………ッ」
三蔵が目を覚ますと、部屋はまだ闇の中だった。
手元の電気を付け、時間を見る。
まだ夜中の三時だった。
汗で服が張り付いて気持ちが悪い。
シャワーでも浴びようかとベッドからおりる。
「…や……は……」
隣のベッドで眠っている八戒の声が聞こえる。
かなり魘されている様子であった。
乱れているシーツをかけ直してやろうかと手を延ばし、その手が止まった。
乱れたシャツの端から見えた……。
あの夢で見た…紅い……薔薇…。
震える手で八戒のシャツのボタンを外す。
夢と同じ紅い薔薇…。
くっきりと浮かび上がっている。
────
この薔薇が咲いた時……
夢の中で清一色が言っていた言葉。
「…まさか……」
八戒がおかしくなったのがこの夢のせいであると言うのなら…。全ての辻褄が合う。
嫌な夢を見たと言っていた。
闇が怖いと言っていた…。
全てはこの夢のせいで……。
「…八戒。起きろ……」
八戒の肩を掴み、激しく揺すり起こす。
「………」
八戒の瞳がゆっくりと開かれる。
「……フフ…あははははは………」
突然八戒が笑い出す。
その瞳には、三蔵さえも映っていない。
「…フフフフフ……」
「…八戒……」
三蔵は笑い続ける八戒の身体を強く抱きしめる。
「………」
八戒の笑いが急に止む。
「…八戒……?」
「……たすけて…三蔵…」
八戒の瞳から涙が落ちる。
そして…八戒は再び夢に取り込まれていった……。
「…もう…やめて下さい……」
闇の中に涙が消える。
「アナタは本当にあの金髪のお坊さんの事が好きなんですね」
清一色が八戒の髪に触れる。
ゆっくりと八戒の髪を撫でる。
「…でも、あのお坊さんはアナタの事…本当に好きなんでしょうかね……」
「…え……?」
俯いていた八戒がその言葉に顔を上げる。
見開かれた瞳から涙が弾ける。
「ねぇ猪悟能…知っていますか?」
八戒の髪に手をまわしたままゆっくりと言う。
「…何を……?」
脅えた目で見つめてくる八戒に優しい視線を返す。
しかしどことなく深い意味を含んでいるような瞳……。
そしてゆっくりとその口が開かれる。
「あのお坊さんがアナタの側にいるのは……命令だからなんですよ……」
「…え……どういう…ことなんですか……」
八戒の瞳が驚愕に開かれる。
「…何も知らないんですね……。かわいそうな子……」
何を言っているのかわからなかった。
こんな話は作り話に決まっている……。
「三蔵がどうしてアナタ達を連れて旅をしているかわかりますか?…危険だからですよ……」
「………」
「監視する為にですよ。…そして、その中でも特に危険なのは…アナタですよ…」
「…僕が……?」
「アナタは昔愛する人を失った事によって、大量虐殺を行いましたよね」
八戒の顔が青冷める。
「この先、そういった事が起こらないとも……限らない」
八戒の肩に手をまわし抱き寄せる。
「だからあのお坊さんを使ったんですよ。そうすればあのお坊さんに何かあった時に便利ですからね」
「………」
八戒は否定の言葉を紡ぎ出そうとするがうまく言葉にならない……。
肩が震える。
「わかりますか…?アナタは彼に利用されているんですよ」
「…ウソ……そんなのウソです…」
「ホントに信じられますか……?」
そんな事はウソに決まっている。
頭ではわかっているはずだった。
それなのに…胸が苦しい……。
張り裂けそう……。
自分の存在価値がわからない……。
「我はアナタの事を愛していますよ……」
差し伸べられた手……。
それを取ってはいけない……。
だけど……。
もう…何も……わからない…。
──── 胸の薔薇が咲いた時、アナタを……
「…八戒…起きてるか……?」
朝、三蔵が声をかけた時、八戒は目を開けたままじっとベッドに横になっていた。
様子がおかしい……。
昨日とは違いすぎる…。
「八戒…?」
何度も呼びかても全く反応がない……。
昨夜の事が気になり八戒の胸元の痣を見る。
「………」
そこには今にも咲きそうな薔薇が……。
もう…遅かったのか……?
八戒の心は…もう……戻ってこないのか……?
──── もう何も見たくありません……。
だから目はいりません。
もう何も聞きたくありません…。
だから耳もいりません。
もう何も話したくありません…。
だから口もいりません。
もう何も感じたくありません…。
だから心もいりません。
もう…生きていたくありません………。
だから……
だから…命もいりません………。
三蔵は八戒の手を握り祈り続けた。
心配して八戒の側にいると言った悟浄と悟空を追い出し…。
部屋の中には八戒と三蔵の二人だけだった。
静かな部屋に時計の音だけが響く。
長い沈黙……。
八戒は薄く目を開けたまま、全然動かなかった。
まるで生きていないかのように……。
八戒の心はもうここにはないのだろうか。
八戒の手を無意識に強く握る。
いくら八戒の身体を強く抱きしめても……八戒の心をこの世界に繋ぎ止めておく事は出来ない。
どうすれば、八戒の心を取り戻すことが出来るのだろう。
現実ではない敵……。
どうすれば敵を倒す事が出来るのだろう。
どれだけ考えても答えは見つからない。
ただ無情に時だけが過ぎていく。
日が暮れた……。
明かりを付けていないその部屋は闇に包まれていた。
三蔵はそんな事は気にならなかった。
ただ…八戒の手を握りしめ、彼が戻ってくる事だけを祈り続けた。
十一時を回った頃…それまで動きの無かった八戒の状態に変化が現れた…。
悪い方へと……。
「…八戒……」
八戒の瞼がゆっくりと閉じられたら…もう二度と開かない。
なぜだかそんな気がした。
三蔵は必死で八戒に呼びかける。
しかし、三蔵の努力も虚しく…八戒の両目は閉じられた。
八戒の身体を漆黒のオーラが包み込む。
「八戒…どうしてだ……」
三蔵の声が震える。
「俺を置いていくな……俺はお前がいないと……」
金色の滴が八戒の頬へと落ちる。
──── 俺はお前がいないと……生きてはゆけない
「さあ猪悟能。我と一緒に行きましょう」
清一色の手が差し出される。
八戒は躊躇うかのようにその場に立ち尽くしていた。
「どうしたのですか。猪悟能?」
「…………」
「闇が怖いのですか?」
八戒は俯く。
「闇は怖くありませんよ。…闇は全てを隠してくれるんですよ。怖いもの…アナタの見たくない物を……」
八戒はその言葉に少し顔を上げる。
確かに何も見たくなかった。
怖いものを隠したかった…。
…でも……
「でも、闇は怖いんです。飲み込まれてしまいそうで」
心配そうな顔で言う八戒の頭をそっと撫でる。
「大丈夫ですよ。闇は怖くありません。それに…闇になってしまえば闇はもう怖くありませんよ」
…怖くない……?
もう何も考えたくなかった。
ただ、今この現実から逃げたかった。
闇になればもう何も考えなくていい……。
八戒は差し出された清一色の手に向かって腕を伸ばした。
「…?」
あと少しで届くという所で頬にあたたかい感触を感じる。
それは次々まわりに降ってくる。
落ちた場所に光が広がり…消える。
光の…雨……
「…三蔵……」
その雫を両手で受けとめる。
…あたたかい……
「すいません…あなたとは行けません」
手をぎゅっと握りしめる。
手の隙間から淡く光が漏れる。
「光の中にいれば、闇は更に濃く感じられますよ……」
「いいんです。それでも……。僕にはこの光が…必要なんです。「…三蔵が…いれば……それでいいんです」
八戒の瞳から零れ落ちた涙が床に落ちる。
その涙が降ってくる光の雨と混ざり光の道が出来る…。
「これは……?」
「…この道を進めば……もとの世界に戻ることが出来ますよ」
八戒は光の道を一度見ると、清一色の方を見る。
「…やっぱり……アナタは我のモノにはなりませんでしたね…。猪悟能……」
八戒の頬に手を寄せ、そっと涙を拭う。
「我も…アナタがいればそれだけで良かったんですよ…」
清一色が小さく笑う。
その表情はどことなく寂しげだった…。
「…清一色……」
「さあ、この道を進みなさい……アナタの居るべき所へお戻りなさい……」
指を指す光の道の先に出口らしきものが見える。
あたたかい光……。
…三蔵……。
「でも猪悟能、これだけは覚えておいて下さい」
八戒の左胸に手を這わせる。
そこにはもう薔薇の痣は無かった。
「この種は、一度植えれば延久に消える事はないんです。だから アナタの心に再び闇が生まれれば種はまた成長を始めますよ」
八戒は自分の胸に手を置く。
「…その花が咲いた時には……アナタを連れて行きますよ…………」
「…はい……」
ゆっくりと顔を上げる八戒の顔は優しい光に満ちていた。
「さあ行きなさい。この光の先へ……」
八戒は光の道を数歩進むと、少し心配そうに清一色の方を振り返る。
「早く行きなさい!」
「………」
少し早足で進む。
八戒が出口に辿り着いた時、清一色のの身体は殆ど闇に消えかけていた。
──── 猪悟能……アナタの事を愛していました……。
本当に…アナタさえいれば……
それで良かったんですよ……………
「…三蔵……?」
目を開ければ一面の光……。
戻ってきた……。
そっと三蔵の頬に触れる。
あたたかい涙……。
これが光の雨……。
この光が…自分の救いになったのだ……。
「三蔵…愛してます……」
「…八戒…お前……」
戻ってきたのか?
八戒の身体を強く抱きしめる。
「三蔵…三蔵……」
もう…大丈夫です……。
この光があれば……
もう薔薇は…咲きません……
──── 胸の薔薇が咲いた時………
END
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