幻想曲 Op25




 目の前が真っ赤に染まった。
 大量に溢れ出てくるこの暖かい血は…俺の血?
「悟浄、しっかりして下さい。悟浄!」
 ……八戒…何で泣いているんだ?
 …あぁ、何か記憶があやふやだ。
 一体…何があったんだっけ……。



 なんでもない普通の日だった。
 八戒の淹れたコーヒーを飲んで、他愛のない話をして…。
 ……それから何が起こったんだっけ…。


 …そうだ、女が訪ねてきたんだ……。


 その女は酒場で馴染みの女だった。
 …もちろん何度か寝たこともある。
 ま、八戒が来る前の話だが……。
 その女は家まで訪ねてきたくせに、何も話そうとしなかった。
 そんな女を見て、八戒は中へと勧め、お茶を出した。
「俺に何か用?」
 何も喋らずに、お茶にも手を出さない。
 俺はそれに見かねて、訊ねた。
 女は微笑んだ。
「別に、悟浄に用があるワケじゃないのよ」
 そういって八戒の方を見た。
「……僕に、何か…?」
 女はフフッと笑う。
「私、貴方の過去を調べたの」
「………」
 八戒の顔が凍り付く。
「村一つ潰したんですってね。怖いわ…」
 女は笑いながらそう言う。
 ……笑っているようで笑っていない。
 狂気さえ憶える笑顔……。
「妖怪も大量に殺したんですって?それで妖怪になったんですってね」
 八戒の体が少し震えている。
 顔が真っ青だ…。
「おい………」
「それに、実のお姉さんと、そういう関係だったんですってね。
 汚らわしい」
「おい、いいかげんにしろ!」
 俺は女を怒鳴りつけた。
「お前、自分が何を言ってるのかわかっているのか?」
「…何よ…本当の事じゃない!」
 女は俺から視線を逸らす。

「…それで………」
 掠れたような声で八戒が言う…。
「…それで…貴女はどうしたいんですか?」
 俯いているので八戒の表情は見えなかった。
「どうしたい、ですって?」
 女の顔から笑みが消えた。
「そんな罪を重ねた人が、悟浄を愛する資格なんて無いって事よ!



 八戒はいつも罪に怯えていた。
 八戒の傷はなかなか癒えない。
 雨の日には古傷が痛む、とよく言われているけど、八戒の場合は、腹の傷よりも心の傷の方が痛むようだった。
 雨の日には、俺はなるべく八戒と一緒にいるようにしている。
 震える両手をそっと握る。
「……ねぇ、悟浄…」
 八戒が俺を見上げてくる。
「…僕は、どこまで罪を重ねるのでしょうね……」
「……八戒…」
「…実の姉を愛し、多くの人を殺し……。
 それだけでも罪深いのに…」
 重なり合っている手に力がこもる。
「それなのに…僕はまだ多くの妖怪を殺し…。
 ……そして男である貴方を愛している」
 悲しそうに目を伏せる八戒をそっと抱き寄せる。
「僕はどこまで堕ちていくのでしょう」

 少しずつ笑顔を取り戻しても……。
 少しずつ悲しみを消していっても……。
 ……その悲しみが完全に消えることはない…。

 ─── お前が堕ちるのならば………。
 ─── ……俺も一緒に堕ちるよ……。



「痛い!」
 俺は女の頬を叩いた。
 女は自分の頬を抑えて放心している。
「…どうして……」
「お前、いい加減にしろ!
 他人の過去を暴いて傷を抉るような真似をして…最低だぞ!」
「…貴方のせいなのね……」
 女の手にはナイフが握られていた。
「…貴方のせいで、悟浄はこんな風になってしまったのよ。
 昔の悟浄はこんなことしなかった…。
 …アンタの…アンタのせいよ…。アンタなんか死んじゃえばいいのよ!」
 女が八戒に向かってナイフを振り上げた。
「八戒!」

 八戒は動かなかった。
 目を閉じてその場に立っている……。

『……ねぇ……悟浄…僕は生きていていいんですか?』

「…悟浄!」
 八戒に刺さるはずのナイフが俺の胸に刺さっている。
 咄嗟のことに急所をはずせなかった。
 女は血塗れのナイフを持ったまま、ガタガタと震えている。
 視界が歪み、俺は床に倒れた。
 ナイフが抜かれているので、大量の血が流れる。
「……悟浄、しっかりして下さい。悟浄!」
 八戒……泣いているのか……?
 八戒が俺の手を握り、泣き叫ぶ。
 その八戒の手の感触もだんだんわからなくなってくる……。
 ……あぁ、俺は死ぬのか……。
「……八戒…もう……過去の…呪縛にとらわれるな……自由に…」
 そこまで言った時、俺は大量に血を吐いた…。
「悟浄…もう喋らないで……」
 もう、喋りたくても無理だった。
 八戒が気で俺の傷を塞ぐ…。
 でも、流れ出た血は多すぎて…。
 意識が失われていく。
 …………八戒……。





 ──── 幸せになれ……



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