アルトのための二つの歌
2.聖なる子守歌 Op173
「38.0……風邪ですね」
体温計の水銀を見ながら、八戒はベッドに横になる三蔵に言った。
数日前、旅の途中でも突然の大雨。
雨宿りをする場所もなく、やっとの事で街に着いた時には身体は完全に冷え切っていた。
風邪をひくのも仕方がない……だが。
「三蔵って結構体弱いんだなー」
「アレだよ。三蔵サマはもうお年だからさ」
からかうように言う悟空と悟浄には風邪の『か』の字もない。
勿論今自分の面倒を見ている八戒も無事だ。
何故自分だけ……そう思いながら三蔵は眉間に皺を寄せる。
「三蔵は普段から無理をするから、ちょっとした事で体調崩れちゃうんですよ。
まあ、折角ですから、この機会にゆっくりと休んでください。
あと、悟空と悟浄はもう部屋を出てください。面会謝絶です」
そう言って八戒は二人を部屋の外に追い出した。
「当分は僕と同室で。
人がいると気になってゆっくり休めないかもしれませんけど、何かの時の為にって事で許してくださいね」
八戒はそう言って三蔵に微笑んだ。
瞼の向こうに光が広がる。
明るい陽の光が……。
……昼間から寝込むなど、久しぶりだった。
あれからどれぐらいの時間が経ったのだろう。
時計を探し移動させた視線の中に八戒が映る。
静かにゆっくりと本のページをめくる八戒の姿が。
そこにいるという感じをすべて消して、静かに……静かに……。
それなのに見る者を引きつけて止まないような、そんな静かな美しさ……。
普段八戒に対してそんな事を思ったりはしなかったが。
「あ、目覚ましちゃいました?水でも持ってきましょうか?」
「……今何時だ?」
「まだあれから少ししか経ってないですよ。
やっぱり人がいると気になってしまいますか?」
時計に目をやるが、本当に悟空と悟浄が部屋を出てからあまり時間は進んでいなかった。
二人が部屋を出てから、もっと時間が経っているように思えたが……。
久しぶりに昼間に寝たせいか、それとも熱のせいか、頭がはっきりしない。
「はい、お水」
「ああ…すまん」
八戒が手渡す水を三蔵は小さく礼を言い受け取る。
冷たい水を喉に流し込むと、少し思考がはっきりする。
「んー……」
突然八戒のひんやりとした手が三蔵の額に当てられる。
驚きとその冷たさに、一気に頭の中のもやが吹き飛んだ気がした。
「まだ熱が高いですね。薬飲んだ方がいいかも……」
八戒はそう言い考えながら、薬を探し自分の鞄を漁る。
「あ、でも薬飲むなら何かお腹に入れた方がいいですね。
何か食べれそうですか?リンゴでも剥きましょうか…」
「ああ……」
いつものようにてきぱきと行動する八戒。
でもいつもと何かが違う……。
「……そうか…」
三蔵は小さく呟く。
「え…?何か言いました?」
「いや、何でもない」
八戒がいつもと違うのは、自分が『病人』だから。
だから八戒は優しい目をしていて、いつものように毒舌が降ってくることもない。
それだけ……。
「はい、三蔵リンゴ。あと薬です」
「ああ…すまん…」
「それ飲んで、もう少し眠ってください」
そう言うと八戒は新しく氷枕を作りタオルを巻いて枕の上に置く。
そして新しく薬用に水を注ぎベッド脇のテーブルに置く。
何もかも当たり前の用に。
薬を飲んで横になったものの、三蔵は何だか寝付けなかった。
「おい……」
黙って目をつぶっているのにも嫌気がさし、三蔵は八戒を呼ぶ。
「どうかしました?」
頭上からそっと声が掛けられる。
「お前は嫌にならないのか?」
「……何がです?」
「この旅で、お前だけが細かい雑用をすべてと言っていいほど請け負って……。
不公平だと思った事はないのか?」
宿を取るのも、飯の支度をするのも、ジープの運転も。
すべてあたり前の様に八戒がやっている。
そしてこんな病人の自分の世話まで……。
「……もう慣れてしまいましたよ」
苦笑とともに放たれる八戒の言葉。
「悟浄と暮らしている時でも、ずっと僕が家事全般をやってましたからね。
だからもうすっかり慣れてしまいましたよ」
笑いながらそう言う八戒が、どことなく違って見える。
「そうか……」
三蔵は小さく呟いたまま、それ以上何も言わなかった。
三蔵の小さな呟きが、八戒からも言葉を奪う。
一瞬にして訪れる、何か気まずい沈黙。
八戒の顔からもそれまでの笑顔が消えている。
三蔵の呟き一つですべて奪われた。
「本当は……」
三蔵が八戒に何か声を掛けようとしたとき、八戒が先に口を開く。
それまでとは違って少し悲しそうな声で。
「本当は、誰かの為に何かしてないと駄目なんです。
そうする事でしか……自分の存在を見いだせないんですよ……」
軽く目を伏せて、悲しそうに寂しそうに言う八戒。
八戒にとってそれは辛い現実。
出来れば笑顔で隠しておきたかった…。
それを言わせたのは……自分。
「八戒……」
「……おかしな話をしてしまいましたね。
さぁ、三蔵はもう寝てください」
八戒は再び笑顔を作り三蔵を布団へと戻す。
「……花喃の時はどうだったんだ?」
花喃の時も同じ様にして自分を見いだしていた?
それとも……彼女だけは別だったのだろうか。
三蔵の問いに八戒は笑ってすぐに視線を背ける。
「さぁ……どうでしょうね……」
ただ…悲しそうな八戒の声がまるで遠くかの様に響いた。
「八戒、俺はお前が好きだ」
「三蔵……?」
気が付いたら声は出ていた。
突然の三蔵の叫びに八戒は驚き三蔵を見る。
「俺はお前が好きだ……それじゃ駄目か?
それだけではお前の存在理由にならないか……?」
「………いえ、十分ですよ」
自分は何を言っているのだろう。
……熱に浮かされていた事にしよう。
そう考えながらも、返って来た八戒の声が暖かいものになっていた事に三蔵は安心して目を閉じた。
「……ありがとうございます、三蔵」
「貴方に出会えて本当によかったです……」
そんな言葉を、遠く……子守歌の様に聴きながら、三蔵はゆっくりと夢に落ちていった。
「本当に……本当に……」