官僚的なソナチネ Op142
…………八戒からの連絡がない。
悟浄は手に持った携帯を苛立ちにまかせて叩き付ける。
数日前、八戒は仕事に出たまま戻らなかった。
八戒が最後に受けた仕事先のマンション……そこはすでに無人だった。
必要最低限しか置かれていない家具、その中の小さなテーブルの上に電源の切られた八戒の携帯。
……これで八戒の消息は完全につかめなくなった。
八戒が自ら、自分の前から姿を消すなんて事はあり得ない。
それは今までの八戒の態度と行動を見れば一目瞭然だ。
悟浄がどれだけ八戒に酷い仕打ちをしても、八戒はそれを受け入れていた。
……受け入れさせていたのだ。
それなのに八戒が自分の元から去るなんてあり得ない……。
気になる事は一つ、マンションを借りていた者の身元が全くの偽装だった事。
それだけなら、あり得ない事ではない。
だが、今悟浄が行っている仕事は客にかなり厳しい審査を行っている。
一般人や素人が手を出せるものではない。
身元を偽証している者など、尚……。
そこまでの網をくぐる者などはそうはいない、
どこまでの事を……そんな事までしてこちらに手をだすなんて……。
心辺りは一人……。
「三蔵……テメーまだ俺の邪魔をする気か……」
八戒が連れてこられた場所……そこは寺院では無かった。
ホテルの一室、それも最上級のスイートルームといった感じだ。
「わー、八戒久しぶり」
そう言って悟空あにこやかに八戒に抱きつく。
「久しぶりです……。
悟空、随分と大きくなりましたね……」
人よりも少し成長が遅かったのか……と言っても妖怪であり、五百年以上生きている悟空に人並みもないのだが……旅の後成長は進み、今では八戒を超す程の身長だ。
その体の大きさで今まで通りに抱きつかれ、八戒は驚きを隠せなかった。
「八戒は相変わらずきれーだね。
……でも少し痩せたみたい。ちゃんと食わなきゃ駄目だよ」
外見は変わっても、中身は前と同じ様子に八戒はほっとして笑みを漏らす。
「ありがとうございます」
「ここ台所も使えるんだって。
八戒、お菓子作ってよ」
「いいですよ」
自然な悟空との会話に八戒は少しずつ緊張を和らげていった。
今までの生活が嘘の様に落ち着いた日々が過ぎていく。
ホテルの部屋から出る事は出来ないけれど、それ以外の自由はある。
毎日の様に悟空や三蔵が訪れるので、退屈を感じる事も無かった。
どちらかと言えば忙しいぐらいだ。
悟浄の事を思い出す暇がないぐらいに……。
それでも誰もいないときは考える……悟浄の事を。
今悟浄はどうしているのだろう。
何も言わずに姿を消してしまった。
心配……しているだろうか……。
それとももう自分の事なんて忘れてしまった……?
八戒の心に不安が広がる。
「八戒〜。俺また八戒とこうして遊べて嬉しい。
だってずっと八戒と連絡とれなかったしさー」
それでも、こうして甘えて来てくれる悟空をみるとそんな気持ちが薄らいでいく。
今は普通で…幸せな生活。
今までの生活では、こうして悟空や三蔵にあって自由に遊ぶ時間なんてなかった。
そんな自由な時間は与えられなかった……。
与えられるのは、羞恥と苦痛……そしてただ想い待ちこがれるだけの日々。
思い出すだけでも、全身に嫌悪感が走る。
見知らぬ男に抱かれる生活……そんな所には戻りたくない。
三蔵はそんな生活から自分を救い出してくれた。
今は幸せ……。
このままずっと平和に過ごして……悟浄の事、忘れてしまいたい。
自分にとって悟浄は『麻薬』のようなものだったのかもしれない。
体を蝕み、全身に苦痛を与えるのに……それでも求めずにはいられない。
麻薬中毒のような症状。
それを治すには、その原因となるものに近づかない事。
触れない事……想わない事……。
そうすれば…………。
「悟空、何か甘い物でも作ってお茶にしましょう。
何がいいですか?」
「んー、練りきりがいいな。
アレ結構三蔵も好きなんだ」
「じゃあ、それを一緒に作りましょう。
作り終わる頃にはきっと三蔵も仕事が終わって戻ってきますよ」
そうすれば………この中毒も治る……きっと……。
「三蔵、僕はいつまでここにいるんですか?」
このホテルでの生活も随分たつ。
いつまでも三蔵に世話になりっぱなしというのもどうかと思い、八戒は三蔵にそう言った。
こんな広い部屋だ、賃金もかなりだろう。
「もう少しだ。
……ここから出たいのか?」
三蔵の言葉に八戒は考える。
ここから出たい訳ではない……ハズだ。
でも何か落ち着かない。
「いえ……」
呟く様に言う八戒に三蔵は小さく溜息を吐く。
「もう少しだから我慢しろ。
こんな所に閉じこめて悪かったな」
「そんな……貴方には感謝しています。
僕をあそこから連れ出してくれて……」
無理矢理にでも悟浄から引き離してくれて……。
そうでなければ、自分は抜ける事ができなかっただろう。
「貴方の事、信じていいですか?」
八戒は三蔵の目を見てそう言う。
この人は自分を救おうとしてくれている。
その気持ちを無駄にはしたくない。
「ああ……」
祈る様な八戒の言葉に、三蔵は短くそう返した。
穏やかな日々は続いた。八戒は、自分が優しい笑みを浮かべることができているのに気付いていただろうか。それは悟空が望むままの、心からの笑顔。
だが、そんな時間も長くは続かなかった。まるで、壊されるための安息であったようにそれは訪れた。
「探したぜ。」
扉の向こうにその男はいた。聞き間違うはずもないその声に八戒はゾクリと震えた。
『閉じ込める』、三蔵はそう言ったがこの部屋は内側から普通に開く。
八戒は出ようとすればいつでも出て行けた立場だ……だが、そうしなかったのはこの扉の向こうの男を忘れるためだった。
ここにいれば、悟浄に会わないで……探ないで……求めないで…待たないで済む。
その筈だったのに……。
「悟浄…どうしてここに……。」
狙って来たかのように、その日は三蔵も悟空もおらず八戒は独りだった。
「いーから開けてくれよ。ここにいつまでもいるとヤバいんだ。警備が厳しくてよ…って、来る! 開けろ!」
そのとき、咄嗟とは言え鍵をあけてしまった自分を、八戒は嫌悪することになる。
「…あ…。」
鍵をかけ直そうとしてももう遅かった。悟浄は滑り込むように室内へと入り込んで来た。そして、後ろ手に鍵をかける。
鍵を掛けるその音がやけに大きく耳に響いた。
「で…、出ていってください…!」
拒絶の言葉も、震える声では相手を悦ばすだけと何故気付かないのか。悟浄は笑みを隠して部屋の奥へと逃げる八戒に近付いていく……ゆっくりと。
そのまま壁際まで追い詰めると、抗おうとする八戒の腕を掴みその震えの止まらない身体を壁へと叩き付けた。感情の希薄な紅い視線が、八戒を射竦める。
「お前さあ、俺から逃げられっとでも思ってんの?」
冷たい、冷たすぎる声。八戒はその寒気が恐怖からくるものだと気付いた。
『…こわい…。』
掴まれた腕だけが、やけに熱かった。
「八戒…」
紅い瞳が、自分を見ている。そう思うだけで甘い毒が身体を蝕みゆくのを八戒は感じた。そう、悟浄という名の甘い甘い毒が。恐怖は、またこの毒に酔わされてしまうことへの恐怖だった。
『だめだ…。たすけて…。誰か…、三蔵、悟空… …さんぞう…。』
心の中で三蔵の名を呪文のように唱え、三蔵の紫の瞳を思い出すために目を閉ざす。もう戻りたくないと、紫水晶の瞳にかけて誓った自分を思い出すと八戒は決意を固め、言った。
「僕はもう…貴方の思い通りにはなりませんよ。悟浄。」
その声はもう震えてはいなかった。
『チッ…。』
その小さな小さな舌打ちは、己を奮わせることに必死な八戒の耳には入らなかった。面倒臭そうに口端を歪めたその顔も、瞼を閉ざした八戒には映らなかった。
「んなこと言うなよ、八戒…。」
指先に感じた唇の感触と、熱い吐息。そして甘い、甘い声に八戒は思わず目を見開いた。
「ご、じょお…?」
掴まれていた腕が引き寄せられ、労るような仕種で悟浄の唇が八戒の冷たい指先を辿った。
「会いたかったんだ…。ずっと、ずっと探してたんだ…。」
嘘です、また騙す気なんでしょう…その声は薬指を悟浄の口内に取り入れられたことで消えてしまった。
「あ…。」
悟浄は味わうように八戒の指を舐め上げていく。濡れた音が八戒の官能を呼び覚ます。悟浄はそのまま手首から白い肌に青く浮かぶ血管をなぞるように舌を這わせていく。
「ん…っ。」
シャツの袖に邪魔をされるのを残念に感じて、八戒はいつのまにか悟浄が促すままに服を脱いでいた。露になった肌に優しく慈しむように触れてくる悟浄の手に、もう八戒は抗うことなどできなかった。
『騙されては、いけない…。』
そう叫ぶ心も、次第に麻痺していった。いつのまにか、八戒は一糸纏わぬ姿でベッドへと沈められていたのだ。甘い毒に冒される悦びから、もう逃れる気もおこらなかった。
「ごじょお…」
適確に情慾を煽っていく指先と舌先に、ゆるゆると張り詰めていく自身を八戒は感じていた。鎖骨の上の柔らかい肌を軽く噛まれれば、濡れたものが滲んでくるのを止められない。そして、その先に悟浄の固い腹筋を擦られるように感じさせられれば、悲鳴にも似た嬌声が小さくあがる。
久しぶりに与えられる熱。見知らぬ男に強制的に与えられるそれは、苦痛でしかなかったというのに。相手が悟浄だというだけで、快楽は甘い熱病となって八戒を惑わし破壊する。
首筋の柔らかい肌を執拗に攻めていた唇が、唾液を絡ませた舌を這わせながら八戒の口元に辿り着く。つん、と誘うように悟浄の舌先が八戒の閉ざされた唇をつつく。八戒は答えるように、己の舌先を覗かせた。絡み合う深い口付けが、淫猥な音を伴い続けられた。まるで、映画に出て来る恋人同志のようなキスだと八戒はぼんやりと思い、涙を溢れさせた。
「八戒…俺が欲しいか?」
耳元で囁かれる、今更ながらな問いかけ。
欲しかった。手に入れられるならば己の心など、ましてや身体などいくら貶めてもかまわないくらい。非情でも冷酷でも酷薄でも関係ない、ただ悟浄という存在が。…欲しいのだ。
思い知る己の貪欲さに、八戒は全身を快楽へと投げ出した。
「く、ください…。僕に、貴方を…っっっっ!」
悟浄の、全てを。
『悟浄』という麻薬を断たれていた心と身体は、浅ましいまでに求め狂った。
「あ、んあ、ごじょ…。もっと…。んん…。」
男を喜ばす手管ではない嬌声をあげ、自ら導くようにその骨張った長い指を口内へと取り込む。奉仕するかのような舌技でそれを潤すのは、己の中を探って欲しいとの意志表示。
「ごじょう…。ください…。」
滴る程濡れたその指を唇を窄め吸い付く肉壷より引き抜くと、悟浄は八戒の求めを無視し唾液を擦り込むように八戒の腹を撫で上げた。
「ひゃ…っ…ん…。」
冷たい手の平でその傷に触れられれば、限界まで張り詰めていたそれがびくんと痙攣するかのように震える。この傷にまつわる女の存在は、今の八戒にはもう思い出すこともない。それは悟浄につけられた傷で、悟浄に癒された傷で、悟浄に嬲られるためにある傷なのだった。
「あ、ああ…。もっとぉ…。」
思うままにねだれば、答えてくれるように唇がやってくる。醜く引き攣れた傷痕を伸びた爪が削るように掻いて、それを労るように舌が追う。
傷を弄られるだけで、八戒は己が限界にあることを感じた。
「やだ…ごじょ……。まだ…。」
まだ、イきたくない。終わりたくない。もっと、もっと悟浄を感じていたい。だってきっとこれは夢だから。悪魔の魅せる甘く幸せな悪い夢なのだから…。
「あああああああっ!」
傷痕を食い破られるかと思う程強く噛み付かれ、八戒は頂点に登り詰めた。その瞬間、先端をぎちっと悟浄の指先につままれ逐情を阻まれた。あまりの苦痛に八戒は悲鳴を迸らせる。甘く、幸せな悲鳴を。
「もっと、なんだろ?」
紅い悪魔が、笑っていた……。
……あっという間に堕とされてしまった。
悪魔の甘美の囁きに……。
「八戒」
悟浄に名前を呼ばれても八戒はシーツに顔を押しつけたまま動きを止める。
胸の中に広がるのは……激しい後悔。
どうして受け入れてしまったのだろう……と。
折角三蔵が、自分を悟浄から離してくれたというのに。
(なんだかんだ)
「お前三蔵なんか信じてんのか?」
「ええ、あの人は僕を救ってくれようとしたんです」
こんな僕を……と八戒は小さな声で付け足す。
そんな八戒を見て悟浄は小さく笑った。
「お前ホントに信じてんのか?
アイツがなんでお前をここに連れてきたと思う……餌だよ」
「餌……?」
悟浄の言葉に八戒は耳を疑う。
「お前がここにいれば、お尋ね者の俺を捕まえれるとでも思ってんだろ?
まあ、俺はそれを知ってもここに来たけどな……お前の為に」
『お前の為』という部分を強調して言い、八戒を見つめる。
「そんな……」
悟浄の言葉が頭の中を回る。
三蔵は本当に自分を……悟浄を捕まえる為に?
もう少しだと言うのは、悟浄が来るまで……。
そう考えると辻褄は合う。
でも信じたくはない……。
三蔵が自分を利用していただけだなんて。
「心辺りあるんだろ?」
「いえ……そんな事…ありません……」
そう言いながらも語尾は小さくなって消えていく。
心の中にはどんどんと不安が広がっていった。
「悟浄ここに来てたのか」
「三蔵……」
部屋の扉が開かれ、三蔵がそう言いながら部屋の中へと現れる。
八戒は三蔵に真実を聞きたかった……でも聞きたかった言葉は口の中で消えてしまった。
「ほら三蔵、俺が居ても驚いてねえだろ?
予想済みだからだよ。俺がここに来ることをな」
自分の耳元で囁かれる悟浄の言葉……。
自分はまた騙されて利用された。
こんどこそ、信じる事が出来ると思ったのに。
……また裏切られた……
そう思った瞬間に八戒の体は三蔵に向かって動いていた。
制御も外していないのに、止められない怒りで妖化した爪と指が三蔵の心臓の上に突き刺さる。
なま暖かい血が指を伝って床に落ちる。
「八戒……何を……」
苦しさに顔を歪ませながら、三蔵が八戒の顔を見る。
その表情に八戒ははっとした。
何かが違う……本当に三蔵は自分を騙してた?
何か自分は大きな間違いを……。
「悟浄……」
八戒は慌てて振り返り悟浄を見る。
「まさかホントにヤルとはな」
目の前には、その様子を見て笑う悟浄。
そして反対には……自分の目の前にはうずくまり血を流す三蔵。
悟浄に騙された……。
あれだけ何度も騙されていたのに、また自分は悟浄の言葉に惑わされて三蔵を……。
「いやぁぁぁぁ……」
八戒は叫びながら部屋を飛び出した。
……もう誰も信じられない。