Sogno 〜夢〜 Op114
「ここは…?」
目を開いた先に広がるのは、ただ一面の白。
空も地面も、見渡す限りのすべてが白一色だ。
でも、霧が出ているとかではない。
真っ直ぐに伸ばした指先をクリアに確認する事が出来る。
ゆっくりと記憶を掘り起こす。
何が会ったのかを……。
旅を…していた。
悟浄と三蔵と悟空と四人で西に向かって…。
…そう、あの日も朝から沢山の刺客が訪れた。
その場所は崖の多い山道で、おまけに前日の雨で地盤はかなり緩くなっていた。
「八戒!」
…何かに気を取られていたのかもしれない。
あの時自分は戦いに集中出来ていなかった。
叫ぶような悟浄の声に振り返れば、其処には今にも自分を射さんとする的の槍先。
とっさにそれを避けるのが精一杯だった。
何とかギリギリの所で敵の攻撃をかわす事は出来たけれど…。
「……ッ!」
「八戒…」
今度は足を付いた地面がくずれる。
それにはもうどうする事も出来なくて…そして…。
「…じゃあ、僕は死んだのでしょうかね」
そう呟いて辺りを見回す。
それでもやはり目に映るのは一面の白だけで何もない。
「これが地獄なんですかね」
自分が死んだというのならきっとここは地獄だろう。
天国になんて行けるはずは無いから。
それでも思わずため息が出てしまう。
こんな何もない世界で自分は今からどうすれば良いのだろう。
「ここは地獄ではないわ」
突然の人の声に慌てて振り返る。
そこには一人の女性が立っていた。
さっきまでは誰も居なかったのに…。
この女性は一体どこから現れたのだろう。
「天国でもないけどね」
そう言って女性は小さく笑った。
口元まで覆う様なフードをかぶっている為、詳しい表情は読みとれない。
そのフードは真っ白で…周りと同化してしまいそうだった。
「…ここはどこなんですか?」
僕の問いに女性はゆっくりと口を開く。
「ここは生と死の中間地点。
何もない…『無の世界』よ」
無の世界…。
その言葉に背筋に寒気が走った。
「僕は死んだのではないのですか?
…これから…どうすればいいのですか?」
ここには居たくない…。
全身がそう訴えるのが分かった。
すぐにでもここから抜け出したい。
「…何もしないわ。ただずっとここに居るだけよ。
眠る必要も食べる必要もない…死ぬ事もない……。
ただ永久にここで過ごすだけよ…貴方一人でね」
「永久に……」
思わず唇からそう漏れてしまった。
永久……。
死ぬまで、ではない。死ぬ事も無いのだから。
それはもう計る事の出来ない程の時。
それだけの時間をたった一人で…。
「…あの、貴女は?」
「私はこの世界の番人。
ここに住まう者ではないわ。
ここに存在するのは…貴方一人よ…」
女性の言う『一人』という言葉が胸に深く突き刺さる。
一人……。
「貴方に伝えることはそれだけよ。
それでは、さようなら」
「待って…」
慌てて手を伸ばすが、彼女の姿はそのまま周りの白と同化するように消えていく。
周りを見回しても…見えるのは一面の白だけだった。
孤独……。
無限の空間の無限の時間の中にたった一人ぼっち。
これで孤独を感じない方がおかしいだろう。
何もする事もない。
出来る事は考える事ぐらいだ。
せめて眠る事が出来たのなら、もう少し楽だったかもしれない。
あれからどれだけの時間が過ぎたのだろう。
何年もたったような気分だが、もしかしたらほんの一瞬なのかもしれない。
一度この世界がどこまで続いているのか歩いてみた。
…何も変わらなかった。
ただ無限にこの白い世界が続いているだけ。
歩いても疲れる事はない。
だんだん歩いているかどうかも分からなくなる。
…そういう世界なのだ。
存在しているかどうかも分からなくなる。
もし、目の前に広がっているのが白ではなく真っ黒な闇であったなら、もう少し安心するのかもしれない。
見えないだけでこの先に何かあるという希望が持てるだけ…。
ここは何も無い事がよく見える。
…何もかも気休め程度にしかならない事は分かっている。
でも、その気休めも無ければやっていけない。
気が狂ってしまいそうだ。
人間一人になりたいと言うのは、他人が居るから思うものだと感じる。
「一人に……か」
小さい頃はよくそう望んだ。
鬱陶しい程人の事を気にするシスターも、陰で自分の事を噂する孤児院の子たちも、表の通りを歩く幸せそうな人々も、すべて居なくなってしまえと…。
多人数の部屋では一人になれる事もなかった。
周りのすべてが煩わしかった。
…あの頃望んでいたのはこんな世界なのだろうか。
何もない…存在しているのかいないのか分からなくなるような『無の世界』。
そうなのかどうかは分からない。
もう自分はあの頃から変わってしまったから。
他人の暖かさを知ってしまったから…もう一人にはなれない。
「悟浄…」
愛しい人の名前を呼んでも、その声はあの人には届かない。
永遠に……。
「気分はどうかしら?」
ある時、あの女性が再び現れた。
その時僕は心のどこかで少し安心した。
他の人が現れる事によって僕の時間が再び動き出した、そう思えたからだ。
もう僕はかなり参っていたのかもしれない。
僕の精神はすでに正常ではなかった気がする。
それぐらいにこの空間は人の心を追いつめる。
「随分この世界は貴方にとって辛いようね」
「…………」
そう言う女性の言葉に僕は何も答えられなかった。
女性の言葉はあざ笑うように僕を追いつめる、そんな気がした。
「貴方の望みを叶えてあげましょうか?」
望みを叶える…?
初めその言葉が理解出来なかった。
この何もない世界で、僕の望みを叶えると言うのだろうか…この女性は…。
僕の望み…それは……。
「貴方の望みを叶えてあげるわ。
でも一つだけ条件があるの」
条件…。
よく童話の中で魔法使いは願いを叶える代わりにとそう言う。
それは時間であったり、恋を叶えなければ消えてしまうものだったり…。
「条件とは?」
僕の口からはその言葉だけが出た。
どんな事であっても今の状態よりはいい、そう考えたからかもしれない。
「叶えて下さい…僕の望みを」
もうこの状況は耐えられない…。
「今から貴方の望む世界をここに作り出してあげるわ。
でも覚えておいて、それは幻…現実ではないわ」
僕の望む世界……。
「そこで貴方は過ごす事が出来るわ。
ただ…貴方の望むもの…貴方の求める人を手に入れてはいけないわ。
手に入れてしまったら、その瞬間に幻の世界は消えてしまうの」
「…手に入れてはいけない…?」
「その約束を守れば、ずっとその幻の中で生活できるわ。
だからその約束を忘れないでね…」
そう言い彼女は片手を振り上げた。
その瞬間、彼女の姿がゆがむ…。
いや、ゆがんでいるのは僕の視界だ。
だんだん気が遠くなっていく。
まだ彼女に訊かなくてはならない事があるのに…。
でも、もう何も考えられなかった……。
「……かい………八戒!」
自分を呼ぶ声に目を覚ます。
ここは……?
「こんなトコで寝てたら風邪引くぜ」
そう僕に話しかけるのは…悟浄。
「…悟浄……?」
何故ここに悟浄がいるのだろう。
ゆっくりと周りを見回す。
そこは僕と悟浄が過ごしていた家。
「どうした?そんな不思議そうな顔して…」
もしかして今までのは夢だったのだろうか。
「いえ、ちょっと夢見が悪くて…」
そうだとするのなら、とんでもない悪夢だ。
…永遠の孤独だなんて。
「そんなトコで寝てるから悪い夢見んだよ。
俺の事待たなくていいから先に寝ろっていっつもいってんじゃん。
…っていっても、お前の事だから待ってると思ったけどさ」
そう言って笑う悟浄に、なんだかすごく安心する。
ここに居て良かったと思える。
もっと近くに居たくてそっと悟浄に近づく。
「…………?」
その瞬間感じた。
悟浄から伝わるほのかな移り香。
あきらかに女性のものと思える香水の香りだ…。
最近はこんな事なかったのに。
「悟浄…香水……」
「あ、やっぱ臭う?
ま、そういうワケだからさ、お前が起きて待ってるって考えると俺も落ち落ち朝帰りも出来ないワケよ。
だから夜、俺の事待ってなくていいって」
そう言って悟浄は笑う。
…僕の知らない悟浄だ。
悟浄はそんな事言わない…最近は。
同居したての頃はそんな会話も会ったけれど、僕とそうなってからは無かったのに。
「じゃあ俺もう寝るから、オヤスミ」
「おやすみなさい…」
部屋に入っていく悟浄を見送ってから自分も部屋に戻った。
ベッドに腰を下ろしてゆっくりと考える…。
「幻…なんでしょうね…」
ここはきっとあの女性が作り出した幻の世界。
あれは夢では無かったのだ。
夢なのはこっちの方…。
これが僕の望む世界。
悟浄と暮らす…一緒に居る事だろう。
でもこの世界の僕と悟浄は結ばれては居ないようだ。
だから悟浄から女性の香水の香りがした。
その事を思い出すと…少し胸が痛かった。
でもその方が良いのかもしれない。
『手にいれてはいけない』
あの女性から言われた条件。
悟浄を手に入れてはいけない。
つまり彼と結ばれる事は許されていないのだ。
もし、彼を手に入れてしまったら…僕の望みを完全に叶えてしまったのなら、この世界はその瞬間に消えてしまう。
そしてまた、あの世界に一人だ。
永遠に…世界が終わるまで。
あそこには戻りたくない。
それぐらいなら、悟浄と親友として暮らしたい。
例え愛されなくても、他に女の人が居ようとも、彼のそばに居たい…。
(線)それでいい……
そう思っていた、その時は確実に……。
「おはようございます、悟浄」
昼過ぎに起きて来た悟浄にそう声を掛ける。
「んー、はよー」
「コーヒーでいいですか?」
「んー」
まだ寝ぼけているような悟浄はかわいい。
思わず笑みが漏れてしまう。
「はい、悟浄」
「さんきゅー」
こうして悟浄の為にご飯を作ってあげる事が出来る。
それだけで嬉しい。
もうそんな事出来ないかと思っていた。
例え本物相手では無くても…。
それでもいい。
偽物でもいいって思える。
それでも幸せなのだから。
「今日の予定はどうなっているんですか?」
「そうだな…夕飯はいらないわ。
帰んないかもしれないし」
「え……」
笑顔で悟浄はそう言う。
「ほら、昨日言ってた娘さ、今日あたり落とせそうなんだ」
そんな事を笑って言う悟浄に僕はやっぱり戸惑ってしまう。
でもそれを表に出さない様に、必死で笑顔を作る。
「あ…そうなんですか。がんばってくださいね」
「ああ、八戒も上手くいく様に祈っててよ」
「ええ……」
「僕って嘘つきだな…」
洗濯物を干しながら小さく呟いてみる。
人間は笑顔で嘘をつく事が出来る…。
でも…ホントは笑顔なんかじゃない。
怒っていたり…泣いていたり……。
人それぞれ心の奥に本当の気持ちが眠っている。
それを笑顔で隠しているだけ…。
そうしなければならないから。
…でも辛い…でも苦しい…。
「嘘つき……」
ホントは出かけて欲しくない。
上手くいくようになんて祈れるはずがない…。
だって…悟浄の事が好きなんだから。
でもそんな事言えない…。
言ってはいけない。
「もしも僕が悟浄に『好き』って言って、悟浄が僕の事振ったら『手に入る』訳じゃないからこの世界は消えないのかなあ」
ふとそんな事を考えてしまう。
…この想いを悟浄には伝えたいけれど。
でも、振られなければ消えてしまう。
振られる事を目的に告白するなんて馬鹿げている。
それに…例え振られたとしても、想いを告げてしまったらもう僕と悟浄は親友には戻れなくなってしまう。
そんな事になったら、やっぱり苦しいと思う。
だからこの状態を保つしかないんだ…。
「早くこの状態に慣れなきゃな…」
慣れるしかないんだ…。
この世界で、今の状態以上に良いものなんてないのだから。
…今が一番幸せなんだから。
だから、悟浄に愛されていた事を忘れて…、親友として彼の側にいて、彼の幸せを祈れる様にならなければ。
そうしなくては…いけないのだから。
でも、頭では分かっていてもそれを実行するのは難しい。
一緒にいて、こんなに辛いなんて考えもしなかった…。
それは一度彼を手に入れしまったからだろうか。
一度愛される事を知ってしまったからこんなに辛く感じるのだろうか…。
もう一度悟浄を手に入れる事が出来るのなら…そう考えてしまう。
でも悟浄に愛されたら…その瞬間…この世界は消えてしまう…。
そしてあの孤独の世界に戻されてしまう。
それは…耐えられない。
その事を考えればどんな状況も耐えられる。
…でも、それもいつまで持つかは分からなかったけれど…。
「いってらっしゃい」
そう言って悟浄を見送る…。
これから女の人の所に行く悟浄を笑顔で……。
一生懸命笑顔を作った。
楽しい事を色々考えて、物事を良い方向に考えて…。
これよりも辛い事を思い出して…笑った。
ちゃんと笑えた、ちゃんと見送る事が出来た。
「………………」
でも、扉が閉まって悟浄の姿が見えなくなった瞬間…涙がこぼれた…。
すごく胸が痛い。
悟浄が他の女性の所に行くなんて嫌だ…。
『行かないで』って言いたい。
でも言う事は出来ない。
「悟浄…」
苦しいなあ…。
あまりに苦しくて、こんな状態なら一度きりになってしまっても…思いを告げてしまおうかと考えてします。
たった一度でも…もう一度悟浄と結ばれたい。
…でも、その後永遠に一人きりで過ごさなくてはならない。
その事を考えると、やっぱりそれを選ぶ事は出来ない。
どっちの方が幸せなんだろう。
苦しくても…ずっと悟浄との生活を守るか…。
それとも…一瞬の愛と永遠の孤独を選ぶか……。
「買い物にでも行って来ましょう…」
そう呟いて、財布と上着を手に取る。
今日は悟浄が帰らないから、別に今冷蔵庫にある材料だけでも僕一人分の夕食ぐらいなんとかなる。
でもこうして家の中で考え事ばかりしていたら気が滅入るだけだ。
この幻の世界は…どこまで広がっているのだろう。
家の外も、僕と悟浄が暮らしていた街そっくりに出来ている。
森の小道も商店街もすべて…。
歩けば歩いただけ景色が変わっていく。
あの無の世界とは違う。
こうして買い物をしたりして気を紛らわす事が出来る。
何かをすれば…その分気が楽になる…。
やっぱり早まってはいけない。
一瞬の愛の為に…またあの世界に戻るなんて馬鹿げている。
…馬鹿げている……。
無の世界になんて戻りたくない。
このまま、この幻の世界で過ごして行こう。
「……悟浄……」
悟浄の紅い髪がふと視界を横切る。
ほんの一瞬…。
混雑した人混みの中だったから悟浄は僕には気づいて居なかった。
ただ一瞬すれ違っただけだから…。
でも僕は悟浄に気が付いた。
人混みの中ででも。
きっとどこに居ても悟浄を見つけられる。
…彼を欲しているから。
でも悟浄は僕には気づかない。
彼の心は僕を見ていないから。
「悟浄……」
振り返って悟浄を目で追う。
こんなに見つめても…彼は気が付かない。
今、悟浄は隣にいる女性だけを見つめているから。
他に何も見ようとしないから。
だから僕がどれだけ悟浄を見つめても…彼は僕には気づかない。
しかたがない事だ。
それでいい…。
見つめる事が出来るだけでいい。
「…………ッ」
悟浄と女性の姿が一つの建物の中に消える。
ホテルの中に……。
それを見た瞬間、やっぱり僕の心は痛んだ。
息が出来ないぐらいにくるしい。
…でも大丈夫。
すぐに慣れる……きっと………。
「おかえりなさい、悟浄。
今日は随分と早いんですね」
まだ日付を回るか回らないかという時刻に帰宅した悟浄に僕はそう言った。
悟浄はあの女性とつきあい始めてから、帰ってくるのは大概夜中三時くらいか朝、酷いときには昼か夕方だった。
だからこんな早い時間に帰ってくるなんて、かなり珍しい。
「まあね」
悟浄は軽く笑いながらそう言う。
「もしかして、彼女に振られちゃいました?」
なんだか意地悪をしたくなってしまって、ついついそんな事を言う。
もう随分とこの生活に慣れた。
今では悟浄の事を『親友』として見る事も接する事も出来るようになった。
最初のウチはやっぱり、悟浄が彼女と二人で居るのを見たり聞いたりすると心が痛んだ。
でもその痛みも少しずつ小さくなって…今ではほとんど感じる事はない。
普通に悟浄と彼女の事を応援出来るようにまでなった…。
…こうして人の想いは消えていくのだろうか…。
そう考えると少し悲しい感じがする…。
「俺が振られるワケないじゃん。
もちろんリーベリーベだぜ」
「何ですか?その『リーベリーベ』って」
初めて聞く言葉に聞き返すと、悟浄はにっと笑う。
「ドイツ語で『ラブラブ』って事」
「ああ…そうすか…」
確かに、ドイツ語で愛はリーベですけど。
ラブ=愛=リーベって事ですかね。
でも普通そんな表現をするのだろうか…。
なら韓国風に言うなら『サランサラン』…?
「それで、リーベリーベな悟浄さんはどうして今日は早く帰ってきたんですか?」
「早く帰って来ちゃ悪い?」
「いえ別に。ただ珍しいなあって思っただけですよ」
「ひでぇなぁ〜」
こんな風に悟浄と話す事が出来るのがとても嬉しい。
…それだけでいい。
こうして悟浄とずっと一緒にいたい。
今望むのは…それだけだから。
「最近遅く帰ってばっかで、あんまりお前と話せなかったからさ」
「…それで早く帰って来てくれたんですか?」
悟浄の言葉に驚きが隠せない。
悟浄が…僕の為に早く帰ってきてくれた。
その事がすごく嬉しい。
感激のあまり泣いてしまいそうだ。
でもそんなに感動を表に出してはいけないから、必死で『普通の笑顔』を作る。
「ほらさ、よく恋人が出来たら友情なんかどうでもよくなるって話あるじゃん。
それ聞いてちょっと…って思ってさ。
女の事はやっぱり大事だけど、俺にとって八戒はやっぱり大事な親友だからさ」
「つまり、そんな話を聞いてようやく僕の事を思い出してくれたんですね」
感動を押さえながらそう言う。
『親友』としてでも、僕の事を『大事』だと言ってくれた事が嬉しい。
「そんなワケじゃねえけど…」
バツが悪そうに言う悟浄に僕は小さく笑う。
ちょっと虐めすぎちゃいましたかね。
「何か食べますか?
簡単な物で良ければすぐに用意できますけど」
「んー、それより飲まねえ?
最近お前と飲んでねえし」
「そうですね。じゃあおつまみでも作りますね」
こんな風に悟浄と二人で飲むなんて久しぶりだ。
この世界に来てからは初めてかもしれない。
他愛のない会話でも、それでもいい。
「僕と飲みたいだなんて言って、ただノロケ話を聞かせたいだけなんじゃないですか?」
ずっと自分の彼女についてばかり話す悟浄にそう言う。
少し意地悪な口調で言うけれど、別に怒っているわけでも辛いわけでもない。
こうして悟浄が自分の事を話してくれる、それだけで十分だし嬉しい。
その言葉に…嘘偽りはない…。
「やっぱそう聞こえる?」
「聞こえますよ。
それ以外の何だというんですか?」
僕の言葉に悟浄は笑って頭を掻く。
そんな悟浄の様子を見ながらそっとグラスに口を付ける。
ひんやりとしたガラスの感触が僕の熱を静かに下げていく。
「まあ、たまにはノロケたっていーじゃん」
「『たまに』ですか?」
「そんなノロケてねーじゃん。
今日の八戒なんかキツくねえ?」
悟浄がじっと睨む。
そんな姿が可愛くて僕は小さく笑った。
「すいません。
二人の熱い話を聞いてたら、つい意地悪したくなっちゃいました」
「ひでー」
そんな事を言って二人で笑う。
その言葉は嘘ではない。
でも…心の奥では……。
本当は……。
「八戒はさ、気になる女とかいねえの?」
「え…?」
突然の悟浄の言葉に胸がドキっとした。
そんな事を聞かれるとは思っていなかったから…。
僕は手に持っていたグラスをゆっくりとテーブルに戻す。
心を落ち着けるように…。
そして息を吐き笑顔を作って悟浄を見た。
「特にいませんよ」
さすがにまだこんな嘘をつくのには抵抗がある。
「なんだったら俺が女紹介してやろうか?」
「いえ、別にこれから先も特定の方とお付き合いする気はありませんから」
作った笑顔のまま悟浄にそう言う。
…貴方を求める事が出来ないのに…他に誰かを求める気になんてなれないから。
「そんな風に生きて楽しい?」
「…………」
無理をして言った僕の一言に悟浄がそう言う。
「どういう事ですか?」
「そんな風に他人を拒絶してさ、自分の殻に閉じこもって、それで楽しい?」
悟浄が何を言いたいのか分からない。
「何の事ですか?」
分かりたくない…。
聞きたくない…。
「他人に拒絶されるのが怖い?失うのが怖い?
そんな事考えて生きて楽しいのかよ。
何でもいいからぶつかってみろよ!
それで駄目だったら…それはそれでいいじゃねえか」
「貴方に何が分かるんです!」
「……八戒……」
僕は慌てて口を押さえた。
でももう遅い…。
一度離れてしまった言葉は…もう戻っては来ない。
「…あ………」
そんな事言うつもりは無かった。
言ってはいけなかった。
「ご…ごめんなさい……」
「八戒、待てよ!」
僕に向かって伸ばされる悟浄の手を振り払う。
そのまま自室へと戻った。
追いかけて来る悟浄を振り切る様にドアをしめ、鍵を掛けた。
「…八戒」
悟浄がドアを叩き、そう叫ぶ。
…でも僕は何も答えなかった。
「…………」
そして悟浄も、それっきり何も言わなかった…。
なんであんな事を言ってしまったのだろう。
笑って、誤魔化してしまえば何の問題もなかったのに。
でも考えるよりも先に僕は言葉を発してしまった。
もう限界だったのかもしれない。
…平気なフリをするのも。
毎日毎日笑顔を作って…自分に暗示を掛けるように『平気』『幸せ』と唱え続けて…。
そんな風に無理にでも幸せを感じとって、普通の生活を手に入れたけれど。
やっぱり無理だったのだろうか…。
どんどんと平気になっていく自分と、どんどん我慢出来なくなっていった自分がいた。
気持ちを抑えるために気持ちが分離していった。
普段は、この生活を守ろうとする気持ちが僕の悟浄への気持ちを抑えていた。
でも…僕の悟浄への気持ちはずっと陰で悲鳴をあげていた。
抑圧される事が苦しくて苦しくて…。
もう限界だったんだ。
悟浄が何も言わなくても、僕の気持ちは破裂していたのかもしれない。
…今回はただ悟浄の言葉が引き金になっただけだったのだ。
「…悟浄……」
でも、まだ僕はこの生活を失いたくない。
だからこれからも僕は悟浄への気持ちを抑え続けるだろう。
どれだけ苦しくても悲鳴をあげても…。
それでも僕がこの生活を守りたい。
いつまで押さえられるかは分からない。
そんなに長くは持たないだろう。
…それでも、一日でも長く…守りたい。
「八戒…おはよ」
「おはようございます、悟浄」
戸惑いがちに挨拶をする悟浄に、僕はいつも通りの笑顔を作った。
「昨日はごめんな、お前の気持ち何にも分かって無くて…」
僕の…気持ち…。
悟浄は昨日あれから僕の事を考えてくれたのだろうか。
「やっぱり、お前にとって姉さんの事とかすぐに忘れれるようなもんじゃねえもんな…。
そんな事も考えられなくて悪かった」
それでも…貴方は僕の事なんて何も分かっていない。
でも分からなくていい…。
「いえ、貴方の言う事も正しかったと思いますよ。
でも僕にとってはやっぱりすぐに忘れれるような物ではないんです」
その誤解を利用するだけ。
この生活を守る為ならどんな嘘もつきます。
自分の気持ちを偽る事なんて何でもない事…。
「ホント、ごめんな」
だって貴方が側に居れば、それでいいから。
「いえ、気にしないでください」
…でも…それも嘘……
重ねていく嘘の一言…。
それが小さな歪みを作ったのかもしれない。
それから僕と悟浄の気持ちは少しずつその歪みを大きくしていった。
普通に話していても心はすれ違っている。
どことなくよそよそしい会話…。
そんな会話を心のどこかで安心している自分がいた。
そう、悟浄と必要以上に近寄らなければ…これ以上心惹かれる事も苦しい想いをする事はない。
「…………」
本当に自分は臆病になってしまった。
こんなにも失う事が怖いのだ…。
悟浄の事を愛している。
もっと側にいたい…。
彼を愛し、愛されたい。
でも…もう 孤独に戻りたくはない。
だから彼に近づく事ができない。
近づくことも、離れる事も出来ない…。
今は、そんな中途半端な位置にいる。
でもそんな位置を守りたい。
そんな自分は…馬鹿なのだろうか。
今の自分にどんどん迷いを感じ始める。
それは、抑えていた自分の気持ちがだんだん抑えられなくなってきたからなのかもしれない。
悟浄の事を愛したい自分と愛する事を諦めた自分…。
その二人の自分の気持ちの間には多くの矛盾が生じる。
その矛盾が心を悩ませる。
でも…どうする事もできない。
どちらの気持ちを選ぶ事も出来ないから。
とちらの気持ちも…自分の本心なのだから。
ただ共通することは、悟浄を愛しているという事……。
「八戒、話あるんだけど…ちょっといいか?」
悟浄にそう言われたのは…それから数日後の事だった。
「…今ちょっとやる事あるんで、また後でにして貰えますか」
やる事なんて別になかった。
でもそう言わなくてはならない気がした。
悟浄が言おうといている事を僕は聞いてはいけない。
そんな気がしたから…。
「俺の事避けてる…?」
悟浄の口から躊躇いがちにその言葉がでる。
「別に避けてなんていませんよ」
僕はゆっくりとそう言った。
少しずつ、心の距離を置くように。
確かに僕は悟浄の事を避けるようにしている。
でも仕方がないんですよ…。
近づいては行けないんですから。
「なら俺の事見ろよ。
俺の目を見てちゃんと言えよ」
そう言って悟浄は僕の腕を掴み強く引き寄せた。
その瞬間、僕の心が高鳴るのが分かった。
僕の事を見つめる…血の様に、炎の様に紅い瞳。
その瞳を見つめていると、そのまま引き込まれてしまうような気がして…僕はそっと視線を逸らした。
「なんで目を逸らすんだよ。
…この間の事、まだ怒ってんのか?」
「関係ありません…」
「だったら何でだよ」
僕は俯き、悟浄の体をそっと押し返す。
「何でもありませんよ。
…僕、やる事ありますから」
そう言って悟浄の側から逃げようとした時、再び悟浄に腕を捕まれた。
「逃げるなよ…」
「離して下さい」
早くここから離れなくては…。
悟浄が…『話す』よりも前に。
「離さない。
俺はお前を…」
「やめて…」
慌てて悟浄の言葉を遮る。
それでも、もうその言葉は悟浄の口から離れてしまった。
「俺はお前を愛してる」
聞きたくなかった。
悟浄からその言葉を聞きたくなかった。
それでも…やっぱりその言葉は嬉しかった。
でも嬉しすぎて、抑えていた僕の悟浄への気持ちがどんどんふくれあがっていく。
枷を外そうとする…。
でも今、悟浄の告白を受け入れてしまったら…その瞬間、夢は終わってしまう。
この世界と目の前にいる悟浄は消えて…そして待っているのは永遠の孤独だけ。
だから、僕は悟浄の気持ちを受け入れる事はできない…。
「八戒…」
悟浄の瞳を見てはいけない…。
悟浄の言葉を聞いてはいけない…。
お願いだから…僕を貴方の中に引き込まないで。
「悟浄…ごめんなさい」
僕は視線を逸らしたまま、それだけを言うのが精一杯だった。
「俺…ホントにお前の事を愛してる」
繰り返される言葉…。
でも僕には否定しか出来ない。
「…どうして……」
「ずっとお前の事気になってた。
それがどんな気持ちなのか分かってはいなかったけどな。
でも、この間の事で分かった。
…お前が辛そうにしてるの見て苦しかった。
お前を傷つけたくないって思った」
聞きたくない…。
塞げるのなら、この両耳を塞いでしまいたい。
「やめて下さい…」
「俺の話聞けよ…。
ホントはもっともっと前から好きだったんだ。
あんな事言ったのも、ずっとお前俺に対して壁を作ってる気がしたから…。
近くに居るのに遠い気がした、それが嫌だったんだ」
悟浄がずっと僕の事を気にしていてくれた…。
僕の態度の違いに気づいていた。
…貴方には何も隠せないのかもしれませんね。
でも…それでも僕は隠し続けなくてはならないのです。
「悟浄、ありがとうございます。
でも僕は、まだ誰かを愛する事なんて考えられないんです。
ごめんなさい」
だから僕は嘘をつき続けます。
貴方の誤解さえも利用して…。
「分かってる、でも俺はお前にこの気持ちを伝えたかった。
お前を手に入れたい」
「悟浄……。
ごめんなさい…ごめんなさい…」
僕は叫ぶ様に謝罪の言葉を重ね、悟浄の腕を振り切った。
そして、また逃げる様に部屋へと戻った。
僕は逃げてばっかりだ…。
あのまま、あの場所には居られなかった。
あれ以上悟浄の顔は見ていられない。
「どうして…」
言葉とともに涙がこぼれた…。
なんでこんな事になってしまったのだろうか。
これが僕の望むものだというのか…。
手に入れられないのなら、愛されない方が良かった。
愛されなければ苦しむ事もない。
手に入れる事が出来ないのに…愛されても仕方がない…。
こんなのは僕の望んだものなんかじゃない。
『だったら終わらせればいい』
この世界を消す事は簡単な事。
そうすればこの苦しみからも解放される。
でも……。
「……………」
そこまで苦しんでも、それでも僕はこの世界を消す事は出来ない。
苦しみながらも、孤独を恐れる…。
弱い自分……。
馬鹿な自分……。
どうする事も出来ない…。
望む事は、愛し愛される事。
それは絶対に叶える事の出来ないもの。
でも僕はそれを求め続けているのだろう。
手に入らない夢を…。
「八戒…」
小さく掛けられた声に振り返ると、そこには悟浄の姿があった。
あぁ…扉に鍵を掛けるのを忘れていたんだ…。
そんな事にまで気が回らないぐらい、気が動転していたのかもしれない。
「……悟浄…」
悟浄は僕に近づくと、僕の体をそっと抱きしめた。
暖かな悟浄の体温が伝わる。
「泣いてたのか?」
「…………」
悟浄の指が涙を拭いあげる。
「ごめんな。
あんな事言ったらお前が苦しむって分かってた。
でも、どうしてもお前に伝えたかったんだ」
「悟浄…」
「お前なしじゃ、俺はやっていけないんだ」
僕も…貴方なしでは生きていけないんです。
だから、貴方の気持ちを受け入れる事が出来ない…。
「その事に気づいて、付き合っていた女とも別れた」
「別れたんですか?」
「ああ。俺に必要なのは、あの女ではなくお前だって気づいたからな」
その言葉は嬉しい…でも……。
抑えても抑えても気持ちが溢れてくる。
抑えきれない程の気持ち。
「八戒、お前が欲しい」
それでも必死に抑えて…。
「…駄目です…駄目ですよ…悟浄…」
そう言って首を横に振る。
これ以上もう何も言わないで下さい。
もう限界だと心が訴えている。
「お前がまだ姉さんの事を愛していても、誰の事も愛せないと言っても…。
俺はお前を手に入れたい。
…力づくでも」
それまで優しく抱きしめていた腕に急に力がこもった。
そして強く抱き寄せられた。
「……んっ」
止めるよりも先に、悟浄の唇が僕の唇を塞いでいた。
柔らかな悟浄の唇…。
力強く、そして優しい口づけ。
そんな口づけが僕の気持ちを溢れさせていく。
もう抑えられない…。
「八戒、愛してる」
「僕も……僕も悟浄の事…愛してます…」
言ってはいけない言葉を、僕は遂に言ってしまった。
もうその時は悟浄の事しか考えられなかった。
悟浄だけを感じていた。
その先の事なんて何も考えられない…。
今、此処にあるこの時だけを……。
「ん…悟浄…」
ずっと求めていた悟浄の体温。
暖かな感触。
すべてが心地よかった。
「悟浄…悟浄……」
一度求めてしまえば、もう止める事は出来ない。
彼のすべてを求めている。
彼のすべてが欲しい…。
「八戒…愛してる…」
悟浄の差し伸べる手を握る。
この暖かさを離したくない。
逃したくない…この暖かさを。
「悟浄…愛してます…。
貴方が……欲しい……」
自然にその言葉が僕の唇から漏れた。
何も考えられない。
貴方の事以外何も…。
「八戒…」
このまま時間が止まってしまえばいいのに。
この時間を永遠に感じていたい。
「ん…ぁぁ…悟浄……愛してます……」