兜率の憂い Op112
まだその頃、僕の世界は闇に包まれていた。
花喃という唯一の光を失ったその瞬間から…。
その時から僕の心には雨が降り続いた。
永遠に降り続ける血のような雨が…。
止むことを知らずに……。
寺に居るときに与えられた部屋は十分過ぎるもので…一人で過ごすには広すぎた。
そして、滅多に誰も来ないこの部屋で過ごすにはあまりにも時間が多すぎた。
毎日長い時間をぼんやりと考え事をしながら過ごす。
それしかやる事がないからだ。
自分は罪を犯して囚われている身なのだから贅沢を言う事は出来ない。
そんな事は分かっている。
それでも、せめて罰を与えて欲しかった。
こうして一人で考え続けるのは拷問の様だった。
耳にはいつだって雨の音が聞こえ続ける。
瞼を閉じれば、花喃が自分で自分を斬り付けるシーンがスローモーションのようにゆっくりと鮮明に何度も何度も繰り返される。
苦しい……。
肉体に与えられる痛みよりも心に与えられる痛みの方が何倍も苦しい。
もしかしたら、これが自分に与えられる刑なのかもしれない。
押しつぶされそうな罪の意識の中で生きる事が。
「痛い……」
あまりの心の痛みに耐えられず、僕は自分で自分の体を傷つける。
もちろん凶器になるような物は与えられていない。
それでも傷つける事は出来る。
爪でも歯でも、どこかに体を打ち付ける事だって出来る。
それだけの自由は与えられているのだから。
だから僕は自傷行為を繰り返す。
体が痛むと心の痛みが少し鈍く感じられる。
体の痛みは我慢出来る…。
だから心の痛みを感じなくてもいいぐらいの体を痛めつける。
それだけが僕に許された自由だと思っているから……。
でもそんな唯一の自由さえもあなた達は僕から奪おうとするんですね。
「何故こんな事をする…」
僕の目にあまる自傷行為についにストップが出た。
「このまま自傷行為を繰り返すなら拘束も考えられるぞ」
「…………」
何故そこまでして僕を生かすのですか?
僕を生かしておいて得になる事なんて何もないのに。
…生きている意味なんてないのに。
もう唯一僕を必要としてくれた花喃もいない。
僕を必要とする人も僕が必要とする人も…なにもない。
だから生きている意味なんてないのだ。
僕に関わる寺の人たちも『三蔵法師様』も、義務として関わっているだけで、好きで関わっているのではない。
僕が居なくなっても…僕が死んでも誰も困らない。
「良く落ち着いて考えるんだな。
自傷行為なんていくら繰り返しても何の得にもならんぞ」
三蔵法師様はそう義務的に言って部屋を出ていった。
…貴方に何が分かるんですか…。
自傷行為なんて何にもならない?
…それがなければ僕は生きていけないんです。
苦しくて…苦しくて……。
苦しさで息が詰まって死んでしまいそうなんです…。
「ああ…そうなんですね…」
自分の腕をゆっくりと自分の喉に持っていく。
苦しさで息が詰まってしまいそう…。
ならば…そのまま…その苦しい息を……止めてしまえば……。
そうすれば楽になれる…。
もう苦しまなくていい…。
この喉に掛けた腕に少し力を込めるだけで。
「…………」
だんだんと酸素が体に回らなくなり視界がぼやけて意識が薄れていく。
意識が消える瞬間…僕は久しぶりに心から笑った気がする。
ゆっくりと意識が浮上する…。
はっきりしない頭で僕は思う。
『また死ねなかった』と。
何故いつも死は僕を受け入れてくれない。
死はいつでも僕を拒む…。
小さい頃から望み続けているのに。
それでも僕は死ねない…。
「気が付いたか…」
頭上で三蔵さんの声が響く。
また咎められるのだろうか。
今度は体を拘束され自由を奪われるのだろうか。
そんな事をして生きていたくなんてないのに。
「そんなに死にたいのか?」
「ええ、死ぬ事が出来るのならば、今すぐにでも」
僕の言葉に三蔵は悲しそうな顔をする。
何故貴方がそんな顔をするのですか?
そんな悲しそうな顔を…。
「俺ではお前の力になれないのか?」
迷いながらそっと触れる手。
体温が高いとかそんな意味でなく『暖かい』と感じられる。
なんだろう、この感じは…。
僕の心の闇の中に…一瞬だけれども光が差し込む……。
違う…あれは偽りの優しさだ。
同情とかそういう感情であって、本当の優しさではない。
何度も何度も自分にそう言い聞かせる。
…それでも三蔵さんに会うたびに、僕の心には温かな光が差し込む。
心の闇は永久に明ける事なんてないと思ったのに。
怖い……。
何よりも、自分が怖いのだ。
大切な物を失い、もう二度と光が差すことなんてないと思っていた。
それなのにもう僕の心には新しい光が差し込んでいる。
まだあれから少ししか時は経っていないのに…。
彼女しか愛さない、そう決めて居たのに…。
それなのに僕はあの人に惹かれている。
あの人が近くにいるだけで心が落ち着くのが分かる。
前の様に笑顔が少しずつ戻る。
…それが怖いのだ…。
このまま、僕は花喃の事を忘れてしまいそうで…。
だんだん…少しずつ花喃の事を考える時間が減っている…。
いつか考えなくなってしまうのだろうか。
彼女の事、忘れてしまう……。
そう考えてしまうぐらいに、僕の心は三蔵さんに惹かれている。
あの優しさは偽りだと何度も自分の心に言い聞かせても、それでもその優しさを求める自分がいる。
『八戒』
そうあの人の声で新しく与えられた名前を呼ばれる…。
それだけの事で、心の中に光が広がる。
気分が楽に…安らかな気持ちになるんです。
それは、花喃と暮らしていた時の気持ちとは別のもの。
生まれて初めて体験するような気持ち。
『悟能』はそんな気持ちを持っていなかった。
これは『八戒』というモノが持っている感情なのだろう。
そうして少しずつ僕は『悟能』から『八戒』になっていく。
『悟能』が居なくなる…。
それは『悟能』の中でしか居ることの出来ない『花喃』を消すことになる…。
もう雨の日しか『悟能』は存在しない。
雨でしか花喃をつなぎ止める事が出来ない。
雨が無ければ……。
だから僕は雨を降らせる…。
心の中に止むことのない雨を。
それしかもう方法が見つけられないんだ。花喃をつなぎ止める方法が…。
雨の音だけを聞いて…他の誰の声も聞かないように。
雨だけを見て…他の誰も見ないように。
……それでも貴方は僕の中に入り込む。
「三蔵さん……」
その名前を呼んではいけないと分かっていても呼ばずにはいられない。
それぐらい大きくふくれあがった気持ちが…次から次へとあふれ出す。
『悟能…』
雨の中、花喃が僕の名を呼ぶ。
『花喃』
雨の中に立つ花喃の表情は僕の位置からはよく見えない。
笑っている様にも泣いている様にも怒っている様にも見える。
『悟能…。貴方はもう私を必要としないの?』
花喃はゆっくりと僕にそう問う。
僕はその問いに答える事が出来なかった。
『……ねえ。どうして貴方は生きているの?
同じ日に生まれて、同じ運命を辿るのに…。
どうして貴方は生きているの?』
ゆっくりと感情のこもっていない口調でそう言葉を続ける。
僕らは双子…同じ時に生まれ同じ運命を歩む…。
同じ流れを持つ者……。
でも今、もう僕らの運命はずれてしまった。
『貴方は私を忘れるの?
私をすべてから消そうというの?』
『違っ……』
『ねえ、死んで。死んでよ…悟能』
僕の声を遮って花喃がそう言う。
死ぬ……。
それを望んでいたはずなのに…僕はそれを受け入れる事が出来なかった。
『花喃…ごめん。
僕は貴方と共に逝くことは出来ません』
あの人に会ってしまったから。
三蔵さんに会う事が無ければ、花喃と共に逝くことが出来たかもしれない。
でも僕は会ってしまった。
『あの人を愛しているの?』
『分かりません。
この感情が何という物なのか僕には分かりません。
でも…あの人に…三蔵さんに会いたい……』
ずっと心の奥に隠していた気持ちが遂に表に出てしまった…。
会いたい…三蔵さんのそばに居たい…。
『ごめん……』
僕はもう…花喃と同じ道を歩む事は出来ない。
『悟能…いいのよ』
『花喃……』
『私たちの関係は間違っていたもの…。
本当は同じ運命を持っているから同じ道を歩むんじゃない…。
違う運命を持っていても同じ道を歩もうとするのが本当の恋人たちなのよね』
花喃は悲しそうな顔をしながらゆっくりとそう言う。
僕はそんな花喃になんと言っていいか分からなかった。
『私たちは臆病だったわ。
違う運命を持つ人と同じ道を歩む自信がなかった…だからこうして同じ運命を持つ人としか居られなかった…。
悟能…あの人は貴方とは違う運命を持つ人よ…。
それでも同じ道を歩む自信はある?』
違う運命……。
確かに僕と三蔵さんでは全く違う運命を持っている。
歩もうとする道が全然違うかもしれない…でも…。
『あの人がどんな道を歩むか分かりません。
それでも…僕はその道について行きたい』
それがどんな道でも…あの人と歩んでいきたい……。
『……分かったわ。
それを信じて進みなさい』
その瞬間ずっと降り続いていた雨が止む…。
そして闇に包まれていた世界に少しずつ光が差し込み始める。
『心地よい光ね…貴方の求めている光は』
花喃はそっと光の中に手を伸ばす。
その表情は今までと違って安らいでいた…。
『仕方がないから見守ってあげるわ』
『花喃…許してくれるんですか』
こんな自分勝手な僕の事を…。
それでも許してくれるのですか?
『貴方が選んだ道ですものね。
貴方は私のたった一人の大切な弟ですもの』
「おい八戒、大丈夫か?」
目を開けるとそこはまた闇だった。
人の影だけが見える。
でもそれが誰かはすぐ分かった。
「…三蔵さん……こんな時間にどうしたんですか?」
「……お前が魘されてるから心配して見に来てやったんだよ」
そう言い捨てる様に言うとそっと僕の額に手を乗せる。
それだけで心が軽くなる。
不思議な感覚…。
「熱はねえみたいだな。
ま落ち着いて寝ろ」
そう言って部屋を出ようとする三蔵さんに…気が付けば手を伸ばしていた。
「なんだ……」
「もう少し、ここに居て貰えませんか?」
もう僕は逃げない。
同じ道を歩むと決めたから…。
「仕方がねえな。
おい、詰めろ」
三蔵さんは小さくため息を吐き掛け布団に手を掛け中に入る。
すぐ近くに体温を感じる。
「早く寝ろ」
「はい…」
僕はそう答えたけれど、ドキドキして寝られそうになかった。
この感情が『好き』とか『愛してる』といったものなのかはまだよく分からない…。
でも一緒に居たいという気持ちだけは分かった。
その気持ちに素直に生きて行こうと思う…。
ずっと貴方と共に…。
違う運命を持っていても…同じ道を歩んで行きたい……永遠に……