蝶々 Op110
「ふう……」
悟能は大きな屋敷の前でため息を吐く。
この高級住宅地に建つ広く大きな和風の屋敷…。
ここで今日から暮らす事になるのだ。
と言ってもただ住み込みで働く、という事なのだが…。
数日前まで、彼は小さなアパートで自分の姉と二人で暮らしていた。
古い安アパートでけして裕福とは言えない生活。
それでも不幸だとは考えていなかった。
それなりに幸せだったとも思える。
しかし数日前の雨の日…。
車で出かけた時に起きたスリップ事故。
飛び出して来た猫を避けようとした瞬間、車は大きくスリップし対向車線を走っていた車にぶつかり止まった。
その事故で姉は亡くなった。
そしてその対向車には…とある社長夫婦が乗っていた。
夫婦は即死だった。
そしてその時から、彼の人生は大きく変わった。
「あの……この度は……大変申し訳ありませんでした」
通夜の晩、弔問客が切れた頃に猪悟能は震える声で社長夫婦の息子三蔵にそう言った。
「…………」
その言葉に三蔵はちらりと悟能を見ただけで何も言わなかった。
それでも無理はないだろう。
両親が一度に事故で亡くなったのだ。
それも……自分の過失で……。
悟能は俯き、零れそうになる涙を抑えてから顔を上げる。
「本当に申し訳ありませんでした。
……僕にできる事があれば何でもします」
「……その言葉は本当だな」
そこで初めて三蔵が悟能に向けて声を出す。
「はい、何でもします」
それで少しでも許されるのなら、と悟能ははっきりと頷いた。
その瞬間悟能の体は床へと押しつけられる。
突然の事に何が起こったのか分からず、悟能は自分を押し倒す三蔵の顔を見上げた。
それは今まで見たことのないような残酷な顔だった。
「何…を……」
悟能はそう言う……その声は信じられない程震えていた。
先程までの緊張での震えではない……明らかな恐怖。
「ここまでして何か分からない程馬鹿ではないだろ?
お前が俺のものになるという事をその体に教えてやる」
「……ここでですか?」
「そうだ、お前が殺した俺の両親の前で誓え、俺のものになると」
そう言って棺の前で犯された。
それが契約書の代わりであるかのように。
そして……自分のすべてが彼のものとなった。
悟能はその後今まで住んでいたアパートを引き払い、彼の屋敷へと向かった。
表向きは住み込みでのお手伝いと会社での秘書。
しかし実際には……。
「猪悟能です。
これからお世話になります」
広い玄関で悟能はそう言って三蔵に頭を下げる。
しかし三蔵は悟能の持っている鞄を見るなり、冷たい口調でいう。
「何だそれは」
「……僕の身の回りの物です」
悟能が持って来たのは小さな手提げ鞄一つ。
それ以外の物はすべて処分した。
三蔵の命令で。
残ったのはどうしても捨てられなかった花喃との思い出の品々……。
「すべて処分しろと言わなかったか?」
悟能の言葉に三蔵は冷たく言い放つ。
「でも……これだけはどうしても……。
許して下さい」
必死に言うが、その願いは聞き届けられない。
「俺は『すべて』処分しろと言ったハズだが」
「でも……これだけは……」
「口答えするな!」
懇願する悟能の頬に、容赦なく平手が振り落とされる。
「俺に従うと誓ったな?ならば逆らうな」
「……分かりました」
誓い言葉を出され、悟能は涙ながらにそれを受け入れた。
この人に逆らう事は許されないのだと……。
「それから、これからは『悟能』ではなく『八戒』と名乗れ。
今までの過去は捨てろ!
お前は俺の下僕だ、俺にだけ従え」
「……八戒」
八戒、と名まで変えられ…それでも悟能は小さく頷いた。
選ぶ道は残されていないのだから。
そうしてすべてを捨てさせられた。
猪悟能はもう何処にもいない。
居るのは……猪八戒という名の……奴隷。
「家の中ではこれを着ていろ」
そう言って渡されたのは、一枚のメイド服。
勿論女性ものである。
「これを……ですか?」
「ああ。下着は身につけるなよ」
「…………」
八戒はそれを手にもったまま黙ってしまう。
何故こんなものを着なくてはならないのだ……。
しかも下着も付けずに。
「返事はどうした?」
「…あ……」
信じられないという顔で三蔵を見る八戒に、三蔵は八戒の着ている服に手を掛けると力ずくで引き裂く。
ボタンが飛び、布が悲鳴を上げて破れる。
「まだ自分の立場が分かっていないのか?
お前の着る物をすべて無くしてやってもいいんだぞ」
三蔵が冷たく言う……本気だろう。
「分かりました。……すぐに着替えてきます」
震える手でメイド服を掴み、部屋から出ようとする八戒を三蔵は止める。
「ここで着替えろ」
冷たく放たれる言葉……。
「分かりました……」
それに対して自分はこう答えるしかない。
それしか選択肢は用意されていないのだ。
「早くしろ」
八戒は破かれた上着を脱ぎ捨て、渡された服に袖を通そうとすると、再び三蔵から制止の声が掛けられる。
「先に全部脱げ」
「は…はい……」
まだ明るい時間……。
この部屋の窓は開けられている……外から誰かに見られるかもしれない。
そんな考えてが八戒の頭の中に回る。
それなのに、こんな所で全裸になど……。
……でも拒む事は出来ない。
八戒はズボンと下着を一気に取り払う。
そして慌てて、メイド服のワンピースに袖を通す。
こんな服でも、何も着ていないよりはマシだ。
メイド服を着た八戒を三蔵は嘲るような視線で見て笑う。
……耐えられないような屈辱。
「これからそれがお前の服だ」
そう言うと三蔵は八戒の着ていた服をまとめてごみ箱に捨てる。
持ってきた着替えも、もう処分されられた。
本当に今、この屋敷で自分に与えられた服はこれだけなのだ……。
「俺は部屋で仕事をする。
後で茶を煎れて持ってこい」
三蔵はそう言い部屋を出て行った。
「……………」
扉が閉められた瞬間八戒は床へと座り込んだ。
ずっと我慢していた涙があふれ出す。
屈辱で……。
でもこんな屈辱は……まだ序の口だった。
「三蔵様、お茶をお持ちしました」
三蔵の仕事部屋を静かにノックし、扉を開ける。
「ああ、ご苦労。そこへ置け」
三蔵は机上の書類に目を通したままそう言う。
机の上には大量の書類が積まれている。
それなりの広さのある仕事部屋は本で埋まっており、狭く感じるほどだった。
そこに置かれている本も、分厚く難しそうなもので、ほとんどが経済学などのものだった。
突然の両親の死で会社を継がなくてはならなくて……大変なのだろう。
その事を考えると八戒の心が痛む。
少しでも三蔵の役に立てるなら、こんな事でも……。
「失礼します」
静かにカップを置き仕事の邪魔にならないようにと、部屋を出ようとする。
「……あっ」
しかしその八戒の背に何か熱い物が浴びせられる。
いきなりの事に八戒は床に崩れる。
座り込んだまま八戒は三蔵を見上げた。
三蔵の手にあるのは空のティーカップ。
入れたばかりのお茶をかけられたのだ。
「まずい」
三蔵は短くそう言う。
「申し訳ありません……すぐに入れ直します」
背中に広がる火傷の痛みを堪えながら、立上がろうと手に力をいれた時、三蔵の小さな笑い声が八戒の耳に届く。
馬鹿にするような笑いが……。
「なんだその格好は。誘っているのか?」
その言葉に八戒は自分の姿を見る。
どうやら倒れた時にスカートが捲れ上がってしまったらしい。
もともと短いスカートは捲れ上がった事でかなりきわどい所まで八戒の足を露出していた。
「い…いえ……」
「お前が『お願い』すれば、抱いてやらない事もないぞ」
スカートを直しながら言う八戒の言葉を遮り三蔵が言う。
三蔵は冷たい視線で八戒を見下ろす。
……お願いすれば、ではない。
お願いしろ……とその目は強制しているのだ。
「お願いします……」
「何をだ?」
三蔵はなおも八戒を煽る。
これは両親を殺された恨みなのだろうか……。
その心は八戒には分からなかった。
「僕を抱いて下さい…お願いします」
分かっているのは、自分には……自分の行動を選ぶ事なんて出来ないという事。
それがどれだけ屈辱的であっても。
そしてそれは、屋敷の中でも会社でも……変わらない。
「三蔵様、失礼します」
……ここは三蔵が跡を継いだ会社、その社長室だ。
八戒はここで表向きは秘書という仕事をしている。
しかし実際には……。
何人もの人間がこの社長室に足を踏み入れる。
そんな中八戒は三蔵の居る机の下にいた。
素肌にはだけたYシャツを一枚身に纏っているだけ。
下半身には何もつけていない、そんな格好で八戒は三蔵のモノを口に含み奉仕する。
この部屋に来る誰にも気づかれないように。
音を立ててはいけない、誰かに気づかれてしまうから……。
それでも少しでも手を抜けば、容赦なく三蔵の足に踏みつけられる。
八戒は誰にも気づかれぬように……そして三蔵が早く達するようにと必死で三蔵のモノに舌を這わせる。
三蔵は顔色一つ変えずに、必死になる八戒を見て笑う。
卑しいものをみる様に……。
やがて三蔵は静かに、八戒の口内に精を放つ。
八戒は眉を潜ませながらそれをすべて飲み干す。
そして荒く上がりそうになる息をゆっくりと落ち着ける。
「……ん……」
そんな八戒の中心を三蔵は靴底で踏みつける。
八戒は上がりそうになる声を必死で堪える。
勿論抵抗する事なんて出来ない。
八戒はせめて声を出さないように努力する事しか……。
「………ぁ……」
直接的な刺激に八戒は直ぐに達してしまう。
声を上げない様にと噛んだ唇が切れ、口の中に血の味が広がった。
「俺は出かける。
床は綺麗に拭いておけよ」
八戒にだけ聞こえる声で言い、三蔵は立上がる。
やがて扉が閉まる音が、机の下にいる八戒の耳に届いた。
八戒は残された部屋で……涙を押えながら床についた己のモノを拭き取った……。
だんだんと三蔵のする事がエスカレートしていく。
そんな風に思える。
それは復讐……?
それともただの…………。
「今日は取引がある。お前もついてこい」
「え、僕もですか?」
三蔵から掛けられた言葉に八戒は驚き、聞き返す。
「当たり前だ、お前は俺の秘書なんだからな」
「……はい」
そう答えながら八戒は考える。
確かに自分の役職名は『秘書』となっている。
でもそれは名前だけの事で、今まで自分が取引になどついて行った事はない。
それなのに今回にかぎってどうして……。
その理由が分からないまま、八戒は取引へとつれて来られた。
不思議な事に着いた先はホテルであった。
それもレストランやラウンジではなく、客室へと通される。
こんな所で取引を行うのだろうか……。
八戒は不安げに三蔵を見る。
しかし三蔵からは何の説明もない。
それどころか八戒の方を見ようともしなかった。
「ようこそ、三蔵殿」
薄暗い部屋の中からそう声が聞こえる。
その声に八戒の全身に鳥肌がたった。
この嫌な感じのする声には覚えがある。
「そして、お久しぶりですね猪悟能」
「あ……貴方は……」
八戒の事を『猪悟能』と呼びかけるその男を見て八戒は言葉を失う。
「早速取引の話しだが」
そんな二人に構わず三蔵は男に向かって話しを進める。
男の方もそれを気にする様子もなく笑いかける。
「ええ、いいですよ。
猪悟能を一晩自由にさせて頂く代わりに、この契約書に判を押しましょう」
男はそう言い手元の契約書を持ち上げる。
その時、八戒は自分が何の為にここに連れて来られたのかを知る。
自分は……。
「三蔵…様……」
「そう言う訳だ、分かったか?」
契約の為にこの男に抱かれろと言っているのだ。
その為に自分はここに連れて来られた……。
「お久しぶりですね、まさかこんな所でアナタを抱けるとは思ってもみませんでしたよ。
あの時は手に入れる事が出来ませんでしたからね」
男は冷たい手で八戒を抱き寄せ、耳元で囁く。
八戒は男の腕の中で体を固く強ばらせ俯く。
よりによってこの男が相手だとは……。
全く知らない男だったら多少我慢できた。
でもこの男は……。
まだ自分が花喃と暮らす前、『猪悟能』と名乗っていた頃……。
その頃にこの男『清一色』に会った。
出会いなんて呼べる物では無かった。
ストーカーの様な行為の数々……。
家に盗聴器を仕掛けられていたり、悪戯電話をかけられたり……。
あげくに連れ去られ、強姦されそうになった。
あの時は何とか死にものぐるいで逃げたが……。
それから住む所も変え、もう会う事もないと思っていたのに。
……まさかこんな所で。
「さあ、始めましょうか。
夜は短いですからねえ」
「…や……」
今度は逃げられない。
自分は売られた身なのだから。
でも……。
「猪悟能、今夜は我とアナタが結ばれる記念すべき日なんですよ」
怖い……。
この男に見られると……全身から冷や汗が吹き出す。
同じ冷たい目でも三蔵のものとは違う。
生きている感じのしない冷たさ。
「ん………んん……」
……そして、気持ち悪い。
口内を蠢く舌は……まるで別の生き物を入れられたような感じがする。
この男だけは嫌だと全身が訴える。
「三蔵様……」
三蔵は同じ部屋のソファーに腰掛け、片手にワイングラスを持ったまま二人を見る。
……見下す様に。
八戒が苦しむ様を見て笑う……。
「…もう……あ…やめっ……」
薄暗い部屋の中で八戒は苦しそうに喘ぐ。
……これで一体何回目だろうか。
抵抗する力もなく、崩れそうになる体は清一色の手で無理矢理支えられ上下に揺さぶられる。
清一色のモノが納められた八戒の秘所からは動く度に白い液体が溢れでてくる。
「……や……んん……」
もう限界は超えているのに無理に絶頂を迎えさせられ、八戒は気を失いかける。
しかし意識が消える寸前に、清一色の細く尖った爪が八戒の胸の突起を締め上げる。
その痛みで八戒の閉じられた瞳が再び開く。
「…まだですよ、猪悟能。
まだ終わりじゃありませんよ」
見開いた瞳は苦痛の涙に濡れていた。
「も…やめ……おねがっ……あ……」
八戒は戯言の様に何度も呟く。
それでも清一色はその言葉を無視して、再び八戒に己を突き立てる。
「あぁ……」
……怖い。
このままでは壊れてしまう。
「さんぞ…さま……たすけ…て……。
もう…ゆるしてください……」
八戒は力を振り絞って三蔵に哀願する。
それでも薄暗い光の中でワイングラスがわずかに揺れるだけで……三蔵からは何も返ってこない。
毎日が苦痛と屈辱に溢れていて……地獄の様だった。
「花喃……」
八戒は与えられた小さな部屋で、花喃の位牌を見つめながら小さく呟く。
今自分にあるのはこの位牌だけ……。
ここに来た時に過去のものをすべて捨てさせられた。
何もかも……。
その時に……この位牌だけは隠し守る事ができた。
この位牌が三蔵にばれればただでは済まないだろう。
それでもこれだけは手放せなかった。
この位牌だけが……自分の心を癒し、守ってくれる。
これがなければ、自分は狂ってしまうに違いない。
八戒は小さく溜息を吐くと、位牌をまた元の様にそっと隠した。
その日三蔵は会議で社長室には居なかった。
八戒はその間に社長室の掃除をする。
三蔵が戻るまでに塵一つ落ちていない様な部屋にしていなければ、またお仕置きされる。
八戒は俯き、無心に床を磨く。
「秘書の人いる?」
その声に八戒ははっとして顔を上げる。
気が付けば、自分のすぐ後ろに一人の男が立っていた。
「貴方は……?」
「あ、ノックしたけど返事なかったもんでさ。
で、秘書の人は?」
男はここが社長室であるにもかかわらず、緊張した様子も無く気楽に話す。
「秘書は、僕です……けど」
「へー、随分若くて綺麗な秘書サン。
はい、今日の手紙類」
男は持っている鞄から何枚かの封筒を取り出し、八戒の手の上に落とした。
「あ…ありがとうございます」
あっけに取られる八戒に男は、にっと笑いポケットから一つ飴を取り出し包みを破ると八戒の口の中に放り込む。
「…………?」
「お近づきの印にでも。
サッキ下のOLにもらったやつだけどさ。
おっと、言い忘れてた。俺今日からここでメッセンジャーのバイトをする沙悟浄ってんだ。
以後お見知りおきを」
「あ…あは……」
悟浄の勢いに押され、八戒は呆然とする。
「で、美人秘書サンのお名前は?」
「え…あ…猪八戒です」
「へー、綺麗な名前じゃん。
じゃあ、秘書の八戒サン。今後もよろしくな」
悟浄はそう言って手を振り、部屋を出て行った。
それが悟浄との出会いだった。
「不思議な人だったなあ……」
八戒は自分の部屋で位牌を手にそう呟く。
悟浄は本当に不思議な人だった。
この生活になってからあんな人は見たこと無い。
三蔵はいつも……。
三蔵の会社の人だって、いつもぴりぴりしていて。
自分よりも下の者を見下し、自分よりも上の者に媚びる事しか考えていない。
それは自分の身を持って実感した。
最初、三蔵の秘書であると思った自分に対して、周りの社員は媚びて来た。
それが名前だけの秘書であると知った途端に、対応は一転した。
三蔵と肉体関係があるとしって、三蔵の居ないときに手を出してきた者さえいる。
『社長といつもしているのだろう?』
そう言って……。
そんな人間ばかり見てきた。
……でも悟浄は違った。
自分が秘書であるとしっても態度が変わらなかった。
まして、秘書という身分であるのに部屋の掃除を言いつけられている自分に何も訊かずに……笑いかけてくれた。
それだけで随分救われた気がする。
笑顔なんて随分見ていなかったから。
「ねえ、花喃。僕、あの人と友達になれるでしょうか……」
八戒は位牌に向かって小さく話しかける。
あの人なら、忘れかけていた感情を取り戻してくれる……そんな気がした。
自分にもう一度『笑顔』を取り戻させてくれる。
彼ならきっと。
『大丈夫よ、悟能』
そんな花喃の声が聞こえた気がした。
それから、八戒の心に少しだけ穏やかな時が流れた。
「八戒、コレ今日の分の手紙類ね」
「ご苦労さまです」
毎日、悟浄が訪れる時だけが心にゆとりを持てる。
その時間、何故か三蔵が席を外している事も多かった。
「何か顔色悪りぃけど大丈夫?」
そっと悟浄が八戒の額に手を当てる。
「あ…大丈夫ですから……」
八戒は慌てて悟浄の手を振り払う。
あまり近くに寄ると……三蔵から受けた傷を見られてしまう、そんな気がした。
でもすぐに、悟浄を拒絶するような態度を取ってしまった事に気づき……そっと悟浄を見る。
「大丈夫ならいいけど、無理すんなよ」
悟浄は今の自分の行動を気にした様子もなく、優しくそう言う。
そんな悟浄の態度に……自分の凍っていた心がとけ始める。
親友……そう呼ぶのだろうか……この感情は。
彼になら何でも言えるような気がする。
……何でも言えるなら良いのに。
彼と親友になれれば……自分の心はこの闇から救われる……そんな気がした……。
毎日の生活の中にほんの少し余裕が出来た。
悟浄のおかげで……。
でもそれはある意味で隙が出来ていたのかもしれない。
「何をしている」
「さ…三蔵様……」
自室でいつもの様に花喃の位牌を見ていた。
そんな時にいきなり開けられた部屋のドア。
勿論自分の部屋の扉に鍵などつけられてはいない。
位牌を隠す暇さえなかった。
「何だこれは?」
八戒は慌てて位牌を隠すが、力ずくで三蔵に奪われてしまう。
「三蔵……」
「過去の物はすべて捨てろと言わなかったか?」
懇願する八戒に三蔵は冷たく言い放つ。
最近あまり見る事の無かった……本当に冷たい瞳。
まるで殺されそうな……。
「すいません……。
でもそれだけは……花喃の位牌だけは許してください」
八戒は必死に訴える。
それでも三蔵は八戒を冷たく見下し笑うだけ。
「今のお前には必要ない」
そう言うと手に持った位牌を火の点いた暖炉の中に放り込む。
「あ……」
炎に包まれる位牌を見て、八戒は躊躇う事なく炎の中に手を入れる。
燃えさかる火の中から必死で位牌を救い出す。
「お……お願いします……これだけは…この位牌だけは許してください…」
火傷で痛む両手を気にする事もなく、八戒は三蔵を見つめ…願う。
「そんなにこれが大切か?」
「はい……」
この位牌があったから、自分は自分であった。
これだけは失うわけにはいかない。
「これの為ならなんでもするか?」
「はい」
この位牌の為ならどんな仕打ちでも受ける覚悟はあった。
……それは本当だ。
それでも言われた条件に、八戒は自分の耳を疑った。
「お前、最近メッセンジャーの男と仲が良いみたいだな」
「……………」
三蔵が悟浄との事を知っているとは思わなかった。
悟浄と会うとき、大概三蔵は社長室には居なかったし、見ているなんて事もない。
「あの男に抱かれて来い。
お前のその体で誘えば一発だろう」
動揺を隠しきれない八戒に三蔵は淡々と言葉を続ける。
「…そんな……」
「出来ないのか?ならばその位牌を再び火の中に捨てろ」
「……………」
八戒は手の中の位牌を見る。
これを火の中に……そんあ事は絶対に出来ない。
でも悟浄を誑かすような真似を……。
「どうするんだ?」
……どちらかを選ばなくてはならない。
花喃への想いか……悟浄との友情か、どちらかを……。
「やります」
八戒は震える声でそう答えた。
指定された日はその翌日だった。
──── 俺は明日社外に出る。
社長室を使え。
社長室……。
何度も三蔵に辱められたこの場所で悟浄を……
──── 嘘はつけないからな。
この部屋にはいくつものカメラが付けられているのを知ってるか?
三蔵はずっと前から知っていたのだ。
悟浄が八戒の心の安息地になりつつあった事を。
八戒と悟浄の間に純粋な友情が芽生えつつ会ったことを。
それが完全な親友の様な状態になったのを見計らってこんな事を言ったに違いない。
すべてを壊すために。
あの三蔵の事だ、八戒の部屋にもきっと監視カメラを仕掛けていた。
花喃の位牌の事もずっと知っていて、それでいて昨日あのタイミングで言い出したのだ。
八戒は自分の浅はかさに後悔する。
「悟浄…ごめんなさい……」
懺悔するようにそう呟く。
もっと自分が気を付けていれば、悟浄を巻き込む事は無かった。
こんな事になってしまったのは自分の責任。
もっと考えていればよかった……。
せめて……今日悟浄がここへ来なければ……。
そうすれば、浅ましい姿を見せる事も…悟浄を気ずつける事もない。
ずっとノックの音がしないようにと、八戒は祈る。
それでも……祈りも空しく、いつもの時間にノックは響いた。
「うっす、八戒」
いつも通り笑顔で現れる悟浄。
この笑顔を数分後には消さなくてはなたない……自分の手で。
「こんにちは、悟浄」
「あれ、社長サン今日もいないんだ」
八戒の他に誰も居ない社長室を見回しながら言う。
そう、社長室には誰もいない。
でも二人を見る『目』はいくつもある……。
「……今日も他社との取引で……」
「へー、忙しいんだ社長サンって。
でも八戒、よかったな」
「え……?」
よかった……という言葉に八戒は悟浄の顔を見る。
目が合うと悟浄は八戒の頭にそっと手を乗せる。
「あの社長サン結構厳しいんだろ?
まあ社内でもあんまイイ噂聞かねえし。
八戒もさ、社長サンが後ろに居るときって顔とか強ばってたし、何か傷とかある日もあったしさ……」
八戒を慰めるような口調で悟浄は言う。
……悟浄は知っていた?
自分が秘書とは名ばかりで、実際には奴隷の様な事をしていると……。
それまで気づいてはいないかもしれない。
……でも悟浄は心配してくれていたのだ。
こんな自分を……。
「悟浄……」
「何か困った事あったらさ、いつでも俺に言えよ。
まあ、あんま役に立たないかもしれねえけどさ。
イザとなったら署名でも何でも集めてやるぜ、俺こんなだけど人望だけはあるし」
笑いながら言う悟浄の言葉に八戒の瞳にうっすらと涙が溜まる。
優しい悟浄……、今ではその優しさが痛い……。
……だって今から自分は悟浄を裏切らなくてはならないのだから。
逃げそうになる自分を押す為に飲んだ媚薬も、随分と効力が現れてきた。
体内に熱が溜まっていくのが分かる。
仕掛けるのなら……今しかない。
「ありがとうございます……でも心配にはおよびませんよ。
だって好きでやっているんですから……」
「……え?」
八戒の言葉に悟浄は驚きの声を上げる。
はっきりと顔色の変わる悟浄を見て八戒は思った。
……もう終わりだ、と。
これで悟浄は完全に自分を軽蔑しただろう。
例え今していなくても……これから自分のする事に軽蔑する。
「僕は社長の愛人なんですよ」
「何を……」
「そうでなければ、僕みたいな若造が社長秘書になんて慣れる訳がないじゃないです」
……自分は出来る限りの淫乱を演じる。
そうしなくてはいけないから……。
「この体でこの地位を手にいれたんですよ」
軽蔑しても……もう構わない。
ごめんなさい……悟浄……。
八戒は何度も心の中で悟浄に謝罪する。
……出会わなければ良かった。
束の間の夢なんて見なければよかった。
そうすれば悟浄を巻き込む事なんてなかったのに。
「でもずっと社長は僕の相手をしてくれないんです。
……だから、貴方が僕の相手をしてくれませんか?」
……貴方にそんな顔をさせる事もなかった。
ごめんなさいと何度謝っても……謝りきれない……。
この謝罪は貴方には届かない……。
口にだして言うことが出来ないのだから。
「ほら、触って下さい。僕自身を……。
そして僕の蕾を……。
こんなにも貴方を欲しているんですよ」
いっそ拒絶してくれてもいいのに。
それなのに、貴方はそれも出来ないぐらいに優しい……。
困惑の表情で身ながら、それでも……拒まない。
「ねえ、早く貴方を下さい。
…もう我慢できないんです…」
彼の中心を自分の下と唇を使って無理矢理起たせ……自分を無理矢理犯らせた。
それでも薬の力で自分は……快楽を感じた。
でも……それはいつもと違う……。
心がどこかへいってしまったような……。
そして悟浄は行為のあと……何も言わずに去った。
もう……会うことはないだろう……そんな気がした。
それから悟浄がバイトを辞めたという噂を聞くまで……そんなに時間を使わなかった。
「あの男がバイトを辞めたそうだな」
「そうですね……」
それを聞いても、もう何も思わなかった。
……その前に、自分自身の心が……作り替えられてしまったから……?
……そんな事から数ヶ月。
八戒は一人庭で何かを埋める。
……それは花喃の位牌。
「さようなら、花喃」
もう自分は自分ではない。
悟浄と犯った時に気づいた……快楽に飼い慣らされた一人の男。
でもその事は三蔵には秘密……。
彼は嫌がる自分を調教するのがすきなのだから。
だから自分は嫌がるフリをし続ける。
三蔵が自分に飽きてしまわないよにと祈りながら……。
「さようなら……」
小さく呟き別れを告げる……過去に……。
──── もうあの時の自分は何処にもいない……。