Rhapsody in Blue Op107
雨の音が響く…。
耳鳴りのような雨の音が……。
雨はいつも不幸を運び、雨音は嫌な事を思い出させる。
……だから雨は嫌いだ。
「暑い……」
三蔵はゆっくりと目を開き、ベッドサイドのテーブルに手をのばす。
そしてまだはっきりとしない頭で煙草に火をつける。
あの雨の日の夢をみた。
師を失ったあの日の……。
最近はそんな夢を見る事も思い出す事もなかったのに何故今突然…。
忘れていたあの日の光景は今は瞼の裏にはっきりと映し出される。
その日の記憶がはっきりとしているわけではない。
倒れる師の姿と…降り続けた雨の音だけがはっきりとしている。
まだ頭の中で雨の音が響いているように感じられる。
…いや、実際に聞こえているのだ。
三蔵ははっとして窓の方を見る。
しかし、風に揺らめくカーテン越しに眩しい程の光が見える。
雨は降ってはいない…。
ではこの音は…。
「ちっ…」
三蔵は短く舌打ちをし煙草の火を消すと、音のする方へと向かった。
「おはようございます、三蔵」
雨音のする方へと向かうと庭に出た。
そこでは八戒が水まきをしていた。
ホースから水しぶきが散る。
雨音だと思ったものは水をまく音だったのだ。
「こんなに暑いのによく寝てられましたね」
八戒はクスクスと笑いホースを三蔵へと向ける。
霧のようになった水が三蔵に向かって降り注ぐ。
汗ばんだ肌に涼しい風が当たる。
「……………」
「こうすると涼しくないですか?」
八戒は笑顔でそう言う。
八戒としては純粋に、暑そうな三蔵に涼を分けたかったのだろう。
しかし三蔵にはその水が別のものに見えた。
……この水と雨と何が違うのだろう。
同じ様に自分に降り注ぐ水は、大切なものを奪ったあの雨と何がちがうのだろう。
「三蔵、どうしたんですか?」
苦みつぶした様な顔でだまって立ちつくす三蔵に八戒は不思議そうに問いかける。
「いや、何でもない…」
三蔵はゆっくりと八戒から視線を逸らす。
…同じように雨に自分のすべてを奪われた八戒。
自分と同じように雨が苦手だと言っていた八戒…。
いつも雨が降るたびに鬱ぎ込んでいて、自分がそれを支えていた。
それなのに…、自分が立ちつくしてしまったこの水の中八戒は笑っている。
何事もなかった様に純粋な笑顔を見せる。
彼は雨の幻影にとらわれていない。
もう彼の中の傷は癒えたのだろうか。
もう雨に何の恐怖も抱いていないのだろうか。
…自分だけがいつまでも傷を抱えているのだろうか。
「お腹空きましたよね?すぐ昼食作りますから」
八戒はそう言いホースの水を止めると家の中へ入っていく。
三蔵はすぐに動くことも出来ず、ただ黙って外を見回す。
彼のいた場所を、ぬれた木々を…。
そしてゆっくりと空を見上げる。
…空は狂いそうなぐらいに青かった。
「悟空と悟浄はどうした?」
「二人なら暑いからって近所のプールに行ってますよ。
はい、暑いからアイスコーヒーでいいですよね」
そう言い八戒は三蔵の目の前にサンドウィッチとアイスコーヒーを置く。
氷のたくさん入ったグラスには、あっという間に水滴が付き、それが集まり流れ落ちる。
まるで窓ガラスについた雨の様に……。
「三蔵…どうかしたんですか?
さっきからぼんやりしてますけど」
グラスをじっと見つめたまま動かない三蔵を八戒はそっと見つめる。
声を掛けても三蔵はそのまま表情を変えずただグラスを見つめ続ける。
「いや…暑くてな……」
呟く様にそう言う三蔵に八戒は息を吐き笑う。
「そうですよね。ほんとこんなに暑いと元気もなくなってしまいますよね」
八戒はそう言うとそのまま台所に戻っていく。
…雨の音が聞こえる。
もう実際には水の音も何の音もしないのに。
それでも雨の音が聞こえる。
……耳鳴りのように。
三蔵は昼食を終えると一人部屋に戻る。
ーーーーー 暑い……。
冷房の入っていない部屋はかなりの高温になっていた。
あっという間に体中に汗が浮かぶ。
だからと言って冷房をつける気にもならず、三蔵は部屋の窓を開ける。
わずかながらも吹き込んだ風がヒラリとカーテンをめくれさせる。
「…………」
その瞬間三蔵の目に映ったのは……一面の青。
澄み渡るような綺麗な青空だ。
雨など降っていない。
聞こえてくるのは暑さを倍増させるような蝉の鳴き声であって雨音なんかではない。
どこにも雨などは姿も形も見えない。
…それでもどこかで雨が降っている気がした。
どこかで雨を感じていた。
腕を伝う汗があの時の雨の様に見える。
「重症だな……」
雨は降っていない…。
それでも心の中には、あの時の雨がまだ降り続いている……。
ーーーーー 耳鳴りの様に雨の音が聞こえるんです。
まだ八戒が寺にいた頃、彼はよくそう言っていた。
もちろん雨などは降っていない。
どこにも雨の形は見えない…。
それでも八戒はいつも虚ろな目で窓の外を眺めていた。
窓の外の晴天の青空は彼にはどの様に映っていたのだろう。
何も映っていないのかもしれない。
あの時の光景を未だ映し続けているのかもしれない。
それは三蔵には分からなかった。
「何で雨なんて降るんでしょうね…」
虚ろな表情のまま八戒はそう呟く。
雨が降らなくては人は生きていけない。
そんな事は彼も分かっているだろう。
それでも彼はそう呟く…。
いくら人々が恵みの雨だと喜んでも、それでも彼の中で雨は疎ましい存在なのだ。
雨がすべての悲劇を引き起こしたかの様に思える…。
雨にすべてを奪われたかの様に……。
「どうしてでしょうね……」
もう一度八戒は呟く。
嘆くように…恨むように……。
やがて晴天であったはずの空を少しずつ雲が覆っていく。
真っ黒な雲はあっという間に空を覆い尽くした。
まるで彼が喚んだかのように雨が降り始める。
乾いた大地を雨が覆っていく…。
幻聴であった雨の音と本物の雨の音とが混ざり合う。
降り始めた雨はすぐに土砂降りになり、部屋を洪水のような音で埋め尽くす。
「花喃…」
窓辺に立っていた八戒が不意に身を乗り出す。
彼の体に雨が降りつける。
あっという間に彼の全身は雨に濡らされる。
それでも構わず八戒は雨の中に手を伸ばす。
「悟能」
まだ『八戒』という名が与えられる前であった為、三蔵はそう呼び彼の腕を掴む。
しかしすぐにその腕は振り払われた。
「離して下さい、花喃が待っているんです。
彼女を助けに行かないと…」
焦点の合わない目で三蔵の方を見てそう呟くとそのまま窓から外へと飛び出す。
正気ではないのだろう。
「悟能…おい悟能……」
三蔵が慌てて腕を伸ばすが八戒の体は三蔵の手に触れる事なく雨の中に消えていく。
「ちっ……」
三蔵も窓から飛び出し八戒を追う。
だが、雨の抵抗は想像より強く思うように走ることができず、いつまで経っても八戒の背中は近くならない。
それどころか離されていく。
同じ雨の中を走っているというのに八戒はまるで雨の抵抗など無いかの様に森を走り抜けていく。
もう彼に追いつくのは無理か、そう思った時八戒の上体が揺れる。
「…………!」
危ない、と思った時にはもう遅く、八戒の体は水の溜まった地面に倒れた。
三蔵は慌てて八戒に駆け寄る。
「おい…、おい悟能、しっかりしろ」
八戒の体を抱き寄せそう叫ぶが八戒は何の反応も示さない。
体を揺さぶっても、その閉じられた目が開く事は無かった。
完全に気を失っている…。
おまけに八戒に触れている所からかなりの高熱を感じる。
三蔵は八戒を抱き上げると急いで寺に戻った。
それから数日八戒は熱を出した。
その熱は異常な程高く、生命の危険さえ感じさせられた。
ほぼ眠っている状態で、時折うっすらと目を開け何か呟きまた意識を失う。
それの繰り返しだ…。
しかし表立った原因は見あたらない。
おそらく精神的なものだろうと医者は言った。
三蔵はそっと眠っている八戒を見る。
眠っていても苦しそうな表情をしている。
悪夢でもみているのか…。
もし、この状態が医者の言う様に精神的なものが原因であると言うのならば、原因を取り除かないかぎりこの状態は改善されないのだろうか。
例え今回復したとしても雨が降るたびにこの繰り返しではどうにもならない…。
だから『名』を与えた…。
新しく名を与える事によって無理にでも過去を断ち切るように。
「『八戒』ですか?」
八戒の体調が戻ったのはあれから一週間ほど経ってからだった。
目を覚ました八戒に三蔵は新しい名を告げた。
突然の事に八戒は迷うような顔をする。
突然『これからは悟能ではなく八戒として生きろ』と言われたのだから無理もない。
この事が無くとも新しい名は与えるつもりだった。
『悟能』と言う名が悪いように広まっている可能性もあったからだ。
これから先も普通に生活をさせるのなら、そのままの名前では色々不都合があるだろう。
だから新しい名の事は、八戒がこの寺に連れてこられ直ぐに決まっていた。
それでも本当は少しずつ気持ちを落ち着かせて、それからにするつもりだった。
無理に過去を断ち切ることはない、そう言っていたからだ。
だが、そんな悠長な事は言っていられない。
また次の雨は直ぐに来る…。
「ああ、それがお前の新しい名前だ」
そう言われ八戒はその名を確認するように小さく呟く。
「もう悟能だった時の事は忘れろ…」
「………何でですか………?」
八戒は無表情にうっすらと笑顔を乗せる。
人形の様な笑顔……。
「悟能はもう死んだんだ…」
「じゃあココに居るのは誰なんですか?」
「『八戒』だ…」
ゆっくりと八戒は自分の姿を見回す。
何も変わらない…。
その姿は悟能と何も変わらない。
でももう悟能ではなく『八戒』と言う新しい生き物だというのだろうか…。
「嘘です…僕は『悟能』ですよ」
妖怪に斬りつけられた腹の傷だってココにある。
多くの妖怪の命を奪った手も…大切な者を救えなかった手も…何も変わらずココにある。
……何も変わらない。
「お前は『八戒』だ。今までの事なんて忘れればいい…」
そう言い三蔵は八戒の体をそっと抱きしめる。
「三蔵さん?」
自分の体を抱きしめる三蔵に八戒は不思議そうな表情を浮かべる。
何故この人は自分の体を抱きしめているのだろう…。
何故この人は泣きそうな表情をしているのだろう…。
何故この人の触れている所は…こんなにも暖かいのだろう……。
それから八戒は『八戒』と呼ばれる事を拒みはしなかった。
「八戒、もう体の調子はいいのか?」
「ええ、もう随分良くなりました。
心配かけてしまってすいません」
八戒は笑顔でそう答える。
笑顔を見せるようになったのもこの時期からだった。
そうして彼は少しずつ『悟能』から『八戒』になっていった。
雨の日以外は……。
雨の日だけ彼は『悟能』に戻ってしまう。
過去に悩み自分を傷つけ続ける…。
それは結局寺から出て行くまで変わらなかった。
変える事が…出来なかった…。
何をする事も出来ず、救えなかった。
三蔵にできる事は、震える八戒の手を握る事…。
自分を傷つけようとする八戒の体を抱きしめる事…それぐらいだった。
それは一時の気休めにしかならず、彼を救うことは出来なかった。
その時、彼の傷の深さと自分の無力さを知った……。
「三蔵…?」
自分を呼ぶ八戒の声が響く。
ゆっくりと目を開けると心配そうに自分をのぞき込む八戒の姿が映る。
「こんな暑い所で寝ていると脱水症状になっちゃいますよ」
どうやら考え事をしている間に眠ってしまったようだ。
そんな事を考えながら体を起こす。
じっとりとした汗が気持ち悪い。
「暑い……」
そう呟く三蔵に八戒は呆れたようにため息を吐く。
「こんな暑い日に冷房も入れずに寝てたら暑いに決まってますよ。
さっきまで寝てたのによく寝れますね。
…体調でも悪いんですか?」
八戒はお盆の上の麦茶の入ったグラスを三蔵に手渡す。
「別に体調が悪いわけじゃないがな。
少し考え事をしていたら寝てしまっただけだ…」
そう言い、グラスの麦茶を一気に喉に流し込む。
冷たい麦茶で体の水分が補充されると共に体温が下げられるような感じがする。
「そうですか。
でもホントに蒸し暑いですね。
雨でも降れば少し涼しくなるんですけどね」
そうにこやかに言う八戒の姿と夢の中の八戒の姿が重なる。
いつから八戒は完全な『八戒』になったのだろう…。
雨を怖がる事も無く…こうして雨を望んでいる。
いつからそんなに強くなったのだろう。
「三蔵…?」
三蔵は八戒の腕を掴むとそのままベッドに引き込む。
突然の事に八戒は驚き声を上げる。
三蔵はそんな事も構わず八戒を抱きしめ口づける。
初めは驚き抵抗していた八戒だが直ぐに抵抗をやめ三蔵に任せる。
そしてそっと三蔵の背に手を回す。
「どうしたんですか?」
しばらくして解放された唇でそっと訪ねる。
三蔵の態度はまるで何かを恐れているかのようだった。
「…お前は俺を置いて行くのか……?」
「…え……?」
わずかに聞こえるぐらいの大きさで三蔵はそう呟く。
「三蔵?」
もう一度聞き返すように三蔵の名前を呼ぶ。
その時風で部屋のカーテンが捲れる。
窓の向こうの空は先ほどの青空ではなかった。
いつの間にか青空を厚い雲が覆っている。
そして大粒の雨が空からこぼれ落ち、あっという間に土砂降りになる。
あの時の雨が八戒の喚んだモノだったというのなら、この雨は自分が喚んだモノなのだろうか…。
三蔵はそう考える。
自分の淀んだ心が…この雨を喚んだのだと…。
「ああ…夕立ですかね…」
その雨を見て八戒は呟く。
…安らかな表情で…。
「お前はもう雨でも平気なのか?」
……俺が居なくても……
そう三蔵は心の中で付け足す。
言いたかったが言葉に出していう事が出来なかった。
否定されるのが怖くて…。
「ええ、大丈夫ですよ」
「そうか…」
そう言い微笑む八戒に三蔵は必死に動揺を隠す。
ゆっくりと目を閉じると、雨の音だけがはっきりと聞こえる。
…耳鳴りのように……。
「だって貴方がいますから…。
だから雨でも平気なんです」
その言葉と共に三蔵の体を暖かな空気が包み込む。
目を閉じているのに…瞼の裏に青空が広がる。
三蔵ははっとして目を開ける。
「八戒…」
感じた暖かさは空気では無く八戒の体温だった。
自分を抱きしめる八戒の体は暖かな空気の様に優しく自分を包み込んでいる。
八戒の肩越しに見える窓の外は相変わらず雨が降っていたが、自分には青空に見えた。
雨の音ももう聞こえない…。
目の前に見えるのは…あの狂いそうな青空だけ……。
「あ…ん…さんぞ……」
部屋の中に八戒の甘い声が響く。
その甘い声が雨音を消す。
まだ明るい時間だと言うのに、八戒を求めずには居られなかった。
「八戒……」
優しく口づけを落とすと八戒は柔らかく微笑む。
その笑顔を見るだけで随分と心が落ち着く。
八戒がそこに居るだけで…。
彼が居ればそれで良かった。
もう何も恐れる事はない。
「さんぞ…?」
こうして手の中に彼が居るのを確かめて…、それで……。
「八戒…愛してる……」
ずっと彼と共に居ることが出来れば……。
「あ、三蔵。見て下さい。虹ですよ」
八戒が窓辺に寄りそう叫ぶ。
その声に三蔵も窓に近づく。
「綺麗ですね…」
窓から空を見上げると、雨の上がった綺麗な青空に綺麗な虹が架かっていた。
水に濡れた木々は光を集めキラキラと輝いている…。
「ああ、綺麗だな…」
今までのどんよりとした雨の世界とは比べものにならないぐらい綺麗な世界だ。
「雨が上がった後って、空も透き通って光も眩しくて…綺麗ですよね」
そう言い八戒は三蔵を見る。
「僕の心に雨が降り続けていても…貴方が居てくれると心の中に光りが差し込むんです。
その瞬間に雨は止んで、こんなふうに晴れ渡るんですよ。
貴方は僕の光なんです」
八戒は三蔵を真っ直ぐに見つめてそう言う。
そんな八戒を三蔵はそっと抱き寄せて軽く口づけを送る。
「だったらお前は青空だな…」
「青空、ですか?」
八戒は不思議そうに聞き返す。
「ああ、青空だ……」
狂いそうなぐらいに透き通った……青空の様に…………