Tosca

 

トスカ 第一幕

 日が傾き薄暗くなった街を一人の男が走り抜ける。
 その男は身を隠すように大きな布を頭からすっぽりと被っている。
 「…ここか…」
 そして一件の店の前で立ち止まる。
 その店はまだ営業時間には早いらしく扉は閉ざされている。
 男は周りを気にしながら裏口の扉に手をかけた。

 
 「誰だ?」
 まだ人気のない店の中で悟浄は音のした方を向きそう言う。
 ここは旅から戻ってから悟浄の開いた酒場であった。
 開店まではまだ時間がある。
 「俺だ…悟浄…」
 「項炎!」
 被っていた布を降ろす男を見て悟浄は小さく声を上げる。
 その男は悟浄のかつての飲み仲間であった。
 親友と言っても良い程親しい仲であった。
 しかし数ヶ月前とある小さな事件を起こした。
 事件自体は本当に小さな物であったが、その際取り押さえられそうになった時に誤って僧を何人か殺してしまった。
 それによって寺に連行され、それから姿を見ることは無かった。
 「お前、無事だったのか」
 その言葉に項炎は俯く。
 「実は脱獄をしてきた……」
 そう言う項炎に言葉を返そうとして一旦言葉を飲み込む。
 先程は気が付かなかったが、項炎の体には無数の傷がある。
 それらはかなり酷いものだった。
 まさに拷問を受けたという感じだ。
 「その傷は…」
 「…………」
 悟浄の言葉に項炎は俯き唇を噛みしめる。
 「アイツらはおかしい。
 あんなのは僧のする事じゃない!」
 項炎は声を荒げてそう叫ぶ。
 悟浄は言葉を失う。
 項炎の様子からしてかなり酷い仕打ちを受けたのだろう。
 仏道は無殺生だと言いつつも現実ではこれなのだ。
 最近の寺の行動はおかしい…。
 街の者達もそう言い始めている。
 実際少しずつではあるが独裁政治のような状態が起こりつつあるのだ。
 寺が全てを握る…そんな時代だ…。
 まして項炎は仏教徒では無かった。
 ごくまれに仏教以外を信仰している者もいる。
 項炎はその内の一人だ。
 寺の者達は異教徒にはかなり厳しい。
 まあ大概において信仰が深ければ深いほど他の教徒を良いように思わないのは知っている。
 しかしまさかこれほどまでとは…。
 「…項炎…」
 「すまない、悟浄…。
 もうお前しか頼れるヤツはいなかったんだ…」
 項炎はすまなそうに目をそらしながらそう言う。
 「何言ってんだ…。
 お前の力になるよ」
 「…悟浄…」
 その時扉をノックする音が聞こえる。
 「悟浄!」
 それは八戒の声だった。
 悟浄は急いで物置の扉を開けると項炎に中に隠れるように言う。
 「悟浄…」
 「隠れてろ。
 焼き餅焼きで情緒不安定な美人さんのお出ましだ。
 …すぐ帰るから大丈夫だ」
 そう言い食べ物の入った籠を項炎に押し付けて物置の扉を閉める。
 そして一度辺りを見回してから表の扉を開ける。
 「悟浄、どうして鍵を閉めるのですか?」
 疑うような眼差しで八戒は悟浄に問う。
 「開店前に女性が押し掛けてくると面倒だからさ」
 悟浄はそれに対して軽く返す。
 八戒はまだ疑うように店内を見回す。
 「誰と話していたんですか?」
 「お前とだ」
 「何か他の言葉を囁いていましたよ。
 何処にいるんですか?」
 そう言いながら八戒は店の奥へと進んで行く。
 「誰が?」
 まだ悟浄は戯けた感じにそう言う。
 そんな悟浄を八戒は強い瞳でじっと見つめる。
 「彼女です。あの女…。
 素早い足音と扉が閉まる音がしました」
 数日前から悟浄の店に熱心に通う一人の女性がいた。
 顔立ちが綺麗で気の強そうな…悟浄のタイプの女性だった。
 「夢でも見てたんじゃねえの?」
 「認めないんですか?」
 少し怒ったような意地悪な口調で言う八戒の腕を掴むと強く自分の方に引き寄せる。
 「認めない。
 俺はお前を愛している」
 そのままキスをしようとする悟浄の唇に人差し指をあててやんわりと制止する。
 機嫌を直したのか八戒は小さく笑う。
 「ねえ悟浄、聞いてください。
 僕ちょっと今から仕事に行ってきますね」
 「こんな時間に?」
 八戒は旅から戻ってからは街で塾の講師をしていた。
 しかしもう時間は夜だ。
 この辺りで塾と言えば大概昼間に行うものだ…。
 「今日は大人の方の塾なんです。
 小さい頃家庭の事情できちんとした教育が受けられなかった人たちが、今からでもやろうって集まるんです」
 「へー」
 まだ地方では学問の場は小さな塾のみだ。
 お金がなくて学べない者も沢山いる。
 字の読み書きが出来ないと言う者も少なくはない。
 「帰りにまた此処に寄りますから一緒に帰りましょう。
 ここの所あまり夜帰って来ないじゃないですか。
 今日ぐらい店を早く閉めて一緒に帰りましょうよ」
 少し見上げるような視線で八戒がそう言う。
 『酒場』という店な為悟浄の仕事が終わるのは遅い。
 最近では朝家に帰ることも多い。
 「今日?」
 「そう、今日です。
 ダメなんですか?」
 八戒はもう一度疑うように悟浄を見つめる。
 「僕たちの家に行きたくないんですか?
 緑の中にすっぽり隠れて待っているあの家に。
 世の中にまったく知れず、愛と思い出に満ちている。
 貴方の傍で星の鏤められた沈黙の暗闇を通して万物の声が立ち昇ってくるのを聞くんです。
 森から茨の地から…
 燃える草から…
 麝香草の香る荒れた墓場の底から…………。
 夜、小さな愛の神たちの囁きが洩れ人の心を弱くする。
 不実な忠告が聞こえます。
 花を咲かせてください……ああ広大な野よ。
 月の光にときめいてください……海のそよ風を。
 逸楽を雨にときめいてください……星の輝く空よ……。
 僕の血には気違いじみた愛が燃えている」
 「八戒…行くよ」
 悟浄は再び八戒を強く抱きしめる。
 「ああ……悟浄……。
 僕の愛しい人……」
 八戒はうっとりとした表情でそう言い悟浄の肩に頭を持たせかかる。
 悟浄は横目で項炎の入っている物置を見る。
 そして八戒の肩を掴むとゆっくりと引き離す。
 「さあ、もう仕事に行ってこい」
 「僕を追い出すんですか?」
 悟浄の言葉に八戒は笑顔を曇らせる。
 「そうじゃない。
 でも生徒が待ってるんだろう?」
 「行きますよ」
 八戒は少しいらだつようにそう言いきびすを返す。
 そして扉の所まで行くと悟浄の方を振り返った。
 その時八戒の瞳に一つのグラスが映る。
 「そのカクテルは?」
 グラスにつがれているのは透き通るような青い液体。
 「新作のカクテルだよ。
 これからウチのオススメになるヤツかな。
 どう?」
 「綺麗過ぎますよ……」 
 その青が八戒の頭の中で何かに引っかかる。
 あの青は……。
 「大変な誉め言葉だね」
 そう言って悟浄は笑う。
 その瞬間、八戒の頭の中でその青と何かが結びつく。
 「その青色は…見た事があります」
 「世の中にはざらにある色だよ」
 疑うように言う八戒に対し悟浄はとぼけるようにそう返す。
 「その青は……香林…香林の瞳の色ですね」
 強い瞳で八戒がそう言うが悟浄は相変わらず軽く笑う。
 「ああその通りさ」
 「彼女に会うんですか?
 貴方を愛しているんですか?
 彼女を愛しているんですか?」
 「八戒」
 「あの足音、あの囁きは…。
 たった今此処にいたんですね」
 「もう出ないと遅れるぞ」
 差し出された手を八戒は強く払う。
 そして悟浄をきつく睨み上げる。
 「二人で僕の事を嘲笑っているんですね!」
 強い口調で言う八戒の肩を両手で掴み真正面から八戒を見つめる。
 「彼女は昨日店に来ていた。でも偶然だ。
 男と此処に来ていたんだ。
 ちょうど次のカクテルを考えている時にあの瞳の色を見たから使わせて貰っただけだ。
 深い意味はない」
 悟浄の言葉に八戒は俯き、その後顔を上げて再び悟浄を見つめる。
 「誓ってください!」 
 「誓うさ…」
 「悟浄……」
 八戒はゆっくりと悟浄の腕の中に身を投げかける。
 「どんな綺麗な瞳だってお前のこの翠の瞳には敵わないさ」
 そう言い悟浄は八戒の瞼に軽く口づける。
 「…自分を愛させる術を良くご存じですね」
 八戒は少し意地悪くそう言う。
 「八戒…お前だけを愛してる…」
 「……僕もですよ、悟浄」
 そう言い今度は八戒から口づける。
 先程よりも深く…。
 「さあ、もう行きな」
 「ええ」
 八戒は悟浄から離れるとゆっくりと扉まで向かう。
 そして一度振り返る。
 「…でも次のカクテルは翠のにしてください」


 「今のがお前のコレか?」
 八戒が出ていったのを確認しながら項炎が物置から出る。
 「ああ。美人だろ?」
 そう笑いながら悟浄は項炎に青色のカクテルを手渡す。
 「例の同居人だろ?
 随分と変わったな。
 もっと大人しそうなヤツだったけど」
 「恋は人を変えるさ。
 男も女もな……」
 悟浄の言葉に男は笑ってグラスを傾ける。
 「あの美人さんに俺の事話しておかなくていいのか?」
 「八戒が他人に簡単に話すとは思えないが用心に用心を重ねておいた方がいいだろ。
 で、お前はこれからどうすんだ?」
 項炎は少し考える様に俯く。
 「この街を…いやこの国をでようと思う。
 妹がこの辺りに女の衣装と持ち物を隠してくれているハズだ」
 「妹?」
 聞き返す悟浄に項炎は手にしているグラスを高く掲げる。
 「そう、こんな色の瞳をした兄思いの妹がね…」
 その言葉に悟浄ははっとする。
 「あの娘…あの娘はお前の妹だったのか…。
 どうりでどこか見覚えがあると思った」
 「妹は本当にいい娘だ。
 あの冷酷な三蔵法師から俺を救い出す為に妹はどんな事でもやってくれた」
 「三蔵か……」
 悟浄は目を伏せる。
 三蔵は変わってしまった…。
 旅をしていた頃とは別人のようだ。
 いくら冷酷なフリをしていても本当は仲間の事を気遣っていたあの頃とはもう違う…。
 本物の鬼の様になってしまった。
 使えるものは何でも利用し使えなくなれば容赦なく切り捨て…殺す…。
 鬼の様に……。
 変わってしまったのだ…いやもしかしたらアレが本来の姿なのかもしれない。
 「この店の裏口から森へ行け。
 そこに小さな家が有る、俺の家だ」
 この男を救いたかった。
 再び三蔵に捕まればおそらく殺されるだろう。
 それもかなり酷い方法で……。
 そんな事は許せない。
 「コレが鍵だ。後で俺も行く」
 「悟浄……分かった」
 男は少し考え、小さく頷く。
 今は迷っている時ではない。
 追っ手はすぐこの街に来るだろう。
 「一応女の服も持っていけ」
 「着ようか?」
 「今のところ必要はない。
 道に人気はないからな」
 男は頷き服を持って扉に手をかける。
 「危険が迫ったら庭の井戸に入れ。
 底には水があるが、穴の途中に小さな抜け道が暗い洞穴に通じている。
 そこは誰も入れない安全な隠れ場だ」
 そこまで言った所で表の通りに多くの足音とざわめきが広がる。
 「もう追っ手が……」
 足音は段々と近づいてくる。
 そして各家の扉を叩く音が響く。
 「急げ!
 ……いや、俺も一緒に行こう」
 悟浄は項炎の手を掴むと裏口から飛び出した。
 

 そのすぐ後に店の扉を激しく叩く音が響く。
 そして半ば壊すように扉が押し開けられる。
 しかし店内には誰の姿もない。
 「誰もいない?そんな馬鹿な…」
 入ってきた僧は声を上げる。
 開店時間には早いにしても、夜の酒場に人がいないワケがない。
 しかも此処あの沙悟浄の店なのだ…。
 逃走している男は沙悟浄の知り合いである。
 「どうした」
 「さ……三蔵様……」
 後ろからかけられた声に僧は慌てて振り返り頭を下げる。
 「店内に人の気配はありません」
 僧の言葉に三蔵は軽く店内を見回す。
 そしてゆっくりとカウンタに近づく。
 「逃げたか……」
 そう呟き置かれているグラスを手にとる。
 飲みかけのカクテルの入ったグラス…。
 そのグラスが悟浄が出てからまだ間もない事を知らせる。
 「一応店内を隈無く探しておけ」
 まあ、もう此処にはいないだろうがな、と三蔵は心の中で呟く。
 悟浄はこういう時にその場で隠れているようなヤツではない。
 正面をきって戦うか、そうでなければ……。
 

 「悟浄、悟浄……?」
 八戒は店内を伺うようにしながら中に入る。
 「いないんですか?
 ……待ってて下さいって言ったのに…僕騙されたんでしょうか……。
 いえ、悟浄が僕を裏切るなんてありえません」
 俯き、辛さを堪える様にぐっと唇を噛みしめる。
 「奴ならいないぞ。
 どこかに消えたみたいだな」
 「…三蔵…?」
 かけられた声に八戒ははっとして顔を上げる。
 「久しぶりだな、八戒」
 「三蔵……」
 三蔵はゆっくりと八戒に近づく。
 そして八戒のあごを掴むと自分の方を向かせる。
 「相変わらずお前は綺麗だな。
 そして聖母の様に清らかだ。
 情事を楽しみにくる女たちと違ってな……」
 「どういう事ですか?」
 三蔵は床から一枚の羽を拾い上げる。
 恐らく扇から抜け落ちたものだろう。
 「それは……」
 先程店に来た時に羽などは落ちていなかった。
 あの後落ちたのだろう。
 …では誰が……?
 「誰かが恋人達の邪魔をしたので女は逃げその時羽を落としたのだろう」
 八戒は三蔵からその羽をうけとる。
 その扇の羽の色には見覚えがあった。
 そう…あの青い瞳の女の持っていた扇の色ではないか。
 力を込めてその羽を握りつぶす。
 怒りと悲しみで手が……全身が震えるのがわかる。
 「悟浄……。
 僕がこうして苦しんでいる間にも貴方は他の女の腕の中で僕の逆上ぶりを嘲笑っているんですね……」 
 三蔵は八戒の様子を満足そうに見る。
 全て思惑通りだった。
 たった一つの羽だけで闇は全てに向かって広がっていく。
 怒りと悲しみが全てを飲み込み覆いつくしていく。
 「何処にいるのでしょう……。
 裏切り者達を捕らえることができたなら」
 考えるように店内を見回す。
 そして裏口で視線を止め苦しそうに胸を押さえる。
 「まさか…あの二人の家が…?
 あの家が二つの恋の隠れ家だなんて。
 ……裏切り者……裏切り者!
 あの想いのあふれる家が泥にまみれたんだ。
 …押し掛けてやりますよ」
 裏口へと歩く途中で青いカクテルの入ったグラスが目に映る。
 それを八戒は勢いよく床へとはたき落とす。
 「今夜は貴女にあの人を渡しませんよ……絶対に…」
 そう言う八戒の頬を涙が伝った……。


 「八戒の後を付けろ…。
 見つからないようにな」
 三蔵はそう小さな声で僧に命じる。
 僧は小さく頭を下げると裏口を出た。
 「…こうも上手くいくとはな」
 三蔵は一人呟くと吸いかけの煙草を床に広がるカクテルの上に落とす。
 そしてグラスの破片ごと足で踏みにじる…。
 
 「馬鹿な奴らだ……」 

 

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