手塚くんの恋人




――― それは、木曜日の朝だった。

「…ん…うるさ…」

この朝も普段通りにけたたましい目覚まし時計の音に目を覚ましたリョーマは、まだ眠い身体をのそのそと動かして、安眠を邪魔する耳障りな目覚ましを止めようと手を伸ばした。
時計の上にあるボタンを押せば一旦は止まるのだが、本体の後ろのスイッチを切らないと五分後に再び鳴るようになっているので、部活や学校には遅刻しないように、ギリギリの時間まで惰眠を貪ってから、支度をして朝食を食べるのが日課となっていた。

「……ん〜?」

しかし今日に限ってとてもうるさいから早く止めたいのに、手は虚しく空を切るだけだった。自分では置いてある場所を変えた覚えが無いので、必ずそこにあるはずなのに、一向に時計に手が当たらないのを不思議に思い、仕方なく重い瞼を開いた。

「……何…これ?」

ぼんやりしていた焦点を必死になって合わせると、信じられない光景がリョーマの前に広がり、寝惚け眼だった両眼は一気に覚醒した。目の前にあるのはいつも使っている枕…なのは認識した。しかしその枕はかなりの大きさで、目覚まし時計なんて遥か彼方の先にある。

「何でこんなに大きくなってんの?あれ…?」

覚醒したばかりの頭では、この状態を正確に判断できず、驚きのあまり身体を起こしてみるが、この時になって周りが巨大化したのではなく、自分が小さくなっている事にようやく気が付いた。

「…これって…」

それは着ていたはずのパジャマの存在。
お気に入りの水色のパジャマは、昨夜着てベッドに入った形のままでベッドの上に置いてあり、まるでそれが布団のようにリョーマの身体を覆っていた。
室内を見ても、寝る前と何も変わらない。
起床の為に少しだけ開いているカーテンもそのまま。
寝る前まで遊んでいたゲーム機もそのまま。
足元で丸くなっているカルピンの姿は、布団越しにしか見られないが、その大きさの生物は自然界には存在せず、まるで映画の中でDNA操作をされてしまった動物のように巨大化してしまったようだった。

「…夢?…いてっ…夢じゃないんだ…」

恐る恐る自分の頬を抓ってみるが、当たり前のように痛みが走った。
ジンジンする頬を擦ってみれば、自分の体温も触れている感覚も確かにわかる。

―― 紛れも無くこれは現実。

「…どうしよ…」

小さくなったこの身体では、ベッドから下りる事も不可能。
下手に飛び降りたら、良くて骨折、悪くて…。

「落ちたら死んじゃうよな」

理解し難い摩訶不思議な状態に陥っているのに、意外と冷静に物事を考えていた。

「…ふぅ、困ったな」

困り果てたリョーマがペタンと座っていると、不意にベッドが揺れた。
強い地震のように上下に揺れるベッドに、何事かと顔を上げると、背後に何かの気配を感じ振り返る。

「カルピン」

「ほわら〜」

いつまでも鳴り続ける目覚まし時計の音に起きてしまったカルピンが、リョーマのすぐ側まで歩いてやって来ていた。

「…カルピン?」

「ほわら」

じっと、リョーマを見つめているカルピンは、一鳴きすると右の前足を上げてリョーマ目掛けて振り下ろした。

「カルっ!」

鋭い爪の攻撃を間一髪で避けるが、カルピンは再び前足を上げていた。
自分の身に危険を感じたリョーマは、咄嗟に掛け布団の中に身体を潜り込ませた。

「わら〜」

カルピンは小さくなってしまったリョーマを、大好きなご主人様だと気付かずに、小動物を相手にしている時と同じ行動をしていた。

「カルピン、止めろ!止めろって」

掛け布団の上から前足でポスポスと叩くカルピンの名前を呼んでも、全く止まる気配は無い。
この前足に押さえつけられたら軽い怪我では済まない。
当たりが悪かったら口から内臓が飛び出そう。
リョーマは必死になっていた。
何とかカルピンの攻撃から逃げていると、不意にドアをノックする音が聞こえてきた。

「…リョーマさん?起きていますか?」

軽やかなノックの音の後に女性の声。
その声の持ち主は、忙しいリョーマの母に代わり台所で朝食の準備をしていた従姉妹の菜々子。
いつまでも聞こえてくる目覚ましの音を不思議に思い、部屋の前にまでやって来ていた。

「うわ、どうしよ」

どこに来るのかわからないカルピンの前足を野性的な勘で懸命に逃げているリョーマに策は無い。
今の姿を見られるのも重要な問題だが、今は命にかかわる。

「リョーマさーん?」

ノックと共に名前を呼ばれるが返事は出来ない。
いや、その前に小さくなった自分の声が届くのかという不安もある。

「開けますわよ〜」

鍵は掛けていないので回せば開く。
少し間が空いてから、ガチャ、とドアノブが回される音。
続いてゆっくりと開かれるドア。
ここからでは見えないが、音だけでわかる。

―― 絶体絶命。

「あら?カルピンだけなの。リョーマさんは?」

菜々子の声に布団を叩いていたカルピンはピタリと動きを止めて、菜々子に顔を向けた。

「ほわら〜」

ピョン、とベッドから軽々と飛び降りると、菜々子に一度だけ鳴いてからベッドに向かって鳴き続けた。

「どうしたの、リョーマさんに何かあったの?」

ベッドの一点を見つめながら鳴く姿に、女の勘でリョーマの身に何かが起きたのだと察した菜々子は部屋の中に入った。
掛け布団の中で固まったリョーマは、息を潜めて成り行きを見守る。
近付いてくる足音に、リョーマは生唾を飲み込んだ。
見付かったらどんな反応をされるのか?
不安が胸の中を過ぎる。

「…パジャマはあるのに…まさか誘拐?」

ベッドには人が入っているような盛り上がりは無く、掛け布団の中に着ていたはずのパジャマの姿が見える。
とりあえずはうるさい目覚ましを止めるのが先と、ベッドヘッドの時計に手を伸ばした。

その時…。

「…あら?」

「げっ」

こっそり布団から様子を窺おうとしていたリョーマと、心配そうにベッドを見つめた菜々子の視線が合った。
一瞬だけ二人の動きが止まる。

「…もしかして、リョーマさん?」

この姿を見たら『驚きのあまり声が出ない』とか『腰を抜かす』などといった反応を示すと思いきや、予想に反して菜々子は興味深げにベッド上のリョーマに近付いて来た。

「あらあら、こんなに小さくなっちゃって」

布団から見えるリョーマの姿は、おとぎ話に出てくる小人のようだった。
リョーマの姿を視界に入れたカルピンは、もう一度遊ぼうとベッドに飛び乗ろうとした。
が、その寸前で菜々子の腕の中に抱えられた。
菜々子は手足をじたばたと動かすカルピンを巧みに抱きながらベッドの横に座った。

「あらあら、って驚かないの?」

パジャマの布地でとりあえず下半身を隠して、重い掛け布団から出た。

「とても驚いていますわよ。それよりどうしてこんな姿になったんですか?」

どこからどう見ても、絶対に驚いているようには見えない。
菜々子にもリョーマや南次郎と同じ越前家の血が流れているのにも係わらず、性格はとてものんびりとして穏やか。
焦っていても顔にも態度にもほとんど出ない。

「俺にもわからないよ。起きたらこうなってた」

菜々子がこういうタイプである事は、会った時から知っていたので、リョーマはあっさりと話を合わせた。

「…そうですよね」

昨夜のリョーマは学校から戻ってすぐに夕食を食べて、テレビを見て、風呂に入って、ゲームで遊んでから寝た。
ちなみに夕食のメニューは菜々子の手作りハンバーグとマカロニサラダ、それにオニオンスープで、珍しい事に間食はしていない。
いつもなら大好きなえびせんべいをパリパリ食べながらゲームをするのだが、昨日は買い置きが無かったので我慢した。
だから変な食べ物や飲み物は口にしていない。
乾が作るあの特製野菜汁ですら、気分が悪くなるか、もしくは気を失うくらいで、特に身体に異常をきたす物じゃないのだから、この状態になりうる原因なんて思い付かない。

「…とりあえず学校には連絡しますね」

「よろしく…あっ」

「どうかしました?」

立ち上がって部屋から出ようとする菜々子は、リョーマの声に振り返った。

「…トイレ行きたいし、腹も減ったんだけど」

尿意をもよおすのは、生理現象なのだから止めようとしても無理な事。
それに小さくなっても腹は減る。

「…まぁ、困りましたわね」

食事はともかくとして、問題はトイレ。
サイズが小さくなっただけであって身体の構造は何も変わっていない。
そうなると一緒に入るのはさすがにまずい。

「とにかくお連れしますね」

「あ、うん。でさ、俺…裸なんだよね。何かないかな」

「まぁ、お洋服は小さくならないんですね」

漫画みたいに上手くいかないんですね、と呟くと、菜々子はリョーマのタンスの中からハンカチを取り出して小さな身体をそっと包んだ。


「親父は?」

「今日はもうお寺の方に行っていますわ」

後で食事をすると言うので、準備だけはしておいた。

「ふーん、珍しい事もあるんだ」

「呼んで来ましょうか?」

「いいよ、後で」

この姿を見たらどんな反応をするのかは、何となく想像が出来るから、この場にいなくて良かったと思う反面、頼るのは家族くらいしかいないのだから早く話をしないといけない。
菜々子のように即行で納得してくれればいいけれど、両親がこの現実を受け入れてくれるのかは、息子であるリョーマにもわからない。

「リョーマさん、手塚さんに連絡を入れましょうか?」

「…手塚先輩に?」

どうにかしてトイレを済ませ、行儀が悪いのはわかっているが、ダイニングテーブルの上に座り食事を終わらせたリョーマに菜々子は言っていた。

「えぇ、そうですわ」

手塚がリョーマの中で特別な存在である事は、家族の誰もが知っていた。

「…でも、こんな姿…」

昨日までの自分とは異質な姿を見て、手塚がどんな反応をするのかは、考えるだけでゾッとする。

「手塚さんならきっと大丈夫ですよ」

「…そうだよね。じゃ電話してくれる?えっと番号は…」

「ちょっと待って下さい。メモしますわ。はい、どうぞ」

あれだけ冷静な判断をする人だから、もしかしたら菜々子と似たような反応かもしれない。
全ては憶測だが、今はそれに賭けるしかない。
信じてはいないが、神仏に祈りを捧げたい気分だ。

「では、掛けてきますね」

「よろしく」

覚えてしまった携帯の番号を菜々子に教えると、菜々子はメモした紙を持って廊下に出て行ってしまった。


「…これからどうしよ」

テーブルに用意されていたマグカップにもたれながら、良いサイズが見当たらないからと、色々と探した挙句のペットボトルのキャップに数滴入れてもらったお茶を飲む。
これでもリョーマにはかなり大きな湯呑み。
風呂で使う桶ほどの大きさのキャップを持ちながら、リョーマはこれからを考える。
恐々ながらも身長を菜々子に測ってもらったら、二十センチほどしかなかった。
元々小柄な方なのに、小さな女の子が持っている人形くらいの身長しか無いこの身体では、何も出来やしない。
食事だって箸やスプーンが使えないから手掴みで食べるしかなく、米粒なんて一粒ずつ食べていた。
おかずも大好きな焼き魚だったのに、食べる前に菜々子に細かくしてもらったので、パサパサしていた。
お米も魚も味なんて全然わからなくて美味しくなかった。
それにこんなに小さい身体だから、サイズの合う服なんてこの家にあるわけが無く、バスタオルを巻くようにハンカチを身体に巻き付けていた。
下着が無いから下半身がスースーしてちょっと気持ち悪い。

「…病気なのかな」

こんな病がこの世の中にあるなんて知らないけど。

「はぁ…」

今は大きく息を吐き出す事しかリョーマには出来なかった。


「おはようございます」

暫くすると玄関から凛とした声が聞こえ、二人は思わず顔を合わせる。

「あら、もう来たみたいですね」

「…手塚先輩…」

二人には玄関に現れた人物の姿を確認しなくても、その声だけで誰なのかがわかってしまうくらい、聞き慣れていた。

「リョーマさん、ここは私が行きますわね。はーい、今行きますわ〜」

出迎えに行きたいのはやまやまだが、それだけは絶対に無理な為、リョーマに代わり菜々子が出迎えに行く。
手塚が越前宅に着いたのは、菜々子が電話を掛けてから約二十分後だった。


「おはようございます。朝早くからお伺いして申し訳ございません」

菜々子の姿が見えると、手塚は背筋をピシッと伸ばしてから軽く礼をした。

「おはようございます。こちらこそ、朝からお電話差し上げてゴメンなさいね」

にっこりと微笑みながら菜々子も手塚に挨拶をした。
手塚とリョーマの自宅は離れていて、早足でも三十分はゆうに掛かるのに、それより十分も早く到着するという事はかなり急いで来たのだろう。
その証拠に息は荒く、額には薄っすらと汗を掻いていた。

「リョーマさんったら愛されていますわね」

滅多に無い手塚の様子に菜々子は感動すら覚えた。
今までに何度か家に来ていたが、手塚はリョーマとは違って大人の風格を滲ませていたので、今回も特に取り乱す事は無いと勝手に思いこんでいた。
それなのに如何にも「走って来ました」な姿を見せられて、リョーマをどれほど大切にしているのかを思い知らされた気がした。

「あの…それで越前の容態は?」

食事を済ませた後、部屋で支度をしていると携帯が鳴ったので、見ればリョーマの自宅からだった。
リョーマは携帯を持っておらず、専ら手塚が掛けていた。
だから、何かあったのかと出てみれば、その相手はリョーマでは無かったのだ。
この番号を知っているのはリョーマしかいないはずなのに、聞こえてくるのは従姉妹の菜々子の声。
ついでに『リョーマさんが大変なの』と言われた時は、心臓が飛び出るほどの衝撃を受けて、慌てて家を飛び出したというのに、菜々子は薄気味悪いほどニコニコ顔。
手塚は訝しげな表情で本題に移った。

「そうでしたわね。さぁ、上がって下さい」

「あ、はい。お邪魔します」

用意してくれたスリッパに足を通し、菜々子の後を着いて行くと、リョーマの部屋ではなく台所に案内され、思わず困惑の表情を浮かべてしまう。
身体の調子が悪いのなら部屋で休んでいるのに、起き上がって食事が出来るのなら深刻になる必要なんて無かった。

「菜々子さん、越前は?」

台所には誰もおらず、テーブルの上には朝食のおかずが乗った食器が並んでいるだけで、リョーマの姿は無かった。

「ですから、ここに」

「…え、ここ…ですか?」

「はい、ここです」

菜々子が手で指し示した方向には一つのマグカップがあるだけだった。

「わかりませんか?リョーマさんはここにいますわ」

「…ここに?」

手塚は菜々子の意図がわからず、仕方なくそのマグカップを見つめた。
少しの間、二人が黙って待っていると、ひょっこりと何かが姿を現した。

「…?」

一体なんだろう?と、手塚は眉をひそめる。

「手塚さん。あそこにいるのがリョーマさんですわ」

「え、越前?」

「はい、そうです」

「…越前…」

菜々子とマグカップの側にいる生き物を見比べる。
小さな動物かと思いきや、その姿は菜々子が言うとおり、自分の大切な恋人である越前リョーマだった。
ちょこちょこと歩き、テーブルの端の方にやって来ると、手塚を見上げる。

「…手塚先輩」

小さな唇から零れる言葉は、聞き慣れたリョーマの声。

「ど、どういう事だ」

昨日までと全く異なった姿になったリョーマを凝視する手塚が、大きな声を出してテーブルに駆け寄ったのを見て、菜々子はリョーマと手塚の二人きりにさせる為にこっそり席を外しておいた。

「ちょ、ちょっと、声がでかいよ…」

普通に話していても、サイズの違うリョーマには大き過ぎる声なのに、ボリュームアップされると耳が痛くて頭がくらくらする。

「す、すまない…しかし何がどうなってこんな…」

声のトーンを落として再び問い掛ける。
手乗り文鳥ならぬ、手乗りリョーマ。
かなり驚きつつも、頭の片隅ではミニマム化してしまったリョーマを可愛いと思っている自分がいた。

「俺にもわからないよ。起きたらこうなってた」

「何か変な物でも食べたのか」

「それも考えたけど、乾先輩の野菜汁は飲んでないし、普通のご飯だったよ」

やっぱり考える事は誰も同じだが、寝る前までは本当にいつも通りだったのに、朝起きたらこんな姿になっていたのだから、リョーマにも何かなんだかわからない。

どれだけ訊ねられても答えようが無い。

「…そうなのか」

これが夢だったら目が覚めれば終わるのだが、これは夢では無い。
思わず指を伸ばしてリョーマの頭に触れてみれば、どんなに小さくてもサラサラした髪の感触は同じだった。
頬を指先で撫でてみれば、まるで猫や犬みたいに気持ち良さそうに目を細めた。

「うん。今は原因が全然思い付かないんだ。で、今日は学校休むからよろしく」

離れていく指を惜しみながら、リョーマは時計の針が部活の時間に近付いていたのをそれとなく手塚に教えた。

「ああ、わかった。だが、今日は一人で家にいるのか?」

「菜々子姉が一日中家にいてくれるから大丈夫だよ。それにどうせ親父もすぐ来るし」

「そうか。では、また帰りに寄らせてもらう」

こんな姿で学校なんか行けるわけが無い。
もしかしたら、その間に原因に辿り着く何かを思い出すかもしれない。

「ありがと。ねぇ、国光…」

「何だ?」

「…早く来てね。俺、待ってるから」

「わかった」

手塚の素早い返答に、リョーマは嬉しそうに笑顔を作った。
こんな姿になってもリョーマはリョーマだった。

「では、行って来る」

最後にもう一度、指先で頬を撫でてやる。

「いってらっしゃい」

リョーマはお返しにその指にちゅっ、とキスをした。
いつもと同じリョーマの笑顔に安心した手塚は、学校へ行く為に越前宅を出た。


「手塚、おチビはどうしたんだにゃ?」

「具合でも悪いの?」

「部活だけで無く学校も休みとは余程の事なのか?これはなかなか興味深いな」

「心配だなぁ〜」

「天変地異の前触れっすかね〜」

「…自己管理がなってねぇんだよ」

朝練に遅れる事はリョーマの自宅へ行く前に大石に連絡しておいたので、手塚はコートに入った途端、レギュラー達から質問攻めに遭っていた。

「…全員で話さないでくれ。俺は聖徳太子では無いぞ」

それぞれが好き勝手に話しをするので、手塚はこめかみを押さえた。

「ああ、ゴメン」

「だって心配なんだもーん」

リョーマがいないだけで誰もが慌てふためくのだから、本当の事をこの場で話せば、リョーマを心配して自宅へ押し掛けてしまうだろう。
それではリョーマだけで無く、リョーマの家族にも迷惑が掛かってしまう。
しかし、目の前にいる全員が納得する説明を、この場でしないとならないのだ。
面倒だな、と本気で思うが、もしも自分がその立場に立っていたら同じ行動をしてしまうだろう。
リョーマの恋人は手塚なのだが、もしリョーマが手塚を選ばなかったら、今は誰に笑い掛けているのか。
お互いに想う気持ちが通じ合ったから、今は同性という障害を乗り越えて一緒にいるが、もしかしたら普通に女の子と付き合っているかもしれないし、このテニス部内の誰かかもしれない。
可能性だけでも様々なシミュレーションが出来る。
それを考えると、手塚は運が良かっただけかもしれない。

手塚とリョーマが付き合っている事を知っていても、テニス部のアイドルになるのに、さほど時間は掛からなかった。
ちょっとそこら辺ではお見かけしないほどのキラキラと耀く可愛らしさを振り撒いているリョーマに、テニス部員のハートは一瞬で囚われてしまった。
もちろん本人にその気は無く、勝手にラブラブ光線を送られて迷惑しきりだった。

「それで、越前の様子はどうなの?」

全員を代表して不二が手塚に訊ねる。

「ああ、どうやら風邪をひいて高熱が出ているようだ。数日は休むかもしれないな」

在り来りな症状なら誰もが納得するだろう。
そう考えて手塚は、リョーマの症状を一般的な『風邪』と説明した。

「にゃ〜、おチビってば風邪ひいちゃったんだ〜」

「熱もあるなんて…大丈夫だろうか?」

「見舞いにでも行こうか?」

「いやいや、それでは越前だけでなく、ご家族にも迷惑が掛かるだろう」

手塚が何か言えば一斉に反応をする。
思ったとおり全員が『風邪』で納得していた。
在り来たりでも、これが一番の効果がある。

「越前って怪我はするけど、病気ってあんまり縁が無い感じだよなぁ」

「じゃあ、風邪でも辛いかもしれないな」

部活の最中だというのに、コート内はテニスとは違う話で白熱していた。

「堀尾はいるか?」

「は、はい。何でしょうか、手塚部長」

リョーマの話で盛り上がっているレギュラー達を横目に、手塚はリョーマと同じクラスである堀尾を呼び寄せた。

「越前が休むという話は聞いているな?」

「はい、聞いてます…けど」

部長である手塚に呼ばれた堀尾は、手塚を目の前にして極度の緊張で固まっていたが、質問にはしっかり答えていた。

「では、越前が学校に出て来た時はノートを見せて、しっかりと授業の内容を教えてやってくれ」

「は、はい?」

「聞こえなかったか?お前は越前と同じクラスだろう。今日からの授業中は、いつも以上にしっかりとノートを取るように。お前も知っていると思うが、このテニス部も文武両道をモットーにしている」

本当はリョーマの成績は少しくらい休んでいても問題ないくらいなのだが、目の前の堀尾には問題がある。
これは良い機会だと、手塚は堀尾を捕まえて言っていた。

「…はい」

堀尾はリョーマがいないと、自分にかなりの負荷が掛かる事をこの時知った。

朝の部活はこの位の騒ぎで済んだが、夕方の部活の方で問題が起きてしまった。

「でもさ、やっぱり見舞いくらい行かない?」

朝の話題は夕方の部活にまで浸食し、誰も他の話しをする事無く、練習は始まってしまった。
中でも、不二や菊丸、桃城といった比較的リョーマと交流が深い者達は昼休みもどこかに集まって、この件に付いて話していた。

「そうだよにゃ〜。俺なんて今日の授業の中身なんて全く頭に入らなかったにゃ」

「英二もなの?僕もだよ」

授業も上の空でリョーマの心配ばかりしていた。
出来る事なら授業なんてサボって、様子を見に行きたいくらいだった。
実際に行動に移したら、リョーマは弱っている自分を見せたくないからと、断固拒否されるだろう。
ついでに手塚からの雷は、グラウンド百周どころじゃ済まないに決まっている。
いつだって手塚は真面目一貫の男。
学園内にいる限りは、たとえ恋人であろうとも贔屓したり、見逃しなんか絶対にしない。
徹底的に上級生であり、生徒会長であり、男子テニス部の部長なのだ。

「手塚部長にバレたら大変っすよね〜」

手塚は生徒会の会議で遅れる事を良い事に、二人の会話に桃城も参入した。

「そう、それなんだよね」

「うにゃ〜。手塚は頭でっかちだもんにゃ」

リョーマに会いたいが一番の障害は手塚。
それさえクリアしてしまえば、後は楽なもの。
しかし手塚をどう丸め込んでいいものか、難しい課題だけが最後に残る。

「…あのう、部長も誘ってみたらどうっすかね?」

うーん、と悩んでいた不二と菊丸に、桃城は一番駄目そうな提案をしてみた。

「おっ、桃にしちゃあ、ナイスアイデア」

パチンと指を鳴らす。

「そうだね、手塚だって心配だろうし」

うん、と頷いた。
以外にも二人の反応が良くて、桃城は肩に入れていた力を抜いた。

「まぁ、行かないって言えば、勝手に行っちゃうけどね」

誘う事は誘うが、手塚はリョーマの容態を気にして自宅には行かないと言うに決まっている。
手塚の性格を良く知っている不二だからこそ、上手く言い包めて三人で見舞いに行く方向にもって行くつもりだ。

「うわっ、不二っては強気発言」

「英二だってそうでしょ?」

「その通りでございます〜。なんてにゃ〜」

「…先輩達、楽しそっすね」

楽しそうに笑う不二と菊丸に桃城は少し出遅れた。


「おーい、手塚〜」

生徒会の会議が終わった手塚がコートに入れば、菊丸が小走りで近寄って来た。

「…菊丸、今は練習中だぞ」

近付いてくる危険分子に、物凄く嫌そうな表情を浮かべる。
菊丸と不二、この二人は何かとリョーマにちょっかいを出すから、手塚の中では要注意の人物と位置付けられている。

「俺は休憩中だよん。ほらほら、いいじゃん。ちょっとだけなんだから」

イシシと、薄気味悪く笑うから手塚はもっと嫌な顔になる。
菊丸はそんな事には全くめげずに「こっち、こっち」と手塚の腕を掴み、不二と桃城が待っている場所まで強引に引っ張って行く。

「あの、大石副部長…」

「何か大事な話かもしれないな」

コートの一角で何かが始まろうとしていた。
レギュラーが四人も集まってコソコソとしている。
それを見ていた部員が慌てて大石に伝えに行くが、大石は爽やかな笑顔で「気にしないで練習を続けよう」とだけ言い、追い返した。
黙って成り行きを見守っていた大石は、キリキリと痛む胃を抑えながら、練習を続けていた。

「それで、何の用だ?」

にこ〜と何かを企んでいる顔で笑う三人に、手塚は眉をしかめながら訊ねた。

「部活が終わったら越前の見舞いに行こうと思ってね」

「何?越前の?」

不二の言葉にピクリと眉が動く。

「そうっす。やっぱしコートにいないと物足りないんで、どんな具合なのか様子を見て来ようと思いまして」

「…お前等…」

桃城の言葉に目尻の高さが少し上がる。

「おおっと、怒んない、怒んない。手塚だって気になるんだろ?だから一緒に行かないかにゃ〜ってね」

「………」

菊丸の言葉で手塚は口を閉ざした。

リョーマは『風邪』で休んでいる。
それを思い付いたのは手塚だが、まさかこんな展開になるとは考えていなかった。
三人が手塚を誘う理由は簡単で、勝手に行って後で文句を言われるよりも、自分を連れて行く方が安全だから。
ここで断り、しっかりと釘を刺しても、不二達は勝手に行ってしまうかもしれない。
そうなれば、リョーマの姿を見てしまう可能性がある。
最悪を考えれば、小さくなったリョーマをそのまま『お持ち帰り』してしまう可能性も捨てきれない。
それだけは絶対に阻止しないとならない。
手塚の中に使命感にも似た感覚が生まれる。

「手塚?」

何やらしかめっ面のままで固まってしまった手塚の名前を不二は呼んだ。
弱っている姿を見られるのは、恋人として避けたいのはわかるが、ただ心配しているだけなのは自分達の性に合わないのだ。
手塚に何を言われようと、不二達はリョーマの見舞いに行くつもりなので、断るのならさっさと言って欲しかった。

「……そうだな。そうしよう」

「あれ?いいの?」

「手塚ってば、本気なのかにゃ?俺達、おチビの見舞いに行くんだぞ」

「手塚部長、嫌なら嫌って言った方がいいっすよ?」

まさか、肯定の返事が返ってくるなんて思っていなかったから、三人は続々と驚きと衝撃にまみれた大きな声を出す。

「何なんだ?お前達が誘って来たのだろう?」

意外な反応をするので、初めから自分は人数に入っていなかったのだと気が付いた。

「それはそうだけど…ねぇ?」

「うん、ちょっとビックリした」

「でも良かったじゃないっすか。これで越前の所には何も後ろめたさを感じないで行けますよ」

良かったすね、と特に何も手塚の意図を図ろうとしない単純な桃城は普通に喜び、不二と菊丸は首を傾げながらも、リョーマに会うのが目的なのだから、手塚がいればリョーマに会える確立が高くなるので、あまり口を出さない事にした。

「話は済んだな。では、練習に戻る前にお前達はグラウンドを十周して来い」

「うえ〜、何でだよ」

練習をサボった事に変わりがないので、手塚は三人に罰走を言い渡した。

「何を言っている。お前達のおかげで俺の練習時間が減ってしまったし、菊丸の言う休憩時間なんてとっくに終わっているはずだ」

手塚の言い分は最もで、折角『リョーマの見舞いに行く』という素晴らしい権利を手に入れた三人は、下手な事を行ってリョーマの見舞いに行けなくなるといけないので、揃ってコートから出て行った。
三人がしっかり走っているのを確認しながら、手塚はストレッチを始め、身体が温まったところで練習に参加した。



「ふんふふん。おチビの見舞い、お見舞いっ」

「こらこら、英二ってば浮かれ過ぎだよ」

「な〜んか、楽しいんだよね」

何だか遠足にでも行くような楽しい気分でいるのは菊丸。
その保護者のような気分でいるのは不二。
その後ろで「どうやってからかってやろうか」なんて意地が悪い事を考えているのは桃城。

「おい、越前は病人なんだぞ」

一番後ろを歩いているのは手塚だった。

「だ〜いじょうぶだって。俺だってバカじゃないんだから、その辺はわかってますよ〜」

かなりご機嫌な菊丸は鼻歌交じりに歩いていた。

「それに君もいるんだから、常識外れな行動はしないよ」

「ならば、高熱がある病人をゆっくり休ませようとは思わないのか?」

不二の言う『常識外れ』的なこの行動は、彼らにとっては常識内なのか?

「それは別だよん。だっておチビが心配なんだもん」

チクリと手塚が痛い所を突いてみるが、菊丸には痒いくらいで効果は無かった。

部活が終り、部誌を書いて顧問に届けに行く途中で、手塚はリョーマの自宅に電話を入れた。
電話に出たのは菜々子で、手塚は「今から数人で見舞いに行くので、口裏を合わせたい」と申し入れた。
菜々子もリョーマが『風邪』で床に臥していると周囲に知ってもらう為には、部外者に『風邪』だと思わせる必要性は自分達の方が需要になると、手塚のシナリオを電話の向こうで素早くメモをしていた。

「おチビのパジャマ姿ってカワイイんだろうな」

「寝ていたら会えないけどね」

絶対に会う気満々の菊丸と、状態によっては会わずに帰る気でいる不二。
桃城の考えは「会えるなら会うけど、会えないなら会わなくてもいい」だった。

しかし三人がどう考えていても、結局は手塚が作ったシナリオ通りに進むのだけは、既に決定していた。

「あら、皆さん」

リョーマの自宅のすぐ側までやって来ると、丁度、夕刊を取りに出て来た菜々子と出くわした。
もちろんこれは、手塚からおおよその時間を聞いておいたから、偶然を狙って家から出て来たのだ。

「こんにちは、菜々子さん」

四人とも菜々子と顔見知りなので、ペコリと頭を下げる。
この時、誰にも気付かれないよう、手塚と菜々子はお互いに視線だけで合図を送った。

「もしかしてリョーマさんのお見舞いかしら?」

「はい、そうです」

「あらあら、ごめんなさいね。たった今、おば様が病院に連れて行ってしまったのよ」

申し訳無さそうに説明するが、これも手塚のシナリオに沿ったセリフだった。

「病院ですか…」

「ええ、まだ熱が下がらないので、おじ様の車で連れて行ったんですよ。リョーマさんったら病院嫌いだから」

クス、と笑う顔は従姉妹だからかリョーマと良く似ている。

「わざわざ来て下さったのに…」

「いいえ、僕達も勝手にお伺いしたものですから、気になさらないで下さい」

リョーマが病院に行っているのなら、戻ってくるまでここで待つ手もあるが、さすがにそこまでは出来ない。
この時間から行けば、順番が来るのを待ち、診察が終わって帰ってくるのに一時間はかかる。
不二は残念そうにしながらも、人の良い笑顔を見せる。

「リョーマさんが戻られたら、皆さんがお見舞いに来て下さった事をお伝えしておきますわね」

こちらも不二に負けないくらいの微笑みを見せる。

「それでは、失礼します」

「あのあの、おチビにお大事にって」

「はい、わかりましたわ」

菜々子は帰って行く四人を見送ると、してやったりな表情を浮かべて家の中に入って行った。

「おチビってば病院行ってんのか」

「思ったより酷いみたいだね」

「やっぱし、何日か休みそうっすね」

リョーマを心配する三人は、母親が病院に連れて行っていると言われ、本当に病人である事を実感していた。

「早く治って復活するように祈ってよっと」

「英二の言うとおりだね」

リョーマの自宅を後にした四人は、それぞれの家に戻って行ったが、手塚だけは途中でUターンをして、リョーマの自宅に再び訪れていた。

「さっきは上手くいったなぁ」

「はい、菜々子さんのおかげです」

「いいえ、手塚さんがしっかりとした指示を出してくれたからですわ」

居間に通された手塚は、父親の南次郎と母親の倫子に加え、菜々子とテーブルの上に座っているリョーマとこれからについて話し合いを始めていた。

「…俺達もこれには正直言って驚いてんだが、困った事に何も対処方法が無いんだよな。なぁ、母さん」

ボリボリと頭を掻きながら、横にいる倫子に救いを求める。
南次郎がリョーマの状態を知ったのは、寺から戻って来た直後だった。
朝食を食べようとしてテーブルに着くと、見慣れない物体が目の前に鎮座していたのだ。
人形のような大きさのそれがリョーマだと気付いた時は、椅子から転げ落ちそうになった。
だが、南次郎が驚いたのはこれくらいで、あとは普段通りに接していた。
物凄く無精者に見えても、南次郎は何事にも柔軟に受け止められる心がある。
アメリカで成功した秘訣もこれにあるのだろう。

「そうね。でも手塚君がいてくれて本当に助かったわ。私達だけじゃリョーマを病院送りにでもしそうですもの」

倫子は掌に乗ってしまうほど小さくなってしまった息子を不安気に見つめる。
倫子がリョーマの状態を知ったのは、会社で仕事をしている最中に入った一本の電話からだった。
電話の相手は小さくなったリョーマを発見した菜々子で、簡単に説明を受けてから、猛スピードで仕事をこなし、いつもより早めに切り上げて自宅に帰って来た。
そこで見たリョーマの姿に叫びそうになるが、そこはいつまでも自由奔放な南次郎の妻であり、リョーマの母親をやっているだけあって、取り乱さずに済んだ。

「そこで、お前さんの出番ってヤツだ」

「はい、僕ですか?」

出番とは一体何の事だろう。

「そうなのよ。実は仕事で一週間ほどアメリカに戻らないといけなくなったのよ。断れる仕事なら良かったのだけど、そうそう簡単なものじゃなくてね。もちろん私だけで行くのだけど、リョーマがこうなった以上、アメリカに連れて行くという話しにして、しばらく日本にいないって事にしようと思うのよ」

「それは良い考えだと思いますが、何か問題があるのですか?」

アメリカに連れて行くと言われなかったので、手塚は安心してしまう。
リョーマと付き合い始めた頃、リョーマから日本に来た理由が、母親の仕事の都合だと聞いている。
何の仕事に就いているのかは知らないが、かなり仕事が出来る人物で、早くに管理職に昇格したらしい。
もしも、倫子の仕事が今と違っていれば、リョーマとの出会いは無かっただろう。
仕事を断るのは、倫子にとってマイナスになる。
それは手塚にも良くわかっていた。

「実はね、この人もお寺の関係で私と同じくらいこの家を離れてしまうのよ。そうなれば菜々子ちゃんには必然的に自宅に戻ってもらう事になってしまうのよ。だからって事情を知っている菜々子ちゃんに自宅でリョーマの面倒を見てもらうわけにはいかないから…」

語尾は本当に困った感じになっている事から、かなり悩んでいたようだ。

「で、お前さんに暫くの間でいいから、こいつを任せたいんだが…どうだ?」

「ちょ、ちょっと、何言ってんだよ、親父。手塚先輩に迷惑掛けんなよ」

黙って上空のやり取りを聞いていたリョーマは、南次郎の言葉に立ち上がって抗議した。
事情を知っているからと言って、手塚に面倒を掛けるわけにはいかない。

「手塚先輩に迷惑掛けるくらいなら、俺は一人でもここにいるよ」

どうにかして両親を説得しようと奮起する。
当たり前だが手塚にも自分の生活があるのだから、引き受けるとなると、かなりの負荷を与えてしまう。
それに、きっと人の良い手塚だから、この申し出に断る事はしない。
リョーマとしては恋人に迷惑は掛けたくないのだ。

「僕なら一向に構いません」

「手塚先輩!」

リョーマの心情を無視して手塚はあっさりと引き受けた。

「おいおい、こっちから頼んでこんな事を言うのはおかしいかもしれねぇが、本当にいいのか?」

「手塚君も知っていると思うけど、リョーマの扱いは大変なのよ」

何だかペットの世話でも頼んでいるような内容に、リョーマはムッとした顔で母親を見るが、この際、リョーマの存在は無視して、両親と手塚は勝手に話を進めていく。
リョーマがギャイギャイと騒いでいても、サイズの小ささからどんなに大きな声を出しても、大した音量にはならない。

「はい。お任せ下さい」

「ありがとうね、手塚君」

本心からの言葉に手塚は深々と頭を下げた。

結局のところ、話は簡単にまとまってしまった。


何か必要な物があるかもしれないと、手塚はリョーマを連れて部屋に入った。
相変わらずゲーム機で散らかっている室内は、片付けられる事なくそのままになっている。

「…何で引き受けたの?国光だって忙しいのに…あっ、二段目に入っているから」

手塚の学生服のポケットに入れてもらい、リョーマはもしもの為に数枚の下着と服を持って行って欲しいとタンスを指し示した。

「いいか、越前。もしここで俺が断ったら、ご両親は頼る相手が誰もいなくなるんだぞ。それにお前の世話を誰かに頼むくらいなら俺の方から直々に申し出ていた」

ゴソゴソとタンスの中を物色し、母親から借りた袋に下着と服を詰め込んでいく。

「…でも」

「お前と一緒にいられるなら俺は嬉しい」

「こんな姿でも?」

「ああ、たとえどんな姿になろうとも、リョーマはリョーマだろう?越前リョーマである事に何も変わっていない」

狭いポケットの中にいるリョーマを優しく掴むと、勉強机の上に乗せてやる。
決して安定感が良いとは言えないポケットから、普通に足で立てる机上に移動出来て、リョーマは無意識に安堵の表情を浮かべた。
手塚は椅子に座り、リョーマと視線の高さを合わせる。

「ところで、その服はどうしたんだ」

このセリフはこの家に来てリョーマを見た瞬間に言いたかったのだが、既に両親が一緒だったので言うタイミングを逃してしまっていた。
今のリョーマは朝のハンカチ姿とは違っていた。
どうやら既製品では無く、誰かの手作りらしき服に身を包んでいる。

「これ?菜々子姉が作ってくれた」

小さくても巷で見かける人形の服よりも出来が良い。
今日は大学の講義が無かったので、菜々子はミシンを出してリョーマの為に服を作っていた。
家事全般は得意で、裁縫も人並以上の腕前だった。
小さな身体に合う服もその器用な手により、気が付けば短い時間にも係わらず、五着も出来上がっていた。
それも全てが形の違う服。
ただ一つ同じところは、着脱がしやすいように上着の前身ごろにはマジックテープを縫い付けてあり、ズボンは既製のチャックは取り付けが無理なので、ジャージのようにゴムを入れて作られている。
これならリョーマ一人でも着替えが出来る。

「下着も作ってくれたんだよ」

見る?と言えば、思わず手塚は首を縦に振りそうになるが、ここは何とか堪えた。
こんなところで劣情を催したら大変な事になる。当たり前だがリョーマがこの姿なので、そうなれば一人で処理するしか
方法が無く、そんな空しい行為はしたくない。
自慰行為は欲望を簡単に処理できる方法であるが、記憶の中の相手を思い浮かべて自分を慰めるのは情けない。

「馬鹿な事を言うな、リョーマ。あとは他に持って行く物はないのか?」

リョーマに劣情を悟られないように手塚は椅子から立ち上がり、おもむろに室内を物色する。

「…国光ってば…」

クスクスと笑っているところを見ると、どうやら気付かれてしまったようだ。

「………何も言うな」

「国光がエッチだってのは、とっくに知ってるよ」

照れ臭そうに顔を逸らす手塚にリョーマは言っていた。

「リョーマ」

咎めるように少し大きな声で名前を呼ぶ。

「俺だって同じだよ。でもこれじゃあね…」

この姿では何も出来ない。
抱き締め合う事も、キスする事も、ましてや性行為なんて天地がひっくり返っても無理。

「…済まない」

「国光が謝る必要なんて無いよ。だからさ、俺が元に戻ったらいっぱいエッチしようよ」

「ああ、そうだな。ならば、その日は眠れないと覚悟しておいてくれ」

小さくなってもやっぱりリョーマはリョーマで、どんな時でも考えは明るく前向きだった。
そんなリョーマに手塚はいつも助けられていた。

「ん、わかった」

とりあえず下着と服以外に必要な物は無く、手塚は再びリョーマをポケットに入れると、リョーマの香りが残る部屋から出て行った。


「それじゃあ、手塚君。リョーマの事をお願いしますね」

「何かあったら電話をくれ。これが俺の番号でこっちが母さんのだよな?」

「ええ、そうよ」

「こちらが南次郎さんですね。はい、お任せ下さい」

もしもの為に両親の携帯の番号を教えてもらった手塚は、リョーマをポケットに入れたまま、軽く頭を下げる。

「リョーマも手塚君に迷惑掛けないようにしなさいよ」

「言われなくてもわかってるよ。それに見付かったら大変だしね」

暫くの間、手塚の自宅に居候するという立場になるのだが、手塚はリョーマの存在を家族に見付からないよう、徹底的に隠しておかないとならない。
そうなると、自分勝手な振る舞いは出来ない。

「早く元の大きさに戻れよ。まぁ、元々がチビだから、そう変わってないか」

南次郎はポケットから出ているリョーマの頭を人差し指で軽く突付いた。

「何すんだよ!クソ親父」

「お父様って言いな、クソ息子。済まねぇな、手塚。お前さんにまで迷惑掛けちまって」

リョーマとの短いやり取りの後、南次郎は真剣な顔をして手塚に謝罪する。
南次郎だってリョーマを人任せにするのは気が引ける。
しかし現状を考えると、これしか方法が無い。

「いえ、迷惑なんて感じていませんので、お二人ともお仕事の方に専念なさって下さい」

「本当に済まねぇ。おい、リョーマ」

「…何だよ」

手塚に深々と頭を下げると、その姿勢のままリョーマと顔を合わせる。

「悪いな、勝手な事しちまってよ」

「別にいいよ。俺にはどうする事も出来ないし」

ふいっ、と横を向く。

「早く元に戻れるといいな。そんななりじゃ、テニスができねぇからよ」

突付いた頭を今度はポンと軽く叩いた。
どんなに悪態をついても南次郎はリョーマの父親で、言葉にも態度にも出さないが本当はとても心配しているのだ。

「まあ、どんな姿でも…お前は俺の息子だからな」

「……親父」

南次郎の気持ちが通じたのか、複雑な表情になる。
もっといつも通りにしてくれれば、手塚の家に行き易くなるのに、そんな顔をするのは反則だ。

「それじゃ、あとは頼むわ」

「では失礼します。リョーマ、済まないがポケットの中に頭を入れてくれないか」

手塚は珍しい南次郎の様子に、リョーマに里心が付いてしまう前に引き離すという選択をし、ポケットの中のリョーマに家族の姿を見せないようにして越前家を去って行った。


「リョーマ…」

「…何?」

呼び掛ければポケットから小さな声が返って来る。

「俺では無く、南次郎さん達と一緒にいたかったか?」

「……うるさい親父から離れられて俺は清々してるよ」

惨い問い掛けにもリョーマは気丈に返す。
数ヶ月ではあるが、住み慣れた家から離れて過ごすのだ。
口には出さなくても不安はあるに決まっている。

「お前は俺が守ってやるからな」

「俺は守ってもらうほど弱くないよ」

「知っている。だが、今のお前は違う。いいか、俺達が小さな虫に刺されたとしても何て事は無いが、お前は毒の付いた太い棒を突き刺されるのと同じくらいのダメージを受ける事になるのだぞ」

「……う」

背筋にゾクリとしたものが流れた。

「俺が守る」

もう一度言うと、手塚は自宅への道程を急いだ。


「お帰りなさい、国光。今日は遅かったのね」

自宅へ戻った手塚は、台所で夕食の支度をしている母親の彩菜に帰宅した事を告げた。

「済みません。少し部活の方で時間を取りましたので」

リョーマの話は一切せず、部活で遅くなったと説明した。

「あらあら、部長さんも大変ね。お風呂の用意をしておいたから先に軽く汗を流しておきなさいな」

「お心遣いありがとうございます」

「そんなに畏まらなくてもいいのよ?本当にあなたは誰に似ちゃったのかしらねぇ」

父親の性格にも母親の性格にも似ておらず、あえて似ている人物を挙げるのなら、祖父の国一しかいない。
頑固一徹の祖父の性格を、隔世遺伝で受け継いでしまった息子に彩菜は寂しそうに呟いていた。

部屋に入った手塚はバッグを置いてから、リョーマをポケットから出してベッドの上に座らせる。

「国光の部屋だ…」

狭く身動きもし難かったポケットから、海のように広いベッドに移動できて、リョーマは大きく深呼吸をした。

「疲れていないか?」

「俺は運んでもらっているから全然疲れてないよ」

笑顔を見せるリョーマに安心して、学生服を脱いで皺にならないようにたたみ、タンスの上に置いた。

「リョーマも風呂に入るか?」

「…いいの?」

手塚が不潔を嫌っているのは知っている。
バッグの中にはデオドラントスプレーが常備されていて、部活で汗を掻いた後に使用している。
訊いたところによると、月に五本は軽く無くなるそうだ。
だから家に戻ってシャワーを浴びたりするのは、手塚にとっては日常的らしい。
彩菜からの風呂の話を聞いていたリョーマは、出てくるまでここで待っているつもりだった。

「どうせ一緒に入るのだからな、今からでも後でも同じだ」

「ん〜、じゃあ入る」

手塚はリョーマを着替えの中に潜り込ませ、何食わぬ顔で風呂場に向かった。

洗面台の上にリョーマを立たせ、手塚は着衣を脱いだ。
その間にリョーマも菜々子手作りの服を手際良く脱いで素っ裸になれば、手塚は持ってきたハンドタオルで素早くリョーマを包み、手の平に乗せる。

「服は…洗濯した方がいいな」

洗面台に残された小さな洋服達。
リョーマの性格を表しているかのように、脱ぎ散らされた服は小さな山になっている。

「でも洗濯機はマズいよね。風呂の中で洗おうかな」

「そうだな」

洗濯機で洗ったらただのボロ布になってしまう。
菜々子がリョーマの為に作ってくれた服を、ぞんざいに扱ってはならない。
洗濯機の横にある洗剤を少しだけ失敬して、脱ぎ捨てられている服も掴み、湯気の立ちこめる浴室内に入った。

「…ん〜、イイ気持ち」

「済まないな、そんな物に入れてしまって」

「気にしてないよ。これなら俺もサイズに丁度イイしね」

楽しそうにチャプチャプと湯を弾いているリョーマが入っているのは、大きな風呂桶では無く、身体に湯を掛ける為の小さな桶。
先に服と身体を洗ったリョーマに、手塚が「こちらでは危ないから」と差し出したのだ。
普段のリョーマなら思い付く限りの文句を口にするが、手塚の家に居候している間は、決して文句は言わない事を心に決めていた。

「温くはないか?」

「温い方が長く入れるから俺は好きだよ」

「狭くはないか?」

「全然。広過ぎるくらいだよ」

桶とはいえ、リョーマのサイズなら風呂桶よりも広い。
手足を思いっきり伸ばしても、絶対にぶつからない。
何だか物凄く贅沢をしている気分になる。

「…でもさ、俺のご飯ってどうするの?」

風呂は最高に気持ちいいけど、次なる問題がリョーマの脳裏を過ぎった。
朝と昼は事情を知っている菜々子に色々と助けてもらって食べられたが、ここではそうはいかない。
手塚の家族に見付かってはゲームオーバー。

「何とかして用意するさ」

「何とかって、国光のところって全員で食べるのが決まりなんでしょ?」

何度か彩菜の手料理を食べたが、その時は必ず家族が揃っていた。
厳格な祖父が「食事は家族全員が揃って食べるものだ」と言い張るので、父の残業と言い出した祖父の稽古が無い時は必ず四人で食べている。
自分の部屋で食べるなんて出来やしない。

「一食くらいなら抜いても平気だよ」

それに今日は運動もしないで家にいただけなので、それほど空腹感は無い。
「大丈夫だ。俺に任せておけ」
今日の手塚はいつも以上にたくましく見えた。

「母さん、少しよろしいですか」

「あら、どうしたの?」

テーブルに既に夕食の準備がしてあり、祖父と父も席に着いていた。

「済みません。少し出なくてはならないので、食事は後ほど頂きたいのですが」

残りの二人には聞こえないよう、手塚は母だけに話す。

「直ぐに戻るの?」

「はい。ですが、先に食べていて下さい」

「そう、わかったわ」

「申し訳ありません」

手塚が台所から離れると、祖父の「何じゃ、今から国光は出掛けるのか」との声が聞こえたが、そ知らぬ振りをして玄関から出て行った。

「…いいの?」

シャツのポケットからひょいと顔を出したリョーマは、手塚に訊ねる。

「ああ、こうすれば食事は一人で食べられるし、それに必要な物があるのでコンビニには行きたかったんだ」

「ふーん」

リョーマには手塚の行動に合わせるしかないので、ポケットの中に座り込む。
家の前は人通りが少ないが、コンビニ近くには人が多くなるので、リョーマはずっと黙ったままだった。

「で、コンビニで何を買ったの?」

買い物を済ませ、歩いて来た道を戻る途中で、リョーマは閉ざしていた口を開いた。
人のいるところで会話なんかしていたら、独り言をブツブツ言っている怪しい人に間違えられてしまう。

「これか?菓子だ」

ガサガサと袋の中を探る音に、リョーマはポケットから頭だけを出して中身を見ると、中にはカロリーカットのチョコレートや子供用の薄味のせんべいが入っていた。

「何でお菓子なんか買ってんの?国光ってお菓子食べないじゃん。しかもこんなにたくさん。まさか学校にでも持っていって配るの?」

部活が終わってからの間食は、用意してもらっている食事の味を悪くするだけだと、手塚は寄り道のメンバーにはほとんど入らない。
だからリョーマには、手塚がお菓子を買う為だけにコンビニに行くなんて絶対に信じられなかった。

「これはお前の非常食にと思ってな」

その疑問には簡潔に答えた。
家でも滅多に食べない菓子は、自分用ではなくリョーマ用に購入した。

「俺の非常食?」

「ああ、きっと今日のように食べたくてもすぐには食べられない時があるだろう。だが、こういう物で足りない栄養を補えるとは思えないが…」

普段から菓子類を食べないから、何を買えばいいのかわからず、とりあえずカロリー過多にならない物だけを選んだ。

本当なら確認した上で購入したかったのだが、コンビニ内は客が多く、それは出来なかった。

「…国光」

「ああ、お前の好んでいるえびせんべいを買っていなかったな。それにファンタも…」

心なしか低くなった声のトーンに、購入した物がリョーマの好みでは無かったのだと、少し慌てる。

「違うよ。何か俺…国光に迷惑掛けてるね…」

「迷惑だなんて感じていないぞ」

「…だって俺がいなかったら、ご飯…一緒に食べてた。コンビニなんかに行かなくても良かった…」

しゅん、としてしまったリョーマを慰めるように、手塚はポケットの上から小さな身体を優しく撫でる。
単発ドラマのように先の見える話なら問題ないが、連続ドラマのように展開がわからないこの現状に一番戸惑っているのはリョーマ本人だ。

「お前はいつも通りでいてくれればいい。俺がお前の世話をしたいだけであって遠慮なんかするな」

面倒を見てくれるのが家族なら、リョーマは普段通りの態度を取っているだろうが、家族の都合で手塚が面倒を見てくれる事になり、珍しく遠慮気味になっている。

「…でも、国光っていっつも忙しくて、リラックスできる場所も限られているのに…」

自分が手塚の世話になるという事は、手塚は自宅でも気を抜けなくなる事になるのだ。
遠慮なんてものでは無い。

「それに秘密を作るのもなかなか楽しい」

リョーマの気持ちは良くわかるが、手塚は家族や友人の誰にも言えない『秘密』を手に入れて、楽しんでいる部分もある。

どうやってリョーマの存在を気付かれないように過ごしていくのかが、腕の見せ所だ。

「子供みたい」

無邪気にはしゃいだりはしないが、それでも手塚はこの状況を楽しんでいる。

「俺はまだ子供だぞ」

れっきとした中学三年生。
年齢でいえば、まだまだ十代の半ばだ。

「見た目なら大学生でもいけそうだけどね」

「リョーマ…」

クスクス、と笑っているのが服から伝わる振動でわかる。

「ウソ、ウソ。国光は背が高くてカッコイイから、年齢より大人っぽく見えるんだよ。だから、みんなが国光を見ちゃうんだよね。本当はあんまり他の人には見せたくないけど…」

笑いを止める為にポケットを軽く揺すられて、リョーマは笑いを止めてから本音を零した。
一緒にいる時に感じる少し熱を帯びた視線。
何だろう?と辺りを見渡すと、女の人がこちらを見ている。
いや、自分では無く手塚を見ている。
年上、年下なんて関係なく、女の人は手塚だけを見ていた。
容姿端麗で落ち着きがあって、何より自分が好きになった相手なんだから、手塚を見てドキドキするのはわかる。
わかるけど、そんな熱い視線で見て欲しくない。
見ているだけで何かしら行動に移す人はいなかったが、これからは違うかもしれない。
手塚が一人で歩いていたら、今日まで遠くから眺めていた人は、明日からは行動に移すかもしれない。
考えただけでもゾクリとしてしまう。

「リョーマ」

「こんなポケットの中じゃなくて、早く国光の横に立って歩きたいな」

小さいままでいたら、ポケットの中で何も出来なくて悔しい思いをするのは自分なのだ。

「そうだな、早く元に戻れるといいな」

ネガティブな気持ちになるリョーマを抱き締めて、安心させてやりたい。

「戻れるかな…」

「戻れるさ、必ずな」

不安に小さくなる声を聞き逃さなかった手塚は、しっかりと応えていた。

「…うん、そだね。俺、戻れるよね」

「ああ、絶対に戻れるさ」

こうしてリョーマと手塚の、奇妙な同居生活が始まったのだった。



――― 金曜日の朝。

「…やはり夢では無かったな」

目が覚めると、まずはここで時計を見て時間を確認するが、今日は違った。
今朝は時計の前に自分の枕の横を見る。
枕の横にはハンドタオルが置いてあり、昨日の出来事が夢でない事を再確認していた。

「良く眠っているな…」

これは自分がリョーマの為に作った即席の小さな布団。
その中でリョーマは気持ち良さそうに眠っている。
場所なんでどこでもいいのか、教室でも部室でも屋上でも、リョーマはどこでも熟睡してしまう。
もちろん、他人のベッドでも熟睡してしまう。
伏せられた睫毛は男にしては長く、薄く開いた唇は無意識に誘っているようにも思える。
天使のような寝顔の愛らしさに、暫しの間、堪能させてもらう事にした。

「…おはよ…」

リョーマが目覚めたのは手塚が全ての支度を終えて、朝食を済ませた後だった。

「ああ、おはよう。良く眠れたか?」

「国光のお陰で熟睡だったよ」

ハンドタオルをどかしてから、うーん、と大きく腕を伸ばして、縮こまった筋肉を動かす。
低血圧で朝が弱いリョーマも、昨夜は手塚に合わせて早く眠ったので、今朝はすっきりと目が覚めた。

「それは良かった。顔を洗うか?」

「ん、トイレも行きたい」

「連れて行こう」

手塚は常に二階にある洗面台とトイレを使っているので、家族に怪しまれる心配は無いが、廊下に誰もいない事をしっかり確認した上、リョーマを学ランのポケットの中に忍ばせて洗面台に向かった。

「朝食は弁当からでいいか?」

さすがに朝は昨夜使った手段は取れない。
その代わりに、彩菜が家族の為に毎朝必ず用意してくれる弁当の一部を、リョーマの朝と昼の食事に充てる事にした。

「国光のお昼のでしょ?」

手塚に支えてもらいながら顔を洗う。

「ああ、朝と昼が同じものになってしまうが…」

「俺はいいけど、国光の分が減るよ」

差し出されたタオルで顔を拭く。

「少しくらい構わないさ。足りなければ購買部で買えばいいだけだ」

リョーマは手塚の昼食の量が減ってしまうのを心配するが、小さくなったリョーマが一食で食べる量なんてたかが知れている。
どれだけ食べても手塚の一口分にすら届かない。
ご飯粒なら五粒程度で済むし、おかずも少量で済むので、食事についてはそれほど問題無い。

問題があるのは…。

「…学校かぁ、俺、何してよっかな」

学校に行くといっても授業には出ない。
手塚の生活時間に合わせる為だけにリョーマは学校に行く。

「部室でじっとしていろ」

「えー、部室の中で?部室って何も無いからつまんない」

「部室以外のどこにいるつもりだったんだ?」

不機嫌を丸出しにしている声に手塚はそう訊ねた。

「国光のポケットの中」

「誰かに見付かったらどうする」

「昨日は大丈夫だった」

「学生服のポケットは暑いぞ」

学ランのポケットの内側には裏地が使用されていて、じっとしていたら高温多湿になってしまう。
それにポケットは移動手段としては最適でも、中に入ると不自然な膨らみを作り出す。
昨日は大き目のシャツだったから何とかバレずに済んだが、目敏い菊丸辺りなら「何を入れているんだ?」と、触りに来る可能性がある。

「じゃ、バッグの中は?」

「ロッカー行きだぞ」

即行で答える。
ラケットを入れているバッグは、邪魔になるので教室内に持ち込まない。

「…えと、机の中とか?」

「机の中に居場所は無いぞ」

その日の授業で使用する教科書やノートなどを入れるので、スペースは残っていない。

「…う〜…」

「そんな顔をするな。部室ならテニス部員以外は入らないから、授業中は安心だぞ」

上目遣いで恨めしそうに見られても、学校内でリョーマを連れて歩く訳にはいかない。

「…それはそうだけど、授業が終わるまで部室にいるの?」

リョーマだって手塚を困らせるつもりはこれっぽっちも無いのだが、今のリョーマは手塚がいないと何も出来ない。
もし、扉付きのロッカー内にでも入れられたら、真っ暗な中で何時間もいるのは正直言って嫌だ。
着替えを入れるロッカーでも、高い位置に入れられたら、そこからの移動は全く出来ない。
部室内は比較的安全な場所であるが、長時間一人きりになってしまうという欠点が有る。

「休み時間は様子を見に来る」

「…でも、一日に何回も来れないでしょ?」

「午前中に一度と昼休みは必ず行く。これでは駄目か?」

「…やっぱりそれくらいだよね。仕方ないか、迷惑掛けちゃいけないし…」

じっ、と縋るように手塚の顔を見ていたが、それ以上の妥協案を出さない事はとても良くわかっていたので、しぶしぶながらも了解した。

「済まないな…」

リョーマの気持ちは痛いほどわかる。
本当は一秒も離れてなんかいられないが、しかし授業が終わる度に部室に行っていれば、何かがあるのではないかと反対に疑われてしまう。
もし手塚の行動に不審を抱いた他の部員によって部室内を家捜しされたら、それこそ一大事になる。
普段通りの行動を取らないと、一癖も二癖もある仲間達は直ぐに手塚に食いつくだろう。
四方八方からの質問攻めに耐える精神力は備わっているが、不二や乾の誘導尋問に引っ掛かったらお終いだ。
彼らの口の上手さは並大抵のものでは無い。

「ま、何とかなるんじゃない。それより俺、すっごく腹ペコなんだけどさ。朝ご飯にしてもいい?」

迷惑を掛けてはいけない、と固く決めていたのに、早速困らせているのに気付いたリョーマは話題を逸らした。

「ああ、すぐに弁当を出そう」

両手でリョーマの身体を掴むと、繊細かつ高級な壊れ物でも扱うかのように、慎重に胸に抱きながら部屋に戻った。


学校近くの道路は朝練に参加する生徒が歩いているので、会話はしない。
手塚は後輩達よりも早く到着するが、部室の鍵は大石の手によって既に開けられている。

「おはよう、手塚。今日も早いな」

「ああ、おはよう」

爽やかな笑顔付きの挨拶に手塚も応える。
まずは新たに購入した扉付きのロッカーに荷物を入れる。
これはレギュラーのみが使用する荷物を入れるロッカー。
丁度、着替え用の木製のロッカーの後ろに置いてあるので、入口からは死角となる。
ここなら誰かが来るまでの間、リョーマを外に出せる。

「越前の容態はどうだったんだ?昨日は見舞いに行って来たんだろう?」

「いや、俺達が越前の自宅に到着した時は、病院に連れて行ってもらっていたので会えなかった」

ポケットから出してもらったリョーマは、手塚のバックの横に立つ。
大石には届かないくらいの小声でリョーマには「声を出すなよ」と言うと、真面目な顔でこくり、と頷いた。

「そうなのか、それじゃまだ休みそうなのか?」

「ああ、今日が金曜日で良かったな」

手塚はそこでラケットと洗濯済みのユニフォームとジャージを取り出し、大石の話しに付き合いながらジャージの中にリョーマを潜り込ませる。

「この土日でしっかり治せばいいからかな?」

手塚に挨拶をした後は、窓際のベンチに腰掛けて古くなったボールをカゴから選り分けていた大石が、顔を上げて手塚の意見を聞く体勢に入った。

「治り掛けで参加しても、レギュラーの練習にはついてこれないだろう」

「そりゃそうだ」

着替えを始めた手塚の後姿を少しの間だけ見てから、大石は再びボールに視線を移した。
大石の視線が自分から逸れたのを察した手塚は、普段通りに学生服を脱いで皺にならないようにたたんでからロッカーに入れ、シャツもズボンも同じようにしてから入れた。
ユニフォームとジャージを取り出す前に、リョーマを学生服の間に移動させて、着替えを済ませる。

「随分と痛んだボールが増えたな」

「一生懸命に練習しているからな…ああ、これも駄目だ」

練習メニューも日々厳しくなっていて、ただ単純にラケットでボールを打つだけでは無くなっていた。
毎日の練習では、乾の緻密なデータから作られたメニューを行い、他の部員達には基礎体力やメンタル面、技術面などをアップさせる新しいメニューを行わせている。
ついでに、乾特製の恐怖の野菜汁も、作る度に無意味なほどパワーアップしている。

「不真面目な奴はテニス部には必要無い」

「ははは、相変わらず厳しいな」

容赦の無い言葉に乾いた笑いをした。

「どの部活動でも同じだろう?遊び半分で参加しているのなら辞めてもらって結構だ」

「まあ、そうだな。俺達は遊びじゃないからな」

そんな他愛の無い会話をしていると、他の部員達も入って来て、日常の朝の騒がしさが部室内に訪れた。

「今日は皆に話がある」

練習の前にスミレから集合が掛かるのはいつもだが、今朝は険しい表情をしているので、部員達はざわついていた。

「話ってナンだろ?」

「部長と副部長もこっち側にいるなんて珍しいよな」

「先生いつもより顔怖いし、何か悪い話かな」

あちらこちらから飛び交う発言に、手塚は眉をしかめた。
手塚と大石はスミレの横に立っているのが常だが、今日は二人ともスミレの前に立たされていた。

「静かにしないか」

ジロリ、と睨みを利かせて注意すると、部員達は一気に静かになる。
コート内は静かになるまで待ってから、ゴホン、と咳払いを一つだけして、スミレは口を開いた。

「あ〜、リョーマの事だが…」

「風邪で休んでいるでしょ」

「ああ、今日はな…」

はいはーい、と手を上げた菊丸がリョーマの話をすると、スミレは更に険しい顔になる。

「今日はって何?なぁなぁ、何か知ってる?」

「俺もわからないよ。手塚は知っているか?」

菊丸がコソコソと訊いてくるので、何も知らない大石は困ったように手塚に訊ねる。

「悪いが俺にもわからない。先生からは何も聞かされていないからな」

「ふーん、手塚にもナイショの話だったんだ。手塚が知らないんじゃ、誰も知らないよな〜」

「いいから、黙って聞いていろ」

何も知らない振りをするのも疲れる。
今から話す内容はきっと昨日の話だろう。

「リョーマは月曜日から暫く休む事になった」

手塚の想像とおり、スミレの内容はリョーマの話だった。

「休む?」

「ええっ、どういう事?風邪が酷くなったんですか?」

「入院でもしたんですか?」

スミレの発言でざわざわとするコート内。

てっきり今日も風邪で休む事を伝えるだけだと思いきや、もっと重大な内容で、リョーマと仲の良い一年生トリオはもちろんの事、全員が驚きの声を出していた。

「言っとくが休む理由は病気じゃないからな。家族の都合で一週間くらいアメリカに戻るそうだ」

リョーマの風邪が酷くなって入院してしまったのか、と勘違いしている部員達にもう少し詳しい説明をした。

「手塚、お前知っていたのか」

今日は風邪で休みなのに、月曜日からは海外。
こんな突然な話、にわかに信じられない。

「…ああ、それとなくな。だが詳しくは知らなかった」

「おチビが海外に行っちゃうんだぞ。日本じゃなくてアメリカなんだぞ!」

冷静に話を聞いている手塚に菊丸は噛み付く。
毎朝ドライヤーでセットしている髪が更にクルクルと丸まってしまいそうなほど頭に血が上っているのか、驚きや怒りとか様々な感情で顔が赤くなっていた。

「何でそんなに落ち着いているんだよ。手塚の冷血漢」

恋人が遠くに行ってしまうのに、こんなに普通にしているのが気に入らないらしい。

「……落ち着いてなど、いない…」

辛そうに言えば菊丸は手塚の心情を組んだのか口を閉ざし、その後小さな声で「ゴメン」と謝ってきた。

「でもさ、越前ってアメリカ生まれなんだろ?急に日本に来たから向こうのスクールで何かあんのかな?」

「もしかして、お別れパーティーでもやっちゃうとか?」

越前家の真実の事情を知っているのは手塚のみで、他の部員達はかじっている程度の事情だけ。
リョーマの両親は日本人でも、リョーマ本人はアメリカで生まれたから、向こうの友人は多いのかもしれない。

「アメリカと日本じゃ文化が違うもんな」

考えれば考えるほど、色々な憶測だけが広がっていく。

「ほら、静かにしないか。リョーマが青学からいなくなる訳じゃないから安心しな。休むのは暫くの間だ」

広がり過ぎて収集が付かなくなる前に、言い出したスミレ本人から全員にきっぱりと断言した。


少し遅くなってしまったが練習は滞りなく始まった。
今日の朝練メニューはサーブとボレーの練習。
それぞれペアを組んで始めるが、コートに入れる人数は決まっているので自ずと順番待ちとなる。

「越前も大変っすよね。風邪ひいてんのにアメリカなんて」

「おチビの身体が心配だにゃ…」

「そうか、だからお母さんが病院に連れて行ったのかもしれないね」

「あ〜、な〜るほど」

実は病院に行くほどの容態では無かったのかもしれない。
母親がリョーマをアメリカに連れて行っても良いのかを、医師に確認しただけかもしれない。

「でも、本当は…」

「どうなのかにゃ〜?」

自分の番が来るまで待っていた桃城、菊丸、不二の三人組が一斉に手塚を見る。
三人の視線を訝しげに受け止めた手塚は、この三人に付き合おうか逃げようか一瞬戸惑ったが、ここで逃げたら執拗に追い掛けてきそうなので、向きを変えようとした足をその場に踏み留めた。

「俺は少し前に越前から『少しの間だけアメリカに行くかもしれない』と言われていただけだ」

嘘を本当のように説明するのも大変だ。
上手く話を合わせないとボロが出てしまう。

「え〜、何で止めないの?おチビがいないと寂しいじゃん」

菊丸がぶーぶーと文句を口にするその横で、不二と桃城がうんうんと頷く。
“手塚ならリョーマを止められる。”
それを実行してくれなかった事に不満があったようだ。

「付き合っているからといって越前の家庭の事情にまで首を突っ込む訳にはいかないだろうが…」

はぁ、と溜息混じりに言えば、菊丸は「うっ」と喉を詰らせた。

「それもそうだね」

「越前のお袋さんの関係でもあるんすよね?」

「あ〜、不二も桃も何で簡単に納得しちゃうんだよ」

何だか一人だけで拘っているみたいになり、菊丸は慌てて不二と桃城を見やった。

「自然の流れってヤツだよ。ねぇ、桃?」

「そうっすね、不二先輩。きっと越前もアメリカ行きは仕方なくっすよ」

まるで王子様のように綺麗に笑う不二は、菊丸を奈落の底に落とし、ニヤニヤと笑った桃城は当たり前のように不二の味方をした。

「…ちぇ、わかったよ。おチビが帰って来たら、いっぱい遊んでやる」

「テニスじゃないの?」

「ゲームだよん。あ、俺の番だ」

にゃはは、と笑った菊丸は、練習のペアである大石に呼ばれてコートに入って行った。

「越前がいなくて君は寂しい?」

桃城もコートに入り、残った不二は手塚に「コレだけは聞きたかったんだ」との後で、こう言って来た。

「言わなくてもわかるだろう」

寂しいとか哀しいとかなんて、この際言う必要は無い。
手塚がリョーマをどれだけ大切にしているのかを、不二が知らないなんて事は無い。
部活中は恋人らしい振る舞いを一切しないが、学校から離れれば話は別。
手塚とリョーマが二人きりで歩いている光景を拝見したのはこれまでにたった一度きりだが、男同士なのにとても自然な形に見えた。

「まあね。でも、本当にイキナリなんだね。越前らしいっていうのか」

「越前には驚かされてばかりだ」

「ふふ、本当にね」

どうやら先生も部員達も上手く騙せたようで、これで一週間は大丈夫だと、手塚はほくそえんだ。

「へ〜みんな信じちゃったんだ。母さんってばオバサンも騙すなんて凄いや」

コートでのスミレの話を知らないリョーマに、手塚は全て教えた。

「アメリカに行くのは事実だからな、そこにお前の話を添付しただけだろう」

今は昼休みの時間。
手塚は生徒会の仕事をする為に良く生徒会室に行っている。
他の生徒会メンバーは休み時間までやって来る事は無いので、一番長い昼休みだけは一人でゆっくり出来る時間になる。
なので、手塚はここで食事を摂る事にした。

「もう玉子焼きはいらないか?」

「もうちょっとだけ欲しい」

「ほら…」

箸で細かくしてから爪楊枝に刺してリョーマに差し出す。

「ありがと、爪楊枝でも大きいね」

「そうだな…」

こっそりと台所から失敬しておいた爪楊枝は、リョーマに手掴みで食べさせない為の物。

「鮭はどうする?」

「食べる」

もぐもぐと美味しそうに食べているリョーマに、手塚は自分の食事を忘れそうになる。
今日の弁当の中身は、紅鮭の切り身、玉子焼き、きんぴらゴボウ、南瓜の煮物など。
牛乳以外は苦手な食材は無いリョーマは、差し出された物を全て食べていく。

「午後は何をするんだ」

「何って寝てるくらいだよ。ゲーム出来ないし」

暇潰しの携帯ゲームもリョーマにはアーケードサイズ。
ボタンを押すのも両手を使わないと無理。

「午前中も寝ていたのに昼からも寝るのか?」

手塚がリョーマの様子を窺いに部室に入れば、ロッカーに入れておいたジャージの中で眠っていた。

「だって何もする事無いし」

冷えたミネラルウォーターをキャップに入れてもらい、ちびちび飲む。

「何か本でも読むか?」

「疲れるだけだよ、そんなの」

本や雑誌なんて捲るだけで一仕事なのに、更に文字を読むのが大変な作業になる。

「…ふむ、何もしないで長時間は辛いな…」

「ずっと寝てるからいいよ」

寝るのは大好きだ。
一日中でも眠っていられる。

「それは駄目だ。何か案を考えよう」

「案って、俺のサイズで出来る事なんてあるの」

子供用の玩具でも大き過ぎる。
だからといって、女の子が遊ぶ人形用に付いてくる物はただのディスプレイ的な物で、使用するには厳しい。

「ストレッチや走り込みとかならどこでも出来るぞ」

「じっとしてないで、身体を動かせって事?ま、それも一つの案だよね。あ〜あテニスが出来れば一番なんだけどな」

ダラダラ寝ているだけなら、身体を動かした方がいいのは、リョーマも賛成。
サイズの合うラケットとボールさえあえば、何時間でも壁打ちしていられるが、そんなサイズは特注だ。

「テニスか、何とかするか…」

ぶつぶつと言いながら、すっかり空になった弁当箱を片付け始める。

「…国光」

「どうした?」

甘えたような声を出すリョーマを手塚は優しく見つめる。

「ちょっとスキンシップしない?」

「ああ、いいな」

リョーマの案に乗った手塚は、手の平を机の上に乗せる。
ぴょんとリョーマが乗ると、そのまま自分の顔に近付けた。
小さな手の感触を右頬に感じた直後、唇に何かが触れた。

「リョーマ?」

「今のわかった?」

イタズラが成功したような顔をする。

「…キスか?」

「へへ、そうだよ」

エヘ、と照れ臭そうに笑いながら、頬にピッタリと顔をくっ付けてくる。
大きくても小さくても、リョーマの持つ愛らしさは何一つ変わっていない。
変わったのは、この手で思いっきり触れられなくなった事だけで、もっと濃厚なスキンシップをしたくても、今は叶わない願い。

「早く元の大きさに戻りたい…もっと国光に触れたいよ」

「俺もだ…」

それ以上の言葉は発せず、二人は予鈴の数分前まで生徒会室で逢瀬を楽しむと、手塚はリョーマをポケットに忍ばせて、何事も無かったかのように部屋から出た。
そのまま部室まで歩いて行く。
昼休みにコートを使う部員はいるが、もう教室に戻っていたので、手塚は安心してリョーマを出した。

「また後でな」

今度はロッカーの一番下に置いて自由を与える。

「…次はもう部活だよね」

たとえ誰かが来たとしても、一番下のロッカーは備品入れとなっているので、簡単には見付からない。

「出来るだけ早く来るからな」

ちょいちょい、とリョーマの頭を撫でてから、手塚は教室に戻って行った。

夕方の部活も何事も無く過ぎ、後は帰るだけになった。

「お先に〜」

「手塚、また月曜日な」

手塚は部長として最後まで残り、全員が帰るまでの間に部誌を書いて、帰る直前にスミレに届けるのが日課だ。

「休みだからといって遊び呆けるなよ」

「わかってるよ」

この土日は珍しく部活が休みとなった。
どうやら学校側の事情らしく、全部活動が休みなのだ。

「俺も今日は帰らせてもらうな」

「いつも済まないな」

部活後は練習についてスミレとの打ち合わせが多く、副部長の大石も残っているが、今日は打ち合わせも無いので先に帰ることにした。

「それじゃあ、月曜日にな」

軽く手を上げて返すと、大石は部室から出て行った。
一人きりになると、手塚はとっくに書き終えている部誌を閉じた。
椅子から立ち上がり、窓の施錠とドア付近に人がいないかを確かめてから、ロッカーに近寄った。

「もういいぞ」

「…いつもこんなに遅いんだ」

手塚が呼び掛ければ、リョーマはひょっこりと姿を現した。
薄っすらと汗を掻いているように見えたのは、リョーマが昼からの時間を運動に使っていたからだ。
寝ているのもつまらなくなったのか、昼休みに話してしたように部室内を走ってみたり、何か変わった物が無いかを探してみたりして、なかなか楽しい時間を過ごしていた。

「今日は早い方だぞ」

「うへ〜、これが?本当に大変だね」

リョーマは一年生なので、コート整備やボール集めなどの後片付けを済ませてから着替える。

桃城や菊丸が毎日のようにリョーマを待っていてくれて、リョーマの着替えが終わると一緒に買い食いに行っていた。
だからこの時間に手塚が何をしているのかなんて全く知らなかった。
恋人として付き合っているが、会うのは専ら土日で、平日は滅多に会わなかった。

「これも部長としての職務だしな」

立ち上がったついでに手塚は着替えを始めた。

「国光って本当に大変なんだね」

無駄の無い背中をリョーマはじっと見つめる。
シミも傷も無い綺麗な背中。
見惚れながらも、何かを記憶から引き出し始めていた。

『国光っ…』

この背中に傷を残さないよう、絶対に爪を立てないようにしがみ付き、身体の奥に感じる熱を耐えている。
激しい動きに耐える為には、シーツを握り締めるか、目の前の手塚にしがみ付くしか無い。
しかしシーツを握っていると、手塚はその手を自分の背中にまわすまで、動きを止めてしまう。

『リョーマ、シーツなんか握らないで、俺にしがみ付けばいいだろう』

咎めるかのような言い方に、閉じていた瞼を開く。
リョーマがシーツから手を放せないでいると、手塚はリョーマの手の上に自分の手を重ねた。
やんわりとシーツを掴んでいる手を開かせて、自分の背中にまわす。

『俺を感じてくれ…』

密着した身体はお互いの汗と体液に塗れる「…やばっ…」

急速に熱が一部分に集まり始め、リョーマは焦って手塚から視線をずらした。

「どうした、リョーマ?」

「ううん、何でもない」

手塚の背中に欲情してしまったなんて言えなくて、リョーマは手塚が見えない位置に移動を始め、兆しを見せている自身を服の上から恨めしそうに眺めてリョーマは溜息を吐いた。

「…リョーマ」

「うわ、ビックリした」

気持ちを落ち着かせる為に、全く違う事を考えていたところで話し掛けられて、リョーマはビクリと肩を揺らした。

「何を考えていたんだ?」

「今日の夕飯は何かなって」

誤魔化すように言えば、手塚はリョーマの身体を掴みベンチの上に置いた。

「な、何?どうかした」

ベンチに足を付いたのは一瞬の事で、リョーマの身体はベンチと並行していた。

「俺がしてやろうか?」

「え…?」

ギクリ、と顔が強張った。

「…ここ、勃っているな」

ペラペラの布地を使った服なので、隆起した部分は直ぐにわかってしまう。
人差し指の腹でその部分をなぞる。

「やっ、国光」

「大丈夫だ。気持ちよくさせてやるだけだからな」

「でも、でも…」

「心配するな」

慌てふためくリョーマの服を素早く脱がし、米粒程度の大きさになっている性器を弄ってやる。
下手したら潰してしまいそうなので、慎重に手塚は指を動かす。

「…あっ、ああっ…やぁ…」

乱れていく様はあまりにも艶めいていて言葉に出来ない。
リョーマのこんな姿を見るのは自分一人だけでいい。

そんな傲慢な考えすら平気で思う。

「…ああっ、んっ…ダメッ…も…」

手塚の微妙な指の動きに反応し、ビクビクと身体を振るわせたリョーマは呆気なく達してしまった。

「…あ…ん…」

吐き出された体液も身体に見合った量しかなく、手塚は指に付いたリョーマの体液をペロリと舐め取った。
量も少なく色も薄いが、確かにリョーマの味がした。

「…国光…」

虚ろな視線は快感の為。

「可愛いな、お前は」

「…バカ…」

小さくなっても反応は同じだった。
達した余韻でぐったりしているリョーマに服を着せてポケットに入れると、手塚は荷物を抱えて鍵を締めると部誌を届けに行った。

「…どうしよ」

まさか部室であんな事をするとは思っていなかったリョーマは、ポケットの中で顔を真っ赤にしていた。

「やっぱり早く戻らないと…」

気持ち良い事は二人じゃないと嫌だ。
手塚の熱を感じながら絶頂を迎える瞬間は、身体だけで無く心の中まで満たされる。
早くその瞬間を味わいたい。

「でも、どうしたら戻れるのかなぁ」

何度も同じ事を考えては、答えが見付からずに肩を落としていた。


「ご馳走様でした」

今夜は夕食を家族と食べた手塚は、後片付けを手伝いながら残り物をこっそりラップに包む。
父親と祖父は食事が済むと場所を移動するので、この行動には気が付かない。

「もういいわよ、国光。手伝ってくれてありがとう」

食器を洗い終えて布巾で拭いていた彩菜は、最後まで手伝ってくれそうな息子に礼を言っていた。

「はい、では部屋に戻らせてもらいます」

すっかり片付いているテーブルを見た彩菜は、ついでに壁に掛かっている時計を見る。

「今日は国光のおかげで早く片付いたわね」

最後の一枚を拭き終えて、食器棚に戻して行く。
いつもは一人で後片付けをしているので、こんなには早く終わらない。
普段よりも早く片付けられて、ゆっくりテレビを見られる時間が増えて喜んでいた。

「明日からも手伝います」

「いいのよ、あなたは学校で忙しいんでしょ」

「いえ、それほどでも」

「朝は練習で早いし、帰りは打ち合わせで遅いわよね。中学生にしては忙しい方でしょう」

そう言われ、母親に心の中だけで謝罪した。

「リョーマ、食事を持って来たぞ」

部屋に入るとまずはドアには鍵を掛けて、家族が突然入って来ないようにしておく。
家族とはいえ個人のプライバシーは大切にしているので、勝手にドアを開けて入って来たりはしないが、万が一を考えて鍵だけは掛けるようにした。

「あ、ありがと…」

ベッドの上でぼんやりとしていたリョーマは、ぎこちない笑みを浮かべていた。

「何かあったのか?」

「え、あ、その…」

「部室の事か?」

ベッドの下に座り、オロオロと視線を彷徨わせているリョーマを引き寄せる。

「まあ…そうだけど」

頬を赤く染める辺り、図星だった。

「嫌だったのか?」

「ううん、ちょっと恥ずかしくて…」

余す事無く全身を眺められて、達した瞬間までの一部始終を見られていたのが恥ずかしかったのだ。

「済まなかった」

ふるふると首を横に振り、リョーマは手塚を真っ直ぐ見る。

「初めてじゃないのに、何でこんなに恥ずかしいって思うんだろ」

これまでにも経験があるのに、どうして今日に限ってこんなに羞恥心が前面に出てくるのかがわからない。
ずっと見られていたからなのか?
自分だけが脱がされていたからか?

「…う〜ン…」

どれもこれも当てはまる。

「もう悩むのは止めて、先に食事にしろ」

「じゃあ、食べる」

小さくなってしまったのと同じで、答えが出てこない疑問を手塚は止めていた。

「今日は何?」

ワクワクしているリョーマの前に、ラップに包んでおいた今日の夕飯を出した。

「今日は山菜の炊き込みご飯だ」

ラップを開くと、また少し湯気が立っていた。
出汁と山菜の良い匂いが鼻孔をくすぐる。

「頂きまーす」

二本の爪楊枝の先端を手塚に折ってもらい、箸のように使ってお米を掴むと口に入れる。

「……美味しい。やっぱり彩菜さんのご飯は好きだな」

彩菜が作る料理はどれもこれもリョーマの好みな味付けで、リョーマは次々に口の中に入れていく。
勉強を見てもらう口実で時々来ていたが、本来の目的は二人きりになる為で、泊まりになる事が多かった。
彩菜は息子よりも子供らしいリョーマを気に入っていて、泊まりはいつでも大歓迎だった。
食事の時は何でも美味しいと言ってくれるし、気に入った物はお代わりもしてくれるので、作り手としては大満足。
むしろ、泊まりじゃないと聞くと、リョーマに直々に「泊まっていってね」とお願いしてしまうくらい。
無論、祖父も父も歓迎していた。

「ゆっくり食べろよ」

「はーい」

リョーマが食事をしている間に手塚は課題を済ませる。

そんな日々を過ごしながら、リョーマが小さくなって一週間が過ぎようとしていた。


――― 木曜日の夜。

「また木曜日が過ぎちゃう…」

元に戻る気配が無い身体。
小さい身体にも慣れてきて、今では手塚の持っているペンを使って文字が書けてしまうほどにまで。
順応力はテニス部に入部した頃から変わっていない。

「どこも変わりは無いのか」

「うん…何にも」

風呂上りの身体を確かめても、小さくなった木曜日の朝と何も変わっていない。
一週間も過ぎるのだから、どこかに変化があってもいいくらいのに、全く身体に変化は訪れない。

「どうしよ、本当に一生このままなのかな」

小さな身体を丸めてベッドに端っこに座る。

「リョーマ」

寝る為に電気を消した手塚は、月明かりを頼りに端にいるリョーマをハンドタオルでは無く、ベッドの中に招いた。

「このままだったら…俺、家に戻ろうかな」

小さいままで歳を重ねていくのなら、早くここから出て行かないといけない。
一人でも生活が出来るように様々な工夫をしないと、これから先が困る。

「まだ南次郎さんも戻っていないのだろう?一人でどうするつもりなんだ」

「だからって、いつまでも国光の世話になってるのは…」

もう一週間もここにいる。
もしかしたら一ヶ月にも一年にもなるかもしれない。
流石にそんなに長い期間、手塚の世話になれない。

「俺はお前と一緒にいたいだけだ。お前が俺の世話になりたくないのなら、戻ればいい」

「そんなっ、俺は…」

手塚はリョーマが『ノー』と言わせないように、少しキツイ言い方をした。

「俺の世話になるのは嫌か?」

他の誰かの世話になるくらいなら、自分がリョーマの世話をしたい。
それだけはわかって欲しい。

「だって国光だけが大変だし…」

手塚の気持ちはわかるが、家の中でも学校でも動くのは手塚だけだ。
気苦労ばかり掛けていて、申し訳なくなる。

「大変なのは確かだが、毎朝お前の寝顔を見られる事を思えばそれほど苦には感じないぞ」

ここで抱き締めてやれば少しは安心するだろうが、今のリョーマを思いのまま抱き締めると潰してしまいそうだ。

「国光…」

もぞもぞとベッドの中を動き、リョーマは手塚の胸の辺りに移動した。

「リョーマ」

片手をリョーマの身体に当てれば、生きている温もりが手にじんわりと伝わってきた。

「この身体じゃ国光を満足させてあげられないし」

「そんな事を考えていたのか?」

「だって国光と一緒にいられるのに、何も出来ないなんて勿体無いんだもん」

こんなに近くにいてもキスすら満足に出来ない状態に、我慢出来なくなってきている。

手塚がそういう意味で触れてきたのは、一度きり。
それっきり何もアクションは起こさない。
当たり前といえば当たり前だが、手塚とそういう関係になってからは、同じベッドに入れば極自然に身体を重ねていたのに、この『ただ寝ているだけ』の状態に身体の方も痺れを切らしている。
疼く身体を抑える日はいつまで続くのだろう。

「…リョーマ」

ぎゅう、とパジャマにしがみ付いているリョーマは、今にも泣きそうな顔で手塚を見上げた。

「国光…俺…」

「大丈夫だ。絶対に元に戻る」

小さな雫がリョーマの頬を伝ったのを見て、ツキン、と胸に痛みが走り、慰めるように全身を撫でてやる。

暫くそうしていると、リョーマは手塚のパジャマを握ったままで眠っていた。

「眠ってしまったのか…」

寝る少し前に南次郎から携帯に電話があった。
リョーマの話と、自分と倫子は土曜日に家に戻るという話をして電源を切ったが、この話はリョーマにはしていない。
話せば絶対に「家に戻る」と言うだろう。
戻したくない。
出来るならここに閉じ込めてしまいたい。
汚い感情がぐるぐると身体を巡る。

「…誰にも渡したくない。たとえご両親でも…」

片手だけで掴んでしまえる小さな恋人を、自分の力だけで守り抜いてやりたい。
たとえ、何かを犠牲にしても。


――― 金曜日の朝。


「…ん、何の音…」

いつもと何か異なる音が止む事無く耳に届き、リョーマは目を覚ました。

「あれ、昨日って…」

確か昨夜は手塚のパジャマにしがみ付いて眠ってしまったはずなのに、目覚めると布団代わりのタオルの中。
きっと寝返りの際に誤ってリョーマを潰さないように、手塚が戻してくれたのだろう。

「国光ってば」

さり気無い優しさに胸の中が温かくなった。

「おはよう、リョーマ」

数分後、弁当箱を持った手塚が戻って来た。

「おはよ…ね、雨が降ってるの?」

「ああ、今日の朝練は中止だな」

サァーッ、と雨の音が窓越しに聞こえる。
雨の日は朝の練習が無いので、学校に行く時間もおのずと遅くなる。
朝食を済ませ、学校に行く用意も終っているが、練習が無いので部屋の中にいた。

「雨降りって久しぶりだね」

「どうやら週末まで続くそうだ」

最近は晴天ばかりが続いていたので、雨天は本当に久しぶりだった。

「先週は良い天気だったよね」

「ああ、だが夜中に雨が降った日があったな。たしかお前が小さくなった日の夜だ」

「へ〜、知らなかった。あの日って雨が降ったんだ」

リョーマが小さくなった朝。
二人にとって先週の今日は驚愕の朝だった。
あの日からリョーマは手塚の世話になり、こうして毎日を過ごしている。
手塚はリョーマに為に室内は常に掃除を欠かさず、障害になりそうな物は全て削除した。
学校に連れて行くが、やはり教室には連れて行けないので、リョーマは部室に置いていく。
だから部室内も普段以上に片付けには注意していた。
小さな虫にもリョーマには脅威となるのだ。

「今日は濡れないようにしないといけないな」

窓から外を見れば、雨足は更に強くなっていた。
灰色の空はどこまでも続いている。
今日はもっと気を付けて学校に行かないとならない。
もし病気になっても医者に見せられない。
薬だって与えられない。
細心の注意を払って学校に行かないとならないのだ。

「国光?」

「ああ、着替えは済んだか」

いつもとおりに洗顔とトイレに行かせ、弁当から朝食を食べさせる。
そしてポケットに入れて学校に行くのだ。

「そろそろアメリカから戻って来るのかにゃ〜?」

「もう金曜日だからね」

夕方の部活は体育館でのトレーニングとなった。
元々体育館を使用している他の部活動の邪魔にならないように、時間を決めて使わせてもらっている。
屋外の部活動は雨が降れば休みになるか、体育館で行うかの二択になるので、体育館を使う部活動は時間を決めて交代で使用している。
男子テニス部は走り込みと筋力トレーニング。

「…早く学校に来るといいなぁ」

「そうだね。そろそろ顔が見たいね」

後方で走っている不二と菊丸の会話を聞きながら、手塚は渋い顔をしていた。
リョーマの母が日本に戻るのは土曜日。
もしも誰かに戻った姿を見付かったら、家に押しかけるかもしれない。
もしリョーマがいない事を知ったら…。

「手塚、今日は終わりでいいのか?おい、手塚?」

「ああ、そうだな、残り時間も少ないからな」

大石に訊ねられて時計を見れば、筋トレの後での走り込みを終えたので残り時間は十分。
使った器具は無いが、汗で濡れている床をモップで拭き、男子テニス部の練習は終わった。

「お疲れさまでした」

「お先に失礼しまーす」

「お疲れ様。気を付けて帰れよ」

久しぶりに後片付けの無い下級生達は、普段よりも早い帰宅時間を喜びながら出て行く。

「明日の部活は無さそうだにゃ〜」

「まだ雨は続きそうっすよね」

今日は金曜日。
明日と明後日は雨ならば練習が無いと、スミレの方からお達しがあった。

「英二、今日は熱帯魚のエサを買いにペットショップに寄って行くけど、どうする?」

「マジ?行く行く〜。不二はどうする?」

動物好きの菊丸にとってペットショップは遊園地と同じくらいのテーマパーク。
大石行き付けのショップも行く時は必ず着いて行く。

「僕?今日は由美子姉さんに付き合わないといけないから、帰るよ」

好き勝手に会話を進めていく菊丸達は、これからの行き先が決まると部室から次々に出て行った。
結局は手塚だけが部室に残る。

「もう全員帰ったな…リョーマ?」

周囲を確かめてからいつも通りに名前を呼んでも、リョーマはロッカーの中から姿を現さない。
おかしいな、とロッカーの中を覗けば、リョーマは学生服の中で丸まっていた。

「…具合でも悪いのか?」

「ん〜、何か変な感じ…」

ちらり、と手塚の顔を見るが、すぐに逸らす。

「変な感じ?身体はどうだ」

「…なんだろ?すっごくドキドキしてる」

見た目は特に変わっていないが、もしかしたら発熱しているかもしれない。
リョーマをロッカーから出して、そっと抱き締めてみる。

「…それほど高くないか」

体温は普段とそう変わり無いように感じる。
病気ではなさそうだが、早く家に戻って休ませた方がいいかもしれないと、リョーマをベンチに置いて、少し急ぎながら着替えを始めた。

「…うっ…」

「リョーマ?」

急に呻き声を出したリョーマを見ると、ブルブルと震えているのが目に入った。

「リョーマ!」

尋常では無い様子に、慌ててベンチに駆け寄った。

…その時。

手塚はその一部始終を見ていた。
手の平サイズだったリョーマが、何かの映像を見ているかのようにその姿を変化させていく様を。

「…あ…俺……」

数秒後、ベンチの上にいたのは手乗りサイズではなく、元の大きさに戻ったリョーマだった。
着ていた服は大きくなる過程で簡単に破れてしまい、見事な裸体を晒している。

「…戻ってる。何で?」

急に元に戻った自分の身体を凝視する。
小さくなった時も原因がわからなかったが、大きくなった原因もやっぱりわからない。

「国光?俺…」

訳がわからず手塚を見ると、強く抱き締められた。

「…良かった、リョーマ…」

「国光…」

「やっと…両手で抱き締める事が出来た」

もしかして泣いているのかな、と手塚の顔を覗き込めば、至って普通の顔をしていた。
しかし抱き締める腕は、今までに無いくらいの強さだった。

「原因はわからずだが、元に戻って良かった」

手に感じるリョーマの肌は、きめ細かく、象牙のように美しく、張りもある。
これこそが手塚の知っているリョーマ。
強く抱き締めても壊れない身体を暫く堪能してから、手塚は少しだけ力を緩めた。

「うん…ね、俺どうやって家に戻ったらいい?」

元に戻った事に喜んでいるのはいいが、この姿のままじゃ外は歩けない。
こんなに急に戻るなんて二人とも考えていなかったので、着替えは手塚の部屋に置きっぱなし。
ここにあるのは、ジャージくらいだ。

「俺のを着るか?」

「それじゃ大きいよ…」

自分のジャージを着せようとしたが、サイズが全然合わないので、雨の中を歩くのはかえって危ない。
余った部分を折り曲げて、胴は上げられるだけ上げてみる。
考えれば考えるほど、動き難くなりそうだ。

「自分のジャージは家か?」

それならば、とリョーマに自分のジャージはどこに置いてあるのかを訊いてみる。

「…あ、ここにあるかも…」

水曜日の部活は意外と楽は方で、汗もそれほど掻かなかったので、あの日は持って帰らなかった。

「ちょっと待っていろ」

裸のリョーマを歩かせるのは目の毒だからと、手塚がロッカーに向かった。
リョーマの使用しているロッカーの扉を開けると、リョーマのレギュラージャージは上下ともハンガーに掛かっていた。
一先ず、着る物は見付かった。
上下ともハンガーから外し、リョーマに手渡す。

「ほら」

「ありがと。…あ、下を穿くのって初めてだ」

リョーマがレギュラーになってから、上下あるジャージは上しか使用していない。
下は穿き慣れた黒のパンツ。
下着も無しに穿くのはちょっと嫌だけど、そうも言っていられない。
着替えが済む頃には手塚も学生服に着替え終わっていた。

「ご両親は明日戻るそうだ」

昨日の電話の内容はここで教え、リョーマが戻った事は後で連絡する事にしておいた。

「明日か。じゃあ、もう家に戻ろうかな」

姿が元に戻れば自分で何でも出来るので、もう手塚の時間を奪わなくても済むのだ。

「今日は泊まっていけ。どうせ着替えは持って来ているのだから」

「でも…」

「食事はどうするつもりだ?」

「別にコンビニで何か買えばいいし」

家に戻れば財布があるので何でも買えるし、簡単なものなら自分で作ってもいい。
とにかく、これ以上の世話になるのは気が引ける。

「…一週間以上も我慢していたんだ。少しは俺にお前を感じさせてくれないか?」

手塚に世話になり続けていた事を気にしているリョーマは、何とかして家に戻ろうとしている。
しかし、手塚はそれを許さず、どうにかして今日も家に連れて行こうとしていた。

「国光…」

「俺はお前が不足している」

「………」

直接な物言いはしないが、言いたい事はわかる。
手塚も傍にいる恋人と何も出来なかった一週間は、さぞかし辛かったに違いない。

「じゃ、今日もお世話になります…」

リョーマは手塚の気持ちを理解すると、ペコ、と小さく頭を下げた。


止む事の無い雨の中、手塚が持っていた一つの傘の中をぴったりとくっ付いて歩く。

「ちょっと、接近し過ぎじゃないの?」

「濡れるぞ」

ちょっと距離を取ろうとしても、手塚はリョーマの肩を抱いて自分の方に引き寄せる。

「誰かに見られちゃうよ」

夕方とはいえ、この時間帯は夕飯の買い物をしている主婦や学校帰りの生徒が多い。
男同士の相合傘は、かなり滑稽に見えるだろう。

「別に構わん」

手塚は気にせず肩を抱いたまま歩くので、リョーマも諦めたのか、大人しく従った。
こんな強い雨の中で他人を気にして歩く人はあまりいない。
自分がどれだけ雨に濡れないようにするので精一杯。

「…ねぇ、今日…する?」

人通りが少なくなってから、リョーマはちょっと顔を赤らめながら言った。

「今夜は寝られないぞ。いいのか?」

初めからそのつもりだった手塚は、リョーマからの誘いに傘を持つ手に力をこめた。

「俺、言ったよね。戻ったらいっぱいエッチしようって。覚えてる?」

「ああ、覚えている」

リョーマが自分から言い出した事は絶対に忘れない。
しかもこれは手塚にとって悪い内容では無いのだから、絶対に忘れるわけが無い。

「だから…しよ?」

バシャバシャと、バケツに入った水をひっくり返したかのような雨は周囲の音を掻き消すほどなのに、恥ずかしそうに呟くリョーマの声は不思議なほど良く聞こえた。

手塚の自宅に到着した時、家には誰もおらず、この不自然な姿を見られずに済んだ。

「いらっしゃい、越前くん」

「お邪魔してます」

「今日は泊まらせたいのですが、よろしいでしょうか?」

リョーマに持って来ていた私服に着替えさせ、買い物から戻って来た彩菜に挨拶する為に、部屋から出てキッチンに顔を出した。

「もちろん、いいわよ。じゃあ、今日は越前くんの好きな物にしましょうね。お魚も安かったから、ちょっと多めに買っちゃったのよ」

ほら、と魚が入った袋を見せられて、リョーマは目をキラキラと輝かせる。

「魚料理は大好きっス」

「お魚は焼いた方が好き?それとも煮た方がいいかしら?どっちが好き?」

息子に訊ねても「お任せします」としか言わないので、彩菜はリョーマにしか訊かなかった。

「焼いた方が好きだけど…」

煮魚も好き。
リョーマは魚料理が好きなので、焼き魚でも煮魚でも干した魚でも何でも好き。

「じゃあ、せっかくだから両方にしましょうね。後は茶碗蒸しよね」

「茶碗蒸し、大好きっス」

「うふふ、おうどんを入れて作るわね」

今日は楽しい食卓になるわね、と彩菜はウキウキ気分で準備を始めた。

「さあ、たくさん食べてね」

出来上がった夕食はテーブル一杯に並んでいた。

「頂きまーす」

茶碗に盛られた白米を口いっぱい頬張る。
やっと普通に食事が出来る喜びは、胃袋も素直に反応する。

「…ご飯の味だ…」

ご飯もガスで炊いているからお米の一粒一粒が見事に立っていて、噛めば噛むほど甘味が広がる。
味噌汁は豆腐とワカメとネギのシンプルなものだが、一週間振りの味噌の味にリョーマは誰が見ても『美味しい物を食べている』顔をしていた。

「越前くん。これも食べてみて」

綺麗に骨だけになっていく魚を見ていた彩菜は、あれもこれもとリョーマに勧めていた。

「昆布巻っスね」

彩菜が差し出した皿には昆布巻が乗っていた。

「ええ、中にはにしんが入っているの。昨日から時間を掛けて煮詰めていたのよ」

「にしん?」

「魚の名前だ」

彩菜が答える前に横にいる手塚が答えた。
へ〜、と言いながら箸で掴むとパクリと口の中に入れる。
モグモグと口を動かして、にっこり笑う。

「味が中までしみてて、美味しい」

柔らかくなっている昆布は、強く噛まなくても口の中で蕩けていく。

「うふふ、やっぱり越前くんは可愛いわね」

次々に空になっていく皿に彩菜は感激していた。
いつもいつも中途半端に残す家族は、作った物を貶したりしないが、褒める事も少ないから、リョーマが来てくれると本当に嬉しくなる。

「彩菜さんって本当に料理が上手いっスね」

焼き魚も煮魚も食べ終えて、次は小鉢に入ったひじきの煮物をパクパク食べる。

「越前くんのお母様もお上手なんでしょ?」

「でも洋食の方が得意みたいっスよ。でも俺は和食の方が好きなんで…彩菜さんの方が上手いっス」

母親も従姉妹も料理は上手い方だと思うが、好きな物を作ってくれる彩菜の方がリョーマは上手いと言う。

「これも食べてね。越前くん」

料理を褒めてもらった彩菜は、上機嫌でイカと里芋の煮物をリョーマに前に置いた。

結局はご飯も味噌汁もお代わりして、目の前の皿を全て綺麗にしていた。

「お休みなさい」

「お休みなさい、国光、越前くん」

風呂も済ませ、リビングにいた両親に挨拶をして、手塚とリョーマは部屋に戻った。
無言で部屋に入ると、二人は静かに抱き合った。
お互いの温もりに満足してから身体を離すと、手塚の顔はリョーマの顔に近付いていく。
リョーマは恥ずかしそうに瞼を伏せたと同時に、手塚はリョーマの唇を塞いだ。
何度も何度も口付けをしていると、伏せられた瞼を飾っている睫毛がふるふると震え始める。

「…リョーマ」

「…国光…」

唇を離して手塚はリョーマの身体を抱えると、ベッドの上に優しく下ろした。

手塚はリョーマにパジャマ代わりのシャツと下着を脱がし、その後で自分の着ていた物も全て脱ぎ捨てる。

リョーマの身体に異常が無いのを確かめるように、手や唇で触れていく。

――― 全てを愛したかった。

快感を引き出す為だけの行為では無く、お互いの存在がここにあるという事を確認したかった。

「リョーマの身体だ…」

薄い胸に手を乗せれば、とくとくと心臓の動く音が伝わる。
するり、と滑らせて小さな突起に指を当てる。
指の腹でくりくりと刺激を与えれば、そこは徐々に硬くなってくる。
全てが現実の感覚。

「…うん……ああっ…」

リョーマは手塚から与えられる快感を受け入れて、シーツの上で淫らな姿を見せていた。

「…リョーマ」

「…あっ、ああっ…くにみっ…」

胸の刺激で頭を擡げたリョーマのものは口の中で育て、絶頂を迎えるまで一度も放さなかった。
口の中に広がる青臭い体液は、小さくなっていた時に一度だけしてしまった時と同じ味がした。
何も変わっていない事に安堵し、手塚は更にリョーマの奥に手を伸ばした。
繋がる為の後孔はいつも以上に時間を掛けて慣らし、手塚自身を収める時は瞳を閉じて少しだけ顔をしかめていたが、嫌がる様子は無く、太い部分を入れてしまえば、後はすんなりと入った。

「……あ…入った?」

広げられる際に感じる息苦しさが少し薄れ、リョーマは閉じていた瞼を開く。

「ああ、全部入った…」

ふう、と息を吐いた手塚は優しくリョーマを見つめる。
リョーマも潤んだ瞳で手塚を見つめる。
この瞬間をどれだけ待ち侘びたか…。
ぐいっ、と腰を動かすと、リョーマはビクンと跳ねた。

「動くぞ」

久しぶりの熱いリョーマの内部を堪能する為に、手塚は律動を始めた。

「…はぁ……ああ…」

ゆっくりと奥まで埋めると、同じ速度で引き出す。
その繰り返しを何度かしてから、少しスピードを速める。

「…く…熱い、な…」

「国光…のも…熱い、よ」

身体の奥に感じるのは、手塚の想いそのもの。
リョーマは手塚の背中に腕をまわして、密着度を高める。

「…んんっ…あ…あっ…」

手塚は自分を柔らかく包み込んでくれる内部を確かめるように抉り、収めたままで回すように腰を動かす。
ぐっぐっと奥を突けば、合わせるようにリョーマの甘い声が上がる。

「……いく、ぞ」

「あ、ああっ…やあぁぁ」

激しく揺さぶられたリョーマは達し、ぎゅうと締まった感覚に手塚もリョーマの中に激情を吐き出していた。

「まだ大丈夫か?」

「ん、でもちょっと休ませて…」

荒い息づかいを抑える。
まだ手塚はリョーマの中に収まっているが、達しても硬さは充分だった。

「何だかとっても気持ちいいんだけど」

「ああ、俺もすごくいい…」

手塚はリョーマと繋がっている部分に触れてみた。
小さな窄まりはこれ以上無いくらいに広がって手塚のものを含んでいる。

「…やぁ…何?」

なぞるように触られて、甘い吐息を零してしまう。

「わかるか、俺達は一つになっているのが」

「…わかるよ。俺の中でドクドクいってる」

にこり、と笑うリョーマの額に張り付いている髪を払い、少し汗ばんでいる額に口付けた。

今夜の二人は明け方近くまで身体を重ねていた。

「……何時だ…」

手塚が目覚めると外はまだ雨で薄暗く、時計を見れば、八時をちょっと過ぎたところだった。
祖父は既に起きて道場の稽古に行っているが、両親は休みの時くらいはのんびりとしているので、もしかしたらまだ寝ているかもしれない。
少し開いているカーテン越しの空は昨日と変わらずどんよりとしていて、雨はまだ降り続いている。
この雨で部活は休みだし、せっかくリョーマがこの腕の中にいるのだから、もう少し惰眠を貪ろうとするが、今日は自宅へ帰さないとならない事に気付く。
両親は何時に戻るのかはわからないが、また連絡が入るかもしれない。
とりあえず支度をしようと、リョーマを起こさないように静かにベッドから下りようとしたが、手塚の動きにベッドがギシッと音を立ててしまった。

「…ん…」

熟睡していたが些細な動きにリョーマは反応した。

「…国光?」

スローモーションの映像でも見ているかのように、瞼はゆっくりと開く。
目覚める瞬間の美しさにはいつも感嘆する。
焦点が定まらないリョーマは視線をうろつかせ、手塚を見つけると安心したような笑みを浮かべる。
この動作の全てが無意識なのだから、堪らない。
リョーマを自宅へ連れて来てからの一週間でかなり堪能したが、やはり何度見ても良い。

「悪い、起こしてしまったな」

「ううん、平気」

目を覚ましたリョーマに謝罪すると、リョーマは小さく笑って身体を起こした。
寝不足で頭がぼんやりするが、それほど目覚めは悪くない。
後孔は未だに手塚を咥えているような感じが残っているが、それもまた良かった。

「おはよ、国光」

「おはよう」

ちゅ、と頬に口付けもらって、リョーマの機嫌は良い。
取り戻した自分の本来の姿なら、こうして自然にキスをしてもらえる。
自分からのキスしか出来なかった一週間とは大違いだ。

「身体は大丈夫か?」

「まだ国光がいるみたいだけど、平気だよ」

見られないよう、こっそりと後ろを確かめてみる。
腫れている感じも、熱っぽい感じも無くて安心する。
長い時間愛し合っていたというのに、身体の方はそれほどダメージを受けていない。
手塚が自分の欲望のままでは無く、リョーマの身体を気遣うように、じっくりと慣らしてくれたおかげだろう。
最後には後始末もしてくれたので、身体に嫌なベタつきは残っておらず、気分は最高に良かった。

「そうか。リョーマ、今日は家に戻るんだぞ」

「ん、わかってる」

頭を撫でながら真面目な顔で言ってくるので、リョーマも手塚に合わせるように表情を引き締めて頷いた。
両親も従姉妹の菜々子も、とても心配しているに違いない。
もう一週間以上も会っていない。
もし小さくなっていなくても、仕事の関係で両親とは一週間は会わなかった事になるが、それでも早くこの姿を見せて安心させてやらないといけない。
そう思いながらも、リョーマは手塚と過ごすこの時間も大切にしたい。
今、自分は何を一番必要としているのか?
…考える。

「…でも、まだいいよね?」

考えがまとまったリョーマは手塚を見上げる。

「リョーマ?」

「まだ帰らなくてもいいよね」

真っ直ぐ見つめるリョーマの瞳は、明らかに情欲の炎がちらついていた。
お互い裸のままで寝てしまったので、リョーマの胸元には真っ赤な跡がたくさん残っているのが目に入る。
またそれが扇情的でそそられる。

「そうだな、まだ…いいな」

自分が残した跡の多さに、どれだけの欲望を溜め込んでいたのかをまざまざと見せ付けられていた。
リョーマの言葉を理解した手塚はベッドに戻った。
手塚もすぐにリョーマを自宅に戻すつもりは無かった。
時間の許す限り二人の時間を大切にしたい。

「国光」

「リョーマ…」

無言の誘いに手塚はリョーマの身体を押し倒した。

うつ伏せになったリョーマは、腰だけを上げている形で手塚を受け入れていた。

「…あ…あっ……ん…」

手塚はリョーマの腰を掴み、激しい抽挿を繰り返す。
その度に肉を打ち付ける音が響くが、またそれが二人の感情を昂ぶらせる。

「…ああっ、やぁ……あああっ」

手塚は片手をリョーマの前にまわし、ポタポタと体液をシーツに垂らしているそこを握り、揉みこむようにして刺激を与える。

「ああん…あっ…ひぁ…」

両方の刺激を受けているリョーマは、両手でシーツを握り締めて耐える。

「…く…リョーマっ…」

「…あ、ひ……くにみつ……俺、も…」

強過ぎる快感に耐えるように頭を左右に振るが、そろそろ限界なのか、手塚を受け入れている部分が締まる。
二人同時に絶頂を迎える為に手塚は動きを速めた。

「…一緒にな…」

耳元で囁かれて、リョーマは身体を震わせる。
朝から二人は濃密な時間を過ごしていた。


午後一番で手塚の携帯に南次郎から連絡が入り、手塚は荷物をまとめてリョーマと一緒に自宅へ向かった。
無風の空から一直線に地面に降り注ぐ雨の中を二人は傘をさして歩く。

「やっぱり、自分の足で歩く方がいいね」

雨降りは思いっきりテニスが出来ないから不機嫌になる事が多いが、今日は違った。
大きな水溜りを避けつつ、アスファルトの感触を確かめるように歩いていく。
ポケットで運んでもらうは楽でいいが、行き先が決まると寄り道は出来ない。
リョーマが「あっちに行きたい」、「こっちに行きたい」と我が儘を言えば、自分では無く手塚が歩く羽目になるので、何も言わなかったが、今日からは好き勝手に歩ける。
歩く速度もいつもより速くなってしまう。

「…俺はなかなか楽しめたがな」

数歩前を歩くリョーマには届かなかったが、誰にも言えない秘密を持っている事は、テニスをプレイする時よりも何十倍もの緊張感を味わえる事を初めて知った。

「リョーマ!」

「お〜、本当に元通りになっちまったなぁ」

「何それ?もしかしてあのままの方が良かったワケ」

倫子に抱き締められながら、南次郎からぐりぐりと頭を抑えるように撫でられている。
リョーマが玄関の扉を開けて中に入った途端、待ち構えていた倫子はリョーマを見るなり胸の中に抱き締めて、南次郎は咥えタバコでまじまじとリョーマを見ていた。

「リョーマ、いつもの事だから相手にしなくてもいいのよ」

身体が元通りになっているのを確認した倫子は、リョーマから腕を離した。

「そだね」

「おいおい、俺の存在は無視かい。寂しいなぁ」

二人から冷たい眼差しを向けられて、南次郎はその場にしゃがみ込み、片手を目の下に置いて泣き真似をする。

「あなたがもう少し場の空気を読めばいいのよ。もう、気持ち悪いから止めてちょうだい」

トリオの漫才でも行っているかのような和気藹々とした家族の様子に、手塚は黙ってそこにいた。

「…あのさ、手塚先輩が見てるから、あんまりバカなところを見せないで欲しいんだけど」

リョーマが黙ってこちらを見ている手塚に気付き、南次郎に注意する。

「もう、あなたのせいで手塚君に変なところ見せちゃったじゃない。ごめんなさいね、手塚君」

「あ、いえ…」

突然、話の矛先を向けられて、手塚は恐縮する。

「これも俺のせいか…」

やはりどこかコミカルな越前家の様子に、手塚は苦笑いを浮かべていた。

場所を玄関から居間に移動して、リョーマの話を手塚が始めた。

「それじゃあ、急に元に戻ったのね」

手塚に世話になっていた間、どのようにして毎日を過ごして来たのかを聞いた後で、本題のリョーマが元に戻った瞬間の話を聞いた。

「はい」

元に戻った場面は偶然見ていたが、その時の光景を上手く伝える事が出来ない。
風船を膨らますように大きくなった。
凝縮されていた物が水を含んで元の大きさになった。
色々と表現方法はあるのだが、どれもこれもわかり易いとは言えない。

「リョーマはどうなの?」

「あえて言うのなら…動悸が速くなって、ちょっと息苦しいなって思ったら戻ってた。それくらい」

「…とにかく、自分でもわからないって事ね」

パリパリと煎餅を食べるリョーマは至っていつも通り。
一週間前の姿は本当に夢のようだ。

「まぁ、身体に異常が無いならそれでいいじゃねぇか」

話しには加わらず、リョーマの身体だけを眺めていた南次郎は、ここで漸く言葉を発した。
何度見てもリョーマに変わったところは無いし、ふてぶてしい態度も変わっていない。

「それもそうね。手塚君には本当にお世話になったわね。リョーマの相手をするのは大変だったでしょう?」

「いえ、なかなか楽しい時間を過ごせました」

普段なら有り得ないリョーマとの時間は、大変なんて全く思わなかった。
このままでもいいかもしれないと、考えた事もあった。

「これで手塚君も元の生活に戻れるわね」

「…そうですね」

家族の不安を考えずに、己の欲望だけを考えてしまった自分に反省する。

「今日はこの雨で部活もお休みなんでしょ?ゆっくりしていってね」

色々と話をしていると、時間が過ぎるのは早かった。
昼食は手塚の家で食べさせてもらった。

「いえ、せっかくの水入らずですので…」

「遠慮なんかしなくていいんだよ。別に生き別れになってたワケじゃねぇんだしな。なぁ、リョーマ」

「手塚先輩、今までのお礼もしたいからさ」

ね、と笑顔を向けられて、拒否は出来なかった。

「あ〜、自分の部屋だ」

久しぶりの自分の部屋にリョーマは自然と表情が緩む。
閉められていたカーテンを開けたついでに、少しだけ窓を開ける。

「自分の部屋の方が落ち着けるか?」

「そりゃそうだけど。国光の部屋は同じくらい落ち着けるよ?あの部屋って国光の匂いで一杯だからね」

あの部屋にいるだけなのに、手塚に抱き締められているような不思議な感覚がする。
その場にいるだけで気持ちが安らぐのだ。

「この部屋もお前の匂いがする…」

「…国光」

背中に感じるのは手塚の温もり。
背後から抱き締められて、リョーマはうっとりとしてその温もりを満喫する。

「…ありがとね」

「いや、俺は…」

その後はリョーマの耳元に直接呟いた。

「…そういえば、あの日の夜に変な夢を見たんだよね」

「変な夢?」

ベッドにもたれた手塚に跨るようにリョーマは座っている。
静かにしていると雨音に包まれているような錯覚に陥る。

「うん…」

「どんな夢だったんだ」

「えーと、国光と一緒にいる方法を考えてて、これだ!ってアイデアが見付かったところで目が覚めた…そうしたら」

背中をゆったりと撫でられて、リョーマは気持ち良さそうに手塚の肩に頭を乗せている。

「小さくなっていたのか?」

「…そうなんだよね」

「まさか…夢に見たアイデアとは?」

「覚えてないんだよね」

うーん、と唸っても、内容が思い出せない。
それどころか、小さくなった事で夢そのものをを忘れていたくらい。

「どした?」

「いや、まさか夢の中で、小さくなったら一緒にいられると考えたのでは無いのかと思ってな」

「…じゃあ、夢の内容を雨が叶えてくれたって事」

「そうとは言い切れないが…」

雨はリョーマの願いを叶え、再び降った雨でその効果が切れたと考えると、つじつまが合う。

「そんな夢みたいな話、信じられないけど。でも、そうかもしれない。母さん達は俺達の関係を何となく知ってるみたいだけど、こんな関係までだなんて知らないだろうし…」

手塚の顔を両手で包むと、顔を近付けて手塚の唇を塞ぐ。

「……ん…」

「リョーマ…」

ちゅ、ちゅ、と何度も触れるリョーマの頭を抑えて、手塚はリョーマの唇から零れる吐息すら奪う勢いで深く口付ける。

「…はっ…」

「ここまでだな…」

「そ…だね」

湿り気のある吐息に身体が熱くなるが、今は我慢するしか無い。

「お前は月曜日からが大変だぞ」

「…勉強と部活…アメリカに行っていた間の事を訊かれそうだよね。うわっ、面倒くさいなぁ」

「俺も出来るだけカバーしてやりたいが、これだけはなんとも出来ないからな」

「わかってる。これ以上、国光の世話にならないよ」

覚悟を決めた。
数ヶ月前まではアメリカにいたのだから、その辺りの話をしておけば大丈夫だ。
誰もアメリカにいた頃のリョーマを知らない。
鋭い不二達が変に思わない程度に話を合わせておこう。

「頑張れよ」

「母さんにも話を訊いておくから、大丈夫だよ。問題は授業についていけるか、なんだよね」

一週間休めば授業もかなり進んでいるはずだ。
手塚が堀尾にノートはしっかり取れと言ってあるが、はたして言い付けを守っているかが心配になる。

「それは俺も手伝おう」

「まだお世話になるんだ。国光の時間が減っちゃうね」

「お前といられる時間は増える。それは嬉しい事だな。どうした?」

「…何でもない」

見惚れるほどの笑顔にリョーマの顔は真っ赤になる。
お互いに恋人の笑顔にはかなり弱いようだ。

「あ、雨が止んでる」

「これなら明日の部活はあるな」

あれほど降っていた雨は止み、暗くなった空には薄雲の中に星が輝いていた。

「じゃ、早速明日からだね。母さんが買ってきてくれた土産も持っていかなきゃ」

倫子は手塚と部活の仲間用に土産を買ってきてくれたので、部員にはそれを配るつもりだ。

「では、また明日な」

「今まで本当にありがとね。それから…明日からもお願いします」

手塚の返事は言葉では無く、態度で現した。

漸く、二人に日常の生活が戻った。
リョーマがどうして小さくなったのかは、この際深く考えるのは止めた。
リョーマが手塚の恋人である事は間違いの無い事実。
たまにはこういう事もあるだろう。

それでも二人の関係は何も変わらない。



2005年1月に発行したオフ本の再録です。
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