「おっチビ〜」
「うわっ」
「うーん、これがいいんだよにゃ〜。あ〜あ、あと2週間でこの感触とも暫くお別れか…寂しいにゃ」
着替えが終わったばかりのリョーマに、当たり前とばかりにギュッと抱きついたのは菊丸だった。
今は2月の終わり。
テニス部の部室では、全国大会で優勝を手にしたレギュラーメンバーだけが集まっていた。
いや、厳密的に言えば、当時の部長だった手塚だけがこの場にいない。
3年生は全国大会を終えて引退はしているが、練習には参加し続けている。
今日は久しぶりに中学でテニスをやめると言っていた河村も、師匠でもある父親に「ま、たまには思いっきり身体を動かして来い」と言われ、数ヶ月ぶりにラケットを握っていた。
「僕達も卒業なんだね」
「卒業か〜、おチビと2年間もお別れなんて本当に寂しいにゃ〜」
グリグリとリョーマの頭に頬を押し付ける。
やられている側のリョーマは、本気で嫌な顔をしていたが、がっしりと両腕で抱き締められていて逃げられない。
「ふふ、英二ってば」
その横では不二が楽しそうにクスクスと笑っていた。
「不二先輩も笑ってないで助けて下さい。それにお別れって言っても、すぐ後ろの校舎に移動するだけでしょ」
まるで今生の別れのように悲哀に満ちた言葉を言ってくる菊丸に、リョーマは溜息を吐きながら冷たく言い放った。
「そりゃそうだけど。おチビってば俺らが卒業するって事の意味、本当にわかってる?」
言うとおり、中等部から高等部までは道を一本挟んだ場所にあり、授業中はともかく、帰りは時間さえ合えば、何時でも会える距離にいる。
だが、菊丸が言いたいのは『会える』、『会えない』の問題では無い。
リョーマの態度が、3年生なんていなくなっても関係無いと言っているようで、ちょっと不安になってしまった。
「先輩達がこの中等部からいなくなるってコトでしょ。それくらいわかってるっス」
「ならいいけど…」
自分達がいなくなるのは理解しているようだが、それでもやはり腑に落ちないのか、菊丸はうーんと唸っていた。
この青学に入学したからには、受験戦争を経験する事無く高等部に進学が決まっている。
進学の為のテストはあるが、それによって高等部に進学できなくなる事は無い。
だからこそ、こうして卒業間近になっても部活に参加する時間があり、今でも後輩とのコミュニケーションを取り続けていた。
「…ところで手塚先輩はどうしたんすか?」
リョーマの機嫌が下降し続けるので、桃城は少しでも気を紛らしてやろうと、話題を切り替えた。
「手塚は答辞の原稿を先生と打ち合わせ中だよ。何でも急だったみたいだけど」
「とうじ?」
未だに菊丸が抱きついたままだが、リョーマは何の事かわからずに首を捻るだけだった。
「ああ、越前は日本の卒業式を知らないんだっけ。答辞って言うのはね、卒業式で送辞や祝辞なんかに対する答礼として述べる言葉だよ」
「そうじ?掃除のお礼?」
何で掃除の礼なんかをわざわざ卒業式で言うのかと、リョーマは不二の説明にきょとんと目を丸くするだけだった。
「…もしかして漢字の変換を間違えていないかな?」
「え?片付けるとかの掃除じゃないんスか」
「えっとね、送辞ってこう書くんだよ」
未だに漢字が苦手なリョーマに、不二はリョーマにもわかるように、ノートを取り出してもう一度説明をしていた。
「ふーん、それを手塚先輩がやるんだ?」
「うん、そうだよ。俺達卒業生の代表に手塚が選ばれたんだ。成績だけなら大石の方が上だけど、手塚は生徒会の会長や部活の部長を務めていたからね。先生方の信頼が厚い手塚が選ばれたんだ。名誉な事だね」
今度は乾が説明をする。
卒業式には校長や来賓の祝辞に、在校生が卒業生に贈る送辞と、卒業生が在校生や恩師に対する答辞は必ずプログラムにある。
卒業証書授与式に関しては、生徒の数が多い場合は名前を読み上げるだけで終わり、証書を受け取るのはクラスの代表だけだったりする。
どうやら今年は1人1人に手渡されるようで、式の時間はかなり長くなっていた。
「あ〜、考えるだけでも寂しいにゃ〜。青学も中高一貫校に変えちゃえばいいのに」
「って言うか、英二先輩は俺らの存在は完全に無視なんすね」
リョーマばかりに寂しいを繰り返す菊丸に、話題を切り替えた本人である桃城が割って入って来た。
三年生が卒業して残されるのは1年生のリョーマだけでは無く、2年生の桃城と海堂も同じ。
けれども、菊丸はリョーマしか見ていない。
「あはは〜、ゴメンゴメン」
2人がどこか恨めしそうな顔をしているので、菊丸は漸くリョーマの身体を解放すると、並んで立っている桃城と海堂の真ん前に立った。
「桃と別れるのも寂しいし、海堂と別れるのも寂しいに決まってるだろ」
慰めるように2人の肩をポンポンと叩いてから、最後に「これでいいかにゃ」と付け加えた。
「なんか、投げやりっすね…」
海堂ですらそう感じるほどに、2人に対する菊丸の態度はリョーマと全く異なっていた。
「だってさ、どうせ桃や海堂は1年後には高等部に入学するじゃんか。1年なんてすぐだけど、2年はちょっと長いんだよにゃ〜。あ〜あ、おチビが二先生だったらよかったのに」
桃城達とはリョーマと違い、既に2年間の付き合いがある。
ぶー、と唇を尖らせた。
「…英二。そう言う事は思っていても口に出さない方がいいぞ」
あまりの態度に大石は胃の辺りを押さえる。
本気で菊丸にとっては、桃城と海堂はどうでもいいらしい。
「えー、だって2年間もおチビをぎゅうって出来なくなるんだぞ〜」
桃城や海堂のように可愛らしさの欠片すら無い後輩よりも、キラキラとした可愛らしさを見せているリョーマと今のように簡単に会えなくなるのが何とも寂しい。
別れると言っても、連絡さえ取り合えばいつでも会える場所にいるのに、2年間は絶対に顔を合わせられないような言い方だった。
「おいおい、越前も成長するぞ、英二」
今は丁度いいサイズかもしれないが、成長期なのだから、2年後にはもっと身長が伸びているはず。
「俺もまだまだ大きくなるから、今と何も変わらないんだにゃ」
大丈夫と、右手の親指を立てて、片目を瞑る。
「大石も3年間、ご苦労様だったね」
「タカさん…」
はぁ、と大きく溜息を吐いた大石に、労いの言葉を掛けるのは河村だった。
ラケットを持たない河村は非常に温厚な性格だが、一旦ラケットを握ってしまうと、激情型の性格に代わってしまう。
今日も久しぶりにそんな姿の河村を見て、懐かしさを感じていた。
「…いや、まだこれからも3年間あるからな。これからも頑張るしかないな」
苦笑いを浮かべて河村に答える。
1年生の頃から菊丸の保護者同然の大石は、中等部を卒業しても続くだろうこの関係に、大きく息を吐いていた。
テニスでは最強ダブルスだが、テニスから離れてしまうと、いつまでもやんちゃが抜けない菊丸の世話を焼いていた。
別に大石がその役割を担う必要性は無さそうなものだが、元々心配性な大石だから、別の人に任せられないと勝手に決めていた。
「胃薬の量が減るといいね」
「ははは…」
またしても苦笑いを浮かべて、綺麗に刈り上げられている頭を掻いた。
高校生になるとは思えないほどに、いつまでもお子様っぷりを大爆発させている菊丸。
河村だけで無く、この場にいる菊丸を除く全員が、大石が常備している胃薬の量が増えない事を密かに祈っていた。
「それで、先輩達の送別会を卒業式の後で行いたいんですけど、予定は空いてますか」
話が一段落したところで、桃城は全員に卒業式の後の予定を訊き出した。
「俺は大丈夫」
「僕も空いてるよ」
既に卒業式の後の送別会はテニス部では恒例行事となっているので、誰も予定を入れていない。
「それじゃ、よろしくお願いします。えっと手塚先輩には…」
「おチビが話せばいいじゃん」
「俺っスか?」
「そうだね。それがいいと思うよ」
手塚とリョーマが付き合っているのは、この中のメンバーなら誰もが知っている。
とても良い付き合いをしているのは、2人を見ていれば誰もが納得する。
だが、周囲には認められにくい関係なので、不必要に話したり、イチャついたりはしていない。
「…それじゃ、話しておきます」
「頼んだぜ、越前」
暫くは会話をしていたが、桃城が帰りに書店に寄りたいと言い出したので、全員一緒に部室を出ると、現在の鍵当番である海堂が扉に鍵を掛ける。
「あれ?おチビ、帰らないの」
同じ方向に歩いていたが、リョーマだけが途中で足を止めると、バッグの中を確かめてから校舎の方向に足の向きを変えた。
「教室に忘れ物したっス」
明日でもいいような物なら構わなかったが、忘れた物が明日の1時間目の授業で必要な宿題のプリントだったので、絶対に取りに行かないとマズイ。
「待っていようか」
「先に帰っていいっスよ」
教室に行って戻ってくるまでそれほど時間は掛からないが、待たせておくのも悪いと思い、先に帰ってもらうことにした。
「じゃ、先に帰るな」
リョーマに軽く手を振ると、桃城達はぞろぞろと帰って行く。
その後姿を見る事無く、リョーマはゆっくりとした足取りで校舎に向かって行った。
「越前」
「あっ、手塚先輩」
教室には誰もおらず、自分の机からプリントを取り出したリョーマは、階段を降りたところで手塚とばったり出会った。
「部活は終わったのか」
「うん、先輩も先生との打ち合わせ終わったの?」
「良く知っていたな」
今日の打ち合わせは突然の話だったので、リョーマには説明していなかった。
「不二先輩から聞いた」
「そうか。今日は一緒に帰るか」
「うん」
付き合っていても、部活の後は2人きりで帰れる事は滅多に無く、普段の手塚は大石と、リョーマは桃城や菊丸らと帰っていた。
突発だったが、これは嬉しい。
「少し生徒会室に寄りたいので、着いて来てくれるか?」
「いいよ」
どこかで待っているくらいなら着いていくだけだ。
生徒会室はこの上の階にある。
何気ない会話をしながら階段を横並びで上がっていたが、上がりきると2人の歩幅の差で、手塚の後をリョーマが追い掛ける形となる。
(…あっ…)
何気に見てしまった後姿に、何故か部室での会話がフラッシュバックする。
『おチビってば俺らが卒業するって事の意味、本当にわかってる?』
困ったような顔を見せていた菊丸。
今の今まで全く何とも思っていなかったのに、切なさや空しさといった感情が、怒涛の如く身体中を駆け巡る。
(あと、2週間で…)
目の前からいなくなる。
この校舎からも、テニスコートからも。
彼らの存在は過去のものとなり、ただ語り継がれるだけになる。
言われなくてもわかっている。
わかっていたから、強気な態度で菊丸に接していたつもりだったが、何故か今になって状況を理解してしまい、目の前が暗くなる。
(…いなくなる)
今は手を伸ばせば届く距離にいるのに、卒業したら手を伸ばしても届かない距離に行ってしまう。
この制服姿も、あのジャージ姿も、何もかも二度と見られなくなる。
「越前?」
生徒会室の扉を開けた手塚は、数メートル離れた場所で呆然と立っているリョーマに呼び掛けた。
「…ヤだ…」
ポツリと呟いた途端に、目の前が水の中にいるようにゆらゆらと揺れ出す。
「越前…」
頬に流れる雫に気が付いた手塚は、リョーマの傍に立つと、肩を抱いて生徒会室の中に入れさせる。
内側から鍵を掛けて、誰も入ってこないようにしておいた。
静かに涙を流すリョーマの姿は、可憐な少女のようで、誰にも見せたくないものだった。
「…リョーマ」
流れ落ちる透明な雫を指でそっと掬う。
「…わかってたつもりだった。国光がここからいなくなるって。でも、頭で理解しても…胸が痛い」
制服が皺になるのも関わらず、左手で胸の辺りを力一杯握ると、また一粒、雫が頬を伝う。
手塚は指で掬うのをやめて頬に唇を寄せる。
唇で優しく吸い取るが、流れ落ちる雫は一向に止まらない。
「俺がいなくなるのが悲しいのか」
こんな風に泣く姿を見るのは初めてだったが、あまりの美しさに「泣くな」と言えなくなった。
「悲しいよ…寂しいよ」
はらはらと涙を流し続けるリョーマを、手塚は包み込むように抱き締める。
リョーマも一時だけでもこの寂しさを忘れられるように、手塚の背中にしがみ付いていた。
たった一年間だけ、同じ校舎で学び、同じコートでラケットを振っていた。
その過程の中で、リョーマは手塚と付き合いだし、私生活では休みになればいつでも会える環境にあるが、こうして学校内で会える時間はあと2週間のみ。
次に今と同じ状況になるまで…2年もある。
「落ち着いたか」
背中にしがみ付いていた腕の力が弱まってきたので、手塚はそっとリョーマの顔を覗き込む。
頬に流れていた涙は止まっていた。
「…うん、ゴメン」
泣きたいだけ泣いて落ち着いたのか、腕にまわしていた腕を完璧に解いた。
「いや、こうして感情を露わにしてもらえるのは嬉しい」
手塚はポケットからハンカチを取り出すと、濡れている目の下を拭いてやる。
「…俺はちょっと恥ずかしかったけど…」
行為中に流す生理的な涙とは違い、これは感情からくる涙。
泣く姿なんて誰にも見せたくないけど、たった1人の為になら涙も流せるし、みっともない姿も見せられる。
だけど、やはり照れ臭いものがあるのか、リョーマは微かに頬を朱に染めていた。
「高等部でお前を待っているからな」
「…国光は待ってるだけ?」
赤らめていた顔が元に戻っていたリョーマは、手塚を真っ直ぐに見つめていた。
「ん?」
よく聞こえなくて訊き返す。
「いつも俺が追いかけてばかりだ…」
何だかまた泣きそうな気分になってくるので、じっと見つめていた視線を慌てて横にずらす。
「追いかけるのは嫌か」
「嫌だよ。追い掛けても国光は先に進んで行くだけだから。ずっとずっと、追い続けないといけないんだから」
治療で九州に行っていた間も、ずっと1人の姿を追い掛けていた。
追いかけて、只管に追いかけて、やっと横に並べたかと思い安心していると、何時の間にか先に進んでいる。
2年の差はどうしても追い付けない。
この虚無感は一定の時期だけのものだろうが、これから先も感じる気持ちになるに違いない。
「俺はお前に追いかけられる存在でありたい」
手塚は背けられているリョーマの頬を両手で包むと、少し強引に顔を正面にして顔を合わせた。
いつだって、強い相手にしか興味を持たない。
少しでも力を抜けば、リョーマは自分を見てくれなくなる。
だから、何時までもリョーマに追いかけられるように、更に強くなると自らに誓っている。
「国光…」
「お前の目には俺だけが映っていればいい」
鼻先がくっ付きそうなほど顔を寄せる。
リョーマの目には手塚の目だけが映っていた。
「国光も…」
頬を包んでいる手の上に、リョーマも自分の手を重ねる。
「俺も?」
「俺だけが映ってる?」
「ああ、お前だけだ」
高校生になればもっと強い存在がいるはずだが、手塚はこれから先も誰にも負けるつもりは無く、追いかけてくるリョーマを待つだけ。
同じ舞台に立つその日を。
「…浮気したら別れるからね」
安心したのか、ちょっとした冗談を口にする。
「ありえないな。お前こそ、俺以外の奴に興味を持つなよ」
「俺は国光だけだよ」
こんなに興味を持ったのも。
こんなに好きになったのも。
こんなに感情を揺さぶられるのも。
手塚国光という存在にだけ感じた感情。
「俺もリョーマだけだ」
こんなに気になるのも。
こんなに愛しく思うのも。
こんなに感情を見せられるのも。
越前リョーマだけに感じた感情。
2人は愛すべき相手を力の限り抱き締めていた。
「で、ここに何の用だったの」
「…写真があるから記念に持って行って欲しいと言われてな。本当なら教室まで持って来てくれる予定だったんだが、他にも私物があったので、俺が取りに行くと言っておいたんだ」
言いながらも、棚の中から私物である辞書やノートを取り出し、その後で違う棚から大きめの封筒を取り出した。
「写真って、それ?」
「ああ、そうみたいだな」
テープで留められていた封筒を開き、中に入っていた写真を机の上に並べる。
「…わ、これって国光が一年生の頃?」
「そうだ。懐かしいな…」
写真部が撮り貯めていたのか、球技大会やテニスの大会などの写真から、壇上で表彰されている姿などがたくさん収められていた。
「何か、可愛い…」
初めて見る手塚の幼さが残る姿にクスクスと笑う。
リョーマが知っている手塚は、既に大人の雰囲気を漂わせていて、こんな子供っぽい姿なんて知らなかった。
「あ、これって大石先輩?この頃は今よりも髪が長かったんだね」
「大石が今の髪型にしたのは2年の時だ」
テニス部の写真には手塚だけで無く、大石や不二達も一緒に写っている。
「乾先輩…不二先輩とそんなに変わらない」
体格や顔は、年月によって変化していくが、基本的な部分は変わっておらず、誰なのかがすぐにわかってしまう。
「へ〜、菊丸先輩って1年の頃はバンドエイドを鼻に貼ってたんだ」
手塚にとっては懐かしい写真でも、リョーマにとっては始めて尽くし。
「…俺も3年生になったらこんな写真見て、懐かしいって思うのかな」
今は手塚達がいなくなる事に悲しみや寂しさを感じているが、自分が3年生になったらどう感じるのかを考えてみる。
やっと、手塚と同じ場所に立てる喜びに包まれるのか、それとも菊丸のように下級生達を残していく寂しさを感じるのか。
「それは2年後になればわかるだろうが、今のお前は考えなくても良い」
手塚は多くの写真の中から、一番最近撮ったものをリョーマの前に差し出す。
「国光?」
「これは1週間ほど前にここで撮ったものだ。良ければ貰ってくれないか?」
真面目な顔で会長の椅子に座っている姿。
「いいの?」
言うが早いか、リョーマはその写真をちゃっかりと手の中にしまい込んでいる。
写真が趣味の不二の手によって、テニス部の面々でいろいろと撮っているが、手塚1人が写っている写真は持っていない。
「こんな物で申し訳無いが…」
「ううん、嬉しいよ」
じっくりと写真を眺めてみる。
今と何一つ変わらない姿の手塚が、この写真には写っているが、これからもまだまだ成長するかもしれない。
そうなると、この写真の手塚はいなくなってしまうが、それでも暫くはこの写真にいる手塚の姿を見て幸せな気分になれる。
「後、2年か…」
「また考えているのか」
「仕方ないよ。きっと卒業式を迎えるまではずっと考えちゃうんだ」
漸く理解した卒業の意味。
けれども、明日からは悲しみや寂しさで嘆く事は無いはずだ。
「あっ、そういえば、式の後で送別会するから部室に集合だってさ」
「そうか、送別会か…」
手塚も2年間は送る側だったが、最後は送られる側になる。
そして、部室に入る最後の日となる。
時間さえあればいつでも遊びに行けばいいだけだが、その頃は中学生としてでは無い。
「…国光も寂しい?」
「お前と離れる事に関しては寂しさを感じるが、他は無いな」
実際に卒業と言っても、中等部から高等部に移動するだけなのだ。
周りにいた仲間達はそのままで、変わるのは通う場所と制服と教師と、そして立場だけ。
「本当に浮気しないでよね」
「信用できないのか」
「だって、国光ってモテるし…」
手塚は今でも高校生や大学生に間違えられるくらいなのだから、高等部の先輩達が黙っているとは思えない。
不安の種は尽きない。
「それを言うのならお前だって同じだろうが」
「先輩達に興味は無いよ」
手塚のようにテニスが強くて格好良いのなら可能性はあるかもしれないが、桃城達では可能性はゼロだ。
「上にいなくても、下にいるかもな」
青学以外のどの学校でも、リョーマが興味を抱くような相手はいない。
全国には面白い技を使う者はいるが、結局は手塚に及ばない。
「下って…もしかして新入生ってコト?」
「そうだ」
「俺、年下に興味無いから」
同級生の堀尾やカチローらの入学当時を思い浮かべて、本気で嫌そうな顔をした。
恋愛にまで至るにはそれなりに必要だが、リョーマの場合は手塚だったからこそ、こうして付き合うまでに至った。
「年上だけか」
「そ、年上だけ、しかも2つ上だけだよ」
ニコリと笑ってから、一通り見た写真を封筒の中に戻す。
「もし俺が氷帝や立海に入学していなくても、国光と付き合っていたかもね。はい、ありがと」
封筒を手塚に渡す。
「それは嬉しいな」
封筒を持っていた手の甲にそっと唇を押し当てれば、リョーマは不服そうに口を尖らせる。
「キスはそこじゃないでしょ」
ん、と顔を寄せて目を閉じるので、待ち侘びている唇にキスをした。
暫く優しいキスをしていたが、もう少し恋人らしいキスをしてもいいかもしれないと、手塚はリョーマの頭を抱えて、深いキスに変えていく。
キスを終えた後は無駄に豪華な応接セットに移動し、手塚はリョーマを抱きかかえたまま3人掛けのソファーに座る。
「…あ…ふ…」
キスを交わす。
この場で最後まで行うつもりはないが、下校時刻ギリギリまで愛し合っていたかった。
「リョーマ…好きだ」
キスの合間に想いを口にする。
いつでもどこでも好きだと言いたいが、男同士とあって叶わない願い。
「俺も、国光が好き」
リョーマもその辺りはわかっているので、人前では絶対に引っ付いたりしない。
校舎で愛し合う時は滅多に人が来ない屋上や、閉め切った図書館の中、部員が帰った後の部室。
外から見られず、誰も来ない場所なんてこれくらいしか無かった。
卒業してからはお互いの自宅しか愛し合う場所は無くなる。
「…今週末は泊まりに来るか?」
「うん…行く」
そろそろ下校時刻が迫ってきたから、2人はキスを止めて代わりに手を繋いでソファーに座る。
「今日は良い思い出が出来たな」
突然の打ち合わせは、練習に参加できないというストレスになったが、そのお陰でこうしてリョーマと2人きりになれた。
「生徒会室でキスしたって思い出?」
「良い思い出だろう」
「ん、最高だね」
普通に握っていた手を、恋人っぽく指を絡める繋ぎ方に変えた。
「こうして一緒に帰れるのも、あと何回だろうね」
僅かに乱れていた制服を調えて生徒会室を出る。
下校時刻が迫っていたせいか周囲に生徒はいない。
手塚とリョーマの組み合わせは、部活後の帰宅で無いので異様な光景だが、誰も気にする者はいない。
「これからは一緒に帰るか」
「本当に?」
「俺も出来るお前との時間を大切にしたいんだ」
残り2週間と言っても、実際に学校に来るのはあと10日ほどしかない。
「思い出作り?」
そういうタイプには見えない手塚も、リョーマの感情に感化されてしまったのか、少しでも中等部の記憶を自分の中に残そうとしていた。
「そうだな」
「じゃ、協力しなくっちゃね」
「よろしく頼む」
2人並んで校門を出た。
2週間後、めでたく卒業式を迎えた3年生は、式の最中で感極まって涙を流す者や、笑顔を見せる者もいたが、滞りなく式を終えて恩師や下級生に送られていた。
その後、部活やクラスで送別会を行っていたが、全ての卒業生は中等部を去る寂しさと、高等部の期待感を胸にしまっていた。
「卒業、おめでと」
「ありがとう」
送別会の後、リョーマは手塚の自宅にいて、今度は家族と共に卒業を祝っていた。
「リョーマ、これからもよろしく頼む」
「うん、こちらこそ」
全てが変わったようで、何も変わらない毎日が続くのだった。
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