「越前、お前が好きだ。俺と付き合ってもらえないか」
突然の告白だった。
どう返していいのかわからず戸惑っていると、告白してきた当人は俺より困った顔をしてこう続けた。
「すまない…困惑するのも当然だな」
珍しいというよりも、この人のこんな姿、初めて見た。
「…まずは一週間。試しというわけではないが、とりあえず付き合ってみないか?一週間付き合ってみて駄目ならば諦める」
冗談じゃないみたいだけど、俺は…俺は…。
「どうだろうか?」
「…いいっスよ」
自分の心もわからないまま、承諾してしまっていた。
「眠れなかった…」
はぁ、と大きな溜息。
布団に入っても頭が冴えていて、リョーマは夜中に何度も何度も起き上がり、暗い中で時計を見ては時間を確かめていた。
いつもなら熟睡中の1時や2時になっているのにも関わらず、瞼を閉じても眠気は一向に訪れず、時間だけが次々と過ぎていき、何時の間にか空は闇を抜けて明るくなっていた。
今日も良い天気みたいだけど、リョーマの心は雲が掛かっているように暗い。
眠れなかった理由。
心に掛かる雲の理由。
どれもこれも本人が一番良くわかっている。
不眠の原因は手塚の告白だ。
昨日のリョーマは週に一度の委員会の当番で、授業後の練習に遅れて1人で着替えていた。
特に急ぐわけでも無く着替えていると、普段なら試合が近いと誰もが練習に集中していて部室には誰も入って来ないのに、この時ばかりは何とも珍しい事に手塚が入って来た。
「今、来たのか」
「ういっス」
ユニフォームを着る手前のリョーマは上半身が裸のままの不自然な形で手塚と視線が合うと、手塚はいつもの愛想の欠片すら無い無表情で訊いてくるので、その通りだと頷きながら簡潔に答えておいた。
ふい、と興味を無くしたようにリョーマから視線を外すと、手塚は部室の中に入って来た。
リョーマも手塚の行動に対して全く興味が無いので途中になっていた着替えを続けていた。
手塚はリョーマからは見えない位置でゴソゴソと物音を立てていて、この時はまだいつもの『部長』だった。
リョーマはただ『部長直々に取りに来るなんて、よほどの物なのかな』とぼんやり思っていただけだった。
が、何の前触れも無く告白が始まった。
呆けているリョーマに対し、手塚はストレートに『好きだ。付き合ってもらえないか』と伝えてくるので、告白されたであるリョーマは『あの部長が、あの手塚部長が、俺を好きだなんて』と非常に混乱していた。
それも、友好関係を結ぶ為の好きじゃなくて、恋愛関係を結ぶ為の好き。
今まで手塚の事を好きとか嫌いとかなんて真面目に考えた事なんてなかったリョーマは、何て答えて良いのかわからず本当に困った表情をしていた。
手塚はテニスがめっぽう強くて上手いだけじゃなくて、親父以外で初めて負けた相手。
アメリカでの大会では負けなしだったリョーマの放つショットを軽々と返し、コートに膝をつけさせた。
同世代でここまで強い相手は手塚以外にいないと思うほどの強さだった。
父親を同じ土俵であるテニスで倒す事だけど目標に掲げていたリョーマにとっては、初めてに近い気分の高揚。
『いつか、部長を倒す』
これくらいにしかリョーマは思っていなかった。
初対面だって最悪に近い。
悪いのはその場にいた荒井だったが、言い訳なんて聞く耳持たないのか、リョーマはコート内の揉め事の当事者であるが故、入部早々にグラウンドを走らされた。
『何だか横暴な人だな』が、手塚への第一印象だったが、色々と見ているうちにただの暴君ではない事に気が付いた。
誰よりも青学テニス部を愛し、全国への道へ進む為に日々努力をしている。
他人に厳しく、自分には他人の何倍にも厳しい。
たゆまぬ努力は勿論だが、どんな場面でも冷静に物事を観察し、それを判断出来うる精神も持っている。
無論、手塚は勉強の面でも努力は惜しまない。
まさに文武両道で尊敬に値する人物。
だから恋愛にまで発展する人の査定は非常に厳しいと思っていたのに、彼の人の恋愛対象は聡明で可憐な女子ではなく、生意気で負けん気の強い男子。
「どうだろうか?」
「…いいっスよ」
にわかに信じられなくて、何かの冗談だと思いながら話を聞いていたのに、気付けばリョーマは手塚の提案するお試し期間の話に乗っていた。
だが、リョーマには断る権利があった。
断らなかったのは先輩だからなのか、それとも。
「…俺でいいのかな?」
寝不足の重い頭のまま起き上がり、緩慢な動きでパジャマから制服に着替える。
試しとはいえ、その場で了承してしまった手前、とりあえずは手塚の想いに応えてしまったワケだ。
了承した後の手塚は明らかに安堵の表情をしていて、その顔を見た一瞬だけだが、了承しておいて良かったなんて考えてしまった。
「付き合うのって…あ…」
途端に動きが止まる。
「…俺が、あの部長と…付き合う?」
アメリカに住んでいた頃は同性愛者の愛の語らいなんて何度も見ていたが、ここは日本でまだまだ同性愛には反感の多い国。
それも手塚国光という、青学ではその名を知らない者はいないほどの有名人の為、人の目は常に彼の動向を気にしている。
「恋人としてってコトだよな」
この国で男と付き会う事のリスクを、今になって気が付いてしまった。
「おはよう、越前。今日は早いんだな」
「ういーっス」
一睡も出来なかったリョーマは、起きてからも考え続けていたおかげで、折角の焼き魚がメインの朝食を食べる気力がなく、ほんの少しだけ魚をつまんでから登校していた。
遅刻ギリギリのリョーマにしてみれば、嘘みたいに早い時間の登校だったが、既に部室の中には大石と不二がいて着替えを済ませていた。
談笑しているところにやってきたリョーマは、簡単に挨拶だけをしてから、ドサリと重そうに荷物を置いて大きく息を吐いた。
「あれ?何か調子悪そうだけど」
「そうっスか?」
背中を向けていたはずなのに、何時の間にか隣に不二が立っていて、リョーマの顔を覗き込んでいた。
「うん、顔色が良くない」
不二は心配するように手を伸ばして額に触れてきたが、払う気力すらないのか、リョーマはされるがままに不二の手を受け入れてしまった。
その直後、部室の扉が開かれ、三人は同時に扉を見る。
「何をしている?」
扉を開けたのは手塚だった。
不二の伸ばされた手の先にいる人物を確認すると、眉間に深い皺を寄せて、どこか怒りを含んだ声で訊ねてくるので、今度は不二が眉をひそめて答えていた。
「…何をって、見たままだけど?越前の調子が悪そうだから熱を計っているだけだよ」
不二は先輩として後輩のリョーマの様子を看ていただけで、疚しい事など何一つない。
ねぇ、と不二が問い掛けてくるので、ここはリョーマも頷くしかない。
「本当か?」
「手塚、何を疑っているんだ?不二は本当に越前の様子を看ているだけだぞ」
緊迫したムードに大石が割って入って来た事で少しは落ち着いたのか、手塚は眉間の深い皺を消して、未だに不二の手が触れているリョーマの前に立った。
「越前、調子が悪いのか?」
振り払うように不二の手を退かせて、代わりに自分の手をリョーマに額に当てる。
「ちょっと寝不足なだけっス」
「夜更かしか?」
「何か、寝られなかっただけっス…」
あんたの所為で、と音に出さずに口の動きだけで伝えた。
「身体を動かせば頭がスッキリする。だからといって授業中に居眠りするなよ」
リョーマの口の動きを読んだ手塚は手を放し、着替えるように即して、大石を呼んで部室を出て行った。
「越前、手塚と何かあったの」
訝しげに手塚の様子を見ていた不二は、着替え始めたリョーマに訊ねてきた。
「別に何もないっス。それとも何かあったように見えますか」
言える筈がない。
『部長から付き合って欲しいって告白された』なんて。
「うーん、手塚があんな風に他人を気に掛けるなんて珍しいから、気になっちゃっただけだよ」
「そっスか…」
付き合いの長い不二が気になるのなら、他の先輩達だって気になるに決まっている。
お試し期間は始まったばかりなのに、何だか溜息が出てしまうリョーマだった。
だが、練習中に部室内で起きたような出来事はなく、その後の校舎内に入り、授業の合間に休み時間や昼の休憩にも手塚がリョーマの元にやって来るような事はなかった。
授業後の部活でも手塚は部長としての職務を果たし、リョーマに対しても後輩に対する態度でしかなく、それはそれで安心したのに、どこか不満だった。
「越前は残ってくれ」
最後の最後で爆弾は落とされた。
「ういーっス」
「越前は居残りかぁ」
「おチビ、手塚の話をちゃんと聞くんだぞ」
「…っス」
桃城や菊丸からからかわれたけど、何の為に一人だけ残すのかわかっていて、ちょっとだけ憂鬱になってしまった。
練習が終ったリョーマは先に着替えてベンチに座る。
手塚はここでも部長の仕事をしていた。
「やはり俺とは付き合えないか」
「え?」
ぼんやりと手塚の動きを見ていたリョーマは、突然の言葉に驚きの声を上げてしまった。
「朝、不眠の原因は俺だと言ったな。それに、練習中も溜息が多かった」
見られていたのだと知り、リョーマは手塚から視線を外してしまう。
「…何か、色々と考えたら」
2人きりで誤魔化しは効かない。
「何を考えていたんだ」
「あんたは学校でも有名人だし…男だし」
「お前も十分に有名人だ」
「でもっ」
「俺は初めからお前が男でも女でも関係なかった。お前は昔の俺を見ているようでどこか違い、目が離せなくなった」
手塚は自身の想いをリョーマに話し始める。
その想いは告白に至った理由だ。
手塚の想いを黙って聞いていたリョーマは、次第に手塚を見られなくなり、最後には俯いてしまった。
「どうした?」
「…部長の気持ちを聞いてたら、俺…自分が恥ずかしい」
俯いたリョーマは唇を噛み締める。
手塚国光という存在に対するのは、尊敬もあったが自分自身が高みに向かう為、絶対に倒すという目標。
それだけだったのに、手塚に告白された瞬間から、テニス部の先輩後輩に加えて恋愛対象になった。
好きか嫌いかを訊ねられれば、嫌いではない。
恋愛対象になるかと問われれば、わからない。
こんな曖昧な気持ちで受け入れてしまった自分が、恥ずかしくて仕方がない。
「…ごめんなさい」
「そこまで気負う必要はない。俺と付き合えないのならそれでいいんだ」
「…昨日と今日、色々と考えた。部長は部長だから、俺なんかで本当にいいのかって。周りの部長を見る目が変わっちゃうんじゃないかって」
リョーマ自身は、アメリカでの生活が長かったから、同性の恋愛にそこまで嫌悪感はない。
でも、ここは日本で、相手は手塚国光。
付き合ってみれば相手の本当の姿が見えてくるから、このお試し期間で相手の様子を見ていれば良いだけだったけど、リョーマは手塚の存在そのものが付き合う過程に辿り着くまでのストッパーになっていた。
「他人が俺をどのように見ようが関係ない」
「部長…」
「残り6日間だが、気になるのならもう終わりにしても良いぞ」
「…部長」
リョーマは伏せていた顔を上げて、手塚の顔を正面からしっかりと見つめる。
「何だ」
「俺に部長を好きになれるチャンスを下さい」
嫌いじゃないから、好きになるかもしれない。
恋愛対象になるかわからないから、恋愛対称になるかもしれない。
全ては未知数。
「…わかった、と言うより、俺を好きになってくれ」
リョーマが前向きに考え始めてくれた事が嬉しかったのか、手塚は柔らかく微笑み、それを間近で見てしまったリョーマは、呆然としてしまった。
「多分、ううん、絶対に好きになるよ」
滅多に見られないだろうその笑みが、自分だけに向けられるのなら嬉しいかもしれない。
「越前、お前が好きだ」
そっと抱き締められて驚いたけど、ここで逃げては何も始まらないと、戸惑いがちに広い背中に腕をまわしていた。
初めてだから迷ってしまうかもしれないけど、こうして手を差し伸べてくれるのなら、ゆっくりと考えて進んで行こう。
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