特効薬
それはいつもの練習時間の出来事だった。 「おチビ、ここ血が出てるにゃ」 「え?」 不意にちょんと頬に触れてきた菊丸の指。 触れられた箇所にピリッとした痛みが走った。 「…ッ」 「あ、痛かった?」 ゴメンゴメンと帽子の上から頭を撫でてきた。 今日は週に一度の図書委員の当番だった為に、他のメンバーと比べて遅めにコートに入っていた。 この件はあらかじめ部長である手塚に伝えていたから、誰も遅れてやって来たリョーマに対して咎める者などいなかったが、違う意味で近付く者はいた。 それが菊丸だった。 「血は止まってるみたいだけど、何かで切ったのかにゃ」 傷口に触れた指先に血は付かない。 「…そういえば、本を片付ける時に棚に上手く入らなくて落ちたんだった」 1冊だけなら問題なかったのに、一気に何冊も落ちてきたから支えきれずに顔に当たった本もあった。 もしかしたらその時に紙で切ってしまったのかもしれないと、リョーマは傷が付いている箇所に触れる。 触られる前は気が付かないほどだったのに、一度触れてしまったら気になって仕方がない。 ピリピリとした痛みが頬に走る。 「…部室で傷薬を塗ってくるっす」 痛みはいつまでも続き、練習どころではなくなった。 「一人じゃやりにくいだろ、俺も行こっか?」 「一人で平気っす」 ちぇっ、と唇を尖らせる菊丸を置いて歩き出す。 だけど、勝手に出て行くわけにもいかず、リョーマはピタリと足を止めて手塚を探すようにコートの中をグルリと見渡し、部内一の長身である乾の影になっている手塚を見つけて駆け寄った。 乾のほかに大石もいたが、リョーマは手塚に話し掛けた。 「手塚部長」 「越前、どうした」 リョーマに呼びかけに、乾の影から姿を現した。 「ちょっと部室に行って来るっす」 「何かあったのか」 「ここの傷が気になるんで、薬を塗ってくるっす」 と、頬の傷を手塚に見せる。 「切ったのか」 まるで刃物のような物に切られた痕が頬にあり、眉をしかめる。 「本で切ったっす」 「そうか…」 誰かに傷付けられたのではないとわかっていても、顔の傷は気になる。 早く言って来いと言おうとしたが、手塚が口を開く前に大石が口を開いてしまった。 「あっ、傷薬切らしていたんだ。先週、英二と桃が使っちゃってなくなったから、買いに行こうと思っていたんだけど」 つい、忘れてしまったと謝罪してくるが、傷薬がないのなら部室に行く必要はない。 「それならいいっす」 くるっと踵を返して戻ろうとするが、手塚に呼び止められた。 「なんすか?」 「消毒くらいやっておけ。大石、少しの間任せる」 「わかったよ」 手塚は練習に戻ろうとするリョーマの腕を掴み、コートを出て入ってしまった。 「…ホントに空っすね」 「どういう使い方をしたんだ、あいつ等は…」 救急箱に入っていた傷薬の箱には、使いきったチューブだけが入っていた。 空なら捨てればいいのにと、薄っぺらくなっているチューブを摘んだ。 「痛むか」 手塚はリョーマの前で消毒薬を脱脂綿に垂らしていた。 「さっきまで痛くなかったのに、菊丸先輩が触ってきたら痛くなった」 「菊丸が?」 「俺は気が付いてなかったから…イテッ」 脱脂綿を傷の上に当てられると、消毒液が傷に沁みたのか、リョーマの顔が痛みで歪んだ。 「紙で切ると意外と痛いからな」 「…部長も本をたくさん読むから、指とか切ったりするの」 「そうだな。気が付くと切っている時がある」 乾いて張り付いていた血が、消毒液によって脱脂綿に付着する。 完全に血を拭い取ると傷口が現れたが、そこから血が滲む事はなく、少し大きめの絆創膏を取り出して傷を隠すように貼った。 「ありがと」 この場に誰もいなかった事から、リョーマはニコリと笑う。 その笑顔に誘われるように、手塚は絆創膏の上に唇を押し当てた。 「…部長」 「早く治るように…」 もう一度優しく押し当てられた。 さっきまでピリピリとした痛みを発していた箇所から、嘘みたいに痛みが引いていく。 「…部長が触ったら痛くなくなった。すごいや、傷薬より効き目抜群だね」 指で触っても気にならない。 「この姿を菊丸が見たら、お揃いとか言い出しそうだな」 「そうかもね」 切った場所は右側の頬。 丁度、菊丸が絆創膏を貼っている場所と同じだった。 「菊丸先輩は毎日貼ってるんだよね。忘れたりしないのかな」 「貼っていない姿を見た事はないな。そういえな、一年の頃は鼻に貼っていたが、何時の間にか頬に変わっていたな」 「こだわりがあるのかな」 「何かあるのかもしれないが、菊丸に訊くなよ」 リョーマに気がある菊丸だから、逆にリョーマも菊丸に気があると思われるかもしれない。 今の状態ですら、手塚としては面白くないのに、これ以上リョーマの周囲でウロチョロされるのは、腹立たしいだけだ。 「興味ないから訊かない。部長が菊丸先輩みたいに絆創膏を貼ってたら気になって訊いちゃうけどね」 立ち上がると、手塚も救急箱を片付ける為に立ち上がる。 救急箱をロッカーの上に置こうとしたが、空になった傷薬を入れっぱなしだったなと、中から取り出してリョーマに渡す。 「これどうするの?」 「買い忘れないように出しておこうと思ってな」 「…俺が怪我をしても、もう要らないから」 「何故だ?」 「俺にはここに特効薬があるから、市販の傷薬なんて必要ないでしょ」 手塚のジャージを掴みながらニッコリと笑った。 2人がコートに戻ったのは、出て行ってから30分ほど過ぎてからだった。 部室内で起こった出来事は、2人だけの秘密。 |
短すぎる小話でした。