この国は昔の形を残していなかった。
大海に囲まれていた小さな島国は、大昔に起きた永きに亘る戦争によって、本州の半分ほどだけの、たった一つの巨大都市だけになってしまった。
あれほど戦争を拒んでいたこの国の政府は、昔の教えを忘れたかのように、軍事関連ばかりに力を注ぎ、いさかいの多かった隣国からじわじわと攻めていき、その力を世界中に見せ付けた。
殺傷力の強い生物兵器や、言葉での遠隔操作を可能とする誘導ミサイルの開発には、国民の税率を何パーセントも上げて、その費用に当てていた。
主権が人民にあるという思想に反したこんな政府の動きには国民の反発は大きく、各地で様々なデモ集会が行われていたが、自衛隊や警察に圧力を掛けて、どんなに小さな集まりでも権力を用いて制圧していた。
しかし、この国が栄華を極めるのには無理があった。
元々、軍事国家ではない国が、大国に攻め込むなんて夢のような話であり、現実は夢のように甘くは無く、友好関係を結んでいた大国により、永い戦争に終止符を打たれた。
その時に政府の中心にいた者達は、自分達の愚かさを認める事無く自らの手で命を絶ち、戦争に反対していた反政府の団体が今の政府の中心になっている。
もう二度と戦争を起こさない為に、今は外交のほとんどを絶ち、鎖国同然となってしまっている。
鎖国同然となると、問題は数多くあったが、中でも輸入に頼っていた食料関連の問題は、技術の進歩により難なくクリアしていた。
しかし一つの都市では何かと無理が生じる為、この巨大都市の中層部である、その名も『セントラル』を中心にした東西南北それぞれに、小さいながらもしっかりとした街を築き上げていた。
東地区はイーストランドと呼ばれ、青々とした緑が生い茂り、自然な生態系が数多く残る美しい地区であり、ここはその生態系を利用し、農作をしている者が多い。
西地区はウエストパークと呼ばれ、ここは超高層ビルが立ち並び、人口密度がかなり高い地区であるが、その為に居住者の入れ替わりが激しく、争いごとが耐えない地区だ。
南地区はサウスシティと呼ばれ、科学の力が最も栄えていて、科学者や技術者、それに自分の可能性を求める者達が集まる地区になっている。
北地区はノースグラウンドと呼ばれ、四つの中で最も治安が安定した地区であり、鎖国同然のこの国で唯一、外の国との交流を許されている。
だが戦争により変わったのは国の形だけでなく、人の身体にも尋常ではない進化を残した。
戦争が終結してから約千人に一人の割合で、有り得ないほどの特別な力を備えている子供が誕生するようになった。
運動能力に長けていたり、頭脳明晰であったりと、その力は人により様々であったが、特別な力を持たない者にしてみては脅威の力には違いなかった。
何故そのような子供が誕生してしまうのかは、それから何十年も過ぎた今でも全くわからず、あれこれと推論や理論を並べてみても、どれも科学的根拠に基づいた内容では無く、ただの推測に過ぎない。
但し、その代償なのか、人が本来持っているはずの機能がその身に備わっていなかった。
それは子孫を残す為の『生殖能力』の欠如。
身体の構造的には何ら問題は無いので、快楽や繋がりを求める為の性行為は出来ても、種を作り出し、その種を宿し育む機能が備わっていない。
力を持つ者には、生殖に関係するホルモンを分泌する内分泌器官が機能しなくなるまでは、科学者により調べられたが、それ以上は全く謎のまま。
その子供に与えられた力は、その子供だけの力となり、誰にも伝える事はできない。
こんな力を持って産まれてくる子供には、全員が共通して後頭部に刺青のようなアザができていて、これが力を持っているか、持っていないかの証拠になる。
十月十日にも及ぶ長い期間、己の胎内にて慈しんで育て、苦しみながら誕生した愛しい我が子。
それなのに、そんな人並外れた力を持っていた事を知った母親の中には、子供の行末を不安に思い、その子を施設に預けてしまったり、あるいはノイローゼになり、幼子の命をその手で奪っていた。
人々はその子供達に、大いなる力に対する敬意と畏怖、そして悲哀を込めて『能力者』と命名した。
今では昔話の中でしか語られない真実。
そしてこれが現在のこの国の形。
「あれ?手塚じゃない」
「不二か、久しぶりだな」
大きな窓から眩しい明かりが差し込む長い通路で出会った二人は、懐かしそうな声を出して互いに歩み寄った。
見た目で判断するのなら、二人ともが二十代前半といったところか。
「本当に久しぶり、前に会ったのは半年位前かな?でも元気そうで安心したよ」
先に声を掛けた人物は、穏やかな笑顔を浮かべていて、人に接する態度や言葉がとても柔らかい。
こちらは先程『不二』と呼ばれた男。
「そうだな」
そして、研ぎ澄まされた鋭い瞳を楕円形の眼鏡に隠し、整った容貌を見せているのは『手塚』と呼ばれた男だった。
二人が歩いている通路は、セントラル警察本部の内部にある『特別捜査局』の中。
人の力では解決できない難事件を担当するのが、ここ特別捜査局である。
今や警察に入る為の試験を受けられるのは能力者だけで、しかも特に秀でた能力を持つ者だけしかこの特別捜査局に入局できない。
この二人は特別な力を持つ『能力者』であり、特別捜査局に勤務している『特別捜査官』である。
そんな二人がこの場所で出会うのには理由があった。
「君までここに呼ばれるなんて、ちょっと大変な事件みたいだね。積もる話もあるって言うのに」
「…仕事だからな」
久しぶりに出会ったのかこんな形になり、顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。
自分達の置かれた立場から、おいそれと会えないのが現状であり、メールやネット電話などで連絡は取れても、会うのは一年間でも片手で数えられるほどの回数になってしまう。
「手塚捜査官、不二捜査官、局長がお待ちです。こちらへどうぞ」
少し離れた場所から名前を呼ばれ、同時にその声のする方向に視線を向ければ、通路の一番奥にある部屋の扉を開いい黒いスーツの男がこちらに礼をしてきた。
「では、行くか」
「あれ、もうそんな時間?」
ジャケットのポケットの中から鎖の無い古びた懐中時計を取り出して時間を確かめてみれば、まだ約束の時間ではなかった。
「まだ約束の八時じゃないのに、仕方ないね」
不二が肩を竦めると、手塚はそんな不二を宥めるように肩を軽く叩いた。
「義体化だけで済ませばいいのにね」
「人の欲望とは尽きないものだな」
二人は特別捜査局の局長直々に重要な任務を任された。
「電脳化か…障害があるのならともかく、好きで本来の身体を捨てるなんて、僕にはわからないな」
「たとえ電脳化していても人間には変わりないからな」
局長から任された内容とは『サウスシティで暴徒と化している電脳化した者を捕らえ、暴徒の情報の削除、もしくは排除せよ』であった。
普段の二人はこのセントラルに属していない。
不二はイーストランド、手塚はノースグラウンドでの特別捜査局に勤務しているが、この二人は特別捜査官としてのランクが高いので、こうして中層部に呼ばれるのだ。
仕事の内容は警察官よりもハードなもので、彼等に与えられる仕事はいつでも『死』と隣り合わせの危険が伴った内容ばかりで、これまでにも関わった事件で数人の能力者が殉職している。
こうしてセントラルに呼ばれる時は、何か特別な事件が起きた時にしかない。
「電脳化した人達がここまで暴徒化するなんて、ちょっとおかしくない?」
局長の部屋から出た二人は歩いてきた通路を戻り、途中にある喫茶サロンに入る。
クラシックの音楽とシトラス系の香りが優しく漂っているサロン内には、数人の捜査官が一時の休憩をしていた。
奥にある四人掛けのテーブルに向かい合いに座り、手塚はブラックコーヒーを、不二はアイスレモンティーを飲んでいた。
「そうだな…南は確か、乾だったな」
乾とは二人の同期であり、こちらはサウスシティで特別捜査官として勤務しているが、それ以外に趣味で何かしていると聞いている。
「乾でも無理なのかな?」
乾は手塚や不二に続く、特別捜査局の能力者。
特別捜査官としての研修期間が終了し、新人の配備会議の際には『俺は技術の進んだ南に行きたい』と、上に自薦したほど、技術面の能力に長けていた。
「さぁな、とりあえず行くしかないだろう」
「この目で直に確かめないとね。これがただの暴徒ならいいけど、もしも能力者が絡んでいたら大変だからね」
「あぁ、そうだな」
大掛かりな組織が絡んでいない事を願いながら、手塚は残り少しになったコーヒーを飲み干した。
能力者には生まれた時からの先天的な力を持つ者と、能力者に憧れて人為的に作られた力を持つ者がいる。
人為的に作られた力とは、手術によりその身体を能力者へと近付ける事を示す。
人為的の中にも二つの方法がある。
『義体化』は障害や事故によって失った身体の一部を、代替品のような単純な義体ではなく、特殊な材質・技術により部分的にサイボーグ化する事を言う。
中には自衛の為に武器を仕込む者もいるが、その際は警察に届け出をして受理されなければならない。
本来は義体に武器を仕込むなんて必要無く、ガードマンや重要人物の護衛に当たる者達が主だ。
『電脳化』は脳までも機械化し、義体化とは違い、全身をサイボーグへと変えた者達を言う。
但し、見た目も感触も人間と何も変わらない。
脳の機械化とは脳内の情報を全て高性能チップに移植し、義体化した頭の中に埋め込むのが基本的な方法。
重度の障害によりこの方法以外に生きる術の無い者や、電脳化して少し長生きがしたい者など、電脳化する者はそれぞれに理由があるが、電脳化した者達はその『証』を首の後ろに残さないとならない。
何故なら脳まで機械化してしまうと、これまで持っていた情報しかチップに入力されていないので、新たな情報を入力(インストール)しなければならなくなる。
電脳化した者達には新しい情報をチップに入力する為の接続端子(プラグ)を挿入できる差込口(コンセント)が、必ず首の後ろに作られていて、これが電脳化した者の『証』となるのだ。
この国はコンピューターの更なる進化により、数々のシステムがオートメーション化されている為、電脳化した者達が犯罪に手を染める場合、手始めにこのシステムを自分達の都合が良いように変更する可能性がある。
それを阻止する目的がこの『証』にはある。
「…悪性のウイルスかもな…」
特別捜査官専用のヘリの中で渡された資料に一通り目を通した手塚は、この暴徒の原因に思い当たった。
「ウイルス…コンピューターウイルス。なるほど、さすが手塚だね」
物事に対する思考力と判断力において、手塚に敵う者は特別捜査局の中にはまずいない。
セントラルに所属していないのが不思議なくらいだ、と各地で噂されているほどに。
「このタイプの事件は前に関わった事がある。まぁ、その事件は単純なものだったがな」
資料を不二に渡し、事件を思い出してみる。
自分の頭脳を知らしめる為だけにコンピューターウイルスを作り、世界中に混乱を引き起こそうとする愉快犯は、困った事に何度捕まえても湯水のようにどこからか湧いて出て来るものだ。
しかもウイルスを作り出す者達は、挑戦的なくせに慎重派が多いので、犯人に辿り着くのが難しくなっている。
手塚が関わったその事件も、当初はお手上げ状態であったが、特定の電脳化した人物に送りつけていたそのウイルスから出所を探り当て犯人を捕まえた。
しかし手塚がこの事件に関わった事から、ここまで簡単に片付いた、と警察内部ではまことしやかに噂されていた。
「ふーん、それじゃ結構簡単に終わるかもね」
もちろん不二もその事件の概要を知っている。
緻密に作られたウイルスは複雑な構造をしていて、全てを解読するのには、どんなに頑張ってみてもかなりの時間を要する。
しかし手塚は解読から駆除までを数時間で終わらせた。
「ならば良いのだが…」
ウイルスに汚染されているのならワクチンで駆除すればいいだけだが、どんなウイルスなのかがこの資料だけではわからないから、今は何も対処出来ない。
「…もうすぐ着くね、でも…」
不二の穏やかな表情が一変して険しい表情になった。
「お前も感じているのか?」
「…久しぶりに感じる強い力。でも、これって乾のとは違うね」
「あぁ、初めて感じる力だ」
サウスシティを目前にして、ビリビリと全身に伝わってくる力の強さに気を引き締める。
まるでオーラのような波が二人を襲う。
気を抜いたら強烈な力に感覚が引き込まれそうになる。
「もしかしたら…この力の持ち主が犯人かもしれないね」
能力者の中には位置やその能力を瞬時に見切られる力を持つ者がおり、不二も手塚もその力を持っている。
その力の出所を、神経を集中させて探してみる。
「先にそちらに向かってみるか。大体の場所は特定ができたからな」
「僕もそう思っていたところだよ」
手塚が大まかな場所の特定をし、不二には窓から見える風景でポイントとなる建物を教えた。
本来なら特別捜査局に出向き、詳しい内容を訊く事が先決なのだが、二人の能力がその力の方向へ何よりも早く行かなければならないと告げている。
「悪いけど特別捜査局のヘリポートじゃ無くて、僕達の行きたい方向に向かってくれないかな?ついでに特別捜査局に行って僕達の説明もしておいて欲しいんだよね」
ヘリの操縦士に事情を説明すると、操縦士は二人が感じている方向に進路を変えた。
サウスシティまで、後数分。
ヘリを向かわせた場所は普通の町中だった。
サウスシティの中心部から離れた場所には昔からの古い建物が多く、建築物は和風ではなくほとんどが洋風である。
目に優しい白を基調にした建物が多いのが特徴だ。
路地も今では珍しいタイルを使っていて、絵画を思わせるような形に仕上げている箇所も随所に見られる。
「へぇ、良い所だね」
まるでどこか違う世界に入り込んでしまったかのような錯覚を覚えるほど、ここの風景は現実味を帯びていない。
穏やかな空気が流れる中、優しい香り鼻孔をくすぐる。
「…まさに異国だな」
香りの正体を確かめるように歩けば、何時の間にか広場のような場所に出てしまい、小さな押し車で切花を売っている初老の婦人と、様々な果物を安価で売っている中年の男がこちらに気付き、笑顔と共に軽く頭を下げていた。
この付近には暴徒化とは無縁の地区のようだ。
「本当にね」
二人は町中を探索しながら、上空からひしひしと感じていた『力』の在処に向かい歩いていた。
「あれほど感じていた力が消えているのは何故だ?」
「まさか僕達を感知して移動したのかな」
二人がこの土地に降り立った直後、あれほどまでに感じていた強烈な力のオーラが跡形も無く消えていた。
「この辺りなのは、間違いは無いが…」
「もしかして、あれじゃないのかな?」
不二が見上げた先には、この付近では一番大きな洋館がそびえ立っている。
周囲の風景とはまた違う、歴史を感じさせる佇まい。
付近を散歩していた親子を呼び止めて、二人が気になっている洋館の様子を訊ねてみれば「あそこは数年前から借家になっているんですが、今はどうなんでしょうねぇ」と、教えてくれた。
「ここにいるのか」
「…そうみたいだね」
力の出所を突き止めた二人は、少し高台に建っている建物の前に立っている。
「…借家にしては荒れてるね」
「ここに誰かが住んでいるとは思えないな」
広い敷地内にはあちらこちらに雑草が生えていて、窓のガラスはひび割れている箇所も見られる洋館は、建物自体は問題無いが、借家としては最低ランクだ。
「どうする?」
答えは決まっているが訊ねてみる。
「…入ってみるか」
「ま、それしか無いしね」
片手で門を押せば、鈍い音を立てて簡単に開いた。
ザッザッ、と軽快な音を立てながら雑草の中を歩き、続いて玄関の扉の前に立つが、見渡してもどこにもチャイムは付いていないので、扉を強くノックをしてみる。
「…応答なし」
暫く待っても中からの反応は全く無い。
「入るぞ」
もし、誰かが現れたとしても、自分達の身分を明かし、説明をするだけだ。
荒れた洋館の木製扉には鍵は掛かっておらず、これまたあっさりと中に入れてしまう。
「…へぇ、広い家だね」
この家が栄えていた頃を表しているかのような広さ。
家の中は外回りに比べるとそれほど荒れてはおらず、少し手を加えれば普通に暮らせるだろう。
それと共に、上空で感じていた力がこの中にあった。
「二階に上がろう」
二階へ上がる階段は鮮やかな赤い絨毯が敷かれ、手すりには見事な装飾が施されていた。
「…部屋数が多いね」
階段を上がった先の廊下の幅は広く、その廊下を挟んだ左右には部屋の数が二十ほどあった。
力の出所である場所はわかったが、この家のいたる所に充満していて、どこの部屋からなのかが二人でも特定出来ずにいた。
「仕方ない、探してみるか」
特定が出来ないのなら、自分の手や足を使い、探してみればいいだけだ。
「大丈夫だと思うけど、気を付けて」
「お前こそな」
右側を不二、左側を手塚。
一部屋ずつ中に入り、誰かが隠れていないかを確かめる。
埃と蜘蛛の巣以外には何も無い部屋。
家具が無造作に置いている部屋。
衣類や毛布などが散らばった部屋。
少し前までは確かに誰かが住んでいた様子が、この家のいたる所に残っている。
「今のところは誰もいないよ」
五つ目が終わった際、手塚に何も無い事を報告する。
溜息混じりにドアを閉じて次の部屋を目指す。
「…こちらもだ」
しかし手塚が六つ目のドアのノブに手を掛けた時、今までと違った感覚が電流のように流れ込んで来た。
少し用心しながらノブを回し、ドアを開ける。
「…ベッド?」
部屋の中にはベッドが一つ、しかも天蓋付きの豪華なベッドだった。
布に隠されて見え難いが、中心が山になっている。
「そこにいるのは誰だ?」
慎重に部屋の中に足を踏み入れて、後ろ手にドアを閉めれば、ベッドからガサリと布擦れの音がするので、少し近付くと人のものとは違う声が聞こえてきた。
「……何だ?」
とん、と軽やかにベッドから下りてきたのは、人ではなく長い毛を持つ猫であった。
「猫?何故ここに…」
「フーッ」
一歩だけ前に進んだ手塚の顔を見据えたまま、猫は猛烈に威嚇している鳴き声を上げながら、その姿を変え始めた。
「まずいな、突然変異か…」
一瞬の気の緩みが、手塚の思考を麻痺させた。
ギシギシ、と骨の軋む音を立てながら目の前で形を変えていく猫。
戦争により人間だけでなく動物にも変化が現れた。
本来の姿の面影が無くなるほどの変化。
目の前の猫も今ではトラほどの大きさになり、小さな牙や爪は長く鋭くなっている。
もしかしたらあの牙や爪には毒性を含んでいる可能性もあり、突然変異と戦闘になれば、たとえ特別捜査官だろうが軽傷だけでは済まない。
姿勢を低くし、戦闘体勢に入った猫に、手塚も覚悟を決めて身構えたその瞬間。
「……ん…カルピン?」
ベッドの中から人間の声がした。
眠っていた為なのか声が少しくぐもっていたが、確かに人のものだった。
「そこにいるのは誰だ」
再び静かに言い放った声に、ベッドの中の人物はゴソゴソとベッドの中を動き、視界を遮っていた白い布を両手で広げ、その姿を手塚に見せる。
手塚の目の前には十代と思われる子供が現れた。
子供は手塚を視界に収めると、まずは艶のある黒い髪を片手で無造作にかき上げた。
「……アンタこそ、誰なワケ?」
ジロリ、と手塚を見る。
続いて言葉を発したが、眠っていたのを起こされて不機嫌になっているのか、欠伸をしながらもかなり警戒した顔でこちらを見ている。
「お前こそ何者だ」
声を聞いて初めてこの子供が『少年』だと分かり、少しだけ強めな口調になる。
「あのさ、人の家に勝手に入り込んで『何者』だなんて、アンタには常識ってモンが無いの?見た目は真面目そうなのに」
押し問答を続ける相手に苛立ちが頂点に達した少年は、気が強そうな少しつりあがった大きな瞳で手塚を見つめ、薄い桃色の唇が開いて生意気な言葉を発していた。
しかし声を聞かなかったら少年というよりも、まるで少女のようだ。
「ちょっと、何か言ったらどうなの?その口は飾り物じゃないんでしょ?」
今度は少年の方が強めな口調になる。
言い方は生意気だが、この場合は正論である。
少年にとって手塚は唯の不審者に過ぎない。
「ここに住んでいるのか?」
口調は出来るだけ抑える。
「当たり前でしょ」
ふあ、と小さな欠伸を一つ。
「これほど荒れ果てているのに?」
「別にいーじゃんか。俺はこの部屋と隣とキッチンしか使ってないんだからさ」
ムッ、とした顔で反論してくる。
「…悪かった。俺は手塚国光だ」
平行線を辿っていた会話を終わらせる為に、手塚は素直に自分の非を認めると、上着のポケットから小型の電子手帳を取り出し、少年の前に差し出した。
「特別捜査官…それも最高位の特捜司法官。へぇ、スゴイね…歳は二十一か…ふーん、俺より四つ上なんだ」
特別捜査官にはランクがあり、手塚はその中でも最高の特捜司法官の地位にいた。
特捜司法官とは、犯人を逮捕するまでの特別捜査官とは違い、司法の権力を与えられている。
司法の力で犯人に裁きを行い、犯行の凶悪さによっては、その場で死刑を執行できる。
じぃ、と手帳の画面を見ていた少年は、不法侵入者の正体が判明した満足感で、にこ、と小さく笑った。
まるで固い蕾が温かい日差しを浴びてゆっくり開き、見事な大輪を咲かせたかのような笑顔。
ずっと見ていたくなる、そんな感情が湧き上がる。
不二とは違う、きれいな笑顔だった。
「ふーん、ここに何の用なのか知んないけど、俺は越前リョーマ、よろしく」
先程までの警戒心はどこに飛んで行ってしまったのか、少年――リョーマは笑顔を見せて右手を差し出した。
「…越前リョーマと言うのか」
挨拶代わりの握手を交わす。
伝わってきた柔らかく血の通った温かい手は、人工的なものでは無い。
リョーマは義体化も電脳化もしていない、紛れも無い人間だった。
「リョーマでいいよ、手塚さん。でさ、悪いんだけど外の人も呼んで来てくれない?変に気配消してるから余計に気になるんだよね」
手帳に載っていた生年月日で手塚が自分よりも年上だとわかり、リョーマは手塚を『さん』付けで呼んだ。
「気付いていたのか」
二人は気配を消して家の中に入り部屋を探索していた。
能力者が気配を悟られないようにしていれば、普通の人には絶対に気付かれないはず。
それに気付くのは…。
「俺も手塚さん達と同じ能力者だからね。じゃ俺は着替えさせてもらうから。カルピン、いつまでも威嚇していないでいいよ。この人は俺に危害を加えないから」
自分の正体を簡単に教えると、未だに手塚に対して威嚇している猫を宥め始める。
「カルピン、こっちにおいで」
それでも尚、手塚に対し威嚇する猫にリョーマはベッドを叩きながら再度呼び掛けた。
「ほわら〜」
カルピンと呼ばれた猫は主人の声に落ち着いたのか、身体を元の大きさに戻し、リョーマのいるベッドの上に颯爽と飛び乗った。
「お前の猫か?」
ゴロゴロ、と甘えた鳴き声を出しながら、リョーマの身体にじゃれついている。
こうしていると普通の猫にしか見えない。
「だからリョーマでいいって。でも可愛いでしょ、品種はヒマラヤンで名前はカルピンっていうんだ。突然変異だからって道端に捨てられてたのを俺が拾ったんだ」
毛の流れに沿って背中を撫でると、気持ち良いのか猫は目を細めていた。
「着替えのついでにシャワー浴びるから、まだ家の中を見たいなら好きなだけいいよ。手塚さん達にはその権利があるんだからね」
不敵な笑みを見せてから、「眠気取りたいから」と言い、カルピンをベッドに残し、さっさと備え付けのシャワールームに入って行った。
暫くしてシャワーの音がするのを耳にすると、手塚は部屋から出て未だに捜索を続けている不二を呼びに行った。
「…越前、リョーマ…か」
見た目よりも随分常識を重んじているリョーマに対し、手塚の心には不思議な感情が、ゆっくりとだが確実に生まれ始めていた。
「じゃ、リョーマ君って呼んでもいい?僕の事は周助で構わないから」
手塚に呼ばれた不二も部屋に入り、シャワーを浴びたリョーマと初めて顔を合わせた。
リョーマは濡れている頭にタオルをかぶせ、部屋の奥から椅子を引っ張り出して二人に勧め、自分はベッドの上に座った。
カルピンは会話の邪魔にならないようにベッドから下ろし、専用の寝具に乗せて部屋の隅に置いておいた。
落ち着いたところで話をしようとした矢先、一目でリョーマを気に入ってしまった不二は、椅子から立ち上がり、リョーマの両手をがっちりと握り締めて熱烈な挨拶を始めていた。
「…い、いいよ、えっと、周助」
「リョーマ君」
名前を呼ばれ、穏やかな笑顔はウキウキした満面の笑顔に変わり、更にそこまで近寄る必要は無いほど顔を近寄せられてしまい、リョーマは少し身体を後ろに下げて不二との距離を保とうとする。
そうでもしないとキスでもされてしまいそうだ。
「リョーマ君の手、すごくきれいだね。僕は手がきれいな人ってすっごく好きなんだよ」
握っていた手を離し、肌理の細かさを確かめるように、今度は何度も撫で回す。
「あ、えっ…」
初対面なのに熱烈なスキンシップのオプション付きの挨拶に困ったリョーマは、不二の後ろで腕を組んで黙っている手塚に視線で助けを求める。
「不二、いい加減にしろ」
普段は物静かな性格だが、一旦その箍が外れると驚くほど言葉数が増え、接触を好むようになる。
特に気に入った相手なら尚更。
手を握る位なら、まだ目を瞑っていられるが、このままにしておくと手だけでは済まなくなり、もっと濃厚な接触にまで発展する恐れが生じ、手塚は不二の行動にストップを掛けた。
「手塚ってば厳しいね。それで、どうしてリョーマ君はここに住んでいるの」
手塚がギロリと睨むので仕方なく手を離して、自分に宛がわれた椅子に戻る。
「依頼された仕事したいから、とりあえず寝床だけは確保しないといけないって、ここを借りてるんだけど」
漸く手を解放されて安心したリョーマは、訊かれた質問に答える。
一人で借りているから、家中を掃除したり、壊れた部分を直すのが面倒だからと、手を施さなくても使える部屋だけをこうして使っている。
この家を全部直していたら、いつまで経っても使えない。
「依頼された仕事って、リョーマ君はどこかに所属していないの?」
能力者の中には、警察とは違う自衛組織を結成している者達がいる。
多額な依頼金目当ての組織もあれば、純粋に困った人達を自分達の力で助けたいと考える組織もあるが、自衛組織は警察からも時々依頼が来るほどの能力者が揃っている。
依頼されれば、その力を遺憾なく発揮する。
「別に一人でも何にも問題ないし、下手に組織に入ると自由に動けなくなるから」
「じゃ、リョーマ君は単独行動なんだね。で、仕事って誰からの依頼なの?」
「ここの特別捜査官の乾貞治って人から…」
「乾が?リョーマ君に?」
次から次に質問を繰り出す不二と淡々と答えるリョーマ。
黙って聞いていた手塚は、リョーマの口から乾の名前を耳にした途端、表情を曇らせた。
乾はデータ収集が得意であり、その力を見込まれて特別捜査局にスカウトされた経緯がある。
「あ、うん。ちょっと前からこのサウスシティの南西部に来ていたんだけど、電脳化した人達が中心部で暴徒化してるって噂で聞いて気になってこっちに来たら…」
「乾に見つかり依頼されたのか」
きっとどこからかリョーマの情報を仕入れ、自ら動いたに違いない。
そしてそのデータから推測される場所に向かい、リョーマを捕まえて、仕事の依頼をした。
「そういうワケ」
手塚の推測に「正解だよ」と、またしても花が咲くような笑顔で言われ、手塚は少しだけ焦ってしまうが、不二もリョーマも手塚の動揺には全く気が付かなかった。
「乾から直接なんて依頼されるなんて、リョーマ君の能力ってすごいんだ」
乾が認める能力なんて、不二でなくても興味が沸く。
「そうでもないけど…普通じゃないのかな」
何事も無く話し続ける二人を、こっそり溜息を吐いて見つめている。
ほとんど不二とリョーマの二人が会話を交わし、手塚は聞き役に回っている。
それというのも、手塚は先程からリョーマばかりが気になり、何故ここまで気になるのかを考えていたからだ。
秀でた思考能力を駆使しても、どうしても答えが出ない。
正直に言えば、この答えを出したらこれまで作り上げていた自分の世界を壊してしまいそうで、どこか迷っている部分があるのだ。
だから考え続けている。
答えを出すつもりの無い疑問を。
「…手塚?」
「……何だ」
こちらに意識を向ける不二と視線を合わせる。
「何だか君らしくないね。大丈夫?」
手塚の雰囲気がリョーマの前だと異なるのを感じた不二は、眉をひそめながら顔を覗き込んだ。
ここでようやく手塚の変化に気付いたらしい。
普段から他人の感情には敏感に反応するが、手塚ほどの能力者の変化を察するのは不二でも難しい。
能力者は簡単に己の手の内を見せてはならないのが、暗黙の了解であり、鉄則だ。
「あぁ、大丈夫だ。リョーマ、少し訊いても良いか?」
「え、いいよ。何?」
全く構えていないところで急に質問されてしまい、何故かベッド上で姿勢を正す。
「リョーマは戦闘もするのか?」
手塚の鋭い視線がリョーマの瞳を捕らえる。
答えは訊かなくてもわかっているが、あえて訊ねてみた。
「もちろんするよ。それが俺の能力だし、俺は手塚さん達と違って待ってるのは嫌いだからね」
「…俺達とは根本的に違うからな」
思った通りの答えが返って来た。
手塚達のような警察関係者は、どれだけ地位があっても上からの指令や命令が無いと動けない。
組織には定められたルールがある。
ルールを乱せば組織は成り立たない。
リョーマはそれに束縛されたくないのだ。
「手塚さんと周助も、この電脳化暴徒事件の解決に来たんでしょ?俺が勝手に動くとマズイよね…」
「まぁ、そうだが…」
上からの指令や命令を待つ間に、リョーマは単独で行動が出来るが、こうしてセントラルから派遣されてきた特別捜査官を無視して動く事は出来ない。
下手に手出ししたら、職務妨害で逮捕されてしまう。
「せっかくの依頼だったのに、勿体無いな」
不満そうに口を尖らせるが、組織に入っていないリョーマには口出しができない。
これでは依頼してきた乾に一度、確認しないとならない。
もしかしたら依頼をキャンセルしてくる可能性がある。
依頼の報酬金は依頼が完了され、依頼者が確認した後でしかもらえない規則になっていて、前金として一部を先にもらえるが、微々たる金額だ。
そんな微々たる金額でも返さないとならない。
「いや、それよりも最終目的が同じならば、俺達と手を組まないか?」
自分の対応がリョーマに誤解を与えてしまったのを感じ取った手塚は、慌てる事無く誤解を解き始める。
「え、いいの?」
思わぬ申し出に、ぱっと顔を上げたリョーマの声のトーンが高くなる。
「あぁ、味方は少しでも多い方が良い。それに乾が直々に依頼するほどの能力者なのだから、俺達にとってもデメリットは無さそうだしな」
手塚は乾が依頼するほどの能力者を、権力を行使してまで排除する気は更々無かった。
この場合、仲間に引き入れた方がよほど得策だ。
「やった。この事件はやりがいがありそうな仕事だから、絶対にやりたかったんだ」
信じられない展開にリョーマは喜びを隠せない。
そして、リョーマからの否定の言葉が出て来ないのを安心した手塚は、一直線だった口角を少し上げた。
「へぇ、手塚にしては柔軟な考えだね。そうと決まれば手塚とリョーマ君の気が変わらないうちに乾に会いに行かなくっちゃね。それとも今から一緒に行こうか?僕達は特別捜査局に行く前にここに来ちゃったから、そろそろ行かないとまずいんだよね」
珍しく他人を受け入れている手塚にはからかいを含めた意見を言い、リョーマには自分達の状況を教えた。
ここでの詳しい状態を知るには、サウスシティの特別捜査局にいる乾の元へ行かないとならない。
下手に後回しにするよりも、今から行く方が良い。
それに先に行くはずだったのに、到着したのはヘリの操縦士だけなので、早く顔を見せに行かないとならないのもあり、それならついでに連れて行けば良いだけだ。
「そうだな、リョーマもいいか?」
「俺はいつでもいいよ」
話が決まれば後の行動は早かった。
リョーマは頭に掛けてあったタオルでまだ濡れている髪を乾かし、遅くなるといけないからと、愛猫用の食事と水を準備してから、二人と家から出て行った。
少し歩いた道路で空車だったタクシーを捕まえて、三人は乾がいるサウスシティの特別捜査局へ向かった。
タクシーでは助手席に手塚が座り、後部座席の運転手側にはリョーマ、その横に不二。
「カルピン君は、何歳なの?」
「まだ一歳位だと思うよ。俺が拾った時は片手でも余るくらいの大きさだったから」
「その割りには大きいよね」
猫はそれほど大型の動物にはならないが、一歳であの大きさは少し尋常ではない。
「突然変異だからかな?あの大きさになったのは、丁度半年前だよ。でもそれからは大きさも体重も増えなくなったんだよね」
「ふーん、やっぱり何かあるのかな」
不二はしきりにリョーマに話し掛けていて、手塚は口を出さずに聞いていただけだった。
「で、リョーマ君は十七だったよね」
「そうだよ、周助は二十一だよね」
自己紹介していた時に訊いた簡単なプロフィール。
「…高校生じゃないの?」
こんな時代でも学校はある。
無駄に費用のかかる大学だけは、何十年も前に廃止されてしまったが、代わりに高校までを義務として子供達には通わせている。
「ちょっとした事情があって、中三の時に中退した」
しかし、退学するのは個々の自由だ。
「その、ちょっとした事情って…」
「…それは、言いたくない」
ぷい、と横を向いて窓の景色を眺めたリョーマに、不二は何故だか訊いてはならない気がして、それ以上の追求は出来なかった。
「やぁ、久しぶりだね。手塚に不二、それに越前も西北部はご苦労様だったね」
「久しぶりだな、乾」
捜査官でありながら白衣を身に着けて、黒ぶちの四角い眼鏡を掛けている長身の男―――乾は久しぶりに会った二人とリョーマを、捜査局では無く、何故か自分の研究室に案内した。
乾は中心部から外れた区域にある、広大な特別捜査局内の敷地に、自分の研究所を作り上げていた。
「あれ?乾のところって海堂がいるんじゃなかった?」
きょろ、と見渡した室内は研究室と言うよりも、どこか秘密組織の基地のような場所だった。
「海堂なら捜査局で仕事の真っ最中だよ。たしか不二のところには確か河村がいたよな。河村…いや、確か…」
「ふふ、タカさんだよ、乾」
何かニックネームがあったはずだと、考え込む乾に、不二は笑って答えた。
「そうだったな、タカさんは元気にしているのか」
立ち話も何だからと、接客用に作らせたスペースに招き入れた。
「もちろん、元気だよ」
「手塚のところのサポートは…」
「俺にはサポートはいない」
二人に振り返られても、手塚は動じずに淡々と答える。
「西地区の大石には菊丸と桃城がいるのにな」
「やっぱり、サポート役は必要だよね」
特に手塚には、と思うがあえて口には出さない。
「…あのさ、俺がわからない話ばっかりしないで欲しいんだけど」
間に入れないような内容ばかりで、リョーマはつまらなさそうに口を尖らせた。
同じ特別捜査官なのだから積もる話もあるだろうが、部外者には関係の無い話はここでは止めて欲しかった。
「ゴメンね。えっと何から説明しようか?」
「じゃ、人の説明から」
気になったのはその単語だった。
「僕達が特捜司法官なのは知っているよね」
「手塚さんの手帳も見たし、周助にもさっき教えてもらったしね」
特捜司法官は東西南北それぞれに一人しかおらず、その人物を中心に動いているが、それでも一人では何かと不都合が生じるので、特別捜査官の中でも力が強く、フィーリングの合う者を自分のサポート役として選出している。
手塚達の同期は六人。
先程名前が出た大石と、ここにいる三人は特捜司法官。
そしてサポートに選ばれた河村と菊丸。
海堂と桃城は一期下の中でも、特に力が強い事から乾と大石に選ばれた。
「ま、こんな感じかな?」
わかりやすく簡単に説明をしてみせた。
「じゃ、手塚さんは大変なんだね」
不二と乾には自分以外に苦労を分かち合える仲間がいるのに、手塚には誰もいない。
「手塚って頑固者だから」
くす、と小さく笑う。
手塚の性格を良く知っているだけに、サポート役を選ぶのは至難の業。
見付けても手塚の性格と折が合わず、すぐに逃げられてしまうかもしれない。
「手塚、越前はどうだ?」
「リョーマを?」
「ちょ、ちょっと待ってよ、リョーマ君は入局していないじゃない」
不二の笑い顔が即座に消え失せる。
「だから手塚が入局するように説得すればいい。この能力を野放しにしておくのは俺達にとっては損だぞ」
乾がしみじみと言うので、手塚はついついリョーマを見てしまう。
「…手塚さん?」
自分よりも頭一つ分も違うリョーマの顔を、上から見下ろしてみる。
警察や特別捜査局に入るのに年齢は関係ない。
必要なのは能力者であり、後は出された試験に受かればいいだけだ。
しかし自由を求めているこの少年を、権力がひしめく警察内部で束縛しても良いのか。
何かに執着した経験の無い手塚にとって、リョーマはこれまで築き上げてきた自分の世界を壊しかねない存在であると共に、時を共有すればこれまでに無い新しい世界を見出せそうな予感が渦巻いている。
「リョーマは格闘も経験しているのだな。少し俺と手合わせしてみないか」
「手塚、それ本気なの?」
驚いた顔をして、リョーマに申し出をした手塚と、平然としているリョーマの顔を交互に見る。
手塚が自分から進んで他人との関わりを持とうとする事自体が珍しく、勧めた乾も驚きを隠せない。
「俺は本気だ。リョーマは身体能力に長けているのであろう?ならばその力を見せてもらいたい」
乾が認める能力を、自分の目と身体で体感してみたい。
「いいよ。俺も特捜司法官と一度やってみたいって思ってたから」
思わぬ展開にリョーマはニヤリと笑った。
「ここなら存分に動き回れるはずだよ」
普通の手合わせなら広い場所は全く必要ではないが、この二人がこじんまりとした手合わせを繰り広げるとは思えなかった。
「地下にこんなものまで作っていたなんて、もしかして乾って暇なの?」
ぐるりと見渡して、呆れたように言う。
地下に作られたのにも関わらず、トレーニングルームは天井も高く、空調設備も完備されている。
「出来の良いサポートがいて、本当に助かるよ」
きっと海堂は乾に対して文句を言いながらも、与えられた仕事をキビキビとこなしているに違いない。
人当たりはあまり良くないが、真面目な性格で常に自分の能力を磨く事を忘れない海堂は、乾が作る訓練メニューで更に能力を磨きたい、と乾からの誘いに乗ったのだ。
「あ、始めるみたいだよ」
乾が用意したトレーニングウエアに着替えた手塚とリョーマの周辺には、先程から息苦しいほどの緊張感に包まれていた。
「では、始めようか」
「いいよ」
先に動いたのはリョーマだった。
まるで空気の流れに沿った動きで手塚に向かっていく。
それだけでも戦闘に『慣れている』と判断ができる。
「手塚が圧されているね」
「そうだろうな」
リョーマの攻撃に手塚は冷静に対処しているが、反撃に出られずにいた。
今のところ攻撃を防御するだけしか出来ない。
「…越前が本気になれば、俺達なんて敵じゃないさ」
「あれが本気じゃないの?」
目の前で繰り広げられている攻防戦は、実戦のように凄まじく、ここに割り込めば怪我だけでは済まなさそうだ。
「不二には本気に見えるのか?」
乾は反対に不二に訊ねた。
「…初めはそう見えていたけど、今は…」
華麗な動きで手塚に攻撃を加えている。
胸元を掴もうとしたその腕を、手塚は寸前で捕らえて上空に投げるが、リョーマは空中でふわりと回転すると身体を捻って見事な着地をしてみせると、反動を利用して手塚に向かう。
その瞬発力には目を疑う。
「…英二も凄いけど、リョーマ君はもっと凄いね」
英二とは菊丸の名前である。
不二と菊丸は幼馴染であるが、能力のフィーリングが合わないので不二はサポートとして選ばなかった。
「菊丸の動きは動物的だが、越前のは動物以上だろ」
蝶のように優雅で、鳥のように素早く動くその姿は、これが見せ物であれば拍手喝さいで感嘆の声を上げるしかない。
「…終わりだな」
「みたいだね」
軽く跳んだリョーマの足が手塚の眼鏡に直撃し、上空に飛ばし、それをリョーマは頭の上で掴んだ。
「まだ続ける?」
手塚の前に眼鏡を差し出す。
「…いや、俺の負けだ」
眼鏡を受け取った手塚は、レンズが割れていないかを確かめる。
念入りに確認した上で、リョーマが傷付かないように蹴り上げたのに気付き降参した。
「そう?じゃ終りにしよ」
これ以上続けても格闘で手塚がリョーマに勝てる確率はとてつもなく低そうだ。
額に薄っすら汗を掻いている手塚と、息一つ乱していないリョーマ。
どちらに勝敗が下るのかは一目瞭然で、続ける事に何ら意味は無い。
「リョーマは強いな…俺では勝てない」
「俺は勝ち負けなんて考えてなかったんだけどな。でも手塚さんも結構やるね」
リョーマは右上の袖を捲くり、ウエアに隠れていた腕を見せる。
「これでも特捜司法官だからな」
防御ばかりしていた手塚が、二人には見えないところで何度か反撃をしていた。
「謙遜しちゃって。でもアザになりそうだよね、これ」
少し腫れて赤くなっている腕に、ふうふうと大袈裟に息を吹き掛けてから捲くっていた袖を元に戻した。
「すまない、痛いか?」
「こんなの平気だよ」
ぶんぶん、と腕を振ってみせる。
脱臼や骨折なんて当たり前の仕事に比べれば、こんなものはかすり傷の中にも入らない。
「二人ともそろそろ上に戻らない?」
「着替えてお茶にでもしよう」
不二と乾が二人の元へやって来て、この手合わせの完全なる終りを告げた。
「ふぅ、気持ちいい」
二人はトレーニングルームから出る前に、シャワーに入らせてもらっていた。
リョーマは手塚と違い汗を掻いていないので入る必要は無いのだが、シャワーを浴びるのは好きなので、ついでとばかり一緒に入った。
シャワールームにはブースが四つあり、サウナも設置されていた。
「でも広いね、ここ…」
大の大人が二人で入っても問題無いくらいに、ブースは広く作られていて、ソープやシャンプーの類も置いてあるので、リョーマはかなり気に入っていた。
「あぁ、そうだな…ところでリョーマ」
「ン、ちょっと待って…」
突然名前を呼ばれ、ついでに髪を洗っていたリョーマは白く泡立っている頭を急いで流した。
キュッ、と音を立ててシャワーのコックをひねる。
「何、手塚さん」
髪を軽く絞り水気を払い落とし、掛けておいたタオルでガシガシと拭く。
「…入局の話だが、その気は無いか?」
「警察に入れってコト?」
ピタリと手の動きを止めて、手塚の真意を確かめる。
「いや、俺としては警察や特別捜査局に入れという意味ではなく、俺のサポートになって欲しいのだが」
「俺が手塚さんのサポート…」
思い掛けない手塚の誘いに、頭を拭いていたタオルを床に落としてしまい、びしょ濡れになってしまったそれを拾い上げる。
「あぁ、俺は格闘系がそれほど得意ではないからな、いざという時にいてくれたら助かる」
「…ふーん…じゃ考えてみる」
「有り難い…リョーマ、その傷は?」
良い方向に進めばいいと思いながら、リョーマが入っているブースを横目でチラリと覗けば、その背中には鋭利な刃物で裂かれた痕がくっきりと残っていた。
「え、あっこれ?北西部で油断してたら、やられた」
痛々しいほどの傷は、肩甲骨の上から腰まで続いている。
背中の大きな傷以外にも小さな傷があるが、それらは自然に治りそうなものばかりだった。
しかし背中の傷だけは絶対に自然に治りそうにない。
「…不二に治してもらおう」
「周助に?何で」
きょとん、と首を傾げる。
「不二はヒーリングが得意だからな」
新しいタオルをリョーマに渡して、手塚は先にシャワールームから出た。
「…酷い傷痕を残していたんだね」
上半身だけ裸になり、ソファーにうつ伏せで寝転んだリョーマの背中を診た不二は、驚愕と唖然を混ぜ合わせた声を出していた。
「そうかなぁ?やられた時はちょっと痛かったけど、あんまり気にしてなかったからそのままにしてた」
「そのままって……訳を訊く前に治すね」
まだ真っ赤な色をしている傷痕にそっと触れてみる。
どうみても数日の間にやられた傷。
気にする、しないの問題では無いほどの酷い傷。
身体能力に長けているから治癒能力も高く、治りも早いのだろうが、この傷はこのままにしておいても良い類の傷ではない。
背中に手を当てると、不二は瞳を閉じて集中する。
「…何、熱い…ううん、冷たい?変な感じ…」
不二が触れている部分は、熱湯を掛けられたみたいに熱くなったり、氷の塊が置かれているみたいに冷たくなったりして、一体自分の身体に何が起きているのかが気になってしまう。
「傷が塞がり始めているんだよ」
裂けていた皮膚が次第に元通りになっていく。
映像を巻き戻しているかのように、リョーマの背中は滑らかな瑞々しい肌に戻っていく。
許されるのなら頬擦りでもして、ついでに口付けたくなりそうな美肌だ。
「いやいや、何時見ても妙技だな」
不二の能力は再生の力。
既に死に絶えているものは生き返せないが、生きているものが傷付いている場合は、その部分を元の形に戻す事が可能である。
「これはまだ最近の傷だからキレイに治せられるよ。良かったね、手塚」
「何故、俺に言うのだ」
おもいっきり心配なのに、その感情を隠し、少し離れて見ている手塚に、不二がにこやかに話し掛ける。
「ふふ、もう少しで終わるからね」
「…んー……」
「リョーマ君?」
ふにゃり、と口元を歪ませたリョーマは、むにゃむにゃと口を動かしているが、どうやらヒーリングの間に眠ってしまったようだ。
「完璧に寝ちゃってるよ、どうする?」
治療は既に終わっているが、起き上がりそうに無い。
すうすうと規則正しい寝息を立てて、気持ち良さそうに深い眠りに身を委ねている。
これを起こすのは可哀想である。
「捜索の為に俺が部屋に入った時に、眠っていたのを無理に起こしてしまったからな」
家の中を捜索していた手塚がリョーマを見つけた時は、光溢れる部屋のベッドの上で眠っていた。
知らなかったとはいえ、本当に悪いことをしてしまった。
きっと乾に依頼された仕事の後だったはず。
部屋に入って来た事に気付かないくらいに疲れていたところを、捜索とはいえ不法侵入して来た自分に起こされ、ついでに話の流れでここまで連れて来られ、最後に真剣に近い手合いをすれば、誰だって疲れが溜まってしまう。
「手塚、越前を仮眠室に運んでくれる」
「わかった」
シャワーブースで見た傷が跡形も無く消えていたのを確認し、脱いでいた服を着せてから身体を抱える。
「……軽い、一体何キロなんだ?」
脇下と膝裏に腕を差し入れて持ち上げた感想がこれだ。
見た目から細いのは承知していたが、この軽さはどうだ。
格闘の際、柔らかで軽やかな動きをしていたが、攻撃にも重みがあったし、確かな衝撃もくらった。
それなのに…。
「…乾、すまないが後で食事の用意も頼む」
安らいだ寝顔の中に深い疲れを感じ取った。
「何でもいいのかい?」
「無理は言わないが、出来れば栄養の偏らないメニューにしてくれ」
それだけを言い、乾が教えてくれた仮眠室にリョーマを運んで行った。
「…いいじゃない」
「手塚もこれで少しは変わるだろう」
出会った頃からどこか他人と一線を置いていた手塚。
捜査局内から『人嫌いなのか』と噂が出るほどに。
同期だからこうして普通に会話も出来るし、冗談も言えるが、これが全くの初対面であれば相手は身動きが取れないほどの萎縮してしまう。
「手塚の越前と会った時の反応はどうだった?」
「僕は手塚とリョーマ君が会った瞬間を見ていないけど、僕達が初めて会った時なんか比べようにならないほど普通に接していたよ」
まるで昔からの知人のように。
手塚は常に他人に引いている境界線を、リョーマの前だけには引かなかった。
「手塚にとって越前は唯一無二の存在になりそうだ」
「…サポートじゃなくてパートナーとしてね」
「パートナーか」
能力者として生まれれば、親や兄弟はいたとしても自分の子孫は残せられない。
彼等の遺伝情報はどんな方法を用いていても、読み取りが不可能な特殊な情報。
友人や恋人が出来ても、結局最後は一人になる。
能力者達が寂しさを紛らわす術は、同じ能力者と時間を共にするくらいだ。
身体や心に受けた痛みを慰め合い、理解する事が出来るのは能力者しかいない。
それが良いのか、悪いのかは、独自で判断すれば良い。
ただ、手塚にはパートナーが必要だと、二人は思う。
「リョーマ君も手塚を気に入ってくれたみたいだし」
乾も不二もリョーマが入局して、手塚をサポートでは無くパートナーとして傍にいれくれれば良いと願っていた。
仮眠室にリョーマを運んだ手塚は、元の部屋に戻るのも躊躇い、未だにリョーマの傍にいた。
かれこれ二時間くらいこの場所にいる。
手塚はリョーマが眠っている簡易ベッドの端に腰掛けて、寝顔を見つめていた。
大きな瞳は閉じられているが縁を飾る睫毛は長い。
軽く開いた唇は優しい桃色をしている。
寝顔だけを見れば、戦闘を得意とする能力者とは思えないほど、幼い顔をしている。
「……ん…」
微かな寝息を立ててリョーマはゴロリと寝返りをうつ。
丁度手塚が座っている方向を向いたので、リョーマの手は手塚のすぐ横にぱたりと落ちた。
一回りも小さな手にそっと自分の手を重ねると、リョーマはその手を軽く握った。
「…うっ…」
もちろん眠っているのでこれは無意識の行動であったが、手塚の焦りを誘うには十分だった。
「何をしているんだ、俺は…」
焦りのままこの手を外せば、その衝撃でまた起こしてしまう恐れが生じ、手塚は手を外せないでいた。
「…こうしていると普通の子供なのにな」
握られている手を手塚も軽く握る。
寝返りをうった際に顔に掛かった前髪を空いている手で払えば、隠れていた顔が露わになる。
その手の行き先を今度は頬に変え、ゆるく撫でた。
暫く柔らかく温かい頬を撫でていると、リョーマの瞼がピクピクと痙攣し、その振動で長い睫毛がふるふると震え、瞼がゆっくりと開いていった。
「…う…ん……あれ?」
目の前にはまたしても手塚の顔。
「起きたか」
「…俺…何時の間に…あっ、手…ゴメンなさい。もしかしてずっと握ってた?」
ぼんやりする意識の中、右手に感じる自分以外の体温に視線を移せば、手塚の手をしっかり握っているのを見てしまい、慌てて手を広げる。
「いや、違う。俺が…」
急激に逃げてしまった体温を惜しむように、手塚はリョーマの手を一度だけ強く握り、そっと離した。
「…手塚さんが?」
「あぁ、俺が眠っているお前の手の上に置いてしまったからだ。すまなかったな」
「そっか、だからかな、何かいい夢見てた気がする」
怪訝そうな表情だったリョーマは、手塚の説明で幸せそうな表情に変わり、夢の内容を思い出そうとしていた。
「どんな夢だったんだ」
「……ゴメン、思い出せないや。でも手塚さんが出てきてたよ。何でだろうね?」
ベッドの上に起き上がり、照れ臭そうにしているリョーマに、手塚は極自然に笑みを零した。
こんな風に笑える日が訪れるなんて考えた事は無かった。
今まで街の発展と治安の為に血肉を削り生き、自分には安らいだ日々は死ぬ瞬間まで来ないと信じていた。
能力者に生まれた事を呪った時期も確かにあった。
『才能に秀でているのは能力者だから』と、どれだけ苦労しても認められない。
能力者だから全てにおいて完璧を求められ、血を吐くような努力をしても、誰もが口を揃えて言う。
『能力者だから当たり前』
そのうち、自分も他人に完璧だけを求めるようになった。
完璧が能力者の証。
その考えが間違いだと気付いていながら。
自分には誰も必要としない。
完璧なんて有り得ないのだから。
しかし今は…。
「どうかしたの、手塚さん?」
心配そうに覗き込んで来るこの少年が手塚を変えた。
出会ってから数時間のこの少年によって。
「いや、その…だな、さん付けで俺を呼ぶのは止めてくれないか」
「だって、年上だし」
だからこそ『さん』を付けて呼んでいる。
「不二は呼び捨てにしているではないか」
「それは周助がそう呼んでいいって言ってくれたから」
「俺も不二と同じでいい」
「でも…」
良いと言われても、手塚を尊称無しの名前で呼ぶのには、多少なりとも戸惑いを感じるのは、親しみ易い不二と違って手塚にはどこか厳格な雰囲気があるからで、下手な事を口走れば、何百倍にもなって自分に返ってきそうだ。
「本人が構わないと言っているんだ」
「…でも…」
「リョーマ」
「…わかったよ、国光」
諦めて名前で呼ぶ事にすれば、手塚の表情がリョーマにもわかるほど和らいだ。
「どうした」
ぱちぱち、と何度も瞬きを繰り返してこちらを見ているリョーマに問い掛ければ、見る間に顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。
「どうしたんだ?」
何か気に障る事でも言ってしまったのかと、肩を掴んでこちらに向けさせる。
「…く、国光が…笑ったから」
「俺が笑ったから?」
オウム返しのように台詞を繰り返す。
「…何でかわかんないけど、ドキドキした」
どうしてそう感じるのか、リョーマにはまだわからなかったが、こくん、と頷いて俯いたまま小さな声でこう呟いた後で今度は勢いよく顔を上げた。
「あ、あのさ…俺、ここの仕事が終わったら試験を受けてもいいって思ってる」
「リョーマはそれでいいのか?」
乾や自分から頼まれて断り難くなったからでは、自由がいいと言っていたリョーマに悪い。
「…うん、本当はそろそろ一箇所で仕事してもいいかなって考えてたんだ。今までいろんなとこ行ったから、次にどこに行くのかを考えるの面倒だしさ」
「そうか」
言われたから試験を受けるので無く、リョーマ自身が進んで受けるのなら問題は無い。
それに受かってくれれば、文句無しで特別捜査局へ入局となるだろう。
仮にも入局の許可が下りなければ、自分の力で何とかしてしまえばいい。
そうすれば手塚がリョーマをサポート役として選んで、自分の勤務地であるノースグラウンドへ連れて行ける。
このまま一人で続けて行くのなら、手塚がリョーマに仕事の依頼をすればいい。
どちらにせよ手塚は「リョーマを手放したくない」と、この短い時間の間で心に決めていた。
二人の間に心地良い空気が流れた瞬間。
「…あっ…ゴメン」
場の雰囲気を壊すかのように、きゅるる、とリョーマの腹の虫が鳴った。
「…腹が空いたのか」
「昨日の朝から食べてないから…」
また鳴ってしまいそうな腹を、恥ずかしそうに両手で押さえる。
出会ったのは明るい日差しが降り注ぐ昼前で、今は朱に色を変えた太陽が地平線に隠れている最中だ。
もう少しで太陽はその姿を全て隠してしまう。
真っ赤になって言い訳をするリョーマの頭を撫でる。
「戻ろうか」
食事の用意は頼んであるのを内緒にして呼び掛ける。
「…うん」
乾に頼んでおいて正解だったな、と手塚は自分の判断に満足そうに微笑を浮かべた。
手塚とリョーマが元の部屋に戻ると、乾と不二以外にもう一人増えていた。
「…海堂か」
見覚えのある顔に手塚は思い浮かんだ名前を口にする。
「手塚先輩、お久しぶりっす」
ぴし、と背筋を伸ばし深々と頭を下げる行為は、尊敬する者へ対する礼儀。
数少ない先輩の中でも一番の能力者である手塚には、誰もが敬意を払う。
海堂も他に漏れず、その一人だ。
「そんなに頭を下げなくてもいい。俺達は同じ特別捜査官なのだからな」
ぽん、と海堂の肩を叩き、頭を上げさせる。
「頑張っているそうじゃないか、これからも乾のサポートを頼むぞ」
「は、はい」
手塚からの労いの言葉に感動して、誠心誠意この仕事をこなしていく決意をしながら拳を握り締めた。
海堂は手塚に一礼をすると、再び仕事に戻った。
「乾、済まないが…」
「食事の用意なら出来てるよ。もう食べるかい」
二人が来る直前に全てが出来上がり、別室に準備している最中だと教えた。
「あぁ、そうさせてもらう。リョーマ、食事にしよう」
「え、いいの?」
腹の虫はとうに限界を超えていて、今すぐにでも何かを腹に入れたい気分になっていた。
「いいものを見せてもらった礼だと思って食べてくれ」
「いいものって何?ま、いいか。周助も一緒にご飯食べに行こうよ?」
「じゃ、そうさせてもらおうかな」
乾の理解し難い台詞にハテナマークを飛ばしたが、食欲には勝てずに、手塚と不二を引き連れて食事に向かった。
場所を知っているのはここの責任者の乾だけなので、乾を先頭に不二とリョーマが並び、手塚が後について歩く。
「さぁ、入って」
「…うわっ」
案内されて入った部屋のテーブルの上には豪華な料理が並んでいて、リョーマの瞳はキラキラと輝いていた。
「これ、本当に食べてもいいの?」
和食に中華、フレンチにイタリアン。
デザートも豊富に取り揃えられていて、様々なメニューがテーブルの上に所狭しと並んでいた。
「好きなだけ食べてくれていいよ。足りなかったら作らせるから」
サウスシティでも一流のシェフに頼んで作らせた料理は、どれもこれも色とりどりの野菜やフルーツをふんだんに使っていて、見ているだけで食欲をそそられる。
「いただきまーす」
まずは近くにあったローストビーフと付け合せの温野菜を皿に盛り、余ったスペースに蟹とブロッコリーのサラダを乗せてぱくぱく食べ始める。
空になれば今度は白身魚の香草焼きと、大きな豚肉がゴロゴロ入っている酢豚を入れた。
「…美味しそうに食べるね」
次々に制覇していくリョーマを見ながら、不二も自分の皿に食べたい物を乗せる
手塚も同じように皿に乗せている。
「これ、オイシイよ」
箸で掴んで不二に見せたのは、イカと海老がたっぷり詰った細い春巻きだった。
「リョーマ君が勧めてくれるのなら食べようかな」
大皿にキレイに並んでいる春巻きを一つ取る。
「国光は?」
「では、俺も頂こう」
手塚からでは届かないところにある春巻きはリョーマが取り皿に乗せる。
「ねぇ、リョーマ君、何時の間に手塚を名前で呼ぶようになったの?」
聞き慣れない呼び方に不二は箸を置いてしまう。
それに何だか二人の雰囲気が変わっている。
「ついさっきからだよ。周助だって名前で呼んでいるんだから、国光って呼んでもいいでしょ」
それ以上の追求には答えない、と食事を再開した。
「手塚、リョーマ君が寝ている間に何かした?」
リョーマが無理なら手塚に訊こう、と矛先を変えた。
「…何をするんだ」
「えーと…そうだなぁ、手篭めにするとか?」
「どこでそんな言葉を覚えたんだ。お前は」
持っていた箸を落としそうになり、しっかりと握る。「昔の本だよ。確か江戸時代だったかな?」
さらりと言いのけて、出来立て熱々のポテトグラタンを口に入れる。
「うん、美味しいや」
リョーマにもグラタンを勧めている不二は、口走った台詞などとうに忘れたかのように接している。
「一体どれだけ昔の本なんだ…」
遥か彼方の昔話を出され、頭を抱える。
皿に残っていた魚の欠片を口に入れ、手塚は箸を置いた。
「もう終りなの?」
「あぁ、リョーマはまだ食べるのか?」
「当たり前だよ。こんなの滅多に食べられないからさ」
リョーマは甘い香りが漂っているデザートに手を伸ばし、数種類のケーキの中からチーズケーキとブルーベリーパイを新しい皿に乗せて、これまた豪快に食べる。
見ているだけで胸焼けがしそうなほどの量を、その細い身体に収めている。
一体にどこに蓄積されているのかが不思議で堪らない。
「リョーマ君、これも食べる?」
不二がグラスに小分けに入っているトロピカルフルーツのゼリーを指差せば、リョーマはすぐに手を出した。
「えっと、スプーンは…」
「ほら」
「ありがと」
手塚からスプーンをもらうと、ゼリーを食べ始めた。
それからもリョーマはケーキを三つと、オレンジを丸ごと一個にメロンを二切れ食べて、最後にグレープジュースを飲むと、ようやく食事は終了した。
「では、暴徒化の話だが」
食事を済ませたリョーマ達は乾と共に捜査局に向かい、このサウスシティで起きている事件を詳しく訊く事にした。
事件を解決する為には、資料の内容だけではわからない細かい情報が必要だ。
「手塚は資料を読んで、どう考えた?」
乾は手始めに手塚の考えを訊く。
「電脳化した人の暴徒化には、悪性のウイルスが関係していると考えているのだが」
脳内チップが悪性ウイルスに汚染され、ウイルスの情報により暴徒化していると手塚は考えている。
「正解だけど、それだけじゃない。出してくれ」
乾はオペレーターにパネルを操作させ、目前のスクリーンに暴徒化の映像を映し出した。
「…正解以外に何があるの」
何かに操られているように、同じ動きをしている電脳化達を目の端に収めながら、乾の真意を訊き出す。
手塚の出した答えは、不二も同じ意見であったが、どうやら乾は違うようだ。
「不二、ウイルスだけなら電磁壁をインストールしている人はどうなる?」
チップ内にウイルスの侵入を防ぐ為には、何らかの防御が必要になる。
その中でも『電磁壁』は高性能の防御だ。
但し、機能に見合った金額をしていて、一般人には滅多に手に入らない代物。
「電磁壁がウイルスを跳ね返すから問題無いね」
「その電磁壁が全く無効化されているんだよ」
「まさか、有り得ない」
「有り得るから困っているんだよ」
パネルを素早く操作して画面を変えれば、電脳化した脳内の構造が映し出された。
首のプラグから脳内チップに情報を伝達させるラインに、ウイルスを撃退するデータをインプットする方法を画面上で説明していた。
優れた科学の力が乾の能力。
実は電磁壁の製作にもこの乾の頭脳が関わっていた。
だからこそ、こうして詳しく説明が出来る。
「さて、越前」
「わかってる、これでしょ」
ハーフパンツのポケットに手を突っ込み、鈍い銀色をした小さなボルトを取り出して乾の掌に乗せた。
「それは何だ?」
「悪性ウイルスの正体を解明する為の部品だよ。一見ただの部品に見えるけど、この中にはウイルスの情報が詰っているんだ」
指の関節一つ分の大きさをしているボルトが、この事件を解決へ導く品物とは到底考え難い。
「越前が苦労して手に入れてくれた部品だ」
「もしかして、その背中の傷…」
「当たり、そん時にやられた」
北西部でこのウイルスに運良く感染しなかった電脳化した人物が、これを悪用しようとしていたのを突き止め、リョーマが奪いに出向いたのだ。
「リョーマ君、無理はしちゃだめだよ」
能力者だったから良かったものの、一般人や部分的な義体化であれば、死に至るほどの深手だった。
「俺の傑作を見事なほど駄作にしてくれたからね。出来る事なら犯人は俺の手で捕まえたいんだ」
だからこそリョーマを雇い、手塚と不二をここに呼んで欲しいと局長に直訴した。
手塚にはその頭脳で綿密な作戦を練ってもらい、リョーマにはその身体能力で犯人との戦闘を頼み、不二にはもしもの場合の治療をしてもらい、そして自分は悪性ウイルスを駆除する為のワクチンを作成する。
能力者だから出来る連携プレーを狙っていた。
「すまないが、俺にお前達の力を貸してくれないか」
一人では無理でも、それぞれの能力を駆使すれば事件は解決できる。
「ふふ、今更何を言っているの。そんな言い方、乾らしく無いよ」
「悪は退治しなくてはならないしな」
「やっぱり、面白そうだね」
元々の不二と手塚の目的は『暴徒化している電脳化した者を捕らえ、暴徒の情報の削除、もしくは排除』で、リョーマは乾から二人と同じ依頼をされていた。
それに犯人逮捕の項目を加えたとしても、与えられた任務には何も支障は無い。
「とりあえずは暴徒化している人達の救助と、犯人の逮捕だよね」
乾の横に立ち元の画面に切り替えると、画面に映った電脳化している者達の顔や姿を頭の中に記憶させる。
人並外れた記憶力は不二のもう一つの能力だ。
「その間に俺はこれを解読する」
リョーマが手に入れた、たった一つの証拠品。
「それじゃ、作戦を練らなきゃね。明日にしたいけど、さっそく始める?」
時間的に勤務時間外だし、残業手当なんて自分達には付かないのだから、乾には悪いけど出来る事なら明日にしたいのが、不二の本音だったが、そういうわけにもいかない。
「…明日でいいだろう。どうやら夜は活動しないみたいだしな」
資料にも画面にも昼間の映像や写真はあっても、夜間だけはどこにも無かった。
夜間はどうしても写し難いと言われているが、赤外線防犯カメラでもこれまでに犯行の様子が一度たりとも写っていなかったのが証拠だ。
何か理由があるのか、それともウイルスによって行動を制限させられているのか、謎は多い。
「決まりだね。乾、ここら辺で泊まるところ、ある?」
「そうだな…サウスシティ一番の高級ホテルはどうだ?」
オペレーターにホテル情報を出させて、不二が乾と宿泊場所の吟味をしている中、手塚はリョーマに近寄っていた。
「リョーマ」
「どうかした?」
さっさと帰ろうとしていたリョーマは足を止めた。
「リョーマの借家に泊まらせてはもらえないだろうか?」
「…泊まるってベッドは俺のしかないから、一緒でもいいってなら俺は別に構わないよ」
使っているベッドはシングルでもダブルでも無く、リョーマ一人で寝るのには大き過ぎるキングサイズ。
一人や二人増えても、睡眠の妨げにはならないはず。
「……問題無い」
誰かが傍にいて眠るのは、幼い頃の思い出しかない。
それも血の通った母親だけ。
二十歳を越えても誰とも付き合った経験が無い手塚にとって、他人と同衾するのは初めての体験になる。
他人の気配で緊張して眠れないのか?
一人ではない安心感で熟睡できるのか?
今はまだわからないが、何故かリョーマの横なら安心できそうな気がしていた。
「じゃ、帰ろ」
少しは仮眠を取ったが全くの寝不足。
仕事の話が明日になったのなら、早急に帰って寝たいのがリョーマの心情である。
「不二、俺はリョーマの借家にいるから、何かあれば連絡をくれ」
スクリーンでホテルの情報を出していた乾と不二は、一瞬の間を置いてから振り返った。
「…そ、そうなんだ。手塚、リョーマ君、また明日ね」
思わず頬を引きつらせながら笑顔を作る不二は、軽く上げた手をひらひらと手を振る。
「ゆっくり休んでくれよ…」
乾は眼鏡の位置が少しだけずれていた。
「……あぁ、では明日な」
「お休み、周助、乾さん」
ぎこちない返事に手塚は眉間に皺を寄せたが、その意味が何となくわかると大きく息を吐いた。
そして二人に挨拶を終えたリョーマと共に部屋から出て行った。
「…大胆だね」
「いきなり性格変わったね」
今日一日だけで二人がこれまで持っていた手塚のイメージが大きく変わってしまっていた。
「ま、悪い傾向じゃ無いからいいけどね」
きっとリョーマが傍にいれば、手塚は変わる。
それも良い方向に。
「夜も静かだな…」
サウスシティの特別捜査局は街から外れている場所に建っており、乾が用意してくれた公用車で途中まで送ってもらい、二人はレンガの道を歩く。
窓から漏れる薄明かりが真っ白の壁を柔らかく照らしていて、夜なのに街灯の必要性が無い。
どこからか優しい笛の音色も聴こえてくる。
「本当にいいとこだよね。でも中心部に入れば…」
「電脳化の暴徒で酷い有様、か」
スクリーンで見た暴徒の様子。
場所によっては人が住めない程、建物は崩れ、街中は荒廃していた。
まるで戦争でも起きたかのように。
「ちょっと前のウエストパークみたいにね」
「今はそうでもないだろう」
ぽつり、と独り言のように呟いた台詞を、手塚は当たり前のように拾い上げた。
「今はね…でも今の特捜司法官が来る前は、本当に酷かったんだよ」
ウエストパークは手の付けようも無いほど常に争い事が起きていて、特別捜査局でも頭が痛い地区だった。
どんなにエリートを配属させても、リタイア続出の地区だった。
そんな地区に次に配属されたのは大石。
大石の手腕は手塚に次ぐと言われているほど優れている。
菊丸と桃城のサポート役を二人引き連れてウエストパークに赴任した大石は、赴任したその日から争い事を次々に解決し、今ではピーク時の三分の一以下にまで争い事は減っている。
「大石が来る前か。俺も聞いてはいたが…リョーマは東にも行っていたのか?」
「暇だったから、何か仕事の依頼無いかなって思って」
単独行動をしているリョーマだからこそ、いろんな場所に足を延ばす事が可能なのだ。
このサウスシティに来てからも、色々な場所を歩き回って仕事をしていた。
その時、乾に出会い、仕事の依頼をされた。
「北にも?」
「ノースグラウンドはまだ…」
「…まだなのか、それもそうだな」
北地区に来ていれば手塚の能力でリョーマを見つけ出していたに違いないが、いなかったから手塚はリョーマの存在を知らなかった。
「でもすごく安定した暮らしが出来るって聞いてる。国光のいる地区だよね」
「あぁ…」
「北にいる人達は国光がいるから幸せだね…」
ふわり、と優しい笑顔を作り見上げる。
「そうなのか?」
「そうだよ」
それっきり言葉は交わさなかったが、こうして歩いているだけで満足してしまう自分が確かにいた。
「ねぇ、着替えは?」
家に到着した二人は、リョーマが眠っていた部屋に戻る。
カルピンは既にベッドの上で丸くなって寝ていた。
「ここにある」
小さめのバッグの中を指差す。
服や下着などは特別捜査局で支給されている。
乾に頼んで自分に合うサイズの着替えと下着を出しておいて貰っていた。
「さっすが国家組織は違うね。カルピン、悪いんだけど今日はこっちで寝てよ」
ベッドの真ん中で堂々と眠っている猫を抱えると、むずかるように一鳴きしたが、専用の寝具の上に乗せれば、本当はどこでも良かったのか、猫は少し身動きをして居心地の良い場所を決めると、すぐに寝てしまった。
「さてと…」
ベッドに戻って来ないのを確かめてから、リョーマはバッグの中から、下着と紺色のトレーナーを取り出した。
「国光、俺もう一回シャワー浴びるから、遠慮しないで先に寝ていていいよ」
そう言い残して、またもシャワールームへ消えていった。
本当はシャワーよりも不二の能力で背中の傷がどうなっているのかが気になっているのだ。
背中は自分では見られないから、この部屋で唯一鏡のあるシャワールームに行くしかない。
「…わかった」
ベッドのある場所で裸を見せるのに戸惑いを感じていた手塚にとって、リョーマがシャワーを浴びに言った事には安堵するのに、何故か肩を落としてしまう自分がいた。
大きく息を吐いてから着替えてベッドに横になる。
キングサイズだけあってかなりの広さに加え、白色の布に覆われているこの状態は、まるで雲の中に浮かんでいるような錯覚に陥る。
「…すごいな」
見た目はアンティークだが、寝心地はかなり良い。
シーツは上質のシルクで出来ていて触り心地も良かった。
それに…ここにはリョーマのオーラが漂っている。
とても安らぐ。
「何が?」
知らない間にリョーマはベッドの横に立っていて、手塚の独り言を聞いてしまっていた。
「いや、見事なベッドだと思ってな」
「俺のお気に入りなんだよ、このベッド。前に住んでいた人ってスゴイ金持ちでさ、引っ越す時も新しい家具買うからってほとんど置いて行ったんだって。これはその一つ」
パサリと布を捲りベッドの端に乗れば、ギシリとベッドが鳴った。
ただの軋みなのに、それが艶かしい音のように感じてしまうのは何故だろう。
それに…。
「そんな大きなトレーナーを着て寝るのか?」
「これのコト?そうだけど…何か変?」
肩が露わになっている黒のトレーナーは、リョーマのサイズに全く合っていない大きさ。
下は膝までのハーフパンツで、色はトレーナーと同じ黒。
「いや、寝難そうだと思ってな」
「別に平気だよ、楽だし」
リョーマも少し間隔をあけてベッドに横になった。
「そうか…」
間近に感じるリョーマの気配に手塚は少しばかり緊張してしまう。
手を伸ばせば届いてしまうこの距離。
「たまにスゴイ格好になってるけど、窮屈じゃないから楽なんだよね」
ついでに「胸まで捲れ上がっていたり、脱いでしまっていた時だってある」と話した。
「…楽なのはいいが、自分が狙われる立場になった時も考えた方がいいぞ。」
上を向いていた手塚は警戒心の欠片も無いリョーマに注意をする為に、身体の向きを変えた。
「大丈夫だよ、カルピンもいるし」
今日の昼間だって、寝ているリョーマを守るように愛猫は手塚に威嚇し、飛び掛ろうとしていた。
カルピンは猫にして猫にあらずの生き物。
「カルピンは生物学上、紛れも無い猫だぞ。もし相手が電脳化した者や能力者だったらどうするんだ」
普通の猫では無い事は、手塚も実際に変化する場面を見たので理解はしているが、電脳化や能力者であれば、突然変異だとしてもただではすまない。
「大丈夫、カルピンにもちょっとした訓練をさせてあるから、普通の能力者なら戦闘でも負けないよ。でもさ、特捜司法官も狙われたりするの?」
布擦れの音と共に、リョーマも身体の向きを変えて手塚の姿を視界に納める。
「リョーマは無いのか?」
「一箇所に留まらないからワカンナイ…」
突然、リョーマの頬は朱に染まり、瞳は手塚の顔を凝視している。
「どうした?」
「…国光って、すごくカッコイイ顔してるね」
せっかく離しておいた距離を縮めるかのように、リョーマはずるずるとベッドの上を移動して来た。
「リョーマ?」
「へぇ、眼鏡を掛けていないと歳相応だね」
「莫迦な事を言っていないで、もう寝ろ」
にこ、と笑い掛けるリョーマの方こそ、自分より四つも下の十七とは思えないほど少年に見える。
まだまだ子供の顔に子供の身体。
「じゃ、そうさせてもらおっと」
その位置のまま、リョーマは枕を頭の下に置き、寝る体勢に入った。
「お休み、国光」
瞼を閉じてほんの数秒後、規則正しく上下する胸と寝息にリョーマが夢の中へとダイブしたのを知る。
仮眠を取ったとはいえ、リョーマの疲れは乾の依頼によりピークに達していたはずだ。
きっと何度もシャワーを浴びたのは眠気を取る為。
「…ゆっくり休んでくれ」
隣で眠るリョーマのあどけない表情。
それとは異なる、格闘時に見せた無表情。
「…どちらが本来のリョーマなんだ?」
本当はどちらでも構わない。
自分の世界を壊しかねない存在は、既に狭い自分の世界を変える為の存在に変わっているのだ。
朝になって不二と合流して特別捜査局に行けば、乾は自分の研究室に篭っていると海堂から教えてもらった。
あのボルトに詰められている情報を解読するつもりだ。
「こんな朝から海堂も大変だな」
数人の特別捜査官が海堂の指示で忙しく動いている。
乾の代わりに海堂が指揮を取っているようなもの。
「俺は平気っすよ」
いつも何かと論理的に上手く言いくるめられてしまい、本来は乾の仕事であるはずの業務を自分がしているから、こんな事は何でもない。
「乾が心配か?」
「…そうでもないっす」
こんな朝からではなく夜からだろう。
何か一つに熱中すれば、夜でも朝でも関係なく研究に没頭するのが乾の行動である。
二日や三日の徹夜なんて当たり前。
「それじゃ、僕達は作戦を練ろうか。あの乾でも一日で出来るとは考え難いからね」
「そうだな」
待っていても先には進めない。
乾の能力を信頼し、三人は先に進む。
自分達に前進はあっても後退は無い。
「ここは危険なのか」
「ここはまだ平気、こっちの方が危ないよ。でもここも危ないかもしれない」
机の上に中心部の地図を広げ、暴徒が起きた場所をチェックする。
赤や黄のペンを使い、危険の度合いを分けて丸付ける。
「この建物はどこも傷が無いね」
「そこにはね、裏ルートで電脳壁のシステムを買える店があるんだ」
画面の情報を何枚にもプリントアウトし、街の様子を詳しく調べる。
「リョーマ君はどうしてそんなに詳しいの?」
不図、頭に浮かんだ疑問。
あれこれと質問してみれば、リョーマは全てに答える。
「一応は歩いて調べたから」
ここの情報を資料とスクリーン上でしか知らない手塚と不二は、リョーマが何度も中心部に行き、様々な情報を仕入れていたのを初めて知った。
こうして丸二日は、リョーマや画面上の様々な情報を一つにまとめ、手塚はその情報から犯人逮捕の作戦と犯人の正体を着実に進めていた。
「…さすが手塚だね」
「褒めても何も出んぞ」
四日目の朝、用紙にまとめた作戦の一部始終を手塚は不二に手渡した。
「わかってるよ。それよりリョーマ君は?」
パラパラと捲り軽く目を通していたが、もう一人が一緒に来ていないのを指摘する。
あの日から手塚はリョーマの借家で寝泊りしている。
毎朝一緒にやって来て、毎夜一緒に帰る。
「…こんな置き手紙があった」
腕を組んで立っていた手塚は、シャツのポケットから一枚の紙切れを広げて不二に見せた。
「なんだって?どうして一人で行かせたのさ!」
穏やかな笑顔はどこへやら、不二は切れ長の目で手紙を持っている手塚を睨む。
紙に書かれていたのは『ちょっと中心部へ行って来るけど心配しないで』と、なんともシンプルな文章だけ。
リョーマらしいと言えばそれに尽きるが、今はそんな事を言っている場合では無い。
「…俺が別室でこれをまとめていた時に出て行ったようでな、全く気が付かなかった」
誰もいないベッドを見た瞬間の不甲斐無さを思い出し、眉間に深いしわを寄せる。
「集中していたんだね」
手の中の用紙を見れば、手塚がこの作戦にどれだけの力を注いでいたのかがわかる。
「俺のミスだ。すまない」
「君だけのせいじゃないよ」
最良の作戦を考えている時は、他の全てをシャットアウトしなければならず、リョーマが気配を消して出て行けば、手塚に気付かれる可能性はゼロに等しい。
リョーマも同じ能力者。
それも最前線での戦闘要員にされるほどの身体能力を持っている。
他に意識を取られている手塚に対し、気配を消すなんてリョーマにとっては容易い事だ。
「乾はまだなのか?」
「海堂がさっき出て行ったから、多分…」
苛立つ手塚と焦る不二。
沈着冷静な特捜司法官には珍しい様子に、偶然近くを歩いていたオペレーターは持っていた書類をバサリと落としてしまっていた。
重い空気が室内に蔓延した時、見計らったかのように扉が開いた。
「遅くなったけど出来上がったよ」
二人が同時に振り向くと、そこには白衣姿のままの乾が得意げな顔で入って来た。
その右手には、ボルトから解析したウイルスのワクチンがあった。
「乾、出来たのか…」
「それがワクチンなんだね」
待ち兼ねていた相手が現れ、二人は胸を撫で下ろした。
「直ぐに使えるようにしておいたよ」
電脳化した者の首にあるコンセントは全て同じサイズ。
乾はワクチンが入力されているプラグを、コンセントのサイズに作り上げた。
これを暴徒となっている電脳化した者達に使えば、たちまちウイルスが駆除されて元通りになる。
自分の意思で暴徒となった者以外には罪が無い。
逮捕もしくは排除のターゲットは、このウイルスを作り上げ、ばら撒いている犯人だけだ。
「作戦は完璧かい?」
自分の分は終了した。
残るは作戦を作る手塚の進み具合だけだ。
「あぁ、作戦は出来たが…」
「リョーマ君が中心部に行っているんだ」
ワクチンの完成により、手塚の作った作戦を始められる状態になったが、リョーマがいなければ始められない。
「お前達の作っているピリピリした空気が、オペレーター達の緊張を誘っている訳か」
なるほど、と顎に手を掛ける乾は、どこか面白いものを見ているように二人の様子を眺めていた。
特捜司法官ともなれば、他人がいる前で感情を剥き出しになどしない。
今の手塚と不二は感情を剥き出しにしてリョーマを心配している。
「…何ニヤニヤしてるの?」
視線に気が付き、不二が乾を一喝する。
「いやいや、人間ってやつは素晴らしいと思ってな。それに丁度いいじゃないか。今から作戦を始めよう」
「リョーマ君がいないのに?一体どうやって始めようって言うのさ。連係プレーが必要って、君が言ったんだよ」
ぴく、と片眉がつり上がり、不二は棘のある言葉をストレートに乾にぶつける。
「それなら大丈夫だよ。俺が越前に中心部に行くように頼んだからね」
「乾が?」
「越前にはこれを持たせて行かせた」
手の中には小型の無線機。
スイッチを入れれば、微かなノイズと共に覚えのある声が聞こえてきた。
『…乾さん?』
無線機からリョーマの声が聞こえ、手塚と不二は安心したように深く息を吐いた。
「越前、様子はどうだい?」
そんな二人の様子をまたしても面白そうに眺め、乾は無線機越しに成果を訊ねる。
『五人に使ってみたけど、ウイルスは完全に駆除されて正気に戻ったよ。で、作戦の開始はまだ?』
「もう始められるよ。じゃ手塚と代わるから」
すっ、と手塚の前に無線機が差し出された。
それを手に取り、手塚は口を開く。
「…リョーマ」
『国光?やっぱり出来上がったんだ。流石だね』
元気そうな声に再び安心する。
「黙って出て行くんじゃない。心配したぞ」
『……ゴメン』
声からしても、心配しているのがわかり、少し間を置いてからリョーマは手塚に謝った。
乾からこっそり渡されていた無線機を通じ、昨夜のうちに家から出て中心部に向かい、朝になって活動を開始したウイルスに汚染されている電脳化した人達に、完成したばかりのワクチンを使用していた。
「…無事で良かった。怪我は無いか?」
『今のトコは大丈夫だけど、ちょっとヤバそうな場所見つけたからどうしようか悩んでる』
困ったような声が届き、三人は無言で頷いた。
「リョーマ、作戦を始める」
『…了解』
リョーマに作戦を細かく説明しつつ、手塚達は捜査局を出て、見た目は普通の車にしか見えない高性能の装甲車に乗り込んだ。
「さてと、ちょっと休も」
手塚達が到着するまでの間、リョーマは休憩に入った。
ポケットの中からコインを取り出して、暴徒から身を挺して守りながら営業している店に入った。
中に入った途端、レジの中にいた人がこちらの動きを窺っていたが、全く気にせずに大きな冷蔵庫の前に立ち、甘い飲み物を手に取る。
「…炭酸の方がいいかな」
数本を取った後、今一番飲みたい物だけを残し、レジに持って行き代金を払う。
外に出て一気に飲み干すと、ふわふわと白い雲が浮かんでいる空を眺めた。
「へー、これが装甲車?外から見たら普通の車だね」
手塚達は中心部から少しだけ離れた場所に装甲車を止めて、無線機でリョーマを呼んだ。
程なくして現れたリョーマは、物珍しそうに装甲車の周囲を観察していた。
「リョーマ、ちょっといいか」
「あ、うん。いいけど…」
外に出て来た手塚はリョーマの手を引き、残りの二人から死角になる場所に立つ。
「…怒ってる?」
黙って出て行った事はリョーマも悪いと思っている。
しかし依頼主の乾から『手塚にはバレないように』と言われていたので、この場合は仕方が無い。
「いや…」
「じゃ、な…に…」
今度は腕を引っ張られ、リョーマの身体は手塚の胸の中にスッポリ納まっていた。
「…くにみつ?」
身長の差からリョーマの頭は手塚の胸の少し上。
身体をくっ付けていれば、耳に届いてくるのは抱き締めている手塚の規則正しい鼓動の音色。
「…本当に無事で良かった」
頭上からは優しいテノール。
顔を上げれば、もっと優しい笑顔が見下ろしている。
どうしてこんな声とこんな顔をしているのかなんて理由を考えてみても、答えは一つしか見付からない。
「…ね、もしかして俺の事…」
続けようとしたリョーマの唇を手塚は指で押さえる。
「言うな…俺に言わせてくれ」
抱き締めていた腕の力を増して、手塚はリョーマの耳元に口を寄せた。
「俺はリョーマを…愛しいと思っている。初めは俺の築き上げた世界を壊しかねない存在だと思っていたが、次第に俺を自分の世界から連れ出してくれる存在だと思うようになり、今ではお前を手放したくないとまで考えるようになった。お前にとっては迷惑な話かもしれないが、俺は本気なんだ……リョーマ?」
つらつらと自分の想いを伝えた手塚の背中に、リョーマの腕がまわされ、思わず顔を覗き込んだ。
「…俺は初めて会った時から…気になってたんだよ。知らないと思うけど…」
真っ赤になりながら、自分の想いを手塚に教える。
あの日、目の前に現れた不審者に、不本意ながら心を奪われてしまった。
気の迷いかと何度も自分の心に問い掛けたが、この想いは紛い物では無く本物だった。
立場の違いもあり、リョーマは自分の中に息づく想いを抑えていた。
手塚から宿泊の申し出も内心では嬉々していたが、顔にも態度にも出さないようにしていた。
きっと手塚にとって自分の借家に泊まるのは、宿泊費用の削減の為だと思っていたのに、実際には自分といる時間を増やす為の口実。
何だか嬉しくて泣いてしまいそう。
「では、俺達は両想いだと思っていいのか?」
「正真正銘の両想いだよ」
真っ赤になった顔を元に戻す事が出来ずに、リョーマはその顔のままで笑顔を作った。
手塚が好きな、花が咲くような笑顔で。
「リョーマ、この仕事が終わったら本当に試験を受けてくれるのか?」
「受けるよ。そうしないと傍にいられないんでしょ」
「あぁ、そうだ」
「俺、国光と一緒にいたいから頑張るよ」
背中にまわしていた腕の位置を首に変える。
少し背伸びをして、リョーマは瞳を閉じた。
それが何を意味しているのかなんて、恋愛経験の無い手塚でも分かっている。
ゆっくりと重なり、同じようにゆっくり離れた二人の唇。
「…何か緊張した」
「…俺もだ」
離れた後に交わす会話は、もう以前の会話とは違う。
「俺、国光が好き」
「俺もリョーマが好きだ」
この想いを言葉にするのなら、今は『好き』だった。
その内に『好き』では無く、違う言葉に変わるだろう。
『好き』の最上級の言葉に。
でも今はまだこれで充分。
「さぁ、作戦を始めよう」
「そうだね」
そっと身体を離し、二人は車に乗り込んだ。
「越前がきな臭いと感じている場所は、俺のデータから言ってもかなりの確率で黒だな」
装甲車の中で最終ミーティングが始まった。
リョーマが見つけた建物には数人の電脳化が守るように立っており、物々しい雰囲気を作っていた。
「越前、今から十分後に突入してくれ」
「ん、分かった」
「不二は…越前の援護をしてくれ」
「任せて」
不二はリョーマに笑顔を見せる。
「手塚と俺は待機。俺達はターゲットの特定が済み次第、現場に突入だ」
「ああ…了解した」
乾はリョーマと不二に完成した大量のワクチンを、軽く説明しながら渡す。
「きっと犯人には効果が無いから…これを使え」
渡されたのは電磁カード。
電脳化ならばこれをコンセントに当てるだけで、短時間はシステムを停止させられる。
「もし犯人が人間、もしくは義体化であれば、力づくで取り押さえてくれ」
「分かったよ」
「…じゃ、行って来るね」
リョーマは手塚に小さく微笑み掛けて、不二と共に装甲車から出て行った。
中から二人の姿が見えなくなるまで見送り、周りを確認しながら車を発進させた。
「…越前が心配かい?」
ターゲットの潜伏している建物の近くまで車を運転している手塚に乾は、前を見据えたまま何かを探るように話し掛ける。
「リョーマなら上手くやるさ。不二もいるしな」
「信用しているんだ」
「いや、信頼しているんだ」
茶化したつもりだったのに真面目に返されて、乾は肩をすくめてしまった。
「周助はちょっとここで待っていて、先にあいつ等を片付けるからさ」
建物に突入はいいけれど、外でうろちょろしている電脳化は邪魔になり、時間通りに進められない。
「一人で大丈夫?」
「へーきだよ」
にこ、と笑ったリョーマを不二は見つめ、一度だけ瞬きの為に瞼を閉じた。
次に開けた瞬間にはリョーマの姿はそこに無かった。
まるで閃光のように、リョーマは建物の周囲にいる電脳化の首の後ろにプラグを差し込んでいく。
十数人いた電脳化達は、ワクチンの働きにより全ての動きがピタリと止まっている。
「インストールが開始されたんだね」
「ちょっと時間掛かるみたいだけど、もうこの人達は正気に戻るから大丈夫だよ」
自分達以外は全て時が止まってしまったかのように、全く動きが無い。
「今のってリョーマ君の本気?」
目の当たりにした能力は、不二が知っている中では最高の身体能力を持っている菊丸を更に越えていた。
「…まだまだ、だよ」
建物の入口に立ち、約束の時間が来るまでの短い時間を待っていた。
「さぁ、行こう」
時間は来た。
二人は突入を開始した。
次々に現れる電脳化にリョーマは見事な動きでプラグを差し込んでいく。
どれだけ現れてもリョーマの動きは衰えない。
手塚との手合いでは蝶や鳥のような軽やかな動きだったのに、今は風や光のように目で追えないほどの素早い動き。
「…これがリョーマ君の本当の…能力」
相手に触れられる前にリョーマは目で追えないスピードで後ろに回り、首にプラグを差し込む。
階段を上がり、犯人がいそうな部屋を探す。
この建物には地下が存在しないのは調べが付いている。
地下が無いのなら上しか有り得ない。
考えが正解だと感じるように、上に行く度に電脳化の量が増えていく。
「これが最後の階だよ」
最上階に上がるまで、一体どのくらいの電脳化がいたのだろう。
「まだワクチンはある?」
「あと、十個くらいしか無い」
不二は持っていたワクチンの半分をリョーマに渡す。
自分が持っている必要性が無いほど、リョーマ一人で済んでいる。
「何だか僕がいなくてもいいみたい」
よっぽどリョーマ一人で片が付いているこの状況。
かえって足手纏いになりそうだ。
「俺は周助がいてくれて助かってるよ」
こうして好き放題に動けるのは、後ろでサポートしてくれているから。
「リョーマ君」
「さ、もうすぐラスボスとご対面だね」
最上階にはたった一つだけの部屋。
重量感のある大きな金属の扉だけが、階段を上がった先の部屋にあった。
「開けてみる?」
「…そうしようか」
二人が力任せに押してみると、鈍い金属音を立てながらゆっくり扉が開き始める。
中に人のいる気配が感じられないので、二人は扉に身体を隠しながら室内を覗いてみれば、窓には黒いカーテンで光をシャットアウトしていて、唯一この室内を照らしているのは大量のパソコンと計装機器類の明かりだけだった。
但し、少しだけ違和感のある物体が部屋の中央にあるのだけが何とも不自然極まりない。
巨大な箱のような物体には、中身を隠すように布がかぶせられていて、中に何があるのかまでは判明していない。
「周助、中に入ろ」
「そうしようか」
辺りを警戒しながら中に入り、その物体の正体を探る為に近寄る。
「…これが犯人?」
「そうみたいだね…」
布を取り去り現れたのは、全面ガラス張りのただの巨大な水槽だった。
しかしその水槽の中には年老いた男が沈んでいた。
首にはプラグが差し込まれていて、更に多数のコードと繋がれ、この部屋中のパソコンと接続している。
どうやらこのパソコンから悪性のウイルスを無差別に送り付けていたようだ。
電脳化している者にとってパソコンは、情報を入力する為の大切な道具。
まさに時代を反映した犯罪だ。
「電脳化してるのに水の中で生きてるって事?」
「…見る限りでは死んでいるとは思うけど…」
電脳化している者は身体の全てを義体化しているので、水には絶対に浮かばない。
風呂くらいの浅い場所なら問題は無いが、自ら望んで深みに沈んでしまえば、浮き上がれずそのまま死へと繋がる。
老人も水槽の中で全く身動きしていない。
「乾、手塚…聞こえる?」
無線機を取り出し、二人に連絡を入れる。
『聞こえているぞ』
応答したのは手塚だった。
「悪いんだけど早く来てくれない。僕達じゃ対処が出来ないんだよね」
『何かあったのか?』
「来れば分かるよ」
訝しい声に対する返事は、ここに来させる為にあえて応えずに無線機のスイッチを切った。
「直接パソコンにワクチンをインストールした方がいいのかな?」
リョーマは興味深げにパソコンを見ている。
「乾が来てからだね」
不二は水槽の中の老人を見ていた。
「…これが犯人なのか」
「意外だったな」
手塚と乾も建物内にやって来て、この部屋の状態を唖然とした顔で眺めた。
「全部にインストールするしかないな。しかしこのウイルスを本当にこの老人一人で作ったのか…凄いな」
只管パソコンの画面上でスクロールしている数万桁の数字の羅列や、不規則に並んだアルファベットを眺めて、勘服したかのような声を出した乾は、水槽に沈んでいる老人からコードを引き抜き、パソコンにワクチンをインストールし始める。
手塚はその間にも海堂に連絡を取り、捜査官の派遣を要請した。
「…死んでもウイルスだけは送り続けていたんだね」
「何がこの老人をそこまで…」
水槽に沈む老人は何かを憾んでいるような顔をしている。
この世に不満があったのか、何かをやり残したのか、それはこの老人にしか分からないが、罪を起こした事は事実。
「手塚、この老人の脳内チップには大容量のデータが蓄積されているぞ」
「…脳内チップを取り出して調べるしかないな」
罪を犯した者は罰を受けなければならない。
しかしこの老人は既に事切れている。
暴徒と化した電脳化達も、ウイルスによって操られていた間の全ての記憶が、ワクチンのインストールによりきれいさっぱり抹消されていた。
犯人死亡のまま、この事件は終わりを告げた。
建物に要請した捜査官が到着すると、後の処理を任せて四人は捜査局へと戻り、手塚達は局長に任務の報告を行うと言うので、リョーマは一人先に借家に帰っていた。
「…あー、疲れた」
犯人に辿り着くまでは能力をフルで使っていたので、身体は思ったよりも疲れが出ていた。
結局、今回の事件で辛かったのは、ウイルスの情報を手に入れる為に北西部に行った時の背中を切られた相手との戦闘が一番で、今日のはただ人数が多くて大変だった。
「それなのに、犯人がアレは無いよな」
シャワーを長い時間浴びて、下着姿のままでベッドに寝転がる。
枕を抱えて事件の概要をまとめていた時、ドアを二回ノックされ、返事をする前に開けられた。
相手は分かっているから別に構わない。
これは『彼』しか行わない合図のようなもの。
「…リョーマ?もう寝ているのか?」
また起こしてもいけないと、様子を窺いながら布越しに話し掛けるのがわかり、リョーマは身体を起こした。
「まだ寝てないよ。もう終わったの?」
リョーマの声を聞いた手塚は、安心したように視界を遮っていた布を広げた。
「上への報告は終わった。後は詳しい報告書を作り、セントラルに送るだけだが、不二が引き受けてくれると言うので、任せて帰って来た」
ベッドに腰掛けた手塚の手がリョーマの頬を撫でる。
「そっか、お疲れ様」
「お前もご苦労だったな。明日には乾から依頼金が支払われるだろう」
頬を撫でていた手を顎に掛けられたリョーマは、手塚の無言の催促に黙って瞳を閉じた。
今度は頬に触れてから唇に降りてきた。
これが二度目のキスなのに、何度も交わしているように慣れてきた。
このままでは、キスだけでは物足りなくなりそうだ。
「……ん…」
「…っ…」
鼻に抜ける甘さを含んだ声に背筋がゾクリとした。
下着しか身に着けていない身体に目を奪われてしまい、慌てて手を離し目線をずらした。
「…国光?」
「いや、俺もシャワーを浴びてくる」
見上げてくるリョーマの何ともあどけない表情に居た堪れなくなり、ベッドから立ち上がりシャワールームへと消えて行った。
脱衣所で乱暴に服を脱ぎ捨て、普段よりも熱めに設定したシャワーを勢いよく出して頭の上から浴びる。
「…俺は…何を考えているんだ」
紛れも無くリョーマに欲情している自分が情けない。
初めての感情なのに、身体だけは正直に反応してしまう。
こんな時代、恋愛をするのに男も女も関係無い。
同じパーツを持っている同性同士でも、結婚に対して特に制限は無い。
「…結婚?」
頭に過ぎった単語に手塚の動きが止まる。
想いが通じ合って始まったばかりの恋愛なのに、驚く事に自分の中ではもう最終目的まで視野に入れていた。
「…リョーマもあと一年で…いや、その前に…」
「国光?」
これから先を勝手に作り上げている時に、後ろから声を掛けられてしまい、将来の生活設計の計画を止める。
「ねぇ、何ぶつぶつ言ってんの?」
何時まで経ってもシャワーの音が止まないので、リョーマは心配になって様子を見に来てしまった。
「もしかして、どっか具合悪い?」
今さっきまで独り言を繰り返していたのに、急に黙り込んでしまって更に心配になる。
「いや、何でもない。事件を考えていたのでな」
ドアから顔を出して不安そうに訊ねてくるリョーマに、こちらも顔だけ振り返り対応する。
もちろん表情は出来るだけ和らげて。
「そ?」
どうやら納得したのか、あっさり顔を引っ込めてドアを閉めた。
「…ふう」
一度だけ高揚した気分を抑える為に大きく息を吐き、身体と髪を簡単に洗い、これ以上は心配を掛けさせてはならないと、濡れた髪をタオルで乾かしながらシャワールームから出た。
ベッドに戻ると、リョーマは既に安らいだ寝息を立てており、その警戒心の無い姿に思わず気が抜けてしまった。
「…またこんな格好で…」
初めて同衾した時に着ていたぶかぶかのトレーナーとハーフパンツを身に着けている。
「誰かに襲われても知らないぞ…」
例えで言っていても、リョーマほどの能力者を襲うなんて手塚でも至難の業だ。
軽く頭を撫でてから、足元に置いてある掛け布団を肩まで掛けてやり、自分も休む事にした。
「これが依頼金。ご苦労様だったね」
次の日に手塚と乾のいる研究室に行ってみれば、手塚の言うとおり依頼金を手渡された。
「ども…何か多くない?」
封筒に入っている札の幅にかなりの厚みがあるのを受け取る前から気付いていたので、行儀が悪いと思ったがその場で開けて中身を見てみる。
「今回の事件は越前の働きで片が付いたからね。上乗せしておいたよ」
「だからってこれ、倍になってるし…」
初めに提示された依頼金の倍の金額が封筒に入っていた。
裕福な暮らしを望んでいないリョーマにとって、必要以上の金は要らない。
次の仕事までの生活費くらいが丁度いい。
「それと餞別も含まれているから」
「餞別って?」
何の事だろうと首を捻る。
「越前が試験に合格して、俺達と同じ特別捜査官になる為には、多少なりとも必要だからね」
乾に言われ、これから進む道が今までとは全く異なる方向の道に歩く事を思い出した。
「…じゃ、遠慮なく…」
今までみたいに各地を転々とする生活を捨てて、これからは一箇所に留まる生活を決めた。
その為には住む場所が無条件で必要になり、更に最低限の家具や電化製品を揃えなければならない。
資金は多い方が助かる。
封筒は無造作にポケットに突っ込んだ。
「そうしてくれ。ところでもうサウスシティから出て行くのかい?」
「うーん、あと二日位はいるつもりだけど…」
ちら、と見上げた先には手塚が立っている。
こちらは自分とは違って組織の一員であり、ここには任務として来ているので、任務が完了したのならば即行で帰るのが妥当だ。
「手塚達は一旦セントラルに?」
リョーマの視線に気付いた乾が、手塚に問い掛ける。
「いや、不二がまだ報告書に手間取っているらしく、二日ほどはこちらに滞在する予定だ」
色々と難しい部分もあり、まとめるのに時間が掛かると連絡が入り、不二はここには来ていない。
「…だそうだ、越前」
手塚の返答をそのままリョーマに。
「何で俺に言うワケ?」
「知りたかったんだろう?」
口の端だけをニヤリと上げた。
「…俺にはもう用は無いでしょ?じゃあね」
親切心はほんの少しで、後はからかいで言ってくる乾の性格の悪さに機嫌が急下降し、捨て台詞を置いて部屋から出て行ってしまった。
「…乾…お前…」
「悪気は無かったんだけどな」
「…俺も帰らせてもらう」
乾の態度に大きく溜息を吐いた手塚は、リョーマを追い掛けるべく部屋から出て行った。
行き先は一つしかないので廊下を足早に歩く。
「リョーマ」
「…国光、何で?」
呼び掛けられて振り返ったリョーマがいたのは、手塚が推測した研究所の玄関ロビーで、タイミング的には入口の扉に手を掛けていた所を呼び止めたところだ。
「…帰ろう」
「もういいの?」
リョーマは依頼金を受け取りに来ただけだが、手塚には他にも用があり、ここに残りこれから乾と話でもするのかと思っていた。
「今日はリョーマに付いて来ただけだからな」
自分には何も用が無いのを教えると、リョーマは笑いを浮かべた。
手塚はリョーマの肩を抱き研究所を後にすると、少し歩いたところで空車のタクシーを止めた。
ドアが開くと先にリョーマを乗せて、自分は後から乗る。
「ありがとうございます。どちらまで行かれますか?」
三十代前半の女性ドライバーは、ミラー越しではなく後部座席の二人に振り返り丁寧な口調で訊ねてくる。
「どこか近くで観光の出来る場所はありますか」
「少し離れなくてはなりませんが、よろしいですか?」
「はい、構いません」
手塚とドライバーのやりとりを横で聞いていたリョーマは、ただ目をパチクリさせていただけだった。
自分が口を挟む余地は無く、二人だけで話が進んでいく。
「それではご案内致します」
中心部には観光名所な建物があったが、暴徒により跡形も無く破壊されてしまい、観光するのなら中心部から離れなければならなくなった。
「お願いします」
行き先が決まると、ドライバーはシートベルトをしてから周囲を念入りに確認し、振動を出来るだけ与えないよう車を発進させた。
サウスシティは大通りになると車の量は多くなるが、ちょっと裏に入ると車の往来は比較的少ない。
このドライバーも慣れているのか、大通りを通るのを始めから避けていた。
「…国光」
「今日くらいはいいだろう?」
リョーマが自分を見ていたのには気が付いていた。
手塚も出来るのならば一緒にいたいのが本心だった。
膝の上に置かれたリョーマの手の上に、自分の手を重ねてみる。
「…そうだね」
微かに赤面した顔を見せると、膝の上の手を反転させて手塚の手を握った。
「せっかくなのだから、一日位はサウスシティを楽しもう」
二人きりで、と付け加える。
「…周助はいいの?」
その言葉に喜びながらも、不二の事が気掛かりだった。
不二はこの事件の報告書をまとめるまであと数日は掛かると言っていた。
あの老人の正体は脳内チップの情報により即座に調べられたが、困った事に老人はこのサウスシティでも屈指の技術者であったのだ。
何が困るのかと言えば、数年前までは特別捜査局内部のコンピューターのシステムを開発し、管理をしていた重要人物の一人だったのだ。
こうしたコンピューターのシステム事情に詳しい者だからこそ、こんな犯罪を思い付いたのだろう。
しかも自分の命と引き換えに。
「任せっきりにはしないさ」
明日は不二のところに顔を出して、報告書のまとめを手伝う気でいた。
二人に与えられた任務を不二だけに任せはしない。
「真面目だね」
「そうか?」
「…でも、一緒にいられて凄く嬉しい」
最後にちょっとだけリョーマは自分の本心を手塚に伝えてみた。
「お客様、到着致しました」
タクシーが止まった場所は、中心部から東へ走ると数十分で着く、古くからある美術館や博物館などで芸術を鑑賞するのも良く、屋内総合グラウンドで汗を流すのも良く、テーマパークで童心に返って遊ぶのも良い、ここは何でも揃っているスポットだった。
もちろん飲食店やショップも充実していて、観光目的で着た者たちは必ずここをメインにする。
「へぇ、こんなところがあったんだ」
先にタクシーから降りたリョーマは、目の前に広がる風景を眺めていた。
原色を基調にした色彩を使い、建物を彩っている。
借家の周辺では見られない色合いに、リョーマは目を輝かせた。
「サウスシティだからこそだな」
遊びや観光で訪れる人達を守る為に、あちらこちらに監視カメラが設置されている。
警備ロボットの数も半端では無く多い。
「で、ここで何するの?」
「とりあえず食事にしようか。今朝は何も食べずに乾の研究室に行ってしまったからな」
さり気無く左手を差し出せば、当たり前のようにリョーマはその手に自分の右手を重ねた。
「実は俺、けっこう腹減ってたんだよね」
自分の腹を擦りアピールする。
「そうなのか?リョーマは何が食べたいんだ」
「うーん、俺としては和食がいいな」
リョーマの要望を全て叶える為に、手塚はスポット内でも有名な和食の店に決めた。
時間的にまだ昼食の時間と重ならないが、有名店では時間に関係無く来店するので、確認の為に電話をしてみれば、個室が二つ空いていただけだった。
一つを予約しておいて、その店に向かう。
「こちらです。どうぞ」
通されたのは今では珍しい畳の個室で、メニューを見て食べたい物を注文すれば、暫くの間は二人きりになる。
「…リョーマは…」
「俺?」
湯気が立っている熱いお茶を、息を吹き掛けて飲もうとしていたリョーマは、視線だけを手塚に向けた。
「…ここを出たらセントラルに行くのか」
「だって警察の試験はセントラルでしか受けられないんでしょ?」
「そうだが…」
思い詰めたような手塚の表情に、一口だけお茶を飲んだリョーマは、湯呑みをテーブルの上に置いた。
「何か国光らしくないね。はっきり言ってよ」
「…セントラルには一緒に行かないか?」
断られるのを覚悟で、手塚はリョーマに提案する。
「国光と?」
「あぁ、俺が試験の手続きをしておくから、セントラルに到着すれば当日に受けられるだろう」
「へぇ、さすが特捜司法官だね。いいよ、俺も国光が一緒にいてくれるほうが何かと助かるし」
もちろんリョーマは一つ返事で了解した。
頼んだ料理が部屋に届くと、二人は食事を開始した。
「じゃ、頑張ってね」
結局は四日後にセントラルへと戻った手塚と不二、そしてリョーマは警察本部にいた。
手塚と不二はサウスシティの事件の詳細を局長に報告の為に、リョーマは試験の為に。
「周助はイーストランドに戻るんだよね」
「いつでも遊びにおいでって言っても、君が特別捜査官になったら無理かもね」
事件の報告が済めばここにはもう何も用が無い不二は、これから勤務地であるイーストランドに戻る。
「そっか、何か大変なんだよね」
手塚から色々と聞いてはいるが、組織の一員になるのは初めてなので、わからない事だらけだ。
「でも、君はもっと大変だよ。ノースグラウンドは安定した良い街だけど、この日本で外交が許されている唯一の街なんだからね。大丈夫だとは思うけど気を付けて」
手塚の手腕により住みやすい地区になっているが、それでも事件は起きている。
北地区で事件を起こすのは、周辺にある元々は日本の一部だった島に住んでいる者達が多いのが特徴だ。
「ありがと、周助も頑張って」
最後に握手を交わすと、不二はその手に軽くキスをしてから去って行った。
「リョーマ」
不二の後姿を消えるまで見送ってきたリョーマに、手塚が声を掛けた。
「あ、国光。周助もう帰っちゃったよ?」
「あぁ、先に不二とは話をしておいたからいいんだ。それより試験会場に行くぞ」
既に試験の受付けを済ませていたリョーマは、手塚の引率によって試験を受ける会場に向かった。
「あれが試験なんだ、ちょっと意外な感じ…」
たった一人で受けた試験。
普通に筆記テストをイメージしていたのに、持っている能力を試験官に納得するまで言葉で説明し、その能力を見せる事から始まった。
一応はマークシート方式のテストはあったが、それも小さな子供でもできそうな簡単な内容だった。
「能力者に求めるものは一般人とは異なるからな。頭が良いだけでは現場では全く使えないんだ」
試験結果が出るまではセントラルに滞在しないとならない為に、リョーマは手塚と共に警察内部にあるゲストハウスにいた。
「結果はいつ出るの?」
「明日の昼には発表される」
大の大人五人でも充分座れるソファーに座っている二人は、極自然に身体を寄せ合っていた。
「受かってるといいけど」
「大丈夫だろう。それにリョーマには今回の事件での成果があるからな」
肩を抱けば、リョーマは頭を手塚に預ける。
その艶やかな黒髪に口付けてみれば、リョーマはおもむろに顔を上げた。
「…ね、キス…しよ?」
まるで誘うように唇を突き出して瞳を閉じる。
せっかくの誘いに乗らない手塚ではない。
「…リョーマ」
向き合って両肩を抱いてから、その唇を塞いだ。
角度を変えて何度も重ねていると、息苦しくなったのかリョーマは少し唇を開いた。
開いた唇の隙間から、思い切って舌を差し入れてみれば、少しだけ身体が跳ねたが、リョーマは受け入れる。
優しく誘い出したリョーマの舌に自分の舌を絡めて、本格的なキスに変えていく。
「…ん……は…」
軽い水音を立てながら繰り返されるキスに、二人は夢中になっていた。
何度も交わしているうちに、手塚は大胆な行動に移す。
そっと肩を押してリョーマをソファーに倒した。
「…国光…」
自分を見下ろしている手塚にリョーマは腕を伸ばし、その背中にまわした。
「あのさ…」
額や頬など至るところに口付けられていたが、素朴かつ重要な疑問が頭に浮かんだ。
「どうした」
珍しく何か言い難そうにしているリョーマに、手塚は少しだけ顔を離す。
「国光は…その、経験あるの?」
何が、とは言わないが、リョーマの言いたい事は分かる。
今のこの現状で言いたい事など一つだけだ。
「いや、キスもリョーマが初めてだ」
「そっか、俺も国光が初めて」
お互いに初めての経験なのをこの時知った。
何をするのか、どこをどうするのかなんて、知識として頭に入っているが、実際に行為に及んだ経験が無い。
これまで手塚は仕事に専念していて、肉体的な喜びを味わう行為の前に、恋愛自体にすら興味が無かった。
一方のリョーマは、恋愛自体に興味はあったが、一箇所に留まる生活では無かったので、そういう関係になりそうな相手には極力近付かないようにしていた。
「俺は…リョーマの全てが欲しい」
リョーマを前にしたら、今までの考えがどこかに飛んで行ってしまい、心や身体だけでは無く、何もかもが欲しいと切に望む。
「俺もだよ…ううん、国光の初めては俺が全部欲しいよ。でもさ、ここじゃマズイよね」
出来る事なら傍にいて同じ時を過ごしたい。
リョーマも自分の心に素直になる。
「そうだな、流石にこの場所では…な」
昂ぶった感情は、周囲の風景により冷め始める。
警察内部にいる限り、手塚に対し緊急な呼出しが掛かるかもしれない。
「リョーマが特別捜査官になり、俺がサポートとしてリョーマを選び、北に連れて行ってからだな」
それも数日、いや、上手く行けば明日で終わる。
「それまで大丈夫?」
紳士的な手塚だからこそ、有り得ないと思いたいが、理性が欲望に負ける可能性は捨て切れない。
「悪いが分別はあるぞ」
獣では無いのだから欲望のままに襲い掛かりはしない。
リョーマの身体を起こして強く抱き締めた。
「おめでとう、越前リョーマ君。今日から君は特別捜査官の一員だ。これが認定書と特別捜査官のバッチだよ。無くしたらダメだからね。初めはわからない事だらけで大変だろうが、越前君は手塚君のサポートとしてノースグラウンドでの勤務になるから手塚君に色々と訊くといいよ。彼はとても優秀だから、何も心配は要らないよ」
翌日の朝早く試験官から試験の結果連絡が入り、リョーマは手塚と共に局長室にいた。
室内だというのにサングラスを掛けていたり、無精ヒゲを生やしていたりして、傍目からならただの胡散臭い人物だが、流石にこの特別捜査局のトップらしく、認定を受ける前に見ていた部下とのやりとりを目の当たりにして統率能力が優れていると感じた。
そうでなければ局長になんてなれないだろう。
「あ、はい。頑張ります」
隙を与えないくらいの勢いで一気に話したついでに両手を掴まれて、リョーマは目をパチクリさせていた。
局長の肩書きを持つ人物だから、お堅いイメージを想像していたのに、目の前にいる人はかなり普通の人物だった。
しかもまだ若く、手塚や不二達と年齢がほとんど変わらないように見える。
「素直でいいですね。手塚君、越前君を頼みましたよ。しっかり教育して少しでも君が楽になれるよう、充分教育しなさい」
リョーマの手を解放すると、人当たりの良さそうな笑顔で手塚の肩を叩く。
「はい、大和局長」
「こちらも大変良い返事ですね」
凛とした声で返事をすれば、満足そうに頷いた。
「越前君は今日からノースグラウンドでの勤務となりますが、何か質問はありますか?」
くるりと回転し、リョーマの前に顔を突き出して人差し指を立てた。
「別に…無いですけど…」
「そうですか?遠慮深いんですね」
下手に質問をすれば長々と説明されそうな予感がし、それなら手塚に直接訊けば良いと自分の中で結論付けた。
意外とこういう悪い予感は当たる確率が高いのだ。
「では、手塚君。後を頼みましたよ」
こちらもリョーマの考えをお見通しだったようで、あっさりと手塚にバトンタッチしていた。
「はい。それでは失礼します。リョーマ…」
「え、失礼しマース」
手塚に腕を引かれ扉の前に立つ。
「頑張って下さいね。期待していますよ」
大和がこちらに向かい手を上げれば、手塚が最敬礼をするのでリョーマも手塚に合わせて礼をしてから部屋から出て行った。
「ねぇ、局長って何歳なの?」
「俺より二つ上だ。大和局長は俺達の二期上の先輩だったんだ。気さくな良い先輩だった」
こっそり訊ねてみれば、手塚はその頃を思い出しているのか懐かしそうに話してくれた。
「ふーん、局長ってまだ若いんだね」
手塚達と変わらないように見えていたのは、間違いではなかった。
「前の局長は引き継いだ時点からかなりの高齢でな。後を継がせるのなら今度は若い人物にしたいと周囲に漏らしていたそうだ」
局長に選ばれるのはある特定の能力がある者だけで、微かでもあれば候補に選出される。
「それで選ばれたのが、あの人ってコトなんだね」
「あぁ、それぞれ他に能力があったが、大和局長の能力はその特定の能力だけだったんだ」
候補に選ばれたのは三十人ほどで、中でも大和の能力はトップレベルだった。
年齢を重ねていて色々と知っているからとか、性格が良く人徳があるからなどの理由で、必ずしも上の立場に選ばれるとは限らない。
ここは能力が全ての世界。
「さぁ、荷物をまとめて出発しよう」
「もう行くの?」
結局はセントラルにいたのは一日だけ。
「信頼できるスタッフが揃っているが、これほど長い時間留守にしたのは初めてなのでな」
数日間の出張ならこれまでもあったが、一週間以上も離れていたのは初めてだった。
「やっぱり真面目だね」
「それに…早くお前に触れたい…」
リョーマにしか聞こえないトーンで呟けば、リョーマは顔を真っ赤にしていた。
「ここは何?」
「あぁ、そこは喫茶ルームになっている。軽い休憩や談話などをしているみたいだ」
専用ヘリでノースグラウンドに着いた手塚は、手始めに迎えにヘリポートに来ていたスタッフ達に留守にしていた間の報告を簡単に訊いた。
小さな事件は一件だけあったが、他には何も無かったのを知ると、リョーマに捜査局内の案内をしていた。
リョーマが来る事はセントラルで連絡しておいたのでそれほど混乱は無く、他の捜査官と廊下で擦れ違えば、全員が笑顔で会釈をしてきた。
中には緊張した面持ちで最敬礼をしてくる者もいたが、どうやらかなり好意的に見られているようで安心した。
「ここがメインルームだ」
「乾さんの所とちょっと違うね」
自動扉が開き中に入れば、右から左へと室内全体を見渡してみる。
「あそこは乾自身が手を加えているからな」
サウスシティの捜査局の設備は、最高の技術を注がれて作られている。
セントラルの設備も、わざわざサウスシティからその当時最高峰の技術者を呼び寄せて作らせたほどだ。
「でも負けてないよ。ここの設備もレベルが高いね」
「そうか、リョーマにそう言われると嬉しいな。すまないが少し待っていてくれ」
恐縮しながら手塚の傍にやってきた一人の捜査官が、何かのレポートを差し出した。
手塚は先にそちらの対応を始めた。
暇になったリョーマはパネルを操作しているオペレーターの近くに寄り、その手元と画面を眺める。
「…アンタ、何やってんの?」
「仕事ですが…」
抑揚の無い声で応えを返し、真っ直ぐ画面を見ながら操作し続けるオペレーターの手をリョーマは咄嗟に掴む。
「悪いけどそれが仕事なら、俺はアンタを捕まえるよ」
周囲にいたオペレーター達はリョーマの声に、にわかにざわめいた。
いきなりの逮捕の言葉に視線がリョーマに集中する。
「あなたにそんな権利があるのですか?」
冷静を装っているオペレーターの声に変わりは無いが、その視線は泳いでいた。
「あるね。アンタは上手く騙しているつもりでも、それは紛れも無く犯罪だからね」
動きの止まったオペレーターの代わりに、リョーマがパネルを操作する。
「…これを押せば、ジ・エンドってコトでしょ」
カタカタとキーボードを押し続けたリョーマの指は、数字のゼロのキーの上。
「何故、お前に分かる」
「アンタの顔見た事があるよ。ウエストパークでね」
「ちぃっ」
自分の正体がバレたのを知ると、オペレーターに扮していた男はリョーマの手を振り払い、隠し持っていたナイフをかざして逃げようとした。
ルーム内に悲鳴と驚愕の声が沸き起こる。
「…バカだね」
椅子から立ち上がり駆け出した瞬間、リョーマは男の前に素早く移動し、そのままナイフを持っている男の腕を掴み投げ飛ばした。
「ぐはっ」
きれいな放物線を描き、鈍い音を立てて背中から床に倒された男は苦しそうに低い呻き声を出した。
「ほらそこ、ぼさっとしてないで、こいつが触っていたパネルの操作を解除して」
リョーマの見事すぎる行動に、誰もが息を止めて見つめていたが、その声に我に返るとオペレーター達は慌てて操作を始めた。
「リョーマ、何があった」
手塚も数人の捜査官を引き連れて傍に来た。
「何がじゃないよ。こいつAランクの犯罪者だよ」
「何だと?」
「ほら、よく見て」
変装しているが、よく見れば指名手配中の犯罪者だった。
「こいつの手口はコンピューターに関係してて、さっきもここのコンピューターにアクセスして、ウイルスを送ろうとしていたんだよ」
何かを打ち込んでいるのに、画面上には全く現れない。
これはウイルスを送る際に使用される手口の一つ。
「さすがだな、リョーマ」
これほど近くに犯罪者がいた事に驚いていたオペレーター達は、冷静を取り戻すと早速コンピューターと男の顔を照合してみる。
犯罪歴はかなり多く、ウエストパークでは大企業のコンピューターを麻痺させて、その企業の損害を招き、更にはイーストランドでも同様の手口を使い、有名宝石店で貴金属類の盗みを働いている。
「ここに着いて早々、しかも捜査局内で事件が起こるなんて思わなかったけどね」
他の捜査官にこの男の確保をさせて、リョーマは溜息を吐けば、手塚は困ったように苦笑いを浮かべた。
「犯罪者が捜査局内に入り込めば、セキュリティーシステムに引っ掛かるが、今回はそのシステムを初めにやられていたようだな」
犯罪者の顔や特徴は全てセントラルのホストコンピューターに登録されていて、各地の捜査局のコンピューターに随時送信される。
その送信時にこの男が何か特殊な操作をし、自分の記録だけを抹消させてまんまと忍び込んだ。
「…国光がいない時を狙ったんだね。で、やっと戻って来たから、その自慢の腕を見せようとして」
「リョーマに見付かった訳だ。相手が悪かったな」
この一件でメインルームにいた全員に、手塚が頼もしいサポートを連れて戻って来た事を知らしめた。
「コンピューターのシステムは、リョーマのおかげで無事だった」
捜査局内にある手塚のプライベートルームに二人はいた。
何か起きた時に遠くにいては俊敏に対応できないので、こうして捜査局内に自分の住処を作るのがトップの基本だ。
ルームと言っても、ダイニングキッチンとそれに続くリビング、広い主寝室には小さな書斎も付いていて、客室が二部屋あり、バスルームの広さも申し分ない。
まるでマンションでも借りているようだ。
「何も無くて本当に良かったね」
あと少し遅ければ、大きなダメージを受けていた。
「これは俺の責任だな…」
「何でだよ、別に国光だけの責任じゃないよ。こういうのは組織全体に問題があるんだよ?」
「リョーマは手厳しいな」
ソファーに座っているリョーマに、紅茶を差し出す。
「そっかな」
砂糖とミルクを入れた紅茶をちびちび飲む。
「熱いのは苦手か?」
手塚はストレートティーを飲んでいる。
「猫舌なんだよ。あー、カルピンは大丈夫かなぁ?」
ふうふう、と湯気が立ち上っているカップに息を吹き掛けながら、手元にいない愛猫の姿を思い描く。
ここに来る前、カルピンはセントラルに住んでいるリョーマの従姉妹に預けてきた。
「大丈夫だから預けたのだろう?」
リョーマと同じ能力者であるが、至って普通の生活をしていて、突然変異の動物の世話をする仕事をしている。
突然変異の動物は、その力の為に捨て駒として凶悪事件に使われる確率が高く、時に戦闘能力に多大な変異を及ぼす動物は、裏で売買がされているくらいに。
だからこんな理不尽な目的で傷付いた動物達の世話をする団体が創立された。
団体と言ってもペットショップみたいなものだ。
その団体にリョーマの従姉妹は所属している。
「ま、菜々子姉に任せておけば何にも心配無いと思うけどさ、それでも心配なんだよね」
「動物と心を通わせる事が出来るとは、かなり特殊な能力だな」
リョーマがカルピンを預ける時も、しきりに何かを話し掛けていたのを思い出す。
菜々子はどんな動物でも自分の言葉で会話ができる。
「だよね、俺も聞いた時は本当にビックリしたんだ。だってさ、身近で能力者がいるなんて珍しいじゃない」
能力者が産まれる確率を考えれば、身近な親類の中に二人もいれば、これはかなり珍しいと言える。
「そういえば、リョーマのご家族はどの地区に住んでいるんだ。入局の話はもうしたのか?」
今までそんな話をしなかったのが不思議なくらい、本来ならば初めの頃に訊ねる質問を今更ながらに訊く。
「…俺はセントラルに住んでいて、家族は親父と母さんと俺の三人だけで、両親は三年前に車の事故で死んだよ。俺はこの能力のおかげで助かったんだ…」
見る間にリョーマの瞳が切なげに揺れる。
両親は普通の人間。
元々身体が弱かった母親は、もう二度と子供の作れない身体になってしまっていた。
リョーマは子孫を残せる身体では無い。
母親は自分と同じ状況にあるリョーマを、本当に大切に育てていた。
そんなある日、家族三人で少し遠い場所に車で出掛けたある日、正面から猛スピードで突っ込んで来た車を避けられず衝突し、車は前面を大破し、運的席と助手席に座っていた両親は即死状態だった。
リョーマはその能力から危険を察知し、間一髪のところで運転席と後部座席の隙間に身を隠し、打撲だけで済んだ。
葬式と三十五日を済ませたリョーマに、家族ぐるみで仲の良かった父親方の親戚が全面的に面倒を見てくれると言ってくれたが、リョーマは断った。
その親戚にもリョーマと同じ能力者がいて、それが菜々子だった。
「そうだったのか…」
触れてはならない部分に触れてしまったようで、手塚は己の発言を悔やんだ。
「だから俺は一人で生きてきたんだ」
年齢的にまだ学生であったリョーマは学校を中退し、自分の能力を高める為に各地を回っていた。
そこで出会った人達から数々の知識や訓練を受けて、今のリョーマが作り上げられた。
「…リョーマ」
初めて会った時にタクシーの中で不二と話していた会話を思い出した。
どこの組織にも入らず、一箇所に留まらない。
きっとリョーマは意識的に大切なものを作らないようにしていたのだ。
また大切なものを失うかもしれない恐怖。
能力者だから助かる。
能力者ではないから助からない。
目を背けたくなるこの構図に、リョーマは何とかして立ち向かおうと、自己能力に磨きを掛けた。
不安や絶望の類は一度きりでいい。
「俺はね、目の前で困っている人を助けられる能力者になりたかったんだ。たった一人でどこまでやれるかわかんないけど」
自分がどれだけ犠牲になってもいいから、救える者は何としても救いたい。
手塚はソーサーにカップを戻し、リョーマの横に座れば、二人分の重みでソファーが少し沈んだ。
「これからは一人ではない…」
手塚の腕がリョーマを優しく包む。
「…国光がいてくれるから、もう一人きりじゃない?」
この腕の温かさは失いたくない。
何よりも先に手を差し出したのは手塚の方、この場合の選択権はリョーマにある。
悩む事無く、リョーマはこれまでの生活を捨てて、手塚の傍にいる選択肢を選んだ。
この腕がある限り、自分は強くなれる。
これはきっと、『多分』とか『きっと』なんて曖昧なものではなく。
この人さえ傍にいてくれれば…もっと。
圧倒的な確信の上に立つ想い。
「あぁ、そうだ。もう一人にはさせない」
リョーマの過去を知り、手塚のリョーマを愛しく想う気持ちが更に膨らむ。
リョーマの手からまだ中身が残っているカップを取ると、零さないようにテーブルの上に置いた。
「…国光」
「俺と共に生きてくれ…」
包むだけの弱い抱擁を、しっかりしたものに変える。
「…俺なんかでいいなら…」
手塚の胸に顔を埋めていたリョーマは、まるでプロポーズとも思える手塚の台詞に自虐的な言葉で答えた。
どこか今までと違った気持ちで二人は食事を取り、入浴を済ます。
これから何をするかなんて、あえて言う必要は無い。
微かな緊張と高鳴る動悸を同時に感じながら、リョーマはベッドに腰掛けた。
「…リョーマ」
眼鏡を掛けず素顔を見せている手塚は、リョーマの前に立ち、少し屈むと両手で頬を包み込む。
リョーマはそっと瞳を閉じた。
手塚はゆっくりと顔を近付け、頬よりも温かい唇に優しく触れ、一旦解放すると今度は啄ばむように何度も触れる。
息継ぎの為に薄く開いた唇の隙間から、舌を差し入れて口腔をなぞったあとでリョーマの舌を甘く誘い出す。
鼻孔を掠めるソープの香りに酔いしれながら、口付けを深いものに変えていく。
絡め合う舌の動きにより水音が耳に届き、リョーマは頬に添えてある手塚の腕を掴んだ。
「…大丈夫か?」
絡めていた舌を解放し、手塚は唇が触れる距離で様子を窺う。
「…ん、ちょっと苦しかっただけ…」
お詫びとばかりに今度はリョーマから手塚に口付けた。
リョーマの行動に触発された手塚により、再会された口付けの後、手塚は力が抜けたリョーマの身体を抱えベッドの中央に下ろす。
「…ね、灯り…消して欲しい」
パジャマのボタンを外す手塚に小さな声で訴える。
煌々と照らされた室内に、リョーマの羞恥心が増大する。
「あぁ、わかった」
ベッドの脇に設置されている、室内設備のスイッチを手塚が押していけば、段々と薄暗くなっていく。
「これくらいなら良いか?」
夜の帳が下り、暗闇に支配される前の夜空のような明るさになった室内。
お互いの姿ははっきり見えるが、先程より恥ずかしいと感じる明るさは無くなった。
「…いいよ…」
不図、見上げた手塚の優しく見つめる瞳の中に、獰猛な獣の色を見たリョーマは、これから自分の身に起こる刺激に固くなる。
上着だけを脱がしたリョーマに覆いかぶさるようにした手塚は、緊張に固まっている身体と心を解すように、まずは口付けをした。
手塚によりリョーマは着ていた物を全て脱がされ、身体中に甘く長い愛撫を与えられた。
首筋や鎖骨は舐められ、口付けられ、跡を残すようにきつく吸われた。
膨らみの無い胸に淡く色付いている突起にも、指が触れ、唇も触れ、舌で周辺をなぞった後で何度も転がすように舐められた。
「…あぁ、や…んん…」
こんな感覚は初めてだった。
自慰の経験はあるが、他人からの経験は皆無。
至る所に口付けられ、触れられて、次第に身体の中央に溜まっていく熱に、リョーマは叫びそうになる。
「…くに…みつ…」
救いを求めるかのように手塚の背中に腕をまわす。
「…リョーマ…好きだ…」
頭は胸から顔に移動させ、あやすように口付ける。
先程から自分の腹の下に感じる、頭を擡げた部分を手の中に収めると、ゆっくりと指で扱き始めた。
「…い…やぁ……ぅく…」
根元から括れまでを何度も指が上下する。
その動きに溜まっていた熱が、リョーマの意思とは関係無く放出を求めだす。
「…や、…で…ちゃ…」
「…我慢するな」
少しでも快感に耐えようと、頭を左右に振ってみても、手塚の指の動きは追い立てるように早くなる。
「…あぁ…っ…んんっ…」
必死になって我慢しているリョーマの先端の割れ目を引っ掻けば、背中を撓らせながら呆気なく解放した。
痙攣しながら最後まで放出すると、電池が切れた玩具のようにベッドに沈んだ。
「…大丈夫か?」
肩で息をしているリョーマの表情を覗き込めば、とても扇情的で手塚の喉が鳴る。
「…なんとか…でも、これで終り…じゃないよね…」
初めて他人の手で絶頂へと導かれたリョーマは、震えながらこの行為の続きを催促する。
「…いいのか?」
「嫌だったら、こんな事させない…」
手塚の左手はリョーマの出した体液に濡れていた。
男同士の繋がりをどこで行うのかは、リョーマでも知っている。
自分の身体にどれほどのダメージが訪れようと、リョーマは手塚と一つになりたいと望んだ。
「リョーマ、お前と繋がりたい…」
そろそろ限界を訴えていた手塚は、リョーマの身体を強く抱き締めた。
自分でもあまり触れた事の無い場所に指や舌が触れる。
長い時間を掛けてその場所を入念に解される。
恥ずかしくて叫びそうなのを堪えながら、リョーマは手塚の施す全てを受け入れる。
そして灼熱を押し付けられた瞬間は、ほんの少しだけ後悔したが、その後悔を上回る感覚がリョーマを包み込んだ。
小波のように緩慢な動き、大波のような激動を繰り返し、手塚はリョーマの狭い内部を抉る。
確かに苦痛はあるが、それに勝る快感があった。
体内の奥深くに広がる熱を感じた時は、リョーマは意識を手離していた。
「…マ、リョーマ、大丈夫か?」
「……くに、みつ…」
心配するように呼び掛ける手塚の声に、リョーマの意識は浮上する。
薄っすらと瞼を開き、こちらを見ている手塚の名前を呼ぶが、自分の声とは思えないほど掠れていて、リョーマはとても驚いた顔をしてしまう。
「…あ、れ?」
身体を起こそうとしても身体に力が入らず、顔面からベッドに突っ伏した。
「…な、んで…」
頭でどれほど身体に指示を出しても、身体はその指示を無視する。
「少し待っていてくれ、水を持ってこよう」
原因がわからず、うろたえるリョーマの身体を殊更優しく抱えて、苦しくないように横向きの体勢に変えてから、手塚は下着とジーンズを穿き、シャツを羽織ったままの姿で部屋から出て行った。
「…すご、い…こんな…」
初めての情交により、リョーマの身体は想像以上のダメージを受けていた。
指先はまるで感電してしまったかのように痺れている。
体の感覚の全てが鈍くなっている。
身体能力の優れているリョーマにとって、初めて感じる身体の異変。
これが戦闘中であれば己に残されたのは『死』のみ。
「…でも、うれしい…」
それなのに身体中に残る手塚の体温と、施された愛撫はとても甘く、心地良い気だるさを与えてくれる。
もしも今、何者かに命を奪われたとしても、この想いを胸に抱いて安らかに逝ける。
そんな気がするほどに、手塚の自分を想う気持ちが身体の隅々に染み渡ったリョーマは、幸福だけを感じていた。
「俺も好きだよ…」
この想いをあの人にも伝えたい。
これから先、何が起ころうとも自分はあの人から絶対に離れない。
健やかなる時も。
病める時も。
この鼓動が止まるその日まで、同じ時を刻みたい。
「…俺が国光を守るんだ…」
代わりに自分が犠牲になってもいいから。
水を持ってベッドに戻ってきた手塚に、大好きな笑顔を見せたリョーマは、今の想いを言葉にして伝えた。
手塚は少しだけ困ったような表情をして、リョーマを抱き締めた。
「リョーマ、頼むから俺の為に自分を犠牲にするなんて考えは捨ててくれ」
「どうして?」
「俺はお前と共に生きたいのに、リョーマだけがこの世から消えてしまったら俺はどうすればいい」
抱き締める腕の力を強くする。
「……ゴメン」
手塚の気持ちを察し、ぎゅっと胸にしがみ付く。
「…いや、謝らなくてもいい。そこまで俺を想っていてくれるのなら、俺は少し自惚れてもいいのか?」
想いは同じレベルなのだと。
「いいよ。好きなだけ…」
この後、喉を潤す為の水を飲ませてもらったリョーマは、
幸せな気持ちを抱いたまま眠りについた。
リョーマがノースグラウンドに着任してから、もう半年になる頃、巷では能力者の拉致事件が勃発していた。
大きな岩をも砕く力を持つ能力者。
軟体動物のように身体が柔らかい能力者。
鉛玉でも弾き返す、鋼のように固い身体を持つ能力者。
一般人には有り得ない力を持っている能力者を易々と拉致する為には、その能力者よりも強い力を持っている者にしか行えない。
それを裏付けるように、犯行には一切の無駄が無く、物的証拠など塵すら残さない。
「どうした難しい顔をして」
「…これで九人目なんだよね〜」
拉致された能力者の顔写真を見ていたリョーマは、リビングに入って来た手塚の前に一列に並べた。
「…九人か…」
当たり前のようにリョーマの横に座ると、ガラスのローテーブルに並べられた写真を険しい眼差しで見つめる。
それも優秀な人物ばかりを狙っているので、組織的な犯行だと手塚は警戒を深めていた矢先、またしても事件は起こってしまった。
「目的がわかんないから困るよね」
リョーマの言うとおり、犯人からの犯行メッセージは何人目になろうとも全く無い。
金銭目当ての誘拐ならば、どんな形であろうとも必ず連絡が入るはずなのに、今回の事件にはその影すら見えない。
これは誘拐ではなく、『拉致』なのだ。
家族からの不安や苛立ちは日増しに増加する中、またしても犯行が実行されてしまい、この事件は警察の手から特別捜査局へと移行した。
簡単に言えば、警察ではお手上げ状態なのだ。
「南は三人で一番多くて、西と東は二人ずつ、それで北とセントラルで一人ずつか。でもさ、セントラルで犯行に及ぶなんて結構大胆だよね」
すっと、一枚だけ列から出した写真は、つい先日、セントラルで拉致された人物だった。
「…この人って特別捜査官だよね」
「あぁ、そうだ。彼の名は橘と言う。俺と同じ特別司法官でもあるんだ。しかし、橘が…」
手塚も知っている人物。
九人の中で唯一人、自分達と同じ組織の人間。
訓練を受けているはずの仲間までもやられてしまった。
「犯人の手掛かりは一切無いし、何だか難しい事件と遭遇しちゃったね」
溜息交じりに写真を片付けて、リョーマは手塚の腕に自分の腕を巻き付け、軽く手を握る。
「リョーマ?」
「国光は俺が守るよ」
真剣な眼差しが手塚を捕らえる。
「…俺はお前の方が心配だ…」
握られた手と絡めていた腕をやんわりと外し、包み込むように抱き締める。
「俺なら大丈夫だよ」
「…リョーマは強いからな」
強気な笑顔を見せるリョーマの唇を優しく塞いだ。
「優秀な人材ばかりを拉致して何をするつもりなのだ」
手塚はこの事件に対し、言い知れぬ不安に苛まれていた。
主寝室の隣には小さな書斎。
そこには捜査局と繋がっているコンピューターが置いてあり、その画面には致地された能力者が映し出されていた。
能力者ばかりを狙った犯行の意味は?
犯行の痕跡は何も無く、まるで神隠しにでも巻き込まれたかのように一人、また一人と消えて行く。
八人目までは、リョーマと同じように身体能力に優れている者ばかりを狙っていたのだが、九人目にして身体だけでなく頭脳の方にも狙いを定めてきた。
「この人物は破壊力。こちらは物理的な防御力…」
手塚は自分の能力で犯行の目的を探し出した。
今のところは九人がそれぞれ違う能力を持っていて、しかもかなりのレベルまで能力に磨きを掛けた者ばかり。
「橘は戦闘も得意なはずなのに…」
責任感が強く、仲間思いで有名な彼は、手塚と乾の力を併せ持った能力を持っていながらも、それとは別に戦闘も出来る人物で様々な事件に関わっていた。
手塚もセントラルで研修中に、とある事件で橘と共にメンバーに入っていたので、面識がある。
「…戦闘能力…」
この九人の能力の中で一つだけ足りない能力がある。
「そうか、俊敏性に長けた戦闘能力者がいれば…」
キーボードを叩き、頭に描いた仮説を入力する。
九人目の特別捜査官以外の能力者は、優秀な能力をその身に備えながら、全員が望んで普通の生活を送っていた。
中には能力を使って大道人芸をしていた者もいたが、他の者は戦闘とは程遠い世界で、ありふれた生活をしていた者達ばかり。
「俺の仮説が正しいのならば、菊丸にも注意するように連絡しておく必要は…無いか。大石ならば気が付いているだろう」
立ち上がりかけた腰を再び椅子に戻し、机の上に両肘をつくと、思わず頭を抱えてしまう。
自分の仮説の中に登場した、俊敏性に特に長けた能力者は全部で三名。
「…橘のところの神尾に、菊丸、そして…リョーマ」
橘はセントラルの特別捜査局で、特殊任務のグループリーダーをしていた。
その中にいたのが神尾と言う人物で、数年前に橘が直々にスカウトしてきた能力者である。
スピードマスターと呼ばれ、その俊敏さには定評がある。
菊丸も俊敏さとアクロバティックな動きには、上層部からのお墨付きだ。
「セントラルならば、二度の失態は無いだろうが」
頭に浮かび上がる己の考えに、手塚の表情は険しくなる。
この事件の黒幕は、元はこの国の一部だった島からやってくる組織が関わっていると考えた。
日本だった島は爆弾により、その形と大きさを無くし、まるで無人島のようにひっそりとしてしまっている。
しかし、今のこの国の体制に反対している者が、その島にこぞって移動し、住み着いていると聞いている。
そこは今や一つの国家としてなりつつあるのだ。
ならず者の集団や、人畜無害の放浪者ならば何も問題は無いのだが、その中にかなりの切れ者がいるとの噂を耳にした。
そんな組織が本気になれば、特別捜査官の一人や二人を拉致するなど容易にこなしてしまうだろう。
現に特別捜査官の橘が拉致されているのだから。
「万が一、俺の考えが当たっているのならば、次に狙われるのは…一人しかしない」
小さな音を立てて椅子から立ち上がり、部屋の電気を消してベッドルームに戻る。
「…リョーマ」
惚れた弱みからではなく、データ上でもリョーマの能力は神尾と菊丸のはるか上にいる。
次に狙われるのならば、リョーマしかいない。
ベッドの中では既にリョーマが眠りについていた。
ゴロリ、と寝返りを打った拍子に肩に掛かっていた布団がずれて、胸元を手塚の視界に収めさせてしまう。
どうやら出会った頃から来ていた、あの大きなトレーナーは大のお気に入りらしく、今でも使用している。
あのトレーナーは、肩が隠れると今度は反動で胸元が丸見えになってしまい、手塚は困ったように息を吐いた。
肌に色濃く残る鬱血の跡は、手塚の残した所有の証。
普通の服なら絶対に隠れる場所にしか残さないが、こんなサイズの合わない服ではこうして見せ付けてしまう。
「お前は俺が必ず守ってみせる」
自分の仮説が外れている方に賭けたいが、自他共に認めるこの能力が外れた例が無い。
ならば、自分に出来る事をするだけだ。
起こさないように出来るだけ振動を抑えてベッドに入れば、寝ているはずのリョーマの方から手塚に擦り寄ってきた。
何度も抱いているのに、こんなに近くにいるだけで、身体が熱を帯び始める。
「……ん…くに…みつ…す…き…」
その熱を冷まそうと頭を切り替えて瞼を閉じた瞬間に、駄目押しとばかりにこんな寝言まで言われてしまい、手塚はむくりと起き上がった。
「…苦情は後で聞く」
布団を剥がし、トレーナーの裾を掴むと胸元にまで捲り上げ、穿いていたハーフパンツを下着ごと下にずらした。
「……な…に?」
寝ているだけなのに身体の中心が熱くて堪らない。
それも身体全体ではなく、局部的な熱さ。
薄っすら瞼を開けて隣を見れば、手塚はいなかった。
だが、自分の両脚の間に何かがあるのだけは気付いた。
「……え…?」
思わず視界に飛び込んできた光景に、リョーマは己の目を疑った。
トレーナーは脱がされていないが、胸から下は全部出していて、下肢なんて全てが見事に丸出しだ。
その中心を手塚が…しゃぶっていた。
「…な、何してるの」
「お前があまりにも可愛い寝言を言うので煽られた」
知らない間に勃起していた先端を強く吸い上げられた。
何時始まったのかわからない愛撫に、リョーマのそこは手塚の唾液や自分の出した体液に濡れていて、部屋の薄明かりに反射し、淫らに光っていた。
恥ずかしそうにその光景から目を背けてしまう。
「寝言って…そんなの俺知らない」
寝ている間に発した言葉に責任なんて取れないと、リョーマは手塚から逃れようと身を捩った。
「嫌か?」
些細な抵抗を封じる事無く、手塚はリョーマのしたいようにさせた上で訊ねる。
「い、嫌なワケないでしょ。でもこんなのはヤだ…」
「リョーマとしたい。これでは駄目か」
「…俺、眠たいんだけど」
眠たかったから断って先に寝ていた。
「あぁ」
「さっきまでしてたよね」
寝る前にも濃厚なのを二回したばかりだ。
「そうだな」
「でも…したいの?」
いつでも呼び出されても良いように、手塚は動き易い服装で寝ているが、その下の部分の布地は硬い何かに押し上げられていた。
「そうだ、お前としたい」
「…じゃあ、いい」
明らかに欲を含んだ眼差しで見つめられ、リョーマはベッドの上を四つん這いになると手塚の前に進む。
「どうした?」
「俺もしたいから…する」
すっ、とリョーマの手が熱く昂ぶっている場所に触れる。
「リョーマがしてくれるのか?」
何をしようとしているのかがわかると、手塚は少し腰を上げて、リョーマが脱がそうとするのを手伝った。
現れた昂ぶりは、布地から解放されて大きく跳ね上がる。
戸惑う事無く口に含み、舐め回す。
「……くっ…」
熱く太い幹を片手で扱きながら、先端は口に含んだまま舌で攻める。
リョーマは手塚の感じている声や表情を見るのが好きで、こういう行為も進んで行うようになった。
「…く、リョーマ…もういい、お前の中に入らせてくれ」
ビクビクと脈打つそれをリョーマから取り戻し、手塚はリョーマの身体をベッドに押し倒した。
「…前から、して…」
「あぁ、わかった」
どういう体位でもそれなりに快感を得られるが、お互いの表情を見られるのが一番好きだ。
自ら脚を大きく開き、手を伸ばすリョーマの背を片手で抱えて、手塚は残った片手を己に添えると、昂ぶりを待ち構えてヒクついている後孔に宛がう。
窄まりに先端を擦り付ければ、先程までしていたので慣らさなくても既に解れていて、後孔は太くて熱い塊を難なく飲み込み始めた。
「…あ、入ってくる…」
「……熱いな、リョーマの中は…」
形を確かめるように奥深くまで埋め込んでいくと、眩暈がしそうなほどの熱い内壁に包まれる。
まるで手塚に合わせたようなリョーマの身体の構造。
「…動くぞ」
根元まで埋め込んで、一旦動きを止める。
「ん、いっぱい動いて…」
繋がっている部分が擦れるだけで、リョーマは甘い吐息を手塚に聞かせていた。
結局、この日の二人は抱き合ったまま眠りに着いた。
「決して一人で出歩かないようにしてくれ」
朝になって手塚はリョーマに一応の注意をしておく。
ここに来てからリョーマが一人でどこかに出掛けるなんて一度も無いが、念には念を入れる。
「国光がそこまで言うなら」
約束するよ、とリョーマは大きく頷きながら応えた。
厳しさを窺える眼差しが、これが冗談を含んだものでは無く、真剣なものだと教えてくれる。
それほどまでにこの能力者の拉致事件が身近になっているのだ。
「…自由を奪ってしまってすまない。俺はリョーマが心配なんだ…」
着替えを済ませた手塚が、神妙な面持ちでベッドの端に座って靴下を穿いているリョーマの前に立つ。
心配とはいえ、個人の自由を縛ってしまうのは、手塚としても心苦しい。
「そんなコトないよ。心配してくれるのが嬉しい」
靴下を穿く為に足元を見ていた視線を上げて、にこりと笑みを浮かべる。
穿き終えたリョーマはベッドから立ち上がり、目の前の手塚の胸に飛び込んだ。
「国光も一人にならないで、ね」
「あぁ、約束しよう」
リョーマは爪先立ちになると、ちゅ、と軽く口付けた。
それからリョーマは手塚の言い付けを守り、出掛けたい時は誰かを誘って出掛けていた。
現場検証の時も、何か買いたい物がある時も、気分展開にちょっと外をぶらぶらしたい時も、必ず誰かを誘う。
それは手塚であったり、ここで仲が良くなった捜査官やオペレーター達だったりして、リョーマはこのノースグラウンドでも上手くやっていた。
「越前君、今日だけどどうする?」
メインルームで仕事をしていると、リョーマを数人の捜査官が囲んでいた。
「行きたいけど、時間ある?」
拉致事件とは別件の捜査に当たっているリョーマは、事件が起きた現場に何度か足を運んでいた。
「僕ならいいよ」
「俺も問題ないぞ」
数人が手を上げる。
「じゃ、行く」
犯人の目星も大方付き、後は物的証拠がどこかに残っていないかを確認するだけだ。
これさえあれば、犯人の抵抗を抑えて逮捕できる。
「準備が出来たら行こうか」
特に何も必要の無いリョーマは、小型の発信機を服に取り付けた。
何が起こるかわからない捜査中で、自分の身に危険が及んだ時の保険として、衛星回線でどこにいてもその場所を発見できるように必ず付けるようにしている。
「行って来ます」
綺麗に笑ったリョーマを手塚は眩しそうに見つめて送るが、いつにも増して胸の中にざわめきが生じる。
それからはどれほど集中しても、そのざわめきが消されるはずもなく、手塚はどうしたものかと頭を悩ますが、結局はリョーマ達が向かった先に出向く事を決意した。
手塚はリョーマと同じく発信機を取り付けて、拳銃と護身用に用意したナイフをポケットに忍ばせる。
ナイフの使い方はリョーマから教えてもらった。
特捜司法官である手塚は、極悪犯であろうとも簡単に命を奪うのだけは避けたい。
だから銃よりもナイフを使い、犯人を確保する。
この行動により、リョーマに訪れた最大の危機が回避されるとは、手塚ですら頭に無かった。
「な〜んか、ヤな視線を感じるんだけど…」
現場検証が済み、極僅かな証拠を掻き集めたリョーマ達は捜査局に戻ろうとその場所を離れた。
直後から背中を突き刺すような視線が自分に向けられているのを感じていた。
獰猛な肉食獣が獲物を捕らえたような感覚。
一分でも一秒でも早くこの場から遠ざからないといけない気がして、リョーマは足早に歩く。
「どうかしたの?越前君」
「いいから、黙って早く歩く」
「…はい」
ぴしゃりと言われ、他の者達は無言のままリョーマの後を着いて行く。
だが、次の瞬間。
「…うわっ」
「何だ!お前は…ぐはっ…」
リョーマの背後で小さな音と大きな声が響く。
「……あんた、誰?」
振り返ったリョーマが見たものは、意識を無くしている仲間達の姿と、見た事の無い男の姿。
「あーん、人に何か訊く時は自分からじゃねぇのか?」
カジュアルなスーツを身に纏い、両腕を身体に巻きつけるようにして立っている男は、一歩ずつリョーマに近寄る。
「あんたみたいな怪しい奴に名乗る名前なんてないよ」
反対にリョーマは一歩ずつ後退してその距離間を保つ。
「それもそうかもな。俺様の名は跡部景吾だ。俺様自らがお前を迎えに来てやったんだ、有り難いと思え…」
シニカルな笑みをその顔に浮かべ、跡部と名乗った男はリョーマに手を差し出す。
「俺を迎えに来た?」
その言葉と手の意味が分からずリョーマは聞き返す。
「二度も言わすんじゃねぇよ」
「…もしかしてあんたが拉致事件の犯人?」
十中八九、間違いは無い。
リョーマの身体が、神経が、この男を警戒している。
「ふん、良く分かったな。あの九人には俺様の崇高な研究にちょっと手を貸してもらっただけだ。もう必要が無いから数日後には返してやるさ」
また一歩リョーマに近寄る。
「…研究って何?返すって、拉致した人達は無事なの?それにどうやって…」
リョーマも一歩下がる。
どうにか時間を稼いでここに捜査官を来させないと、自分一人ではどうにか出来る相手ではない。
「…質問が多いな…。研究は研究だ。あいつ等には何も危害は加えていない、俺様の美学に反するからな。それに俺様は一人じゃないぜ、下僕どもが沢山いるんでな」
いちいち答えるのが面倒なのか、最後は軽く流した。
「…じゃ、俺もあんたの下僕の一人になれってワケ」
「そうじゃねぇ、お前は俺様のものになるんだよ」
「ヤだ」
「大人しく言う事を聞きな、越前リョーマ」
パチン、と高らかに指を鳴らすと、どこからか現れた数人の男が一斉にリョーマに襲いかかり、寸でのところでその手から逃れられた。
「…ちょい、マズイかも」
ひらりと、後方へ飛んだリョーマは、状況を把握すると珍しく渋い顔をした。
ここに現れた全員が戦闘の経験がある能力者であるのは、リョーマにもわかる。
現にこうして自分の反応が遅れている。
たとえリョーマでも、戦闘に手馴れた何人もの能力者を相手にするのは荷が重い。
「……っ、でもやらないと」
リョーマは深呼吸を一度だけして、自分の能力を最大限に引き出してから男達に向かっていった。
まずは一人、リョーマは手前にいた能力者を地面に叩き付け、次に襲ってきた腕を掴み、くるりと身体を回転させてその反動で男を倒した。
「ほう、なかなかやるじゃねぇか」
跡部は決して加勢しようとはせずに、次々に倒されていく自分の部下達の姿を満足そうに眺めていた。
「…はぁ、あと一人…」
電脳化を相手にするのなら、何人でも相手に出来る。
だが、能力者を一人相手にするのは、電脳化を数十人相手にするのと匹敵する。
この国の力は一般人の上に義体化、その上に電脳化、そして能力者となる。
「…くっ」
最後の一人がリョーマに殴りかかり、何とか腕で防御するが、パワー系の能力にリョーマの膝がガクリと折れた。
「よし、さっさと捕まえろ」
勝ち誇ったような声を出した跡部の命令に、男はリョーマの身体をホールドしようとした。
もう逃げられないと瞳を閉じた瞬間、リョーマの耳に苦しそうな男の呻き声が聞こえ、そろりと瞼を開いた。
その右手には銀色のナイフが刺さっていた。
貫通しているナイフは、簡単に抜けないように少し変わった形をしている。
「…これって…」
見覚えのある形は、以前自分が持っていた物。
まさかと思い、ナイフが飛んできた方向を確認する。
「無事か?リョーマ」
「…国光、何でここに」
男から数歩離れたリョーマは手塚を凝視していた。
手塚は銃を構えたまま、リョーマを庇うように前に立つ。
「手塚か、貴様には用は無ぇんだよ」
「やはりお前か、跡部」
二人は面識があるのか、普通に名前を呼び合っていた。
「…ふっ、仕方ねぇ、今日は諦めてやるか。だが、次は必ず頂いていくからな」
暫く睨み合っていると、跡部の方が先に視線を外した。
「跡部…リョーマをどうするつもりだ」
銃の照準を跡部の脚に合わせた。
逃げようとすれば躊躇する事無く打つ。
手塚はリョーマを狙う目的を聞き出そうとした。
「どうもこうも、欲しいからに決まっているだろう」
要らないから捨てて、欲しいから奪う。
簡単な方式だった。
「お前には渡さん」
手塚はリョーマを引き寄せた。
「…ふん、俺様に不可能なんてない。必ず貴様から奪ってやるさ」
気付かぬ間に上空から黒塗りのヘリが現れ、ドアが開くと縄梯子が降ろさせた。
それを跡部が掴むと、ヘリは飛び去っていった。
手塚が呼び付けた捜査官が、地面に倒れている自分達の仲間の救護と跡部の部下達を捕らえている間、手塚はリョーマから一度たりとも離れる事は無かった。
拉致事件の犯人と今後の目的がわかった以上、リョーマには歩いて帰らせる訳にはいかない。
手塚はこれ以上危険が及ばないように、リョーマと車に乗り込み捜査局へ戻る。
「…どこにも怪我は無いか、リョーマ」
「国光が来てくれなかったらヤバかったけどね。でも、あの人って知り合いなの?」
車の中でも手塚はリョーマを心配していた。
「跡部か?あいつも数年前までは特別捜査局にいた男だ」
「あの人も特別捜査官だったんだ」
「…あいつは誰かに使われるタイプじゃないからな。そんな体制が嫌で辞めたんだ。どこで何をしているのかは知らなかったが、まさか…」
この事件の首謀者だった。
跡部ほどの能力者ならば、証拠など欠片も残さずに犯行に及ぶ事が出来る。
手塚はきつく眉を顰めてシートに背中を沈めた。
「ねぇ、拉致した人達の事だけど。あの人、数日後には返すって言っていたよ」
何やら崇高な研究の為などと言っていたが、その研究が何なのかわからない。
ただ、拉致した人達は跡部にとって必要が無くなった。
だから返す。
決して必要以上に痛めつけたり、殺したりしないのは、彼の美学。
行き過ぎた暴力や殺人は彼の美学に反する。
「そうなのか?それで今度はお前に焦点を合わせたのか」
「何で俺なワケ?」
うーん、と悩んでも答えなど出やしない。
リョーマにはわからなくても、手塚にはわかっていた。
跡部は昔から、強くて美しいものが好きなのだ。
そして跡部自身が持つ、高すぎるプライドを刺激する勝気なタイプを好んでいた。
リョーマは跡部のタイプにピタリと当て嵌まる。
「犯人の特定と拉致された人が無事に戻って来るんだ。とりあえずは良しとしよう」
跡部の性格を知っている手塚は、リョーマの話が真実であると考えた。
ただし、跡部を逮捕するのは無理かもしれない。
彼等はこの国にはおらず、外の世界に生きている。
捕まえるのなら、そこに出向かないとならない。
しかし下手に動くと反対にやられる。
どんな事でもやり遂げる精神力の持ち主で、相手の行動や弱点を先読みして主導権を握る。
味方ならば心強いが、敵となるとかなり大変な人物だ。
「そうだけど、俺はどうしたらいい?」
「俺の傍でいつも通りにしていればいい」
「じゃ、そうする」
狙われているからと言って、リョーマをどこか安全な部屋に閉じ込める訳にはいかない。
それではリョーマの輝きが損なわれてしまう。
「…俺が全身全霊を掛けて守る」
気付かぬ間にリョーマの危険を察知できるようになった。
これも手塚の持つ能力の一部かもしれない。
大切な相手を守る為の能力。
それに手塚は跡部と会うまで、大きな勘違いをしていた。
当初、犯人の目的は俊敏性に長けた能力者を狙っているのだと考えたが、しかし犯人である跡部の目的は能力ではなく、リョーマ自身。
跡部は手塚と同じ意味で、リョーマを自分の手元に置きたいのだ。
「もう守ってもらったよ。ありがとね…」
はにかんだ表情の愛らしさに、手塚の胸が高鳴る。
抱き締めたい衝動に駆られたが、この車の運転席と助手席には仲間が乗っているので、そっとその手を握るだけに抑えておいた。
捜査局に到着して報告を済ませたら、思う存分抱き締めようと心に誓った。
『で、リョーマ君は無事なんだね?』
その夜、リョーマは久しぶりに不二と話をしていた。
「そうだよ、国光が助けてくれたんだ」
書斎にあるテレビ電話を使い、今までに起きた出来事から今日の事までを話していた。
『手塚が役に立って良かったよ。もし君に何かあったら手塚でもただじゃすまないよ』
今日の話しはかなり衝撃的だったらしく、不二の穏やかな表情は一変して険しくなっていた。
「国光は俺を助けてくれるし、俺も国光を守るから、周助が心配する必要なんて全くないからご安心を」
助けてもらってばかりじゃ、駄目だ。
手塚にピンチには絶対に自分が向かう。
『ねぇ、リョーマ君は手塚のどこが好き?』
にっこり笑うリョーマに、不二は思い切って聞いてみた。
手塚なんて面白味の無い人間なのに、一体どこに惹かれたのか気になって仕方が無い。
自分達も仕向けた関係なのに、実際上手くいくとどうにも面白くない。
「どこって、全部だよ?」
『…そうなんだ』
「そ、全部が好き」
普段は厳しい眼差しが、自分を見る時は優しくなる。
あのテノールだっていつまでも聞いていたくなる。
大きな手と逞しい腕に抱き締められると、とても幸せに感じる。
『…リョーマ君は手塚が本当に好きなんだね』
惚気同然の台詞に不二はストップを掛けた。
「うん。大好き」
『それじゃ、また僕から電話するね。リョーマ君、くれぐれも気を付けて』
「ありがと、周助」
画面に小さく手を振ると電話の回線を切った。
「終わったのか?」
書斎から出ると、ベッド上で雑誌を読んでいた手塚が、話し掛けてくる。
「……長電話だったよね?」
「…一時間だ」
「一時間か…ちょっと長かったね、ゴメン」
長電話は手塚が嫌う。
「怒ってはいないから、謝らなくてもいいぞ。そろそろシャワーを浴びよう」
手塚は雑誌を置き、眼鏡を外した。
「…風呂、入る」
「シャワーだけでは駄目か?」
リョーマの右腕には湿布が貼られている。
あの時、攻撃を腕で凌いだ結果、骨に損傷は無かったが、赤く腫れてしまった。
「う〜ん……我慢する」
「…良し」
「じゃ、先に行ってるよ」
頭を優しく撫でられたリョーマは、着替えを持ってバスルームに入っていった。
「…明日からチェック体制を厳しくしよう」
跡部が簡単にリョーマを諦めるとは考え難い。
今日は本当に自分に相応しいかを確かめに来たのだろう。
そして見事なまでの能力とその姿を見た。
きっと近いうちに再び現れる。
これは曖昧なものではなく、確信だ。
跡部の行動を考えるのならば、もっと確実な方法でリョーマの近くに来る。
「あいつにはリョーマを渡さない」
新たな決意の元、手塚もバスルームに向かった。
何日か過ぎた早朝、まだベッドの中で眠っていた手塚の元へ緊急の呼出しが掛かった。
今日の二人は完全な休日となっていて、急な呼び出しは一切しないという約束なのに、何か一大事でも起きたのかと心配になる。
空はまだ暗く、起きる時間としては早過ぎる。
ガウンを羽織り、呼び出しに応じた。
「…何か…あった?」
リョーマも眠い目を擦りながら、手塚に訊ねる。
「……すまない、少し行ってくる」
人前に出られる服装に着替えて、手塚はリョーマを置いて出て行った。
「…何だろ?」
リョーマは疑問を抱えたまま、また眠りにつこうと、ウトウトしかけたが、どうにもこの部屋に自分以外の人の気配を感じ、リョーマは眠りにつく事ができない。
手塚の気配ならすぐにわかるが、これは違う。
じりじりと、その気配が近寄ってくる。
「…なっ…」
「よう、起きたか?」
嫌な予感がして瞳を開けると同時に飛び込んできたのは、見覚えのある顔。
「あんた…一体…どこから…」
優雅にベッドに腰掛けてリョーマを見ていたのは、跡部だった。
有り得ない人物の存在に、リョーマは目を大きく見開く。
「あーん?そんなの入口からに決まってるだろうが」
呆れた顔でリョーマの疑問に答えると、両腕をリョーマの身体を挟むように置いた。
「入口って、どうして」
手塚の監視の下、セキュリティーシステムは完全な形に出来上がっていた。
それなのに、この男は何にも、誰にも見付からず、ここまで入り込んで来た。
「俺様にかかれば、あんなセキュリティーなんて意味が無ぇんだよ」
くく、と笑い、跡部はリョーマの身体に覆い被さる。
「…やっ…退けよ」
身動きが取れないリョーマは身体を捩る事しか出来ない。
「…俺様のものになりな」
「嫌だね。俺は国光のものなんだから」
怯む事無くリョーマは跡部を睨みつける。
きっと手塚は助けてくれる。
「その強気なところが堪らねぇな」
キスしようと近づけてくる顔から逃れようと、頭を振る。
「抵抗しても無駄だ」
片手でリョーマの顎を掴む。
「…クッ…」
「優しくしてやるぜ…」
悔しそうに唇を噛むリョーマを、満足そうに眺めて再び顔を近付けた、その瞬間。
「そこまでだ、跡部」
怒りの含んだ声がリョーマの耳に届く。
「国光…」
「…無粋な真似すんなよ、手塚」
声がした主寝室の入口では手塚が銃を構えて立っていた。
「リョーマから離れろ」
身震いしそうなほど低い声。
「仕方ねぇな…」
そう言ってリョーマの唇を掠め取った後、跡部はベッドから下りて窓際のソファーに座った。
手塚は銃口を跡部に向けたままで足早にベッドに近寄る。
「リョーマ、無事か?」
「大丈夫だけど…何でこの人がここに?」
起き上がったリョーマの身体は昨夜の情事の跡を色濃く残していて、手塚はベッドに置いてあった自分のガウンをリョーマに渡した。
「俺様はここに関しては詳しいぜ。何せ、元はここの捜査官だったからな」
「……ここの?」
いそいそとガウンを羽織ってベッドから出る。
「あぁ、そうだ」
「でも…この人はもう捜査官じゃないでしょ」
だからって、今はただの不法侵入者だ。
「先ほどの呼び出しは、拉致された人達が解放された連絡だったんだ…」
手塚は漸く跡部に向けていた銃口を下ろして、詳しい話を始めた。
拉致された人の中には特別捜査官の橘がいた。
手塚はこの橘本人からの連絡を受け、自分と警察がしていた大きな勘違いを知った。
「…間違いって、だって拉致は拉致でしょ?」
今までそこにいた人が、いきなり音信不通になれば誰だって何かの犯罪に巻き込まれたとしか思えない。
「突然いなくなれば誰でもそう考えるものだ。だがな…」
リョーマの言う事は一理あるが、実際は異なっている。
跡部は特別捜査局を辞めて、少し離れた小島に能力者数人と移り住んだ。
当初は単なる暇つぶしと称して、とある研究をしていた。
それは能力者ゆえの身体の構造や機能について。
だが、この研究の最中、能力者の体内には特有の病原体が存在する事を発見した。
この病原体は能力者の体内にしか存在せず、普通の人や動物に一切感染はしないのが特徴だった。
自分の命にも関わる発見に、跡部はこの病原体のワクチンの製作に取り掛かった。
しかし、この病原体は発症しない限り危険性はゼロに等しく、しかもワクチンの効果も全く無いのだ。
試行錯誤の結果、長い時を掛けて作り上げたワクチンなのに、この効果が立証されなければ意味が無い。
そこで跡部は仲間を使って、発症の兆しを見せている者を拉致していたのだ。
この病原体がどこかの科学者にでも発見されたら、能力者を面白く思わない輩が、未知の病原体を持っている自分達能力者を、『未来の為』と言う名の暴挙で迫害や、悪ければ根こそぎ排除する行動に出る可能性も捨て切れない。
人間の暴挙は今に始まった事では無いのだ。
「橘以外に連れ去られた八人も、最近になって身体に異常を感じ病院に通っていたが、八人ともが病院では何も異常が無いとの報告だ」
今の病院の設備では病原体の発見は無理で、ストレスや疲労の類だと診断されていた。
手塚に連絡してきた橘も、数ヶ月前から身体に異常を感じていたが、仕事もあるので意識しないようにしていた。
橘も手塚同様、跡部とは面識があり、この話を聞いて跡部達の小島に自分の意思で着いて行った。
「それじゃ、拉致じゃ無くて…」
「あぁ、家族や知り合いに心配を掛けたくない一心だ」
そして身体の異常がワクチンにより快方に向かったので、こうして残りの八人と共に帰って来たのだ。
しかしまだ残っている問題がある。
何も知らない世間にこの病原体を公表し、能力者に注意を促すと言う問題が。
「…この件に関しては礼を言うが、お前がリョーマを狙うのならば見逃しはしない」
下ろしていた銃口を上げて、再び照準を跡部に合わせ、鋭い眼差しで跡部を捕らえた。
「ふっ、貴様がくだらない組織の中で腐ってなくて安心したぜ」
跡部がソファーに置いてあった寝室専用のリモコンを操作し室内の窓を全開にすると、冷えた空気が一気に部屋の中に入ってきて、リョーマは身体を震わせた。
「…跡部」
「手塚、これをやるぜ…」
ポケットから一枚のディスクを取り出し、手塚に投げる。
「その中には俺様の研究がデータとして入っている。好きに使え」
それだけ言うと、跡部は開けた窓に立つ。
「おい、越前。手塚に飽きたら俺様のところに来な。可愛がってやるぜ」
リョーマを手に入れたいのは紛れも無く本当だが、跡部は無理矢理連れて行くのは止めた。
ここで連れて行けば、手塚が能力の全てを使い、リョーマを取り戻しにやって来るだろう。
それもまた退屈しのぎにはなるだろうが、不要な争いは好まない主義だ。
「国光に飽きたりするワケ無いでしょ。バカな事言わないでくれる」
こうして怒り口調で跡部に反撃する辺り、手に入れたいリョーマの身体も心も今は手塚だけにある。
「今は、な。だが先の事はわからねぇからな。まぁ、俺様は手塚よりも優しいぜ」
軽く鼻で笑うと、跡部はひらりと窓から飛び降りた。
「国光…」
「少し待て…」
自殺か、と慌てて窓に駆け寄ろうとしたリョーマを手塚は制し、その場でじっと待つ。
暫くすると、窓の下から何やら黒い物体が現れた。
「…ヘリが…何時の間に…」
あの時と同じ黒塗りのヘリだが、違うのは機械の音が全くしない。
これは戦闘用、いや、跡部専用に改造されたヘリだ。
「…じゃあな」
気障ったらしく投げキッスをリョーマにした跡部の姿が、閉まるドアに消えれば、急激に速度を上げたヘリは夜明けを迎えていない空に消えていった。
「…何だったの、あの人?」
結局は何が目的でここに着たのかが、謎のままで去って行ってしまいリョーマは首を捻るだけだった。
「どうやら、これを渡したかったようだな…」
窓を閉めた手塚がリョーマにディスクを渡した。
「このディスクを?」
「あの跡部の性格からして、普通に渡すのがつまらないと思ったのだろうが、迷惑な奴だ」
研究のデータが詰っているディスク。
今すぐにでも確認したいが、その前に…。
「…顔が冷たい」
しげしげとディスクを見ているリョーマの頬をそっと触れてみると、冷たい空気に晒されて氷のように冷えていた。
「国光だって」
「おれはまだこれだけ着ているが、お前は」
サイズの合わないガウン一枚だけ。
これを剥いでしまえば、何も身に着けていない姿になる。
「じゃあ、国光が暖めてよ」
リョーマは持っていたディスクをソファーに置き、手塚に両手を差し出す。
「喜んで暖めてやろう…」
「…ん、暖めて」
手ではなく腕を掴んだ手塚は、リョーマを抱き上げてベッドに運ぶ。
冷たくなった額や頬、鼻先に口付けて、最後に残った唇には深く口付ける。
温もりが戻るまでに掛かった時間は短かったが、手塚は跡部が触れた唇には執拗に口付けていた。
口付けに夢中になりながらも、リョーマが着ているガウンの帯を解き、なめらかな素肌に触れる。
「……あ、国光も、脱いで…」
「あぁ…」
幾分か普段より忙しなく衣類を脱ぎ捨て、手塚はリョーマに覆い被さる。
「…ね、どうかした?」
確かめるように手や唇であちこち触れていく手塚に、リョーマは気持ちいいのを我慢して訊ねる。
「…もう少し遅ければ、この身体を跡部が…」
橘からの連絡の最後に「跡部がそちらに出向いた」と言われなければ、何も知らない手塚はそのままセントラルや各地と連絡を取り合っていただろう。
「…誰にも触らせたくない」
「誰にもって、国光ってばワガママ。でも、また助けてもらっちゃったね…」
リョーマは手塚の下から起き上がり、手塚をベッドに座らせると、硬く張り詰めている手塚の雄を握った。
「…く、リョーマ?」
「たまには俺がイかせてあげる…」
リョーマは握っている雄を自分の後孔を押し当てて、ゆっくりと埋めていく。
「…あ…う……」
小さな窄まりが巨大な雄により、じわじわとその大きさに合わせて広がっていく。
手塚は苦悶と快感を同時に味わっているリョーマの表情を瞬きもせずに見つめていた。
「…リョーマ…」
狭い内部は手塚にねっとり絡まり、その熱を伝えてくる。
「…は、ぁ…国光…」
途中まで埋めると、リョーマは手塚の肩に自分の手を置いて腰を動かし出した。
単純に上下に動き、早くその太さに自分を慣れさせる。
手塚から潤滑材代わりの先走りの液が零れると、その動きは激しくなる。
「……く……っ…」
リョーマが一心不乱に奉仕する姿に、手塚の雄は更にぐんと硬さを増した。
このままリョーマにしてもらうのも良いが、もっとお互いが気持ち良くなりたいと、手塚はリョーマの腰を掴んだ。
「…あっ……すご、い…」
手塚の腕がリョーマの腰を動かす。
自分では出来なかった深いところまで抉られて、リョーマは顎を仰け反らせる。
「…いく、ぞ…」
「…ん…俺も…イ、く…」
二人が同時に息を詰めると、リョーマの内部にじわりと熱が広がり、二人の腹も濡れた。
「…は…ぁ、気持ち良かった?」
抱き締めあったまま、リョーマは手塚の肩に頭を預ける。
「あぁ、良かった…リョーマは?」
「…俺も…良かったよ…」
とても、と付け足せば、手塚の腕はリョーマの背中を抱き閉めた。
「…あのディスクって…どうにかしないと駄目だよね」
手塚越しに跡部が渡したディスクが目に入る。
「今日の休みは延期だな…」
温かい手塚の胸の中でリョーマは小さな溜息を吐いた。
「だが、まだ時間はある…」
「そうだね」
自分の中で硬さを取り戻していくのを感じたリョーマは、軽く腰を揺らした。
結局二人の休日は、跡部のディスクのおかげで無くなってしまったが、二人の繋がりは更に深まっていた。
『いやいや、これは凄い発見だよ』
二日後の夜になって乾から連絡が入った。
手塚は跡部から渡されたディスクをセントラルに送り、そのコピーを乾の元へ送っていた。
セントラルではこの発見の詳細を調べ、乾がいるサウスシティではワクチンの早急な開発に動いていた。
「そうだろうな…」
『俺達も知らなかったからな』
しばし、無言になる。
自分達は欠陥を持った人間。
それに加えて、能力者しか持たない病原体の発見。
『…まぁ、このワクチンさえあれば、病原体が発症しても問題は無いから安心だよ…これからは、ね…』
科学や医療が発達した現代でも、数々の病気が不治の病として、今でも研究が進んでいる。
治癒能力が高い能力者でも、体内の病気に対しては普通の人と何も変わらない免疫力しか無い。
きっと、自分の知らない間にこの病原体が発祥して、死に至った能力者は何人かいただろう。
それを考えると、少し胸が痛む。
「そうだな、では頼む」
『任せてくれ、どうにか三日くらいで終わらせるよ』
人間用のワクチンを作るのは、コンピューター関連のワクチンを作るよりも時間が掛かる。
乾は多くの科学者を自分の研究所に集めて、ワクチンの開発と生産に取り組んでいた。
「あまり無理はしないでくれ」
『…手塚からそんな台詞が聞けるとはね。いやぁ、人の進化とは素晴らしいものだね』
「俺をどんな人間に見ていたんだ、お前は」
画面の向こう側で本気で驚いた顔をしている乾に、手塚は眉間にしわを寄せる。
『自分でもわかっているんだろう?変わったって』
「…まぁな」
『越前に感謝だな。じゃあ俺は研究所に戻るよ』
最後に『出来上がったら連絡する』と言い残して、乾の方から回線を切った。
「お疲れさま」
様子を見計らってリョーマは書斎に入り、手塚の前にティーカップを置いた。
「ありがとう、リョーマ」
紅茶の優しい香りがふわりと立ち込める。
スプーンの上にはブランデーを染みこませた角砂糖が一つ。
それをカップの中に入れれば、紅茶の香りとブランデーの香りが合わさる。
「どう致しまして」
普段通りの仕事は毎日あるが、今は跡部から渡されたディスク関連の仕事を手塚が携わっており、他の事はリョーマに全て任せている。
リョーマは手塚だけでなく、周囲も気遣いながら、テキパキと与えられた仕事をこなしていく。
人に任せるのを極端に嫌っていて、出来るだけ自分の手で終わらせたいのが、リョーマが来る以前の手塚だった。
だが今は、サポート役がいなかった頃では考えられなかった充実感を手塚は味わっていた。
「痒い所に手が届く…と言う事か」
「…何か言った?」
何かを呟いたのに気付き、書斎から出ようとしたリョーマは手塚を振り返る。
「リョーマがいてくれて助かると言ったんだ」
「…そ?じゃ、もっと頑張ろ。でも国光はあんまり頑張らなくてもいいから」
自分用に入れたホットココアを一口飲んで、リョーマは書斎から出て行った。
「…頑張らなくてもいい、か…」
こんな風に目に見える気遣いから、あまりにも小さくて気付かない気遣いをリョーマは手塚にしている。
それは本当に些細な事だけど、一人で何でもこなしてきた手塚にとっては初めての経験。
何に対しても気を張り、全力を注いでいた自分に『頑張らなくてもいい』と言ってくれる。
リョーマの言葉は自分を優しく包み込んでくれる。
「そろそろ本格的に考えてみるか」
手塚もコンピューターの周囲を片付けると、リョーマの後を追った。
「リョーマと出会えて本当に良かった」
手塚がこんな台詞を言ったのは、二人で夕食を食べながらだった。
今夜の夕食はシチューで、バターを塗ったフランスパンを齧っていたリョーマは訝しげに手塚を見る。
「いきなりでは無く、ずっと思っていたんだ」
「……ずっと?」
以前、口に食べたまま喋って手塚に怒られたので、リョーマは急いで咀嚼して飲み込んでから口を開いた。
「お前が俺の前に現れた瞬間から、俺の世界は変わってしまったんだ」
「…なんかそんな事、前にも聞いたよね」
「そうだな、したな」
あの日からもうどれくらい経ったのか。
リョーマを抱き締めて告白した、あの日。
手塚は自分の気持ちをリョーマに伝え、リョーマも手塚に自分の気持ちを伝えた。
その日を境にして二人の生活は一変した。
リョーマはこれまでの自由気まま生活を捨てて、手塚の傍にいる為に試験を受けて特別捜査局に入局し、今は手塚のサポートとしてここにいる。
「食事が済んだら話がある」
「今じゃ駄目なの?」
パンくずの付いた手を軽く払う。
「出来れば、ゆっくりと話したいのだが」
「ふーん、じゃ、さっさと食べよ」
どうやら深刻な話のようなので、早く食事をおわらせようと、リョーマは残ったシチューを掬い取り口に運んだ。
片付けを済ませてリビングのソファーに座っているリョーマは、テレビのスイッチを入れていた。
クッションを抱きながらタッチパネルのリモコンを操作し、ニュース番組に合わせる。
「…国光ってば、どこに行ったんだろ」
手塚はリョーマと一緒に片付けていたが、片付けが終わると外に出て行ってしまった。
どこか慌てた素振りで出て行ったので、行き先を聞くのを忘れたリョーマには探しようが無い。
電話でもしようと思ったが、どうやら携帯や連絡の取れる物の全てを置いて出て行ったようで、リョーマにはなす術が無かった。
話があると言うので何もしないで待っているのに、待ちぼうけを喰らっているこの現状に少し不機嫌になる。
「…今日は先にお風呂に入って寝てやる」
暫くはテレビを見ていたが、手塚が出て行ってから一時間ほどが過ぎようとしていてリョーマの不満は爆発した。
立ち上がったリョーマは、持っていたクッションをソファー目掛けて乱暴に投げた。
「…リョーマ、寝てしまったのか?」
手塚が戻ったのは、リョーマが風呂から上がり、ベッドに入って数十分も過ぎてからだった。
リビングにいるものだと思っていた相手はおらず、探してみれば既にベッドの中で、手塚は申し訳無さそうにリョーマに話し掛けてみる。
「…寝てるから話し掛けないで」
身体は手塚の反対側を向いていて表情は窺えない。
素っ気無いトーンではあったが、返事が返って来たので手塚は少し安心する。
「話があるのだが…」
「明日じゃダメなの?」
まだこちらを向かない。
「今日でなければ駄目なんだ」
その声に漸くリョーマは身体の向きを返る。
その瞳はまだ起きていた。
リョーマは不貞腐れてベッドに入っていただけだ。
「で、何?」
「…これを、リョーマ」
リョーマの目の前に出されたのは、深い紺色をしたベルベット生地の小さな箱。
「何これ?」
明かりの無い部屋の中ではそれが何なのかわからず、リョーマは身体を起こす。
「リョーマ、俺と一生を過ごしてくれないか」
そう言って小箱を開ける。
「…国光、これって」
中に入っている物を見たリョーマは、驚きで目を丸くしていた。
ベルベット生地の箱の中身は、眩しいほどの輝きを放っている宝石が付いたリングだった。
「…まさか、これを買いに行っていたの」
「人気があるリングらしく入荷待ちでな。先ほど連絡が入って受け取りに行っていたのだが、少し離れた場所にあるものだから待たせて済まなかった」
「一体、何時の間にこんな…」
ほとんどの時間を同じ場所で過ごしているのに、こんな計画をしていたなんて全く知らなかった。
「返事をくれないか」
「そんな…返事って、だって俺の帰る場所はもう国光のところしか無いのに、こんな事されたら…」
俯いて、ふるふると頭を振る。
「リョーマ?」
「…こんな俺なんかで良かったら…」
俯いていた顔を上げたリョーマは、涙を浮かべながら手塚の好きな笑顔を作った。
「リョーマ、左手を…」
言われて差し出したリョーマの左手を取り、薬指にリングをはめる。
「愛している、リョーマ」
リングのはまっている指に口付けた。
「どうしよ…」
困り顔でリングを見つめる。
細身のプラチナリングにはめ込んである宝石は、グレードの高いダイヤモンド。
「やはり迷惑か?」
「違う、そうじゃなくて…嬉しくて、俺…」
ぽろ、とリョーマの頬を宝石に負けないほどの輝きを持つ涙が伝った。
リングなら指のサイズを測らないといけないのに、自分の指にはまっているリングは丁度良いサイズ。
何時の間にサイズを調べたのかわからないが、手塚が自分の為に前々から準備していた事を知り、嬉しさで自然と涙が零れる。
手塚はそんなリョーマをそっと抱き寄せて、涙で濡れている頬を指で拭う。
二人は指を絡め合わせて口付けを交わした。
「リョーマ、俺は永遠の愛をお前に誓う」
歯が浮きそうな台詞もリョーマにならいくらでも言える。
好きだから、愛しているから、不安にさせないように言葉でも身体でも伝えたい。
「俺も国光だけだよ、今までもこれからもずっとね」
何度も口付けを交わし、不機嫌がどこか遠くへ行ってしまったリョーマは「勿体無いから」と言って、リングを外して箱に戻した。
「今度は二人で結婚指輪を探しに行かないか?」
「行く、一緒に選びたい」
にっこり笑ったリョーマを優しくベッドに押し倒した。
「結婚おめでとう」
結婚でも離婚でも今はネットで簡単に届けられるが、二人が昔のように紙での婚姻届を提出したのは、出会ってから一年後の事だった。
周囲の反対は全く無く、手塚の家族もリョーマの親類も、特別捜査局の全員も祝福だけをしてくれた。
不二と乾の二人だけは「こうなる事は予想していたけど、ちょっと早過ぎるんじゃない」との皮肉が込められていたのはご愛嬌。
数日間の休みを取って、手塚の実家の元へ挨拶に出掛けたリョーマを両親はとても歓迎してくれた。
特に母親はリョーマの家族の話を聞いてから、母性を刺激されたのか、甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
それは実の息子以上に。
菜々子とカルピンの所にも出向き、自分の言葉で結婚の報告をした。
最後にリョーマの両親が眠る墓地へと向かった。
「国光、ここだよ」
「思ったより手入れがされているな」
法要も墓の手入れも親戚に任せっぱなしだったが、一年に一度、あの事故の日だけは必ずここに訪れていた。
「リョーマの事はご心配なさらないで下さい。俺が一生守り通します」
天国にいるリョーマの両親に誓いをすると、純白の薔薇を墓前に供え、手塚はしゃがんで手を合わせた。
「親父、母さん。助けられなくて…ゴメン」
手塚には内緒にしていたが、リョーマは事故が起きて両親だけが死んでしまった事を後悔していた。
自分も一緒に死んでしまっていれば良かった、と何度も自分を責めた。
真っ赤な血が車内に飛び散る夢を見てしまうほど、あの事故は鮮明に記憶している。
しかし、もう死を望む事はしないと心に誓った。
今は生きて、醜いほど生に執着してでも、この人の傍にいたい。
「俺は国光と生きていくよ。だから心配しないで」
手塚の横に座り、指にはまっているリングを墓前に見せると、爽やかな風が吹いた。
まるで二人を祝福するかのように、優しい風だった。
「そろそろ行こうか、リョーマ」
「うん……え…?」
立ち上がったリョーマの瞳に、懐かしい二人の姿が映った気がしたが、突如強い風が吹き込んできてリョーマの視界を遮った。
「…親父…母さん…」
再びそこを見ても、誰もいなかった。
見間違いではない。
二人はそこにいて、自分に笑い掛けていたのだ。
「どうした、リョーマ?」
少し先を歩いていた手塚が、呆然と立ち尽くしているリョーマの元へやって来た。
「ううん、何でもない」
手塚の腕を掴み、リョーマは歩き出した。
気になって一度だけ振り返ってみても、やはりそこには誰もいなかったが、リョーマは「また来るよ」と言い残して前を向いた。
もう後ろは振り返らない。
前だけを見て生きていく。
特別な儀式は何もせず、二人は報告だけで済ませ、何も変わらない日々を過ごしていた。
ただ、お互いの左手の薬指には同じリングがはまっているだけで。
「セントラルから緊急の要請が入りました」
オペレーターの声に手塚とリョーマが動く。
「スクリーンを切り替えろ」
「はい」
手塚とリョーマは特殊任務に就く事が多い。
どんな事件にも二人は能力を使い、事件を解決していた。
まずは手塚による頭脳で、そしてリョーマの肉体で。
東西南北にある四つの捜査局の中でもトップの成績。
犯罪発生率は最も低く、住人達は安心した日々を過ごしている。
その為に、セントラルはこの二人に依頼する。
事件の資料を手に入れ、手塚は分析する。
「リョーマ、相手は義体化だ」
「わかった」
リョーマは手塚の作戦通りに動く。
二人のコンビネーションは阿吽の呼吸で、誰も付いて来れやしない。
後方支援にあたる他の捜査官に、出る幕はよほど無い。
ただもう只管感心するだけで。
二人は他の捜査官の目標だった。
「国光、犯人の捕獲が完了したよ。怪我人はゼロ」
「今からそちらに向かう」
お互いを信用し、信頼している。
「犯人は二人。国光の言うとおりだったね」
「リョーマの情報のおかげだ」
能力によってはフィーリングが合わず、大事なところで役に立たなくなってしまうが、この二人の能力は最高のレベルな上にお互いの能力を更に引き出そうとしている。
サポート関係としては最上級。
だが、二人はサポートではなくパートナーなのだ。
「では、戻って報告だ」
「ちょっと疲れたから、明日は休みたいな」
「…そうだな、リョーマには負担を掛けているしな」
身体能力を駆使する分、リョーマは肉体の疲れを取らせなければならない。
「国光は?」
「…今日中に報告を済ませよう」
リョーマの肩を抱き寄せて、車に乗り込む。
この時になって、ようやく二人はそういう仲だった事を他の捜査官達は思い出す。
それくらい、二人の仕事に対する時の表情は違っている。
「…辛くないか」
「……ん、まだ平気」
昼間の顔は夜には見せない。
夜は二人だけの時間だ。
ベッドの中で見せる二人の表情は、お互いだけを愛している顔。
「愛している」
「俺も愛している、国光」
絡み合う指も、触れ合う唇も、交わる身体も、全てが愛しくて、二人の夜はいつでも熱かった。
「…ねぇ、たまには他の地区に行ってみたいな」
「休みが取れたらな」
「じゃあ、周助のところに行ってみよ。国光は行った事が無いんでしょ?」昔ながらの自然が残る美しい地区と言われているが、実際に足を踏み入れた事が無い。
「そうだな」
「心も身体も癒されるよ、きっと」
「俺はお前さえいれば癒させるが…今もな」
どれだけ抱いても、飽きない身体。
どれだけ満足しても、何度でも欲しくなる。
それは麻薬のように。「俺も国光に癒されたい…」
リョーマの甘く誘う声に、再び重なり合う二人の影。
今夜もこの二人の愛にブレーキが掛かる事は無かった。
数々の事件や障害を乗り越えて、二人は永遠を共にする。
この命が尽きたとしても、忘れられない大切な事がある。
それは同じ時代を共に戦った事。
同じ時代を共に生きていた事。
そして、愛し合った事。
全てはこの巨大な都市−メトロポリス−の中の出来事。
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