「越前リョーマ?…誰だ、それは?」
そのセリフを吐いた時の彼の顔は、とても哀しくて寂しそうだったのを覚えている。
嘘でも言わない方が良かったのかと思うくらい。
それは、いつもの部活の時間だった。
コート内では、レギュラー同士での試合形式の練習が行われている。
桃城とリョーマ。
菊丸と海堂。
河村と手塚。
ワンセットマッチの試合は、それぞれ白熱したものになっていた。
「勝たせてもらうぜ」
桃城とリョーマの試合は、4―3でなんと珍しく桃城がリードしているのだ。
「…勝つのは俺っすよ」
相変わらず強気のリョーマ。
しかし今日に限っては、そのセリフと身体の動きが微妙に合っていない。
「越前!危ないぞ」
唐突に叫んだのは、この試合の審判をしていた大石。
桃城の渾身のサーブに対し、ポンと高いロブを返してしまった後だ。
この打球では、桃城お得意ダンクスマッシュの餌食になるのは明らか。
普段ならこのようなヘマをしないリョーマを不思議そうに見ていた大石は、不意にリョーマの身体がぐらつくのを見過ごさなかったのだが、ボールを追っていた桃城はリョーマの状態に気付くのが遅れ、高いジャンプから繰り出すダンクスマッシュを、リョーマ目掛けて放っていた。
「越前!」
隣のコートで試合をしていた手塚は、リョーマの身体にボールが当り地面に叩きつけられる瞬間、隣のコートから飛び出しリョーマが倒れる寸前で抱きかかえたが、あまりの衝撃に手塚はリョーマに代わり頭から地面に叩きつけられてしまった。
「…く…」
一言だけ呻き声を上げると、打ち所が悪かったのか手塚の身体はピクリとも動かない。
「おい、誰か、担架持って来い」
直ぐ側で大石が慌てている様子も、どことなく遠くに感じていたリョーマは、ボールが当った衝撃で気を失ってしまっていた。
「う…ん…ここは?」
リョーマが目を覚めると、そこは学校の保健室。
「おチビ〜、大丈夫か?」
ベッドの横には、不安そうな菊丸の顔。
「すまねぇ…」
その横には、試合相手だった桃城の姿。
こちらも心配そうな顔でリョーマを見つめていた。
「…つっ…」
起き上がろうと右手をベッドに乗せると、ズキッとした痛みが脇腹辺りを走った。
「あぁ〜駄目だよ、おチビ」
オロオロとリョーマの状態を心配する菊丸。
桃城の渾身のスマッシュは、リョーマの脇腹にクリーンヒットしたようで、鋭い痛みがリョーマを襲った。
「…平気っす」
これくらいならなんとか大丈夫だと、ゆっくりとベッドに起き上がった。
「あれ、部長?」
菊丸達の後ろにある隣のベッドでは、手塚が眠っていた。
「うん?おチビを庇って、コートと激突」
リョーマの疑問に、菊丸は簡単に説明をする。
覚えているか?と聞かれれば、「…何となく」と返す。
ボンヤリとした意識の中で、手塚が自分の下敷きになってくれた事を思い出していた。
どんな時でも、自分を想ってくれる恋人に感謝したが、言い知れぬ不安が身体中を駆け巡るのを感じたのもまた事実。
それを肌身に感じるのはもう少し後。
「でも、目覚めないっすね」
大丈夫なんすかね?と、普段の手塚を知っているだけに余計に心配になる。
それは、菊丸もリョーマも同じ。
細身の身体の割にはしっかりと筋肉が付いていて、メンタル面の強さは半端なものではない。
その手塚が、保健室のベッドに横たわっているのだ。
目を疑う光景。
「…国光…」
リョーマは手塚と2人きりの時にしか呼ばない名前を小声で呟き、ぼんやりとしながら手塚が目覚めるのを待っていた。
「……ん…ここは?…」
リョーマが目覚めてから数分後に目を覚ました手塚は、自分の置かれている状況を瞬時に判断できなかった。
「手塚、よかったにゃ〜」
その声を聞いた菊丸と桃城は後ろを振り返り、手塚に近寄った。
リョーマも安心したのか、ほっと安堵の息を吐いた。
「どこか、痛いとこはありませんか?」
桃城は手塚に身体に痛みが無いかを尋ねるのだが、その質問に当の手塚は不可解な返事を返した。
「痛いところとは?」
この人には痛覚が無いのか?と眉を顰める桃城。
菊丸は手塚の顔をじっと見つめると、一つ質問をした。
「なぁ、手塚。なんでお前がここに居るのかわかってる?」
嫌な予感がしたのか、菊丸は手塚が置かれている状況を事細かに話した。
「…そんでもって、手塚がおチビを庇ったんだよ」
手塚はじっくりと話を聞くと、反対に菊丸に質問をしていた。
「菊丸…その『おチビ』とは何者だ?」
意外なその言葉に菊丸は大きな目をパチクリさせてから、額に青筋を浮かべる。
「おチビはおチビ!手塚が大好きな越前リョーマだよ!」
大声で言うと隣のベッドにいたリョーマを指さして、手塚にきっぱり言い放つと、どうだ!といわんばかりに仁王立ちになる。
「な…!」
まさか菊丸にそんな事を言われるなんて思っていなかったリョーマは、ほんのりと顔を赤らめた。
だが、手塚の反応といえば。
「越前リョーマ…誰だ、それは?」
小声で「知らないな」と呟く手塚の言葉に、その場にいた3人はしばらく呆然としてしまった。
それは、保健室に他のレギュラー部員が入ってくるまでの数分間続いた。
「…どうやら、部分的な記憶喪失みたいだな」
あの後、リョーマと手塚は大石の親類の病院で検査を受けていた。
リョーマは脇腹の打撲で全治一週間。
そして手塚は『記憶喪失』と診断された。
身体の方は怪我の一つも無かったのは不幸中の幸いであったが。
「「…記憶喪失?」」
「そのようだ」
レギュラーの面々は勢揃いで病院を訪れ、聞かされた手塚の診断結果に唖然とした。
手塚は「特に問題は無い」と皆に説明した。
「でも…俺達の事は覚えてるんだよね〜」
菊丸は少し離れた所に座って、保健室での出来事を思い出していた。
窓辺には、リョーマがポツンと佇んでいる。
手塚が覚えていないのは、彼が誰よりも愛していた、越前リョーマただ1人。
「恋愛か、つまらないな」と言っていた彼をすっかり変えてしまうほど、リョーマの事だけをいつも想っていた。
それなのに、手塚の中でリョーマの記憶だけが、すっぽりと穴が空いたように消えてしまっていた。
「本当に覚えていないの」
ぼんやりと考え込んでいた菊丸に、手塚に確認を取る不二の声が耳に入ってきた。
不二の確認は、手塚を心配しているのか、リョーマを忘れている事を心配しているのか定かではない。
ただ、手塚を見るリョーマの無表情な顔だけが、やけに印象的だった。
「すまない…」
何か靄が掛かってるようで釈然としない状態。
手塚は全員にそう説明すると、大石は「しばらく様子を見よう」と皆を納得させて病院から出た。
「…大石副部長…」
病院からの帰り道、一番後ろに歩いていたリョーマは、手前にいた大石の服を引っ張って足を止めさせた。
「どうかしたのか?」
どうやら前方にいた残りには気付かれなかったようで、リョーマは安心して大石に相談を持ち掛けた。
「明日から数日、部活休んでもいいっすか」
3日後。
「あれ、おチビは?」
今日も部活の時間が来た。
先日の事故が本当にあったのか?と思うほど手塚の様子は何らいつもと変わりはない。
ただ、そこにリョーマの姿だけが無かった。
きょろきょろと周りを見渡しても、リョーマの姿は目に入らない。
「越前は先日の怪我の状態があまり良くないらしいから、休みを取らせたんだよ」
「えー、また今日も?つまんないな〜」
菊丸に説明する大石の姿を、手塚は瞬きをせずに見つめていた。
「…越前…リョーマ…」
とりあえず周囲から聞いたのは、1年生のテニス部員で、レギュラーの座についている実力のある選手。
誰もが認めるその力に惹かれている者は後を絶たない。
それは彼自身のルックスと、その力のギャップからきているものなのか。
しかも驚いた事にレギュラー内でも、数人が彼に惹かれているらしい。
不二が言うには、俺と恋人関係にあるという。
教えてくれた不二も彼に惹かれている一人だと言う。
だが、俺と争う気は更々無いと言ってきた。
本当にわからない事だらけだ…。
どうして、彼を?
どうして、俺は忘れているんだ?
どうして…何も言わないんだ?
俺は…どうしたらいい?
「少し良いか、不二」
「ん、何?」
手塚は意を決して不二に近寄り、とある事を尋ねた後で、大石に後を任せて自分だけ部活を中断した。
「はー、わかっててもやっぱりキツイな」
リョーマは自室のベッドの上に寝転がりながら、ぼんやり考えていた。
この3日間、授業が終わると急いで家に帰っていた。
それは怪我の事もあるが、なにより手塚と顔を合わせたくなかったからだった。
記憶喪失と診断された次の日、彼は自分に対して、こんな事を言ってきた。
それは昼休みの時間、何時ものように屋上でぼんやりしているリョーマの元を訪れた。
「越前?」
名前だけは聞いていたので、手塚は普通に後輩に対しての呼び方をしてきた。
「何ですか?手塚部長」
リョーマはその呼び方に少しだけ身体を固くすると、手塚の呼び掛けに応じた。
「あれだけで、へこんじゃう自分もヤだけど…」
それは、本当に些細な出来事。
2人なのに、『リョーマ』が、『越前』になっていた事だった。
それだけでものすごく距離を感じてしまう。
あぁ、本当に忘れられたんだ…と、はっきり自覚した。
きっと、この不安定な気持ちのままで会ったりしたら、すごく情けない顔してしまう。
自分はこんなにも手塚国光が好きだったんだ…。
今までの生活だったら、こんな想い気付かなかった。
ごろりと壁際に寝返りをうつと、一粒だけポロリと涙を流して目を閉じた。
「あれ、俺…寝ちゃってたんだ」
知らない間に窓の外は暗くなっていた。
部屋の中は電気を点けていなかったので真っ暗になっている。
しかし、リョーマは人の気配を感じて身を強張らせた。
「…誰かいる…の?」
ぼそりと何かしらに向けて、声を掛けてみた。
人に対しては誰よりも強気なリョーマも、お化けの類に対してはめっぽう弱い。
「…俺だ」
ややあって、その気配はリョーマの質問に答えた。
「国……手塚部長?」
その声に素早く反応すると、がばっと起き上がり暗闇の中にいる手塚を見つめた。
しばらくして目が慣れてきたのか、その姿がハッキリと見えてきた。
電気も点けずに、2人は暗闇の中にいた。
しかし、何故ここに、と疑問が沸き起こる。
「不二にお前の自宅を聞いて来たんだ。母親に訳を話したら通してくれたのだが…迷惑だったか?」
手塚はここに来た理由は話さず、この部屋にいる理由だけを話した。
「え、ううん」
ぶんぶんと頭を横に振ると、唐突に手塚の顔が目の前に現れた。
相変わらず整った顔立ちだなと思い、恥ずかしさでついつい下を向いてしまう。
「どうしてお前はそんな顔をするんだ?俺がお前の事を忘れてしまったからか?」
「…ぶちょ?」
「…俺の事は忘れてくれないか」
それは、本当に突然だった。
手塚は自分の事は忘れて欲しいと言うのだ。
怒りのような哀しみのような自分でも理解出来ない震えが、体中を駆け巡るのを感じると、俯いていた顔を上げてリョーマは大声で叫んだ。
「そんな事できるなら、とっくにやってるよ!」
両目からは、大粒の涙を流して。
まさかそんな事を言われるなんて思っていなかった。
「一から始めよう」とか「一緒にいたい」なんてガラでもないセリフが頭に浮かんだりしたのに、本人の口から吐き出されたセリフに、リョーマは強いショックを受けていた。
「越前…」
手塚は目の前でボロボロと涙を流すリョーマに驚き、落ち着かせようと名前を呼ぶが、リョーマにとってはかなり気に入らない。
「越前じゃないよ!俺の名前も忘れたの!」
ぐいと手の甲で強引に涙を拭い取り、部屋から出て行こうとドアに手を掛けた。
「ちょっと待て」
手塚は慌ててその手を掴み、ぐいと強く引っ張る。
「え、あっ?」
リョーマは不意に手を引かれた為、変な所に力が入ってしまい、バランスを崩して倒れそうになった。
手塚は何だかこの光景に見覚えがある事に気付き、その瞬間、忘れていた何かが凄い勢いで脳裏を駆け巡る。
「危ない!リョーマ」
咄嗟にリョーマを庇う手塚。
ドスンと大きな音をさせて、2人はその場に座り込んだ。
もちろん、手塚の腕の中にはリョーマ。
「…大丈夫か?」
手塚は背を向けているリョーマに怪我は無いかを尋ねる。
振り向きはしたが、返事を返さないリョーマに少しだけ戸惑いを感じ、もう一度確かめようとした。
「大丈…」
「国光?」
その手塚の言葉を遮って、リョーマは名前を呼んだ。
「どうした?リョーマ…!」
手塚は自分の口から出た言葉に驚きを隠せないでいたが、それはリョーマも同じ。
「もしかして、…思い出した?」
リョーマは下から手塚の顔を覗き込み、失われた記憶が戻ったのか確認してきた。
「…そう…みたいだな…」
何だか頭の中に蔓延っていた靄がすっかり消えうせた気がする。
代わりに、この3日間の事はしっかりと覚えていて、リョーマの複雑そうな顔や、辛そうな顔などが、ちらちらと目の前を横切る。
「すまない。リョーマ」
申し訳なさそうに謝罪する。
その表情を見てリョーマは安心したのか、泣きそうな顔で抱きつけば、手塚もリョーマの身体を優しく抱きしめた。
「いいよ、許してあげる…」
好きな人に名前呼ばれただけで、こんなにも安心できるなんて。
自分って結構、単純だったんだ。
リョーマが手塚にそう話すと、手塚も「俺もだ」と滅多に見せない笑みを浮かべて答えた。
ようやく、2人のギクシャクした関係が終幕を迎えた。
「そういえば、あの日、何故調子が悪かったんだ?」
手塚は自分が記憶を無くすきっかけになった、あの試合を思い出していた。
普段のリョーマからはとても信じられない動き。
しかも、桃城にリードを許していた。
それを聞いたリョーマは顔を真っ赤にして、逆に手塚に聞き返す。
「本当に思い出したの?」
呆れた表情で手塚を見るリョーマ。
顔は未だに真っ赤なままだ。
「思い出したが?」
本当にわからないようで、手塚はお手上げだと首を左右に振る。
その姿にリョーマは「はー」と大きな溜息を吐き、訳を仕方なく話した。
「あの日の前の夜、国光ってば放してくれないんだもん」
リョーマはそれだけを言うと、プイとそっぽを向いてしまった。
「そ…そうだったな」
どうやら、リョーマの調子の悪さは自分にあったようだ。
久しぶりに家族が全員出掛けていたあの日。
有無を言わさずリョーマを自宅へ連れ帰り、夜遅くまで愛し合っていたのを痛烈に思い出した。
もう駄目だと訴えるリョーマの意見は全て無視し、気を失ってしまうまで愛した。
だからあの試合で普段の動きが出来なかったのだ。
「すまない、リョーマ」
記憶喪失になったのは自業自得だったのかもしれない。
「…だから、もういいよ」
リョーマはクスクスと笑いながら、手塚の身体に腕をまわした。 「そう言えば、菜々子さん達は?」
あんな大きな物音を立てたのに、誰も部屋に様子を伺いに来ないなんて変だ。
おかしいなと感じていたリョーマ。
「俺が来た時に出掛けて行ったぞ。今は俺とリョーマだけだ」
その疑問には簡単に説明する。
リョーマの家族は2人の関係には薄々感付いていたので、2人きりにしても別段問題ないだろうと決め付けて、出掛けて行ってしまっていた。
その時の南次郎の顔は、実に楽しそうな表情だった。
リョーマは途端に嫌な予感に襲われ、手塚をチラリと見た。
そこには、恐ろしいまでに満面の笑みを浮かべる手塚国光の顔。
「…いいよな?」
後ろにはベッド。
家には誰も居ない。
このチャンスをみすみす逃す手塚ではない。
「…うん…でも…」
ごにょごにょと言葉を濁すリョーマ。
「わかっている。リョーマは怪我をしているからな」 桃城のボールの脅威は良く知っていた。
人を失神させる強烈なボールを、この細い身体に受けたリョーマ。
無理なんてさせてはいけない。
「優しくする…」
リョーマを抱えると、そのままベッドにゆっくり下ろす。
暗闇だった部屋の中は、眩い月明かりに照らされ、2人の姿をハッキリと映し出す。
「何か、ドキドキするね」
ほんの少し前は、「忘れて欲しい」と言っていたのに、今ではそんな事あったのかと思うほど、手塚の様子は悔しいほどいつも通り。
この3日間は、悪夢だと思いたい。
「…愛している、リョーマ」
まずは、思いのままに口付けを交わす。
口付けの合間のリョーマの吐息ですら、手塚には新鮮なものに感じていた。
リョーマは手塚の優しい愛撫を身体の隅々に感じ、好きな人と一緒にいられる喜びに包まれていた。
「なーんだ。もう元に戻ったんだ」
次の日、リョーマと一緒に登校して来た手塚を見て、菊丸は記憶が戻ったのを察した。
もちろん、菊丸によりテニス部全員にすぐに伝えられた。
リョーマもこの日から部活に出てくるようになり、コート内には平和が戻った。
手塚は部長として部員を叱咤しつつ、リョーマも強気な王子様ぶりを前面に出しながら練習していた。
全てが元通りになり、誰もが安心して練習に打ち込んでいた。
「記憶喪失になってた間のコトは、覚えてるんだよな?」
菊丸は手塚に数日間のリョーマの状態をしみじみと話し、「わかってるのならいいけど、おチビのコト、大切にしなきゃ駄目だぞ」と最後に言った。
不二は菊丸もリョーマに惹かれている一人だったと言っていた。
「心配するな、お前に言われなくとも大切にする」
手塚は微笑を浮かべ、最後に「大丈夫だ」と菊丸の肩をポンと叩いた。
その後、手塚はレギュラー全員から同じような事を言われた。
言い方はそれぞれだったが、誰もが心配してくれていたのだと知り、仲間とは良いものだと、心の底から思った手塚であった。
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