ココロのカケラ
心の奥底に沈めた思い出 知られたくない、気付かれたくない…思い出 人と付き合うのは難解な事だ。 それが、好きな相手ならなおさら。 人は誰にでも、『触れられたくない部分』がある。 それは、身体の一部分かもしれないし、自分だけの大切な思い出かも知れない。 しかし一番は、心に深く傷を作った、辛く哀しい思い出。 もし、知らずにそれに触れてしまったら、どうしたらいいんだろうか? セミの大合唱が鳴り響き、暑い日差しが照り付ける。 季節は夏。 教室内には冷房設備があるのに故障中との事で、代わりに全ての窓を全開に開いて、カーテンだけを閉めている。 カーテンには知らない間に、そのクラスの人物の手によって、あらゆる工夫がされている。 1年2組も他に漏れずに、カーテンに小細工が仕掛けられていた。風を孕んで邪魔になるのを防ぐ為、何時の間にか洗濯バサミなるものが用意され、カーテンと窓枠を固定してあるのだ。 「暑い…眠い…」 このクラスの一人である越前リョーマは、席替えによって窓寄りの席になっていた。 カーテン越しに受ける日差しに少なからず、身体が拒否反応を起こしている。 とは言っても、それは日常茶飯事。暑いと言っても、部活中に比べれば、こんなの全く問題ない。 ただ、授業を受ける気力が無いだけ。 今は3限目の休憩時間。 ぼんやりと机に突っ伏していると、後ろの方で話し声が聞こえる。 「……だって…」 「………うそだよ…」 声は女子のものだ。 どうやら2人組らしいが、自分には関係の無い話だろう。 ここはやっぱり寝るに限る、と瞼を閉じかけたリョーマに、耳を疑う言葉が飛び込んで来た。 「…越前君が……だって…」 自分の名前が出て来たのに気付き、耳を澄ましてしまう。 「……だから……だよ…」 この女子達は一体何を話しているのか? 自分の事だと言う事は、名前が出て来た時点で判明している。 一人は自分の事を疑う口振り。 一人は自分を庇護する口振り。 何だか悪い噂話のようなので、これは無視するに限ると、その話し声を気にしないようにした。 だが、それでも耳には入ってくる。 リョーマは起き上がって、「人の噂話は相手がいないトコでやってよ」と言おうとしたが、最後のセリフに身体が凍り付いたように動かなくなっていた。 「…だってアメリカだよ。同性愛の本場じゃん」 「…だからアメリカに居た全ての人が、同性愛主義者みたいな言い方しないで」 そこだけは、途切れ途切れでは無く、全てが聞こえた。 1人はリョーマがアメリカで同性に襲われたと思っている。 1人はそんなドラマみたいな事あるわけ無いと思っている。 リョーマの脳裏に、消したはずの記憶の欠片が鮮明に甦って来る。 今は既に帰りの部活の最中。 あれから授業は何事もなく過ぎた。 その噂話をしていた女子達も、それっきりその話題を話すことは無かった。 ただしリョーマはその話により、記憶の扉が開いてしまったのだ。 今はクラスでも、ほんの一部の噂話でしかない。 だが、人の噂とは恐ろしい物で、知らない間に伝染してしまう。 不安が身体中を駆け巡る。 それが、このテニス部にまで伝わって来たらと…。 ドクンドクン、と鼓動が波打つ。 嫌な汗まで流れてくる。 「…どうかしたのか?」 何時もと違う雰囲気を察したのか、1人の先輩が近寄って来た。 それは、リョーマにとっては特別な人。 いや、その人物もリョーマを特別な人物と認識している。 2人は1ヶ月ほどまでから、恋人と呼ばれる関係になっていたのだ。 「えっ、あ…何でもない…」 「…本当か?」 「本当っス」 慌てて笑顔を作るが、強張った笑顔では誤魔化しきれない。 「…お前の言う事だ、当てにならないが…」 ぽんっと帽子の上から軽く叩くと、リョーマにしか聞こえない大きさで呟く。 「…あまり無理をするな…」 それだけを言うと、リョーマから離れ、コートに入って行った。 この人の耳だけには、入らないで欲しい。 今のリョーマの望みはそれだけだった。 「…最近のお前は、本当に変だぞ」 帰り道は、常に手塚とリョーマは共にしている。 それは、互いが互いの気持ちを打ち明けてからは、当たり前の行動になっていた。 『好き』だと言う事は、こんなにも人を変えるものなのか。 まだ『手を繋ぐ』事しかしていない、初々しい2人。 それでも、心が温かくなるのだから、別にいい。 今日も暑いくせに、手を繋いでいる。 初めのうちは「人の目があるからな…」と言っていた手塚も、今では人がいない所では自分から手を差し出す。 その手を見つめるリョーマの表情が、すごく嬉しそうなので、手塚も満更ではないのだ。 しかし最近は、ビクリと身体を震わせてから手を握ってくる。 これが、変じゃないと言うのなら、一体何なんだ。 「…そ…そうかな?…そうかもね」 それっきり何も言わなくなったリョーマに、手塚も黙ってしまった。 リョーマの家に着くまで、2人は一切会話を交わさなかった。 「…じゃ、また明日」 「あぁ…」 結局このやりとりで今日の会話は終了してしまった。 手塚は最後に、チラリとリョーマの顔を覗き見る。 “何か”を隠している。 それは、わかっているのだが、それを言ってもいいものなのか。 手塚は暫し悩んだ末に、そのまま踵を返して帰って行ってしまった。 「…まだ、広まってないみたいだ…でも…でも」 自分の部屋に入り、自分の両腕で身体をきつく抱くと、その場に座り込む。 安心と不安がリョーマの心を掻き乱す。 「一体、何だったんだ…」 リョーマの態度の変化に気がついたのは、ほんの一週間前の事。 不安で仕方が無い。 そんな表情をしている事を自分で気が付いているのか? 初めて本気で好きになった相手が、そんな状態なのに自分は何も出来ない。 それが手塚を苛立たせていた。 しかし、下手に強い口調で問い詰めても、逆効果なのはわかっている。 相手は何と言っても、越前リョーマ。 テニスでも口でも、一筋縄ではいかない相手だ。 「俺では…駄目なのか…」 らしくない考えを振り切ろうと、海堂では無いが、着替えてロードワークに出掛けた。 しかし、リョーマの思いとは裏腹に、手塚に知られる事になってしまった。 それも同じテニス部の先輩によって。 「…何を?」 「だから〜、おチビのう・わ・さだよ。知らないのかにゃ〜?」 猫のように、口の端を上に上げて、楽しそうに手塚に近寄る。 「…知らないな」 怪しげな態度に眉をひそめてしまう。 「なら、教えてしんぜよう〜」 ウキウキとした顔付きがとても嫌だったが、気になったので仕方なく耳を貸す。 菊丸は手塚が部室内で1人きりになるのを見計らって入って来たのだ。 そして先程聞いたばかりのリョーマの噂話を、話したくてうずうずしていた。 この人物は、手塚がリョーマに特別な想いを抱いている事を知っているのに。 「…で、その事があってから、男専門なんだってさ〜。ま、こんなの噂だけどね〜」 その時、扉の向こうでガタンと音がした。 まさかと思い、手塚は慌てて扉を開ける。 そこには、誰も居なかったが、誰かが居た証拠がそこに残っていた。 「…これは…」 扉の側には見覚えのある帽子が落ちていた。 ここで帽子を被っているのは、唯一人だ。 「…越前」 一度だけ、ギロリと菊丸を睨むと、走り去ってしまったリョーマの後を慌てて追いかけた。 「うにゃ〜、マズッたかにゃ〜」 唯の噂話。 菊丸はそんなモノだろうとしか思っていなかった事を失念した。 手塚国光という人物は、普通では無いほどに真面目な男だったのだ。 「…こんな所にいたのか」 手塚はとりあえず、リョーマの行きそうな場所を探した。 僅かだが、最近では彼の取る行動パターンが読めて来たのだ。 リョーマはその中の一つである、屋上にいた。 「…聞いちゃったんだよね…」 手塚の姿を確認したリョーマは哀しげな声を上げる。 リョーマは、屋上の入口部分の上に座っていた。 ここに上るには、かなりの運動神経が必要。 何故なら、そこに上がる階段や梯子は一切無い。 リョーマはそこで膝を抱え込んで、小さくなっている。 その姿はあまりにも痛々しい。 手塚も軽い身のこなしで上り、リョーマの横に座った。 「…ただの噂だ」 手塚は菊丸から聞いた話を全く気にしていない。 人の噂なんてそんなものだ。 手塚もその性格から影ではいろいろと言われて来た。 その一つ一つ全てに反応していたら、いつか自分が壊れてしまう。 だから噂話なんて気にする事自体がくだらない。 「…気にするな」 躊躇いがちにその肩に手をまわし、自分に引き寄せる。 「…ぶちょ」 この行動には驚きを隠せない。 まさかこの人が、こんな事をするなんて思っていなかった。 暑いくせに、身体に触れる体温がとても心地良い。 「…ねぇ?」 「…何だ」 「昔話…しても…いい?」 全く目線を合わせないようにしながら、リョーマは手塚に話し掛けた。 「…あぁ」 リョーマは心の奥底に沈めていた思い出を、ゆっくりと手塚に話し始めた。 もっと子供の頃は、これでも可愛い部類の子供だった。 アメリカでは、周りにとても可愛がられていて、楽しい日々だった。 しかし、数年後。 リョーマの身に、恐ろしい出来事が起こってしまった。 『…や…だ…放し…て…』 薄暗い部屋の中で、リョーマは誰かの身体の下にいた。 その誰かとは、自宅の直ぐ傍の住人だった事は後で知った。 その人物の性別は紛れも無く『男』だった。 リョーマの小さな身体と比べると、何倍もある大人だ。 『…やっぱり、子供はいいな〜』 ニヤニヤと薄気味悪い笑いを浮かべ、片手でリョーマの細い両腕を掴んでいた。 もう片方の手で、着衣を慣れた手つきで脱がしていく。いや、破いている。 何が何だかわからないが、ただ『怖い』という感情だけが、リョーマを占めていた 結局は、リョーマの不在に気付いた家族の手で助け出された。 幸いな事にリョーマの身体には、何もされていなかった。 その男は、幼児の身体にしか興味を持てない事を知らされた。 過去にも数度、警察沙汰になっていたという。 暫くは反省していたが、リョーマの姿を見る度にその欲求が膨らみ、襲ってしまったのだ。 その男は、この件で刑務所に入れられ、裁判を待つ身になった。 ただ、リョーマの心に深い傷として、その事件はいつまでも残ってしまった。 時が経つに連れその記憶は薄れ、心の奥底に沈めていたが、あの日を切っ掛けに浮上してしまったのだ。 「…これだけは、知られたくなかったのに…」 噂は自分が知らない間に、真実とは違う事まで付いていた。 噂話は、人の心に疑う気持ちを植え付ける。 たとえ嘘であっても、誰かは信じ込んでしまうのだ。 いつしかそれが真実であるかのように話は広がり、やがて鋭い刃となり噂の人物を切りつける。 それまでは頑張って耐えていたが、ついに耐え切れなくなり、リョーマの大きな瞳からポロリと涙が零れる。 「…関係ない」 引き寄せていた手の力を少しだけ強くして、もっと自分に寄り添うようにする。 「…手塚部長?」 顔を上げてその表情を窺ってみると、なんだか哀しそうで苦しそうに見える。 「そんなのは過去の話だ。今のお前には関係ない」 リョーマとは違う男らしい手を、涙の零れる目に近付けてそっと拭う。 不器用な男にしては、今日はかなり頑張っていた。 傷ついたリョーマを癒そうと、必死になっているのがわかる。 「…うん、そうだね…昔のコトだよね」 その優しさに触れたリョーマは、心の傷が癒されていくのを感じていた。 ひび割れてしまった心は、パラパラと欠片になって落ちていくが、その奥には柔らかで温かい壁が出来上がっていた。 この壁は、手塚の優しさで作られた、とても頑丈なモノだ。 「ありがと…部長」 「礼なんていらない…」 ふわりと笑い、リョーマは手塚の腕に自分の腕をまわし、ぎゅっとしがみ付いた。 リョーマの身に起きた事は、過去の事。 それも、“被害者”なのだ。 しかし、噂の中では何時の間にか、リョーマから誘っていた事になっていた。 人の噂はいつしか脚色され、嘘や想像が追加させる。 今回の件は、まさにその通りだった。 手塚はリョーマを信じていた。 菊丸から聞いた時は、少しは驚愕したが、それは直ぐに『嘘』だと気付いた。 一緒に帰る時の、嬉しそうな笑顔。 手を繋いだ時に見せる、幸せそうな表情。 離れる時に見せる、少し寂しそうな表情。 この笑顔や表情は、校内にいる時には見ることは無い。 自分といる時にだけ見せる『顔』なのだ。 もし、リョーマが噂通りの人物であったならば、常に男を誘うような顔付きをするはずだ。 しかし、媚びる仕種や誘う仕種を見た事は一度も無い。 反対の態度なら良く見かけていた。 自分と似たようなところがあったので、まるで己を見ているようだった。 苦笑いでその光景を見ていた時もあった。 リョーマには言えないが、今回の噂話はとても有難かった。 少しではあるが、リョーマの過去を知る事が出来た。 しかもこの件のおかげで、2人を繋ぐ糸が太くしっかりした物になったと思う。 ついでに、リョーマの弱弱しい態度を見られた。 満足感のような感情が沸き起こった。 こんな思いは滅多に無い、貴重な経験だ。 試合で勝っても、その内容によっては悔しい気持ちになる。 それなのに、この感情は何なんだろう? 温かくて、満ちてくる、この感情。 「…好きという事か…」 「何が?」 ポツリと呟いた言葉は、しっかりとリョーマに聞こえていた。 「…俺がお前を好きだという事だ」 「そうなんだ。…うれしいね」 手塚がリョーマに対して、心の中にある気持ちを伝える事はあまりない。 普段から言葉が少ないので、リョーマがその態度で気持ちを汲み取っていた。 反対にリョーマは、言葉で伝える。 「…そろそろ行くか」 「うん」 部活の時間は既に始まっている。 遅れて来た2人は自主的にグラウンドを走る。 2人で走るのならば全く苦にならない。 むしろ、百周でも走っていたい気分になる。 走り終えた2人の傍に、発端となった手塚が走って来た。 「…悪かったにゃ〜」 申し訳無さそうに、2人に謝罪する。 「もう、イイっスよ」 誤解は解けたし、もう気にしないと決めたんだから。 手塚にしては、全く気にはしていなかった。 「あんな、噂がホントだったら、不二とかが黙って無さそうだにゃ〜」 「僕が何だって、英二?」 「え、あ…」 ギクリと身体を強張せた菊丸は、恐る恐る後ろに立っていた不二を見る。 テニス部内では、リョーマの事を気に入っている人物が多い。 その筆頭が不二であり、不二はリョーマの噂話を知らないようだ。 もしも、耳に入っていたら、そんな噂を流した人物を必ず探し出して報復するだろう。 まずは菊丸がその犠牲になるのは目に見えていた。 その後の事は、全て菊丸に任せるとして、手塚とリョーマはさっさと練習に入った。 「俺が好きなのは、部長だけだから」 帰り道でリョーマは、突然言い出した。 誰もいない通りだったので、手を繋ぎながら歩く2人。 「いきなり、何だ?」 「…手塚部長だけだよ?」 立ち止まり、真剣な眼差しで訴える。 噂話の事は気にしないと決めたが、やはり気になっていたようだ。 「…知っている……な…何するんだ」 リョーマは自らの手で手塚の頭をぐいっと自分に引き寄せてると、その頬に軽くキスをした。 手塚の言葉に、リョーマは態度で答えたのだ。 「ありがとう、の気持ちをだよ」 照れたように笑いながら、リョーマは一歩先を歩き出した。 その後の手塚は、頬に触れたリョーマの唇の感触を忘れられず、悶々としていた。 2人の関係がもう少し進むのは、まだ先の事らしい。
ココロのコエの続きっぽい話ですね。 少しココロだけでなく身体も近付いた2人。