今は9月の下旬。
暦の上では既に秋を迎えている。
いまだ気温が高い日はあるが、真夏の茹だるような暑さは薄れ、夜ともなれば涼しい風が吹き、心を和ませる虫の音が耳に届くようになった。
スポーツに打ち込むのも良し。
勉学に勤しむのも良し。
雄大な自然を味わうのも良し。
のんびりと家で過ごすのも良い。
とにかく秋は何をするのにも適した季節である。
そしてこの季節には、とても大切なビッグイベントが待っているのだった。
「これが最後の問題だ」
「ういっス」
開けられた窓から爽やかな風が通り向ける室内では、難しい顔をしている2人の少年がいた。
床には組み立て式の簡易机。
その机を挟んで向かい合わせに座っている2人は、全くお互いを見ておらず、目の前に置いてあるノートや問題集に集中している。
「…よし、出来た。後は答えを書いて…」
ノートにカリカリとシャーペンを走らせている少年は、この部屋の持ち主である越前リョーマ。
「終わったよ」
シャーペンを机に置いて、目の前で問題集の中身を確認しているもう1人の少年に話し掛けた。
「全て終わったのか?」
「うん、完璧だよ。採点して」
満足気にノートの向きを変える。
「……全問正解だ。これならテストも大丈夫だな」
口の端を少し上げてリョーマにノートを返すこの少年は、手塚国光だった。
今日は土曜日。
部活の練習は午前中だけで終り、テストも近いとあって、リョーマは手塚から勉強を教わっていた。
理数系は得意だが、文科系は少し苦手。
帰国子女という点を踏まえれば、他の生徒とは比べように無いほどの成績を修めている。
しかし青学中等部男子テニス部は、文武両道をモットーにしている学校の標榜に沿い、学業の成績も重視している。
特にレギュラーともなればかなり重要になる。
授業中は全くヤル気の無いリョーマだが、手塚が家庭教師をしてくれるとあって、試合をしている時くらいに集中して勉強をしている。
手塚も教えがいのある生徒に至極満足していた。
この2人は二ヶ月前から『お付き合い』を始めた。
無論、友人や先輩後輩としてのお付き合いでは無く、恋愛感情を含めたお付き合いだ。
恋愛対象としてお互いを見るようになったのは、かなり前からだったが、胸の内を明かし、実際に行動に移すようになったのは、今から二ヶ月前なのだ。
大切な試合の最中でも、気合を入れて行う部活中でも、お互いを意識し合っていた。
交わる視線を外せなくなったのは一体どちらからだったのか、それすらも思い出せないほど見つめ合っていた。
そのうち、見つめ合うだけでは物足りなくなった。
手塚は見た目だけなら高校生でも大学生でも通じるが、言葉に出来ない想いを胸の中だけで抑えていられるほど大人では無い。
対してリョーマは、自分の思った事をズバズバ言うタイプなので、一度生まれた感情を黙ったままに出来ない。
そうこうしているうちに先に動いたのは手塚だった。
手塚は部長と言う立場をふんだんに利用してリョーマを呼び出した。
誰もいない部室の中で、その小さな身体を抱き締めて、自分の想いを伝えると、リョーマも大きな背中に腕をまわして、自分の想いを打ち明けた。
2人が同じ想いであった事が判明してしまえば、何も悩む必要は無い。
この日から手塚とリョーマは世間で言うところの恋人同士となったのだ。
真面目で優秀な手塚と、不真面目だけど出来るリョーマが二ヶ月過ぎた今でもこうして一緒にいるのを見ると、2人の相性は悪くない。
それどころがかなり良い方だと本人達は確信している。
「…今日のノルマはこれで終り?」
返してもらったノートには、手塚から与えられた課題の問題と解答がビッシリと書かれてあった。
まずは問題を理解する事が大切であると、手塚は問題も全て書かせている。
リョーマには教師よりも手塚の教え方の方が合っているのか、少し前に行われた小テストの結果は、これまで見た事がないくらい良い点数だった。
「平気ならもう少し進めるが?」
沢山の事を短時間の間で脳みそに詰め込むのは、有効な方法では無い。
リョーマがその時間内で覚えられる範囲だけをしっかりと教え込むのが手塚のやり方だった。
「…うーん。じゃ、もう少しだけやる」
「そうか、ではこの問いをやってみろ」
手塚は1年の時のテストから抜粋した問題をリョーマに渡した。
「っス」
リョーマはノートの新しいページを開き、新しく出された問題を書き始めた。
長文の問題を解いている間、手塚はリョーマの表情を盗み見ていた。
「……えっと…ここの意味はさっきと同じだし…」
自分が教えた事を思い出しながら問題に向かっているリョーマの姿に、手塚はささやかな幸せを感じていた。
「よし、これも正解だ」
「今日は一問も間違えなかったよ」
最後の問題も無事に終わらせると、リョーマは立ち上がりノートや問題集を勉強机の上に乗せた。
「お前は元々頭が良いからな」
どんなに難しい問題でも、ヒントを与えればリョーマはスラスラと解いてしまう。
一つ教えておけば応用力を駆使し、似通った問題は全て解けてしまう。
授業のように多人数の生徒に1人の教師では、理解できないままで時間が過ぎてしまうが、マンツーマンならばそんな事態にはならない。
「へへ、ありがと。俺、なんか飲み物持ってくるね」
手塚から褒められたリョーマは、照れ笑いを浮かべて部屋から出て行った。
「…折り入ってリョーマに話があるのだが」
「改まっちゃって、何?」
リョーマが持って来たのは、従姉妹の菜々子が用意しておいた紅茶とチーズケーキ。
チーズケーキは菜々子の手作りで、紅茶はティーパックではなく専門店から購入した茶葉から淹れた。
数日前に菜々子から美味しい紅茶の淹れ方を丁寧に教えてもらい、色も香りも味も充分な紅茶を淹れられるようになった。
どちらも本格的な味で、手塚は最後の一口まで美味しく頂いていた。
手塚は空になってしまった自分のカップにお代わりを注いでいたリョーマに話し掛けた。
「来月の6日と7日は空いているか?」
「…来月?7日って国光のバースデーでしょ」
ついでに手塚のカップにも温かい紅茶を注ぐ。
「あぁ、今年は6日が金曜だからな。出来れば泊まりで来られないか?」
来月の7日が手塚の誕生日である事は、付き合い始めた頃に手塚の母から教えてもらった。
自分の事をあまり話さない手塚に代わり、母の彩菜は色々な話をリョーマに聞かせてくれた。
誕生日もその一つだった。
「泊まりって、だってテスト終わったら部活が…」
男子テニス部は練習に手を抜かない事でも有名だ。
だからテスト週間が終わったその日から練習を始めるなんて極めて通常なのだ。
「テストの最終日は金曜日だ。土曜日と日曜日はどうにか休みにしてもらうさ」
「いいの?『元』部長がそんな事言って」
誰よりも厳しい手塚の口からそんな台詞が出てくるなんて思いもしなかった。
「…たまにはいいだろう」
元部長という立場を最大に利用して、部活を休みにするのなんて手塚には容易な事だ。
顧問である竜崎スミレも手塚の言う事なら、簡単に了承するに違いない。
それに今の時期は大事な公式戦も無いし、土曜日と日曜日の2日間を休みにしても平日で充分に時間は取れる。
「おばさんは…俺が行っても良いって?」
2人の関係を隠してお互いの家に行き来するのは、どこか罪悪感があり、暫くしてから母親にだけは真相を話した。
お互いに大切な一人息子なだけに、どちらも反対されると覚悟をしていたが、母親はその関係に驚きはしたものの反対はしなかった。
『あなた達が本気なら私は反対しません』
無論、2人は遊びのつもりはない。
本気で真剣な恋愛をしている。
母親はどうせ長続きはしないと考えているのか、それとも付き合った事から無愛想な2人に言葉数が増えて、表情も豊かになった事実が反対意見を喉の奥に飲み込ませたのか、それは本人にしかわからない。
今のところは理解してくれているのだと、勝手に思い込んでいる。
「この件については、母の方からお前を招待するようにと、頼まれたんだ」
「え、それって…もしかして、バースデーパーティーの招待って事?」
「まぁ、簡単なホームパーティーのようなものだがな。俺の誕生日にお前がいてくれたら嬉しいのだが…」
どうだろう?と言われたリョーマは返答に困っていた。
「…何で7日にやらないんスか?」
とりあえずちょっとした疑問になっていた、日付の事を訊ねてみる。
誕生日は7日で、都合良く土曜日なのだから、この日に行えばいいだけではないのか。
「ああ、それが父の勤め先の慰安旅行がその日に入っているんだ」
「おじさんだけ?」
「それが今年はどうやら夫婦同伴でも構わないらしく、両親は金曜日の夜から出て行き、祖父はこの土日に開催される柔道の試合で審判を行うので、土曜日の早朝から出掛けてしまうんだ」
それぞれに用事が入り、当日は本人のみしかいない。
誕生日だからと、必ずしも祝う必要は無いが、普段から自分に厳しくしている分、1年に一度くらいは甘やかしてやろうという親心から、誕生日は必ず家族で祝っている。
「予定が無いのは国光だけなんだ…」
「だから泊まりで来られないか?」
「…えーと」
再度リョーマに訊ねるが、なかなか返事を出せない。
これまでに誰かの誕生日を祝った事など一度も無い。
リョーマの誕生日は日付が日付なだけに、いつも合同でパーティーをしていた。
メインはどちらなのかがわからない。
もちろん貰えるプレゼントも同じで、子供ながらに損をしていると感じていた。
「何か都合が悪いのか?」
珍しく黙り込んでしまったリョーマに、内心焦りつつも冷静を装う。
手塚としては心地良いほどの一つ返事を期待していただけに、思わず顔を覗き込んでしまった。
「…あのさ、本当に俺が行ってもいいの?せっかくのバースデーなのに」
黙り込んだ後でぽつりと呟く。
リョーマの誕生日、即ち『クリスマス・イヴ』の夜は、盛大なパーティーを開く。
家族だけや親類を招いた大規模なものから、友人同士の和気藹々としたものや、恋人と2人きりのムーディーなディナー、それぞれにこの日を楽しむ。
キリストの聖誕祭の前夜は、街中が煌びやかな電飾に包まれて、誰もが眠りを忘れて盛り上がる。
リョーマもアメリカに住んでいた時は、家族3人だけでイヴと誕生日のパーティーを開くのが恒例だった。
誕生日という1年に一度のイベントは、家族と共に過ごすものだとリョーマは脳にインプットしていた。
「それなら問題は無いぞ。母は…いや、父も祖父のお前が来るのを待ち望んでいるのだからな」
「…国光のバースデーに一緒にいられるのなら、俺も嬉しいから…行く」
やんわりと笑顔を作ったリョーマに、手塚もつられて笑みを浮かべていた。
泊まりとなれば付属がある。
それが何を意味しているのかは、恋人となった2人に考慮する時間は不要だ。
考えたとしても、答えは『一つ』だけ。
その答えを2人は思いっきり意識していた。
「それでは予定を入れておいてくれ」
「うん、ねぇ…」
「やはり何か不都合でもあるのか?」
「違うよ。今日は…その、しないの?」
顔を赤く染め、もじもじと身体を捩りながら、リョーマは手塚を見上げる。
「…そうだな、今日は良く頑張ったしな」
リョーマの顔が赤くなった理由がわかると、手塚は立ち上がりベッドに腰掛けた。
「リョーマ」
両手を差し出した手塚に、リョーマは満面の笑顔を浮かべて抱きついた。
「国光…」
鼻先を擦り合わせながらお互いを見つめ合い、手塚の唇はリョーマの薄く開いている唇に優しく触れる。
啄ばむように何度も触れてから深く口付けた。
こんな真っ昼間に出来る唯一の触れ合いを、2人は充分に楽しんでいた。
「……ん…国光…」
「…良く頑張ったな」
艶のある黒髪をゆったりと撫でる。
これは自分が出した問題を、一つも間違えずに答えを出したリョーマへの手塚なりのご褒美だった。
「うわっ、もう真っ暗だね」
「そうだな」
真っ赤な太陽と白い雲が出ていた真っ青な空は、月と星の出ている漆黒の空に変わっている。
太陽の出ている時間が日に日に短くなってきた。
「それじゃ、また明日」
明日も2人で勉強とテニスをする約束をしていた。
部活の時間は午前中だけなので、久しぶりに手塚も顔を出す事にした。
それからでも2人きりで過ごす時間はたっぷりとある。
「ああ…」
「ん、何?」
「明日、迎えの時間に起きていなかったら、部屋に入らせてもらうからな」
「…うっ、が、頑張るよ」
リョーマの顔の高さに合わせるように屈んだ手塚から発せられた台詞に、リョーマは思わず言葉を詰らせた。
以前、約束をしていたのに寝坊してしまった時は、口では言えない方法で起こされた。
あんな起こされ方をされるくらいなら、寝ないで朝まで起きていた方がマシだった。
「では、明日の9時にな。お休み…」
ちゅ、と頬にお休みのキス。
「お休み」
リョーマもお返しに手塚の頬にキスをした。
「…バースデーか」
見えなくなるまで手塚を見送った後、特に何もする事もないリョーマは先に風呂に入っていた。
その風呂の中でぼんやりとその日を考えていた。
たっぷりと湯が張っているバスタブの中に浸かりながら、天井を見上げる。
バースデーとなると、プレゼントが必要になる。
何をあげてもいいのだが、出来る事なら欲しい物を渡すのが一番良いに決まっている。
しかし、プレゼントの中身を本人に訊ねるのはいかがなものだろう。
時と場合によっては得策となるが、出来るのなら本人には内緒にしたい。
「何が欲しいのかな…」
湯の中で色々と考えてみる。
カップルの定番であり、限定なら『プレゼントは私よ』なんて、さほどお金の掛からない方法もあるが、出来る事なら自分が選んだ物を持っていて欲しい。
身に付ける物なら、もっと良い。
「…うーん、釣竿とかの方がいいのかな。でも国光の好みもあるし…」
次から次へと頭に浮かぶが、どれもこれも納得できない。
アメリカにいた時に参加していた試合の賞金があるので、お金には困っていない。
どれだけ高価な物でもリョーマは手塚の為ならどんな事をしても購入するつもりでいる。
高かろうが、安かろうが、渡す物の価値でリョーマの手塚への愛は計れない。
それは手塚もわかっているだろうが、1年に一度しかない大切な日なので、その日に見合う物が良い。
それなら…。
「…ちょっとリサーチしてみるか。と、それには何か必要だよな…」
一応の当ては有るが、タダで教えてくれるほどその人物は一筋縄ではいかないに違いない。
きっと何かを求めてくるに違いない。
在り来りの菓子折りなんかじゃ絶対に無理。
その中に何か気に入りそうな物を仕込んでおけば、上手く行くかもしれないが、そんな面倒な手は使いたくない。
「…やっぱ、アレしか方法が無いか…」
溜息に近い息を吐いた。
「よし、えーと『案ずるより産むが易い』だっけ?ま、悩むよりも行動に移せってね」
リョーマはバスタブから上がると、その為だけに父親に勝負を挑んでいた。
月曜日、3時限目の休み時間にリョーマは父親から奪い取った物を持ち、理科室へと足を運んだ。
ガラリと扉を開ければ、窓際で何やら実験中の1人の男がいた。
リョーマはその人物を知っているのか、真っ直ぐに歩く。
「…乾先輩」
「…ん?やぁ、越前」
リョーマが探していたのは乾だった。
乾は理科の教師に頼み、理科室の休み時間の使用を認めてもらっている。
それを知ったのは、乾が自分特製の野菜汁をどこで作っているのかと、誰かが直接本人に訊いていたのを偶然にも耳に入れていたからだ。
だから迷わずにここに来ていた。
「…やっぱ、それって野菜汁っスか?」
ここで乾が何をしているのかは、実験器具とその周りに置いてある野菜や、その他諸々で嫌でもわかってしまった。
「あぁ、これ?そうだよ。蜂蜜と林檎を加えてあるから飲みやすいはずだから…飲んでみる?」
三角フラスコの中でボコボコと沸騰している物体は見た目からして怪しい。
そんな物を「いただきます」なんてセリフ、どんな事があろうとも口に出せない。
それは自分だけでは無いはずだ。
「遠慮させてもらいます」
フラスコ内は自然な色に見えない鮮やかな黄色。
今までに飲んだ乾特製の野菜汁の不味さは、飲んだ者にしかわからない拷問だった。
「…それで俺に何の用?」
新しいフラスコを手に持った乾は、ここでやっとリョーマが自分に用がある事に気が付いた。
「へぇ、これは珍しいね」
「でしょ」
リョーマが父親に勝負を挑んで手に入れたものは、乾にとってはレア物の雑誌だった。
「越前が何も見返り無しで俺にくれる確率は、どう計算してもゼロなんだけど…」
「その通りっスよ。俺と取引をしませんか」
「それじゃあ…これの代わりに何を望む?」
リョーマの予想通り、乾は持って来た雑誌に興味を抱いている。
「手塚先輩の情報を下さい」
「手塚の?」
差し込む光が乾の眼鏡に反射する。
その光が目に入り、眩しそうに目を細めたリョーマは、乾の言葉に小さく頷いた。
「…もしかして、上手くいってないのかい?」
思わず下がってしまった眼鏡の縁を指で軽く上げた。
目の前のアルコールランプの炎を消して、乾は椅子から立ち上がり、リョーマと向かい合わせになる。
「まさか。それとも乾先輩の目には俺達がそんな風に見えるんスか?」
「それこそ、まさか、だな」
乾はリョーマと手塚が付き合っている事を知っている数少ない人物の1人。
乾は自分の情報収集力と分析力から、2人が変わり始めていた事に気が付いていた。
どこまでの関係になっているのかまでは、2人のプライバシーなのであえて追及しないが、想像通りまでの関係になっている確率は高い。
「それで?」
「…手塚先輩の誕生日が近いんで」
隠しても仕方が無いので、リョーマは乾の元へわざわざやって来た理由をはっきり答えた。
「手塚の誕生日?あぁ、プレゼントをどうしようか悩んでいる訳かな?」
「悩むって言うより、あげたい物が色々あり過ぎて収集が付かない状態っスよ」
思い付く限りを挙げたらキリが無い。
趣味の釣りやキャンプや登山で使用する物から、アクセサリーの類。
読書も好きで特に洋書が好きだ、とも聞いた。
プレゼントとしてはどれも選択肢に入れられるが、どうにも納得が出来ない。
「それで俺のところに情報を仕入れに来たのか。しかもこんな物までちらつかせるなんて、思っていたよりも用意周到だね」
「乾先輩の性格を考えたら、こんなの当たり前でしょ」
持って来た雑誌を乾の手から奪い、ペラペラと捲る。
古い雑誌に載っているのは、リョーマの父親であり、世界を震撼させた日本の若きプロテニスプレイヤーのサムライ南次郎こと、越前南次郎の記事。
当時の世界ランキングは一ケタ台。
頂点を手に入れる寸前で、引退した伝説のプレイヤー。
雑誌やテレビなどのメディアには、積極的に出ていなかったその人物の記事ならば、喉から手が出るほどに手に入れたいほどだ。
「…こんな物まで用意しなくても、手塚の情報くらいタダで教えてあげるけどね」
「そんなの後が怖いっス。えーと『タダより高価な物などこの世に無い』ってコトっスよ」
手塚から習った言葉を思い出し使ってみる。
「ははは、信用が無いな」
乾いた笑いの真相を確かめるのが怖くて、リョーマはそれ以上の追求はしなかった。
「手塚の趣味は?」
「え…あ、釣りと登山とキャンプだけど」
「当たり」
付き合う前は休みの度に行っていたらしいが、休日ともなればリョーマと会っているので、今はどうなのか不明。
「好物は知ってる?」
「…確か、うな茶」
「ご名答」
実際に食べた事は無いが、聞いたところによれば、うなぎの蒲焼きを具にダシをかけた食べ物。
甘い物は全般的に得意では無いが、お汁粉は他の物と比べたら好きの部類に入るらしい。
「好きな色は?」
「青か緑…」
「普通なら1色を答えるのに、この答えは手塚らしいよ」
空や海の青に、木々を飾る葉の緑。
アウトドアが趣味の手塚だからこそ、この2色が好きなのだろう。
「血液型は?」
「…O型」
「大正解」
次々と乾が出してくる手塚についての質問に答える。
この辺りなら問題無く答えられる。
「血液型は越前と同じなんだよね。俺としては手塚のO型はにわかに信じられないけど」
「俺なら納得ってワケっスか」
血液型によってそれぞれの性格があるのは、何かの番組でやっていたが、そんなものは信じていない。
「一応はね。あとは大石と桃城もO型だよ。不二と海堂はB型なんだけどね。タカさんと菊丸はA型。ちなみに俺はO型でもB型でもA型でもないよ」
「へぇ…じゃ、残った血液型ってコトっスね」
その前にどうして他人の血液型まで知っているのかが気になる。
常に持っているノートの中に書き込まれているデータは、どこまでのものなのだろうか?
自分の身体で実際に体感した情報と、パソコンなどによる機器によって計算されたデータ。
本人すら気が付いていない癖はもちろんだが「何でそこまで知っているの?」みたいな内容も多い。
それにそのノートには、恐怖の乾特製野菜汁のレシピがぎっしりと書いてあるはずだ。
出来る事ならそのページだけは、どんな事をしても切り取って、破いて、燃やして、その灰すらもどこか遠くにばら撒いてしまいたいくらいだ。
「ふむ、やはり差し障りの無い面は全部知っているな」
ペラペラと手塚のデータを書いたページを捲っても、これと言ってリョーマが喜ぶようなデータは無い。
「…差し障りの有る面は何スか?」
犯罪スレスレのラインで手中に収めた情報の中に、もしかしたら何かあるかもしれない。
リョーマはひょいとそのノートを覗き込んだ。
「その辺はノーコメントって事で」
乾は慌てる様子など全く見せずにノートを閉じた。
マル秘ノートとなっているので、他人に見せるつもりはこれっぽっちも無い。
「ちぇ、ケチ。でも乾先輩のデータは俺が知っている内容ばかりなんで、諦めるっス」
乾のデータの中に自分が知らないようなデータがあると思い、ちょっとした手土産と言うのか、情報を提供してもらう為の賄賂を準備したが、どうやら無駄に終わってしまったようだ。
リョーマは持って来た雑誌を手の中で軽く丸めると、理科室を後にしようとした。
「あ、ちょっと待って」
「何スか?」
出入口の扉に手を掛けていたリョーマは、呼び掛けられて顔だけを乾に向ける。
「これは知ってる?手塚は意外と家族思いだよ」
「…ふーん。もちろん、それも知ってるっスよ。手塚先輩はとっても家族を大切にしてるっス」
これならどうだ、と誇らしげな表情をしている乾に、生意気で勝気な笑みを見せたリョーマは、「まだまだだね」とお得意のセリフで締めてから、理科室を出て行った。
「家族思いね…」
同じ1人息子だから、手塚が家族を大切にしているのは改めて言われなくても良くわかる。
リョーマの場合、父親はどうでもいいが、母親とペットの愛猫は大切にしているつもりだ。
「…そっか、家族ね。そうだよな…」
どうやらリョーマの中で一つの案が生まれたようで、自分の案を膨らませながら廊下を歩く。
「おいおい、何か調子いいじゃねぇか」
いつもよりも力強い打球を返してくるリョーマに、桃城はラケットを握り直して打ち返す。
「テスト前の練習も残り少ないから」
リョーマは桃城の重い打球を軽い動きで打ち返すので、ラリーはいつまでも続く。
もうすぐテスト週間に入るので、部活の活動も残り数日。
運動系の部活に入部している者達は、そろそろ本格的に部活から勉強に力を入れ替えないとならない。
「テストかぁ、赤点は取るなよ。ばぁさん、点数悪いと怖いから、な」
「その台詞、そっくり桃先輩に返しますよ」
台詞と共に飛んで来たボールを桃城の足元へ落とした。
「かー、越前に言われるとは思わなかったぜ」
リョーマの中で、テストで悪い点を取る事は、手塚の教え方が悪いと同じと考えてい
る。
だから絶対に良い点を取らないとならない。
元々頭は良いのだから、リョーマが不安なのは古典のみ。
それも手塚に教えてもらっているから、不安はかなり少ない。
「ほら、全員集合だよ」
顧問の竜崎スミレからの掛け声が掛かると、リョーマと桃城はラリーを止めてスミレの元へと歩き出した。
「テスト週間が近いが、部活はギリギリまでやるよ」
腰に手を当てて大きな声を出す。
どうやらこのスタイルは、南次郎の時代から少しも変わっていないらしい。
「…マジかよ、ばあさん」
「あぁ、あたしは本気だよ。だからってテストで悪い点を取るような無様な真似だけはしないでおくれ。テニス部には成績の悪い部員はいらないからね」
「だったら、練習をやめてくれよ…」
しょぼん、と項垂れる桃城と同様の意見を持つ部員は多いが、リョーマは真っ直ぐ前を向いた状態で、スミレを見ていた。
苦手な教科の勉強は手塚が見てくれる。
それだけでも他の部員と既に距離を持っていた。
リョーマにとってテストなんて全く問題が無かった。
テスト週間までの短い間、リョーマは手塚の誕生日に向けて自分なりに考えたプレゼントを、母親と従姉妹の意見を取り入れて着々と準備していた。
絶対に手塚には知られないように、あれやこれやと工面もしていた。
バレても問題は無いのだが、プレゼントは当日まで秘密にしておきたい。
「…よし、後は…」
早く当日にならないかと念じてしまうくらいに、リョーマは楽しみにしていた。
テストは明日から始まる。
「越前」
今日は月曜から始まったテスト週間の最終日。
5日間に亘ったテストも今日で終りとなれば、結果がどうであれ生徒達の顔色は明るくなる。
手塚はテストが終わり、担任と休日明けの授業の方針についての話をしてからリョーマのクラスへ足を延ばした。
「…あ、手塚先輩」
名前を呼ばれたリョーマがおもむろに顔を上げる。
「うわっ、手塚先輩だ」
「おい、帰ろうぜ」
人も疎らになった教室内には、リョーマ以外に数人の生徒がいたが、手塚の姿を見て『いつまでも教室に残っていると叱られる』と思ったのか、まるで逃げるように即行で出て行ってしまった。
生徒会の会長でもテニス部の部長でもなくなった手塚を恐れるのは、元々手塚に備わっている威厳によるもの。
だからと言って、いつまでもそんな態度を取られるのは気に入らないが、自分ではどうしようもない。
卒業するまで諦めるしかない。
「…今日は大丈夫か?」
廊下を急ぎ足で去っていくリョーマのクラスメイトが、階段に消えたところで教室に入る。
「母さんには了解もらったんで大丈夫っス。俺、一回家に戻って着替えを取って来るから」
「それなら俺も着いて行こう」
手塚から話があったその日にリョーマは母親に伝えておいた。
特に何も注意は受けないが、行く度に「迷惑だけは掛けないように」と言われる。
手塚の家族はリョーマを自分達の息子や孫同然に可愛がってくれるので、客人以上のもてなしをする。
全く心配事は無いが、最低限のマナーだけは守って欲しいと願うので、常にこれだけは言っている。
「では、帰るか」
「ういっス」
バッグを持って立ち上がったリョーマを、手塚は優しい眼差しで見つめていた。
リョーマが荷物を持ってくる間、手塚は玄関先で待っていた。
その間、菜々子からは何度も「上がってください」とにこやかに言われたが、どうせすぐにお暇しないとならないので丁寧に断っていた。
「お待たせ」
トントン、と軽快なリズムで階段を降りてきたリョーマの姿は、薄地のパーカーとハーフパンツというラフなもの。
着替えなどが入っているリュックとは別に、学校指定とは異なるスポーツバッグを持っていた。
「今日は荷物が多いな」
リョーマが手塚の家に宿泊するのはこれが初めてでは無い。
いつも着替えの入っているリュックだけを持って来る。
「だって今からは暇でしょ?ちょっと打ちに行こうよ」
「…それもそうだな」
にっこり微笑むリョーマに手塚はあっさりと頷いた。
所詮は盲目的な恋をしているので、リョーマと一緒にいられるのなら何をしても構わない。
それにテスト期間中はテニスのラケットを封印していたので、ラケットを握るのは約2週間ぶりになる。
悩む必要性はこれっぽっちも無かった。
「荷物を持とう」
「いいよ。重くないし」
当たり前のように差し出される手に、リョーマは小さく笑って断った。
「見ている方が気になるんだ」
尚も手塚はリョーマに手を差し出す。
成長段階の身体にリュックとバッグでは、荷物の方が大きく見える。
「…じゃ、こっちだけ」
リョーマは着替えが入っているリュックを、肩から下ろし手塚に渡す。
「そちらの方が重いだろう?」
「いいよ、そんなに重くないから」
こうしたちょっとした優しさがとても嬉しい。
口には出せないが、心の中だけで言っていた。
「お帰りなさい。国光、リョーマ君。お昼の準備は出来ているわよ」
手塚の自宅へ到着すれば、彩菜が昼食の用意をして待っていた。
「はい、頂きます」
手塚は普段着に着替え、リョーマも荷物を部屋に運び、リュックの中からテニスウェアを取り出して着た。
祖父も父親も外出していたので、昼食は和食ではなくて洋食、それもパスタだった。
魚介類がたっぷり入ったホワイトソースはかなりの絶品だったので、和食好きなリョーマでも喜んでいた。
「あなた達は今からどうするの?」
彩菜にこれからの予定を訊ねられ、手塚はテニスをする為にこれから出掛けると伝えた。
「久しぶりだからってあまり遅くならないで欲しいの。出来れば五時には戻って来てちょうだい。リョーマ君も忘れないでね」
自分の息子は家に中に閉じこもるタイプでは無い。
リョーマもラケットとボールさえあれば、どこでも出掛けてしまう。
今の2人はテニスで繋がっている。
2人がテニスをどれだけ大事にしているのかは、彩菜も充分にわかっていた。
しかし今日は特別な日。
彩菜にとっては1人息子の誕生日。
テニスに夢中になって時間を忘れられたら困る。
「はい」
「はーい」
「絶対によ。お願いね」
「大丈夫です。時間には必ず戻ります」
「そんな時間までやっていたらお腹空いちゃうしね」
念には念を入れた彩菜は、2人の返事に満足そうな笑みを見せた。
「では、行って来ます」
少し胃を休めてから2人は近くのテニスコートに出掛けて行った。
「誰もいないっスね」
「…あぁ、珍しいな」
公営のテニスコートは珍しく誰もおらず、2人は周囲を気にする事無く打ち合っていた。
2人にとっては軽いラリーでも、他人から見れば本気としか思えないほどの打ち合い。
そんな見応えにある打ち合いをすれば、周りは2人がいるコートに集まってしまう。
真剣にボールを追い掛けるので気にならないが、終わった時のギャラリーの多さには嫌気が差す。
「いつもこうだといいのにな」
風を切るようなスイングで、リョーマはボールを打つ。
「そうだな」
ラインぎりぎりに落ちたボールを難なく打ち返す。
常人の目では追い掛けられないほどのスピードボールを、リョーマはいとも簡単にスイートスポットに当てる。
「ちょっと腕が鈍っているんじゃない?」
「まだ準備運動の段階だ」
「ふーん、じゃ早く本気モードにさせないと」
生意気な口を叩く恋人が、自分を追い掛ける為に人並ならぬ努力をしているのを知っている。
手塚はいつまでも追い越されないように、常に自分の腕を磨いている。
これが2人のテニスだった。
「さぁ、そろそろ終わりにしよう」
「…ういーっス」
肩で息をするほど夢中になっていたが、彩菜から言われた通り早めに切り上げた。
このまま続けていれば、時間には間に合わない。
「ほら、これを使え」
「ありがと」
コートの側のベンチに座り、持って来たタオルで流れる汗を拭いた。
「あらあら、2人ともすごい汗。先にシャワーでも浴びて来たら?その後はリビングに来てね」
手塚とリョーマが家に戻れば、リビングに入る前に彩菜からシャワーを浴びるように言われた。
「先輩、時間が勿体無いから一緒に入ろうよ」
「あら?リョーマ君ったら国光の事、まだそんな他人行儀な呼び方をしているの?国光って呼んでもいいのよ」
うふふ、と穏やかな笑みを見せる母親に、息子は痛む頭を抱え、リョーマは困った顔で笑うしかなかった。
「母さん、リョーマが困るので、あまり変な事を言わないで下さい」
「まぁ、私は変な事なんて言っていないけど?」
痛む頭を抑えながら手塚はリョーマと部屋に向かい、2人は着替えを持ち、一緒に浴室に入った。
「…やっぱりおばさん達の前じゃ名前で呼べないよ」
ざっと身体を洗い、シャワーで泡を落とす。
「…いつも通りで構わない。リョーマ…まだ背中に泡が残っているぞ」
リョーマの背中に残っていた泡を洗い流し、手塚も軽く身体を洗った。
触れた身体の熱や首筋に張り付く髪。
これが2人きりの夜ならば官能を揺さぶるが、その気が無ければ裸を見せていても何も感じない。
「今から食事になるが、腹は減っているか?」
「もう、ペコペコだよ」
全く出ていない腹を片手で擦れば、キュルルと小さく腹の虫が鳴いた。
「…思う存分食べてくれ」
「もちろん、だよ」
バスタオルで身体を拭き、ここに来る時に着ていた服を身に付けた。
今から小さなパーティーの始まりだ。
「みんな揃ったからそろそろ始めましょう」
リビングに入れば、ダイニングキッチンのテーブルは白いテーブルクロスで飾られ、彩菜が腕によりを掛けた料理がずらりと並んでいた。
その中央には五人で食べるには丁度良い大きさのデコレーションケーキ。
手塚の歳の数だけロウソクが立てられた。
「あなた、ロウソクに火を点けてちょうだい」
「よし、任せてくれ」
この家では誰もタバコを吸わないので、火を点ける時はどこかの飲食店で貰っておいたマッチを使う。
彩菜が部屋の灯りを消せば、揺らめくロウソクの明かりが幻想的な空間を創り出していた。
「国光、一気に消してね」
「はい」
すう、と息を吸った手塚は、炎に向かって息を吐く。
炎が消えたロウソクからは一筋の煙が天井に向かい昇っていった。
「1日早いけど。誕生日おめでとう、国光」
「ありがとうございます」
拍手の中、手塚は礼の言葉と共に小さく頭を下げる。
「リョーマ君も来てくれて本当にありがとうね。たくさん食べてちょうだい」
「はい、いただきまーす」
目の前に並んだ色とりどりのご馳走はどれもこれも美味しそうで、リョーマは目をキラキラと輝かせていた。
「あ、そうだ」
食事と歓談を繰り広げていた中、リョーマは思い出したように席を立った。
「どうした?」
「…すぐに戻るっス」
そう言うと、急ぎ足でリビングから出て行ってしまった。
「どうしたのかしら?」
「お手洗いかな」
「国光、様子を見て来ないか」
食事と歓談が止まってしまうほど、手塚の家族はリョーマを心配していた。
「…ちょっと見て来ます」
リョーマに対してだけは、家族に言われるまでも無い。
椅子を引き、立ち上がる。
「…あれ?先輩どこかに行くんスか?」
「いや、何でもない…」
しかし、手塚が椅子から立ち上がったと同時に、リョーマは戻って来たので、手塚は再び椅子に座った。
リョーマがリビングから出て行った時と違うのは、手には大きな紙袋を持っていた事のみだった。
「リョーマ君、どうかしたの?」
「…これ、おばさんに」
おもむろに紙袋に手を入れたリョーマは、キレイに包装された小さな箱を取り出した。
「私に?」
「そうっス」
その箱を彩菜の手の上に置く。
「これはおじさんに…」
「僕にもかい?」
続いて細長い箱を父親である国晴に渡す。
「で、これはお爺さんに…」
「わしにもあるのか」
「…ちょっと重いけど」
最後に大きめの箱を祖父の国一に渡した。
「…よし。これでお終い」
渡した側であるリョーマは上機嫌な顔をしているが、渡された側の手塚の家族は、どことなく困惑気味な表情をしていた。
3人ともが自分の手の中にある箱と、リョーマの顔を見比べる。
「リョーマ君、今日は国光の…」
渡された物の状態から、これがプレゼントであるのはすぐにわかった。
リョーマが渡した物がプレゼントであるのならば、これを貰うのは自分達では無く、息子であり孫でもある国光の方なのだ。
「だからっス」
リョーマは晴れ晴れとした表情で彩菜を見つめる。
「どういう事なのかしら?」
「先輩がここにいるのは、おばさんとおじさんがいるからで、おじさんがいるのはお爺さんがいるから。だからこれは俺からの感謝の印っス」
これこそがリョーマの考えた『プレゼント』だった。
大切な恋人がこの世に誕生したのは、父の国晴と母の彩菜がいるからである。
この2人が出会わなければ、リョーマと手塚も出会う事などは無かった。
そういう意味で言えば、祖父の存在も忘れてはいけない。
「まぁ…」
「越前くん」
「リョーマは優しい子じゃのう…」
涙が出そうなほどの感激に包まれるが、たった1人だけは無表情のままで座っている。
「リョーマ君、主役へのプレゼントは?」
それに気が付いた彩菜がフォローを入れる。
「今日は前祝いだから、先輩のプレゼントは本番の明日渡します」
「…だそうよ。良かったわね、国光」
「………」
心の中を見透かされた気がして、思わず視線をずらしてしまう。
「ねぇ、これ開けてもいいかしら?」
「いいっスよ」
リョーマからもらった物の包装をそれぞれ剥がす。
「ま、素敵なブローチ」
「おお、このネクタイならどのスーツにも似合いそうだ」
「…こりゃ限定の吟醸酒じゃないか」
彩菜には花の形をしたブローチを、国晴にはブランド物のネクタイとタイピンのセットを、そして国一には本数限定の酒をプレゼントした。
「でも、これ高価な物でしょ?」
ブランド物には興味が無くても、これが高い物であるのは理解できる。
「それほどでも無かったっス」
自分の席に戻ったリョーマは、自分の選んだ物を気に入ってくれた喜びから、嬉しそうにまだ目の前に残っている料理を食べ始めた。
「それじゃ、後はお願いね」
「ゆっくりしていってくれ、越前くん」
大きめのカバンを持って玄関に立っているのは、手塚の両親だった。
早い時間から始まったバースデーパーティーは無事に終了し、片付けが全て済んでから両親は旅行用の服に着替えていた。
どうやらこの旅行は車中で一泊するようなので、出発時間は夜になっていた。
「はい、父さんも母さんもお気を付けて」
「おじさんもおばさんも楽しんで来て下さい」
祖父は既に就寝しているので見送りには来ていない。
「ありがとうね、リョーマ君。それじゃ行って来ます」
「国光、戸締りはしっかり頼むな」
両親が玄関から出て行くと、手塚は玄関の鍵を締めた。
しん、と静まり返った家の中。
「…風呂に入るか」
「うん…」
祖父は一度寝てしまえば滅多な事では起きて来ない。
手塚とリョーマは一旦部屋に戻り、下着とパジャマを持って脱衣所に入る。
布ズレの音と共に2人の肌が露わになり始める。
「…追い付かないな」
目の前にある背中にリョーマはガクリと肩を下ろす。
均等に筋肉が付いた手塚の身体に比べ、リョーマの身体は貧相なものだ。
「俺と比べても仕方が無いだろう」
「それはそうだけど…」
2つの歳の差だったのに、今日から二ヶ月の間は3つの歳の差になる。
同じスタートラインから始まった人生では無い。
リョーマもそれくらいわかっているが、手塚は常に一歩先を歩いていて、追い付けないのが悔しいのだ。
「俺としては…これくらいが丁度良いのだか」
両腕でしっかりと抱き締める。
今のリョーマは手塚の胸の中にすっぽりと入るサイズ。
抱き締めるのには丁度良いのだ。
「…ね、今日は好きにしていいから…」
恥ずかしそうに顔を真っ赤にしながら囁くと、手塚の背中をリョーマもしっかり抱き締めた。
「いいのか?」
思わぬセリフに手塚は目を瞠り、抱き締めている腕の力を強くした。
「…うん…」
「俺を甘やかすと大変だぞ」
目の前にある真っ赤になったリョーマの耳朶を軽く食んでやると、リョーマの腕の力がふっと緩んだ。
「…キスをしてもいいか?」
「いいよ」
頭の中に鮮明に残るほど、じっと手塚の顔を見つめた後、ゆっくりと伏せられた瞼。
美しい輝きを見られないのは残念だが、触れ合う唇がとても甘くて熱いので、その辺は譲歩してしまう。
ふと、リョーマの表情を盗み見る。
伏せられた瞼を彩る睫毛が切なげに揺れていた。
うっとりとして手塚からの口付けを受け入れているリョーマから目を離せない。
軽く触れ合うだけに留めておくつもりだった口付けは、お互いの口腔を貪り合うものになっていた。
吐息すらも奪うような激しい口付けに、リョーマの膝がカクカクと震え出す。
「…リョーマ」
長い口付けを終えたリョーマが伏せていた瞼を開いた。
その瞳は宝石のような輝きを放っていた。
眩いばかりの美しさに見惚れてしまう。
「…国光、好き…」
「俺もリョーマが好きだ」
「…ね、早く入ろ?」
ほう、と甘い息を吐いたリョーマは、上目遣いで手塚を見つめる。
今の口付けは2人の官能をダイレクトに刺激していた。
「冷えてしまったな」
外気に晒されている身体は少し冷えていた。
「…あっためてくれるんでしょ?」
「ああ、熱くしてやるからな」
脱衣所から2人のボルテージは上がり始めていた。
7日になるのは、あと数時間後。
「…っは…」
出しっ放しにしているシャワーの音と、濛々と立ち込める湯気の中で、手塚の片手はリョーマが逃げないように背中を抱き、もう片方で身体を弄っていた。
リョーマは手塚の首に腕をまわし、先ほどよりも激しい吐息すら奪うような口付けを受けている。
荒々しい口付けに夢中になりながらも、胸の突起を弄っている指に意識を奪われそうになっていた。
「…や、ダメ……そこ…」
手塚の爪が突起を引っ掻くと、耐え切れずに手塚の唇から逃げてしまうが、追い掛けては来なかった。
手塚はピンク色をした突起の片方をくりくりと指で弄りながら、もう片方を舌で舐り始めた。
「…ああっ…ん…」
硬くなったそこは完全な性感帯となり、何度も舌で転がされ、舐られる度にリョーマの身体はビクビクと奮える。
「…今日は好きにしてもいいのだろう?」
仕上げとばかりに強く吸い上げれば、リョーマは身体を跳ねさせながら「ひゃっ」と小さな悲鳴を上げた。
「…でも、酷い事はしないでよね…」
肩で息をしながら、リョーマは手塚に訴える。
付き合ってから何度か身体を重ねているが、手塚がいつも自制して抱いていたのをリョーマは知っている。
だからこそ『好きにしてもいい』と言ってしまった手前、何をされても文句は言えない立場にいる。
「俺にはそんな趣味は無いぞ」
リョーマには快楽だけしか与えたくない。
ちら、と視線を下に向ければ、リョーマのそこは緩く勃ち上がっていた。
「気持ち良くさせてやる…」
その場に跪くと、躊躇する事無く口に含む。
「…ああっ…」
暖かな口腔にすっぽりと包まれて、リョーマは溜息のような嬌声と共に背中を反らせる。
胸よりも敏感なそこは、手塚の口内で次第に形を変え始めていた。
何度も口内を往復させ、充分硬くなったところで口から離し、次は手を使い根元から上下に扱き始めた。
「……や…ああ……んっ」
唾液によって滑りが良くなれば、手塚の手の動きは激しくなり、リョーマは甘い喘ぎ声を零し出す。
押さえ気味にしていた声を、リョーマは我慢出来ずに風呂場に響かせる。
「…リョーマ…」
手の動きは止めずに手塚は立ち上がった。
艶かしく喘ぐその表情を食い入るように見つめる。
ピクピクと震える瞼。
薄く開いた唇から覗く舌。
手塚が与える愛撫に腰は揺らめいていた。
「…んあっ…んん…やぁ…」
シャワーの音では掻き消されないほどの音が、瞳を閉じて手塚の手の動きを感じているリョーマの耳を侵し始めていた。
「…気持ち良いか?」
訊ねれば、真っ赤な顔でコクコクと頷く。
唾液と自身の体液によってぬめりを帯びたそれは、既に限界近くまで張り詰めている。
「…あ、も、出そ…う…」
「いいぞ…」
「…や、出ちゃ…う……あああっ」
先端部分を激しく攻めれば、リョーマは身体をビクビクと痙攣させて激情を放つ。
床に落ちたリョーマの白濁液は、シャワーのお湯によって排水口に吸い込まれていった。
「…ふ……はぁ…」
達した事で弛緩した身体を手塚の胸に預ける。
「…今度は…国光の番だね…」
「いいのか?」
「今日は俺も頑張るから…」
バスタブの縁に腰掛けた手塚の足元に跪き、リョーマはその中心に頭を埋めている。
粘っこい音を出しながら、手塚の雄を咥え込んでいるリョーマの表情は、とてつもなくいやらしい。
「……はっ…」
その顔を見ているだけで、不本意ながらも達してしまいそうになる。
しかしそれでは勿体無い。
「…ん、んっ…」
硬くなった幹の側面を唇でなぞり、根元から先端までをじっとりと舌で舐めまわす。
「…ね、気持ちイイ?」
「ああ、いいぞ」
時折、顔を上げて確かめてくるリョーマに、手塚はしっかりと答えていた。
「へへ…」
手塚の返答を聞いて満足そうに微笑んだリョーマは、大きく育った熱の塊をまた咥え込む。
いつも気持ち良くさせて貰っているのだから、今日くらいは自分が気持ち良くさせてあげたかった。
「…リョーマ…」
慣れない舌技だが、必死になって行っている。
それに自分が施す愛撫を真似ているのはわかっていた。
自分がされて気持ちが良いのだから、相手に同じ事をしても気持ち良いと思っているのだろう。
実際にリョーマの奉仕は気持ちが良い。
「…んく…は、ふ…」
喉の奥にまで咥え込むのはまだ無理なようで、届かないところは手を使う。
「もう、いいぞ」
リョーマの頭を軽く撫でてやると、不満たらたらな表情で顔を上げた。
「…どうした?」
「まだ、イってないじゃん」
唇を突き出して文句を口にする。
「いいんだ。お前の中でイかせてくれ…」
「俺の中で?」
「ああ、そうだ。早くお前の中に入りたい」
手塚はそう言うと、唾液と自分の体液に濡れたリョーマの唇を拭ってやった。
壁に手を付かせて、腰だけを突き出しているリョーマの双丘を手塚は両手で撫で回す。
「…や、エッチ…」
白く柔らかいそこは、まるでふんわりとしたマシュマロのような感触を与えてくれる。
「リョーマの尻は気持ちが良いな。とても美味そうだ」
「…バカ……あっ」
柔らかな双丘を何度も揉んでから、最奥に指を当ててみれば、そこはまだ固く閉じていた。
「…ここはどうして欲しい?」
耳元で囁く手塚の熱っぽい声にリョーマは振り返る。
「…どうするって?」
「指がいいか?それとも…」
ペロリと耳を舌で舐った。
「…ん、あっ…」
いきなりの濡れた感触に背筋に電流が走る。
「どっちが良いんだ?」
「…な、舐めて…」
そのまま首筋まで舐められて、堪らずに答えた。
本当はどちらでも構わない。
早く手塚の熱を感じたかった。
手塚は立たせたままのリョーマの双丘を割り開き、期待に収縮を繰り返している後孔に舌を這わした。
「…んんっ…」
ざらついた舌で窄まりの表面を丁寧に舐められ、軽く尖らせた舌が内部に侵入したと同時に、リョーマは軽く腰を揺らした。
「指も入れていいか?」
「…あ、いい…よ」
訊かなくてもいい事をわざとらしく言う手塚に、リョーマは恥ずかしそうに蚊の鳴くような声で答える。
人差し指をじっくり舐めて唾液に濡らしてから、後孔に差し込んだ。
舌での刺激により既に柔らかくなった表面は、手塚の指を貪欲に飲み込み始める。
もう1本増やし、狭い内部を解しに掛かる。
「…あ…そこ…」
ある場所に指が掠めた瞬間、リョーマの身体が痙攣するようにビクビクと跳ねる。
「ここがいいのか…」
「…や…そこ、ダメっ」
リョーマの感じるポイントを指で何度も刺激すれば、それに呼応するように前も勃ち上がり始めていた。
「リョーマ、もう入れてもいいか?」
「…い、入れて、早く国光をちょうだい…」
指だけではもう満足出来ないリョーマは、太くて硬い手塚の熱で置くまで突いて欲しくなり、羞恥心を捨てて手塚に強請る。
「…たっぷり注いでやるからな」
リョーマの細い腰を掴み、自身に手を添えて後孔に宛がうと挿入を開始した。
「…ああぁ…」
狭い器官が手塚の熱の塊によって、じわじわと広げられていく感覚は慣れた今でも少しばかり恐怖を感じる瞬間だ。
「リョーマ、辛ければ言ってくれ」
きつい締め付けに手塚の眉間にしわが寄る。
「…へ、平気だよ…」
「そうか…」
ゆっくり抽挿を繰り返し、リョーマの内部がその太さに慣れるまで待つ。
「…く……ふう…」
凄まじい摩擦感に手塚も苦悶の表情を浮かべていた。
それでも手塚は自身を抜かずに、小さく腰を動かす。
緩やかな動きにより、手塚の先走りの液とリョーマの腸液が混ざり合い、湿った音が浴室内に響き始める。
リョーマの締め付ける力が緩くなると、手塚は律動の速度を速めた。
「あっ、ああっ、ひぁ…」
打ち付ける度にリョーマの口からは甘い声が零れる。
手塚の体液がリョーマの内部を濡らし始め、抽挿の手助けをしている。
「…ひ、あああっ…やぁ…」
ぐちゅん、と淫猥な音が後孔から漏れ、その音を消したいのか、リョーマの声が高くなる。
手塚は歯を食いしばり、届く限りの奥へと自身を捩じり込む。
前後の動きだけでなく、左右へと揺らしたり、大きく回すようにして、リョーマの内部を万遍なく抉る。
下から突き上げれば、リョーマの踵が浮き上がる。
しかしどんなに強く抽挿を繰り返しても、リョーマの内部は手塚を柔らかく包み込んでいる。
狂いそうなほど気持ちがいい。
少しでも長い時間をリョーマの中で過ごしたい手塚は、緩急をつけた動きでリョーマの内部を抉っていた。
「そろそろいいか…」
「…うん、きて…」
2人とも限界が近い。
一度も触れていないリョーマの昂ぶりも、この頃には切なげに蜜を零し始め、突き上げられる度にポタポタと床に落ちていく。
手塚は腰をしっかりと掴み、今まで以上に激しく打ち付ける。
「…ひっ、うあっ…ああっ…」
肉を打つ破裂音が響く中、リョーマは壁に付いていた手を必死に握り、迫り来る強烈な快感に耐える。
「我慢しなくても、いいぞ…」
「……あっ…あああっ」
だが、手塚が耳元で囁いた瞬間、リョーマの身体が射精の為に緊張し、無意識に手塚を締め付ける。
「……っ、く…」
手塚が息を詰めると、リョーマの内部に勢い良く大量の体液が放たれ、リョーマもその刺激に白濁液を壁に撒き散らしていた。
「…あ、熱い…」
内部に広がる感覚にリョーマは身悶えた。
「…ふう…大丈夫か?」
ズルリ、と自身を引き抜くと、つられて体液が後孔から零れ落ちてきた。
太股を伝うその光景に、またしても手塚の欲望は深まる。
「…大丈夫…でも、ここじゃちょっと辛いね」
立ち込める湯気の熱気で頭がくらくらする。
「…そうだな、後は部屋に帰ってからにしよう。その前にだな…」
未だに壁に手を付いて荒い息を繰り返しているリョーマを引き寄せ、いきなり後孔に指を突っ込んだ。
「…え……あ…何?」
「出すだけだ…」
「…それくらい先に言ってよ」
「すまないな」
リョーマの体内に残っている己の体液を掻き出し、シャワーを掛けてキレイにしてやった。
その後、部屋に戻った2人は、時間を忘れてお互いを貪り合っていた。
「…あ、ちょっと待って…」
手塚の上で抱き締められながら、激しく突き上げられている最中、リョーマは行為にストップを掛けた。
「どうした?」
急に止められた手塚が心配そうに見つめてくる。
「辛いのか?」
既に何度目になるかわからなくなりそうなほど、身体を繋げている。
リョーマが根を上げるのもわかる。
「…ううん、違う。あと少しだから…」
静かにしているとカチカチと秒針の音だけが部屋に響く。
リョーマが動きを止めた理由がわかると、手塚の表情が優しくなった。
2人の瞳は時計を見つめる。
「…3、2…1…ハッピーバースデー、国光」
カチ、と秒針が7日の零時を差すと、リョーマは手塚に抱きついて、誰よりも先に祝福の言葉を伝えた。
「ありがとう」
「プレゼントをあげたいんだけど…後でいい?」
今の状態から動くのは…辛い。
「…これがプレゼントではないのか?」
ぐい、と止めていた腰の動きを再開する。
「…あっ、んん…違うよ…」
いきなり突き上げられ、リョーマは嬌声を上げた。
「そうなのか?俺はお前さえいてくれればそれだけでいいのだか」
脱衣所でリョーマが「好きにしてもいい」と言ってきたのがプレゼントだと、手塚は勝手に思い込んでいた。
「…だって俺はもう国光のものだから、プレゼントにはならないでしょ?」
頬を赤く染めながらそんな事を言われてしまえば、手塚の切れ掛かっていた理性はどこかに飛んで行ってしまった。
2人の行為は明け方まで続いていた。
「……ん…」
白々とした光がカーテンの隙間から室内を照らしている。
珍しくリョーマはその光に目が覚めてしまった。
「……ここ?」
ぼんやりとした視界を天井に向けながら、自分がいる場所を懸命に検索していた。
自分の部屋の天井とは違うが、見覚えのある天井。
「あ、そっか…あれ?何だ、着せてくれたんだ」
次第にクリアになっていく視界に、ようやくここが手塚の部屋である事を思い出し、続いてパタパタと自分の身体に手を当てると、しっかりとパジャマを着ていたのにも気付いた。
「…今何時だろ?」
長い時間の交わりの結果、気を失うように眠りに着いたところまでは覚えているが、その後は全く記憶に無かった。
きっと裸のままで寝ていたら体調を崩すと危惧した手塚が、着せてくれたのだろう。
「…あれ?国光…」
しかし隣で寝ているはずの恋人の姿は無かった。
シーツの上に手を当てれば、かなり前からいなかったのかとっくに冷たくなっていた。
「…国光…どこ…」
名前を呼んでも部屋の中には自分しかおらず、唐突に不安になる。
ベッドから下りようと身体を動かせば、有り得ないほどの鈍痛が腰に走り、思わず顔をしかめる。
それでもどうにかしてベッドから抜け出そうとして足を床につけるが、力が入らずにその場に倒れてしまった。
「…いてて…」
信じられないくらいに身体の自由が利かない。
今度は床の上から天井を見上げる形になってしまった。
「…国光…」
鼻の奥がツンとして何だか泣きそうになってしまう。
そんな自分が嫌で片腕で目の上を隠した。
「…マ、リョーマ!」
「……う…ん…あれ、国光?」
名前を呼ぶ声と頬に走る小さな痛みに、リョーマはゆっくりと瞼を開いた。
心配そうに覗き込んでくる手塚に、リョーマは自分の状態を把握できなかった。
キョロキョロと視線を動かして、自分がどんな状態にいるのかを確かめる。
「どうしたんだ?こんなところで…」
「…どうしたって?あっ、あれ?国光?」
パチパチと瞬きを繰り返しているリョーマは、今が夢なのか現実なのかすらも把握しきれていなかった。
「良く眠っていたと思ったら、今度はこんな場所に寝ているから心配したぞ」
「こんな場所?」
言われて見れば身体の下が固い。
「…あ、さっき目が覚めたら国光がいなくて、探そうと思ったら倒れちゃって…それでそのまま…」
記憶を巡り、今の状態になってしまった経緯を思い出す。
「倒れた?身体は大丈夫なのか?」
手塚はリョーマを抱きかかえると、ベッドの上に優しく置いた。
「それは大丈夫だけど、何でさっき…いなかったの?」
身体のあちこちを触りながら「怪我は無いのか」と、訊ねてくる手塚にリョーマは「何とも無い」と返した。
「祖父が早朝から出掛けると言っただろう。簡単に食事の用意をして、見送っていたんだ」
「…え、こんなに早くから?」
時計を見れば、まだ6時前。
「だからまだ起きないと思っていたのだが、意外と目覚めるのか早かったな。まだ寝ていてもいいのだぞ?」
ちゅ、と額に口付ける。
「…ううん、何だか目が冴えちゃったから起きるよ」
ふう、と息を吐くと、リョーマは両手をベッドの上に着いて起き上がろうとして…動けなかった。
「…う……」
腰だけでは無く、身体中が重い。
ここまでの状態になったのは、初めて身体を重ねた時以来だった。
「済まない。少し羽目を外しすぎたか…」
「そんなコト無い。俺が言い出したんだから…」
手塚の手を借りてリョーマはやっと起き上がれた。
やっぱり鈍痛は夢ではなかった。
「…おはよ、国光」
痛む腰の下に枕をクッション代わりにして座る。
ようやく落ち着いたリョーマは、眩しいほどの笑みを手塚に見せていた。
「おはよう、リョーマ」
手塚もベッドに腰掛けて、そっとリョーマを引き寄せる。
「…国光は満足出来た?」
「ああ、かなりな」
満足なんて言葉では言い切れないほどの充実感。
手塚は暫く振りに堪能したリョーマの身体のしなやかさと狂おしいほどの熱さを思い出していた。
「……だったら、いい」
照れ臭そうにほんのりと頬を染めた。
「ね、リュック取って欲しいんだけど…」
「ああ、いいぞ」
ベッドから出られないリョーマに代わり手塚が動く。
甲斐甲斐しくリョーマの言うとおりに動く手塚の姿を見ていると、これではどちらの誕生日なのかわからない。
「ほら」
「ありがと」
渡されたリュックを開けて、その中から目当ての物を取り出した。
それはシンプルなラッピングがされた長方形の小さな箱。
その箱を手塚の前に差し出した。
「はい、バースデープレゼント」
「ありがとう。開けてもいいか?」
箱の大きさから大体の予想は付くが、出来る事ならこの場で確かめてみたかった。
「いいよ。気に入ってくれるといいんだけど」
青色の包装紙に包まれ、細めの金色のリボンで飾り付けられているその箱を、早速解きに掛かった。
ガサガサと小気味の良い音を立てながら包装紙を外すと、黒い箱が現れた。
心なしか緊張気味に蓋を開ける。
「…これは」
「時々そういうの着けているから…」
箱の中身はペンダントだった。
2人で出掛ける時に、たまに身に着けている物はシルバーのチェーンに小さなプレートが付いた物だが、これも同じような形だった。
「…何か彫ってあるな?」
プレートの部分には英語で何かが彫られている。
「……こういうのってダメ?もしかして…嫌いだった?」
「いや、とても気に入った。ありがとう」
簡単な単語の意味を理解すると、手塚は不安げに見つめてくるリョーマに微笑を見せる。
「…良かった…」
これだけは誰の手も借りずに、自分の感性を信じて選んだ物なのだ。
素直に喜んでもらえてリョーマも嬉しくなる。
「しかし、これはシルバーではないな」
シルバーの物とは輝きから違っている。
「良くわかるね、プラチナだよ」
「…高かっただろう?」
プラチナの価値がどのくらいなのかは、流石の手塚も理解していないが、シルバーよりも高級である事だけはわかっている。
「ううん。だって国光が身に着けるんだから、これくらいが丁度いい」
アクセサリーを購入するのなんて初めての試みだった。
店内を戸惑いながらも捜索し、手塚が身に着けても主張し過ぎず、それでいて存在感のある物をリョーマは何とかして見つけ出した。
値段には糸目を付けない。
シルバーよりももっとグレードの良い物にしたいと、チェーンもプレート部分も全てプラチナ素材にした。
「しかし…」
「…困るなら返して」
上機嫌だったリョーマの表情が次第にきつくなる。
「いや、お前が俺の為に選んでくれた物だからな、有り難く頂戴する」
リョーマの機嫌をこれ以上損ねさせるのは、手塚にとってはマイナスでしか無い。
リョーマに奪われる前に、手塚は箱の中にペンダントを戻した。
「…国光」
まだ機嫌の悪いリョーマは手塚を睨み付けている。
名前を呼ぶ声も、どこか凄みがあった。
「お前と出掛ける時は必ず着ける」
安心させるようにリョーマの目を見ながら伝えると、ベッドから立ち上がり、包装紙ごと箱を机の上に置いた。
「…本当に?」
「お前が俺の為に選んでくれた物をむやみに扱いたくはないからな」
まだ信じられないような顔をしているリョーマに、手塚はしっかりと伝える。
恋人から貰った初めてのプレゼントは、いつまでも形として残る物。
「大切に使わせてもらう」
出来る事ならいつまでも大切にしまって、誰にも見せたくないのが本心。
しかしそれではこの恋人が不機嫌になるだけなのだ。
まだ短期間の付き合いではあるが、手塚はリョーマの考えがわかるようになっていた。
「ん、使ってくれなきゃ、ヤだよ」
「わかっている…」
「…国光」
両手を差し出したリョーマの背中に腕をまわし、抱き締めると深く口付けた。
しっとりと重なる唇。
リョーマが息継ぎの為に唇を小さく開く。
その隙間から差し入れた舌を、リョーマのものとねっとりと絡め合う。
次第に深くなる口付けに酔いしれる。
「…ん、ふ…」
明け方まで愛し合っていたというのに、何故かこの口付けは官能を揺さぶるものとは違い、どこか神聖な行為に感じられた。
「…国光」
「どうした?」
甘い口付けを終えて少し身体を離した後、リョーマは手塚の胸にしがみ付いた。
「好きだよ…大好き…」
「ああ、俺も…リョーマを愛している」
誕生日の朝から嬉しい言葉を貰い、手塚はこの日を一生の記念にしたいと、リョーマを強く抱き締める。
「……年も」
胸に顔を埋めているので声はくぐもっているが、手塚の耳には鮮明に届いた。
「その次も、またその次も…こうやって国光の誕生日を祝いたい。出来れば2人きりで…」
「ああ、そうだな。俺としてはお前の誕生日にこそ、2人きりで過ごしたいのだが…」
リョーマの誕生日はクリスマス・イヴ。
その日は家族だけで祝っていると聞いていたので、2人きりで過ごす事はかなり難しそうだ。
しかし出来る事なら、今日と同じように2人だけでその時を過ごしたい。
「それって、予約?」
顔を上げたリョーマが首を傾げながら訊ねてくる。
「まだ予約の期間には入っていないか?」
あまりにも可愛らしい仕種に手塚の表情は緩みっ放しだ。
「…もう受け付けちゃったんだからね。予約の取り消しは出来ないよ。それでもいい?」
「もちろんだ。しかしリョーマの方はいいのか?その日はご家族で過ごすのでは?」
簡単に了解するので、手塚は再び確かめてしまう。
今日の予定を訊いた時にも、リョーマのバースデーは家族で過ごしていると聞いた。
まだ二ヶ月も先の事だが、リョーマの家族を考えれば勝手に予定を入れるのは心苦しい。
「アメリカの時はそうだったけど。今の親父って一応は寺の住職だからさ。今年からはどうなるのかワカンないんだよね」
どんなに生臭坊主でも寺の住職には変わらない。
キリストの生誕祭なんて仏教には全く関係ないのだから。
「そうか、では予定を入れておいてくれ」
「…どうしよう、今からドキドキしてきちゃった」
速まる鼓動を抑えようと、自分の胸に手を置く。
「まだ早いぞ。それに今日は…」
「そうだね、今日は国光の15回目のバースデーなんだからね。ハッピーバースデー、国光」
リョーマは伸び上がって手塚の頬にキスをした。
10月7日は始まったばかりだ。
「残り物ですまないな」
「ううん、味が染みていて美味しいよ」
リョーマが自分で動けるようになってから、昨晩の残り物をおかずにした朝食を2人で食べる。
時間的にはブランチに近い時間になっていた。
「これって何?」
茶碗の中に少し色の付いた米が所々に入っている。
それを箸で掴み手塚に見せた。
「ああ、玄米を混ぜてあるんだ」
「…ふーん…玄米ね…」
ぱくり、と口の中に入れる。
彩菜が家族の健康に気を遣い、米を炊く時は白米に玄米を混ぜたものにしている。
味噌汁は豆腐とワカメのシンプルなもの。
それに昨夜のご馳走の残り。
朝から豪勢な食卓だった。
「…この味噌汁って国光が作ったの?」
ズズ、と味噌汁を啜ったリョーマが驚きの声を上げる。
「ああ、そうだか」
「すっごくおいしいよ。こんな味噌汁初めて」
元々、洋食よりも和食を好むが、やはりアメリカに長期間住んでいた母親が得意とするのは洋食だった。
従姉妹の菜々子が食事の用意をする時は、気を遣って和食をメインにしているが、菜々子も母親同様、洋食を得意としていたので、和食になると味付けがイマイチなのだ。
不味くは無いが、特別美味しくも無い。
しかし作ってもらっている以上、食べるだけの自分が文句を言うのは筋違い。
「国光って料理も上手いんだね」
お椀を持ったまま、リョーマは満面の笑みで言っていた。
「これくらいで褒めてもらえるとは…」
満更でも無いのか、手塚もまた微笑を浮かべていた。
「……ほら、付いているぞ」
「ん?え、どこ?」
リョーマの右頬に米粒が一つだけ付いていた。
「…ここだ」
手塚はリョーマが手を出す前に、自らの指でそれを摘まむと口に運んだ。
「…ありがと」
思わぬ行動をした手塚に、はにかみながら礼を言った。
先に食べ終えていた手塚は、幸せそうに食事を食べているリョーマを見ながら温かいお茶を飲んでいた。
こんなに長閑な時間を2人きりで過ごしているのは、まるで夢のよう。
見付からないように手塚は自分の手の甲を捻ってみた。
「…違うな」
「何が違うの?」
「いや、何でも無い。それよりもういいのか?」
「お腹一杯だよ。ねぇ、今日は何する?」
最後の一口を食べ終えたリョーマは、持っていた箸を置きながら手塚に訊ねていた。
「出掛けるか?それとも家で過ごすか?」
「…今日は国光のしたい事に付き合うよ」
「俺のか?」
「そだよ、これもプレゼントの一つ」
エヘ、と舌を出して笑った。
とびっきりキュートな小悪魔の誘惑に、手塚の強固な理性の糸は切れ掛かっていた。
「…で、何で?」
2人はリビングのテレビを付けて、先日撮っておいたテニスの試合を見ていた。
ソファーの上に座っている手塚に抱きかかえられているリョーマは、今の状態に不満そうに呟いた。
「駄目なのか?」
「ダメって言うのか…」
誰もいないからこんな格好でいても平気だが、テニスの試合を見ているだけはつまらない。
「そうか…」
「え、わっ、何?」
ふむ、と考えた手塚は、リョーマをしっかり抱えて立ち上がると、スタスタと歩き出した。
「…今日はワガママを言ってもいいのだろう?」
必死にしがみ付いてくるリョーマが不思議そうな顔で見上げてくるので、手塚は額に優しく唇を寄せた。
辿り着いた先は当たり前のように手塚の部屋で、リョーマをベッドに下ろした。
「たまにはゆっくりしよう」
手塚もリョーマの横に入り、その身体を引き寄せて、ぴたりとくっ付いた。
「それって何もしないで寝転がっているだけ?」
「……勿体無いな」
「そうでしょ?」
そう言うと、リョーマは手塚の身体に乗り上げた。
「リョーマ?」
手塚の腹に座りニッコリ笑うと、手塚のシャツのボタンをはずしに掛かった。
積極的なリョーマもたまにはいいと、好きなようにさせておく。
一つ、また一つ外されていくボタン。
最後の一つを外し、露わになった肌の上をリョーマの手が滑る。
「…すごいよね…無駄が無いっていうのか、羨ましい」
贅肉なんて少しも無い。
きっと体脂肪なんてかなりの低さに違いない。
「ここも…」
手で触れていた箇所を追いかけるように今度は唇が触れた。
「……っ…リョーマ?」
なぞるだけの唇の感触が、急に変化する。
一箇所に留まっていると思ったら、その箇所にチクリとした痛みを感じた。
手塚が名前を呼べば、顔を上げたリョーマはニヤリと不適な笑みを作っていた。
「…国光は俺のもの」
「跡をつけたのか?」
「ここならいいでしょ?」
つい、と指で自らがつけた跡をなぞる。
そこは心臓の真上にあたる場所。
「…マーキングか」
白い肌に不釣合いな内出血の跡。
「ここなら誰にもわからないよね」
「ああ、そうだな」
手塚はリョーマの身体に数え切れないほど残しているのだから、たった一つの残された跡に文句は言えない。
「国光の肌って気持ちイイ」
「リョーマ…」
頬を摺り寄せる姿は犬や猫のようにも思える。
特に気紛れな猫の性格にそっくりだ。
「国光って俺より体温が低いよね。でも…これじゃあ冬は冷たそう…」
今は丁度良い体温でも、冬は冷たく感じそうな体温。
夏が特別好きでは無いが、暑さと寒さと言う点だけを比べたら暑い方がマシなだけだ。
「…冬は一切やめておくか?」
「ヤだ」
たった一言の否定の言葉と共に、リョーマは手塚にぎゅっとしがみ付く。
「俺も嫌だな。夏でも冬でもお前に触れていたい」
自分の胸に顔を埋めているリョーマの頭を優しく撫でてやり、髪を一房掴み指に絡める。
さらりとした髪は手塚の指をすり抜けて重力に逆らう事無く落ちていく。
「…俺もいつでも国光に触れていたいよ」
「ああ、それにお前といれば、体温なんてすぐに上昇してしまいそうだがな」
少しずつ熱くなり始めている身体。
何か切っ掛けさえあれば、この熱は一気に高みに昇る。
「ふーん。じゃあさ、もっと体温上げる?」
「何をするつもりだ?」
「…何って…やっぱりこれかな」
むくり、と起き上がったリョーマは、着ていたトレーナーの裾を持ち上げ、情事の跡が色濃く残る身体を手塚の瞳に映させる。
「いいのか?」
「…冗談だよ。さすがにこれ以上ヤったら今日はベッドから出られなくなりそうだし」
動けるようになったとはいえ、後孔は未だに異物を咥えているような感覚が残り、腰もまだ重く、自分の思い通りには動けない。
リョーマは捲り上げていたトレーナーの裾を、手塚が本気になる前に元に戻した。
「あまり俺を煽るようなマネはやめてくれ。それでなくともお前を独り占めできる優越感に浸っているのだから」
大きな溜息を吐いてはいるが、手塚の顔はヤケに楽しそうだった。
2人きりという滅多に無いチャンスに、手塚の気分は五割増に良かった。
「ゴメン。でも肌が気持ちイイのは冗談じゃないよ?それにこうしてると…ほら、国光の生きてる音がする」
もう一度手塚の胸に顔を寄せ、心臓の上に耳を当ててみれば、安定した旋律を奏でていた。
例えてみれば、広い野原に仰向けに寝転がり、柔らかい風をその身に受けながら、青空を流れる白い雲をただ只管に眺めている。
ゆっくりと進む時間をその身で感じるだけ。
自分1人では作れない穏やかな時間は、愛すべき相手が傍にいる事。
「…何か眠たくなっちゃうね」
このままでいたら、絶対に眠気が襲ってきそう。
まるで泣きじゃくっていた幼い子供が、あやす為に抱き締めた母親の心臓の音でピタリと泣き止んでしまうように、リョーマの心は安堵感に包まれていた。
「リョーマ、もう一泊する気は無いか?」
手塚もまたリョーマが傍にいる事で心が安らいでいた。
誕生日が終わるまでの時間は、刻一刻と過ぎていく。
もっと長い時間を2人で過ごしたい。
「明日も?でも着替えが無いし…家に戻って取って来ないといけないけど」
それでもいい?と訴える。
初めから一泊の予定だったので、今日も泊まるのなら着替えが必要になる。
「今日は2人きりなんだ。色々としよう」
「いろんなコトって具体的には?」
「まずは洗濯だな」
一旦リョーマを自宅へ戻らせるのも一つの手段だが、それよりもここで全てをしてしまえばいいだけだ、と手塚は気が付いた。
「………洗濯?」
僅かな沈黙の後、訝しげに繰り返す。
色々な事と言うくらいだから、もっと特別な事をするのかと思えば、手塚の提案は日常的な家事だった。
「ああ、それが終わったら少し部屋の中の片付けをして、買い物に行こう」
ちら、と目線を上げたリョーマの頬を撫でる。
「買い物って…何の?」
その手の動きが気持ち良いのか、うっとりと目を細める。
「食材だ。昼食は外でいいとして、せっかくだから夕食は何かを作ろうと思ってな」
「それじゃあ、一緒にご飯作ろ。これでもちょっとは出来るんだよ」
リョーマも手塚の考えに気が付いたのか、瞳をキラキラさせて反応していた。
2人以外の誰もいない家の中だからこそ出来る、同居もしくは同棲の疑似体験。
洗濯をして掃除をして買い物をして料理をして、朝から夜まで1日を一緒に過ごす。
誰の手も借りずに2人だけで。
「今までで一番幸せな誕生日になりそうだ」
誕生日なんて生まれた事の証明なだけで、その日に対して特別な思いは持っていなかった。
子供だろうが、大人だろうが、誰でもその日が来ると年齢を1つ重ねる。
確実に進む時間は、権力者であろうが凡人であろうが、何人たりとも逆らえないと、気付かせる為だけの日。
それくらいの意識しか無かった手塚にとって、初めて体感する『幸福』に満ち溢れた誕生日。
「じゃ、早く洗濯して干さないとね」
いつまでも手塚の上に乗っていたら先に進まないので、惜しみながらも手塚から退いた。
「…そうだな」
急に無くなってしまった温もり。
2人分だった体温は、すぐに1人分になっていく。
「…どうかした?」
「いや、何でも無い」
自らの案に残念がりながらも起き上がり、外されているボタンをはめると、立ち上がった。
「いい天気で良かったね」
リョーマは最後の一枚を物干し竿に掛けた。
「ああ、これなら昼過ぎには乾くだろう」
風で飛ばされないように手塚が洗濯バサミで端を挟む。
2階のベランダは風の通りが良く、干した洗濯物がパタパタとダンスをしているようになびいている。
「掃除も終わったし、何だかキレイになっていくのって嬉しくなるね」
洗濯機が動いている間は暇なので、その間で家の中を簡単に掃除し、止まったと同時に取り出して干していた。
1人暮らしや家庭を持てば、日常的な家事となる『掃除』と『洗濯』を、手塚にあれこれと指示されながらリョーマは初めて行った。
初めてにしてみてはなかなか動けたと、自分では満ち足りていた。
「お前の部屋はいつも何かがあるからな」
夜遅くまで遊んでいたゲーム機は片付けない。
ベッドの上には朝脱いだパジャマがそのままの形で置いてある。
足の踏み場が無いほどでは無いが、使った物は片付けないでそこら辺においてある。
何度も入った事のあるリョーマの部屋。
どこに何が置いてあるのかなんて、紙とペンさえあれば図で説明出来るくらいだ。
すっきりと片付いている状態は見た記憶が無い。
「えっと、これってやぶ蛇かな?」
マズイ事を言っちゃったな、とリョーマは舌を出した。
「実際には『やぶをつついて蛇を出す』だが、良く知っているな」
「…親父が言ってるから」
「南次郎さんが?……そうか…」
どことなく想像がついてしまうから、苦笑いを浮かべるしか無かった。
「全部キレイになってるかな…うん、よし」
話を逸らすように、リョーマは均等に並んでいる洗濯物を眺める。
どれもこれも汚れがしっかり落ちていて、何だかとてもイイ気分になる。
「次は買い物だな」
次々とやるべき事を終わらせていき、残るは買い物とその後の料理だけになった。
「じゃ、鍵を掛けて行かないとね」
「おいおい、そんなに急がなくても大丈夫だぞ」
どこかイキイキとしているリョーマに引っ張られ、手塚は家の中に入る。
「どこの店に行くの?」
カゴを洗濯機の近くに片付けた後、一旦は2人してリビングに戻り、ソファーに座る。
買い物に行く気になったのはいいが、この付近の店は知らないので、行き先は地元の手塚に決めてもらうしかない。
「近くのスーパーでいいか?」
「どこでもいいよ、食材なんだからさ」
「ここから歩いて10分ほどだが、そこでいいか」
「いいよ。何だか楽しそうだね」
行き先も決まり、リョーマは勢いをつけてソファーから立ち上がった。
「では鍵を掛けて行くとするか」
2人は家中の窓と玄関の鍵を掛けて出掛けた。
「…また見てたね」
「今のはお前を見ていたぞ」
「そうかな?国光じゃないの」
見た目からしてボーイッシュな女の子に間違えられそうなリョーマと、既に中学生を超越している手塚が並んで歩けば、すれ違う度に振り返られる。
どういう意味で見てくるのかはわからないが、ジロジロと見られるのは面白くなかった。
リョーマとしては「そんなに興味があるのなら期待に沿えてやれ」と思うのだが、流石にこの付近は手塚の事を知っている人が多いので、手を繋いだり腕を組んだりと言った行為は出来ない。
「…はぁ」
おいそれと人には言えない関係であるのは、リョーマも重々理解しているが、やっぱりどこかやり切れない部分もある。
つい、溜息を吐いてしまう。
「どうした?やはりつまらないか?」
「ううん、違う。ちょっと寂しいなって思って」
「こうして歩いているだけで俺は嬉しいが…」
お前は違うのか?と訊ねられ、リョーマは顔を上げた。
「…嬉しいけど、ちょっとだけつまんない…かな?」
両手には何も持っておらず、2人で出掛ける時は人通りの少ない場所なら手を繋ぎ、夜ともなれば腕を組んでいた。
今日みたいな特別な日だからこそ、いつも以上に引っ付いていたい。
「リョーマ…俺は」
「でも変な噂が立つと、国光だけじゃなくておばさん達も困るから、我慢しないとね」
どうせ今日はずっと一緒にいるのだから、あとで好きなだけ引っ付いていればいいだけだ。
「…そうだな」
手塚もリョーマと同じ気持ちでいた。
ここでは普段のようにいかないが、家の中に入ってしまえば、好き放題に出来る。
しかも今日は自分の誕生日。
リョーマからは『自分のやりたい事に付き合う』と、なんとも素晴らしいプレゼントも貰った。
誰かに見られても良いように、2人は普通の会話と距離を保ちながら歩いていた。
「あ、もしかしてあの店?」
見えて来た店舗の姿にリョーマは手塚の腕を引っ張る。
「ああ、そうだ」
それほど大きくない店舗だが、この時間でも客はそれなりに入っていた。
自動扉が開くと2人は中に入る。
「…へぇ、何だかイイ感じの店だね」
国産だけでは無く輸入品も扱っているのか、店内は多くの食材に溢れていた。
「わっ、これ詰め放題だって」
リョーマが感嘆した声を出したのは、玉ねぎやじゃがいもといった野菜の販売方法だった。
金額は一袋でいくら。
だから袋に入るだけ詰めて口を閉じれば、それをレジに持って行けば、その金額で買える。
自分の目や手の感触で野菜の新鮮さを確かめられるし、何よりも楽しいのだ。
どれだけ上手く詰められるかが腕の見せ所。
丁度親子連れがいて、子供が喜んで詰めていた。
「うわぁ、すごい長い茄子と丸くて大きい茄子…同じ茄子でも味って違うのかな?」
リョーマは楽しそうに色々な野菜を見ている。
その間に手塚は使えそうな野菜をカゴに入れて行く。
「リョーマ、今夜は何が食べたいんだ」
「俺?うーん、やっぱり今日が本番なんだから、それっぽい感じにしたいな。ステーキとか?ちょっと重いか…」
「いや、それなら調理は焼くだけだし、付け合せさえ考えれば楽だな…」
時間が掛かる料理よりも短時間で済ませて、あとの時間はリョーマと過ごす。
名案だ、と手塚はリョーマを連れて肉売り場に向かった。
「結構、たくさん買っちゃったね」
結局は大きな袋で二つ分を買い込んだ。
「これくらいなら大丈夫だ」
冷蔵庫の中はかなり空に近い状態だったので、たくさん買っても問題は無い。
「こういう買い物も楽しいね」
「ああ、俺もそう感じた」
2人はまるで新婚さんのような雰囲気を出しながら家路を急いだ。
「これも入れておく?」
「いや、それは入れなくてもいい」
家に戻り、まずは買った物を冷蔵庫に入れておく。
常温でも平気な物だけは、ダイニングテーブルの上に置いておいた。
「今からどうする?」
またしてもリビングに戻り、ソファーに座る。
しかし今度は並んで座らず、リョーマは手塚の上に跨っていた。
「…そうだな、少し幸せな気分に浸ってもいいか?」
「少しでいいの?」
手塚は煽り口調なリョーマの背中に腕をまわすと、無言のまま抱き締めた。
昼食は出来合い物で済ます事にし、2人きりを存分に満喫していた。
干しておいた洗濯物が乾く頃を見計らい、手塚はリョーマを連れて2階へ上がり、2人で取り込んで一緒にたたむ。
「…ん〜、何で国光みたいにいかないのかな」
きっちりとたたむ手塚の手際の良さに見惚れながらリョーマも真似してみるが、これがなかなか上手く行かず、四苦八苦していた。
「リョーマ、それでは余計にシワになってしまうぞ。いいか、ここはこうするんだ…」
「あ、そうか。ありがと」
見かねて手塚が救いの手を差し伸べる。
体育の授業でも、部活の時でも、脱いだ制服は簡単にしかたたまない。
どちらかと言うと、丸めて置いておくに近い状態。
そんなリョーマが一生懸命になってたたんでいる服は、実は明日着るので簡単にたためばいいやと思ったが、手塚に一喝されたのでこうしてたたんでいた。
「…これで終り…ふぅ、何だか難しかった」
リョーマは自分の洗濯物しかたたんでいないが、それだけでも疲労困ぱい気味だった。
「慣れれば簡単だ」
「そうかなぁ…」
「ほら、行くぞ」
うーん、と首を捻るリョーマの頭を一撫ですると、手塚はたたんだ洗濯物を持って立ち上がった。
「あ、うん」
リョーマも自分の分を手に持つと、それを手塚の部屋に置きに行った。
掃除を済ませ、買い物を済ませ、干しておいた洗濯物を片付けると、残るは夕食の準備のみになった。
それも手塚の手際の良さが際立ち、本当に短時間で終り、リョーマが空腹になる直前に焼いて、美味しく食べた。
こうなれば残すのは、2人だけの時間。
「今日は本当に素晴らしい1日だった」
「…今日はまだ5時間もあるんだけど?」
時計を見れば、今はまだ夜の7時。
2人は部屋に戻らずリビングでくつろいでいた。
どこで何をしていても、今日だけは気になる視線はどこにも無い。
「そうだな、では最後の我が儘を聞いてもらうか」
手塚の瞳には既に獰猛さを孕んでいた。
肉食獣が獲物の姿を捉え、一気に追い詰める。
まさにその瞬間が今だった。
「…何?」
リョーマがその瞳の変化に気付く前に、手塚はリョーマの腕をしっかりと掴んでいた。
「今日が終わるまでお前を抱いていたい」
「…ん、いいよ」
リョーマの了解を得ると、手塚はその身体をソファーの上に倒した。
「…え、ここで?」
「嫌か?」
そう訊ねられたリョーマは小さく首を横に振る。
出来る事ならベッドの上が一番落ち着くのだが、場所なんてどこでも良かった。
リョーマは見下ろしている手塚の首に腕をまわし、身体を引き寄せる。
「お前と出会えて本当に良かった」
耳元で囁くように呟き、ついでに耳朶を甘噛みすると、リョーマの身体が小さく震えた。
「…あ、国光…」
「リョーマ、愛している」
止めのように囁き、手塚はリョーマの唇を塞いだ。
しっとりと柔らかい唇に夢中になるのはいつもの事で、外側を十分に味わうと、今度は内側を攻める。
お互いの吐息を混ぜ合いながら、舌を絡める。
軽く舌先を噛まれると、リョーマの頭の中は真っ白になって何も考えられなくなる。
「……ん…」
口付けに気を取られていたリョーマは、何時の間にか服の中に入り、脇腹辺りを触っている手塚の手の感触にようやく気が付いた。
「まずいな…」
突如、声を出した手塚は渋い顔をすると、そっとリョーマの上から退いた。
「…どうかした」
既に口付けで蕩けてしまったリョーマは、手塚の動きを眺めるだけだった。
何をするのかと思えば、手塚はリビングにある大きな窓のカーテンを全て閉めていた。
「…万が一を考えてな…」
どうやら手塚は部屋に戻る気は全く無いらしく、シャツを脱ぎながらこちらに戻って来た。
「国光…何かいつも違うね…」
「そうだな、今日は何時にも増して興奮している」
こんなくつろぎの空間で、いかがわしい行為をするのだ。
流石にこの状況は常に冷静な手塚でも気が逸り、身体の熱の全てが中心に集まる。
「俺もドキドキしてるよ…」
「そうなのか?」
「でも…今日は大胆になろうかな」
ニコリ、と極上の笑みを作ったリョーマは、手を伸ばして手塚の既に硬く張り詰めている雄の部分をなぞった。
「今日はリョーマもしてくれるのか?」
「先にイかせてあげようか?」
「いや、出来るのなら一緒がいい」
「…じゃ、先にしてあげるから、国光がもういいって思うところでストップって言って」
自分の唇を舌で舐める姿はとても艶かしく、手塚は頷く事しか出来なかった。
ソファーに座った手塚は少し足を開き、その中に座ったリョーマが懸命に奉仕していた。
昨晩もリョーマにしてもらったが、やはり良い。
括れまでを口に含み、先端を舌で刺激を与えながら、太い幹は手を使って扱く。
既に手塚の場合は大人のそれと見劣りしないまでに成長していて、リョーマはゴクリと喉を鳴らす。
「…いつもこれが俺の中に入っているんだよね」
「ああ…」
想像したのか、リョーマの手の中で質量を増した。
「…挿れたくなった?」
「当たり前だ」
「ん、わかった」
手塚の雄から手を放すと、リョーマは立って自ら穿いていたパンツと下着を脱いだ。
「…慣らして?」
「ならば、リョーマ…」
指を差し出した手塚の意図が読めたのか、リョーマはその指を口に含んで舐め回した。
「…んぅ、あっ、ああ…」
脚を大きく開いて手塚の上に跨っているリョーマの後孔に、粘着音を立てながら指を差し入れていた。
リョーマがしっかりと濡らしたおかげで、すんなりと1本を飲み込み、今は3本まで増えていた。
明け方まで愛し合っていた身体は、手塚の指をしっかり覚えていて、3本でも物足りないくらいだった。
「…ああっ、あっ…くにみっ」
「どうした?」
「も…いいか…ら…は、早く…」
先ほどから脚に当たっているモノが、堪らなく熱い。
欲望を剥き出しにしてリョーマは強請る。
「ああ、今満たしてやるからな」
根元まで挿れていた指を引き抜き、自身に手を添えてリョーマの秘処に宛がい、空いた片手で腰を掴んだ。
ぬる、とした感触にリョーマはピクンと反応した。
リョーマのあられの無い姿に手塚の興奮の度合いは高まり、既に先端からは透明な体液を零していた。
「…挿れるぞ」
ぐっ、と腰を掴んだ手の力を込める。
「…っ…ああっ…」
小さな蕾は手塚の大きさに広がり、内壁は侵入して来た異物を拒む事無く柔らかく包む。
「…お前の中はいつも熱いな」
「国光のも熱いよ…」
根元まで収めると、リョーマは手塚の脚の上に座り、ゆっくりと腰を動かし始める。
「…く、リョーマ?」
「…うん……今日は…俺がして…あげるから…」
鼻に掛かるような吐息を吐き、リョーマは手塚の肩に手を置き、少しずつ動きの速度を速めていった。
きつく閉じた瞼、荒い息を繰り返す口は開きっ放しだが、時折乾いた唇を舐める姿に、手塚は目を逸らせない。
「…リョーマ」
「ああっ、あっあっ…んんっ…」
「お前もすごい事になっているぞ」
全く触れていないリョーマのそれも、2人の間に挟まれて切なげに揺れていた。
「…あ、だって…」
リョーマは己の状態に気付き恥ずかしげに顔を背けるが、手塚はやんわりと微笑み、既に張り詰めているそれを片手でそっと握る。
「あっ、ダメッ…あっ…ああああっ…」
手塚が少しだけ扱くと、リョーマは呆気なく絶頂を迎えてしまい、手塚を受け入れている部分が、ぎゅっと締まる。
「……く……はぁ…」
手塚も誘われるようにリョーマの内壁に己を放っていた。
「…国光…」
「どうした」
手塚の胸に頭を乗せてリョーマは荒い息を整えていた。
ソファーの上での行為はあれっきりでその後は部屋に移動し、ベッドの上で何度も交わった。
終わってから時計を見てみれば、今日が終わる時間まで残り1時間になっていた。
「…生まれてきてくれてアリガト…」
言わなくてはいけない言葉がある。
リョーマは今しか無いと、その言葉を口にした。
「リョーマ」
「…俺と出会ってくれて、俺を好きになってくれて…ありがと…」
少しだけ身体を起こし、手塚の目を見つめたまま、最後の最後でリョーマは手塚に今の自分の想いを告げた。
「…お前と出会え、好きになって良かった。生まれてきて本当に良かったと心から思うよ…」
自分も同じ気持ちを持っているのだと、手塚はリョーマに伝えた。
上気した頬に手を添えると、リョーマは満面の笑みを手塚の為だけに作る。
「…国光…大好きだよ…」
軽くシャワーを浴びて汗と体液を流した2人は、ベッドの中で眠気が訪れるまで会話をしていた。
「次はリョーマの誕生日だな」
今年の手塚の誕生日は終ったが、まだリョーマの誕生日が残っている。
「…絶対に予定を入れないでよ」
「ああ、わかっている。そんな大切な日に他の用など入れられるものか」
例えその日に用が入っても手塚は全てを断るだろう。
何よりも優先したい、愛する恋人のバースデー。
誰よりも先に「おめでとう」を言い、この両腕で想いのままに強く抱き締めたい。
「…まだ二ヶ月も先なんだよ?」
「関係無いな。不安なら約束でもするか…リョーマ、右手を出せるか?」
「…右手?」
布団の中から右手を出すと、手塚はリョーマのしなやかな身体を抱き寄せて、リョーマの右手の小指を自分の小指に絡めた。
「これって指切り?確か…嘘吐いたら針千本ってヤツだよね?」
「そうだ。知っているのか?」
「向こうで母さんに良くやらされた」
「そうなのか…」
アメリカではこのような風習は無いが、母親が日本人である為に、幼い頃は良くやらされていた。
テニスと女にしか興味が無い父親は、約束していた用事を忘れる事が多く、リョーマにその性格が移らないように母親が手段として使っていた。
実際にリョーマが嘘を吐いてもその通りに針を飲ませたりはしないが、代わりに嫌いな物ばかりが食卓に並んだり、早寝早起きを強要され、嘘を吐く事は自分にとって不利になるのだと早々から理解していた。
「じゃ、約束しよ」
「ああ…」
こんな子供みたいな約束をしなくても、手塚はリョーマのバースデーを当たり前のように祝うだろう。
自分の時と同じように、リョーマにも最高の1日を過ごして欲しい。
手塚の胸の中にあるのは、それだけ。
それを叶える為の二ヶ月以上の日々は、手塚にとってはただの準備期間に過ぎなかった。
「えっと、嘘吐いたら針千本…飲〜ます。指、切った」
リョーマはリズムを付けてその台詞を言うと、絡めたままの指を軽く上下に振ってから離した。
「お前がしてくれたように、俺もお前の為に最高のもてなしをしよう」
「ありがと、国光…」
嬉しそうに微笑むリョーマは、ベッドの中をゴソゴソと動き、手塚の胸にピッタリと引っ付いた。
「眠くは無いか?」
寄り添うリョーマの背中を撫でる。
「…ちょっと眠くなってきた…」
背中の手の動きと手塚の体温により、漸くリョーマに眠気が訪れてきた。
「そうか、そろそろ眠るか」
「うん、そうする」
「お休み、リョーマ。良い夢を…」
「…国光も俺の夢でも見てね。お休み…」
冗談っぽく口にすると、リョーマは手塚の頬に自分の唇を軽く押し付けた。
2人は寄り添ったまま、幸せな夢の中へと沈んで行った。
誰にも邪魔されず2人きりで過ごした1日は、こうして終りを告げた。
「…ん、もう朝か…」
雲一つ無い快晴の空から降り注ぐ朝日が、慌しく閉められたカーテンの隙間をぬって室内を照らす頃、手塚は目を覚ました。
「…6時を過ぎたか…」
時間を確認する為に少し起き上がると、寝る前の濃厚な触れ合いによって軽い倦怠感が残っているのに気が付いた。
嫌な感じでは無い。
むしろ昨日の出来事が夢ではなく現実なのだと、身体中で確かめられた。
今日くらいはゆっくりしようと、隣で規則正しい寝息をたてているリョーマを起こさないように、細心の注意を払って布団の中に戻った。
「…可愛いな」
リョーマの幸せそうな寝顔に自然と顔が綻ぶ。
この寝顔を間近で拝める幸福感に包まれながら、再び瞼を閉じた。
流石に朝は少し遅く起きてから2人で朝食を作り、昼になるまでの間で洗濯と掃除をし、空いた時間はお互いに触れ合っていた。
料理をしていても、洗濯物をたたんでいても、何をするのにも傍にいるのは唯1人。
「国光…」
買い物の時に購入した雑誌をペラペラと捲っていたリョーマは、おもむろに手塚の名前を口にする。
「どうした?」
「何でもない、ちょっと呼んでみただけ」
小説を読んでいた手塚は、微笑を浮かべてリョーマの肩を抱いた。
「…リョーマ」
「ん?何」
「呼んでみただけだ」
手塚もお返しとばかりにリョーマの名前を呼んでみた。
リョーマは大きく目を見開いた後、小さく笑った。
大好きな相手と過ごす幸福な時間は、あっという間に過ぎていった。
『その次も、またその次も…こうやって国光の誕生日を祝いたい。出来れば2人きりで…』
リョーマの願いが永遠のものになるのは、まだ先の事。
わかっているのは、これがリョーマだけの願いでは無く、同じように手塚も望んでいる事。
そして今年限りにはならない事。
2人で作る、2人だけの幸せな時間。
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