それはほんの些細な出来事から始まった。
「越前か?」
青学男子テニス部は都大会の1日目を終えて、今は2日目に向けての猛特訓の最中だった。
おかげで土曜日も日曜日も練習の為に休みなど無い状態で、毎日がテニス三昧となり、傍目ではわからないが、部員の中には少し疲れが見受けられる者が出始めたところで、顧問の竜崎スミレから『次の日曜日は休みにする』とのありがたいお言葉を頂いた。
但し、『休みだからって遊び惚けていると、痛い目に会うのは自分だからな』との付け足しもあったが。
そんな貴重な休み時間を有効に使おうと、手塚は行き付けの書店に立ち寄り、前々から購入しようと目論んでいた洋書を手に持ち、帰宅の道を歩いていた。
住宅街とあって、それほど人の往来も車の進入も多くない自宅周辺で見掛けたのは、1年生で異例のレギュラー入りを果たした越前リョーマだった。
異例というのか、部長である手塚自らが規則を破って、レギュラーを決める為のランキング戦にその名前を入れたのだ。
手塚の予測通り、リョーマはその時レギュラーだった3年生の乾と2年生の海堂を破り、レギュラーの座を手中に収めたのだ。
「…あ、手塚部長」
どうやら相手もこちらに気が付いたようで、挨拶なのか小さく頭を下げてきた。
愛用しているテニスバッグを肩に担ぎ、学校指定の物とは違う淡いピンク色のジャージの上と、常の部活でも使用している黒のハーフパンツ、そして愛用の白い帽子を身に着けた少年は、小柄な割りには遠目から見てもかなり目立っていた。
「こんな所で何をしている?」
とりあえず近寄って話し掛けてみた。
「えと…」
休日だから何をしていても関係ないのに、自分の口から出たのは、部活の部長としての口調だった。
海外育ちだったリョーマは、日本での伝統的な上下関係など気にしないので、この口調はかなり機嫌を損ねる原因になると思ったが、リョーマは手塚の台詞に全く反応せず、何やら道端の一点に集中していた。
一体何だろうと、リョーマの目線の先にあったものに目を向けると、そこには小さな塊があった。
「…猫か?」
「…っス、この先にあるオートテニス場に行こうとしてたら、丁度車に…」
その後の言葉が続かなかったのは、目の前で撥ねられたのを見てしまったからだろう。
まだ生まれて数ヶ月の子猫は、ぶつかった衝撃により即死状態だった。
ぶつかったついでに、タイヤに踏まれて無残な姿を晒していなかった事が唯一の救いだろうが、こんな事は日常的に起こる出来事だ。
一体何がこの少年の中に生まれたのだろうか?
…分からない。
「越前?」
あまりにも真剣に見つめているので、手塚は再び呼び掛けてしまう。
「……部長も知ってると思うけど、俺も猫を飼っているんですよ」
「あぁ、確か毛の長い…何と言う種類なんだ?」
暫く間が空いてから、手塚の呼び掛けに反応したリョーマの台詞に、少し前に何故か部室内で寝ていた猫を思い出す。
ついでに他の用もあった事から、桃城達と家まで届けに行ったのだ。
その長毛から日本猫では無いのは手塚でもわかるが、それほど猫には詳しくないので、リョーマの飼い猫の種類まではわからなかった。
下手に誤魔化すよりかは、直接訊いた方が早い。
「ヒマラヤンっス、カルピンっていうんですけど、あっちに居た時から飼っているんで、やっぱりこういうの見ちゃうとすごくショックなんスよ。で、このままにしておけなくて…」
リョーマは饒舌では無いが、自分の好きな部類になるとやはり舌の動きは滑らかになるらしく、どうしてここに突っ立っているのかの説明までしてくれた。
「…部長、この辺でどこかに埋められる場所ってありますか?」
立って見ていたリョーマが、バッグの中から白いタオルを取り出して子猫の前に座り込んだのを見て、何をしたいのかを理解した手塚は、近くの公園を紹介した。
「越前、バッグを寄越せ」
場所を説明しても、この辺りに詳しくなさそうなリョーマでは下手したら辿り着けないかもしれないと、手塚は道案内と荷物持ちをかって出た。
「ども…」
タオルに包まれた子猫を両手で抱えているリョーマは、手塚のそんな優しい一面を見て、ほんの少しだけ口の端を上げると、ペコリと頭を下げた。
暫く歩いて到着した公園は、都内にあるとは思えないほど広々としていて、子供達が遊ぶ為よりも大人が殺伐とした日々を癒す為に作られた場所に等しかった。
特に広場のような場所は、大型犬との戯れには丁度良い広さだった。
「へー、いい所っスね」
「…あぁ」
どこを見ても緑が多く、柔らかな空気に包まれていた。
排気ガスで汚れた空気を、この緑達が隅々まで綺麗にしてくれるのか、ここの空気はとても爽やかだった。
「ここならいいだろう」
リョーマを連れ立って歩いていた手塚は、園内でもかなり奥まった場所にある大きな樹木の真下を指で差した。
「…そっスね」
まるで小さな森のような空間は、時折聴こえる鳥の囀りと風が木々を揺らす音意外は何も耳に入らない。
こんな人の気配が少ない場所を選んでくれた手塚に、胸の中でこっそり感謝しながら、リョーマは子猫をそっと地面に降ろし、素手で掘り出した。
「お、おい、越前」
それには流石の手塚も面を喰らってしまったようで、慌てた声を出した。
「えっ?」
手が汚れる事など全く気にしないリョーマは、意外と柔らかい土の感触に安心しながら地面を掘っていた。
「お前はテニスプレイヤーとしての自覚が無いのか…」
この行動によって、もしも爪が割れ、しかも指に怪我でもしたら、手に充分な力が入らなくなり、グリップを握る力が弱まってしまう。
次の試合までそれほど日付が残っていないのを、この少年は理解しているのか?
「仕方が無いな」
言葉で説明すれば簡単に理解をしてくれても、この少年にとっては全く意味の無いものだろう。
小生意気な少年は、勝手気ままな行動を取るのがとても得意なのだから。
はぁ、と大きな溜息を吐きながらも、手塚はリョーマの横に座り、持っていたバッグと本の袋を置いて同じように土を掘り始めた。
「…部長だって」
まさか手伝うなんて思わなかったリョーマは、まじまじと手塚の顔を見ていた。
「……偶にはな…」
それっきり言葉を交わさずに黙々と土を掘ると、少しの時間ですっぽりと隠れるまでの穴が出来上がった。
「これくらいでいいだろう」
深く掘れば掘るほどに、土は固さを増していく。
これ以上は本気で怪我をしてしまいそうになり、手塚は掘るのを止めさせた。
「…そうっスね。次は可愛がってくれる人と出会えますように」
普段からは想像もつかない台詞を口にするリョーマの表情を盗み見た手塚は、思わず息を飲んだ。
リョーマは手塚の様子を気にする事は無く、慎重に穴の中に子猫を入れ、掘り出した土をゆっくり被せ始めた。
「…えーと、バッグ…あ、あった」
掘り出した土を全て被せ、簡単に掘り返されないよう、少しだけ固く抑えた後、ごそごそとテニスバッグの中を漁ると、どこからか茶封筒を取り出した。
何をする気なのかと、ただリョーマの行動を眺めていた手塚は、リョーマが封筒の中から線香とマッチを取り出したのに眉をひそめた。
リョーマは子猫の分、少し盛り上がった直ぐ下に、線香の先を少しだけ折ってから火を点けて置いた。
「まさか、いつも持っているのか?」
全ての行動を見終えた後に手塚は口を開く。
ラケットなどが入っているはずのテニスバッグに、全く関係の無い封筒が入っていて、その中には数本の線香とマッチが入っているなんて誰も思わないだろう。
「…これでも一応は仮ですけど住職の息子なんで、でも学校には持って行かないっスよ」
持ち物検査をされて、こんな物が出てきたらきっと教師だってビックリするに違いない。
休みの日だけこっそり持っていて、寿命ではなく事故で天に導かれてしまった小さな生き物をこうして弔っているのだと、リョーマは手塚に説明する。
「そうか…」
意外な一面を訊かされた。
もしも自分が発見者だったらどうするか?
きっと、そのまま見捨ててしまうに違いない。
いや、実際に見捨てた事は何度かある。
「もしかして…火事になったりするかな…」
木々に覆われているこの場所に、火が点いたままの物を置き去りにするのは気が引けるのか、リョーマは手塚に訊ねてみた。
「これくらいなら火事にはならないだろう」
「そうっスか…」
上空の枝や葉はゆるい風に揺れているが、地面に近付くにつれて風は弱まっていた。
「…あの、手を洗えるところってありますか?」
手塚の答えに安心したリョーマは、暫く線香の煙を眺めてから立ち上がった。
「あぁ、こっちだ」
リョーマの行動を知り、少しだけ今までの自分に反省をした手塚は、手に付いた土を軽く払い、公園内の手洗い場に連れて行った。
「今日は本当にありがとうございました」
公園から出て、オートテニス場に近いところまで送った手塚にリョーマは礼を告げた。
「いや…」
「じゃ、俺行きますんで」
最後にまたペコリと頭を下げてから、リョーマは歩き出した。
その後ろ姿を見つめ、手塚は自分の中に不可解な感覚が芽生え始めてしまった事に、動揺していた。
子猫に向けていた視線は、何とも切なく儚げであった。
部活では絶対に見せないその表情に、釘付けになったのは事実だった。
別れる時に見せた鮮やかな笑顔にも、同じように釘付けになったのも事実だった。
「…俺は何を考えているんだ…」
そんな表情をもっと見たいと思ってしまった自分に、持っていた本の袋で頭をコツンと叩くと、手塚は家に向かい歩き出した。
「…あいつもあんな顔をするんだな」
歩きながらも意識してしまう。
部活の最中、いつも生意気で勝気な顔だけを見ていた手塚にとっては、初めて見た表情だった。
「…他の奴等にも見せているのだろうか…」
己の言葉にチリリと痛む胸の正体は何だろう?
数日後、その正体が『恋』だと気付く。
「なぁなぁ、このニャンコっていくつ?」
夕方の部活が終わり、着替えていたリョーマに話し掛けたのはベンチに座っている菊丸だった。
リョーマが愛猫の写真を常に持っているのを耳にした菊丸が、強請って見せてもらっている最中だ。
「…二歳っスよ」
「へ〜、その割りにはちょっとデカイよな」
遅刻常習犯のリョーマの家に迎えに行く桃城は、何度も見たリョーマの愛猫の姿を頭に浮かべていた。
初めて見た時に『白い狸だ』と、口に出した事はリョーマには絶対に秘密。
「ただの食べ盛りっスよ…桃城先輩と同じっス」
愛猫をバカにされた気がして、リョーマは反撃に出る。
「おいおい、俺と猫を一緒にするなよな」
軽く髪をセットし直していた桃城は、リョーマの台詞にガクリと肩を落としていた。
「ニャンコと同じ歳なのに、おチビはこんなにおチビちゃんなんだにゃ〜」
くくく、と菊丸は声を抑えて笑う。
「…菊丸先輩、写真返して下さい」
「イヤだよ〜ん、だって本当のコトじゃん」
全身が映っているものや顔だけの写真に加え、リョーマが胸に抱いている写真など数点。
愛らしい姿に菊丸の頬は緩みっ放しだった。
「チビで悪かったっスね」
反対にリョーマの顔は、ムスッとしてしまう。
そんな会話を繰り返していると、唐突に部室の扉が開いたので、3人は同時に扉の方を見る。
「あれ?まだいたのか。てっきりもう帰っていると思っていたよ」
扉から入ってきたのは副部長の大石と、
「お前達か…」
部長の手塚だった。
この2人は竜崎の元へ部誌を届けに行っていた。
「大石も手塚もお疲れサン。今さ、おチビにニャンコの写真を見せてもらってたんだよ」
ほら、と菊丸が差し出した写真を2人は見てみる。
いつもならとっくに校門を出て、買い食いに走るところだが、コート整備の終わりを待っていたらこんな時間になってしまったのだと、菊丸は笑いながら説明した。
「この前見た越前の飼い猫か…」
「毛がふっさふさですんごく可愛いよにゃ〜。今度おチビの家に遊びに行きたいにゃ」
動物なら何でも大好きなのだが、猫は特に好きらしい。
ペットショップの定員にしっかり名前を覚えてもらえるほど通い詰めて常連さんになっているが、家では飼えないらしく、ただ眺めているだけだ。
「大石はお魚さんだけだし、不二は問題外のサボテンだし、あと何か飼ってるって奴ここにはいないからね」
こんなにペットブームなのに、テニス部の中でペットを飼っている部員はリョーマしかいない。
「不二んとこのおばさんだったら、小動物とか好きそうなのにな〜、にゃんで飼わないんだろ?」
ぶつぶつと他人の家に対して文句を言ってしまう。
たまに不二の家に遊びに行くと、あまりにも広々とした家の造りに、ついあんぐりと口を開いてしまう。
「玄関入ったら、白い子犬とか出てきそうなのに…」
勝手に人の家を自分の理想に変換させているが、実際にはただの妄想に過ぎない。
「不二に話してみたらどうだ?」
あまりにも文句の声が大きくなるので、そのうち手塚から怒声がとびそうな気がして、大石が口を挟んだ。
「一回だけ言ってみたけど、何かおばさんが家で飼うのが好きじゃないみたいでダメだった」
「そ、そうなのか…残念だったな」
はー、と俯いて溜息を吐く菊丸を慰める。
しかしこんな事で落ち込む菊丸英二ではない。
「やっぱ腕に抱いて、こう…ぎゅーって出来るのがいいんだよ」
キラキラと目を輝かせて、リョーマを見つめる。
続いてジェスチャーを盛り込んで、上目遣いでリョーマを見れば、『仕方ないな』と、息を吐いていた。
「…次の休みの時でいいっスか?」
あまり家に人を呼びたくないが、愛するペットを褒められてリョーマの機嫌はすっかり直っていた。
「やったね、桃も行く?」
リョーマからOKの返事をもらえると、菊丸は両手を挙げて喜んでいた。
「あー…、次の休みになったら用事があるんすよ。ちょっと約束しちゃって…」
「ふーん。もしかしてデート?」
「ち、違いますよ。ちょっと弟達と…」
菊丸の怪しむ目付きに桃城は焦って否定する。
「にゃーんだ、つまんない。桃が女の子とデートするんだったら、ちょっとからかってやろうと思ったのに」
「からかおうって…英二先輩、ヒドイっすよ」
つい先日、弟達にせがまれて休みになったら遊園地に連れて行くと約束を交わしてしまったのを、桃城はしっかりと説明しておいた。
「大石は?」
「俺も駄目だな…」
「うえ〜、何で?」
桃城に続き大石まで断られて、ちょっとご機嫌斜めになってしまう。
「何でってな、俺にだって用くらいあるさ」
こちらは家族で出掛けるらしい。
「ちぇっ、つまんないな〜…まぁ、手塚は来ないよな。じゃぁさ…」
「越前さえ良ければ行かせてもらおう…」
時間を決めようとしていた菊丸に、手塚は耳を疑う台詞を告げた。
「うにゃ!マジで?」
初めから手塚は来ないリストに入れていた菊丸は、ビックリ眼で手塚をしげしげと見つめた。
「何だ?俺が行っては駄目なのか」
「手塚が来るなんて全然思ってなかったから…」
どうやらそれは菊丸だけでなく、他のメンバーも同じ意見だったようで、うんうんと頷いていた。
「ま、いいや。じゃ、一緒におチビんとこ行こう」
「…何だか意外だったな」
自宅へ戻るとまずは着替える為に部屋に入った。
あの後、それこそ珍しく手塚達を連れて、バーガーショップへ行き、それから家に帰ったリョーマが自室で着替えながら、部室内での会話を思い出していた。
「部長がお前に会いたいんだってさ」
リョーマの後を追いかけるように、部屋に入って来たカルピンの背中や喉を撫でながら話し掛ければ、気持ち良さそうに目を細めて、ゴロゴロと喉を鳴らす。
「あの時も…」
数日前の日曜日に、不憫な死を迎えた子猫を2人で弔ってあげた時も、部活では知り得なかった優しい面を見てしまった。
「まさか、手伝ってくれるなんて思わなかったよ」
晴れた日でも雨の日でもいっつも1人で行っていた。
誰もが興味本位でその姿を見て、後は知らん振りを決め込むのに、彼は最後までリョーマを手伝ってくれた。
その時に胸に流れ込んで来た、不思議な感覚の正体をリョーマは『恋』だと気付いていた。
しかし、それは禁忌の感情、難しい感情。
自分も彼も正真正銘の『男』だ。
菊丸のように、自分を『生意気だけど可愛い後輩』と認めてじゃれてくるのには、こちらも『先輩の癖に自分よりも子供』と決めて相手をしているが、手塚は…違う。
『先輩』で『部長』で、『自分よりも大人』なのだ。
「どうしよう…俺って」
愛猫を抱きかかえて、リョーマはその柔らかな毛並みの中に頬を寄せる。
アメリカにいた時は、幼稚ではあったが確かに異性に対して恋愛感情を抱いていたはずだ。
同じスクールに通っていたポニーテールが似合う女の子に淡い恋心なるものを生まれて初めて抱いた。
それなのに今は、いつも難しい顔をしながら腕を組んでいる『あの人』がこんなにも気になるなんて。
そもそも恋愛の定義としては、男と女が行うべき事で、同性同士では恋愛と言えない…らしい。
これは辞書で調べた内容なので、当たり障りの無い説明でなくてはならないから『男女』と、記載されているが異性愛じゃなくて、同性愛だって今じゃ当たり前のようにそこら辺にある。
だからといって、同性愛が認められているのとも違う。
本当に難しい。
「でもさ、恋じゃ無かったらこの気持ちってなんだろうな、ねぇカルピン…」
「ほわ〜」
大好きなご主人様に抱かれ、頭や喉を撫でられて、カルピンはとても幸せそうな甘えた鳴き声を出していた。
「…そういや、カルピンも一応は男なんだよな…」
今更のように思い出し、リョーマはカルピンを両腕で抱えて、じっと見る。
だらーんと伸びた腹をじっと見る。
既にアメリカで去勢してしまったので、完全なオスでは無いが、正真正銘のオス猫。
カルピンは初対面に対してはあまり懐かない。
自分に慣れているのは飼い主として当然で、他にエサをくれる菜々子や母親には懐いているが、父親の南次郎にはあまり懐かない。
懐かないというのか、どうやら嫌っているらしい。
外で会う人も、ほとんど懐かない。
時々フィーリングの合う人もいるらしいが、比較的男でも女でもカルピンの反応は素っ気無いもの。
「あの人はどうなんだろう?」
休みの日のやって来る手塚に、この愛猫はどんな反応を示すのだろうか?
少しは懐いてくれるといいのだけど…。
下手な反応をして嫌な思いをさせたくないけど、今更躾なんて出来ないし、何よりも犬のような躾なんて猫には無理っぽい。
「ほわら〜」
「あぁ、ゴメン…メシ食いに行こっか」
身動きが取れない状態を嫌がるように、じたばたと後ろ足を動かすカルピンを再び胸に抱き締めて、リョーマは食事の為に部屋を出た。
「おっじゃましまーす」
「声が大きいっスよ、菊丸先輩」
満面の笑顔が眩しい菊丸の大きな声が、越前家の玄関に響いていた。
約束していた次の休みはかなり後でやってきた。
都大会を優勝の二文字で終わらせ、関東大会に向けてのランキング戦を終えた後だった。
「お邪魔します」
菊丸と違い、キチンと礼をして玄関を入る。
「どーぞ、あっ、スリッパ…」
リョーマは慌てて客用のスリッパを2人分出した。
約束通りリョーマの家にやってきたのは、菊丸に手塚という何とも珍しい2人組。
大石や桃城にもう一度誘ってみたが、結局は休みが遅くなっただけで、あの時に話していた予定がそのまま延びた状態になっただけだった。
「越前、ご家族はどうした?」
出迎えたリョーマにそのまま部屋に案内されて中に入るが、手塚としては礼儀として先に両親に挨拶をしておきたかった。
何よりも伝説のプレイヤーの姿を、一目でも見ておきたかったのがあった。
「親父も母さんも2人して出掛けているし、えっと、従姉妹の菜々子さんも、大学のサークル仲間と出掛けてるから、今は俺だけっス」
「従姉妹って?おチビんとこで一緒に住んでるの」
リョーマの部屋の中をジロジロと観察していた菊丸が、おや、と首を傾げて訊ねた。
「何か、ここの方が自分の家よりも大学が近いかららしいっスよ。じゃ、菊丸先輩ご希望のカルピン連れて来るんでちょっと待っててクダサイ。あ、好きなところに座っていていいっスよ」
菊丸の疑問ついでに、簡単に家族構成を説明すると、リョーマはカルピンを連れてくる為に、さっさと部屋から出て行ってしまった。
「…あっ、トロフィーがあるにゃ〜」
2人だけだとなんとなく居心地が悪いのか、菊丸は座らずにしきりに部屋の中を見ていた。
丁度タンスの目を向けた瞬間、ゴロリと並ぶ優勝の証を発見し、おもむろに近寄ってみた。
「すっごいにゃ〜、あっちでの優勝トロフィーかぁ」
無造作に置かれたトロフィー達を見て、リョーマの実力の凄さを改めて認識する。
手塚は菊丸が部屋を荒らすのではないかと、幾分かヒヤリとしたが、今のところは普通に見ているだけなので、自分はベッドのすぐ脇に座り込み、視線を床に向ける。
「…ん、これは?」
手塚が見つけたのは、黄色の棒の先にフサフサとした綿のような物が付いている物体。
床に落ちていたのか、置いていたのか、わからないそれを手に取ってみる。
「…猫じゃらし?」
使い込まれたペットの遊び道具に、リョーマがどれほど愛猫を大切にしているのかを知る。
「何ソレ?あっ、猫じゃらしだー」
トロフィーから猫じゃらしに意識をむけた菊丸は、キラキラと目を輝かせていた。「あぁ、床にな…」
「見せて、見せて」
「…ほら」
手塚から猫じゃらしを受け取ると軽く振ってみた。
「これは、なかなかイイ物ですな〜」
ふむふむと自分が猫じゃらしで遊んでいると、ドアが開きリョーマがカルピンを抱えて入って来た。
「お待たせしました…って、何で菊丸先輩がそれで遊んでいるんスか。あっ、カル…」
胸の中で大人しくしていたカルピンが菊丸の揺らす猫じゃらしに反応して、腕の中からぴょこんと飛び出た。
そのまま菊丸の足元に歩き、目線は猫じゃらしに夢中になって飛び付いている。
「おお〜、待ってました〜」
更に目を輝かせてカルピンの前にしゃがみ込むと、持っていた猫じゃらしをしなやかに動かせば、カルピンの前足はその動きに沿って動き出す。
「まぁ、いいか」
嫌がる気配も無い愛猫に安心したのか、リョーマは手塚の横に座ってみた。
「部長もカルピンと遊びたい?」
夢中になって遊んでいる菊丸を無表情のまま見ている手塚を、リョーマはちょっと気になっていた。
「いや、俺は…」
「やっぱりな」
「やはり、とは?」
ちょっと残念そうなリョーマに今度は手塚が訊ねる。
「部長はあんまり好きそうじゃないから…」
菊丸のような子供っぽい姿を見た事が無い。
だからと言って『子供っぽい手塚』の姿を見たい訳ではないのだが。
「いや、そうでもないぞ。菊丸、すまないが俺にも貸してくれないか」
せっかく来たのに、何もせずに帰るのも勿体無いのか、手塚も少し仲間に入らせてもらう。
「ほいほい」
楽しんでいる菊丸から猫じゃらしを受け取ると、カルピンの前でゆらりと揺らした。
「…へー」
「およよ、上手いもんだにゃ〜」
菊丸がしていた軽快な動きと違い、手塚は小動物より少し大きな動物を思わせる動きだった。
カルピンの動きも今までとは違い、体勢をかなり低くして、動きをじっと見つめている。
じっくり時間を掛けて揺らすと、猫じゃらしを急に高く上げた。
「うわっ」
「おチビ!」
「大丈夫か、越前」
その動きにカルピンが勢いよく飛び掛かったが、丁度それがリョーマの目の前であった事から、カルピンの身体はリョーマの顔に激突していた。
「いてて…」
その衝撃のまま、カルピン共々後ろに倒れ込んだリョーマの顔を、カルピンは謝罪とばかりにペロリと舐める。
「…だいじょーぶだよ、カルピン」
くすくす笑いながら、リョーマは愛猫の頭を撫でる。
ひょいと起き上がると、心配そうな顔をしている2人にも笑顔を見せた。
「部長がこんなに猫じゃらしを上手に扱えるなんて、すごく驚きましたよ」
床に転がった事で乱れてしまった髪を簡単に直し、自分の見上げているカルピンの背を撫で上げる。
「ホントだよにゃ〜」
自分の方が動物好きだから絶対にウマいハズだと、勝手に決め込んでいる菊丸としては、かなり悔しかった。
「…釣りに似ているからな」
魚をおびき寄せる行動と何も変わらないから、手塚としては簡単なものだった。
猫じゃらしを目の前でクルクル回してみせるが、カルピンは座っている手塚の膝の上に乗って来た。
「ん?」
「ほわ〜」
すりすりと手塚の腹の部分に頬擦りすると、膝の上でクルリと身体を丸めてしまった。
「カルピンってば部長のコトが気に入ったみたいだよ」
珍しいなぁ、とリョーマが言えば、カルピンはピクと髭を揺らした。
初対面に近い人物にこれほどまでに、懐くのは本当に珍しい事だった。
「えー、ニャンコってば俺よりも手塚がいいのかよ」
「菊丸先輩、ニャンコじゃなくってカルピンっス」
リョーマが菊丸の言葉を訂正すると、カルピンは顔を上げてみせた。
「およ、おチビの声に反応したぞ」
「おいで、カルピン。そこで寝ちゃったら部長が動けないだろ?」
ついでに呼び掛ければ、カルピンはさっさと手塚の膝から下りて、嬉しそうにリョーマへ飛び付き、ゴロゴロと喉を鳴らした。
「やっぱりご主人サマが一番なんだにゃ」
感心した菊丸が、カルピンとリョーマを交互に眺める。
「じゃ、おチビまた明日にゃ〜」
「長い時間、邪魔をしたな」
半日ほどの時間をリョーマの自宅で過ごした2人。
カルピンが飽きるまで遊びつもりだったが、今日はそれほど遊びたい気分でなかったのか、一時間も過ぎないうちにリョーマのベッドで昼寝タイムに入ってしまった為に、途中からはゲーム大会となってしまっていた。
テニスでは勝てない菊丸が「これなら俺が勝てる」と、ゲーム初体験の手塚に無理矢理に近い形で格闘ゲームをやらせてみたが、案の定あっさりと覚えてしまい、反対にやられていた。
「いーえ、すごく楽しかったスよ…。あの、菊丸先輩も手塚部長もこの後って用事があるんスか?」
このままお別れ、かと思ったが、突然リョーマがこの後の予定を2人に尋ねた。
「俺は兄ちゃん達と出掛けるけど」
「俺は特に無いが…」
手塚の返答に、ぱっと顔を明るくした。
「だったら、少し打って行きません?」
目の前で素振りの真似をしてみせた。
リョーマはこの後何も無いから暇なのだ。
それならここで用事の無い手塚を捕まえておけば、少しは時間潰しになる。
「…まぁ、構わないが…」
今日の服装もシャツとチノパンといった、かなりの軽装だった為、少しくらいの運動なら大丈夫だ。
「いいなぁ、おチビとテニスなんて。ちぇっ、俺も用が無かったら絶対にやりたいのに。あっ、ヤベ、時間になっちゃう」
羨ましそうな顔で2人を見ていた菊丸だったが、兄との約束の時間が迫っていた為に、早々に帰宅して行った。
「…あの、親父ので良かったら着替えますか?」
たとえラフな服装よりも、何かに着替えた方が良いだろうと、リョーマは提案してみた。
今はあんなにだらしない格好でリョーマの相手をしているが、以前父親が使用していたジャージなどは、母親が大切にしていて未だに捨てずにタンスに取ってあるのだ。
季節毎の服を入れ替えている時に「着ない物をいつまでも残しておいても邪魔になるんだけどね」と、見る度に自分に言い聞かせていても、必ず元に戻している。
言葉では無用の長物などと言っているが、大切な思い出の一つらしい。
「…サムライ南次郎さんの物をか?」
偉業を果たした人物の服を借りるのは、少々気が引けるようで声のトーンが少し低くなっていた。
「その名前ってどうなの?」
天衣無縫なテニスをする父親に付けられたネーミングにリョーマは口を尖らせる。
「嫌なのか?」
「嫌も何も、比べられるのがムカツクんだよね」
珍しい名字に加え、そのプレイスタイルからリョーマの素性が簡単にわかってしまうらしい。
雑誌の記者や父親のファンだった人物から、何度も何度も『サムライの再来だ』と言われ、父親の影ばかり見て自分を見ない。
父親が世界で活躍していた事は認めているが、それを息子である自分と重ねられるのは気に入らない。
「ならばお前は自分のプレイスタイルを創り上げればいいだけだ」
「俺の?」
「そうだろう?お前は越前南次郎のコピーではなく、越前リョーマなのだからな」
リョーマの苛立ちが手に取るようにわかった手塚の台詞は、今までサムライの息子だという事に対して嫌悪感を抱いていたリョーマの心を軽くした。
「部長ってすごいね…」
感心したように、にこ、と小さく笑うリョーマに手塚の胸は踊る。
「当たり前の事を言っただけだ。それと服はこのままで構わないからな」
つい話が脱線してしまったが、服についてはしっかりと断っておいた。
「そうだけど、それでも何かスゴイ。じゃ、服はそのままでいーんスね。…あっ、俺ラケット取って来るんで、ちょっと待ってて下さい」
誘ったのは良かったが、ラケットもボールも用意していなかったのに気付き、慌てて家の中に入って行く。
パタパタと階段を駆け上がっていくのを眺め、手塚は芽生え始めた想いの正体を再確認していた。
あの少年の笑顔を見るだけで、動悸が早まる。
それは何とも心地良いスピード感。
手塚はそっと瞼を閉じて、鮮やかな笑顔を脳裏に浮かべてみる。
この家の中に仄かに漂う彼の気配にも、動悸が跳ねる。
自分らしくないこの感情に、薄っすらと笑みを零した。
「部長?」
階段の上から手塚の様子を見ていたリョーマは、瞳を閉じている手塚に呼び掛けてみた。
「あぁ、すまないな」
つい、自分の世界に入り込んでしまった。
「もしかして調子が悪いんスか?」
一気に階段を駆け下り、リョーマは手塚の顔を覗き込んでみる。
「いや、少し考え事をしていただけだ」
深く考え込んでしまったらしく、こちらを見つめる瞳は不安で揺れていた。
こんな表情もするのだと、手塚は新たなリョーマの一面を手に入れていた。
「考え事?それならいいけど…あの、俺とするのが嫌だったらはっきり断ってくれていいっスよ」
本当は帰りたいのに、自分に合わせて無理矢理残ってくれたのではないかと危惧してしまう。
手塚ほどの責任感のある者なら、やりそうな事だからリョーマは何だか不安になる。
「そんな事は無い。むしろ楽しみだ」
関東大会を前にリョーマの成長ぶりを、自分の目や身体で実感できる貴重な時間。
これはたった一度だけ試合をしたリョーマの、今の姿を見られる絶好のチャンスなのだ。
「本当に?」
「本当だ」
越前南次郎しか見ていなかった父親のコピーではなく、その上を見始めた越前リョーマなのだと、この目で確認したい。
「だったら、いーけど」
とりあえず嫌々じゃなさそうだ。
それに手塚だったら少しでも嫌だと感じたら、何が起きても直ぐに断るだろう。
「では、準備運動から始めるか」
「そっスね」
簡単な運動をすると、寺にあるクレーコートでは、ボールを打ち合う音が聴こえ始める。
「越前、次はサーブを打ってみろ」
「…っス」
「次はスマッシュだ…ロブを上げるぞ」
手塚が出す様々な注文にリョーマは、何も言わずに応えていく。
初めてリョーマのラケットを貸してもらったが、見た目はとても鮮やかな色をした綺麗なラケットなのに、見た目と反してかなり使い込まれていた。
ガットの張りも申し分なく、グリップも握り易い。
普段の手入れが行き届いている証拠だ。
手塚としてはかなり軽めのラケットだが、今のリョーマには丁度良い重さだった。
「越前、この辺で良いか?」
ただの打ち合いだったし、何よりも手塚が私服であった為に、1時間ほどで2人はラリーを終えていた。
「ありがとうございました」
「いや、俺の方も有意義な時間を過ごさせてもらった。礼を言わねばならないな」
コートの横にある古びたベンチに腰掛けて、2人してタオルで汗を拭いている。
「越前」
「何スか」
顔を拭きながらチラリと手塚に視線を向ける。
「良いラケットを使っているな」
貸してもらったラケットをリョーマに返す。
「…そっスか?」
ラケットなんてどれも一緒だし、それに手塚ほどのプレイヤーならどんなラケットでも持ち主以上に使いこなせるだろう。
「そういえば、お前も一度あったな」
「…?…もしかして、荒井先輩との…」
そんな事あったけ?と、記憶を巡らせてみれば、たった一つだけ思い浮かぶ出来事があった。
まだ入部したての頃のちょっとした事件。
多分この事を言いたいのだろうと、口にしてみる。
「そうだ」
当たりだった。
まだ『生意気』だけの後輩だったリョーマに、これからの青学を担う選手になれるだけの『力』を見た。
1年生でありながら、上級生に負けないほどの技術や精神力を既に身に付けていた。
「ラケットなんてどれも同じっスよ」
あの時使ったラケットは、ガットはゆるゆるでフレームもガタがきていた年代物のラケットだった。
だが、リョーマはそんなラケットの性質を見極めて、自由自在に使いこなしていた。
「お前らしいな」
「部長だって同じでしょ」
ラケットにはそれぞれ持ち主の拘りがあり、人によっては扱いにくい物もあるが、手塚はリョーマのラケットをいとも簡単に使っていたのが良い証拠だ。
「今度は部長のラケットを使ってみたい」
「あぁ、いいだろう」
「マジで?嘘みたい…」
珍しい反応にリョーマがじっと手塚を見つめても、手塚は全く気にしなかった。
結局、夕方までリョーマの家で過ごした手塚は、西の空が朱に染まる頃に帰宅する事になった。
「今日は長い時間すまなかったな」
リョーマからの申し出ではあったが、思わぬ収穫が出来て、手塚としては満足ゆく結果になった。
「いーえ、すごく楽しかったっスよ」
「そうか」
結局、この時間まで両親も従姉妹も戻って来なかった。
かなりの時間が過ぎたので手塚は少々心配ではあったが、自宅へ戻る事にした。
塀の前で手塚を見送るリョーマの腕の中には、昼寝から覚めたカルピンの姿があった。
かなり手塚を気に入ったカルピンが、部屋からいなくなった2人の姿を追い駆けてコートにまでやってきて、帰ろうとする手塚の足元にクルクルと纏わりついて離れなかったのを見かねてリョーマが胸に抱き上げたのだ。
「カルピンも楽しかったよな?」
訊ねるように愛猫の顔を覗き込めば「ほわ〜」と、いつもと変わらない暢気な鳴き声を上げて手塚をじっと見つめていた。
手を伸ばしてカルピンの頭を撫でると、目を細めた。
「…また来て下さいよ。カルピンも喜ぶから」
撫でられてとても満足そうな愛猫の顔。
「そうだな。また互いに暇があれば、お邪魔をさせてもらうとするか」
頭から手を放すと「ほわら〜」と名残惜しそうにカルピンが鳴いた。
「ではな…」
「はい、今日はホントにありがとっした」
リョーマの鮮やか過ぎる笑顔を眩しげに眺めた手塚は、軽く手を上げて去って行った。
「何だかちょっとは近付けたカンジ?」
手塚が帰って直ぐに帰宅した菜々子によって夕食はいつも通りに済ませ、大好きなバスタイムも終えたリョーマは、ベッドの上でカルピンに話し掛ける。
カルピンは枕の横に座り、リョーマの差し出した指の匂いを嗅ぎ、ペロペロと舐めた。
「ふふっ、気になるあの人に甘えるカルピンにちょっと嫉妬しちゃったなんて、飼い主としては失格かな?」
飼い主なら『自慢のペットが可愛がられて幸せだ』と、思わないといけないのだろうけど、あの時は自分が猫になりたかったくらいだ。
「だって…好き…になっちゃったんだもんね」
“ライク”では無くて“ラブ”だと自覚している。
どう見ても自分のタイプとは掛け離れているのに、惹かれてしまった。
次の休みが楽しみで仕方が無いんだと、口に出して言えるほど、この気持ちは人前に出せるものではないが、誰もいないここならいいだろうと呟いてみる。
「俺…部長が好きなんですよ…うわっ、俺ってバッカみたいだ」
自分が呟いた言葉に顔を真っ赤にすると、リョーマは布団の中に潜り込んだ。
その頃。
「少しは良い印象を与えられようだな」
思いかけず転がり込んで来たリョーマの自宅訪問は、表情にも声にも出さなかったが、手塚の気持ちは浮かれまくっていた。
愛猫との戯れや、軽い打ち合いにどれほどの幸福感を味わえたか。
「…次はもう少し話が出来るといいのだが、カルピンにもどうやら気に入られたみたいだしな」
愛しいと思う相手が可愛がっているペットに嫌われなくて本当に良かった。
ペットは人の感情に敏感だと訊いた。
あの時に敵対心をむき出しにされて引っ掻かれでもしたら、二度とあの家には行けなくなるだろう。
ペットにとって飼い主は、たとえ家族であろうとも誰にも取られたくない最愛の人。
「どうやら、俺は本気であいつを好きになってしまったようだな」
愛猫に向ける笑顔をこちらにも向けて欲しい。
優しく語り掛けるその声をこちらにも聴かせて欲しい。
貪欲になりそうなこの想いを、止められそうも無い自分が少し可愛いと思ってしまった。
「でさー、おチビのニャンコが…」
次の日の夕方の練習時に、菊丸は大石達に楽しそうに昨日の出来事を話していた。
久々にホンモノの猫との触れ合いは、菊丸にとっても楽しい一時だった。
「そうなの?あの手塚がねー…」
「そうそう、意外だったにゃ。すんごくニャンコの扱いが上手だったもんね〜」
菊丸から昨日リョーマの自宅へ一緒に行った手塚の様子を訊いた不二は、なかなか興味深げに手塚のいる方向を見た。
今は生徒会の会議の為にコート内にはいないから、見た方向には校舎があるだけだった。
「でもさ、ニャンコはマジで可愛かったよん」
楽しかった一時を思い出しているその表情は、とても幸せそうだ。
「ヒマラヤンだったよね、確か」
一度だけリョーマを追い駆けて学校まで来てしまい、何故かテニス部の部室で寝ていた事があった。
鳴き声はあまり猫っぽくなかったが、とても毛並みの良い猫だったのは覚えている。
「うん、そうそう。おチビもニャンコをすんごく可愛がってたんだよ」
「そりゃ、自分のペットだからね。前に連れて行った時も安心した顔していたな」
大石も飼っている熱帯魚をとても大切にしているから、リョーマの気持ちは良くわかる。
ペットの前ではその人の性格はコロリと変わる。
性格だけで無く、言葉遣いまで変わる人もいる。
「ま、そうだけどさ。おチビってあんま愛想が無いから普段でもそうなのかなって思ったんだよね。実際に行ってみたら全然違ってて、ちょっとビックリだった」
「…なるほどね。家と外だとやっぱり違うんだ」
どことなく人を食ったような態度をしているが、実際には小柄な自分を態度でカバーしているだけなのだ。
「またおチビに暇な日聞いて遊びに行こうっと」
ラケットをクルクルと器用に回しながら話していた菊丸が、唐突にその動きを止めて走り出してしまった。
「どうしたんだ、英二?」
いきなり走り出した相手を大石が慌てて呼び止めれば、菊丸は顔だけを大石達に向けた。
「おチビが来たんだにゃ」
キラキラと目を輝かせながらそれだけを言うと、猛ダッシュして行ってしまった。
「…越前君が?さすがに視力が良いね。でも、そろそろ手塚が来る頃なんだけどね」
こうして喋っていられるのは手塚がいないからで、手塚が現れたらどうなるのかは、目に見えている。
それに気が付かない菊丸が、どんな目に合うのかが不二には楽しみだった。
「不二ってたまにすごく凶悪になるよな」
「…そうっすね」
久しぶりに不二の黒の部分を見てしまった大石の呟きと桃城の返事は、人知れず空気に溶けて行った。
「やっほーい、おっチビー」
菊丸しか言わないニックネームで呼びながら、コートに入って来た小さなルーキーに抱き付いた。
「うわっ、やめて下さいっ」
今では慣れてしまった行動でも、一応は嫌がっている素振りを見せておかないと、エスカレートしそうだ。
力任せにぎゅうぎゅう抱き付いて来ると本当に苦しい。
「もう、おチビってば冷たいにゃ」
「普通の反応でしょ…」
大袈裟な溜息を何度吐いても、菊丸は全然気にする様子は無くケロリとしていた。
出来れば少しは気にして欲しいところなのだが、この男の性格上、絶対に無理だろう。
(…でも、あの人がここにいなくて良かったよ)
キョロキョロと、視線をコートの端から端まで見てみても意中の人物はここにはいなかった。
見られなかった事に心底安堵してしまう。
「なぁなぁ、またおチビんとこ遊びに行ってもいい?」
初めは正面から抱き付いた菊丸は、くるっと体勢を入れ替えて、今度は背中から抱き締めたままでリョーマに強請る姿は、悪いが上級生とは思えなかった。
「…カルピンっスか?」
「うん。またニャンコと遊びたーい」
すっごく楽しかったから、とニコニコ笑顔で言われてしまえば、リョーマも嫌だとは言えないが。
「菊丸先輩だけっスか?」
「えっ、また誰か連れて行ってもいいの?えーと、やっぱし…手塚とか?」
何気ないその台詞にドキリと鼓動が早まった。
何だか心の中を見透かされたみたいで居心地が悪い。
「ナンで部長なんスか?」
ドキドキとする鼓動を抑えて、リョーマは平然とした表情を作り上げる。
ここで下手な反応をして、突っ込まれたら大変だ。「何かさ〜、手塚のあの猫じゃらしテクニックを盗みたいんだよね」
あの動きを盗めたら、もっとニャンコと楽しめそうな感じがする。
「部長っていつも忙しそうですけどね…」
どうやら菊丸にはリョーマの焦りなど全く眼中に無かったらしく、安心して話しを続ける。
リョーマは毎日のように相手をしているので、それほど猫じゃらしで楽しむ事は無いが、手塚の動かし方にはそれなりに興味があった。
それに、また来てくれるのなら…嬉しい。
「うーん…手塚だしな〜」
どういう理由なのかわからないが、何だか納得してしまいそうになった。
「俺が何だ?」
「手塚部長」
「おっ、ナイスタイミング手塚」
コートの入口で話していた2人の後ろに、生徒会の会議を終えてやって来た手塚が登場した。
「菊丸…」
パチンと指を鳴らす菊丸に手塚は、眉間にしっかりとした皺を作っていた。
菊丸はまだリョーマを腕の中にしっかり抱いている。
…それが気に入らない。
「またさ、おチビの家に行きたいって話してたんだけどさ。もちろん手塚も来るよな?」
どことなく既に決まっているような話し方に、手塚の眉間の皺は更に深くなっていた。
「あっ、別に決まりってワケじゃなくて…」
「そうだな、いいだろう」
リョーマが手塚の不機嫌を気にして何とかしようと口を出したのに、手塚は至極冷静な上に、しかも肯定の返事をするだけだった。
「あれま、意外だにゃー…」
ぽかーん、と口を開く。
思わず菊丸がリョーマを抱き締めていた手を緩めたのを見て、すかさず手塚はリョーマの腕を取った。
「え?」
「あっ」
突拍子に無い行動に思わず上を見上げたリョーマと、いきなり腕の中を空っぽにされた菊丸は、口を開けたままになってしまった。
「菊丸、お前は校庭を20周走って来い」
取り返そうと手を出す前に、手塚は菊丸だけに対し、こう言っていた。
「うえ〜、ナンで俺だけー」
両手をワキワキと動かし、あまりの仕打ちに嘆いてみるが、全くもって手塚は無視を決め込んでいた。
「お前は練習をサボって越前と話していただろうが」
黙っていても仕方ないと、一応は理由を話す。
「えー、何で俺だけなんだよ〜、だったらおチビだって同じじゃんか…」
「越前は委員会を終えて、今来たのではないのか?」
菊丸が手塚に『リョーマも同罪だ』と、訴えてみてもこれまた反撃を加えられてしまった。
「そうだろう、越前」
「まぁ、そうっスけど…」
急にこちらに話を振られてしまったので、とりあえず答えておいた。
ある意味リョーマはテニス部では遅刻魔として認知されているが、今日は図書委員の当番に当たり、遅刻して来たのではない。
それに練習しようとコートに入った途端、こうして菊丸に掴まってしまったのだから、この場合はどう考えても菊丸に非がある。
「わかったら、さっさと走ってこい」
「横暴だ〜、職権乱用だー。手塚のいじめっ子〜」
凛とした声で言われてしまい、菊丸は口を尖らせ『あっかんべー』と、まるでいたずらっ子のように舌を出しながら、グラウンドへ走って行った。
「あいつは何時まで経っても…」
最上級生として、そしてレギュラーとしての自覚が菊丸には備わっていない事に頭が痛くなる。
「あの、部長」
「何だ?」
おずおずと声を出すリョーマに、手塚は意識を向ける。
「手…」
「…あぁ、すまない」
思い出したように手を離すが、リョーマの腕には手塚の温もりがしっかり残っていた。
「手塚、会議は終わったのか?」
直後に大石が来たので、リョーマはその場から逃げ出すように練習に入った。
「…ビックリした」
1人でストレッチをしながらも、リョーマは手塚を見ていた。
自分の腕を掴んだあの手の感触が忘れられない。
「ふへ〜、走ってきたぞ〜」
「よし、全員集合だ」
菊丸が走り終えて全員が揃ったところで、今日の練習メニューを乾が説明する。
「大石、菊丸をどうにか出来ないのか」
まだ頭が痛いのか、こめかみを抑える。
「…手塚に無理なら俺だって無理だよ」
部員達のまとめ役であり、みんなから慕われている大石ですら菊丸の扱いには手を焼いていた。
黄金コンビと言われても、そこまでは手が回らない。
「俺がいない間に他の練習はしっかり出来たのか?」
「その辺は大丈夫だ」
乾の説明の間、大石は手塚がいない間の様子を話した。
「さて、今日も頑張るか」
「そうだな」
練習に入る部員達の姿を追い掛ける手塚の視線は、ただ1人、リョーマにだけ向けられていた。
ジャージ越しだったが、初めて本人に触れた。
まるで女のように細い腕だった。
不二もかなり細いが、負けず劣らずのあんな細腕で様々なショットを打つのかと、改めて感心してしまう。
「…まずいな」
「どうした、手塚」
「いや、何でもない」
「そうか?」
こうして日々募っていく相手への想いが、手塚の心に暖かい灯りと点していく。
常にピリピリしていた自分の心が、本当にゆっくりとだが、次第に柔らいでいく。
「さぁ、俺達も練習に入るか」
そして少しだけ自分の気持ちに素直になろう。
「またまたお邪魔しまーす」
「お邪魔します」
今回の休みは割りと早く訪れた。
但し、今回の休みの理由は『雨』だった。
雨ではコートが使えないから、今日は自主トレ。
「いらっしゃい、えーと」
「こっちが菊丸先輩で、この人が手塚部長」
今日も両親は不在だったが、従姉妹の菜々子が家にいたので、リョーマは菜々子と共に出迎えていた。
「おチビー、手塚は『この人』で、俺は何で『こっち』なんだよ。先輩に向かって失礼だぞ」
「初めまして、青学テニス部の部長を務めています手塚といいます。先日はお留守の時にお邪魔してしまい、申し訳ありませんでした」
「あら、そんなに畏まらなくてもいいんですよ」
うふふ、と笑う菜々子の顔とリョーマの顔を見比べてみれば、やはり従姉妹だからかとても似ていた。
菜々子の方がリョーマよりもおっとりとして、人当たりが良さそうな感じだが、菜々子にはリョーマに芽生えた想いの感情は、欠片も生まれなかった。
「おチビ、ニャンコは〜?」
菊丸は早くカルピンと遊びたいらしく、こそこそと耳打ちしてきた。
「じゃ、部屋に行くから」
「後で何か持って行きますね」
「サンキュー」
階段を上がる3人を眺めてから、菜々子はキッチンに向かって行った。
「カルピン」
ドアを開けて呼び掛ければ、ベッドの上にいたカルピンがひょいと顔を上げた。
「ニャンコ〜」
リョーマを押しのけて部屋の中に入る。
「ほわら」
菊丸が両手を広げてカルピンを抱こうとしたが、その腕をすり抜けてリョーマと手塚の前に立ち、ゆらりと尻尾を揺らした。
「ほら、菊丸先輩が遊んでくれるって」
空を切った手をそのままにしながら悔しそうにしている菊丸に失笑を浮かべると、リョーマはカルピンを抱え上げて菊丸に差し出した。
「ニャンコ、今日は思いっきり遊ぼうな」
外は止みそうもないほどの大粒の雨だし、こんな天気だったら人間だって猫だって外に出られなくて、フラストレーションが溜まってしまう。
カルピンも菊丸の言葉には、ピンと耳と髭を立てて反応した。
「菊丸先輩」
「おっ、サンキュー」
手渡された猫じゃらしを楽しそうに見つめるのは、菊丸とカルピン。
これじゃ、どっちが猫なんだかわからない。
「ほらほら、ニャンコ」
菊丸が楽しそうに遊んでいると、菜々子がジュースとお菓子を持って入って来た。
「リョーマさん」
「ん、何?」
「私ちょっと買い物に行って来ますので、あとをお願いしますね」
手招きをされて部屋から出たリョーマに、菜々子は出掛ける旨を伝えた。
「こんな雨の中?」
「えぇ、どうしても必要な物があるのよ」
しかも少し遠い場所に行かないと買えない物らしく、その間の留守番を頼みに来た。
「ふーん、じゃ気を付けて」
話を終えて部屋に入ると、菊丸はまだカルピンと遊んでいた。
「どうした?」
手塚の横に座った直後に話し掛けられ、リョーマはドキリとしてしまう。
「あ、ちょっと買い物に行くって」
カルピンに夢中になっている菊丸を見ながら2人が話をしていると、どこからか高音の音が鳴った。
「ごめん、俺の携帯」
ポケットに突っ込んであった真っ赤な携帯からは、最新の着信音が流れていた。
「ありゃ?家からだ」
ディスプレイを見て、あまり話したくない相手からだったら切ってしまおうと思ったが、それが自分の家からだったので、急いで折り畳み式の携帯を開いた。
「もしもーし、あっ、姉ちゃん…うんうん、えー、ちぇっわかったよ」
電源ボタンを押して通話を切ると、大きく息を吐いた。
「何かあったんスか」
持っていた猫じゃらしをカルピンに取られているのに全く気付く様子もない。
「出掛けるから早く帰って来いって…だー、行く時は何にも行ってなかったのに〜」
うにゃ〜っと頭を抱えるが、渋々と帰り支度を始める。
「今度こそはゆっくり遊ぼうな、ニャンコ?」
「ほわ〜」
勝手に猫じゃらしにじゃれているカルピンの頭を撫でると、菊丸はリョーマと共に部屋から出た。
「残念でしたね。菊丸先輩」
「本当だよ〜。ちぇっ、また手塚だけがオイシイ目に合うんだ。絶対に次はニャンコと遊びまくるからな、いいだろ、おチビ?」
「仕方ないっスね…」
バイバーイと、手と傘の両方を振って帰る菊丸を見送った後、リョーマは今の状況を知ると顔を赤らめる。
(そだ、部長と2人っきりなんだ…)
幾分か緊張気味で階段を一段ずつ上がり、今は手塚と愛猫がいる部屋に戻れば、今度は手塚が猫じゃらしでカルピンと遊んでいた。
「勝手にすまない」
「いーっスよ、喜んでいるし」
何が?とは言わなくてもわかる。
目の前で繰り広げられているこの光景は、とても愛くるしいものだからだ。
手塚が愛くるしいのではなく、カルピンが非常に愛くるしい姿になっていた。
マタタビでも与えたくらいに、柔らかい腹を見せてゴロゴロとしている。
腹を見せる行為は、動物なら『降参』の証だ。
カルピンはたった二度の訪問で手塚に懐いていた。
「すごいね、カルピンがここまで慣れるなんて」
「そうなのか?」
「うん、本当にすごいよ…」
にこ、とあの時のような鮮やかで眩しい笑顔を向けられて、手塚は自分を自制出来なくなった。
「…ぶちょう?」
リョーマが声を出したのを切っ掛けに、無意識にリョーマの腕を掴んでいたのに気が付いた。
しかし、手塚は手を離さなかった。
「越前」
「…はい」
真剣な眼差しで見られて、リョーマはゴクリと喉を鳴らした。
一体何を言うつもりなのだろう。
次第に高まる鼓動を抑えられない。
「越前、俺は…」
掴んだ腕に力を込めて、自分の胸へと引き寄せた。
「…ぶちょう?」
思わず広い胸元に抱かれたリョーマは、何事が起きたのかが瞬時に理解出来なかった。
「越前、笑わずに訊いてくれ…」
手塚は決心してしまった。
この胸の中にある想いを伝える事に。
「…は、はい」
自分のものではない鼓動の音が耳に届く。
しかも段々とその速度を増してくるので、自分の鼓動もつられて速くなる。
「…俺はお前が好きだ」
少し低めの声で告白をする手塚に、リョーマは顔を上げて下から覗き込む。
そこには、優しさだけを湛えた眼差しだけがあった。
「本気で言ってるんスか?俺も部長も男っスよ」
自分だって同じ気持ちなのに、どうして素直に受け取れないのだろう?
それはきっと、この生真面目な男から発せられた言葉とは到底信じられなかったからだ。
もしかしてこれは夢?
それとも自分の妄想?
「そうだな」
リョーマがぐるぐると悩んでいるのを見透かしているように、手塚は淡々と告げる。
至って真面目な想いだから、これ以上は何も言えない。
あとは相手の応えを待つだけ。
「そうだなって…」
「仕方が無いだろう、俺は本気なんだ。本気でお前が好きになってしまったのだから、俺はこうしてお前にこの胸にある想いを伝えたんだ」
真剣な眼差しと声に、リョーマはへにゃりと身体の力を抜いた。
どうやらかなり身体に力が入っていたらしい。
「越前?どうした」
重くなった身体をしっかり受け止める。
「俺もさ、男ってわかってるのに、部長のコトが好きなんだよね…どうしようもないくらい」
半ば諦めたように、リョーマも一世一代の告白をした。
「…それは冗談ではないよな?」
「部長だって…なっ!何?」
じっくりと確かめるように訊いてくる手塚に、おもむろに顔を上げると、秀麗な顔が段々と近付いて来て、そのまま唇にキスされ、真っ赤になって離れようとするが、手塚の腕に阻まれて出来なかった。
「俺達は両想いなんだ。少しくらいはいいだろう」
「ねぇ、何か性格変わってない?」
急に行動が大胆になった。
片想いだったらどうするつもりだったのか?
自分が断るなんて微塵にも考えていなかったのだろう。
だってこの男は、憎らしいほどの笑みを浮かべているのだから。
「好きな相手がこうして腕の中にいるんだ。嬉しくなるのは当たり前だろう」
それに触れたいと思うのも当たり前だろうと、言われたらリョーマは黙るしかなかった。
だって、自分だって同じ気持ちなのだから。
何だかとても悔しくて、リョーマは手塚の首に腕をまわした。
2人の告白の間にベッド上に乗ったカルピンは、次第に密着していく2人に、つまらなさそうに背を向けて、ふわりふわりと尻尾を振っていた。
「な〜んか、手塚とおチビの様子が変」
都大会準々決勝を勝利で終わらせ、一度学校へ戻った部員達は、喜びで浮かれたまま帰宅して行った。
「変って?」
バックを肩に担ぎ、部室の鍵を掛ける大石を待っている菊丸は、ぶつぶつと呟いている。
「2人だけで帰っちゃったんだよ。手塚とおチビが!どう考えてもオカシイじゃんか」
手塚とリョーマが2人で帰るなんて今まで無かった。
それもこんな試合の後で。
自分達は今日の試合について反省会でもするつもりでこうして一緒にいるが、あの2人が一緒に帰る理由が皆目見当付かない。
「英二は気にし過ぎだよ」
鍵が掛かっているのかを確かめてから、持っていた鍵をポケットに入れた。
「そうかな〜、うむ〜?」
「そうだよ」
「そうなのかなぁ〜?」
動物的な勘で2人に『何か』があったのを感じ取った菊丸が、うんうんと頭を捻って考えるが、結局は考えがまとまらずに大石と帰って行った。
これが不二や乾だったら、違った結果になっていただろうが、手塚とリョーマは強運に見舞われていた。
「良かったんスか?」
「竜崎先生とはしっかり話をしたし、大石達にも先に帰ると伝えたんだ。何も問題は無い」
「そうなんだ。でも部長と2人きりで帰るなんて初めてだね」
恋人関係になってからも、学校生活では2人の態度は今までも何も変わらなかった。
「何か、嬉しいな」
夕日に赤く染まる顔が更に真っ赤になる。
「そうだな…。越前、2人きりの時くらい部長と呼ぶのは止められないか?」
「え、じゃ、先輩?」
部長』以外の呼び方なんて、『先輩』くらいしか思いつかなかった。
「そうじゃなくて…」
「…まさかとは思うけど、名前で呼べってコト?」
肯定の返事は無かったが、小さく縦に頷いたのを確認して、リョーマは首まで赤くした。
「いいだろう、リョーマ…」
「…うっ、て、照れるんだけどな…」
呼び捨てなんて家族くらいしかしないから、これにはかなり照れ臭かった。
「ふっ、お前は正直でいいな」
「ぶ、ぶちょう〜」
「違う。国光」
「……く、国光?」
恥ずかしいから、なるべく小さなトーンで名前を呼んでみた。
ついでにどんな反応をするのかが知りたくて、横目で手塚の表情を窺うが、手塚がそう簡単に表情を変える男では無いのは、誰もが知り得る事実。
「…お前の言うとおり、照れ臭いものがあるな」
しかし、そんな手塚の表情が少し綻んだ。
自分が呼ばれて初めてリョーマの気持ちがわかったらしく、頬が少しだけ赤くなっていた。
「でしょう?だから…」
いつも通りでいいでしょ?そう言おうとした途端。
「だが、とても良い気分だ」
あちゃー…。
手塚の精神はある意味で人並みでは無かった。
「素で恥ずかしい人だよね。あんたって」
「国光だろう?」
「も〜、意地悪だよ。国光!」
「それも好きなのだろう?リョーマ」
どう転んでも、手塚に勝てる要素は全く無かった。
「あれ?カルピンだ」
自宅近くで愛猫の姿を見つけたリョーマは、少し早足で何気なしに近寄るとピタリと動きと止めた。
「…どうした?」
後を追って来た手塚は、厳しい顔をしているリョーマの肩に手を置く。
「この子、カルピンの友達」
道端に倒れているトラ猫は、既に息が無かった。
口からだらしなく舌をダラリと出していて、後ろ足は不規則な方向に向いていた。
骨折意外はどこも損傷が無いので、またしても車に撥ねられてしまったのだろう。
しかもその衝撃によってこの猫も即死。
「…カルピンは家にお帰り。俺がキチンと供養してあげるから…車には気を付けるんだよ」
リョーマの言葉が通じたのか、カルピンは一度だけ哀しげに鳴き声を上げると、その場から歩き出した。
「あそこに行ってもいいっスか?」
「あぁ、そうしよう」
前に連れて行ってもらった公園に行きたいリョーマに手塚は反対しなかった。
あの時と同じように、使っていないタオルで丁寧に猫を包み、抱きかかえる。
「この子、カルピンと仲良しだったんだよ」
「そうなのか」
「うん、結構人懐っこくてさ。俺も何度か撫でさせてもらったんだよね。鳴き声もね、カルピンと違ってすごく可愛くてさ」
「そうか」
公園までの道程、リョーマはこの猫の話題しかしなかった。
「前はこの木だったから、今度はこっちにしよ」
またしても、木の根元を素手で掘り出す。
この前よりも少し大きな猫だったので、穴は以前よりも大きくなってしまった。
「これくらいでいいよね?」
「充分だろう」
まるであの時を繰り返しているようだ。
同じようにバッグから線香を取り出して、先を少しだけ折り、マッチで火を点ける。
線香の煙が真っ直ぐ上に昇っていく。
「…成仏しろよ」
小さな魂が迷わずに天に昇れるように祈る。
「これって火事にはならないよね?」
「今日は風も無いから大丈夫だろう」
動作の一つ一つに対してリョーマは手塚に確認を取る。
「ありがと…国光」
最後に手洗い場で汚れた手を洗うと、リョーマは一言だけ手塚に礼を言って小さく笑った。
「少し家に寄って行かないか?」
どことなく意気消沈してしまったリョーマに、手塚は誘いを掛けた。
「いーんスか?」
「お前さえ良ければな」
「じゃ、行くっス」
手塚はそのままリョーマを自宅へ連れて行った。
家には母親の彩菜しかいなかったが、この母親はかなりのリョーマ贔屓なので、下手に捕まらないよう先に挨拶だけ簡単にさせると自室へ向かわせて、自分は冷蔵庫から飲み物を取り出してから向かった。
「ほら」
「あ、ども…」
渡されたのは、大好きな炭酸飲料の缶。
普段は口を酸っぱくして『炭酸は駄目だ』と言っているのに、こうしてリョーマの大好物を渡してしまう辺り、手塚はリョーマに甘い。
「そんなに落ち込むな」
手塚はミネラルウォーターを飲む。
「…俺、落ち込んでるんだね、やっぱり」
手の中の缶を玩んでいるリョーマは、全く飲むつもりがないのか、ずっとコロコロと転がすだけだった。
「リョーマ」
「…うん…」
ベッドにもたれかかるように座っていた2人だったが、手塚がリョーマを抱き締めた事でベッドから離れてしまった。
「慰めてくれるの?」
「お前が望むのなら、いくらでも…」
体格の差もあり、手塚はリョーマを自分の膝の上に乗せて片腕だけで抱き締めると、残った片手はリョーマの髪を掻き上げて、露わになった顔中に口付ける。
額や頬、目元に瞼に鼻の頭、そして耳朶、至るところに口付ける。
「……すごく…」
唇に口付けしようとした瞬間、リョーマは口を開いた。
「ん?」
「哀しかったんだ…。もしかしてカルピンもあんなだったらって…」
じわりと潤んできた瞳から、ポロリと一粒の雫が頬を伝って零れ落ちた。
普段から見ている動物の死なのに、自分も良く知っている猫の死を目の当たりにすると、感情が抑えきれない。
あの猫の死に様を自分の愛猫に重ねてみた。
もしかして誰からも気付かれなくて、雨風に晒されて、ただ朽ちていくだけだったら…。
「カルピンはあまり家から出ないのだろう?」
一粒零れ始めると止められないのか、次々に零れ落ちていく涙を指で掬い取った。
「うん…寺もあるから遊ぶ場所には困らないし、そこにカルピンにとってのテリトリーだからね」
猫は自分のテリトリーに侵入するものを許さない。
野良猫の方がテリトリーに対する意識が強いが、家猫でも同じだ。
「カルピンはとても賢い猫だから大丈夫だ」
何度も繰り返される、慰めの言葉と、キスの嵐に幾分か軽くなった心。
「ありがとね」
ふわりと儚げに微笑むリョーマに、口付けを送る。
触れるだけでなく、口腔の中に舌を差し入れて、歯列を舌でなぞり、リョーマの舌を自らの舌で絡め取る。
お互いの唾液が混ざり合い、ぴちゃ、と濡れた音が耳に届く。
ここまで深く口付けられたのは初めてだった。
「…ん…む…」
息苦しくなって手塚の背中を叩くと、惜しむように唇を舐められてから、解放された。
大きく深呼吸をすると、肺に新鮮な空気が入ってくる。
「少しは落ち着いたな」
「…何だか今度はドキドキしちゃったよ」
胸の辺りを押さえて、リョーマは朱に染まった頬を手塚に見られないように顔を背ける。
告白してから恋人らしいコミュニケーションなんて、抱擁か軽いキスだけだったのに、いきなりこんな濃厚なキスをされるなんて予測すらしていなかった。
「もっと、ドキドキさせようか?」
「っ、いい、もういいっス」
それの意味するところはもちろん…。
ブンブンと頭を振って逃げようとするが、身体は手塚に抱かれたままだった。
「…お前を欲しがってはいけないのか?」
愛しい相手とこうして2人きりになれば、身体が疼いて仕方が無い。
告白しても何も進展しなかったのは、部活で忙しかっただけで、本当はもっと一緒にいたかった。
「ほ、欲しがるって。だ、だって、家の人がいるし…、それに俺は国光と違って試合してるから、汗だって掻いているし…」
何を欲しがっているのかなんて、手塚の熱っぽくなった瞳を見れば一目瞭然だった。
男同士で必要な行為なのかはわからないけど、望まれているのならきっと自分達には必要なのだろうが、だからといって、心の準備がまだ出来ていない。
しどろもどろになりながらも、どうにかして逃げ道を探し出す。
「泊まっていけばいい」
「はぁ?」
「ここに泊まればいいだけだ」
風呂にもゆっくり入れるし、今の時間的に母親が一緒に食べさせるつもりで、ウキウキしながら夕食の支度をしているところだろう。
「家への連絡ならこれを使え」
すっと目の前に差し出されたのは、手塚の携帯電話。
「どうした、使い方はわかっているだろう?連絡したらすぐに食事にしよう」
リョーマの逃げ道は完全に塞がれてしまった。
手塚はリョーマが泊まる旨を、夕食を支度中だった母親に伝えに行った。
「越前君が泊まってくれるなんて本当に嬉しいわ。たくさん食べてね」
語尾にハートマークが付いているのでは?と思ってしまうほどのリョーマ贔屓の彩菜は、夕食のおかずをテーブルに並べていく。
「はい」
目の前には茶碗に盛られた白米と、煮魚やホウレン草のお浸しに、麩のお吸い物。
中央の大皿には色々な種類の刺身が乗っていた。
どれもこれもがリョーマの食欲をそそるが、横に座り食欲よりも違う方の欲を欲している恋人の存在の方が気になってしまう。
「嫌いなものでもあったのかしら?」
「いえ、どれも好きっス…」
困り顔の彩菜に心配させないように、リョーマは平静を装って食事を始めた。
食事は美味しくてとても満足出来た。
その後でリビングで家族と話をしていると、パジャマや新品の下着を彩菜から渡された。
「はい、越前君。国光のパジャマだから大きいかもしれないけど、下着はトランクスで良かったかしら?」
「大丈夫っス」
借り物に文句は言えない。
「脱いだものはお風呂に入っている間にお洗濯しますから、明日の朝までこれで我慢してね」
「そんな、いいっスよ」
「気にしないでいいのよ」
手の中には青色のパジャマに、水色のトランクス。
サイズはちょっと大きいけど、別に寝るだけだから…。
(まてよ、寝るだけならって…)
自分の考えに冷や汗が流れる。
「越前君、おじい様が上がったら入ってね」
「…はい」
ここまで来たのだから、きっぱりと覚悟を決めなければいけない。
風呂に入っている間に、布団を客間ではなく手塚の部屋に敷かれ、風呂から出たリョーマはこの部屋の持ち主が入浴中の間、悶々と考え込んでいた。
「はぁ…」
髪を乾かす為のタオルを頭からかぶり、布団の上に膝を抱えて座り込んでしまう。
恋人である手塚が、自分に対して何を望んでいるのかを理解した上でここにいる自分。
キスだけであんなになってしまうのに、この先に進まれたらどうなってしまうのか。
「…どうしよ」
タオルで髪をガシガシと乾かし始め、大きな溜息を吐いた、その時。
「起きていたか…」
ドアが開き、主である手塚が入って来た。
風呂上りだからか、眼鏡は掛けていなかった。
「どうした?」
「べ、別に…」
初めて見た素顔に見惚れてしまったなんて、恥ずかしくて口に出せない。
手塚は口元だけを緩ませて、ベッドではなくリョーマのいる布団の上に座った。
「な、な、何?」
「そんなに硬くなるな…」
頭にかぶっていたタオルを取られた直後、肩に手を置かれて、ピクンと身体が跳ねた。
「…ね、何でそんなに余裕なの?」
こっちは緊張し過ぎて、心臓が口から飛び出しそうなくらいなのに、なんでこんなにも余裕をかましているんだろうか?
「余裕?俺に余裕など無いぞ」
ほらな、とリョーマの手を取り、自らの胸に当てる。
「……すっごくドキドキしてる」
緊張しているのは自分だけでなく、手塚もだった。
自分は初体験だから、これほどまでに緊張するのかと思っていたが、手塚もきっと初めての体験だ。
彼女がいたって話は一度も聞いたこと無いし、初めてのキスの時だって慣れた感じはしなかった。
「リョーマ」
名前を呼ばれて顔を上げると、これ以上ない笑みで見つめられたその一瞬だけ気が削がれ、瞬きほどの瞬間に、リョーマは天井を眺める姿勢になっていた。
「あれ?」
自分の状態に付いていけなかったのか、呆気に取られた表情を浮かべてしまった。
「リョーマ…」
「…ひゃっ…」
首筋に吐息を感じ、ブルッと身体が震えた。
「…駄目か?」蕩けそうなほどのテノールが耳に残る。
「あ、あの、俺、こういうの初めてだし…」
「俺も初めてだ」
言うなり、やんわりと口付けた。
恥ずかしいから灯りを消して欲しい、とのリョーマの申し出に手塚は快く応じた後、リョーマの柔らかくしなやかな肌に触れ、余す事無く味わいつくした。
「…ああぁ…」
触れる度に甘い声が零れ、手塚の欲望は膨れ上がる一方だった。
「…ひっ…うっ…く……」
長い時間を掛けてじっくりと受け入れる場所を慣らしたが、初めての行為の為、最奥に自身を収めるのにはかなりの時間を費やしたが、そんな時間は2人にとってはあっという間だった。
微かに立ち昇る、同じソープの香りが一つになれた喜びを更に倍増させる。
流れ落ちる汗すら、感激に変わる。
「…あ、ふっ…やぁ…」
「…リョーマ」
大きく開かせた脚の間で、手塚はリョーマの細い腰を掴み巧みに動いていた。
単調な出し入れの動きから緩急をつけた動き、時折かき混ぜるように左右にグラインドしたりして、手塚はこれが初めてとは思えない攻めをしてくる。
「…ああっ、いぁ、やあぁ…」
リョーマも初めてとは思えないほど、手塚の雄を体内に受け入れていた。
まるで剣が鞘に納まっているように、しっかりと手塚を収め、耳を塞ぎたくなるような粘度質のあるいやらしい音や、肉を打ち突かせる度に起きる破裂音を響かせて、2人は淫らに交わっていた。
「…あ、はぁ、くに…み、つ…」
内壁を擦られる度に、身体中がゾクゾクする。
「…く、リョーマ…」
手塚の硬い腹で擦られていたリョーマ自身から生温かい体液がトロリと零れ、2人の身体を濡らす。
「…ヤ、何か…でそ…う…ぁ」
ふるふると頭を左右に振り、この快感から解放されたくても、リョーマにはどうしていいのかがわからない。
出したらどうにかなりそうなのに、手塚の動きだけでは絶頂に達せられなくて、リョーマは手塚の腕を強く握り苦しそうに喘ぐ。
「…あっ、はぁっ…ぅ…うっ…」
「…リョーマ…」
初めての性交ではリョーマが感じる最適のポイントがわからず、握られた腕に痛みを感じる手塚も少し困り顔だったが、動きは止められない。
決定的な快感が得られず、リョーマは生理的な涙をぽろぽろと零してしまう。
「…やっ…はぅ…ああっ」
不図思い付いたように、手塚がリョーマの幼い性に手を伸ばせば、暫くして簡単に弾けた。
達した時の身体の緊張感により、手塚を受け入れている部分がきゅっと締まり、その動きに手塚も己を解放していた。
自分の中でビクビクと蠢く雄に、リョーマは意識を手離してしまった。
「あれ?ここ…」
と、目が覚めた瞬間、見慣れない天井があり、リョーマはここがどこなのか瞬時に判断できなかった。
「気が付いたのか?」
真横から声がして、そちらに向こうとしたが、身体が鉛のように重く、何故だか思うように動かない。
「まだゆっくりしていろ」
そう言って起き上がった手塚の姿は上も下も裸。
その状態で自分に何が起きたのかを思い出す。
「…俺っ…いっ、た〜」
慌てて起き上がると、腰から下に鈍痛を感じ、身動きが取れなくなってしまった。
「起き上がるのはまだ無理だ」
変な格好で固まっているリョーマを、壊れ物でも扱うように殊更優しく布団の上に横たえる。
「…俺達、シたんだよね」
「あぁ、そうだ。俺達は一つになれたんだ」
何とも嬉しそうな顔をするから、リョーマもニコリと微笑みを浮かべていた。
「…ね、お風呂に入りたいんだけど」
幸せ満喫なのだが、どうにも身体中がベタベタしていて気持ちが悪い。
「わかった、連れて行こう」
パジャマの上だけ着せてもらい、歩けないだろうからと横向きに抱えられた。
その抱え方が『お姫様抱っこ』だというのは、後々知ることになるのだが、この時は身体がだるくて何も考えられなかった。
時間的に誰も起きていなくて、手塚はリョーマの状態を考慮して一緒に風呂に入った。
行為の最中は目を閉じていた為、良く覚えていないが、手塚はリョーマの最奥を解す時に、ローションなるものを使い、挿入する前にはコンドームを装着していた。
受ける側の負担を考えての行動なのはわかるが、そんな物を何時の間に購入したのだろうか。
(後で訊いてみないと…)
男女の行為と違って、いわゆる排泄器官を使って行為をするのだから、色々と問題がある。
ローションやコンドームは、それらの問題(もちろん男女の場合なら、コンドームの使用は避妊の為など様々な理由があるが)を解決する為にある。
抱えられて湯船に浸かっている間は、この気持ち良さに浸っていたいので疑問を後回しにした。
「リョーマ、寝るなよ」
「…う〜ん…」
「眠いのか?」
「……ん…」
返事としてはどうにも頼り無いものを感じ取った手塚の心配を他所に、リョーマは温かな湯船に浸かっている間にしっかり寝てしまっていた。
「仕方ないな…」
交わる行為が思ったよりも受ける側の身体に負担を掛ける事を知り、手塚はリョーマを抱えて湯船から出ると、まずは自分の身体を軽く拭きパジャマを着て、その後でリョーマの世話をした。
起こさないように細心の注意を払って。
部屋に戻り、布団ではなくベッドの上に下ろすと、幸せそうな寝顔を見せていた。
「…可愛いな…」
初めて続きの1日の最後は、愛らしい寝顔。
暫くの間はその寝顔を堪能させてもらい、手塚はリョーマを抱き寄せて眠りに付いた。
朝になれば疑問の事などすっかり忘れていて、この疑問は先延ばしになるのだった。
「何だか、いい雰囲気だね」
練習のアドバイスをしている手塚の言葉を、真剣に聴いているリョーマの姿を見て、不二は思った事をポロリと言葉にしていた。
「何がだい?」
不二の呟いた台詞に練習の相手をしていた河村が問い掛ける。
「ほら、あの2人だよ」
「手塚と越前か?そういえば、前よりも何か仲が良くなった感じがするね」
言われて不二が見ている方向に振り返ると、今までとは違った空気を出している手塚とリョーマが目に映る。
手塚とリョーマに間に何があったのかは知らないが、2人が急接近したのは確かだろう。
以前の2人には無かった『何か』がある。
ニコニコと穏やかな笑顔で眺めていた不二は、最後に「いい傾向だね」と、呟いた。
頭一つ分は軽く違うこの2人は、向き合いながら話をしていた。
少しだけ見下ろしてリョーマに話し掛ける手塚。
「もう少しラケットを短く持ってみろ」
いつも固い表情の手塚が少しだけど柔らかくなった。
少し上目遣いで手塚の話を聞くリョーマ。
「ういース」
素っ気無い態度を取るリョーマの表情が豊かになった。
しかもそれが、手塚とリョーマの2人きりの時にだけ、ときたから一目見て2人の間には『何か』があったのだと、嫌でも実感してしまう。
「何かあったのかにゃ〜?」
うーんと腕組みをしてみて考え込んでみたとしても、菊丸には見当がつかない。
「さぁ、俺にもさっぱりわからないな。そういえば英二は前に手塚と越前の家に遊びに行ったんだろう?」
「そうなんだけどさ〜、でも遊びに行った時の手塚は前のままだったし…手塚はニャンコの扱いが上手かっただけで、他には特に…うむ〜」
菊丸が知っている2人の『何か』はそれだけだ。
しかしその時はまだ、以前の2人だった。
「あーでもでも、2回とも俺は手塚よりも先に帰ってるからなぁ、もしかしてその後で何かあったのかにゃ?」
あったとしても、一体何が?
ハテナマークを頭一杯に浮かべる菊丸と大石。
「なかなか興味深いデータが取れたな」
サラサラと、ノートにペンを滑らしていた乾は、顔を上げて楽しそうに笑う。
「ここはもう少し細かい事が知りたいところだな…」
トントンとノートの上をペンで叩く。
「ちっ」
面白そうにノートに何やら書き込んでいる乾を視界に入れた海堂は、つまらなさそうな顔で1人黙々と練習に励んでいた。
「な〜んか、越前と部長って…」
「雰囲気変わりましたね〜」
「何かあったのか?」
「僕達は何にも知らないんですよ。桃ちゃん先輩こそ何か知らないんですか?」
「俺にもサッパリだ」
「何があったんだろう?」
桃城と1年生3人トリオは、2人を見ながらコソコソと話し合っていた。
2人がどうしてこのような変化を遂げたのかは、テニス部内では謎めいた事件だった。
「…何か皆が気にしてるみたいだけど」
アドバイスが終わった後、こっそりとリョーマは手塚に訊いてみた。
こちらをチラチラ見ている視線がとても気になる。
「気にしなくてもいい。しかし乾と不二だけは注意した方がいいかもな。あいつ等の洞察力の凄さは並みでは無いからな」
もちろん手塚もこの視線には気が付いていたが、あえて無視していただけだった。
「そーだね、そうするっス」
何となく予想が付いたのか、リョーマは大きく頷いた。
何があったのかなんて言えるものではないが、自分の気持ちに素直になって、自分自身の言葉で相手にその想いを伝えただけだ。
そう、ただそれだけ。
素直になって本当に良かった、と心の底から思える日がやって来るのは、そんなに遠くない未来。
でもこれは、2人だけの秘密。
決して誰にも教えない、大切な2人だけの気持ち。
2人きりの時にしか言葉にはしない大切な気持ち。
|