「…リョーマ、もうすぐ到着するぞ」
「……ん……うん……ふあぁ〜」
肩を優しく揺すられる動きに、リョーマは閉じていた瞼を開くと、全く見覚えの風景が広がっていた。
しかも目に入る風景の中には、都内で見られるような高層ビルなどは一つも無く、紅葉が美しい山々が一定の速度で次々と視界から遠ざかっていく。
それに加えて、座っているのに身体はガタガタと不安定に揺れる。
「…あれ?俺って…あっ、そっか」
ぼんやりとしている頭をクリヤーにするかのように、何度か左右に振り、目も頭も完全に覚めた時、漸く自分の状況を把握していた。
事の発端は隣に座り、リョーマを起こした張本人の手塚の父親である手塚国晴の事情からだった。
今から丁度10日前の夜、会社で残業を済ませ自宅へ戻った国晴は「1人だけでは寂しいでしょ」と、一緒に食卓についてくれた妻の彩菜に会社で起きた出来事を話していた。
「まぁ、凄いわね」
他愛の無い話の最中、国晴は経理課から渡されたチケットとパンフレットを彩菜に見せた。
「日付はこれでもう決まっているのよね。タイミングが悪いわ。この日は同窓会が入っているのよ」
しかも、今回の同窓会は彩菜が幹事を務める番となっているので、絶対に行かないとならないという。
「…無理だわ」
チケットに書かれている日付を恨めしそうに見ると、国晴に返すようにテーブルの上に置いた。
「そうか、ちょっと急な話だったからね。駄目かなぁって思ってはいたんだ」
最後の一口を箸で口に運ぶと、空になった茶碗を置く。
今度は残り少しになった豆腐の味噌汁が入ったお椀を手に取り、ずずっと飲むと箸を置いた。
「ねぇ、私達は無理でも国光はどうかしら?」
「国光かい?」
彩菜は食後のお茶を淹れながら国晴に提案をしてみた。
「ええ。ほら、あの子、部活はもう引退しているでしょう。それに祝日と土曜があるから学校の心配も無いし、たまにはいいんじゃないかしら?」
「そうだなぁ、国光も部活では色々とあったからなぁ。うん、そうしよう」
1年の頃に先輩によって傷付けられた肘が原因で、利き腕の左腕は治療の甲斐あって一時は復帰したが、大きな爆弾を抱えているのと同じ状態だった。
そして運命の日は関東大会の1回戦だった。
氷帝学園の部長である跡部景吾との戦いにおいてその肩は壊れ、遠地へと治療の為に旅立った。
楽しい事もあっただろうが、辛い事も多かったに違いない。
善は急げとばかりに、国晴は食後のお茶に何度も息を吹いて冷ますと一気に飲み干す。
そして滅多に行かない息子の部屋に足を運んだ。
「国光ちょっといいかい?」
「…父さん?今、ドアを開けます」
控えめなノックの後に聞こえるのは父親の声。
珍しい事極まりない父親の到来に、次の日の予習をしていた手塚は慌ててドアを開けた。
「お帰りなさい。何かありましたか?」
「ああ、ただいま。いや、ちょっとね…会社が会員になっているリゾートホテルのチケットを貰ったんだけど。貰ったって言っても、支払いはチェックアウトの時だけどね。僕も母さんもこの日は都合が悪くてね。どうだい?たまには羽を伸ばしに行かないか?宿泊費は出すから」
簡単な経緯を話した後、手塚の手にチケットを持たせる。
「いえ、費用の方はお構いなく。ですが…」
手渡されたチケットと父親と交互に見やる。
チケットに掲載されている日程には、時に何も予定が入っていないので日付の問題は全く無い。
だがしかし、元々は父親が手に入れた物であり『両親が行けないからといって自分が行っても良いのか』との後ろめたさがあり、返事を返せないでいた。
「別に国光が1人で行く事はないよ。誰かを誘って行けばいい。ほら、越前君とか」
「…はあ…一体どういう経緯があるのですか?宜しければお話しを聞かせてもらえませんか」
「ああ、そうだね」
リョーマの名前が出たところで少し興味が出たのか、詳しい内容を父親から聞く事にした。
国晴が勤めている会社が、社員の保養所として会員になっているリゾートホテルは全国各地にある。
但し、シーズンで割り当てられているらしく、今時期は国晴が手に持っているチケットに書かれているホテルが使用できる時期。
家族や友人で都合さえ良ければ、すぐに申し込んでしまうので、プラチナチケットとなる事も多い。
しかし、一度申し込んでしまったチケットは、キャンセルが不可能で必ず使わなければならない。
どうやら今回申し込んだ同僚がどうしても日程が合わなくなったようで、誰か使える人に譲渡する事になり、一度も活用した経験の無い国晴に回って来た。
通常のホテルのシステムは、お一人様いくらであるが、会員ならば1部屋を8千円という破格の代金で提供してもらえる。
そう、1人でも8千円、2人でも8千円。
家族連れなら4人で8千円だって夢ではない。
ただし、食事は入っていないので別料金となるが、本来が1泊で2万以上もするホテル代金なのだから、たとえ食事を豪華にしてもお釣りが返ってくる。
ホテル内には軽食が出来る喫茶店に加え、ホテルの朝食で出される数々のパンが買える店に土産物を買う売店、ジュースやアルコール、その他にカップ麺などの自動販売機もあるので、食事代を安く浮かせる事は可能だ。
なかなかに魅力的だった。
「自分が使っても良いのですか?」
聞けば聞くほど気になる。
「山の新鮮な空気を吸っておいで。今なら季節柄、紅葉も綺麗だろうし」
どうやら行く気になってきた息子の肩を叩くと、国晴はパンフレットも渡して階下に下りて行ったので、手塚は去っていった父親に頭を下げてドアを閉めていた。
「…リゾートホテルか」
机の上に広げていた教科書やノートの代わりに渡されたパンフレットを広げ、ホテルの設備などをチェックする。
どうやら海外の有名な建築家がデザインを手掛けているようで、山の景色を壊さないような色合いで、モダンな作りになっていた。
このホテルには宿泊する施設がホテルタイプとレジテンスタイプという二通りに分かれていて、ホテルタイプは1つのフロアに、いくつもの部屋がある定番タイプで、レジテンスタイプになれば3階建てとなり、各階で作りが異なっている。
しかもレジテンスタイプは全ての部屋が外から入るので、感覚的にはアパートやマンションと同じで、まるで自分の家に帰るような、そんな安らぎを与えてくれる。
1階は軽快なフローリングの床の一戸建て感覚で気兼ねなくステイできるタイプ。
その名も「フローリングタイプ」だった。
1階には全ての部屋にキッチンが付いていて長期滞在の人に適している。
2階は広いテラスとゆったりとした間取りが魅力の「テラスタイプ」で、リビングとベッドルームは、仕切られているのでプライバシーもしっかり確保できる。
3階は「メゾネットタイプ」で、吹き抜けのリビングと階段を上がったロフトの2フロア仕様。
随所に光あふれる設定が魅力の部屋となっていた。
どの部屋もリビングとベッドルームそれぞれにテレビが設置されている。
これならどの階でも損は無さそうだ。
他の設備もパンフレットで確認してみれば、屋内プールやテニスコートもあり、更には結婚式場や会議場もある。
その上、広大な風景を楽しむようにレンタルカーやレンタサイクルも低額で借りられ、かなり充実していた。
「このチケットは…レジテンスタイプか」
どちらでも構わないが、周囲を気にする事無く過ごすにはレジテンスタイプの方が良い。
しかも、滞在期間は短いのでキッチンは必要ない。
そうなれば2階か3階が良いが、2階のテラスは3階の窓部分から覗かれる可能性が生じる為に3階が一番良い。
「リョーマに聞いてみるか」
パンフレットを見れば見るほど悪くない気分になり、自分の中で勝手に話しを進めていたが、リョーマは部活があるので行けるのかわからない。
兎に角、話してみなければ何も始まらない。
携帯を手に取ると、まだ携帯を持っていないリョーマの自宅の番号をアドレスから呼び出し掛けていた。
「よく眠っていたな」
時計を見れば、もうすぐ2時。
出発の時間はそれほど早くなかった。
電車には青春台から乗り、途中で乗り換えた駅で簡単な飲食物を買い、電車内でそれらの全てを食べ終わり、お腹が一杯になったリョーマはずっと眠っていた。
今週は3連休の後に3連休が続くという特殊な週。
その為に初めの3連休にランキング戦と他校との練習試合を詰め込んで、後の3連休は顧問の計らいで3日とも休みになった。
手塚がリョーマに話した旅行の日程は後の3連休の方だったので、こうして電車での2人旅をしていた。
「…起こしてくれればいいのに、俺が寝ていたから暇だったでしょ?」
座席は全て2人掛けのシート。
当たり前だが2人は並んで座り、リョーマは手塚の肩に頭を乗せて眠っていた。
「いや、外の景色とお前の寝顔のおかげで時間を気にする事も無かった」
通路を通らない限りは自分達の姿を見られたりしない。
手塚は寝ていたリョーマと流れる風景を堪能していた。
「…電車とかバスの揺れって眠くなるんだよね」
言い訳っぽく言ってみても手塚は柔らかく微笑むだけ。
「先週の土曜日からランキング戦や練習試合が組み込まれていたからな。身体が疲れていたのだろう」
テニス部を引退しても、元部長として気に留めていた。
色々とリョーマから現状を聞いていたし、仲間からも情報が回ってくるので、何もしなくてもテニス部の動きは把握していた。
「…でも、ゴメン」
「ああ、わかった」
どれだけ手塚が理解してくれていても、旅の初めから1人きりにさせてしまった事をリョーマは謝っておきたかった。
手塚は電車が目的の駅に到着するまで、リョーマの肩を抱いていた。
電車がホームに到着し、安全確認後に扉が開くと先に手塚が出て、後にリョーマが続いた。
都会の駅とは異なり、切符は駅員に手渡しで渡す。
駅を出た2人はすぐ側のバス乗り場に立つ。
「着いちゃったね」
「ああ、後はバスが来るのを待つだけだな」
未成年の2人には電車での移動しか方法が無い。
だが、駅からホテルまでは距離がある。
そういう場合、予め連絡を入れておけば駅からホテルまでは専用のバスが出るというので、父に頼んでバスの手配をお願いしていた。
「…意外に寒いね」
立って待っているのも何だからと、バス乗り場のベンチに座っていたが、時々肌を刺すような冷たい風が吹いてくる。
ブルッ、とリョーマの身体に寒気が走った。
電車内では窓を閉めていたので外気温なんてわからなかったが、山という事もあり都内との気温差が高く、涼しいを越えて寒かった。
「やっぱり上着がいるね」
「山は冷えるからな」
駅で待ち合わせをしていたが、現れたリョーマの上着はパーカーだけというかなりの軽装だった。
何か上着を持って来たのかと訊ねれば、カバンに入っていると答えた。
「とりあえず暫くこれを着ていろ」
使わないつもりでカバンの1番下に入れてあったようで、ごそごそしている間にバスがやって来た。
手塚は自分のジャケットを脱いでリョーマの肩に掛けてやった。
「で、でも国光が寒いよ」
「俺なら大丈夫だ。それよりバスが来たぞ」
手塚が見ている方向にはホテルの名前が入ったマイクロバスが走っている。
少し慌ててカバンのファスナーを閉めてリョーマが立ち上がったと同時に、バスは停留所に横付けに止まった。
「遠方からお疲れ様です」
バスの扉が開くと、父親と変わらないくらいの歳に見える運転手が、にこやかな笑顔でこちらに会釈をしてきた。
「よろしくお願いします」
「お願いしマース」
手塚を先にバスに乗り込むが、どうやら自分達しかバスの利用者がいないようなので、運転手はすぐに扉を閉めると出発した。
バスが通る道の両端には民家はそれほど無く、特産物を売っている店や、この地域で有名な食べ物の店などが転々としていた。
「あ、馬だ…」
窓から長閑な風景を眺めていると、馬が人に引かれながらのんびりと歩いているのが見えた。
「ホテルの近くにも乗馬ができる場所が何箇所かあるそうだぞ。乗ってみるか?」
「…や、別に興味無いし。それに…」
その後は運転手に聞こえないように手塚の耳元だけで小声でぼそぼそと呟いた。
初めは眉をしかめていた手塚だったが、リョーマの呟きを最後まで聞くと表情を緩めていた。
「…覚悟しておけよ」
「国光もね」
2人にしかわからない話しをしていると、バスは高い木々がそびえる細い道をどんどん進み、趣の有るホテルの看板の横を通り抜ける。
「これが全て部屋なんだ。何かホテルって感じがしないんだけど…」
まるでマンションのような作りに、リョーマは歓心していた。
「こちらはレジテンスタイプだな」
「へぇ〜」
室内は窺えないが、建物の色はこの自然の色合いと絶妙なコントラストを作っていた。
暫く走るとフロントがあるホテル正面にゆっくり止まる。
「どうも、ありがと」
「ありがとうございました」
完全に止まってから2人が運転手に礼を言いながら下りると、運転手も2人に笑いかけながら「ごゆっくりして下さいね」と、声を掛けてくれた。
「フロントも広いね」
ホテルは滞在者がゆっくり出来るようにと、チェックインは午後2時と設定されていて、チェックアウトは正午に設定されているが、駅に到着した時点で時間はもう2時を過ぎていたので、2人はチェックインを済ます事にした。
「ここで待っていてくれ」
手塚は荷物をリョーマの足元に置き、チェックインをする為にフロントに行ってしまった。
カウンターでは数組の家族連れが同じようにチェックインの手続きをしていた。
「待たせたな。さあ、行こう」
チケットがあったので手続きは簡単なもので終わり、手塚は部屋の鍵と、ホテルが発行しているこの付近の地図を手に持って戻って来た。
どうやら部屋には案内はおらず自分達だけで行くようだ。
「はーい」
フロントの横にあるエスカレーターを上がると、まずは日用品などが販売されている小さな売店と、軽食が食べられる喫茶店が現れた。
売店では手作りパンやソフトクリームのポスターが貼られているので、ちょっと気になる。
「ここでパンを買うんだ」
「朝になれば俺達のように朝食を抜いてある人が、出来たてのパンを求めにやって来るそうだ」
「ふーん。じゃあ、俺達もそうしようよ」
そして先程バスから見たレジテンス棟の通路を歩く。
まるでイタリアなどの国で見られるような異国情緒溢れる作りには、バスから見ていた以上に圧倒されていた。
「リョーマ、こちらだ」
手塚はどこまでも続く同じ風景を見ながら先に進んで行くリョーマの手を引き、足を止めさせた。
「え、あ、そうなんだ。で、何階なの?」
手塚が手を引いてくれなければ、きっと突き当たりまで歩いて行っていた。
何だか変な照れ臭さが残るが、顔に出さないように平然を装う。
「どうやら3階のようだな」
「3階って室内に階段があるんだよね」
鍵の番号と建物にある番号を確認すれば、この鍵は3階部分だった。
階段を上がり、部屋の鍵穴に鍵を差し込む。
少し重いドアを引いて開くと、深い海のような青色の絨毯と鮮やかなオレンジのソファーが目に飛び込んできた。
「わっ、何かイイ感じの部屋だね」
ボスン、とカバンをドアの横に落すように置く。
着ていた手塚のジャケットを脱いでソファーの上に置くと、小さな子供のように楽しそうな顔をして中の探索を始めた。
テラスに出てみたり、バスムールのドアを開けたりと忙しなく歩き回る。
「リョーマ、室内を歩き回るのならこのスリッパに履き替えてくれないか」
クローゼットの中からスリッパを発見した手塚は、室内を隈なく見ようとするリョーマに勧めていた。
「そだね」
ベッドルームとなっているロフトに続く階段を上る前に、リョーマはスリッパに履き替えると、パタパタと階段を上がって行った。
どうやら想像以上に喜んでくれている。
それだけでも手塚には誘って良かったと心の底から感じていた。
「国光〜」
ソファーに置かれたジャケットや、カバンから着替えや出してクローゼットに掛けていた手塚を、リョーマは手すりから身体を乗り出して呼ぶ。
「危ないぞ、リョーマ」
「大丈夫だよ」
自分とリョーマの荷物を収めてクローゼットを閉めると、手塚も階段を上がる。
「これは…」
ロフトにあるのはベッドが2つとテレビだけという、寝る為の場所と言えるほどにシンプルなものだった。
「ベッドが並んでるからすごく広く感じるよね。うん、なかなか良い感じ…」
リョーマはベッドに座り、スプリングの感触を確かめる。
1つでもダブルサイズなのに、隙間無く並べているのでかなり横幅のあるベッドになっていた。
「どうせ片側しか使わないがな」
手塚もリョーマの横に座ってみる。
「…国光ってば」
言葉の意味なんて訊ねるほど抜けていない。
もちろんその辺も含めて手塚の誘いに乗ったのだから、拒む気なんて初めから無かった。
「お前もバスの中でそう言ってくれただろう」
「まあね…」
リョーマはバスの中で手塚に話した内容を思い出し、ポッと頬を赤くする。
バスの中で乗馬の話が出た時に、リョーマは「馬なんかに乗らなくても国光の上に乗るからいいよ」と言っていた。
まだまだ付き合ってから半年。
だが、その関係は何年も付き合い、互いを知り尽くしている恋人同士のような関係だった。
「部屋が3階で有り難いな」
「そだね」
自分達に宛がわれた部屋はメゾネットタイプ。
これならどれだけベッドを軋ませてもその音は2階に響かない。
「電車の中であれだけ寝ていたのだから、夜は遅くなっても構わないな?」
手塚は言いながらも、座っていたリョーマの肩を押してベッドへと倒していた。
「…別にいいけどさ。でも、あんまり激しくすると明日は起きれなくなるよ?」
見上げるリョーマに行為を断る理由は少しも無いが、心と身体の赴くままにしてしまったら、朝は絶対にベッドから出られなくなる。
今回の旅行は1泊2日なので、明日の昼にはホテルを出ないといけない。
「無論、加減はするさ」
ゆっくりと近付く唇にリョーマは瞳を閉じていた。
しっとりと重なり合わせ、触れ合わせるだけのバードキスを何度も繰り返した後で、重ね合わせた時と同じようにゆっくり離していった。
「…散歩にでも行ってみるか?」
「うん」
夜の楽しみの為に今はキスだけで終わらせると、寒さ対策用に上着をはおり、靴に履き替えて外に出た。
レジテンス側はフロントの前を通らなくても外に出られるようになっていたが、まずはレジテンス棟の端から端までを歩き回っていた。
「ねぇ、あそこには何があるの?」
レジテンスの一番奥には大きな扉があるが、鍵が掛かっているので中に何があるのかわからない。
「教会だ」
この場所の事はパンフレットに載っていたが、リョーマには驚かせようと思って見せていなかった。
「ふーん、結婚式も出来るんだ。でも、こんな辺鄙な場所で結婚式を挙げるなんて変わってるね」
付近に有名な観光地があれば楽しめるかもしれないが、この周辺にはそれらの施設は無い。
あるのは乗馬が出来る牧場や、趣味で出している店。
名水に数えられる湧き水が出る神社など。
山なので冬であればスキーのついでに泊まればいいが、この季節は紅葉が楽しめるくらい。
本当にゆっくりとしたい人向けのホテルだった。
「じゃあさ、今度はホテルタイプ側に行ってみようよ」
まるでプールでターンをするように壁にタッチすると、今歩いた道を逆向きに歩き出した。
「これが売店なの?ねえ、普通に服も売ってるよ」
土地柄の土産物や地酒の類から、洋服にアクセサリーなどの品々も充実していた。
店内をぐるりと一周し、最後に菓子類を見る。
「あ、これいいかも」
この辺りでは有名な土産のサンプルを、リョーマは食い入るように見つめる。
土産物には当たり外れが多いが、これなら大丈夫そうだと自宅用に買う土産リストに入れる。
「これを買うのか?」
祖父の土産に地酒を見ていた手塚もやって来て、実際の品物を手に取っていた。
「これは土産でしょ?こういうのは後にしようよ」
ひょいと、手塚の手から奪うと元の場所に戻す。
自分達はまだ散歩の途中なのだから、散歩が終わってから買えばいいだけ。
もっと探索しようと、リョーマは手塚の手を引っ張りながら店を出た。
広い通路を挟んだホテルタイプの一階部分は、レストランと小さな遊技場があったが、ここは利用する気がないので外から見るだけで終わった。
「あ、階段がある。ねぇこの先は何があるの?」
歩いている途中でホテル内の中では珍しいほどの狭い階段が現れたが、その先が見えない。
「確か、この先にはテニスコートだと思うが」
パンフレットにはそう書いてあったが、実際に行ってみない事には確かめられない。
「ふーん。行ってみよう」
リョーマが階段を下りるので手塚も下りる。
階段を下りると手塚のいうとおりにテニスコートがあったが、それよりも気になったのか、テニスコートから少し離れた場所に設置してある、頭よりも少し高い部分に取り付けてある鐘と祭壇だった。
「リョーマ」
「ここでも式を挙げられるんだね。ほら、あそこ」
「…十字架か」
リョーマが指差した場所には十字架が掲げてあり、このホテルではレジテンス棟の奥だけでなく、ホテルタイプ側の屋外でも式を挙げられるようになっているようだ。
「…リョーマ、折角だから2人だけで式を挙げるか?」
「はぁ?」
真剣な表情で言ってくる手塚に、リョーマは思わず吹き出してしまった。
「冗談では無いのだが…」
本気で言ったのに軽く笑われて、手塚は眉間に皺を寄せる。
「別に神様に認めてもらう必要なんて無いって事だよ。それとも国光は式を挙げないと不安なの?」
手塚は一瞬目を見開いてからリョーマの顔を見る。
リョーマは綺麗に笑い掛けるだけで、それ以上の言葉は発しなかった。
「…いや、そうだな。俺達には必要ないな」
神の前で誓わなくても、この想いはお互いに誓っている。
誰かに認めてもらう必要など無い。
「ね?」
この想いは神に伝えるよりもお互いに伝えれば良いのを知ってもらうと「次に行こう」と、リョーマはまた手塚の手を引っ張った。
「これで見るとこは終わりかな?」
「そのようだな」
最後に2人が見ていたのは屋内プールだった。
宿泊者でも利用するにはそれなりに金額が掛かる。
さすがにリゾートホテルとあってホテル利用者であっても無料とはいかない。
安上がりにしようとする宿泊者には辛いところだった。
暇を潰すには丁度良いが、昼間はかなりの高額。
午後7時以降になれば大人は1500円で子供が1000円となるので「それくらいなら良いか」と、この時間帯に一番利用者が多いらしい。
波が出るプールが置くに行けば行くほどに深くなり、一番深い場所は大人でも肩が水に浸かる。
今は小さな子供を連れた親子連れと、数人で来ているグループだけが利用していた。
「何か食べて部屋に戻ろうよ」
楽しそうにビーチボールで遊んでいた親子を暫く眺めると、リョーマは後ろで一人掛けの椅子に座っている手塚を振り返る。
「ああ、そうしよう」
椅子から立ち上がる。
こんな場所にいるくらいなら、部屋にいる方がいい。
紅葉は電車の中と、ホテルから見られる景色で満喫した。
残るはリョーマとの時間にするだけだった。
「ちゃんとしたご飯の方が良かった?」
「本来ならそうした方が良いのだろうが…」
早めの夕食は喫茶店で済ます事にした。
自分達と同じ考えでここを利用する家族が多いからか、ファミレスにあるようなメニューが多かった。
入る前から店内にいた年配の夫婦は定食メニューをセレクトして食べていた。
手塚はミックスサンドウィッチとコーヒーで、リョーマはハンバーグとサラダを食べていた。
金額も味は至って普通。
「ねぇ、自販機で何か買ってもいい?」
「構わないが、アルコール類は駄目だぞ」
「…そんなの飲まないよ」
大きく切ったハンバーグを口に入れて、モグモグと食べていた。
食べ終わると手塚がレジで会計を済ませ、ついでに立ち寄った自動販売機でジュースを買えば、今からの時間は何も気にしないで2人の時間を過ごす。
親の目、周囲の目、そんな物はここに一切存在しない。
裸のままで部屋にいるのも、一緒に風呂に入るのも、兎に角全てが自由。
ユニットバスにたっぷりと湯を張ったが、どうも元々が寒い場所のようで湯はすぐに冷めてしまい、これではいけないとシャワーを出して、身体に当たるようにしながら2人は入っていた。
「…ね、ベッド行こうよ」
頭上から降り注ぐシャワーなど関係なく抱き合いながらキスを交わしていたが、腕を動かせば壁などに当たる。
こんな狭いところよりも広い場所でゆっくりとしたい。
「そうだな」
それは手塚も同意見だったようで、シャワーを止めて立ち上がる。
手塚はタオルで身体を軽く拭くと、まだ湯の中でちょこんと座っているリョーマを見下ろすと、不適な笑みを浮かべてお湯に中に腕を突っ込み、リョーマの身体を抱え上げた。
「わっ、まだ拭いてないよ」
不安定な自分を支えるように、手塚の首に腕をまわし、ぎゅっと抱きつく。
「どうせ、濡れるのだから同じだ」
「……エッチ」
軽く拭いただけの手塚と濡れたままのリョーマ。
下着も穿かずにバスルームから出ると、ロフトへと続く階段を上がって行った。
この後は2人の気が済むまで、というか、リョーマが何度目かの絶頂で気を失うまで延々と睦みあっていた。
次の日の朝、まだ眠っているリョーマを起こさないように、手塚は部屋から出ていた。
外に出れば身体が引き締まるような寒さだったが、吸い込む空気は都会では味わえない格別の物だった。
「どれくらい食べるのだろうか…」
簡単には起き上がれないリョーマを出来るだけゆっくり寝させようと、手塚は朝食用のパンを1人で買い出しに来ていた。
やはり、他にも自分達と同じ考えの宿泊者はいて、数人が店内でパンを選んでいた。
手塚は適当に選んだ数種類のパンと、瓶の牛乳を買い、部屋に戻る事にした。
「ここの景色はいいな…」
ふと、目にしたそびえる山々にかかる朝靄の風景。
最近は登山に行っていないのを思い出したが、趣味を楽しむよりもリョーマと過ごす時間の方が大切と手塚は景色から視線を外し歩き出した。
部屋に戻ってもリョーマはベッドから出た気配はなく、牛乳だけは備え付けの冷蔵庫に入れておく。
「…まだ早いしな」
手塚はロフトには上がらずに、ソファーに座りテレビを付けていた。
「…ん?」
ごろんと寝返りを打ったリョーマは、隣にあるはずの温もりがない事に気付き、目を覚ましていた。
まだはっきりとしない意識で時計を見れば、8時を過ぎた辺りだった。
「…あれ、国光?」
ムクリと起き上がり左右を見ても手塚の姿はないが、下の方から何か音がするのでリョーマ気だるい身体を引き摺るようにベッドから出て確かめる。
「…国光、発見」
「起きたのか?」
頭上から声を掛けられた手塚は顔を上げた。
「…何でそんなトコにいるの?」
2人きりを満喫しようと決めたのに、目が覚めたら隣にいないなんて、と思わずムッとした顔を見せる。
「朝食用にパンを買いに行っていたんだ。食べられるのなら下りてこないか?」
「……食べる」
パンと聞いて、お腹が空いている事に気付く。
夕食が早くて、夜にあれだけ運動していたのだから空腹になるのも無理は無い。
怒りよりも空腹を満たす方が先決だった。
リョーマが下りて着替えている間に、手塚はパンと牛乳を用意し、そして部屋に置いてあった紅茶を作る。
「たくさん買ったんだね」
「ああ、残れば持って帰れば良いと思ってな」
牛乳をコップに注いで、リョーマの前に置く。
「ここまで来て牛乳…」
白い液体を見て、言葉と表情が一致する。
「だが、これは美味いぞ」
「…え〜、牛乳なんてどれも同じでしょ………おいしい…何で?」
試しに一口飲んでみれば、いつも家や学校で飲んでいる牛乳とは比べ物にならないほど美味しかった。
「ジャージー牛だからな、嫌な後味が少ないんだ」
「へ〜、これなら毎日でもいいのになぁ」
ベーコンが入ったパンを齧りながら牛乳を飲む。
パンも作りたてとあって、どれもが美味しかった。
パンも牛乳も美味しく頂き、リョーマのお腹は充分満たされて、先程の怒りはどこかへ飛んで行ってしまっていた。。
「あ〜、学校も親も何にもなくて国光だけがいるなんて最高だね」
朝食を食べてしまえば、帰る前に土産を買えばいいだけで、残った貴重な時間は2人きりでいられる事に感謝しながら触れ合っていた。
「俺達はまだ義務教育中で制限のある中で生きているが、1人で生きていけるようになった時にもお前が傍にいてくれれば…それこそ最高だな」
手塚の言葉に目を丸くしたリョーマは、次の瞬間にはきれいな笑顔を見せていた。
たった一泊の旅。
あと数時間すればいつもの生活に戻ってしまうなんて、まるでシンデレラのよう。
けれど、2人にはガラスの靴は必要ない。
リョーマはいつでも手塚の傍にいて、手塚はいつでもリョーマの傍にいるのだから。
「俺もおじさんにお土産買って行こうっと」
チェックアウト前に家族に土産を買うが、リョーマは手塚の家族の分までも購入していた。
今回の旅行に対するお礼と、普段から仲良くしてもらっているお礼を兼ねて、地酒や漬物、お菓子など手で持っていけるだけの量を購入した。
もちろん、彩菜も国晴も国一も喜んでいた。
こうしてリョーマは手塚の家族からも可愛がられ、2人で旅行に行く事も、すんなりとOKをもらえるようにるなんて今は知らない。
ホテルのバスに乗り、駅へと到着すれば、良いタイミングで電車はやって来た。
ここから乗る人は少なく、またしても2人掛けのシートに座る。
「…ありがとね、誘ってくれて」
「また誘っても良いか?」
「…うん」
帰りの電車の中、2人は寄り添うように座り、見えないようにこっそりと手を繋いでいた。
手塚がリョーマを送って自宅に戻ると、ホテルの感想を聞かれたが「綺麗で良かった」としか言えなかった。
頭と身体が記憶しているのは、ベッド上のリョーマの姿だけ。
自宅では音が気になって控えめにしていたが、何も気にしなくて良かったので、2人ともが羽目を外していた。
旅行の楽しみは、場所や料理、土産などに加え、恋人ならば夜の営みも重要となる。
次の機会があるとするのなら、2人はどこに行くのだろうか。
おそらく、どこに行っても2人の行動はさほど変わり無い。
これだけは確かな事だった。
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