願 い


あの人の瞳に俺だけを映したい。

エゴイズムだってわかっているけど、それが俺の願いでもあり…夢でもあるんだ。
たとえ願いであろうが夢であろうが、これだけは永遠に叶わないってのもわかってる。

夢は逃げない。
逃げているのは自分。

だから悟られないよう、胸の中だけに秘める。



「最近は遅刻しなくなったな、お前」
「もしかして、俺の事っスか?」
自分に話し掛けられているのだと理解したリョーマが、ちらりと視線だけを横に向けた。
「お前以外に誰がいるんだよ」
「ふーん、俺の事なんだ」
自分の話だろうが、それほど興味が無いリョーマは素っ気無い態度で着替えを続けていた。
「お前なぁ…」
呆れた顔をしたのは桃城だった。
朝練は滞りなく終了し、片付けを済ませてから部室内に入ったリョーマは制服に着替え始める。
この頃には教室に戻って行く部員が多くなり、既に片手で数えられる人数しか残っていない中、隣で菊丸とのお喋りに興じていた桃城が唐突に話を振ってきた。
「…いつも遅刻なんてしてたら、陸上部と同じメニューしかやれないっスよ」
学生服のボタンをはめながら、リョーマは普段通りの勝気な笑みを作る。
以前は度々遅刻していたのは紛れも無い真実だが、今は遅刻なんてしていない。
いや、出来ない状態になってしまったのだ。
「そりゃそうだ。グラウンド走って戻って来たら、練習時間が終りじゃあなぁ…やってらんねょな」
リョーマがテニス部に入部した始めの頃は、本当に遅刻ばかりで、上級生の中には「ふざけやがって」と、リョーマを目の敵にする者が多かった。
どれだけ敵が増えてもリョーマには全く気にする様子は無く、何をしても逆効果で終わっていた。
少し経ってからリョーマがかなりの低血圧で朝が弱いと知った上級生の一部は、これ以上の敵を増やすのも良くないと、自転車通学をしている桃城に迎えに行くように頼んでいた。
頼んだといえば聞こえはいいが、実際には命令に近い状態であった。
副部長であり、誰に対しても心優しい大石の胃薬の量が増えないのならば、と桃城は承諾した。
大石の胃薬の量が減るまで間は、桃城がリョーマの遅刻を防ぐ為の最終的手段になっていたが、何時からか自主的に早起きをして遅刻しないようになっていた。
良い事だと喜びながらも『何があったんだ?』という疑問だけがいつまでも残っている。
しかしリョーマに訊いても、答えは返って来ない。
結局は謎のままで終わる問題。
「手塚部長は厳しいからな」
リョーマの性格を嫌と言うほど思い知らされている桃城は早々に話題を変えてしまう。
下手に話を引き伸ばせば、リョーマお得意の辛口コメントを聞かされるハメになるだけ。
「…そっスね」
練習中に私語でもして練習をサボっていたら、容赦なくグラウンドを走らされる。
遅刻でもしようものなら、朝の練習中はグラウンドを走るだけで終わってしまうのだ。
「そうそう、手塚は真面目過ぎるんだにゃ。ちょっとくらい笑えばいいのに、あの無表情でさ『グラウンド十周だ』なんて平気で言うし。ほーんと、愛想の無い奴」
最後に自慢のヘアスタイルをチェックした菊丸も話しに加わって来た。
同学年でも手塚の存在は他の生徒と比べて少し違う。
『威厳』や『厳格』と言った単語が良く似合うと、誰もが思っている。
生徒の中には手塚を神にも近い存在だと、本気で思ってしまう人物もいるほどだ。
「本当っすよね。鬼部長って異名を持つくらいですし」
「うわっ、鬼まで言っちゃう?桃ってば怖いもん無しだにゃ〜。俺だって口が裂けても言えないのにぃ」
うんうん、と頷く桃城に菊丸は大袈裟な反応をする。
「な、何言ってんすか、英二先輩が言い出したんすよ。俺に責任を擦り付けないで下さいよ」
どうも自分が言いだしっぺみたいな言い方をするので、桃城は慌てて否定する。
「あれ?そうだっけ。でも桃だって実はそう思ってるんだろ?ほらほら、言っちゃえよ」
「勘弁してくださいよ〜、英二先輩」
何時の間にか二人だけのお喋りに戻ってしまい、リョーマは二人に気付かれないように溜息を吐いた。

遅刻なんてしていたら、自分の印象が悪くなるだけ。
初めっから自分の力じゃどうする事も出来ない歳の差ってハンデがあるし、何よりも俺には不利な事が多すぎる。
だから少しでも良い印象を与えようと、まずは遅刻をしないようにしているんだ。
俺にとって朝が早いのは本当に辛いから、足りない睡眠時間は授業中で補って、部活には最高のテンションで参加しているんだよね。
ま、教科書さえあれば大体の内容は把握できるし、何と言っても授業の内容ははっきり言って簡単過ぎる。
…でも、居眠りも本当は駄目なんだよね。
あの人の耳にもしっかり届いているんだろうな…。

「こらこら、英二も桃もお喋りはそこまでにしないと、本当に遅くなるぞ」
ぼんやりと自分の世界に入り込んでいたリョーマの意識を戻したのは大石の困ったような声。
先に出て行った手塚に代わり、このやんちゃ集団をまとめるのは必然的に大石の役目となる。
最後に扉の鍵を締めないといけないので、この部室に残っているのだ。
「ほーい」
「うわっ、ヤベ、1時限目が体育っすよ、俺」
バッグの中で時間割を確認した桃城は、もの凄い勢いで着替えてバッグを肩に担ぐと「お先に」と言い残して部室から飛び出て行った。
「ご苦労様っスね。大石副部長」
全員が出るまで待っていた大石に労いの言葉を掛ける。
「ははは、まさか越前に慰められるとはね。さぁ、そろそろ行こうか」
残っているリョーマと菊丸に退出を促すと、2人は言われたとおりに部室から出た。
誰もいなくなり、窓も閉まっているのを自分の目で確認すると、大石はようやく鍵を掛ける事が出来てホッとしていた。
「さ〜て、今日も1日頑張りますかー」
菊丸は太陽に向かって大きく両手を上げた。
「菊丸先輩はいつも無駄に元気っスね」
「無駄は余計だにゃ」
上げていた手を反射的にリョーマの頭に置いて、頭を抑えるようにして髪をぐしゃぐしゃにする。
「…ちょ、菊丸先輩、何するんスか」
「お仕置きだよん」
そのまま、グリグリ、と力任せに頭を撫でる。
「いてて…」
菊丸はリョーマに対してだけ、まるで兄弟のように接している。
「おチビは本当に可愛いにゃ〜」
涙目になって上目遣いに見てくるリョーマに、菊丸は目をキラキラさせる。
「…何言ってるんスか?」
末っ子の菊丸にとっては、可愛い弟が出来たようで嬉しくなるが、1人っ子のリョーマには菊丸の気持ちは理解出来ない。

最終的には大石が2人を止めて、教室へ向かった。

それぞれが教室に着く頃には、1日の始まりを告げるチャイムの音が鳴り響いた。



「悪い、越前」
パン、と手を併せて頭を下げるのは、リョーマの隣のクラスの男子だった。
自分よりも頭一つ分大きな相手が、リョーマよりも小さくなっている姿にリョーマは息を吐いた。
「…別にいいけどさ」
廊下での立ち話なので、通り掛る全ての生徒が2人をチラチラ見ていた。
リョーマは部活動でもルーキーとして、青学在中の生徒からは注目の的となっている。
部活はテニスに集中しているので我慢できるが、普段の校舎内で見せ物になるのは嫌なリョーマは、さっさと話を終わらせたいのか、とてつもなく素っ気無い返事だった。
「来週のお前の当番は俺がやるからな」
「そんなの当たり前でしょ…」
「恩に着るぜ、越前」
リョーマがしぶしぶ了解してくれた事に対し、見事なまでに表情が晴れ晴れとしている。
綺麗に刈り取られた丸坊主頭のこの男子は、野球部に所属していて、委員会はリョーマと同じ『図書委員』に属している。
今日はこの男子の当番になっているが、どうしても部活には遅れられない理由があるらしく、隣のクラスでしかも同じ男だから、リョーマに当番を代わって欲しいと頼み込んで来たのだった。
どこから見ても『体育会系』のこの男子が、地味な図書委員に属している理由は、身体を動かす事が好きで、しかもじっくりと本を読むのも大好きだからだと聞いた。
この学校がモットーにしている文武両道の精神を理解し、それを実行している人物だ。
「じゃ、よろしくな」
日焼けした顔から白い歯を出してニカッと笑うと、片手を上げて自分の教室へ戻って行った。
「…はぁ、メンドクサイな」
了承してしまった事から、今度はこちらが部活に遅れる事になる。
リョーマは自分で伝えに行くのが面倒だからと、堀尾に今日の部活に遅れる事を部長か副部長に話しておいて欲しいと伝えておいた。


放課後、リョーマは重い足取りで図書館に向かった。
扉を開けて中に入ると、カウンターにいる人物と目が合った。
「あら、越前君じゃない。今日は当番じゃないわよね」
当番表で確認するが、やはりリョーマでは無かった。
「代わったっスよ」
「まあ、珍しいわね」
カウンター内で作業をしていたのは、この巨大な図書館を仕切る司書の横山だ。
淡いベージュのスーツを身に纏い、顔には薄っすらと化粧を施し、肩甲骨まで伸ばした髪を邪魔にならないよう一つにまとめている。
学園内でも美人で有名な司書であるが、本人は生徒では無く、本を相手にするのだからと、身だしなみは最低限にしている。
何より生徒に色目を使うようなタイプではないので、男子生徒だけでなく女子生徒からも慕われていた。
リョーマはカウンターの中に入り、持っていたバッグを床に置く。
「越前君、私は打ち合わせがあるからちょっと席を外させてもらうけど、1人で大丈夫よね?」
「平気っスよ」
椅子に腰掛けて、人が来るのを待つだけ。
図書委員の仕事は、本の返却と貸し出しの処理をして、最後に戻ってきた本を棚に戻すだけ。
誰でも出来る内容だ。
「じゃあ、お願いね。もし時間になっても戻って来なかったら鍵を締めてもいいから」
カバンを持って出て行こうとするが、思い出したように踵を翻し、リョーマの前に立った。
「ういっス」
「それじゃあ、よろしくね」
ひらひら、と手を軽く振って図書館から出て行った。

司書が出て行ってから、既に20分以上が過ぎた。

「…暇」
ドアを穴が開きそうなほど見つめるが、ドアの向こうに人影は見えない。
これほどまでに誰も来ない時間があるなんて、珍しい事もあるものだ。
それに加えて、特にやる事も無く、退屈ばかりで飽き飽きしてきた。
「…もう、閉めちゃおうかなぁ」
何を言っても返ってくる返事は無い。
「あ〜あ、早く部活に行きたいな」
カウンターに肘をついて頬杖をつく。
早く部活に参加したいが、決められた時間まではここにいないといけない。
椅子に座っているのもそろそろ飽きたのか、身体を動かそうと立ち上がった。
うーん、と伸びをしたところで、ようやく図書館のドアが開いた。
「越前?」
「…手塚部長」
ドアを開けたのは、既に部活に参加しているはずの手塚だった。
「今日はお前の当番なのか?」
「違うっスよ。今日は代わったんです。返却っスか?」
全く予想していない人物の登場に、おもいっきり上げていた腕を慌てて下ろし、図書委員の役目を果たす為に椅子に座る。
「これを頼む」
「…部活はいいんスか?」
渡された本のカードに返却済みの印鑑をポンと押す。
これで返却の作業は終わりだ。
「ああ、明日の授業で必要な本を借りなければならなくてな」
「ふーん、大変っスね」
「まあな…」
滅多に表情を変えない手塚が、微かに笑みを浮かべた。
ドキリ、と胸が高鳴るリョーマは、それを悟られないように平常心を必死になって保っていた。
「お前も寝ていないで、しっかりと職務を果たすのだな」
「寝てなんかいないっスよ」
ムスッとした顔を見せれば、今度こそ声を上げて笑った。
「ではな…」
手塚はリョーマに軽く手を上げると、自分の求めている書物を探しに数多くある書棚に向かい歩いて行った。
リョーマはその後姿をただ見つめるだけだった。


何で、こんな時に来るんだろ。
俺が…あんたの事をどう想ってるかなんて…考えた事も無いんだろうな。
あんな顔を俺に見せて…。

俺……あんたの事…好きなんだよ。

悔しいから絶対に、俺を好きになるようにしてやる。



あの人の瞳に俺だけを映したい。
エゴイズムだってわかっているけど、それが俺の願いでもあり…夢でもあるんだ。
たとえ願いであろうが夢であろうが、これだけは永遠に叶わないってのもわかってる。

夢は逃げない。
逃げているのは自分。
でも、逃げたくない。
絶対に俺だけをその瞳に映るようにしてやる。
だから今は悟られないよう、胸の中だけに秘める。


いつか叶うその日まで。





片想い中のリョーマさんのお話しでした。
ありえないくらいに、ラブラブしていない2人を書くのは大変でした。