「リョーマさん、牛乳は?」
「休みの日くらい飲みたくない」
部活に行く前の朝食タイム。
今朝は土曜日とあって、朝食は洋風スタイル。主食はトーストかクロワッサンで、副菜として野菜サラダとスクランブルエッグにあらびきウインナー。
そして飲み物は大人がコーヒーで子供はミルク。
この家の中で子供はリョーマ、ただ1人。
「でも、1日にこれだけは必ず飲みなさいって言われているのでしょう?」
「別に飲んだからって一気に背が伸びるわけじゃないし、1日くらい飲まなくたっていい」
以前、練習中に乾から「1日2本いこう」と瓶の牛乳を渡された。
元々、苦手な部類に属していた牛乳を1日に400mlも飲むのは、リョーマにとって拷問に等しい。嫌いな物を仕方なく続けていたのでかなり不満があり、今日はとうとう態度にしてしまっていた。
ぷい、と横を向くリョーマに菜々子は片手を頬に当てる。
「まあ、どうしましょう…」
既にグラスに注いてしまったので、このままにしておけない。
だからといって自分が飲んでしまっては意味が無い。
「あ、そうだわ」
困り果てていたが、何やらひらめいたのかグラスを持つと流し台の前に立った。
カラカラ、と何かを混ぜている音がするので何かをしているようだが、リョーマからは何も見えない。
「これならどうかしら?」
数分過ぎてから再びリョーマの前にグラスを置く。
「何これ?」
「これなら大丈夫だと思いますから、飲んでみて下さい」
「…本当に?」
「はい」
疑っている眼差しを物ともせず、菜々子は柔らかく微笑む。
「じゃ、飲んでみる」
菜々子の顔色を窺いながらグラスを持つと、リョーマは口の中に流し込んだ。
「お邪魔します」
午前中の部活が終わり、手塚はリョーマの自宅を訪れた。
薄いブルーのシャツにブラックジーンズという出で立ちで、スポーツバッグとは違うバッグを手に持っている。
常に立ち姿はピシッと背筋が伸びていて、中学生である部分を除けば、完璧にモデルに間違えられそうだ。
「こんにちは、今日もリョーマさんのお勉強を見て下さいますの?」
「はい」
「さあ、どうぞ。リョーマさんはもう少ししたら戻りますから」
手塚にスリッパを用意して、菜々子は「居間にどうぞ」と勧めていた。
何度目になるのかわからないほど手塚はリョーマの自宅に来ている。
リョーマも負けないくらい手塚の自宅に行っているが、リョーマが行く時は泊まりがけが多い。それが何を意味しているのかなんて、野暮な話だ。
「よろしくお願いしますね。手塚さんに教えて頂いてから、リョーマさんの成績がとても良くなりましたの」
温かい緑茶と季節限定の栗蒸し羊羹を出して、リョーマが戻るまでの間、菜々子は手塚の話し相手となる。
「飲み込みが早いので、教えがいがあります」
せっかく出してもらった物に手を付けないのも悪い、と湯呑みを持った。
柔らかなお茶の香りが鼻をくすぐる。
一口飲めば、口の中いっぱいに香りが広がった。
「…今日はちっとマシなボール打つようになったな」
「うるさいな、もう少し真面目に相手しろっつんだよ」
「かっ、お前に合わせてやってんだよ」
「…なんか腹立つ」
菜々子と学校での話や部活の話しをしていると、遠くから人の話し声が聞こえてきた。
話し声というか、けんか腰で喋っている人物と、それをあしらっている人物。
とにかく“騒がしい”の一言に過ぎる。
「あら、お戻りになられたようですわね」
どうやら、リョーマと南次郎が寺から戻って来たようだ。
寺には南次郎が作ったテニスコートがあり、部活後や休日に打ち合っていて、手塚も時々利用させてもらっている。
「……あれ、手塚先輩?え、もうそんな時間?」
縁側に現れたリョーマは、居間にいる手塚と目が合い、思わず壁掛けの時計を見る。
しかし、時計の針は約束している時間より前だった。
「少し早く来てしまっただけだ」
ふ、と表情を和らげる。
「ちょっと待って…」
縁側から上がろうと思ったが、そんな無作法を手塚の前でしたら、後で何を言われるかわからない。急いで玄関にまわり、待たせるのも悪いと家の中をバタバタと忙しく歩く。
「手塚先輩、シャワー浴びてくるから部屋で待ってて下さい」
居間の入口でそれだけを言うと、リョーマは急ぎ足で浴室へ向かって行った。
「うふふ、リョーマさんったら、手塚さん、もう少しゆっくりして下さいね」
「はい」
リョーマがシャワーを浴びて出てくるまでの時間は必ず20分。
手塚はお茶と羊羹を食べ終えてから、部屋に行く事にした。
「ごちそうさまでした」
「いいえ、後で何か持って行きますから、リョーマさんにも言っておいて下さい」
「お手数をお掛けてして申し訳ありません」
手塚は菜々子に礼を言ってから、リョーマの部屋に行く為に階段を上った。
「…ここはこの公式でいいよね」
「ああ、そうだ」
教科書や参考書を広げ、リョーマは目の前のノートに問題の答えを書いていく。
時には「うーん」と悩んだり、「あ、そっか」と一人で納得したりと、問題相手に百面相をしていた。
「…出来た」
「見せてみろ」
全ての問題の答えを書いたノートを手塚に渡し、リョーマは緊張を解く為に体勢を崩した。
勉強を始めてから既に2時間も過ぎていて、世間一般的の『おやつタイム』の時間を迎えていた。
「…よし、全問正解だ」
答え合せをするのは手塚の役目。
「ホント?やったね」
「ああ、理数系は全く問題ないからな。次は…」
「…開けていいよ」
続けて違う教科に進もうとしたが、タイミング良くドアをノックされて手塚の言葉はそこで止まり、リョーマはそのノックに応えていた。
「お二人とも、そろそろ休憩にしませんか?」
ドアを開けたのは菜々子で、手にはお盆を持って部屋にやって来た。
「どうする?」
「…そうだな、あまり長く続けても集中力が欠けるだけだしな」
根を詰めて行うほどでは無いので「休憩にしよう」とリョーマに言った。
「やった、今日は何?」
「今日は久しぶりにシフォンケーキを焼きましたのよ。手塚さんは紅茶でよろしかったですよね?」
机上に広げられていた教科書やノートを片付けてスペースを作ると、菜々子は手際よく2人の前に置いていく。
「お気遣いありがとうございます」
「リョーマさんは、これね」
「サンキュ」
手塚の前にはティーカップで、リョーマの前にはマグカップ。
中身も違っているようだが、それが何なのか手塚にはわからない。
続いて、大きめにカットされたシフォンケーキが乗っている皿を置けば、優しい甘さを含んだ香りがケーキから漂う。
「ごゆっくりどうぞ」
後片付けが楽になるようにお盆をドアの側に置くと、笑みを浮かべて出て行った。
「じゃあ、食べよ?」
「ああ、そうだな」
「いただきまーす」
フォークを掴むと、シフォンケーキに添えられている生クリームをたっぷり付けて、リョーマは口の中へ運んだ。
「…ん、おいしい。今日のはメープル味だよ。うん、そんなに甘くないや」
美味しい物を食べた時のリョーマは、本当に幸せを満喫している表情になる。
身体中から幸せオーラを出しているのがわかってしまうほど。
「…いただきます」
ケーキの前に紅茶を一口飲む。
先程の緑茶もそうだが、菜々子が淹れてくれるお茶類は、全てインスタントでは無くて、茶葉から淹れているので本物の味がする。
「リョーマは何を飲んでいるんだ?」
さっきから気になって仕方が無い。
リョーマと言えば某有名飲料水メーカーの炭酸ドリンク、その名も『ファンタ』。
しかも多くの味が発売されていく中でグレープ味と決まっているのだが、マグカップが出てきた時点で今日はファンタではないと気付いていた。
「…これ?ミルクココアだよ」
「ココア?」
「そ、ココア。これなら牛乳も悪くないんだよね」
嬉しそうにココアを飲むところを見ると、本当に気に入っているようだ。
「飲んでみる?」
「…そうだな」
ハイ、と差し出すリョーマからマグカップを受け取るが、口は付けずに机に置いてしまった。
「やっぱり甘いから嫌?」
リョーマの飲んでいるものは、砂糖が入っているタイプなのでかなり甘い。対して手塚は紅茶でもコーヒーでも砂糖は入れない。甘くすると本来の味が薄れてしまうので、飲み物には砂糖を入れないのだ。
「…いや、こちらで味見させてくれ」
「え?」
手塚が手を伸ばした先は、リョーマの顎。
身を乗り出してから、顎の先ををくい、と少し上に上げて、手塚はリョーマの唇に軽く触れてからペロリと舌で舐め上げる。
「…うむ、かなり甘いな」
「なっ、は、恥ずかしいコトしないでよね」
真っ赤になって後退りをするリョーマに、手塚はくっくっと小さく笑う。
キスなんて当たり前のようにしているのに、こういう状態での行為には未だに慣れていない。
顔どころか耳まで真っ赤にして、リョーマは恥ずかしそうにしている。
こういうところが属にいう『かわいい』と思える表情なのだ。
「…嫌だったか?」
「急にするから驚いたんだよ」
真っ赤な顔のままリョーマは戻ってくると、残っていたココアを半分ほど飲んでから立ち上がった。
何をするのかと見ていたら、リョーマは手塚の横にちょこんと座った。
「リョーマ?」
顔だけを向けた途端、顔はリョーマの両手に挟まれていた。
恥ずかしそうにしている表情をそのままに、今度はリョーマから手塚の唇に触れていた。
啄ばむように何度も触れる口付けに、手塚の方が我慢できなくなり、最後の方は正面からリョーマを抱き締めて深く口付けていた。
「…口に残るな」
「でも美味しいでしょ?」
今日のキスはココア味。
ちょっと甘さが残るけど、たまにはこういうのも良いかもしれない。
そう思いながら、まだ残っているミルクココアを飲みながらシフォンケーキを頬張っているリョーマを優しく見つめていた。
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