「ただいま戻りました…」
午前中のみの練習で終わった土曜日。
顧問の竜崎スミレと今後の練習内容についての話を大石を含めた3人で行った後、帰宅途中にある書店に立ち寄り自宅へ戻った手塚は、普段の玄関には見慣れないが、手塚自身には見覚えがありすぎる一足の靴が家族の靴と並んでいた。
「…まさか、な」
手塚が頭に思い浮かべた悪い予感は、何やらリビングから楽しげな話し声が聞こえてきたのを切っ掛けに解決する事になるのだが…。
「お帰りなさい」
まずはドアに向かって座っていた母親の彩菜が手塚に気付き声を出せば、後頭部しか見えなかった人物がこちらに振り向いた。
「あ、部長。お帰りなさい」
「…越前?どうしたんだ」
見覚えのありすぎる靴の持ち主は、やはりリョーマだった。
しかしリョーマは練習が終わり、後片付けが済んだ後で自宅へ帰ったはず。
手塚が「遅くなるから先に家に戻っていろ」と伝えておいたので、桃城や菊丸の誘いを断って帰って行ったのを確かにこの目で見送ったのだ。
昼からは暇になるので二人で買い物に行こうと約束を交わしてあり、手塚がリョーマの自宅に迎えに行くはずだった。
「うふふ、私がリョーマ君を攫って来たのよ」
疑問に眉を寄せている息子に、母は楽しそうな笑みを浮かべながらそう言ってきた。
「攫う?母さん、どういうことですか?」
「ちょっと待って、俺が説明するから」
冗談のつもりでも真面目な性格の手塚は真剣に受け止める。
楽しそうな母とは正反対の手塚の様子に、今度はリョーマが口を出した。
「説明?」
「あのさ、家に戻ったら玄関も勝手口も窓も全部締まってたんだ。いつもは誰かいるから鍵なんて持ってないんだよね。で、締め出しくらってたら、彩菜さんから声掛けられた」
「母さんが?」
怪訝そうな息子に彩菜も話しに参加した。
「ええ、リョーマ君のお家の近くに知り合いがいるのよ。今日は本当に偶然通り掛ったら、玄関の前でぽつんと座っていたから声を掛けたの。でも大丈夫よ、さっき倫子さんにはお話しておいたから」
「母さんと?」
「そうよ、だから何も心配はいらないわ」
手塚もリョーマも知らない間に、彩菜はリョーマの母である倫子と交流を深めていたようだ。
しかも携帯番号を教えてもらっているらしく、仕事中の倫子にはリョーマを連れて行くと話しておいたのでこの家に居る事には何も問題は無い。
「そうですか、リョーマのご両親がご存知なら良いのですが…」
勝手に連れて来たりしたら、こちらの印象が悪くなるだけだが、母親同士で話が付いているのなら安心だ。
「国光も戻った事ですし、お食事にしましょうね」
「やった!彩菜さんのご飯、美味しいから大好き」
「まぁ、嬉しいわ。それじゃあ用意するから2人とも手を洗ってきてね」
キッチンへ入って行く彩菜はスキップでもしそうほど浮かれていた。
どうやら息子よりも何十倍も子供らしいリョーマの世話を焼くのは、母親冥利に尽きるらしい。
料理に対しても、美味しいものには満面の笑みで「美味しい」と言ってくれるし、気に入ったものは「また食べたい」と言ってくれる。
料理を作る側としては最高の褒め言葉をリョーマは素直に口に出してくれる。
10に対して3くらいの反応しか無い息子と、10に対して10の反応をくれるリョーマと比べたら、自分のお腹を痛めて産んだ子供という点を踏まえても、リョーマの方に軍配が上がる。
鼻歌交じりに準備をする母親に頭が痛くなりそうだが、どうにか耐えてリョーマと洗面台に向かった。
「迷惑だった?」
「いや、どうせ迎えに行く約束だったからな」
時間が省けた事は喜んでも良いが、まさか母親が連れてくるとは夢にも思っていなかった。
「…あのさ、玄関に張り紙があったんだ」
「張り紙?」
無表情は常日頃だが、リョーマにはその無表情から感情を読み取れるくらい、手塚の事を知り尽くしていた。
「はい、これ」
とりあえずズボンのポケットから小さく折られた紙を取り出し手塚に渡す。
渡された紙を元の大きさに広げてみれば、そこには…。
『菜々子ちゃんは実家に戻ったから俺はちっと遊びにいってくるぜ。お前は手塚のところにでも行ってろよ。今日は泊まりでも構わないぜ』
1人きりで家にいるのもつまらないのか、リョーマの父親である南次郎は息子の帰りを待たずに家中の鍵を全部締めて出て行ってしまったようだ。
「…南次郎さんらしいな」
この手紙を書いている時の様子が手に取るように分かる手塚は、悪いと思いながらも苦笑いをした。
「…彩菜さんにも見せたんだけど」
「それで連れて来られたのか」
リョーマのような可愛い子を1人っきりで家の前に座らせておくなんて危険過ぎる。
もしも何かの犯罪にでも巻き込まれたら大変とでも考えたのだろう。
彩菜の行動は正しいが、どうにも心臓に悪い。
「彩菜さんから今日は泊まっていってねって言われたけど…」
じっとリョーマは手塚の顔を見つめる。
ここで手塚から『駄目だ』と言われればそれで終りだ。
「お前さえ良ければ…」
リョーマを帰すなんて考えは全く手塚の中には無かった。
「ありがと」
ニッコリ笑ったリョーマの愛らしさに、手塚は心の中で母に感謝した。
が、感謝の心は長くは続かなかった。
昼食後は彩菜に断って2人きりで出掛けた。
切れていたグリップテープや新しいシューズを買い、ついでに映画を観た。
特に観たかった訳では無いが、かなり話題の映画であり、来週の金曜日が最終上映日らしく、買い物も済んで後は帰るだけになっていたので「それなら」と映画館に入って行った。
真っ暗になる映画館では周りを気にする事無い。
しかも広い館内には自分達を含めても数人しかおらず、座っている位置もバラバラだったので、2人は手を繋いだり、内緒話しの振りをしてキスをしていた。
そして、自宅へ戻ってみれば、夕食の用意を完璧に終わらせていた彩菜にリョーマは捉まってしまった。
彩菜の話し相手として、夕食までの間はリビング。
そして夕食が済めば、今度は父親と祖父も含めた会話にまで発展していた。
夜になって風呂にも入り、手塚が当たり前のように客用の布団を自室へ運ぼうとした時だった。
「…何だ?」
リョーマしかいないはずの部屋の中から話し声がするので、不審に思いこっそり部屋を覗いてみれば、そこにはまたしても母親の姿。
「リョーマ君、今日はおばさん達と一緒に寝ない?いつもいつも国光ばかりじゃなくて、たまにはおばさん達ともお話ししましょ」
昼間はリョーマと2人きりで出掛けたが、戻って来てからというものの、母親がリョーマに付きまとっていて、恋人らしく引っ付く事が出来ずにいたからこそ、夜は恋人の営みを体力の続く限り張り切ろうとしていた。
その矢先の母親の言葉に手塚は絶句し、持っていた布団を落としそうになるが、どうにか堪えて部屋の中に入る。
「…母さん」
冷静になれ、と自分に言い聞かせてみても、どうも感情が上手くコントロールできず、声のトーンはかなり低くなってしまった。
「あら?国光、いたの」
呼び掛けに応じるように彩菜はドアの息子の方へ振り返る。
「はい、先程から…それで今の話なのですが」
「そうそう、リョーマ君はどう?」
「俺は…その、寝相が悪いから、彩菜さん達の迷惑になるとイヤなんで、出来れば先輩と一緒の方がいいかなぁって…」
楽しそうな彩菜と、次第に周囲の空気が重くなっていく手塚を見比べたリョーマは、言葉を選びながら彩菜の誘いを断った。
「そうなの?リョーマくんが国光の方がいいって言うのなら諦めるしかないわね。でも明日は練習お休みなんでしょ?一緒にお出掛けしましょうね」
うふふ、と笑いながら退散していく母親に、手塚は深〜い溜息を吐いた。
「…国光、疲れている?」
「まあな…」
布団をベッドの横に敷き、その上にちょこんと座ったリョーマが、手塚の腕を引っ張る。
「どうした」
「疲れてる時は甘い物がいいんだって」
「そうだが、甘い物なんてここには…いや、あるな」
部屋に菓子の類は無いが、菓子なんかよりもっと素晴らしいものがある。
手塚は疲れを癒す為に、目の前にある極上の舌触りを持つ『甘い者』を堪能する事にした。
しかし、「どうも母親の思惑通りに事が進んでいるような気がする」と悩む手塚国光14歳の夏だった。
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