恋愛初心者




カウンターから一番離れた窓際の席、そこがあの人の指定席となっていた。




2学期も1ヶ月以上が過ぎ、秋本番と言えるほど青々としていた木々達は、次々と夏の気配を失い、黄や赤といった暖色系へと様変わりしていた。
部活の方も2年生と1年生が来年に向けて頑張っている最中で、そんな中、同じように3年生がいなくなった委員会の仕事に面度ながらも顔を出しているリョーマがいた。

「…今日も来るのかな」

カウンター内の業務をしているリョーマは、先ほどからドアの方を気にしていた。
見た目からだと「早く部活に参加したい」と思われがちだが、実際にはこのドアから入ってくるだろう、その人をソワソワしながら待っていた。

「越前くん」
「何スか?」
今日の当番はリョーマと2年生の女子。
その女子がちょっと申し訳無さそうに近寄って来た。
「ちょっと先生のところに用があるから、少しの間お願いできるかな?」
「…今日は少ないからいいっスよ」
見渡してみても、数人の生徒しかいない。
こんな日は珍しいくらいで、図書室ではなく、図書館と銘打ってあるだけあって、本の量は半端じゃないし、専門書も数多く取り揃えてあり、放課後となれば、沢山の生徒がやって来る。
「本当?ごめんね、話が終わったらすぐ戻るから」
両手を顔の前で合わせると、急ぎ足でドアに向かって行った。
「これ、お願いします」
視線だけで追っていたが、本を借りる生徒が来てしまったので、その視線をずらした。
その直後に「きゃっ」と小さな悲鳴が聞こえ、リョーマだけでなく、図書館にいた全員がついそちらを見てしまった。
「あ、ごめんなさい」
「いや、驚かせてすまない」
どうやら慌ててドアを出た時に誰かとぶつかってしまったようだ。
「いえ、こっちこそ声出しちゃってゴメンなさい」
ペコリと小さくお辞儀すると、女子はその生徒の横を通り廊下に出て行った。
代わりに入って来たのは…。
「…手塚先輩」
部活を引退した元テニス部の部長、手塚国光だった。
「今日も当番なのか、越前」
バッグの中から借りていた本を取り出し、カウンターの中にいるリョーマに渡す。
「ういッス。俺、火曜と金曜が当番になったんで」
「そうか、ご苦労だな」
「…っス」
リョーマを見下ろす瞳は、部活中には決して見せない労わりと優しさを湛えた色をしていた。
目の前でそんな瞳を見てしまったリョーマは、途端に頬を朱色に染めてしまう。
赤くなった顔を見られたくないリョーマは、業務を行う為に顔を下げた。

こんな風にリョーマを見る手塚は、ここ最近になってからだった。

どういう意味合いを持って手塚がリョーマを見ているのか?
それは手塚にしかわからない。
その意味合いに僅かながら気付き始めていた手塚は、その意味をはっきりさせる為にこうしてリョーマを見ている。

「今日は1人なのか?」
「さっき先輩とぶつかった人と2人っスよ」
返却が済んでも、手塚はカウンターの前にいた。
「今はら1人でも大丈夫だな」
「そうっスね」
言葉と共にリョーマは笑顔を見せる。

手塚は歳相当のその笑顔が好きだった。
部活中の不適な笑みや無理矢理作ったものではなく、極自然な笑顔。
つい、引き込まれそうになる。

「…今日も借りていくんスか?」
「ああ、借りようと思っていた本があったんだが、この前は貸し出し中でな」
やむなく諦めたが、代わりに違う本を借りて行った。
「で、代わりにこれ…さすが手塚先輩っスね」
手塚が借りて行ったのは洋書。
10年以上もアメリカに住んでいたリョーマには問題なく解読出来る本だが、一般の生徒となれば辞書が必要になる。
これをさり気無く借りていく手塚に、リョーマは感嘆の声を上げた。
「勉強になるからな、では探させてもらうか」
そう言って手塚はいつも座る席に移動し、場所を取られない為なのか、椅子の上にバッグを置いた。
その場所はカウンターから丸見えで、静かに勉強をしたい生徒達には不評な席で有名だった。
どうして手塚があえてその席にしているのかは、誰もが気になるところだが、怖くて誰も訊けないでいた。
リョーマは手塚を探す手間を省けて見られるので、特に気にしていなかった。

そんな風にリョーマが手塚を見るようになったのは、2週間前の当番の日からだった。

どうしてこんなにも他人が気になるのか?
それはリョーマ本人すら謎だった。
しかし手塚が来るのを待っている自分がいるのは確かだった。
そしてその想いが何なのかを、リョーマは手塚がここに来る度に気付き始めていた。

「あ、今日も手塚くん来てるよ」
「本当だ。ねぇ、もうちょっと近くに行こうよ」
カウンターの前を通り過ぎていく女子生徒の会話を耳にしたリョーマは、とても不快な顔でその生徒の背中を追った。
ショートカットと対照的なロングヘアーのコンビは手塚の座っている席の前に立った。
何かを話し掛けたのか、熱心に本を読んでいた手塚が顔を上げた。
明らかに困惑気味な表情。
いや、せっかく自分の世界に没頭していたのを邪魔されて、苛立っているのかもしれない。
赤の他人が見ても手塚の顔には、「ここで話し掛けるな、迷惑だ」と書いてあった。
図書館はペチャクチャとお喋りに興じる場所では無い。
手塚がリョーマに声を掛けた時も周囲の注意しての小声で、誰も見て来なかった。
それが今はどうだろう。
図書館にいる全員がチラチラと立ったままで手塚に話し掛けている生徒を見て、その視線を図書委員であるリョーマに向ける。
うるさいと思っていても注意はせず、『早く何とかしろ』と、責めている。
「…仕方ないな」
はぁ、と大きな溜息を吐くと、リョーマはカウンターを出て、注目の的になっている窓際の席まで歩いた。
リョーマが背後に立っても、まだまだお喋りは止まらない。
おもむろに上げた手を軽く握り、人差し指だけをピンと伸ばしてショートカットの女子の背中を強めに突付く。
「…何よ」
「ねぇ、ちょっとアンタ達、ウルサイんだけど…喋りたいなら外に出てくれない」
振り向いた女子にリョーマはきっぱりと告げる。
「何よ、うるさいわね」
「俺これでも図書委員だし、皆が迷惑そうにしてるからその原因を排除しないといけないんだよね」
「人を害虫みたいに言わないでよね」
何を言われてもリョーマは引き下がるタイプでは無い。
無論、この場合はリョーマが正論なので態度を変えないでいた。
「…ちょっと、まずいんじゃない」
ロングヘアーの女子が周りを見たのか、こっそりと耳打ちした。
「え?」
「ほら、もう行こうよ…うるさくしてごめんなさい」
ロングヘアーの女子がぐいぐい、と腕を引っ張り、もう1人を廊下へ連れて行った。

短い間ではあったが、小さな混乱は治まり、再び図書館には静寂が訪れた。

「すまなかったな、越前」
「なんで何にも言わなかったんスか?」
「それは…」
「あ、また来ちゃった」
空になったカウンターに人が来てしまったので、その答えは訊かず、リョーマは戻っていった。
何かを言いたげにしていた手塚は、その言葉を喉の奥に押し込めて、再び本に没頭した。


「先輩、もうすぐ閉めますよ?」
「…ああ、もうそんな時間か?」
当番に当たっている曜日は、日没の関係で部活は休んでいる。
空は茜色をしていて、部活はもう終わっている頃だろう。
「…先輩」
本を片付けようと椅子を引いて立ち上がった手塚に、リョーマはつい呼び掛けてしまった。
「何だ?」
「…えっと、たまには一緒に帰りませんか?」
呼び掛けても、何も言うつもりが無かったリョーマは、思いつくままの言葉を口にしていた。
言った後で「しまった」と思っても、口から出た台詞は元には戻せない。
「ああ、構わないが…」
だが、手塚は極普通に返事を返した。
「じゃ、すぐに片付けますんで…」
何だかホッとしたリョーマは、くるりと背を向けて、残っていた仕事を始めた。



「お待たせしましたっス」
「いや、早かったな」
職員室に鍵を置きに行ったリョーマを手塚は靴を履いて待っていた。
リョーマも上履きから靴に履き替えた。
「では、帰るか」

2人ともが饒舌では無い。
会話も途切れ途切れなのに、声を聞くだけで胸に小さな灯りが点るようだ。

「…越前」
人通りの少ない路地で手塚は唐突に足を止めた。
「何スか?」
リョーマは不思議そうに足を止め、手塚を見上げた。
「俺は図書館を良く利用している」
「そうみたいっスね。俺が当番の時はいつも来てるし」
「だが、お前が当番の日以外は利用していない」
「…それって」
「何時からなのかは覚えていないが、俺はお前が気になる。だからお前の当番の日にだけ図書館に行っている」
告白とも言える手塚の言葉に、リョーマの顔が次第に赤くなっていく。
手塚の方も自分の口から放ってしまった言葉に赤くなっていた。
「…さっき、何で何も言わなかったんスか?」
「さっき?ああ、あれは俺が黙っていればお前が来るだろうと思ってな」
図書館で喉の奥に押し込めた台詞をこの場で出してみた。
「…手塚先輩、俺のコトが好きなの?」
もしかしたら、とリョーマは頭に思い浮かんだ言葉を恐る恐る口にしていた。
「そうらしいな…お前はどうなんだ」
「俺も手塚先輩が…好きっス」
手塚の返事はあっさりしたもの。
それでも何だか甘酸っぱい気持ちに包まれる。


「越前」

「何スか?」

「俺と恋愛をしてみる気は無いか?」

「…いいっスよ」


本気の恋愛を体験した事の無い2人の物語はここから始まる。




久々に作った短編塚リョ。
先日仕入れた小ネタから作った短編ですが、またしても初恋話です。