催 眠 術





「どういうことなの?」

「さぁ?俺にはワカンナイにゃ〜」
不二は自分が見てしまった光景に対して、こめかみに青筋が浮かんでしまいそうになるが、何とか抑えて横にいる菊丸に訊ねた。
何も知らない振りを決め込んだからには、たとえ不二が怒りマックス状態になっていても、菊丸は全く動じないでコート内を眺めていた。


ある日のテニスコートは、不可思議な空気に包まれていた。
今日は雲も風も無い晴天に見舞われた日曜日、外の部活動をするのは最適の日よりだった。
それなのに何故、これほどまでに不二の機嫌が悪いのか?
その答えは!


「部長…」
「…越前」 
フェンスの前に立つのは手塚とリョーマ。
しかし、普通の2人ではなかった。
普段では絶対にお目にかかれない爽やかな笑顔と、軽やかな笑い声。
傍目から見ても怖いくらいに楽しそうな2人の姿に、絶対零度の世界に入り込んでしまったかのようにブルブルと怯える部員達。
「手塚も越前も、一体何があったんだ!」
大石はキリキリと痛む胃を押さえながら、2人を見つめていた。


一体何がここで起きたのか?それは今から1時間ほど前の事だった…。



「おチビ、催眠術かけてやろっか?」
珍しく遅刻ギリギリではなく、早く部活にやって来たリョーマに、一番に話しかけたのは菊丸だった。
最近放送されたテレビの影響からか、菊丸の右手には『誰でもできる催眠術』なる本があった。
とりあえず、最先端の流行モノには一番に手を出してしまうらしい。
「…さいみんじゅつってhypnotismの事っスか?」
ジャージ姿で部室に荷物を置きに来たリョーマは、素っ気無いながらもしっかりと菊丸に応えながら自分のロッカーに突っ込んだ。
「ひ…ひぷのて…イテッ、舌噛んだ」
リョーマは催眠術を日本語から英語に言い直したから、カッコつけに菊丸も続いてみようと思ったが、初めての単語に舌は滑らかに動かなかった。
「菊丸…ヒプノティズムだ」
窓の下のベンチに座り、今日のメニューを再確認していた乾、あっさり言うと立ち上がる。
「…う〜、ひぬひぃ〜」
噛んでしまった舌を出しながら、菊丸は涙目で乾を見ると、持っていた本を渡した。
「催眠術…暗示によって人を催眠状態に導くが、それが凶悪な犯罪にも使われたりして危険でもある。だが、時として暗示により人は高い目標にしていた何かを達成してしまう力もある」
「何をぶつぶつ言ってるんスか?乾先輩」
あまり興味が無いのか、リョーマはとてもつまらなさそうに、その本を自分の視界に入れた。
(誰にも出来るのなら、世の中の人はみんな暗示に掛かっちゃうよ)
チラリと乾の表情を覗いてみても、ぶ厚いレンズの奥は解り難かった。
「菊丸の言うとおり、一度試してみないか?なぁ、手塚」
「…何がだ?いきなり言うな、順を追って話せ」
乾が言うのと同時に扉が開いたと思えば、手塚が入って来た。
「うーんとね、催眠術!」
ようやく舌の痛みが引いたのか、菊丸が元気良く対応する。
「催眠術だと?」
「そうだよ」
乾が持っていた本を手塚の目の前に出せば、案の定、しかめっ面が返って来た。
「ちょっとおチビで試そうかと思ってね…手塚もやってみる?」
菊丸としてみては手塚に掛けてみたいのだが、こんな強固な精神力を持った男には効かなさそうだと、瞬時に判断した。
「他人を巻き込むな、自分で試してみろ」
ピシャリと言われ、諦めようとした時。
「俺は別に、いいっスよ」
部活の開始まで時間もあるし、自分が暗示に掛かり易いのか、どうなのかを確認するに良い機会かもしれないと考えた。
「じゃ、やってみよ♪」


まさか、こんな事になるなんて…。


「どうしよ、乾…」
「…部活が終わるまではこのままだな」
当事者である菊丸は、こうなってしまった責任を感じているが、どうする事も出来ずにいた。


『おチビは手塚を好きにな〜る。手塚はおチビを好きにな〜る。2人はすんごくラブラブ〜、ラブラブ〜』
こんなにもアホっぽい暗示だったのに…。だったのに!!

「…部長、好き」
「越前」
菊丸と乾の前なのに、手塚とリョーマは2人きりの世界に入り、熱い抱擁を交わした。
見つめ合う2人の姿は、まるで恋愛映画のワンシーンのよう。
「あわわ、手塚が…おチビが…」
段々とエスカレートしそうな2人。
菊丸と乾は慌てて2人の間に割り込み、菊丸はリョーマを掴んで部室から逃げ出し、乾は手塚を抑えていた。
「…どういうつもりだ、手塚?」
追い掛けようとした手塚をどうにか引き止めた乾は、本当に暗示に掛かっているのかを確かめる。
「どういうつもり?俺は菊丸の暗示どおりにしているだけだが」
しっかりとした受け答えに、乾は掴んでいた腕を離す。
「…掛かっていないのか?」
「当たり前だ」
「…まさか、越前もか?」
もしかして、と思い、訊ねてみる。
「さぁな、そろそろ始まる時間だぞ。悪いが俺は菊丸の暗示に掛かっているからな」
口の端だけを上げて笑うと、手塚はさっさと行ってしまった。
その後、他の部員達も入って来てしまい、乾は仕方なく見守る事にした。
手塚とリョーマではなく、菊丸とその他大勢を。
そして思う。
2人が揃って演技をしているのなら、暗示に掛かっているのは反対に…。


「…部長、ちょっと屈んで」
「こうか?」
少し膝を折った手塚の頬に、リョーマがチュッと軽いキスをすれば、高い悲鳴やら低い溜息があちらこちらから飛び交う。
大石はふらりとコートから出て行ってしまった。
「…ムンクの叫びってこうだよね」
ニヤリと笑ったリョーマの頬に、手塚もキスをした。
菊丸は視線をうろうろとさせ、周りの反応をみるが、乾は2人だけを観察するように見ていた。
そうこうしているうちにリョーマも“暗示に掛かった振り”をしているのに気付いた。
しかし、そんな態度でいる事に何のメリットがあるというのか?
2人の動向に乾のコンピューターは、完璧にフリーズしていた。
「…乾〜」
「菊丸…」
「どうしよ、早く暗示を解かないと〜」
涙が出そうなほど、菊丸は焦っていた。
(ここで本当の事を話した方がいいのか、それとも…)
菊丸は自分の暗示が手塚とリョーマには、しっかり掛かっているとおもいっきり信じきっていた。
「おチビがあんなにカワイイんじゃ、みんな前屈みになっちゃうよ」
不二のように笑顔を振り撒いているリョーマの姿は、何とも小悪魔チックだ。
少し論点がずれている気がしても、そこはご愛嬌。
跳ね上がった髪がへにゃりと下がってしまいそうなほどうろたえる。
(手塚は菊丸の暗示に掛かっている振りをしている。何故だ?)
「なぁ、乾…2人を部室に連れて行けないかな…」
「部室へ?」
「で、暗示を解いて、安心安心一安心ってね」
「…成る程、名案だな」
そこで訊いてみればいいだけだ。
どうして『暗示』に掛かった振りをしていたのかを。
数分後、2人を連れ出した菊丸は、慌てて暗示を解こうとした。
「おチビに掛けた暗示を解いてやるからな」
「…暗示には掛かっていませんよ、菊丸先輩」
必死になっている菊丸に、ニヤリと口の端を上げて笑うリョーマ。
そこで漸く2人が『掛かった振り』をしていたのに気が付いた。
「えっ、じゃ、あれは…」
「だって、菊丸先輩をからかうと面白いんだもん」
してやったりと、スッキリした顔で言うリョーマ。
「…良い薬になると思ってな」
リョーマに付け加える形で口を挟む手塚。
「…まさか、乾も?」
「気が付いていたが確証は持てなかった」
「にゃ〜んだ、結局2人がラブラブな暗示に掛かったのって俺だったんだ。ま、おチビと手塚がラブラブなんて有り得ないけどにゃ」
つまんない、と口を尖らせる。
「…そうでもないぞ」
「へ?それって、あっ、手塚」
呟いた手塚の台詞を確かめようとした乾と菊丸だったが、手塚はリョーマを連れて部室から出て行ってしまった。
「…おちょくられたのかな?」
「わからないな…これはデータを取る必要があるみたいだ」
興味深い新たなるデータを取る為に、バッグから新品のノートを取り出すと、表紙に『手塚、越前の行動ノート』と書き込み、部室から出て行った。
「…で、結局俺の催眠術はダメダメだったワケだ」
ロッカーに突っ込んでおいた『誰にもできる催眠術』の本を、恨めしそうに眺めてから大きく息を吐いた菊丸も、2人を連れ出してからのコート内の様子が気になり、小走りで出て行った。

コートに入った手塚とリョーマの2人は何事も無く練習に入り、乾と菊丸の2人で何があったのかを説明していた。

真相はハッキリしたが、何とも不思議な光景だったのは、永遠に語り継がれるだろう。


ついでに手塚とリョーマが恋人同士である事は、誰にも知られなかった。





なんでしょうか、これ?
えっと、塚リョかな?
と自問自答。
一応ラブラブな2人なのですが、五月蝿いので周りには内緒にしているのです。