06.ホットミルク |
「全員集合」 コート内に凛とした手塚の声が響くと、練習に打ち込んでいた部員やボール拾いをしていた1年生達は一斉に集まり整列する。 最前列はレギュラー、次に3年と2年、最後尾は1年と決まっており、各自決められた位置に並ぶ。 「竜崎先生、全員整列しました」 「そうかい」 乱れる事無く並んでいるのを確認した上で、大石と打ち合わせをしていた顧問の竜崎スミレを呼べば、大石を従えてこちらに向かってくる。 手塚の横で立ち止まり、ジロリと部員達の顔を見る。 「お前達が頑張って練習しているおかげでこのコートもちょいと痛みが出てな。ま、この土日の2日間かけて修繕をするので、明日と明後日の練習は休みとする」 河村と桃城の重量のあるボール、リョーマや手塚の回転をかけた技など、様々な要因が重なりコートの中は少し凹凸が出来ている部分があり、白線も良く見れば所々消えかかっていた。 これからも練習を続ける上でコートの状態は常に万全にしていたい。 しばらく公式試合も無い事から、スミレは数日前にコートの整備を業者に頼んでおいた。 「やったね」 「そうっすね〜」 今日は菊丸の横に桃城が立っていて、2人は平日でも良く遊んでいる。 土日が休みなら遊びに行くに限ると、こそこそと話しながら小さくガッツポーズを作っていた。 「…およ?」 「何すか?英二先輩」 菊丸の視線が自分を越えた所にあるのを感じ、何事かと訊ねた。 「いやいや、何でもにゃいよ〜」 この後、手塚から私語を厳しく注意され、2人の会話はそこでストップしていた。 「おっチビ〜」 解散直後、一番先に列からはみ出た菊丸は、桃城の反対側に立っていたリョーマを捕まえ、がばっと正面から抱きつく。 「…ぷっ、いきなり何するんスか」 被っていた帽子が勢いでずれ、リョーマの顔は菊丸のジャージに埋まっていた。 何とか両手で菊丸の身体を押し、圧されていた事で少し赤くなっていた鼻を擦る。 「あのさ、おチビって小さくなった?」 「はあ?何言ってんスか?」 素っ頓狂な声を上げるのも無理は無い。 いきなり抱きつき、挙句の果てには「小さくなった」などと言われ、リョーマは思いっきり嫌な顔をしてみせた。 「だってさ〜、さっき桃の横に立ってただろ?何か前より小さく見えたんだよ」 「だから何で俺が小さくならなきゃいけないんスか」 成長段階の真っ只中にいるのに、もう後退するなんて冗談ではない。 リョーマは帽子の下から菊丸を睨む。 「ねえ、それって英二が大きくなったって事じゃないの?」 2人の周りにはレギュラー数人が残っており、まず初めに不二が意見を述べた。 「俺が大きくなった?」 「そうだよ。ほら、桃と比べてごらんよ。桃、ちょっと英二の横に立って」 「あ、はい…」 確か春の身体測定の結果はたったの1センチだった。 毛を立てているので普段は桃城の方が大きく見えるが、実際には1センチの差だった。 桃城が菊丸の横に並ぶと、不二は持っていたラケットを菊丸の頭に水平に乗せる。 「何すんだよ、不二」 「いいから、ラケット押さえて」 不二に言われる通り、菊丸はラケットが落ちないように押さえる。 「ほら、こんなに隙間が出来てるでしょ」 「あ、本当だ」 横並びになっている菊丸と桃城からは見えないが、不二とリョーマからは2人の身長の差がはっきりと見えていた。 「じゃあ、俺が大きくなったって事か〜、な〜んだ、おチビが小さくなったんじゃなかったんだ」 「だから何で小さくならないといけないんスか」 さっきから菊丸の一言一言が頭に来る。 同じ1年の堀尾やカチロー達と身長はそれほど変わらないのに、自分ばかりが言われるのがどうしても気に入らない。 「1日2本、続けてる?」 リョーマが菊丸に「2年後にはイヤでも大きくなっている」と、言おうとしたその前に今度は乾が口を挟んできた。 「乾先輩…」 何時の間にやらリョーマの背後に立っていた乾は、秘密のノートを広げてリョーマを見下ろしていた。 リョーマと乾の差は、30センチ以上。 乾がここまで身長が伸びたのは牛乳のお陰だと言っていたが、本当に牛乳だけでそこまで大きくなるのなら、牛乳好きな人はとっくに2メートルを越えるんじゃないのかと、リョーマは乾が牛乳で身長を伸ばした事をあまり信じていなかった。 「そういえば、そんなノルマがあったんだっけ。で、越前は飲んでいるの?」 「…飲んでいます…よ。たまには」 にっこりと訊ねられ、リョーマはバツが悪そうに横を向いて答えていた。 牛乳はそれほど得意ではないが、嫌いではないけど好きでもない程度の飲み物。 はっきり言ってしまえば、言われたから飲んでいる程度。 「飲んでいないんだね。そんなんじゃ大きくなれないよ」 「…ご飯に合わないし…」 「ええ〜、でも今日はパン食ってたじゃん。それにさ、ご飯食べてから飲めば良いじゃん」 「何でパンを食べてたって知ってるんスか?」 「えと、それは〜」 白米に牛乳は確かにミスマッチな組み合わせだが、菊丸の言うとおり食事後に飲めばいいだけ。 しかも今朝のリョーマは食パンを食べながら歩いていたのを、菊丸は偶然に見てしまっていた。 「ああ、それで。今日は英二も越前も遅刻ギリギリだったからね」 「うわ、不二ってば内緒にしててよ」 「…で、どうして飲まないんだ?」 不二の前で両手をバタバタさせている菊丸を他所に、乾はリョーマに牛乳を飲まない理由を問い質していた。 「…そのまま飲むのも飽きたから温めたんだけど、そうしたら膜は出来るし、変な匂いだし、後味も悪いから」 せっかくこのまま逃げようとしたのに、今度は正面に回りこまれ、しっかり捕まっていた。 「ふむ、ありふれた牛乳嫌いの理由だな」 またしても新たな情報をノートに書き込むが、牛乳嫌いを書いてどうするのだろうかと、リョーマは頭を捻る。 「全く飲まないわけじゃ無いんスよ。一応は飲んでるっス」 「出来れば毎日飲むといいんだけどね」 キラリと眼鏡を反射させて、乾は牛乳を飲む事を勧めていた。 「…そっスね」 曖昧に応えると、リョーマはコートから出て行った。 「は〜、何か部活の後の方が疲れた」 「一体何を話していたんだ」 土日が休みとあって、リョーマは手塚の自宅に泊まりに来ていた。 前々から手塚の母に社交辞令ではなく、本心から「是非、泊まりに来てね」と言われていた。 これは「丁度良い機会だから」と、手塚にそれとなく相談してみたら、手塚からも誘うつもりでいたと言われ、リョーマはそれならと一旦自宅に戻り、着替えなど必要な物をバックに詰め込み手塚家に訪れていた。 どうやら初めから泊まらせるつもりでしたのか、手塚の自宅に到着すれば母親から「先にお風呂に入ってサッパリしていらっしゃい」と満面の笑顔で言われた。 たっぷりの温かいお湯にはリョーマの大好きな登別の温泉の元が入っていて、母親はリョーマをかなり特別扱いしているのが良くわかった。 夕食のメニューも息子に聞いていたのか、リョーマの好物ばかりが並んでいた。 家族全員と楽しい夕食を済ませ、今は手塚の部屋でごろごろとしている最中。 「ん〜、菊丸先輩が俺が小さくなったって言い出してさ。実は菊丸先輩の身長が伸びていただけで、俺は小さくなって無いんだけどね」 組み立て式の簡易テーブルの上には食後のデザートと称した季節のフルーツが乗っていた。 リョーマは部屋の中に用意されていた座布団の上に座り、目の前のフルーツを少しずつ食べている。 対して手塚は数学の課題が出ていたので、机に向かっていた。 「…なるほどな、それであの奇妙な行動の訳がわかった」 「もしかして菊丸先輩の?」 手塚は返答の変わりに頷いていた。 ラケットを頭上に乗せている姿は、そこまでの経緯を知らない者から見れば、ただの変な行動でしかない。 手塚はスミレと休み明けの練習について大石と3人で話していたので、何をしていたのか全くわからなかった。 「菊丸先輩と桃先輩って1センチしか差が無かったんだって、でも今日比べてみたら3センチくらい差があったんだよね」 「それで?乾には何を言われていたんだ」 どうやら課題は終わったようで、手塚は椅子を回転させてリョーマと向き合っていた。 「…牛乳を飲んだ方がいいって…」 「そうか…」 何かを考えるように顎に手を掛けると、「ふむ」と言い椅子から立ち上がっていた。 「…国光?」 こちらに座るのかと思いきや、そのまま立ってのでリョーマは不思議そうに声を掛けた。 泊まりとなれば、いつもよりも密接な触れ合いをするのに、今日はまだ何もしていない。 「少し待っていてくれ」 立ち上がった手塚はリョーマの横を通り過ぎ、部屋からも出てしまった。 「何だろ?」 「待たせたな」 数分後、部屋に戻って来た手塚の手には大き目のマグカップ。 それをリョーマの前に置く。 「…何これ」 ふわふわと温かそうな湯気が立っている白い飲み物。 この飲み物の名称は見る限りたった1つしか思い付かないが、これを出す意味がわからない。 「ホットミルクだ」 テーブルを挟んでリョーマの前に座る。 「俺が嫌いって知ってて出すんだ」 「これなら飲めると思うのだが…」 「…本当に?」 「俺がお前に嘘を吐いた事があるか」 思いっきり疑いの眼差しを向けているリョーマにきっぱりと手塚は言いのける。 「……無い」 色々と思い出してみるが、嘘を吐かれた覚えは一度も無い。 初めから無理な事には手を出さない代わりに、出来る事は全て完璧にこなしていた。 「じゃ、飲んでみる…」 マグカップを手に取り、しばらくの間じっと白い水面を見つめると、リョーマは覚悟を決めて口を付けた。 あの匂いと味に襲われるのを我慢しようと、目をぎゅっと閉じる。 「…あれ?何で…」 しかし、飲み下してもあの特有の匂いはしないし、後味も悪くなかった。 おかしいと、もう一口飲んでみるが、結果は同じ。 「どうした」 手塚はリョーマの反応を予測していたのか、何だかとても満足そうにしていた。 「…匂いしないし、何かすっごく甘い。美味しい…」 牛乳に砂糖を入れたホットミルクは試したが、やはり嫌いな匂いがして駄目だった。 だが、これは違う。 匂いがほとんどしないし、とても甘いので、いくらでも飲めそうだった。 「前に牛乳はあまり飲まないと母に話しただろう」 「あ、うん…」 以前に夕食をご馳走になった際、牛乳の話をした。 手塚の母からも勧められたが、無理に飲みなさいとは言われなかった。 「母がお前に為に特有の味がしない牛乳を購入していてな。蜂蜜を加えたら飲んでもらえるのではないかと作ってみた」 「じゃあ、これは国光が俺の為に作ってくれたの?」 半分ほどになったホットミルクから、鼻腔を擽るふわりと漂う香りの中には微かに甘い蜂蜜の香り。 牛乳を温めた際に生まれるあの奇妙な匂いは全くしない。 「ああ、そうだ。気に入ってくれたか?」 「うん、すっごく気に入ったよ。ありがと」 温かいミルクは身体だけではなく、心の中までも温めてくれた。 リョーマは初めてホットミルクが美味しいと感じていた。 「ホットミルクには脈拍や体温、それに血圧を低下させ、睡眠を促す作用があるのだが…これほどまでとはな…」 泊まりとなれば、少しくらい寝るのが遅くなっても支障は無い。 これからの時間は恋人らしい触れ合いとしようと、先に飲み終えたマグカップをフルーツが乗っていた皿と片付けに階下に下り、キッチンで軽く洗った後で客用の布団一式を担いで部屋に戻れば、ベッドにもたれるようにしてリョーマは眠っていた。 「…仕方ないな」 気持ち良さそうに眠っているのを無理矢理起こしてまで、しようとは思わない。 気を遣ってテーブルだけは片付けておいてくれたので、空いた場所に持っていた布団を置き、起こさないようにリョーマを抱えてベッドに横たえる。 「…まだ明日もあるしな、今日はゆっくりと休め」 寝るにはまだ時間が早かったが、今日はとことんリョーマの寝顔を堪能しようと決め、部屋の電気を消してリョーマの横に潜り込んでいた。 「可愛いな…」 いつも見ていたい瞳は瞼の奥に隠されているが、縁を彩る長い睫毛や、微かに開いている唇のお陰で、起きている時よりも幼く見え、このまま寝てしまうのが惜しいくらいだ。 こんなリョーマの安らいだ寝顔は、ホットミルクの効果と優しい恋人の気遣いから。 それは朝になれば、リョーマの口から手塚に伝えられるであろう。 今はまだ深い眠りの中…。 |
今回はちょっと他の人が前半出張ってしまいました。
途中で下ネタに入りそうなのを必死に戻し、ほのぼのチックに仕上げました。