03.ぶかぶかのシャツ


急に降り出した雨の中、手塚は紺色の傘を差して待ち合わせの場所へと走る。
大きな水溜りも気にせずに真っ直ぐ走り、ひたすらに目的の場所へと急ぐ。
待ち合わせは10時丁度なのに、今はもう11時を少しオーバーしている。
今日もいつものように少し早めに家を出ようとしたその時、不意に家の電話が鳴り、今から出掛ける息子に取らせるのも可哀想だと、母が受話器を取った。
「はい、手塚でございます。…はい、そうですが…ええっ」
電話の相手は誰なのかわからないが、母の態度に手塚は玄関を出るタイミングを逃してしまった。
この電話が手塚をここまで待ち合わせに遅らせた原因となった。

「1時間以上の遅刻か、待っているとは思えないが…」
ちら、と腕時計を見やる。
待ち合わせの相手は、部活の後輩でもあり、大切な恋人でもある越前リョーマ。
人を待たせておくのはそれほど何とも思わないが、逆の立場になるのは我慢が出来ない性質らしく、待ち合わせの時は時間通りか、数分遅れてやってくる。
無論、遅れた場合はのんびり歩いて来たりはしないが、息を切らしながら必死になって走ってくる事も無かった。
部活や日常生活の中では遅刻なんて何とも思ったりしないが、恋人との逢瀬ともなれば話は別物らしい。
「やはり、携帯は必要だな」
一度家から出てしまえば、リョーマとの連絡手段が何も無いのはかなり不便だった。
こういう状態に陥る可能性が今までに無かったと言えば嘘となるが、連絡と取らないといけない状態にまで至った事が無い。
「…リョーマ」
あと数分で辿り着くまで近くに来たが、この数分の距離がやけに長く感じる。
心は逸るが、どれだけ早く走ってもこの降り続く雨のお陰で走り難い。
手塚は傘を差している意味が無いほど勢い良く走るので、身体の前面部分は少し濡れている。
雨はまだ止みそうに無かった。

逢瀬の為の待ち合わせ場所は2人の自宅から真ん中付近にある公園の時計前。
公園の中心に立っており、側にはベンチもあるので、別の人も目印にしているのを見掛けた事があるほど、人気のある待ち合わせスポットだった。
ようやく公園の入口に差し掛かり、あとはリョーマが待っているかを確かめるだけだ。
息を切らせながら時計の方向を見る。
「…っ!」
手塚の視界に入ったのは、ベンチにポツンと座っているリョーマの姿だった。
頭は項垂れ、髪からは雫が幾度と無く零れ落ちていく。
ここからでもわかるほど頭の天辺から足先までびしょ濡れになっていて、濡れた衣類が肌に張り付いているのか、その姿はいつもよりも小さく見えた。
「リョーマ!」
「…あ、遅かったね」
自分を呼ぶ声にリョーマはゆっくりと頭を上げる。
「傘はどうした?いや、何故こんな時間までここにいるのだ」
手塚はリョーマを立たせ、今更ながら自分の傘の中に入れる。
「何でって待ち合わせの場所でしょ、ここって。それに家を出た時は晴れてたから傘なんて持ってないよ。それより今日はどうしたの?国光が遅刻なんて今まで無かったのに…もしかして何かあった?」
「ああ、少しな…」
怒り心頭だとばかり思っていたのに、こんな時に自分の事よりも相手を気遣っている。
元々、クールな対応をするリョーマだが、手塚のようなタイプを恋人にしているせいか、この頃はクールというよりも思いやる対応をするようになっていた。
ふと、リョーマの頬に触れてみれば、雨に当たっていたせいか、いつもの温かさが失われていた。
「…寒いか?」
次いで肩や腕に触れてみる。
テニスプレイヤーたる者、肩や肘、脚も冷やしてはいけないのだが、リョーマの身体は全てが冷え切っていた。
「寒くはないけど、服が引っ付いて気持ち悪い…」
言いながら服を引っ張ってみるが、手を放せばまた身体にぺたりと張り付く。
嫌な感触に背中の辺りががぞわぞわとする。
「俺の家の方がいいな。今なら誰もいないし」
リョーマの自宅へ行ったら最後、家族からの追求は避けられない上に、下手をしたらしばらく会わせて貰えなくなるかもしれない。
他人からすれば結構な放任主義に見えるが、こういった付き合いになってからリョーマの家族と接触する機会が増え、その過程でどれほど息子を溺愛しているのかが良くわかった。
「おばさんは?」
「それもあとで話す」
手塚はリョーマの肩を抱き、自宅への道程を少し急ぎ足で歩かせた。


玄関には鍵が掛かっており、手塚は持っていた鍵で開けてリョーマを中に入れる。
「ねぇ、このままだと廊下が濡れちゃうんだけど」
靴も靴下も絞れるほど濡れているので、たとえ靴下を脱いでもこのまま歩けば廊下にしっかりと足跡が残ってしまう。
「気にするな。それより早く風呂に入れ。入っている間に着替えとタオルを用意しておく」
「…お邪魔します」
靴下を脱いで、申し訳ない程度に指先だけでひたひたと歩く。
リョーマによって浴室の扉が閉められると、手塚は雑巾で濡れた廊下を軽く拭いたあと、自分の部屋に着替えを取りに行った。

「リョーマ、着替えとタオルを置いておくが、お前の着ていた物は洗濯するからな」
「いいよ、洗濯なんて」
シャワーを浴びている音が聞こえるので、少し大きな声を出してリョーマに呼び掛ければ、途端にシャワーの音が止み、中からリョーマの声が浴室内に響く。
「そういうわけにはいかないだろう。洗い終わったら乾燥機に掛けるので少し時間が掛かるがいいな」
ぼんやりとリョーマの肢体がガラスに映り、思わず視線を外す。
「…ありがと」
小さな声でも礼の後、再びシャワーの音が浴室内を占領していた。
手塚は洗濯機にリョーマの着ていた物を全て入れ、スイッチを入れる。
雨だから乾燥機だけでもいいかもしれないが、雨の中にも雑菌がある。
考えるくらいなら洗濯してしまえばいいだけの事だった。
「俺は部屋にいるから、出たら来てくれ」
返事は聞かずに浴室から出て行った。


「…国光?」
「リョーマ?どうした」
数回のノックの後、いつまでも入って来ないリョーマを不審に思い、手塚の方からドアを開けていた。
ドアを開ければ手塚が用意したシャツを着ているリョーマが立っていたが、着ていたのはシャツだけで下は穿いていなかった。
「…えと、下着は借りたけど、ズボンは大きかったからやめといた」
手塚が訊ねる前に、リョーマの方から言い訳をしていた。
「そ、そうか」
シャツだけを着ているリョーマの姿に手塚は赤面していた。
手塚とリョーマのサイズの違いは初めからわかっていたが、まさかここまで違っているとは思っても見なかった。
手塚の用意したシャツでは、リョーマの手はスッポリと隠れ、太股の途中までを隠していて、まるでその下には何も身に付けていないように見える。
そんな手塚の動揺を他所に部屋の中に入ると、当たり前のようにベッドへと腰掛けた。
「かなり大きいな」
「でも、国光に包まれている感じ…何か嬉しい…」
えへ、と笑うリョーマに誘われるように手塚は手を伸ばしていた。
抱き締めて、キスをしてから、このままベッドの上に倒そうとしたが、自分にはリョーマに待ち合わせに遅れた理由を話さなければならない。
何はともあれ先に済ませようと、手塚はリョーマの身体を離した。
「では、先に遅れた訳を話させてくれ。実は今朝…」
少し乱れてしまったリョーマのシャツを直し、手塚は話し始めた。

「で、お祖父さんの容態は?」
「どうやら何も問題はないらしいのだが、大事を取って今日は入院している」
「…それでおばさんが付き添ってるんだ」
朝の電話は祖父が警察道場で倒れたとの内容だった。
頭を強く打っているので、救急車で病院に運んだので、家族に連絡を入れて来た。
父は昨日から出張に行っており、手塚は母とタクシーで病院に向かっていた。
だが、意識を取り戻した祖父はピンピンしていて、頭を打って気絶していたくらいで病院に連れ込まれて少し怒っていた。
頭を打っているので精密検査だけはして下さい、と頼み込み、ようやく首を縦に振ってくれたので、手塚は母に任せて病院を後にした。
「何とも無くて良かった…」
不安げに朝の出来事を聞いていたリョーマは、祖父が無事だと聞いて無意識に込めていた身体の力を抜いた。
「心配してくれるのか?」
「当たり前でしょ、国光のお祖父さんだよ?それに…国光が無事でよかった」
手塚の首にしがみつくようにリョーマはふわりと抱き付き、待ち合わせに遅れた理由が手塚の身に何かが起きたからでは無い事に心底安堵していた。
「リョーマ…」
目の前の細い身体をしっかり抱き締めて、今日の予定は全て白紙に戻し今日1日はこの部屋で過ごそうとリョーマに提案していた。
「おばさんはホントに帰って来ないの?」
「ああ、明日の昼頃の祖父と戻ると言っていた」
無論、リョーマからの抗議は無く、シトシトと雨が降る中、2人は限られた空間の中で幸せな時間を過ごしていた。

洗濯物が乾いても、手塚のシャツを気に入ったリョーマは丸1日着ていて、手塚はどうにも欲望を抑える事が出来なかった。

少しだけ祖父と雨に感謝をしていた事は、リョーマには秘密だった。




手塚の大きなシャツを着るリョーマさん。
かなり艶かしいだろうなぁ…。