06.君のにおい


その匂いが一番安心できるんだ。


授業後の練習に参加する為に部室で着替えていたのは、菊丸と不二の3年6組コンビとリョーマの3人だけで、既にコートに入っている部員もいれば、まだ部室に来ていない部員もいるような状態。
時計を見ても練習を始めるにはまだ早い時間なので、ここにいる3人の着替えは珍しくゆっくりだった。

「…あれ?」
授業中に起きた出来事を話している2人から少し離れた場所で着替えていたリョーマは、シャツのボタンを外していた最中で何かあったのか急に顔を上げて、まるで猫が辺りを窺うように部室内をキョロキョロと見渡していた。
「どったの、おチビ?」
何事かと、菊丸が視線の先に何かがあるのかと、リョーマが見た場所の全てを追いかけても、そこは見慣れた部室内の光景だけなので、菊丸は首を傾げて変な声を上げたリョーマに訊ねた。
「…気のせいか」
だが、リョーマからの返答は無く、菊丸は「おや?」と反対側に首を傾げる。
いつもなら何かを言えば、素っ気無くても何かしらの返答が返ってくるのに、今回ばかりは全くの無視だった。
しかも、一周ぐるりと見渡した後には小さな溜息。
「一体、どうしたの、越前くん?」
急に顔を上げて部室内を隈なく見渡したと思えば、今度は打って変わって黙々と着替え始めるので、菊丸でなくても気になってしまい、不二もリョーマに訊ねる。
「別に何でもないっス」
今度は一瞥の後で返事と取れる言葉を発したが、2人にしてみては求めていた答えでは無かった。
菊丸と不二の両方から訊ねられてもリョーマは平然と答え、脱ぎかけのままで止まっていた着替えを続ける。
「…変なの」
「ちょっとおかしいよね」
まずは顔を見合わせてから、不二と菊丸は不審な行動をしたリョーマの様子をこっそりと眺めていた。
絶対に何かあるはずなのに、隠そうとするから気になる。
しかし、リョーマは何も変わらずに着替えるので、しばらくすると2人とも諦めてしまった。

「おチビ、先行くよー」
さっきの事などすっかり忘れたように菊丸はリョーマを呼ぶ。
置いていけばいいものだが、リョーマは後輩の中でもかなり特別。
一緒にいるだけでも優越感のようなものを感じられる。
「越前くん?」
何よりも着替えが終われば部室に留まる必要性はゼロ。
こんな狭っくるしい室内に長い間いるよりも、外の空気を吸っていた方がよっぽどいい。
それは不二と菊丸に係わらずだが、今日のリョーマは違っていた。
「…どうぞ。後で行きますから」
着替えはとうに終わっていたが、バッグの中をゴソゴソ漁っているリョーマは、声だけの返事をしていた。
「おチビってば付き合い悪いぞ〜」
「早くコートにおいでよね」
ちょっぴり残念そうに菊丸は不二と部室を出て行った。


「…気のせいじゃないよな」
1人きりになったリョーマは、バッグから手を放して室内をウロウロと歩き回り、要所要所で犬のようにクンクンと匂いを嗅いでいた。

気になっていたのは、この部屋に微かに漂っていた匂い。

間違えようもないあの人の匂い。

「…でも、まだ来てないよな」
朝の練習から夕方の練習までかなりの時間が過ぎている。
残っているはずが無いのに、ふとした時に鼻孔を掠めるので、気になって部室内を見てしまったのは、先程の出来事。
気になればどうしても真相を確かめたくなるもの。
匂いが強そうな場所を探して室内を歩き回る姿は、夜中に徘徊している怪しい人のようでもだった。

「……越前?」
ドア付近で目を閉じて鼻を動かしていると、いきなりドアが開き、手塚が入って来た。
開けた途端のリョーマの姿に驚いているようであったが、咳払いを1度だけしてすぐに冷静になる。
「…あ、部長…」
校内では名前を呼び合わない。
これは2人で決めた約束。
「何をしていたんだ?」
ドアを閉めてリョーマの横を通り抜けると、着替える為にロッカーに荷物を入れるが、リョーマが何をしていたのかが気になり、着替えが出来ない状態になっていた。
変わった行動をするのは菊丸の得意技なのに、まるで菊丸が乗り移ったように動く姿はどうしても気になる。
きっと不二と菊丸から着替え中の行動を聞いていればここまで気にしなかったが、運が悪い事に手塚は部室に入るまでは誰とも会っていなかった。
「…匂いが」
リョーマはドアから離れて手塚に近寄る。
「……何のだ?」
「…この中、部長の匂いがしたから…気になって…」
傍に寄れば寄るほど、大好きな匂いが一層強くなる。
特に香水などを使っているのではなく、これは手塚自身が持つ匂い。
きっとリョーマにしかわからない匂い。
「俺の?」
学生服の上だけは脱いでキチンと畳んでから、リョーマと向き合った。
「部長って朝練の後でここに入りました?」
「……いや」
じっと手塚を見上げたリョーマの瞳は、試合の時以上に真剣な眼差し。
そんな瞳を見せるので思わず見惚れてしまった手塚の返事は一瞬遅れたが、そんな事は今のリョーマには関係なかった。
「…そっスか」
昼休みにでも来ていれば可能性があったが、それも無くなりガックリと肩を落とす。
感じる匂いは本当に本物だけど、何だか自分だけが相手を気にしているみたいで、ちょっと悔しい気持ちになり俯いて唇を噛み締める。
しかも、こんな馬鹿な事を口にして、呆れかえるのでないかとの危惧も同時にあった。
「…俺の匂いがお前にだけわかるというのは……かなり嬉しすぎるな」
顔を上げたリョーマの目に飛び込んできたのは、口元を手の平で隠している姿だった。
どうやら非常に照れているのか、指の隙間から覗く頬の辺りは赤くなり、視線は斜め上を見上げていた。
「何で嬉しいんスか?」
「お前の中で俺の匂いが定着しているんだ。嬉しいではないか」
誰もいないのを良い事に、手塚はリョーマの柔らかい頬に片手を添える。
「…部長」
自分よりも大きな手に包まれて、リョーマもここが部室である事を忘れたかのように、うっとりとした表情になる。
たとえ呼び名は校内のものでも、こうした触れ合いは恋人そのものの行動。
「俺もお前の匂いはすぐにわかる。魅惑的な甘さで酔いしれそうになる匂いだ」
「何それ、何かやらしいよ…」
「だが、真実だ」
残った手でクスクス笑うリョーマの腰を抱き寄せて、位置を入れ替える。
今は手塚がドアに背を向けていて、リョーマの姿はすっぽりと隠れた格好になった。
これならいきなりドアを開けられても、多少のスキンシップは誰にもバレそうにない。
そっと寄せられた唇をリョーマは瞳を閉じて受け入れた。

「越前…」
短い時間で終わった口付けの後は、ドキリとするほどの優しい笑顔。
「…部長の匂いってすっごく安心できるんだ」
上手く説明は出来ないけど、この匂いを嗅いでいると、どれだけささくれていた気持ちでも安らいでしまう。
リョーマにとっては恋人の匂いが天然のアロマセラピーとなっていた。
「そうか、ならばもっと傍で嗅いでくれ」
誰かがドアを開けるまで、リョーマは手塚の胸に顔を埋めて、安心できる匂いを満足まで堪能していた。


誰も知らなくていい。

この匂いは自分だけが知っていればいい。



よく考えてみると、かなりエロティック!