07.絡まる視線



約束の土曜日は、薄い雲は出ていたが空を覆い尽くすほどの厚みは無く、雲が途切れている部分は鮮やかな青色をしていた。

「まだ早いな…」
いつもよりも早めに目が覚めてしまったが、一度目が覚めてしまえばもう眠れない。
ベッドの中で横になっているくらいならと、起き上がって窓の前に立ち、閉めてあるカーテンを勢いよく開ける。
眩しい朝日が部屋の中を照らし、今日が晴天であると伝えてくれた。
「いい天気だ」
満足気に大きく首を縦に振る。
が、今の行動が『これでは子供が遠足を待ち侘びているようだ』気付きと、手塚は空を見上げながら苦笑いを浮かべてしまう。
「さて、着替えるか」
これほどまでに気になる存在と出掛けるとあって、服装にも気合が入ってしまうが、派手にならないよう、地味にならないように気を付けて選ぶ。
出掛ける目的はリョーマに行きつけのスポーツショップを案内するだけなのに、考えるだけで胸の鼓動が速まってしまう。
この恋心に気が付いて以来、リョーマの顔を思い出すだけで、あの声を思い出すだけで、どこか甘酸っぱいものが流れてくる。
だが、悪い気はしない。
むしろ、楽しいくらいだ。

「…これでいいか」
色々と悩んだ末、クローゼットからブラックジーンズと白のシャツを取り出し身に着ける。
上着として生成りのジャケットをハンガーに掛けたまま取り出して掛けておく。
ついでに小さなプレートの付いた銀のペンダントを机の上に用意して、顔を洗う為に部屋を出て階段を下りる。
「あら、おはよう、国光」
「おはようございます」
階段を降りきると、丁度、起きて来た母と廊下でばったり会ってしまった。
朝の挨拶を交わすが、母の顔はどこが疑問を携えた表情。
「どうかしましたか?」
「今日も練習があるのかしら」
平日でも休日でも手塚家の朝は早起きだが、仕事をしている一家の大黒柱が休日くらいはゆっくり寝たいと言うので、休日はいつもよりも遅めに起きている。
それは息子にも言い聞かせていて、この時間に一階に下りてくる事は無い。
それなのに、着替えを済ませて降りて来たので、急遽、練習になったのかと思ってしまっていた。
「いえ、今日は違います」
「そういえば、練習とは服装が違っているわね。早とちりしてごめんなさいね」
休日の部活での学生服で出掛けるのだが、今日は私服姿。
どうやら練習ではなく、ただのお出掛けだと気付いて柔らかく微笑む。
「…すみません」
謝る必要など無いのに、誤解を与えてしまった事に対し、ついつい謝罪してしまった。
「いいのよ。朝食は今から用意するわね」
「はい、ありがとうございます」
小さく頭を下げて、顔を洗う為に洗面所に入った。
いつもより念入りに顔を洗い、僅かに乱れている櫛で髪を梳く。
身だしなみに気を遣っている自分の姿を鏡越しに見て、「俺は何をやっているんだ」と自嘲するのだった。

約束の時間に間に合うように家を出る頃には、手塚の頭の中はリョーマでいっぱいになっていた。



「うわっ、まだこんな時間だったんだ」
いつもなら二度寝、三度寝が当たり前なのに、パッチリと目が覚めてしまったリョーマは、寝過ごしたかと慌てて時計を見ていた。
「…約束まで、まだ3時間以上もあるし…」
手塚との約束の時間は9時30分で、今は6時を少し回ったところ。
移動時間を考えての待ち合わせにしたようで、「開店と同時に店に入れば、他の客を気にする事無くじっくりと店内を見られる」と言っていた。
リョーマとしてはグリップテープだけ手に入れば良いのだが、手塚と2人きりで出掛けるなんて機会は滅多に無い。
しかも、あの日のように部活の今後を賭けた試合をするのではなく、完璧なプライベート。
そのプライベートに好きな相手と出掛ける。
これを『デート』と言わずに何と言うのだ。
「勝手にそう思ってるだけなんだけどさ…」
部活の練習中は自分にも他人にも厳しい性格でも、コートを出れば後輩が困っているのを先輩として、部長として見過ごせない性格。
ただ、優しく接する事に不器用なタイプなのかもしれない。
「部長が不二先輩みたいな性格だったら怖いし…でも、瞳は優しいんだよな」
初めて会ったあの日。
1本だけ色が異なる桜の花弁が舞い散る中。
会話を交わしながら眼鏡の奥の瞳が柔らかくなったのをリョーマは見た。
その表情は今でもしっかりと記憶していた。
「少しでも進展できたらいいな」
時間が合えば帰宅を共にしているが、部長職の手塚と1年生のリョーマでは滅多にどころか、合わない可能性の方が抜群に高い。
「折角、早く目が覚めたんだからシャワーでも浴びようかな…って、デートじゃないんだから」
浮かれ気分になっている自分を軽く叱咤し、着替えを持って部屋を出た。

「おはよう、リョーマさん。今日は早起きなんですね」
「おはよ、今日は約束があるんだ」
支度を済ませたリョーマが台所に入るとそこには従姉妹の菜々子だけがいた。
どうやら母親は仕事の関係で休日出勤になってしまったようで、朝食の用意がいつものように菜々子が引き受けていた。
テーブルの上には焼き上がった鯵の開きが置いてあり、鍋には味噌汁が入っていた。
「あらあら、何だか楽しいですわね〜」
「楽しいって、部活の部長とスポーツショップに行くだけなんだけど」
椅子に座ると、ご飯と味噌汁が前に並ぶ。
「あら。それにしては嬉しそうですわよ」
「…そうかな。いただきます」
女の勘なのか何なのか、全く顔にも声にも出していないのに喜んでいる事をズバリ当てられてしまい、リョーマは慌ててご飯を口に運んだ。

大好きな和食をお腹一杯食べて部屋に戻る。
約束の時間までのんびりしていようと、テレビゲームに勤しもうとするが、どうしてもヤル気が起こらずにベッドにもたれる。
テレビを見る気も起こらない。
眠気も無い。
あるのは、ドキドキと高鳴る鼓動だけ。
「…緊張し過ぎだって」
昂ぶる気持ちを抑えるように窓の傍に立ち、青々としている空を見上げた。
「天気もいいし、何かいい事があるかも。よし、今日は早く出よう」
いつもならどれだけ待たせても平気なのに、今日だけは絶対に遅刻をしないようにと、早めに家を出た。


待ち合わせは駅前。
「まだ来ていないな」
約束の場所に辿り着いた手塚は、腕に嵌めている時計を見る。
(…30分前か)
来ているはずが無い。
部活でも遅刻もあれば、遅刻ギリギリに来る事があるのだから、今日もそのくらいに来るだろうと見込んでいた。
むしろ、遅刻しても問題が無い時間にしておいた。
「…だが、早く会いたいものだ」
リョーマが来るまでの時間、手塚は静かに待つ事にした。

(あれ?部長…だよな)
リョーマは通学に電車を利用しないので乗る機会は少ないが、本日の目的地までは電車を利用するようで、言われた場所を目指していた。
どれだけゆっくり歩いても約束の時間より早く到着する予定でいたが、まだまだ小さく見える待ち合わせの場所には既に手塚が立っていた。
身長がある分、ここからでも姿勢の良さや、均等の取れた体格がよくわかる。
見つけたからには急いだ方が良いのか、それとも間に合っているのだからこのままゆっくり歩こうかと考えていると、不意に手塚がリョーマの歩いている方向に視線を向けるので目が合ってしまった。
リョーマに気付いた手塚は軽く手を上げる。
だが、急かすわけでもなく、緩やかに手を下ろして身体をリョーマの歩いている方向に変えるだけだった。
今日は遅刻ではない。
しかし、こうして待たせているだけで自分が遅刻した気分になるのはなぜだろう。
こうなってしまえばのんびりとは歩けない。
小さく頭を下げてから、急ぎ足で歩き出す。
(…どうしよ、緊張してきた)
何度も『デート』じゃないと言い聞かせてきたのに、今になって余計に意識してしまう。
足を前に出せばどんどんと2人の距離が縮まる。
意識してはいけないと手塚の姿を見ないようにするが、どうしても目が離せない。
手塚だけを見ていたら、近くを歩く人の姿も、周りの景色も、何もかもが視界から途切れる。
あと、数メートル。
あと…。

「おはよう。早いんだな」
「はよっス。部長こそ、早いっスね」
リョーマが手塚の至近距離まで近寄り足を止めると、手塚の方から話し掛ける。
リョーマは少し顔を上げ、手塚は少し下を見るようにすれば、2人は顔を合わし、視線を合わした。
リョーマを見ている手塚の瞳は、あの日のように柔らかくなる。
「今日は晴れて良かったな」
「そうっスね。これならラケット持って来た方が良かったスね」
時間は早いが電車に乗ることにした。
「どこまでっスか」
「2人分買っておこう」
目的の駅までの切符は手塚が買い、ホームに入る。
「部長、切符代」
数人しかいないホーム内で、リョーマは財布を取り出して切符代を払うと、時間通りにホームに入って来た電車に乗り込む。
車内はそれほど混んでいなかったが、2人は向き合うように立ったままで会話を交わす。
視線は外さない。
いや、むしろ外せなかった。


『これはもう…末期なのかもしれない』


リョーマだけでなく、手塚もそう感じていた。




デート(の過程)です。