05.距離



顧問と密かに見ていた大石だけが知っている手塚とリョーマの秘密の試合。
次の日も手塚とリョーマは練習を休んでいたので、仲間達は「2人に何かあったのではないのか」と噂していた。
手塚はリョーマとの試合で、禁止されていた零式ドロップショットを使った。
止められていたのに使ってしまったので、掛かりつけの医師に肩の様子を診てもらいに行っただけ。
だが、一方のリョーマは、手塚との試合が心を占めていて部活どころでは無かった。

「ドロップショットを打ったな」
手塚の掛かりつけの医師は大石の親戚。
中1の頃、手塚が利き手で試合を行わなかった事に対し、怒りを露わにした先輩による心無い行為により、手塚は左肘に怪我を負い、この治療を行ったのが大石の親戚だった。
それから定期的に通っている。
「…申し訳ありません」
「担当の医師として聞く権利はあると思うが」
この場は当たり障りの無い回答をして、何とか目の前の医師を納得させると、手塚は病院を後にした。

「…良い試合だった」
本気を出さなくては、リョーマは自分の世界から抜け出せない。
『父親を倒す事』
たったそれだけを目的にしている世界。
リョーマの中で目的としているものを手にした瞬間に、テニスから、自分の前からいなくなってしまいそうな気さえしていた。
だからこそ、自らの力や技術を全て使い、リョーマを、リョーマだけの世界から引きずり出した。
第1段階は成功した。
「あとは越前がどう思ったかだな…」
成功したと満足したのに、今更になって多少の不安が胸に生じる。
試合に勝ち、テニスでの目的を父親から離したが、あの試合で敵意を向けられてしまったらと思うと、複雑な感情になる。
「俺らしくないな…」
好かれようが、嫌われようが、そんな事は関係無かったはずなのに、あの試合で手塚も自分の心の中に生まれた感情を知った。
「俺は、越前が…」
歩道橋の上で立ち止まると、下を走る車をぼんやりと眺める。
「…これが好きだという感情なのか」
確信した瞬間から流れ込んでくる様々な気持ち、想い。
越前リョーマを好きだという気持ち。
好きと嫌いだけで分けるのなら、好きだと思うが、この好きは単純な意味の好きでは無い。
相手に向けるのは恋愛の感情を込めた好き。
「俺らしくない…」
リョーマに嫌われたくないと考えている自分が情けなくて溜息が出る。
全てはリョーマ次第なのだと、自分を説得して手塚は歩き出した。


「…部長」
2日連続で部活を休んでしまったが、全てを知っている顧問は何も言わなかった。
従姉妹の菜々子は「あら?」と言うだけで、特に何も訊かなかった。
制服のままベッドに横になる。
青学最強と呼ばれるだけあって、手塚の力は想像以上だった。
あの試合中の手塚は父親と同格、それ以上かもしれないが、父親は自分相手では本来の力を出さないので、実力は計り知れない。
だが、父親は自分の目標ではなく、目的だった。
『テニスで倒す』為だけの。
その為だけにテニスをしていたと言っても過言ではない。
年上相手でさえ、父親と比べれば弱く、試合もつまらないものだった。
青学に入学し、テニス部のランキング戦でレギュラーだった海堂や乾と対戦すると、その2人も勝利したが、面白い試合が出来ただけで、まだまだ満足していなかった。

それなのに、手塚との試合は違った。

余裕なんて欠片も無かった。
ほんの少しでも力を抜いたボールを打てば、手塚容赦ない攻撃を仕掛けてくる。
これこそがテニスだといわんばかりに。
手塚と打ち合っていくうちに、自分の中でテニスに対する思いが変化していた。
目的であった『父親を倒す』事は次第に薄れ、もっと手塚と打ち合いたいと感じるようになってきていた。
だが、タイムアップはやってきた。
無我夢中でボールを追い掛け、打ち返していたが、試合は手塚の勝利。
疲れでコートに膝を着くと、ネットに歩いて来た手塚はリョーマを見下ろしながら静かにこう言った。
『青学の柱になれ』と。
どういう意味が含まれているのかは、その言葉だけでは理解出来なかったが、自分を認めてくれた事だけは確かなものだった。
「…手塚部長」
試合の申し込みは手塚からだった。
場所と時間だけを言われ、その時、果たし状とばかりにボールを渡されたが、返さずに部屋に置いてある。
返しそびれたと言い訳できるが、本音を言えば返したくなかった。
「…好き…」
自分と手塚を結ぶものはテニスしかない。
部活の先輩と後輩という間柄でしかない。
もっと、もっと、知りたい。
もっと、もっと、近付きたい。
恋をしていると自覚してから、リョーマは手塚の一挙一動が気になって仕方が無い。
だから、試合を申し込まれた時は、嬉しすぎて何も言えなかった。
「少しは近付けたのかな…」
テニスだけではなく、私生活も知りたい。
休みの日は何をしているのか。
好きなものは何なのか。
出来る事なら全てを知りたい。
「はぁ、俺ってワガママだな…」
まるで女の子のようだと自嘲した後で、貪欲のなっていく自分に溜息を吐くと、手塚の期待に応えられるよう、練習する為に立ち上がった。

ラフな服装に着替え、ラケットと何時も使っているボールを持ち、父親を練習相手に誘おうと部屋を出た。






縮まっていく2人の距離。