02.帰り道




四月期のランキング戦の結果、これまで青学ナンバー3だった乾はレギュラー落ちとなり、1年生でありながら部長の独断でランキング戦のメンバーに加えられたリョーマが代わりにレギュラーの一員になっていた。
「全員集合!」
手塚の号令により、まずは最前列にレギュラーが1列に並び、その後ろに上級生から並ぶので、最後尾は1年生が並ぶのが決まりだ。
「明日の朝練は先生の都合で中止になる」
先生とは男子テニス部の顧問である竜崎スミレ。
彼女は何十年もこの青学テニス部の顧問を務めているが、自分の考えを押し付けるような指導は一切せず、どちらかというと部員に任せている部分が多い。
「明日が休みの代わりに午後はしっかりやるから、覚悟しておきな」
手塚の横で腕を組んで立っていたスミレは、手塚の話が終わった後でこう付け加えていた。

解散の後は1年生だけがコート内に残り、後片付けとなる。
その間に、他の部員達は着替えて帰って行くのだが、手塚だけはフェンス越しのコートの中をじっと見つめていた。
「気になる部員でもいるの?」
「…不二、か…」
手塚の動向に気付いた不二が部室に戻らずに手塚の横に立てば、手塚に習い不二もコートの中を静かに見守る。
逆に言えば、1年生は部長と不二の監視付きとあって、焦ったように整備を進めてしまう。
無論、その中でもリョーマだけはマイペースを保っていた。
「…越前って可愛いよね」
不意にポツリと零した不二の言葉に手塚は眉間に皺を寄せて、視線をコートから不二に移動させる。
「どういう意味だ?」
「言葉どおりだけど?」
後は自分で考えてと言うと、何やら含みのある笑みを浮かべながら不二は手塚の横から去って行く。
残された手塚は不二の言動に眉をしかめながらも、再びコートを見やれば、どうやらコートの整備は終わったようで後はボールの片付けになっていた。
これさえ終われば、1年生も着替えを行う為に部室に入ってくるだろう。
手塚はようやく部室へと足を向けた。

「…手塚部長って立ってるだけでも迫力あるよな〜」
手塚が去って行くのを見送っていた1年生達は、息を深く吐いて肩の力を抜いていた。
コートの外にいるだけでもその存在感は尋常ではなく、ずっと見られている分、練習中よりも緊張してしまった。
「はぁ〜、でもあんな風に俺達を見てくるなんて今までにあったか?」
「…無いよな?」
ボソボソと話す声は、少し離れた場所にいるリョーマの耳にまで届いていた。
リョーマも手塚がフェンスの外から眺めている姿は視界に収めたが、さっさと片付けて帰りたい気持ちが強すぎて、他の1年が考えるような思考にまで辿り着かなかった。
だからといって、気にしたってどうしようもない。
「ねぇ、片付けもう終わったんだよね」
「あ、うん…おっと」
しゃがみ込んでボールの汚れを拭いていた部員に話し掛ければ、持っていたボールは手の上を滑りリョーマの足元に転がる。
リョーマは転がってきたボールを拾い上げてカゴの中に入れると、一足先にコートから出て行った。

「…部長、か…」
ランキング戦ではブロックが違っていたので、手塚と試合をする機会は無かった。
しかも自分の試合と重なる事が多く、プレーをする姿もろくに見ていない。
試合結果を見れば手塚の実力はかなりのものだと推測できるが、実際にこの目で見ない事には手塚の強さは測れない。
「…ちぇッ、何で同じブロックじゃなかったんだろ」
ランキング戦に加われただけでもリョーマは特別な扱いなのだが、せっかくなら同じブロックに名前を連ねたかった。
「…でも、何でこんなに気になるんだろ…」
手塚がコートのどこを見ているのかが気になっていた。
全体を見ているのなら構わないけど、もしも特定の1年を見ていたのだと思うと、リョーマはどうにも心中がざわめいてしまう。
気になる。
何故か気になってしまう。
自分の気持ちなのに上手く説明できない不思議な感覚だった。

「越前か、お疲れ様」
「ご苦労だったな」
「ういーっス」
部室の扉を開けると、そこには手塚と副部長の大石だけがいた。
ジャージ姿のまま椅子に座り、何か書き物をしている手塚の横に着替えを済ませた大石が立っているところを見ると、相談しながら部誌を書いているようだ。
そんなリョーマを皮切りに1年生達は着替える為にぞろぞろと部室に入って来たが、中にいたのが部長と副部長の2人のみだったので、またもや緊張に包まれた。
ろくな会話もなしに1年生は蜘蛛の子を散らすように部室を後にしていく。
が、またしてもリョーマだけはのんびりと着替えをするのだった。
「じゃあ、これは俺が先生に持って行くから、手塚は鍵をかけておいてくれよな」
「ああ、すまない」
そんな2人の会話に驚いたのはリョーマだった。
まさかこんなところで2人きりになるとは思いもよらなかった。
椅子から立ち上がった手塚は、リョーマから少し離れた場所で着替えを始める。
2人だけになると、あの日の事を思い出す。

桜の花弁が舞い散る中での出会い、を。

「…のんびりしていないで早く着替えろ」
「ういース」
ドキドキしている自分に比べて手塚は静かな声で話し掛ける。
きっと気にしているのは自分だけだと、リョーマは聞こえないくらいの小さな溜息を吐く。
「…少し話がしたいのだが、共に帰らないか?」
「は?」
惚けた返事をしてしまった自覚はあるが、これは不可抗力というものだ。
手塚の口からそんなセリフが出てくるなんて誰が思う?
恐らく誰も想像付かないはずだ。
「…いや、無理とは言わないが」
「別にいいっスよ」
だってこれは滅多に無いチャンスだと思う。
この説明できない気持ちの理由を明確にする為には、この申し出を受けるしかないのだから。



「…どうだ、レギュラーになって、何か変わったか」
「別に…ただ、練習がしやすくなっただけっス」
着替えて、部室から出て、人気が少なくなった校門を出ていた。
部活を終えて帰宅する生徒の姿も疎らになっていたので、この不可思議な光景をは誰の目にも留まらなかった。
「これでお前は地区大会に選手として出場するのだが、お前ならきっと鮮烈なデビューになるのだろうな」
「どういう意味っスか?」
「恐らく相手は1年とあって甘く見ているだろうからな」
「どうせ俺はチビですよ。ま、俺は誰が相手でも手を抜かないっスよ」
手塚の言葉にムッとするが、その後はいつものリョーマだった。
「当たり前だ。どんな試合でも全力で向かえ」
「ういっス」
取り留めの無い会話なのに、どうしてだろう?胸がざわめく。

「明日の朝練は無いので、時間を間違えるなよ」
右へ曲がろうとする手塚と、左へ曲がろうとするリョーマ。
「ういっス」
ここで2人の足の向きが変わるので、手塚は注意だけしておくと、軽く手を上げて自分が向かうべき道へと歩いて行った。

「…ぶちょう」
最後に見せた小さな笑みに、リョーマは学生服の裾をぎゅっと握る。
まだ胸がざわめいている。
じわじわと胸の中が何かによって侵食され始めている。
未だに謎めいている自分の気持ち…思い…心。
悶々とする胸をそのままにリョーマも前を向いて歩き出した。


それが−恋心−だと気付いたのは、リョーマが自宅の玄関を開けてからだった。




まだ、付き合ってないんですよ。