17.チョコレート |
「へー、日本のバレンタインってアメリカとは違うんだ…」 日本に来て数ヶ月、国によってそれぞれの文化があるように、同じようなイベントでも中身は全く異なっているのだと知った。 「リョーマさんならたくさんのチョコレートを頂きそうですね」 話の初めはケーキを焼いていた菜々子に、何をしているのかと訊ねたからだった。 大学の友人が誕生日だからと、友人の好きなチョコレートケーキを焼いていた。 甘いチョコレートの香りと、オーブンで焼かれているケーキの甘い香り。 台所の中は胸焼けしそうな甘さに包まれていて、南次郎はそそくさと逃げていたが、甘い物が好きなリョーマは気にもならなかった。 「でもさ、好きでも無い相手からなんて困るんだけど」 ガタンと、椅子を動かして座り込む。 「学校ですから。靴箱とか机の中に入れる子もいるでしょうね」 「靴箱って、そんなところに入れられたチョコレートなんか食べたくないよ」 靴を入れる場所に食べ物を入れるなんてと、あからさまに嫌な顔になる。 「まぁ、その時になったら考えればいいだけですから」 だが、季節的に初夏の今、バレンタインデーにはまだ早過ぎる話。 「その時ね…」 何だか今から憂鬱になってしまった。 アメリカでは男性から女性に贈り物をする習慣があるからこそ、日本のバレンタインデーを考えると頭が痛くなる。 「リョーマさん。そろそろ、お出掛けの時間では?」 「えっ?あっ、ヤバっ」 菜々子に言われて時計を見れば、約束の時間が迫っていた。 「じゃ、行って来るから」 「いってらっしゃい」 バタバタと忙しそうに出て行くリョーマに、菜々子は「楽しそうですわね」と呟いていた。 部活の無い休日は出来るだけ恋人と過ごしたい。 学校でも部活の時間などで会えるが、学年が違うので何時間も一緒にいられる事なんて出来ないから、休日は本当に幸せな時間になる。 以前なら、休日はテニスと決め付けていただけに、恋人が出来た途端にこんな風に考えがコロリと変わってしまうなんて、正直驚いていた。 だからといってテニスを疎かにはしない。 テニスも恋人とは切っても切れない大切なもの。 何よりも、恋人の目標である『全国大会優勝』を叶える為に、強くなると自分自身に誓いを立てた。 そんな事を考えながら、約束の場所へと急いでいた。 「国光!」 待ち合わせの場所は何時も通りの駅前。 老若男女、家族、友人、恋人など様々な人が行き交う場所である為、この場を待ち合わせにしている人も多い。 手塚は必ず同じ場所に立ってリョーマを待っていた。 中学生にしては背が高く、スタイルも良いので、そこに立っているだけの手塚はかなり目立ち、リョーマは「また、待たせた」と、慌てて駆け寄る。 遅れないように家を出るリョーマだが、手塚より先に待ち合わせの場所に到着する事は今の今まで一度も無い。 遅刻なんて当たり前だったのに、恋人が待っている姿だけは非常に焦る。 「走らなくても、まだ時間では無いぞ」 駅前の大時計も、まだ約束の時間を差していなかったが、慌てて来てくれたリョーマの顔を見ると、自然に笑みが浮かぶ。 「だって、国光が待ってるから」 「俺は早く来てお前を待ちたいだけだ…」 「どうかした?」 不意に手塚が眉を顰めるので、リョーマは気になってしまった。 「いや、何か甘い香りが…」 ふわりと鼻孔をくすぐる甘い香り。 「甘い香り?…あっ、チョコレートケーキ」 甘い香りって何だろうと首を捻ったリョーマだが、家の出る前に台所にいた事を思い出した。 父親も逃げ出すほどの甘い香りに包まれていた台所にいたのだから、今のその香りがリョーマの身体に付いていて、手塚は気になった。 「チョコレートケーキ?」 「うん。菜々子さんが友達に渡すからって朝から焼いてたんだ」 「この甘い香りはチョコレートケーキなのか」 「そうだよ。あっ、国光は甘い物好きじゃなかったね。ゴメン」 付き合っていく過程で、相手の好き嫌いを把握しているので、甘い物が苦手な手塚にとっては、リョーマの身体から漂ってくる甘い香りは嫌気が差すものだろう。 思わず、一歩後ろに下がってしまう。 「いや、食べるのは苦手だが、お前から香るのはそれほど嫌ではないぞ」 きっと、この香りがする食べ物を出されたら断ってしまいそうだが、この可愛らしい恋人から香ってくるだけなら、全く問題無い。 むしろ、リョーマに似合っている香りだと、手塚は満足そうにしていた。 「お待たせしました。チョコレートケーキのお客様は?」 「あ、俺」 本日のデートの目的は、買い物だった。 お互いに欲しい物を買ってから立ち寄ったのは、軽食とデザートが楽しめるカフェだった。 手塚は紅茶を頼み、リョーマはグレープジュースとチョコレートケーキを頼んでいた。 今ではすっかりと甘い香りが身体から抜けてしまったリョーマだったが、メニューでチョコレートケーキを見て、ついつい食べたくなってしまった。 どうしようかと悩んでいたが、その悩みを察知した手塚がさり気無く頼んでいた。 「ごゆっくりどうぞ」 運んできた店員が去ってから、リョーマはじっくりとケーキを見つめる。 「美味しそう…」 チョコレートケーキと銘打ってはいたが、出てきたのはガナッシュショコラ。 それも、通常のケーキに比べたらかなりの大きさ。 何層にも別れているスポンジの間は生クリームで、上にも可愛らしく生クリームが飾られていた。 「見ていないで食べたらどうだ」 「うん。頂きます」 フォークをケーキに差し込めばすんなりと切れ、フォークを上から刺して口の中へ運ぶ。 「わっ、スポンジがふんわりしてる。生クリームもそんなに甘くないからいいかも」 嬉しそうに実況しながらケーキを食べるリョーマ。 それを見ている手塚。 甘い雰囲気を出していても、甘い物好きな男性も多く来店している事から、特にこの2人を気にする客はいなかった。 「食べてみる?」 「そうだな」 一口大に切って食べさせようとしたが、ここでは人の目もあるから、リョーマは皿を手塚の前に差し出す。 期待していた手塚も「流石にここでは無理か」と、自分の手でケーキを食べたが、とある事に気付いた。 「…間接キスだな」 「…そ、だね」 リョーマが口の中に入れていたフォークで手塚も食べた。 ただそれだけなのに、変に恥ずかしくなるから不思議だった。 間接じゃなくて、唇同士を重ねる直接のキスは何回もしているというのに。 「なかなか、美味いな。これなら俺でも食べられそうだ」 照れ臭さを隠すように、ケーキを食べる。 「でしょう?」 リョーマもちょっとだけ照れながら、戻って来たケーキを口にした。 甘いチョコレートケーキが更に甘くなった気がした。 |
甘い、甘い、恋のチョコート。
バレンタインのネタにしようかと思ったけど、話の流れから止めておきました。