13.わがまま


あの告白から1ヶ月。
変わらない事、変わった事、様々な出来事があった。
誰かがいるところでは普段通りの2人を努めているが、2人きりになった時は甘えてみたり、時には愚痴を言ってみたりして毎日を過ごし、少しずつだが確実に恋人としての道を進んでいた。
触れ合う指の温もりが嬉しい。
交わす言葉が優しい。
幸せとはこういうものだと、毎日のようにその幸せを噛み締めていた。


「いらっしゃいませ」
初めて手塚の自宅を訪れたリョーマは、手塚の性格からは想像できないおっとりとした両親と、どうやらこちらの影響を受けまくりと思われる厳格そうな祖父の出迎えを受けた。
休日だから家にいてもおかしくないのだが、まさか全員に出迎えられると思っていなかったリョーマは無意識に後退りしてしまった。
「越前」
「あ、お邪魔します」
手塚に名前を呼ばれたリョーマは何とか笑顔を作り、後退りした足を前に出して手塚宅の中に入った。

リョーマと手塚の自宅は学校を挟んで逆方向に近い。
1週間前、手塚から「良ければ自宅に来ないか、母が連れて来いと言うのでな」と誘われた。
ついでに「食事を御馳走したい」とまで言われ、断る理由なんかどこにも無いリョーマは嬉しそうに「行く」と答えたが、1人で辿り着けるか心配だったので細かく描かれた自宅への地図をもらい、何度も確かめてから電車に乗ってやって来た。
こんなふうに誰かの家に行くのは日本に来てからは初めての経験で、ワクワクと同時にドキドキした気持ちで知らない土地を歩きながら、誰か知っている人に会ったら何て言おうか考えていたが、自宅を出て手塚の家に行くまでの間は誰とも会わなかった。

「あの、これ」
玄関のドアを閉めたリョーマはまるで見せ物のように見られ、視線をどこにおいていいのかわからず、とりあえず持っていた手土産を母親に手渡す。
中身は菜々子に勧められたカスタードと小豆クリームが入ったどら焼き。
リョーマもお気に入りの一品で、これなら甘い物がそれほど得意では無い手塚も食べられるはずだと購入して来た。
「まぁ、ありがとう」
「気を遣わせて悪かったね」
袋で中身の正体がわかってしまったのか、両親からニコニコと笑い掛けられた。
「こんな所に立ちっ放しもなんだから、上がってもらいなさい」
漸く祖父からのお許しが出て、リョーマは手塚宅の中へと進んで行くが、通されたのは手塚の部屋では無くてリビングだった。
ソファーの中央に座るように言われ、その隣に手塚が座る。
祖父も父親も座り、母親だけがキッチンに入ってお茶の用意をしているが、自分は試されているのではないのかと、緊張のみが支配していた。
「越前、すまないな。もう少しだけ相手をしてくれ」
「あ、はい」
小声で話し掛けて来られて、リョーマはそっと手塚に視線を向ける。
どこか苛立っているらしく、手塚の表情は家族の前なのにヤケに固かった。
もしかして、自宅でも学校みたいにしているのかと思うほどに固い。
相手がこうなので、リョーマも恋人としてでは無く、後輩としての越前リョーマになってしまう。
「国光がお友達を連れて来るなんて珍しいのよ。珍しいって言うより初めてかしら?」
手土産で渡したどら焼きと、きれいな緑色をしたお茶を全員に配り、うふふと嬉しそうに笑う母親にリョーマはハッとして手塚を見る。
「国光がどんな子を連れてくるのか興味があったのよ。国光みたいな子かと思ったらこんなに可愛い子で…あら、男の子に可愛いは失礼だったかしら」
「あ、別に…」
「越前君もテニス部なんだよね」
「はい、そうです」
「1年生でレギュラーなんだろう。すごいね」
次から次に話し掛けられるが、どうやら手塚は自宅に他人を誘わないらしく、今日リョーマが来る事を心待ちにしていたようだ。
それはとてもありがたいが、こういう状況に慣れていないので、リョーマは早くここから逃げ出したくなって来た。
ソワソワと手塚に何度か視線を送れば、手塚もリョーマの心情を理解しているように頷いてきた。
「そろそろ、連れて行っても構いませんか」
どら焼きも食べ、お茶もお代わりして飲み干した。
ここにはもう用は無い。
いつまでも家族にリョーマを独占させる理由は無く、手塚はリョーマの腕を取り、2階にある自分の部屋連れて行く事に決めた。
「そうね、いつまでも私達の相手をしてもらうのは悪いわね。越前君、夕食は家で食べて行ってね」
「はい、ありがとうございます」
たくさん喋って満足していた両親とあまり話さなかった祖父に頭を下げて、リョーマはこの家に来て1時間以上が過ぎた今、漸く手塚の部屋へと移動する事が出来た。

家の中はどこも掃除が行き届いていて、廊下には花、階段には絵画が飾られていた。
誰の趣味なのかはわからないが、花は季節感があり、絵画は優しい色使いで嫌味が無く、むしろ好感が持てた。
トントンと軽い音を立てて階段を上がる。
「越前、ここが俺の部屋だ」
「わ…」
開かれたドアの中は、手塚の性格を表しているように清潔かつ整頓されていた。
特に大きなガラスケースに収納されている釣竿に目を引かれ、そろりと近付いてみる。
「これ…全部、国光の?」
「ああ、そうだ」
「高いんでしょ」
「まあな」
「…国光?」
言葉少なめに会話を交わしていると、背中から包み込むように抱き締められた。
ガラスケースには手塚にしっかりと抱き締められている自分の姿が写り、意識していないのに顔が熱くなる。
「すまなかったな」
「何が?」
謝られるのはこれで2回目。
「両親と祖父だ」
「別に気にして無いし、あんなふうに歓迎されるなんて想像してなかったからちょっとビックリしたけど…」
全員で出迎えられ、リビングに案内されて、美味しいお茶を御馳走になったが、どれもこれも好意的でリョーマは本気で安心していた。
だが、正直に言えば、手塚とは部活の先輩と後輩の関係で友達では無く恋人なのだ。
手塚は自分を家に招待したが、その際に自分の事をどう話したのかが気になっていた。
「ねぇ、おじさん達に俺の事を何て話したの?」
「…家族にはお前を大切な後輩と話した。それをどう捉えているのかは、両親と祖父にしかわからないが」
どうやら『恋人』とは言っていないが、『大切な後輩』と言い、しかも自宅に連れて来るくらいだから、かなりの存在だと言っているのと同じだ。
「…はっきり恋人と宣言しても良いのだが」
「え?冗談だよね」
ギョッとして思わず振り返る。
「冗談?冗談で言える事か?」
振り返った先にある手塚の顔は真剣そのもの。
リョーマの言葉に対して、ジョークを加えて話しているのでは無い。
「近々、リョーマの御家族にも挨拶に行かねばな」
「…俺の家?」
「俺は招待してもらえないのか?」
「あ、でも。俺の部屋、汚いし…」
「俺が行く前に片付ければ良いだけだろう。それより…」
くるんと、顔だけで無く、身体ごと反転させられて手塚と向き合う形になる。
「…折角の2人きりなんだ。キスをしても良いか」
「…っ…」
カッと顔が赤くなる。
キスは告白時にリョーマからした不意打ちのものしかない。
それも頬にで唇では無かった。
だが、手塚の望むキスはそんな挨拶のキスではなさそうだ。
「…うん」
心の関係は進展しているのに、身体の関係は一切進展していない。
もしかして、これが2人のファーストキスになるのではと、リョーマは身体中の血液が沸騰しそうなくらいにドキドキしていた。
「…リョーマ」
目を閉じたリョーマの顔に手塚の顔が近付く。
吐息が掛かるほど近付くと、手塚は一度だけリョーマの名前を口にしてからその柔らかそうな唇にキスをしていた。
触れ合うだけの優しいキス。
一度、二度と表面だけ触れた後、手塚は微かな間を置いてから噛み付くようにリョーマの唇を貪り始めた。
「…んんっ?」
リョーマの上腕掴んでいた手塚の手は、何時の間にか背中と後頭部に移動し、恋人としてのキスを続ける。
「…ん、あ…」
いきなり荒々しくなったキスに、息が苦しくなって思わず開いた唇の間から、ぬるりとした何かが口内に入り込んで来た。
初めはそれが何か判明しなかったが、手塚とキスをしているのだから、これは手塚の身体の一部でしかありえない。
(…これ、国光の…舌?)
歯列をなぞると、奥に引っ込んでいる自分の舌に絡み付いてくる。
ここで逃げるわけにも行かず、リョーマは初めてのキスで深いキスをしてしまった。
その恥ずかしさで、手塚の唇が離れてからも顔を赤くしていた。
ベッドに横並び座らされ、頬の熱が取れるようにパタパタと手で扇ぐ。
「今度は家族がいない時に誘っても良いか?」
「…そ、それって」
「もっと触れたい」
サラリと真顔で言われたセリフに、折角冷ましていた頬の熱が舞い戻る。
キス以上の触れ合いなんて言ったら。
「…わがまま…」
想像するだけで火が付いたように顔に熱が高くなる。
「お前に関しては、な」
最後に口角を上げて小さく笑った。
段々と2人きりになった時の手塚の性格が変わっていく。
嫌な変化では無いが、最後はどうなってしまうのかちょっと不安になっていた。

今日は手塚に誘われるまま何度もキスをしていた。


夕食はリョーマが楽しみにしていた和食づくしだったが、手塚の口元を見る度にあのキスを思い出してしまい、味がわからなかった。





まだ、キスだけですよ。