老いぼれの独り言(U)(仕合せ)
(2019年2月号)

2月4日の「立春」は陰暦の正月だ。
 従ってその前日の2月3日の「節分」は「大晦日」として、以前はよく「福は内、鬼は外」と福豆をまく声が聞かれたものだ。
 古臭いようだが私は今でも大声で節分の晩に「福は内、鬼は外」と叫んで福豆を撒いている。
 一般的にぼは(ひいらぎ)の枝に(いわし)の頭をさして 邪気を払い福を呼び込む風習なのだが、いっの頃からか定かではないが、私は自分の心の中の鬼(煩悩)を追い出したいとの思いを込めて「鬼は外」にしている。
 そして今年からは先月号で書いた「ユーモニア」即ち、しみじみとした幸福感というか私自身(ひそか)に 満足感を味わいたいものだと切に願い、今月はその事について自分なりにどうすればその様な心境になれるかと考えてみた結果、 まず自分自身が決して妥協を許してはならないという非常に厳しい修行が必要であることに気付かされた。
 然し現在米寿の私の人生は唯一回、リハーサルは無い、従って何としても有終の美を飾るためには最早一日の無駄も許されない。
 いずれ人生は途中で終わるものだとしても、その時、「まあよく生きた」と納得して旅立ちたい。

人生とは見、聞き、考え、行う生涯だ、常に今日を是正し、それを是認して明日に向かう心掛けが必要だ。
 即ち、孔子の「(じょ)」、キリストの「愛」、釈迦の「慈悲」を常に心に抱きつつ 「積小為大」小さな努力を継続する事によって未開の秘奥の自分の花を咲かせることが出来るかも知れない「悟りは迷いの道に咲く花」 であることを信じて遅蒔きながら常に変化し、成長し、そして進歩してゆかねばユーモニアは遠のいてゆくばかり。
 数年前、ブータンの国王が来日し、彼の国である「GNH(国民総幸福)」が注目を浴びた。私達のブータンヘの憧れは、 物質的でなく精神的豊かさの追求を国是(こくぜ)とした社会への憧れだったと思う。 そのブータンの農村に伝承されてきた最も重要で大切なことは、人を“幸せ”へと導く知恵であり、人と人とがぴったりと合い、お互いに仕え合う仕合わせ感、 その根本には常に相手を思いやる心、つまり「無償の絶対的な愛」、恕の精神が必要だ。

又、人は怒りや不満などのマイナスの感情には敏感に反応するが、居心地の良さは、いつしかそれが当たり前だと思うようになる。
 便利で快適な暮らしが自然と人の力けで生きられるという(おご)りを生み、 そして便利さの中で次第に「感謝」という言葉が力を失い、特に生かされていることへの深い感謝の念が失われていった。 「感謝の念」こそがEより良き生を貫く力」になる筈なのに。
 聞くところによると、米沢の大工は材木の(ほぞ)臍穴(ほぞあな)がぴたりと合うと「しあわせがいい」と言うらしい。 特に常に火に当たって変化しやすい囲炉裏の炉縁の四隅の仕石(しぐち)がぴたりと合わせる技術と、 その様子を「仕合わせがよい」ということを聞き、辞書で調べたら、「仕合」とは二つのものを合致させる「しあわす」が語源だとあった。
 又、人々が心に思い描く幸福な状況、イメージを「しあわせ」、それに向かって取り組むことを「仕合わせ」、 その結果幸福を実現した状態を「幸せ」と表現したいと言った人がいたが、なんとなくわかるような気がする。

詩人、カール・ジブランは「よろこびは悲しみが仮面を外した姿、笑いの湧き出る井戸は涙であふれる井戸である。 それ以外の何かありえるでしょうか」と言った。
 総ての状況を受け入れて、心豊かな人生を生きるには、どのような環境にあっても、そこにある恵みを見抜く目を持つこと、その為には、 一つの出来事を別の視点から捉え直す習慣を身につける必要がある。

人間にとって心の奥底から湧き上がる満足感は、このように苦しみや悲しみを乗り越えて喜びに変え、そのことによって自分の成長を実感する時に生まれる。 夢を追うなら、我が身に降りかかる総てを積極的プラス思考で受け止め、簡単に諦めないことが人生を開いてゆく基本である。 人が成長し続けようとする限り、苦しみや悲しみは常に身近につきまとう。然しそれを神の試練と受け止めて、 その苦しみや悲しみの中に大きな喜びが含まれていると信じて前進することだ。
 毎日元気に過ごせることも、三度の食事が出来ることも、更に言えば、こうして生かされて、然もくだらない文章を書かせて頂く事の出来るのも、 第一、息が出来ること自体が何物にも替え難い幸福なことなのだ。
 平素から当たり前のことを感謝する訓練を積んでいれば、きっとこれから苦しみや悲しみにあったとしても必ずその中から喜びの種を 発見することが出来ると信じたい。

この「馬耳東風」も今年の5月で30年目に入る。
 今年からはもう少し増しなことを書いて皆様のお役に立ちたいと分不相応な考えを起こしていたが、書き終えてみると、 やはり当たり前の事をくどくどと書いたにすぎないが、人間というものは、一度は何事かについて強い決心をしたにも拘らず、 いつの間にか弱さにとらわれてしまったという経験は誰にもあると思う、その弱さをいつまでも引きずらない為の秘訣は 「自分はいかに生きるべきか」というテーマを常に心の奥底に刻んで最後まで生ききりたいと決意するべきだと思う。
 終わりに今迄に何回も「禁酒宣言」をしては自分の弱さに負け続けた経験の持ち主だが今回の件に関してだけは 「論語読みの論語知らず」と言われぬ為にもそして残された人生の決意表明として、以前何かの本で読んでノートに書き留めておいた 「男の品位」を紹介させて頂くこととする。

「男の品位」男の品位とは、言行一致にして一念に殉ずることを言う。つまり「やる」と約束したら命を取られてもやり抜く、 「やらない」と言い切ったら万金を積まれても微動だにしない、そしてことに臨んで弱音を吐かず、失敗したら無念の一語を呑み込んで潔く責任をとる。 これが男の品位だ。従って社会の表裏は関係ない。問われるのは男としての処し方である。それは社会的地位でも権勢でも財力でもない。(作者不明)
                           以上