(2019年1月号)

新年おめでとうございます。
 今年は亥年、恐らく日本中がマスメディアに洗脳されて、目的を履き違えているオリンピック目指して猪突猛進する事だろう。br  即ちその件に関しては何回も書いたが、オリンピックは決して「スポーツの祭典」であってはならず、 あくまで「全世界平和の為の祭典」でなければならないからだ。
 そして私の80年間のスポーツ界(馬術、水泳、クロスカントリー、フェンシング、ピストル、スキー、ライフル)に関係した経験から言わしめれば、 アスリートと称する者たちはもちろん、数多くの若者達はその大半が二流以下の指導者達に扇動されてオリンピック選手になることを夢見て、 (たった)一回限りの大事な人生を(どぶ)に捨てることになるだろう。  即ちスポーツの語源はラテン語で「全てを忘れ熱中する」という意味であり、決してお互いの技を競い合う「競技スポーツ」であってはならず、 オリンピックは勝ち負けとは無関係に、当然金銀銅等のメダルも無用、優勝国の国家斉唱も入賞国の国旗掲揚等もっての外、オリンピックに参加する者達は、 スポーツを通して世界平和の為の戦士として出場するのみで、それでこそオリンピックは「参加することに意義がある」と言うものなのだ。

然し、確かにオリンピックでの超一流の選手達の演技が全世界の人々、特に若者達に与える夢と希望と勇気と興奮と、 そして感動は計り知れないものがあることもまた事実である。
 然し、それらの演技は各競技毎に開催される世界選手権で思う存分に披露し、マスメディアは世界選手権こそ真の世界一を決定する唯一のものとして スポーツに関してはオリンピックを大々的に報道せず世界選手権に焦点を絞って報道すべきだ。
 更に、スポーツに関して一言つけ加えると、人々に感動を与える名選手と言われる人達には、本人も気付いていない反射神経、 天賦の才の持ち主である必要がある。何故ならば、スポーツは自分が気付いてから行動を起こしていたのでは間に合わない場合が大半を占めているからだ。

又、スポーツの大半を占めている二流三流の指導者に師事しても、その師の教えを超えて上達するだけの先天的にスポーツに適した身体能力の持ち主で、 その上絶対に最後まで諦めない根性が必要だ。その持ち合わせのない人達は総て骨折り損のくたびれ儲けに終わることになる。 又、スポーツはハードなトレーニングを積んで意志が強くなるのではない、意志の強い者だけがそれに耐えることが出来るのだ。
 更に競技スポーツでは強い者が勝つのではなく、勝った者が強いというだけのことだ。
 然し、何回も書いたが、スポーツの真の御利益(ごりやく)は「吾人に勝つ道を知らず、 (われ)に勝つ道を知りたり」(柳生宗矩) を会得することであり決して人に勝って優越感を味わう等というそんな吝嗇(けち)なものではない。
 それらのことをよく考えた上で若者達はオリンピック熱に浮かされることなく、自分か幸福に生きる為の一つの道具としてスポーツを考え、 自分の健康の為にスポーツをすることで人生をより豊かにし、そしてより有意義な人生を送る為の一手段として楽しめばいい。

オリンピックについては同じ様なことを毎回くどくどと書いてきたが、せめて1月号ぐらい何か気の利いたことを書きたいと思って考えてみたが 気が付けば既に先月号で気の早い私は中村天風の言葉を引用し「心一つの置きどころ」等と私自身の今年の抱負まで書いていた。
 そこで今回は敢えて白状すると、実は私は以前から米寿になったら平成2年5月号から書いているこの「馬耳東風」を 杉田玄白(1733〜1817)が最晩年に最後に出版した「耄耋独言(ぼうてつどくご)」(老いぽれの独り言) にしようと考えていた。そして圧世的で消極的に生きるより、楽天的で積極的に前向きに、論語読みの論語知らずと言われようとも、 肉体の老いは精神の成長でなければならず、人生に手遅れなし、一寸先は闇ではなく光であると信じて、 より前向きに自分の思い付いたことを若干辛口の文章等も交えて書かせて頂こうと考えていたのが、私の今迄の拙文を反省し、 やはり「馬の耳に風」のままにさせて頂くことにした。

私の好きな言葉に陶芸家の河井寛次郎の「過去が咲いている今 未来の(つぼみ)で一杯な今」 というのがある。
 私達の歩いてきたその歩き方が現在の私達の「今」に咲いている。そして今現在歩いているその歩き方が、未来の蕾になる。心して毎日を送ろう。 実に含蓄に富んだ文章だと思う。そして今の私にとって毎月書かせて頂いているこの「馬耳東風」こそ、 私自身の現在の蕾なのだと自分勝手に解釈すると同時に私の拙文を毎月連載して頂く出版社に心より感謝している。

ところで今年は年号も変わることだし、何とか世界が平和で借金まみれの日本も財政的な目処を立てて若き天皇の 宸襟(しんきん)(やす)んじ奉りたいと 望みたいところだが、米国の大統領の一国主義、自己主張を強める中国、中東の混乱、欧州の内部分裂といった錯綜する国際情勢にあって、 各国の指導者間の真意の見誤り、誤解、過剰反応等が起きやすくなっており、一つ間違えると戦争など不測の事態になりかねないという 危機感が漂っている様に思えてならない。
 そこへもってきて、嘗て日本人の「問題先送り」は世界に誇る文化であると美術家の赤瀬川原平が言ったが、有識者らが構成する財務省の諮問機関、 財政制度審議会が平成30年間の財政を総括して「受益の拡大と負担の先送りを求めるゆがんだ圧力にあらがえなかった時代」と位置付けた如く、 高齢化で社会保障費が急増する中、財源を借金に頼った政権や財政当局達によって今年度の国債残高は883兆円にまで膨らみ、 ツケを回される将来の世代を悲劇の主人公だと表現している。
 又、国連が毎年発表している「世界幸福度調査」によると156力国中、日本は何と54位、何を基準に順位を決めたのか定かではないが、日本人の幸せとは、 健康で周囲に支援してくれる人がいて、そこそこにお金があることで成り立っていて、希望や生き甲斐という要因の影響が小さいことが 順位を下げている原因なのかも知れない。

幸福の度合いを計るキーワードに「ヘドニア」と「ユーダイモニア」というのがある。
 「ヘドニア」は、ある活動をしている時の喜びで、例えば美味しい食事をする、映画を観る、お金や称賛を得る活動をするような行動を言い、 「ユーダイモニア」は個人の持つ可能性を表現するような行動を行うことによって生ずる幸福感のことで、 「ユーダイモニア」は個人が可能性を十分に活かして生きているときに副産物として生まれる幸福感のことであり、自分が「これでいいのだ」と 思える瞬間を味わえる一時(ひととき)と言えるだろう。これは他人からの称賛や評価を得られなくても 納得できる幸福感である。即ち、その人の心の中で大事に育まれる幸福感なのだ。

「ヘドニア」はそれはそれで十分楽しめばいい、然し、米寿を過ぎた私としては今年からはこの「ユーダイモニア」によって、 しみじみとした幸福感を一人楽しく味わってみたいものだと思っている。
                           以上