心ひとつの置きどころ
(2018年12月号)

去年の12月号に私は来年は米寿となる、私に残された時間はそう長くはない。そこで今年を米寿の準備年と心得て、 来年(今年の事)こそば「克己」、即ち己に克つ事に専念しよう、己に克つとは己の悪い心、即ち情欲(むさぽり執着する心)に克つ事、 言い換えると偉そうに聞こえるが、凡人としての私なりに「まあ自分なりに努力した」と思えるような年にしようと書いていた。
 そして気が付けば早や今年も12月、年をとると仕事も少なく退屈で時間の経つのが遅くなると思いきや、夜、 寝床に入って今日一日を思い返してみた時、運動は近所の散歩程度で食欲も何故か旨そうな酒の肴があっても身体が日本酒を要求しなくなり、 唯三食の前後に服用する十数種類の薬を飲む為に仕方なくほんの僅か食べるだけで、落ち着いて本も読まず、 私の心にも何の栄養も与えていなかった。要するに唯、漫然と時を過ごしていたにすぎなかった事に気が付く始末。 (現在の読書週間の前身の大正時代、第一回図書館週間の標語募集で一等は該当なく、二等は「最大の国も一箇の図書館より小なり」、 そして三等はなんと「読まずんば死せよ」。だった。)

それにしても今年は平成の最後の年だというのに、猛暑、豪雨、台風、地震と相次いで自然の災害に見舞われ、 その外にも有名メーカーの製品データの改竄問題、森友、加計問題、汚職、政府の提示書類の 杜撰(ずさん)さ加減、いじめや殺人、オレオレ詐欺等ばかりが記憶に残る。
 又、世界的にも天災や各国の自国第一主義による軋轢や米大統領の世界的核軍拡競争に火を付けかねない発言や民族紛争による難民問題、 米中の貿易戦争の激化等で偶発的衝突が起きなかったのが不思議なくらい。

少しは明るいニュースもありそうなものを、どうやらマス・メディアは悪いことを報道するのが役目だとでも思い違いをしているような気がする。
 そして私は結局何もすることなく、そのニュースを唯見て過ごした一年だったと悔いが残る。
 元来、私のモットーは近代馬術の創始者、ジェームズ・フィリス(1834〜1913)の最も好んだ言葉、「前進・前進・常に前進」のはずだった。 馬には常に旺盛なる推進気勢が無いと調教が出来ないからだ。
 そこで、さあ、来年こそは今年の遅れを取り戻すべく前進しようと意気込んで来年の抱負を書こうと思った。私は僅か3ヵ月前の「馬耳東風」に 「一夜賢者の教え」として「過ぎ去るものを追うことなかれ、ただ今日まさになすべきことを一心になせ」と「今」の大切さについて書き、又、 5年前には「人事を尽くして天命を待つ」と言うが、天命を待つのは可笑しい、「人事を尽くすのが天命なのだ」とわかったようなことを書いたのを思い出した。

今年の12月号に来年の決意を書こうと、こうして筆を執ってみたのはいいが、以前自分が書いた文章を思い出して「論語読みの論語知らず」 とは自分の事だと思わず苦笑してしまった。
 然し、以前「天命を尽くす」と書いたが、一体「天命」とは何なのかという疑問が湧いてきた。そこで今月は天命、宿命、そして運命の違いについて考え、 そして自分の納得のいく答えを見出そうと思った。
 徳富蘇峰をして明治の巨星と言わしめた頭山満(とうやまみつる) の薫陶を受けた中村天風によれば、天命とは天の命令、天によって定められたもの、天を神とみてもいい。男として、 あるいは女として生まれたということ、又この両親から生まれたということ、それは人力をもってしても変える事の出来ないもの、 人間の意志を超えた目に見える動かしがたい事実なのだ。
 然し、宿命と運命は違う。

「宿命」は宿られた定め、佛教でいうところの「宿世の縁」だ。即ち目には見えないが否応なく背負っている人生の勘定書のようなものだ。 従って、その勘定書の通りに支払いさえすればいいわけで、その事を自覚した時点で自分自身の生きざまを変えて清算する事が出来る。
 唯、「運命」は一回限りの人生の生き方として進歩、向上を目指して、せっかく生かされている心と身体中の細胞を奮い立たせて、 自分の運命を切り拓こうと努力しないと悔いが残る。
 「運命」とは命を運ぶということだから、自分の命に対しては自分が全責任を負わなければならない。従って、 自分の運命は自分の命をどの様に運ぶかという、その「運び方」にかかっている。
 運命は過去形ではなく、未来を指向した現在進行形なのだ。運命というものは徹頭徹尾、 自分が今生きていく上において100パーセント自分が主役である事を忘れてはならない。
 そして人がその人生において自分からコントロールする事の出来るのは、「宿命」と「運命」に対してだけである、と中村天風はいう。
 そう言われてみれば「天命を尽くす」は可笑しい。

従って私か前に書いた「人事を尽くすは天命なり」は中村天風流の解釈によれば確かに私の思いあがり、私の間違いであった事に気が付き、 以前書いた事を改めてこの誌面を借りお詫びしたい。
 更に、天風は「宿命」をコントロールするには、まず宿命に対する積極的な対応によって、それをクリアしてゆく必要があるという。 それは一種の修行と言えるだろう。修行によって人は今迄とは違った生き方を現実化して運命を開拓することもできる。 従って宿命に対して積極的な行動をとり、運命自体を「強く、明らかに、生き生きと」好転させることも可能なはずなのだ。
 前記の如く、運命は自分の命を運ぶことだから、まず自分の命に対して「命あってのもの種」と感謝して、 命あっての人生だということを深く心に刻み、自分白身の意志で好運をつかもうと努力すればいい。 要するに運命の善し悪しは総て自分自身の意志の善し悪しに起因する、好運も不運も総て結局は自分の「心」次第と言う事になる。
 従って、自分の運命を変えたければ、まず自分の性格を改善し、その改善した「良い習慣の奴隷」になることだ。
 以上の様な事を中村天風は明快に「諦めるな切り替えよ 積極的に」と言う。

結局、人として生まれたからには、自分の気持ちを立て直して自分の人生に積極的に立ち向かっていくしかないのだ。
 「人生は進歩向上の為にあるのだ」と説き、更に「心一つの置きどころ」で健康も幸福も実現出来ることを心身統一の立場から確信をもって教えている。
 長い人生のうちには常に何か問題がある。そしてその何かを乗り越える強力な武器こそ心身統一のエネルギーであり、そのエネルギーは、 「正しく、明るく、朗らかで勇ましい積極的心」によってのみ活性化される。そのようにして実現された人生こそ、 真の人生、真の生き甲斐と言うものなのだろう。
 良くも悪しくも「ただ一回の人生」。
 そして自分の命を運ぶ責任者は自分自身であり、自分の人生とどう付き合ってゆくかは自分自身の責任であり、他人の誰のせいでもない。 私の人生は私の死によって終わる。従って私にとって命とは掛け替えのない財産だ。
 生命の尊さを知り、限りある身の一生なればこそ「心一つの置きどころ」、もっと健やかに、もっと幸福に、 明るく楽しく生き甲斐の実感できる人生を生き切らなければ損というものだ。

従って毎年の事ながら、来年こそ頑張って前進しようと思うのだが8回もの手術を経験しかこの身体、足腰も弱り、すぐ息も切れるので、 その鍛錬の為に不整地(石ころだらけの凸凹道)の急な坂道の上り下りを杖なしで歩き、緩んだ膝を鍛えなおして来年こそ前進・前進する事にする。
 然し、来年は年号も変わり、「平成」は一応「平静」の如き30年だったが、日本は莫大な借金を抱えたうえに、 無意味な五輪を開催することによってさらに借金を殖やし世界一の貧乏国になりかねず、 国際情勢も世界中がお互いにギクシャクとしていて何か起きても可笑しくない状態だ。

お釈迦様が予言した末世(まつせ)はもう20年近く過ぎている。
 どうやら、「八正道(はっしょうどう)」 (正しい見方「正見(しょうけん)」、 正しいことば「正語(しょうご)」、 正しい行い「正業(しょうぎょう)」、 正しい生活「正命(しょうみょう)」、 正しい努力「正精進(しょうしょうじん)」、 正しい心「正定(しょうじょう)」、 正しい考え方「正思惟(しょうしゆい)」、 正しい(おも)い「正念(しょうねん)」) の「正念場」が近い将来、日本を襲ってきそうな気がしてならない。

どうか来年が皆様にとりまして良い年でありますよう心よりお祈り申し上げます。
 そして来年も何卒よろしくお願い申し上げます。
                           以上
(清水榮一著「一回限りの人生」参考)