七五三
(2018年11月号)

全国的に秋晴れの続くこの月、11月15日は「七五三」のお宮参りで、この日は両親に連れられて氏神様や神社に参拝する習わしがある。
 子供は3歳になると乳幼児期を無事に過ぎ少年、又は少女期に成長する我が子に対する親心の表れとして、女子は(7歳)帯結び、 男子は(5歳)のお祝いで袴着けをさせたり、親がいろいろと思考を凝らして子供達に流行の服を着せて我が子の息災と加福を祈るのだ。
 この様な仕合わせそうな親子の姿を見るにつけ思い出さずにはいられないのが今年6月に起きた何とも痛ましい5歳の 船戸結愛(ゆあ)ちゃんが両親の虐待によって殺された事件だ。
 彼女の両親は佛教でいう「六道十戒」の六道(天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)の畜生以下の存在と言わざるを得ない。

全国に210ヵ所あるという児童相談所(以後、児相とする)が去年児童虐待の相談を受けて対応した件数は133、778件(速報値) に上り過去最多を更新した。
 1990年から配偶者への暴力で子供がストレスを受ける「面前DV」が心理虐待として認定された為に件数が増加したというが、 それにしても治安もよく経済的にも比較的安定しているこの日本で27年間も増加し続けるとはどういうことか、合点がいかない。
 東京都の小池知事は今年6月、児相の体制強化を表明し、厚生労働相も省内の専門委員で検証する方針を示している。
 しかし、その受け皿が整っていないのが実情だ。
 又、虐待を受けて病院に入院し治療終了後退院させようにも「面前DV」の場合は親との接触を避ける為、 一時保護所や児童養護施設等の受入れ先が少なく、入院し続けざるを得ない児童も多く、 又自治体も専門職のいる児相と違って必ずしも虐待に詳しい職員がおらず、それらの対策に頭を痛めているという。

又、厚生省では来年度から児相で児童虐待の通告、相談を24時間受付ける全国共通ダイヤル189(イチハヤク)の通話料を無料とする方針だが、 それでは通告の増加が想定され、児相の対応がパンクしかねないという始末。その上、 通告内容の緊急性や見極めの専門家の養成には多くの経験と時間がかかる。
 一方、里親の登録者数も増加してはいるか、子供が被虐待のトラウマから暴力や暴言を吐くことが多く里親では育てられないケースが多い等、 課題山積で、学校内での陰湿な「いじめ」同様、それらの対策に苦慮しているのが実情だ。
 衣食住にも事欠いた戦前と違い、年を追うごとに私達の社会は物で溢れる社会へと大きく変貌を遂げ、あらゆる面で豊かになった。
 然し、いかに社会が変わろうとも、人々が変わることなく望むものは、やはり明るく幸せな家庭の実現だ。

明るく幸せな家庭、それは家族一人一人がお互いに感謝の気持ちを忘れず、それぞれの役割を果たすことで築かれるものだ。 今年から小学校で「道徳」の授業が始められたが、「倫理」を実践することが明るく幸せな生活を実現するための誰でもたどることのできる 最も確実な「すじ道」なのだと思う。
 石川県七尾市の美術館に願正寺の住職で書家でもある三藤観映師の作品が展示されている。
 それは生まれた時から母の背に負われで生きてきた或る脳性マヒの少年が、世間の目を払いのけて自分を育ててくれた 母への感謝の気持ちを綴った詩だ。

重度の脳性マヒのY君の思いを言語訓練士でもある一人の養護学校の先生がY君を抱きしめて、Y君が身体を硬くしたり、足を突っ張ったり、 瞼を閑したり、舌を出したり、唾を吐いたりすることから言葉を読みとって綴った詩だ。
 「ごめんなさいね おかあさん/ごめんなさいおかあさん/ぼくが生まれて/ごめんなさい/ぼくを背負う/おかあさん/細いうなじに/ ぽくはいう/ぼくさえ/生まれなかっら/おかあさんの/しらがもなかったろうね/おおきくなった/このぼくを/背負って歩く/悲しさも/ 「かたわな子だね」とふりかえる/つめたい視線に/泣くことも/ぼくさえ/生まれてなかったら/ありがとう/おかあさん/ありがとう/ おかあさん/おかあさんが/いるかぎり/ぽくは生きていくのです/脳性マヒを/生きていく/やさしさこそが/大切で/悲しさこそが/ 美しい/そんな/人の生き方を/教えてくれた/おかあさん/おかあさん/あなたがそこに/いるかぎり」。
 そこには脳性マヒに生んだ母への恨みは微塵もない。

人が人として生きることの美しさ尊さがこの詩のなかにつまっている。
 それでは最後に東京都目黒区のアパートで両親の虐待された末に死亡した船戸結愛ちゃん(当時5歳)が、 覚えたてのひらがなで書いた反省文を思い出してみよう。「ママ、もうパパにいわれなくてもしっかりと じぶんからきょうよりか  もっともっとあしたはできるようにするから もうおねがいゆるしてゅるしてください おねがいします ほんとうにもうおなじことしません  ゆるして」(日付不明)。
 更に「きのう ぜんぜんできなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおす これまでどんだけあほみたいにあそんだか  あそぶってあほみたいだからやめるので もうぜったい ぜったいやらないからね わかったね ぜったいのぜったいおやくそく  あしたのあさは きょうみたいにやるんじゃなくて もうあしたは ぜったいにやるんだぞとおもっていっしょう けんめいやって  パパとママにみせるぞというきもちで やるぞ」(日付不明)。
 可愛い盛りの小さな女の子、遊ぶのが子供の仕事のはずなのに何故「あそばない、あそぶのがばかみたい」 と悲痛な想いを綴らねばならなっかったのか。

遊ぶという行為は4〜5歳の子供にとって人間を形成する上で最良の手段であり、その行為は子供達一人ひとりが、 それぞれ自由の内部にもっているものを自由に外部に向かって表現し発散させる、それは子供の純粋な精神的、肉体的表現そのもので、 それが喜びであり満足であり、又更にその行為は傍で見て何とも微笑ましく見ている私達の喜びであり心の安らぎさえ与えてくれる。
 その遊びをやめさせて、たった5歳の女の子に親は一体何をやらせようとしたのか。
 そして一番安全地帯のはずの家庭で彼女が愛した両親に殺されてしまった。この様な悲惨な出来事が二度と起きないように祈るばかりだ。
 どうか美しい翁と(おうな)の絵が印刷された 千歳飴(ちとせあめ)の長い紙袋を下げた子供を見かけたら、 5歳であのような健気(けなげ)な詩を書き、 それなのに親に殺された結愛ちゃんを思い出して頂きたい。

そして結愛ちゃんのご冥福を心からお祈りしようではありませんか。
                           以上