五輪霧中(W)
(2018年7月号)

三世紀のカルタゴの司教シプリアヌスは「見よ。ひとりの男が裸身で跳ぶ。他の男が力を込めて円盤を投げる。これが何の名誉か。 私はこれを愚行と名づける。子供だましの意味のない遊びだ。キリスト教信者はこの中身のない、無意味な見せ物を避けよ」と言った。
 いつの世にもスポーツ嫌いはいるものだ。
 唯、その言葉の一面に真実がまったくないとは言い切れない。
 最近の勝利至上主義に徹したオリンピック等での、お互いにその技を競い合う競技スポーツでは勝ち負けを決定する為の人為的な決まりごと、 即ち一定のルールによって生ずるスポーツの勝敗に現実的意味があるわけではない。

だがその無意味こそが、人々の抱く夢や栄光、感動や勇気などあらゆる物語を盛り込める(から) の器となるのだ。
 まさしくスポーツは文明の一大発明だが、人々の心を惹きつけるこの器も残念な事に勝利至上主義という魔物によって競技の決まり事、 即ちルールが破られ、且つスポーツマンシップやフェアプレーの精神が失われ今回の日本大学のアメリカンフットボール試合の如く 「暴力」という現実的意味を帯びるとスポーツの栄光も夢も感動もすべて雲散霧消してしまう。

それにしても日大の前監督やコーチが教え子が自らを衆目にさらしているにもかかわらず、 自分達は記者の質問から逃げ回る醜態は スポーツに携わる者として恥であるばかりか教育者として、いや人間として失格と言わざるを得ない。
 元来、競技スポーツは勝つ事が目的の戦争とは根本的に違うものであり、その技を競い合う相手は同じスポーツを愛する仲間であって 決して敵であってはならない。そのフェアプレーの精神に支えられてこそ初めて一流選手は一級品の芸術として薫り高く 真の文化となり得るものだと思う。
 戦争やテロにはフェアプレーの精神はない。
 唯、三世紀も前にシプリアヌス司教が既に競技スポーツで勝つ事が名誉ではなく、又一般大衆の無意味な見せ物と思ってしまったことは、 その当時のスポーツのあり方に問題があったことを意味し、非常に残念に思う。

然し、司教が勝つ事が名誉でもなく又スポ−ツが一般大衆の見世物だとの発言は、今日のスポ−ツ界を予言する言葉として或る程度 (まと)を射ている様にも思えるが、 スポーツを子供だましの意味のない遊びだというのには若干クレームを付けさせて頂きたい。
 曾て楢崎通元老師は遊びについて「なすことの一つ一つが楽しくて 命がけなり遊ぶ子供ら」と詠んだが、スポーツの語源はラテン語で 「総てを忘れて熱中する」という意味で、スポーツはあくまでも純粋に楽しむべきものであり、お互いにその技を競い合ったり、 変な規則を設けて無理矢理に勝ち負けをつける等ということはスポーツ本来からすると邪道と言わざるを得ない。 スポーツはある意味に於いて大人の遊びなのだ。

本来、遊ぶという行為は、4〜5歳の子供にとっては人間を形成する上で最良の手段だと思う。何故なら遊ぶという行為は子供達個人個人が、 それぞれ自己の内部にもっているものを自由に外部に向かって表現し発散させるもので、 それは子供にとって純粋な精神的肉体的表現そのものだからだ。
 従って遊んでいることそれ自体、喜びであり自由であり満足でありそして命がけなのだ。
 子供の遊ぶという行為は子供自身の心象を満足させようと、その全能力をふりしぼって真剣に、まさに命がけで自由な運動、 自由な活動を示すものであり、その行為自体は無目的で、それは自己満足以外の何物でもなく、スポーツも又、 この子供の遊びと同様に優越感を伴わない自己満足の世界なのだ。

又司教は裸の男が力を込めて円盤を投げる愚行と言ったが、これは恐らく紀元前450年頃のギリシヤの円盤投げで「ディスコボロスの像」 のことも頭にあったのかと思われるが、これは古代ギリシヤ人特有の美の追求、つまり肉体と精神の結合に人間の理想美を見出そうとしたものであって、 鍛え抜かれた一流選手の見事な肉体とその動きは美の極致であり一種の芸術であり、 彼らの行為は単なる遊びを超越した真のスポーツに相応しいものだと私は思っている。
 更に司教は、「そんなものが何か名誉か」と手厳しいが、確かに紀元前八世紀、エリスのイフィトス王によって始められた 古代オリンピックは当初こそ都市国家間の平和に貢献したが、近年のオリンピック同様、回を重ねるごとに優勝者には郷土の英雄として大きな特典が与えられるようになり、 これが買収、八百長等の腐敗を招き、前四〜五世紀の頃より祭典は次第に単なる見せ物と化し、 遂に393年テオドシス一世の勅令によってオリンピックは廃止されてしまった。

その後、1896年フランスのクーベルタン男爵によってスポーツの国際化とそれによる国際間の理解増進と平和を目的に近代オリンピックは 復活を遂げることとなったのだが、然し、1981年サマランチ氏が会長になるに及びオリンピックはIOCの金儲けの為のスポーツ大会へと 堕落していった。
 現に平昌冬季オリンピックはIOCの収入源となるテレビ放映権に配慮したものとなり、その結果強風による中止や延期が相次ぎ、 厳しい気象条件が競技の運営に影響を与えている。
 2020年の東京も7月24日から8月9日と高温多湿の東京で、アスリートファーストどころか、巨額の放映権を支出する欧米の視聴者を意識した 「顧客第一」というのが実態だ。

このように近年に至ってはIOC委員達の歪んだ金権体質が次々と浮き彫りとなり、オリンピックの権威は大きく傷つけられ、 貧しくとも高潔だったオリンピックは根本から変質し、かつての主役選手達は新たに主役となったオリンピックスポンサーの「お抱え役者」となり、 最高のスポンサーであるテレビ局本位の運営に衣替えすることとなった。
 その外にも例えばプロテニスの世界ではグランドスラム〈世界四大大会〉を筆頭に各種の大会で成績を上げた選手達は無上の栄光と富を手にするが プロテニスプレイヤーとしてのポイントの与えられないオリンピックは敬遠し、野球も同じくアメリカのメジャー選手達の多くが参加を見送っている。
 しかも今や、体操も陸上も多くのプロ選手達が競い合う時代となった。その結果サッカーやラグビーのワールドカップの世界選手権大会の方に、 より重きが置かれるのは、(けだ)し当然の趨勢と言えよう。

更に、勝利至上主義によって発生するドーピング問題は、如何に反ドーピング機関が禁止を叫ぼうが絶対に無くなる事はなく、その上、 用具ドーピング(より優れた用具を使用)の開発は「売らんかな」の運動器具メーカーが最新の技術を駆使して開発を進めており、 例えばある有力選手がより速く走るには彼のスパイクのどの部分にどの程度の大きさの鋲を何個付けたらいいか、 スパイクの中敷きに反発力のある素材を使用するとか、曾て英国のスピード社製の新型水着「レーザー・レーサー」が使用禁止になったこと等は 全く過去のこととして今日では無関係に開発が進められ、今や用具ドーピングは公認となって使用されている。 平等と公平の条件で始まったオリンピックは最早存在しない。
 他の選手より優秀な用具を使用して得たメダルに何の価値があるというのか、選手達もそれを恥と思っていない。br>

実は、その用具ドーピングの(さい)たるものが馬術であり、 何十億円もする馬に試合期間中24時間毎日一流の調教師、獣医、装蹄師それに馬取扱人がついてメンテナンスを行っている馬に 出場選手一人で世話をしている千万円単位の馬が勝てるわけがない。
 2003年8月号の「馬耳東風」に「オリンピックに未来はあるのか」と題して掲載して以来、私はオリンピックは決して世界一を決める大会ではなく、 世界一を決めるのは世界選手権のみである事、そして絶対に根絶しないドーピングは自己責任として容認し、 オリンピックは世界平和の為に貢献することだけを目的として順位等無関係に優秀な選手を出場させれば、 彼等は失敗を恐れず伸び伸びと高度な演技を一般大衆に披露し、世界の若者達に勇気と希望を与える事が出来、 クーベルタン男爵の夢も再現出来るというものだ。

戦後もっとも深刻な危機に直面している日本、オリンピック等に浮かれている時ではない。 「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」、本当に必要なものは何か、 を今こそ考え直す時だと思う。
                           以上