昭和20年、日本が戦争に負けたその日迄、当時中学校3年生だった私達は、鬼畜米英(当時の資料によると「米英」の字)に「けもの偏」がついていた。
そして中国人は「チャンコロ」、ロシア人は「露助」と呼んで侮辱していたものだ。
従って、大東亜戦争時代の日本国民、特に青少年達は「討ちてし止まん」と、闘争本能をむき出しにして、それが大和魂だと思い込んでいた。
その為もあって、敗戦後も馬術の対校戦等では敵愾心を燃やして絶対に勝ってみせる、負けるのは武門の恥であり武士が最も重んずる名誉を
傷付けられる事と心得て常に大和魂をもって60歳で心臓の手術をするまで戦ってきた。そして手術後は、心境の変化で77歳で現役を引退する迄、
勝負にこだわる事なく馬術を楽しんだ。
然しその間ずっと江戸中期の国学者、本居宣長が詠んだ“敷島のやまと心を人問わば、朝日に匂う山桜花”の句がどうにも理解出来ずにいた。
最も日本人らしい勇壮な精神を意味する大和魂に通ずる「やまと心」を何故「朝日に匂う山桜花」に喩えたのか。
この事は、つい1ヵ月程前迄、きっと戦国時代の「やまと心」を戦時中に「大和魂」というスローガンにしたのだと思っていた。
ところが、実はこの大和魂という言葉は驚くなかれ平安時代に何と紫式部が源氏物語の「乙女の巻」で初めて使っていたことがわかった。
しかも彼女の言わんとする大和魂は、光源氏が息子の夕霧が元服するにあたり、当時、中下級の貴族達の子弟が出世を目指す為に通っていた
大学に行って大和魂を身に付けてこいと言うのだ、即ち「才を
本として大和魂の世に用ひらるる方も、
強う侍らめ」と述べている。
つまり、中下級の貴族の子弟しか行かない大学に桐壷帝の孫で将来高位高官の地位が約束されている吾が子に敢えて行かせようとしたのは、
自分のように桐壷帝の子として何不自由なく苦労知らずの指導者に仕える人々は表向きは忠実そうに見えても腹の中で軽蔑しているに違いない、
従って夕霧には大学で学問や中下級の貴族の子弟の生活の苦労を経験してもらいたいという思いで「才を本としてこそ、
大和魂の世に用ひらるる方も、強う侍らめ」と言って学問をすることで大和魂が一層世の中に発揮されるようにしてほしいものだ、
と光源氏の亡くなった妻の母親の猛反対を押し切って大学に通わせたのだ。
源氏物語で紫式部の言う大和魂とは、勇壮な武張った意味ではなく、現代風に言うと「奥ゆかしい知識」とか「常識」という意味で使った言葉だと知り、
初めて本居宣長の詩の表現力の素晴らしさに敬服すると同時に、そういう事だったのかと納得することが出来た。
今回私か何故長々と大和魂について書いたかというと、私か育った時代と現代とでは競技に対する選手の気持ちに多少の違いはあると思うが、
2020年の東京オリンピックに向けて、恐らく日本選手達に対して指導者達が私か間違えていた昔の大和魂を発揮するようにと
選手を叱咤激励するように思えてならないからだ。そして先月号にも書いたが、羽生選手や高梨選手の活躍を大々的に報道したマスコミに刺激された若者達が、
クーベルタン男爵の理想とした「平和の祭典」とは程遠い東京オリンピック出場を夢みて、私も誤解していた大和魂や勝利至上主義に向かって
二流三流の指導者やマスコミに煽てられ大事な人生を無駄にしてもらいたくないと思ったからだ。
今ツイッター上で「部活未亡人」という言葉が飛び交っていると聞く、休日返上で部活動にかかわる教育者を夫に待った妻のことらしい。
「部活離婚」「部活非婚」等という話しも浮上しているという。
そこで問題なのは、大半の学校の部活動をまったく未経験か、少しスポーツを誓った程度の教師を運動部の顧問に任せっぱなしで
それでいて学校側は優秀な学生の排出によって学校の知名度をあげ、生徒募集の宣伝にしようと「野球部がなければ唯の私立高」
と部長先生の尻を叩くから土曜・日曜・祭日の休みもなく先生達の過労死が激増しているのだ。
その結果2年前の「小学生の大人になったらなりたいものランキング第1位はサッカー選手」(第一生命保険調べ)、
そして今年の小学生の男子の就きたい職業第1位はスポーツ選手で全体の20.5%を占めている。(毎日新聞)
あまり他人の事は言えた柄ではないが、スポーツは或る程度の域に達すれば必ずその人の人生にとって何かしらプラスになる面は間違いなくあるが、
職業にスポーツを選択して成功した人間は何万人何十万人に一人だということを熟知した上で部活動は、
それぞれの子供に合ったメニューで保健の域を出ない程度での体力づくりの指導をぜひ願いたいと思うのだが、それは無理というものだろう。
又、これも毎回の如く書いているが、寺小屋から移行した明治初期の小学校は、知育・徳育・美育をその主目的とした。
恐らく紫式部の時代の大学には体育は無かったと思う。
体育は知育・徳育・美育を充分に勉学できる体力が最小限に必要と考えた末、後になって保健体育が追加されたが何時の間にか先ず美育が消え、
次に保健も消えて知育・徳育・体育となってしまった。
曾て私は東日本高等学校馬術連盟の会長を30年程務めたが、敢えて言わせてもらうと、日本の高校も大学も現在の形態のままでは如何に努力しても
又何億円の馬を買っても総ての面に於いて世界の水準の延長線上には届かない。
従って私は常に学生馬術界の役員達に対して学校の馬術部の部員は馬という口
のきけない愛情の豊かで従順な動物と付き合うことによって人間として最も大事な
「恕」の精神、即ち常に相手の気持ちになって「己の欲せざる所人に施すこと
勿れ」の精神を養う「生きた副読本」
にすべきで一般の馬術競枝会や対校試合での勝ち負けは二の次・三の次だと自分の過去を棚にあげて主張し続けてくちきた。
まして世界選手権や現代のオリンピックとは世界がまったく違うのだ。
話しはつい私の専門の馬術になってしまったが、2年後に迫ったオリンピックは再三述べる如くオリンピック憲章に明記してある如く
「オリンピック精神に基づくスポーツ文化を通して世界の人々の健康と道徳の資質を向上させ、相互の交流を通じて互いの理解の度を深め、
友情の輪を広げることによって住み良い社会を作り、ひいてはる目的とする」を忠実に守って企画立案し、そして実行すべきだ。
この憲章の中のどこにオリンピックで優勝するのが世界一の証だと書いてあるのだ。
世界中の若者達に世界一になる事だと信じ込ませたマスコミの罪は大きい。
今や世界情勢は一触即発の状態にあり、シリアの内戦はこの春で8年目に入り、アサド政権軍や反体制派、有象無象の過激派に加え、
大国の思惑が入り乱れて戦いはやまる気配はない。死者は35万人以上、国外へ逃れた難民は560万人以上、私か今こうして文章を書いている瞬間にも、
どこかの国では何の罪もない人達が命を落としている。2年後の世界はどうなっているのか、神ならぬ身の知る由もないが、
オリンピックは「世界平和の祭典」であって、絶対に「スポーツの祭典」ではない。東京オリンピックは此の憲章に則り最善を尽くすべきである。
例えば近代オリンピックの創始者、クーベルタンの強い意向で1912〜1948年迄実施された絵画・彫刻・音楽・文学・建築の文化芸術イベント
を小規模でもいいから実施して次のオリンピックの模範にするとか、又、莫大な経費のかかる競技場での国と国や各国選手達がその技を競い合う大会は
その目的が違っていると何回も書いたが、その総合競技場等の施設にかかる莫大な経費を最小限に止めて、その資金で様々な国内事情で
選手を派遣できずにいる国の者達を招待して一国でも多くの国の選手を迎えるべきだ、ひょっとしてその中には勝ち負けに関係なく
跣で100メートルを軽く9秒台で走る者も、
また炎天下でのマラソンを楽々と完走する者が何人もいるだろう。
その他、今となっては全く無意味な聖火(聖火の由来については前に何回も書いている)や聖火リレーを中止して戦火の絶えない国々の
主な寺院や教会に小さな聖火台(ミニチュア)を送って、せめて一時でもいい、
オリンピック期間中にその聖火台に火を点して頂き、世界平和の祈りを捧げてもらうとか、いい年をしてセンチメンタルと笑われそうだが、
争いの絶えない廃墟に近い破壊された教会の片隅で、ひっそりと火を点して人々が唯ひたすらに「平和の祈り」を捧げている風景を想像して頂きたい。
それがオリンピックの精神だと思う。
兎に角、現代のオリンピック程莫迦らしいものはない。これはIOCや世界中のマスコミが金儲けの為に巧妙に仕組んだ罠であり、
それに参加する選手達はその罠にかかった闘鶏にすぎない。目的の違う大会に向けて命をすり減らして努力してきた選手達は
結果として人々に勇気と希望を与えたが、IOCとメディアにうまく利用された一種の犠牲者だ。
最近の世界情勢は各国とも、より多くの強力な核兵器の製造に拍車がかかり、核保有国は北朝鮮以外にも益々増加するだろう。
現在核を持っている国の総てが核を廃絶しない限り、偶発的衝突で核戦争が勃発したら全人類の滅亡につながりかねない。
微力でもいい、核の洗礼を二度も受けた日本で開催する2020年東京オリンピックを「復興五輪」等と寝惚けた事をいわずにオリンピックの真の意義を
IOCと協同で全世界に再認識させ、前記のオリンピック憲章に則って全世界の人々の目を覚まさせるのがマスコミの義務だと私は思っている。
そしてスポーツの世界一を決めるのは、平和を取り戻した後に開催される選手権だということを全世界に周知徹底させるべきだ。
そして、1908年セントポール寺院のペンシルバニア司教の「オリンピックで重要なことは勝つことではなくて参加することである」
とクーベルタンの「人生で最も重要なことは勝利者であるということではなく、その人が努力したかどうかである」という言葉を思い出しつつ、
今後の新聞やテレビのオリンピック報道を見て頂きたい。
以上